◇
「何をぼおっと突っ立てんだ。置いてくぞ」
比企谷が振り向いて言う。なんだか久しぶりに会った気がする。
「俺は俺だよな」
「はあ? ふざけたこと言ってないで、さっさと行くぞ。時間がねえんだ」
比企谷の遥か前方を、楽しげにお喋りしながら由比ヶ浜さんたちが歩いている。葉山君や川崎さんなども同行している。龍安寺の駐車場を左手に金閣寺へ向かう道中だった。
「お、おい、聞け。聞いてくれ。俺はお前らと一緒だったのか」
「なんなんだよ」
比企谷は心底気怠そうに視線を寄越す。
「俺はお前らと一緒にいたのか?」
「お前大丈夫か。トイレに行ってる間に人格でも入れ替わったのかよ」
「入れ替わった? ちがう!」
「っ急にうるせえな」
「下鴨矢三郎はどうした!」
「うわぁ」
「変な胡散臭い奴がいただろう!?」
「やべえ、やべえよ」
「一緒にいたんじゃないのか!」
「こえぇ……」
話にならなかった。しかし客観的に見て話にならなかったのは、おそらく私の方だったと思われる。
比企谷はわりあい本気で気味悪そうにした。その様子を見て、私は少しだけ落ち着きを取り戻したかといえば、そういうわけでもなかった。
「変なやつだとは思ってたが、いよいよ極まったな……映画村から様子おかしかったし」
「やっぱり映画村にいたのか、俺は」
「さっきから何を言ってんだよ。そういうノリ、めちゃくちゃ寒いからな」
「もう何が何だかわかりません」
「こっちの台詞だボケ!」
比企谷が語ったところによると、映画村や続いて訪れた仁和寺、龍安寺で、私が奇怪なことをしていたという。恐れしらずの軽佻浮薄さで人の懐に入り込んでは、すすんでしなくてもよろしいことばかりしていたそうだ。気味が悪いほどざっくばらんであり、その姿は普段の私を知っている者からすれば、おそろしく度を超えているように見受けられ、修学旅行で浮かれてしまっている典型的なイタい奴の汚名を着せられてしかるべきだったそうである。
「態度が気に入らねえっつって三浦を泣かせたときには、さすがに正気を疑ったけど、あれはなんだったんだ?」
私は頭を抱えた。
いったいぜんたい狐狸の類にでも化かされているかのようだ。いや、やはり狸に化かされたのかもしれない。比企谷の話をまともに容れれば、私が二人存在したことになる。何が起きているのか、あるいは何が起こったのか把握することはいたく困難だった。そこで思い出されるのが、つい先だって龍安寺の片隅に軟着陸したときのことである。
私が池の縁に打ち上げられた鯉のように口をパクパクしていると、人を小馬鹿にしたような軽率な笑みを浮かべて、下鴨矢三郎は言った。
「まるで空を飛んできたみたいじゃないか。少し落ち着くといい。このお茶が覿面だよ」
疲労が飛んでいくことに由来するヒロトンなる、なんとも危なげなこげ茶色の液体を渡されて飲んでみると、ただのほうじ茶だった。
「弁天様は上手くやってくれたかい? つまり、あれだよ。赤玉先生にお灸を据えてやったかどうかってこと」
「お、女の人はどこにいったんです?」
「弁天様のことかい」
「そうです、弁天とか鈴木さんとか、あの人に連れ去られて、空を飛んで、いったい何が起こっているのかさっぱり……」
「弁天様ならもう芥子粒みたいに小さくなっちまってるね。ほらあそこ」
下鴨矢三郎が指さす先には、蒼天を背景にぴゅーと飛翔する黒い点があった。
「そんな馬鹿な。信じられない。本当に空を飛ぶなんて」
「目を白黒させたところで現実は変わらんぜ。事実はいつだって奇々怪々なり。面白かっただろう?」
