◇
健全なる青少年が常日頃から、それこそ枕元に立たんとばかりに妄想する対象がある。恥ずかしげもなく暴走するロマンチック・エンジンは恐れを知らず、無為に青春を浪費しながら、いつかそんな日が来るのではと、身の程を知らない淡い夢を抱いては千夜を眠る。しかしながら、夢は夢。焦がれながらも、徒労に終わるのが定石であり、その夢を現実にしたという話はついぞ聞いたことがない。にもかかわらず、もしかすると明日にでも、いや今日まさにと、遥かなる高望みを捨てられないほど熱望してやまない全男子満場一致の総意は言うまでもない。
すなわち、大人の女性、言い換えれば「おねえさま」である。
「ねえ、あなた。デートしたことあるかしら?」
鈴木聡美と名乗ったその「おねえさま」からは、なんとも馥郁たる香が立ち昇っていて、私から刻一刻と理性を奪いつつあった。
「あ、あ、ありません」
「あら。すると、これが初デートですね」
鈴木さんが悪戯っぽく舌を出して笑う。
「ふぁい」
私は、直径記号のような返事をしながら、何か途轍もなく恐ろしい謀略がひそんでいて、私のような幼気な男子高校生をそそのかし、謀略の駒のひとつとして、かような状況に配置しているのではないかという妄想を逞しゅうしていた。
◇
赤玉先生が起居するボロアパートを出ると辺りは無人であった。アロハシャツも若旦那も、血走った目をした着物の連中もみんなどこかへいなくなって、あとに残っていたのはびしょ濡れの信楽焼の狸の置物だけであった。なぜこんなものが路上の真ん中にポツンと置かれているのか謎だったが、件の美女が無視して通り過ぎたため、どこか汗をかいているようにも見えるそのみょうちくりんな置物を残して、我々は近くの商店街に足を運んだ。
アーゲードのある商店街は、地元の買い物客でにぎわっていた。
昭和の面影が残る懐かしい佇まいの商店街には、食料品店や呉服屋、乾物屋、魚屋、文具店に100円ショップなどが立ち並んでいたが、そんなものは私にとって茫漠とした風景の一部にしか映らない。
「おねえさま」と連れ立って歩いているという、全男子垂涎の意味不明な状況は、やはり端倪すべからざるものがあり、いつにも増して阿呆になった私は、もはや一個の動く木偶人形と化していた。まるで天から糸が伸びていて、不憫に思った神様が、とりあえず足だけは動かしちゃろう、と操っているかのような塩梅である。
ときおり、鈴木さんの眼が何か妖しく煌めいて、私の横顔を眺めていることに気が付く。私がブリキ式の機械のごとく顔を向けると、彼女はそっと束ねていた髪を下ろし、慈しむように微笑むのだ。その美しさといったら筆舌に尽くしがたく、これはもう、とうてい現実とは考えられなかった。
ふと、自分はいったい何をしているのだろう、と思った。
数時間前までは、訪問先を巡って漢字ミュージアムのすばらしさを熱弁していたはずだ。それが今はどうか。同級生たちが、修学旅行という児戯に興じているさなか、私といえば、あまりにも対照的なアダルトな世界に足を踏み入れてやしないだろうか。こういう一切の努力を必要とせず、突発的に起こる僥倖的な展開を待ち望んでいなかったと言えば大嘘になるが、さすがにもうちょっと心の準備と、金銭的余裕と、大胆不敵な自信と、数センチメートル高い身長があるタイミングが良かった。
鈴木さんの肘と私のわき腹が接触して、彼女がふふふと楽しそうに笑った。なぜか私は比企谷が無性に恋しくなった。何の生産性もない、ウロボロス的会話をしたくてたまらなくなった。そのうちに私は自分が何者で、どこから来てどこへ行くのか、悠久の時の流れの中に置いてけぼりにされたような心細さを感じていた。
商店街を抜けた先の河原町通沿いにある商店で、鈴木さんはコロッケをいくつか買うと、その一つを私に差し出して言った。
「でも、高校生でしょう。お付き合いしている方はいないの?」
私はコロッケを受け取ると首を振った。
「いません。あの、お金は」
「ここのコロッケ、ほくほくして美味しいのよ」
陰謀だ、と私は思った。コロッケと、その美貌で私を懐柔するつもりなのだ。私のような身体的にも社会的にも特筆すべき魅力のない平々凡々な男子高校生を懐柔することにいったい何の益があるのか、ちょっと見当がつかなかったが、それでもこれは陰謀なのだ。