空を仰いで呆然としている私を、下鴨矢三郎は呵々と嘯く。
「それより答えておくれよ。実際のところ、危ないのは雪ノ下女史なんだぜ」
「雪ノ下さんが危ない?」
「ほら、昨日の夜のことだよ。ご老体がいただろう。あのジジイがじつは、とんでもない食わせ物でね。彼女を攫っちまおうってハラだったのさ」
上空数百メートルから地上に降りたばかりで、いまだ地に足が付かずふわふわと狼狽えていた私ではあったが、危惧と事実がかみ合ったことをきっかけに、少しだけ落ち着きを取り戻した。
ほうじ茶をもう一杯飲ませてもらって、私は事の顛末を語った。
「そいつはいいや。わざわざ弁天様がむさ苦しい四畳半に乗り込んだんだ。先生も懲りたことだろう。まったくあのジジイときたら、自分では何一つできないくせに、我儘ばかり言う。困ったものだ」
そう独り言ちってはいるものの、下鴨矢三郎はちっとも困ったふうではない。むしろ楽しげであった。
「ともかくもこれで恩は返したぜ。本を正せば恩を仇で返さて気の毒だけれど、細かいことはきれいさっぱり便所に流してくれると助かる。人間てのは執念深いからね」
「あの老人は何者なんですか」
「見たままだよ。隠居した偏屈老人さ。昔は、それはそれは偉かったんだけど」
「では、鈴木さんは」
「なんだよ、探偵趣味かい。感心しないな。おっと、そんなことより、あっちを見てごらんよ」
龍安寺の境内にある大きな池、鏡容池を挟んだ木々の隙間に、我がクラスメイトたちが歩いているのが見えた。私は思わず「ほぉ」と深いため息を吐いた。見慣れた顔の安心感たるや危うく落涙するほどで、再会したあかつきには比企谷を除く全員に日頃の感謝を述べようと誓った。
「みんなだ」
私が嘆息していると、下鴨矢三郎は何でもないふうな調子で気軽に言う。あまりに気軽だったので受け流すところであった。
「太秦から龍安寺までについては心配無用だよ。俺が同行しておいたから。しかし、アンタも大変そうだなあ」
「あ、はい、どうも……え、え、どういうことですか」
「いやね、面白い連中だけど一筋縄じゃいかないねあれは。しかも変な依頼も受けてるそうじゃないか――」
「いやいや、同行がどうとか」
「どうもこうも、修学旅行中なんだからアンタがいないと不自然だろう。それに都合が良かったからね。致し方なく、俺が一肌脱いだのさ。いや、一皮被ったのかな」
何が面白いのか、下鴨矢三郎はくすくす笑っている。
「ちょっと待ってください。あなたがいたって不自然じゃないか」
「それがそうとも限らんのさ」
「は?」
「こっちだって苦労したんだぜ。先生の羽根を持っているのが雪ノ下女史ではなく、アンタだったせいでいろいろ計画が狂ったんだ。それでもこうして上手く回ったのは、ひとえに俺の手練手管と化けの皮、としか言いようがないやね」
「何を言っているんです」
「さあてな。おいおい、いいのかい。お連れさんが行ってしまうよ」
下鴨矢三郎の言う通り、我が班員たちは出口へとそぞろ歩いているようである。
これ以上はぐれてはいかんと、私は疑問で埋め尽くされた大脳新皮質をひとまず休め、班員たちを追いかけるべく舵を取った。
「最後にいいですか」
「なんだい」
「あなたは何者なんですか」
下鴨矢三郎は肩をすくめると、「狸さ」と言って文字通り私を煙に巻いた。
唐突に人から煙が上がったのにも驚いたが、その煙が晴れて、私は自分の目を疑う前に正気を疑った。なぜならそこにいたのが、私が最もよく知り、かつ毛ほども理解できない人物だったからだ。
さきほどまで下鴨矢三郎だった人物は、いまやなんと「私」の姿をしていたのである。
◇
金閣寺。室町幕府第3代将軍、足利義満による開基とされ、正式名称を北山鹿苑禅寺という。名前の由来となった金閣舎利殿に使われている金箔の量は20㎏で、現在のレートに換算すると十億円に上るそうである。何をどう考えれば建物の外壁を十億円で覆うという宇宙的な発想が生まれるのか理解できないが、昔の偉い人の贅沢スケールには脱帽するばかりである。率直に阿呆だなと思う一方で、そういう傾いた金の無駄遣いをするのは浪漫があってじつに良いじゃないか。と、普段の私であれば感心していたところであるが、いまや室町時代も十億も浪漫も、他のいかなる事象も、私の気を紛らわすにはいたらなかった。当然、戸部の恋模様と依頼なんぞは、完全に頭の中から消失していたのである。
「ねえ、結構いい感じじゃない?」
金閣を囲む池の対岸で呆然自失としていた私は、小声でささやきかける由比ヶ浜さんの声も耳に入らなかったし、当然、空回りする戸部と一線を引きつつも笑顔を浮かべる海老名さんなど目に入らなかった。あとになって比企谷が言うには、金閣寺での私のイカれ具合はすさまじかったらしく、涎を垂らしながら「狸だ! 狸だ!」と何度もつぶやいていたという。そんな私の様子を具に目撃していた由比ヶ浜さんや川崎さんが、その後も私とつつがなく会話をしてくれるというのは、まさしく奇跡的なことなのだと比企谷は暑苦しく語っていた。
それはさておき。
『もう一人、私がいる。』
こんなホラーやSFじみた事の成り行きをなるべく正確に捉えようと奔走したが、大方の予想通りそれは難航を極めた。
「さっき俺、何してたっけ?」というふうに自分で自分の挙措動作を他人に尋ねるというのは、その挙措動作と現時点までの時間的間隔が短ければ短いほど、尋ねた相手との心理的距離は長じる一方である。これを私は「特殊長短性理論」と呼ぶことにする。「特殊長短性理論」を立証する定性的な論拠のひとつが先刻の比企谷の反応であり、諸般の事情により割愛するが、のちの被験者数名の反応も酷似していた。簡潔に示せばドン引きされたわけある。もし諸君の中に「特殊長短性理論」を実証せんと欲す気骨ある阿呆がいるならば、複数の知己を失う覚悟が必要である。おすすめはしない。
結局のところ、「特殊長短性理論」によって得られた発見は、どうやら私が太秦から龍安寺にいたるまで奇怪な振舞いをして一部の人間の不興を買ったことだけだった。
これが意味するところ、ようするに同時刻に私が二人存在したという事実は揺るぎようがないように思われた。
ということは、つまり。
「下鴨矢三郎はやはり狸だった」
比企谷たちが金閣寺境内を周遊する中、私はひとり山門付近で呆然と立ち尽くしていた。あまりのわけのわからなさに気が遠くなりかけていた。
狸は人を化かす。古来よりもっぱらの噂だ。しかし、まさかそんな非科学的なおとぎ話のようなことが現実に起こるとはとうてい信じられなかった。ましてやこの私の身に降りかかるなど。しかしながら、周囲の証言を勘案すれば、ましてや目の前で「私」に化ける瞬間を目撃した以上、もはや疑う余地はない。
いかように考えても正気の沙汰とは思われない珍事に打ちのめされた私は、前後不覚の意味不明状態と化し、その後ことあるごとに揶揄されることになる「狸事件」を起こして周囲とひと悶着した挙句に、蹌踉と近くのベンチに腰を下ろした。長年の修行の末に心胆を鍛え上げ、些細なことには動揺しなくなった私もこれには動揺した。やがて身体の芯から怖気が走り、体毛が逆立って、ガタガタと震えだしたところ、頭上より配慮の欠片もない声がかかった。