しかし、揚げたてのコロッケをふはふは言いながら食べている鈴木さんは、まるでどこにでもいる無垢な少女のように見えた。とても権謀術数を企てているようには思われない。
「ちょっと歩きましょうか。知っていますか、すぐそこ、景色が良い河原なの」
交差点を渡って少し歩くと、とたんに視界が大きく開け、鴨川が見えてきた。
抜けるような秋空は底なしに青く澄んでいて、少し冷たい風が出町橋の上を歩く我々の肌を撫でた。欄干から下流を眺めていると、数時間前に土手の芝生を布団がわりに、天下泰平の心持でうたた寝をしていたことを遠い昔のことのように思い出した。
「気持ちがいいわ。ねえ、そこに下りてみましょう」
賀茂川と高野川の合流地点にある場所を指して、先を歩く鈴木さんが言う。
「いつか鴨川デルタでコロッケを食べたいと思っていたんです」
振り返った鈴木さんは、あどけない顔を楽しそうにほころばせている。
「すみません、修学旅行中なんです。もう、みんなのところへ戻らないと……」
赤玉先生のアパートからここまで何度か出かかった言葉をやっと口にしてみたが、聞こえているのかいないのか、鈴木さんは全く取り合わずに、ずんずん橋を渡っていってしまう。
「あ、ちょっと待ってください」
あとになって思い返してみれば、なぜだろうと訝しむことではあるが、私は勝手にその場から立ち去るということはしなかった。旅のしおりをみれば、同級生たちが今どこにいるのか見当はついたし、連絡がつかないとしても、合流することはできたはずである。単独行動に対する私の非は塵芥もないとはいえ、一刻も早く修学旅行に復帰した方が無難なのは言うまでもない。にもかかわらず、赤の他人である鈴木さんのそばを離れずにうごうごしていたのは、今もって不可解な謎である。相手が美女だった、人生初デートだった、コロッケが旨かった、なんだか良い匂いがした、陰謀がおそろしかった、等々、いずれも当たっていよう。しかし、それらの諸要因のほかに、もっと繊細微妙な真実があったような気がする。それはなんだろうか。
「ほらほら、早くこっちにいらっしゃいな」
鴨川デルタの土手を下ると、鈴木さんは大きく手を振って私を呼んだ。
◇
「ね、可笑しいでしょう? だからね、私、本当に笑ってしまったの」
気が付けば、私は鴨川デルタの芝生の上に座って鈴木さんのお喋りに相槌を打っていた。
「はあ」
「それで、その子ったら、どうしたと思う?」
「どうも、わかりませんね」
「なら私は土産物に化けます、と言って、本当に手ぬぐいの姿になったのです。そうして、明くる日にどこかの外国人に買われて、危うく出国するところだったそうですよ」
なんじゃそりゃ、と思ったが、私は黙って曖昧に笑った。私は、女性の話に耳を貸すことにかけては、ちょっとした大家であると自認している。これは口まめの世界的権威である由比ヶ浜さんや、人を罵倒することに悦楽を感じる雪ノ下さんのもと、奉仕部で身につけた処世術のひとつである。興味のひと欠片もない無味乾燥な話であっても、腹を抱えて笑えるし、顔を歪めて涙することだってできる。ただし、それで得をしたことは一度もない。
「本当に阿呆で可愛らしい子なんです」
そう言って、鈴木さんは目じりに溜まった涙を拭った。個人的には、泣くほどの面白ポイントがどこにあったのか、まるで分らなかった。趣味が合う、合わない以前に、何の話をしているのか理解できない。
そもそも、この美女「鈴木聡美」とは何者なのだろうか。それはもう筆舌に尽くしがたい美しさを持っているのだが、尽くしがたいので書くことはできない。年齢は不詳で、ときおり十代にも見えるし、大人の円熟した色気を感じることもある。審美学に対し強いこだわりを持つ私であっても、一目惚れをある種の精神錯乱であると断じる体系的倫理観がなければ、ひとたまりもなくやられていたことだろう。
赤玉先生は、鈴木さんは弁天と呼んでいた。弁天というのはおそらく仏教の神様の弁財天を意味していると思われるのだが、なんのこっちゃわからない。アパートでは、黙って事態が展開していくのを呆然と見送っていたにすぎないが、口ぶりからは、彼女が赤玉先生の近縁の者であることは想像がつく。弟子や師匠なんて言葉から推測するに、武道か芸事の師弟関係にあるのかもしれない。思えば赤玉先生は致命的に頭がオカシイ点を除いて、たしかに師匠然とした佇まいだけは多分に垂れ流していた。見た目だけなら列仙伝に登場する仙人のようである。