「アイス買っちゃった」
おもむろに頭を上げると、緑色のソフトクリームを手に持ち、満面の笑みを浮かべる野太い男が立っている。荒涼とした光景だった。
「金粉かかったアイス、買っちゃった」
材木座は金閣寺にあやかった金粉入りの宇治抹茶ソフトをぺろりと舐めて、図々しく私の隣に座った。
私は黙っていた。黙って、しばらくの間、傍近で繰り広げられる気味の悪い食事風景を静かに眺め続けた。
「美味ぃ~、大変美味ぃ~。これぞ650円の価値があるというものだ」
材木座がワッフルコーンを舐め上げ、しまいにはその中に舌を突っ込み格闘している様を見ていると、私は次第に落ち着きを取り戻していった。それは一種の瞑想体験だった。いかなる作用か、ひどく汚らわしい光景を具に観察することで、にわかに泰然とした心持になったようである。そうして「世界は広い。狸が化けることだってあるし、材木座が金箔宇治抹茶ソフトクリームを食べることだってあるのだ」と、何事にも動じない盤石の受け入れ態勢を整えた。
どこに隠し持っていたのか、二本目の宇治抹茶ソフトに取り掛かった材木座を置いてその場を離れると、私は比企谷たちと合流してホテルへの帰路についた。
いったん冷静になってみると、私は唐突に義憤に燃えた。
この際、同時刻に別の場所で私らしき何者かが存在していたことは致し方ないとしよう。日中、携帯電話に連絡が来なかったのも頷ける。なぜなら私らしき者がすぐそばにいたのだ。度重なる電話が無視されたことも致し方がないだろう。また、材木座が宇治抹茶ソフトをこれ見よがしにぺろぺろ舐めていたことも、致し方ない、ひとまず断腸の思いで見逃そう。
しかし、しかしである。その私らしき者に扮した狸=下鴨矢三郎氏が、私の真なる人間性を歪めて立ち振舞った事実は断じて見過ごせない。私の与り知らぬところで、何の罪もないはずの私が、どこの馬の骨とも知らぬ私により陥れられるという大珍事はとうてい看過できなかった。奇怪な振舞いによって急落した私の人物評は、矯正される間もなく燎原の火のごとくクラスメイトに広まったという。
消灯時間をとうに過ぎ、戸部たちによる麻雀大会が小さな歓声で幕を下ろすころ、布団に横になった私は、客室の天井を睨みつけていた。
「三浦さんを泣かせただと?」
それは私ではない、狸のせいなのだ。そもそも私にそんな度量はないのである。しかし、いくら弁明したところで、すでに崖っぷちの私の立場をますます悪くするだけであろう。そういえば、帰りのバスや夕食時、風呂で汗を流しているときも、なんだか生暖かい視線を四方八方から浴びていた気がする。事態はすでに取り返しのつかないところまで来ているのではなかろうか。もはや私の名誉を回復する手立てはないように思われた。
なにゆえこんなことになったのか。
思い返せば、激動かつ混迷をきわめた一日だった。腹を壊してクラスメイトに置いていかれ、仙人や天狗と自称する変人と遭遇、美女とデートをして、京都上空を飛行し、狸に化かされて、クラスメイトから軽蔑される。修学旅行中であり、いくら普段とは異なる環境に置かれているとはいえ、さすがに限度というものがある。何か仕組まれていると考えるのが筋だろう。
ふいに、私は膝を打った。
陰謀。そう、陰謀である!