仙人と言えば、朝方に出会った茄子顔の男も気になる。あの男の口車に乗せられていなければ、今頃は龍安寺で石庭を眺めながら、岩の配置に意味不明な解釈を与える遊びに夢中になっていたことだろう。
茄子顔の男は、アパート前に屯していたアロハシャツや若旦那と繋がっており、彼らは彼らで老人を赤玉先生と呼び、自称天狗の赤玉先生の弟子で、弁天と呼ばれる美女が、いま隣で体育座りをして話に花を咲かせている鈴木さんである。明らかに彼らはグルであり、私を問答無用で連れ回している未成年略取罪の現行犯たちなわけであるが、そもそも事の発端となった黒い羽根の所有者は私ではなく雪ノ下さんである。この点を無視して現況を整理しようとすると、もう何が何だかわからないが、一方、注視すればするでおそらく巻き添えを喰らっているだけ、という世にも残酷な物語が出来上がるだろう。
いずれにしても、早々にここを引き上げて、修学旅行に復帰しなければならないことは明白だった。いまだになんの連絡もないことが引っかかるが、修学旅行で浮かれているためスマートフォンを取り出す暇もないのだろう。そうに決まっている。とにもかくにも合流するに如くはない。
私が意を決した矢先だった。
「ああ、楽しい」
鈴木さんは我々の頭上高く流れる雲を仰ぎ見ながら、ほんの小さな声でそう言った。
私はそんな鈴木さんの横顔を見て、じつに居た堪れない気持ちになった。そしてなぜさっさと暇を告げなかったのか、この時、少しだけ分かった気がした。
「こういうことが、置き去りにされていたのね」
私には、鈴木さんが何を言っているのか分からなかった。しかし、目は口程に物を言うという。彼女の目には悲哀がこもっているように見えた。老人のアパートを出てから折にふれて見せる、この哀愁のこもったようなさみしげな表情が、私を引き留めさせていたのかもしれない。この人を独りにしてはいけない、そう思わせる何かがあったのだ。私のような小僧にしては、ずいぶん、センチメンタルな話である。ともかく、その瞬間の鈴木さんは、触れれば、今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい儚く見えたのだ。
私は慌てた。慌てた挙句に、何か声をかけねばと口走りかけたが、喉奥まで出かかった言葉が意味を持つことは叶わず、あとは阿呆のように押し黙っていた。私は、肝心な時に宿命的なまでに口下手になる己の甲斐性のなさを嘆いた。そして自分が、こういうときに軽々と安易な慰撫を、それこそ口から出まかせのようにさらりと吐けるような男でないのは、少なからず誇るべきことではないかと思った。一方で、そういう男であれば鬱々とした青春時代を送らずに済むのかもしれない、というような妄想が膨らみかけ、ああ、これは手に負えない事態に直面した時に図らずもとも陥る妄想的逃避現象であると、どこか脳の片隅の遠いところで考えていた。
平たく言えば、呆けていたのである。
「たしか雪ノ下さんといったかしら」
はっとして隣の鈴木さんに顔を向けると、切れ長の目がこちらを見据えていた。深い井戸の底のようで、それでいて澄んだ黒い瞳だった。
「彼女のこと、気になる?」
「え、ええと」
思わぬ問いに私は口ごもったが、ふと、なぜ鈴木さんが雪ノ下さんのことを知っているのか気になり、逆に問いかけてみた。
「矢三郎から聞いたのです」
「はあ」
「矢三郎というのは、いま話していた阿呆の子なのだけれど、わかるかしら」
「はい。昨夜、あのおじいさんを介抱していました。たしか下鴨だとかなんとか」
「ええ。その矢三郎がね、どうしてもと頼むものだから、彼女を助けることにしたの」
「はあ」
「弁天様は二人もいらないなんて言うんですよ。どういう意味か問い詰めたら、その子が私にとってもよく似ているんですって。それで興味が湧いたから、さっき見に行ってみたの」
鈴木さんは賀茂大橋を歩く人々を目で追いながら、ぽつりと言った。
「あの子、とっても寂しそうな子よ。べつに似ているなんて気はしなかったけれど、なんだか他人とは思えなかったわ、本当に。先生は変なところで勘が鋭くて、頭にくるわ」
「やっぱり、あの老人は雪ノ下さんを誘拐してお嫁さんにしようとしていたんですね」