一連の出来事をすべて偶然として片づけるのには無理がある。やはりすべてが連関した陰謀だったのだ。何の脈絡もなく唐突に美女とデートするというのは、男としての私のポテンシャルから見積もって十分蓋然性があるが、仙人や天狗が存在して、狸に化かされるというのは、ただごとではない。
なるほど、陰謀か。であればやはり致し方ない。
しかし、いったい誰が何のために仕組んだのだろうか。なぜ私を陥れようとしているのだろうか。そもそも本当にターゲットは私で合っているのだろうか。これらの答えはすでに今日という日の様々な時点に散りばめられているような気がした。深まるばかりの謎を暴き出すまでは決して眠るまいと決意して思案しているうちに私は安らかな眠りについた。
◇
修学旅行三日目。「おい、起きろ」という不躾な声に目を覚ました。ぼんやりしながら部屋を見渡すと、比企谷以外誰の姿も見えなかった。
「みんな朝飯行ったぞ」
「ふわやい」
「俺もそろそろ出るけど、お前どうすんの?」
「ふわやい」
「きめえな。先行くわ」
先に部屋を出ようとする無情な比企谷を押しとどめると、急いで身支度を整え、荷物を纏めた。三日目の本日から宿が変わるらしく、荷物は先んじて新たな宿に届けてくれるという。行き先は嵐山だそうだ。
「ふたりとも、おはよう!」
あくび混じりに部屋を出たとたんに由比ヶ浜さんに出くわした。元気いっぱいである。朝から比企谷の不吉な顔を拝んでばかりいたため、このサプライズは僥倖だった。今日は良い日になりそうである。
「なんだお前。夜這いか。朝だけど」
「ち、ちがうし! 変なこと言ってないで行くよ!」
「朝飯な。二階の大広間だっけ?」
「それはキャンセルしたから。別のとこ」
「はあ?」
「とにかく、ふたりとも荷物纏めて出かけるよ。ついてきて」
「断る。俺らはバイキングで朝から豪勢にキメるんだよ」
そう言う比企谷の声も聞かず、由比ヶ浜さんは何が楽しいのか鼻歌混じりで先に行ってしまう。
私と比企谷は顔を見合わせた。
「なんなんだ?」
「知らん」
「とりあえず無視して朝飯いくか」
「いや、由比ヶ浜さんについていこう」
「やだよ。腹減ってるもん」
「俺だってペコペコだぜ。しかし由比ヶ浜さんのお誘いはすべてに優先される」
「え、なんで?」
「なんでもだ」
「じゃ、お前だけ行ってくれ」
「そうしたいのはやまやまなんだが、由比ヶ浜さんは俺たち二人を誘っているみたいだからな」
「うへぇ……」
ホテルを出て向かったのは、三条通りを南へ折れたところにある老舗の喫茶店だった。朝から混雑する店内を横切り、中庭にあるテラス席に通される。どうやら朝食はここで取るようだ。なかなか洒落が利いていると感心した。
「あら、遅かったのね」
我々の到着に気が付き、メニュー表から顔を上げたのは雪ノ下さんだった。和洋折衷なテラスがよく似合っている。
「なんで雪ノ下がここにいんの?」
「ここが彼女の家だからだ」
私は、間髪を容れずにそう返した。
「マジかよ。別荘ってこと?」
「いや、自宅だ」
「マジかよ。知らない人いっぱい家にいるけど大丈夫なのか」
「いや、彼らは家族だ」
「マジかよ。挨拶したほうがいいか?」
「いや、俺が済ませておいた」
「マジかよ、紳士的だな」
「ああ、紳士だ。ちなみにお前のことはダブっている年上の同級生で、ちょっと距離感を掴むのに難儀している旨をさりげなくだが確かに伝えておいた」
「マジかよ。一番扱いづら――」
女性陣の冷たい視線を感じた比企谷と私は、無益なやり取りに終止符を打って、しょんぼりと席に着いた。改めて事情をうかがう。
「昨日話したでしょう。さっき、海老名さんを見かけたから彼女たちも来ているみたい」
「ここ、すっごい有名なお店なんだよ」
すると比企谷が得心のいったような顔をして「戸部のやつもやるじゃねえか」と言った。私は何のことだかわからない。そのうちに注文していたモーニングが届いた。