「……お嫁さん?」
怪訝な顔をした鈴木さんは、次の瞬間、何かのスイッチが入ったかのように笑い始めた。その笑い方といったら、それはもう豪快で、そのうち呼吸困難で息の音が止まるのではないかと危ぶまれるほどであった。
「何かおかしかったですか」
「ちがうの、ごめんなさい。だって、あなたがひどい勘違いをしているものですから」
「勘違いですか」
「でも、あながち見当外れではないのかもしれませんね」
鈴木さんは、何度も「ああ、可笑しい」と言って目元の露をぬぐった。
「いずれにしても、もう彼女は大丈夫です。あれだけ言いきかせれば先生も手は出さないと思います」
「はあ」
「さて、いい加減、あなたを解放してあげなくてはいけませんね。そろそろ矢三郎の化けの皮がはがれる頃合いかしら。あの子にはまだ働いてもらいましょう」
鈴木さんは立ち上がると、ぴっぴと可愛らしい仕草でスカートを叩き、雑草や土ぼこりを払った。つられて私も立ち上がる。
「これはね、私の我儘なのです。付き合っていただいてどうもありがとう。けれどね、誰でもよかったわけではないんですよ」
川下からそよ風が吹いてきて、鈴木さんの黒髪がさらさらと揺れた。
「なんとはなしに、あなたならいいかなって、そんなご縁を感じたの。不思議ね」
私は黙っていた。黙って鈴木さんの寂しげな笑顔を、じっくり見つめていた。
「もう二度と会うことはないけれど、きっとあなたのこと忘れないでしょう。雪ノ下さんには、やさしくしてあげてくださいね。それがたぶん、あの頃の私の餞になると思うから」
謎めいたことを言って、鈴木さんは私の手を取った。
「目を強く閉じて、私が合図するまで開いてはいけません」
「え?」
「いい? 絶対に開けてはいけませんよ」
「は、はい」
目を閉じた私は身を固くした。不埒にも何かラブロマンス的な事件が発生するのではないかと身構えたが、事態は奇天烈に進行した。ふいに、内臓が縮み上がったのである。そうして気づいたときには、私の両足から柔らかい土の確かな感触が消えていた。
「ななな、何じゃこりゃあ」
仰天して 思わず目を開こうとすると、冷たい感触が瞼を覆った。
びょおお、ごおお、という風を切るような音がして、その想像を絶する大音量の隙間から鈴木さんの声がした。
「もう少しだけ我慢よ」
「あばばば」
如何とも形容しがたい感覚が全身を襲い、今にも凍えそうに寒く、交感神経と副交感神経が滅茶苦茶に入り乱れ、血の気が引き、口から内臓のすべてを吐き出しそうになった私は、未だかつて味わったことのない体験に、これはもしかして空を飛んでいるのかもしれない、否、空を飛んでいる可能性が高い、いやもう空を飛んでいるにちがいない、ていうか空飛んでる! という段階的な超常結論をすんなり導き出していた。それは、かすかに開いた瞼の先に、米粒みたいにびっしりと寄り集まった京都の街並みが見えたことからも裏付けられた。
なんということだ。私は空を飛んでいる。地に足のついた生活を送ってこなかったとはいえ、文字通り地に足のつかない目に遭うなどと誰が考えられよう。
まさかと思った。まさかと思い、頭のネジが緩んだ隙をついてわずかに冷静になった頭で絶叫しようかどうか迷ったものの、時速100キロほどの風が直撃し続けていたため口を開けずに、断念した。
もはや自分が今現在、どんな体勢で空を飛んでいるのかとんと見当がつかない。おそらく鈴木さんの腕に縋りつき、五月晴れの空を風に流されるこいのぼりのごとき情けない風体であったと思われる。あとになって振り返れば、天空を飛翔するという奇跡体験のさなか、胃の内容物とアンモニア水という汚らしすぎる雨をことごとく京の都に降らさなかったのは、私にとってもそこに暮らす150万の市井の人々にとっても僥倖というほかない。
ふと、耳を劈くばかりに鳴っていた轟音が静まりはじめ、それまでとは異なる浮遊感から下降しているのだと気が付いたときには、すでに両足が大地を踏みしめていた。
「さようなら。元気でね」
耳元で鈴木さんの声がした。
そして次の瞬間、ざああと突風が吹いた。
「ひどい顔をしているぜ。いったい空でも飛んできたのかい」
目を開くと、そこに鈴木さんの姿はなく、代わりに昨夜出会った軽薄そうな青年、下鴨矢三郎が立っていた。