なめらかなハムときらきら光沢を放つスクランブルエッグの鮮やかさ。赤や緑に彩られたサラダがいたく目に眩しい。おやおや、控えめに添えられたさやえんどうは気まぐれシェフの小粋な計らいか。コーヒーにオレンジジュースがついてくるのが嬉しい誤算。京の都は朝から英国風。紳士にぴったりな朝食が、忙しい都人にゆとりの哲学を教える。
悦に入った私は、そのまま事情を聞きそびれた。
「それで、この後のことなのだけれど」
食後のコーヒーを飲みながら雪ノ下さんが言った。
「まずは伏見稲荷大社に行きましょう」
「千本鳥居か」
「テレビで見たことあるやつだ」
英国風朝食に舌鼓を打っていると、あれよあれよという間に、修学旅行三日目の予定が決まっていく。
「最後が嵐山ね」
「うんうん、いいコースだね」
「問題ないと思うぞ」
完全なる蚊帳の外で残り僅かのコーヒーをちびちびやっていると、不審に思ったのか雪ノ下さんが言った。
「ずっと黙っているけど、それでいいのよね?」
それでいい、とはどういうことだろうか。彼らの本日の予定のことだろうか。であれば私には関係がないから好きにすればいいと思うし、まず、なぜこの喫茶店で朝食をとっているのかすら判然としていない私に聞くのはお門違いと言わざるを得ない。
そんなふうなことをぶっきらぼうに返すと、雪ノ下さんは唖然として、私の顔をまじまじと見つめた。
「俺は一人でいろいろ行きたいところがある。京都国立博物館とか」
「ちょっと待って。ねえ、比企谷くん、もしかして彼はまだ寝ているのかしら?」
「かもしれない。こいつ立ったまま熟睡できるとか言ってたし、飯食いながらも寝られるんじゃね」
「いや普通に起きてるし。どうしたの? 何か気になるところでもあった?」
由比ヶ浜さんが心配そうに首を傾げる。
すると雪ノ下さんが不満そうな声をあげた。
「気になるも何も、あなたが昨日提案してくれたコースそのままよ。私の案を悪しざまに蹴ってまで推してたじゃない」
「え、昨日?」
昨日といえば。
ふいに天啓のごとく、昨日の一大スペクタクル冒険活劇が私の脳裏をものすごい早さで駆け抜けていった。あまりに愚かで目も当てられないが、その瞬間まできれいさっぱり忘れていたのである。それぞれが私の許容量を置き去りにする出来事であったため、実際のところ敢えて思い出さないよう脳のストッパーが自衛したのかもしれない。
私は思わず嘆息した。
「まさか覚えてないなんて言わないわよね」
「こいつ昨日ずいぶん愉快なことになってたし、別人格でも出てきたんじゃねえの」
ふたりともなかなかに鋭いことを言う。
私は紳士らしく控えめに狼狽えた。むろん奇っ怪千万な事実をありのままつまびらかにすることはできなかった。なけなしの私の沽券に致命的な風穴を開けかねないからである。仙人や天狗との遭遇、美女とのデートは甘く見積もって受け入れられるとしても、空を飛んだことと狸に化かされたことは、常人には刺激が強すぎる。狂人の烙印を押してくれと言っているようなものだ。すでに昨日の「狸事件」で準狂人のレッテルを貼られていてもおかしくない。ここは慎重に回答しなければ事を仕損じるだろう。
私は知ったかぶることにした。
「ちょっと寝ぼけちゃった。そうそう、嵐山。紅葉がすごいと聞くぜ」
「しっかりしてちょうだい。実質、今日が最終日だってわかっているのかしら」
「だな。戸部のやつも気合入ってるみたいだし」
「サポート頑張ろうね」
もはや言うまでもないが、戸部のサポートとかいう些事は、昨朝、クラスメイトに置いていかれた時点で忘却の彼方へ完膚なきまでに消え去っている。雪ノ下さんが口にしたコースというのは、海老名さんと戸部のデートコースを指しているわけだ。そしてそれを提案したのは誠に遺憾ながら私(下鴨矢三郎)らしい。
発案者が消極的なのはいかにも不自然である。私は虚勢を張った。
「いっちょ、元気にいってみよう」
由比ヶ浜さんの「おー!」という声を聞きながら、私は突如思い起こされた昨日の比企谷の弁、「三浦を泣かせたときには、さすがに正気を疑った」に人知れず戦慄を覚えていた。やむなし、土下座も辞さない構えである。