◇
なにか感じるところがあったのか、あの依頼を機に由比ヶ浜さんは奉仕部へ入部した。禅寺もかくやと思わせる深閑としていた部室は、彼女の声で瞬く間に賑やかになった。
わざわざ、この場を訪れなくとも、読書は家で幾らでも出来る。依頼がない日は、部長である雪ノ下さん一人この部室にいれば、事足りるのではないか。だいたい比企谷が、雪ノ下さん一人の力で更生するとも思えない。だったら奉仕活動の端緒たる依頼が持ち込まれてから、そこで初めて、一堂に会すればよいのではないか、と私は思っていた。しかしそんな意見でも主張してみろ、私はおそらく死ぬであろう、精神的な病で。
だからこそ由比ヶ浜さんの入部は、私にとって渡りに船であった。放課後の時間を削っているのだ、少しでも有意義に過ごすべきである。部員が部員だけにまるで身についていない社交性にも、彼女が加わることによって新たな道が開けるかもしれない。それに由比ヶ浜さんには手作りクッキーの恩もある。是非とも仲良くしたいところだ。こんな風に考えて私は由比ヶ浜さんの入部を好意的に受け止めていた。
「ねえねえ、なんで奉仕部に入ったの?」
ある日の放課後、私は由比ヶ浜さんにそう問いかけられた。
「うん、それには深遠な理由があってね」
「へえ、どんな理由?」
「何を言っているの、あなたは。ただ性格に難があって友達がいないからじゃない」
「ゆ、雪ノ下さん。それは直裁にものを言いすぎじゃ――」
「本当のことじゃない。それとも、何か他に理由があるのかしら」
私は言葉に詰まった。隣で比企谷が失笑していた。
「じゃあヒッキーと一緒なんだ。うん、どことなく二人は似てるもんね」
「おい、今までで一番心にグサリとくる言葉なんだが。なに、俺とコイツが似てる? ねえよ、天地がひっくり返ってもそれだけはねえよ」
一瞬にして笑みが消えた比企谷が愕然とした表情でわめいた。いい気味である。しかし奇遇だが私も同意見であった。由比ヶ浜さんの言葉は悪意がないだけにたちが悪い。
「まあたしかに、比企谷くんと比べたらあなたのほうが幾分かましかもしれないわね。目が腐ってないという点においてだけれど」
「人の身体的欠点をあげつらうのは止めろ。これ以上俺の精神を削ってお前になんの得があるんだよ」
「あら、欠点と理解しているのね。だったらその矮小な脳みそを使って少しでも改善するよう努力しなさい。人を笑う暇があるのならそれくらい出来るわよね?」
「見てたのかよ……」
由比ヶ浜さんと高尚な雑談をする絶好の機会が失われてしまった。私はちらっと由比ヶ浜さんのほうを見ると、彼女はなぜかにこにこしていた。
「なにを笑っているのかしら由比ヶ浜さん。別段おかしなところは見当たらないのだけれど」
「あ、ごめんごめん。なんだか楽しそうだったから」
「楽しそう? 一体どこをどう見ればこれが楽しそうに見えるのかしら。もしかしなくてもあなたもバカなのね」
「あーー! ゆきのんヒドすぎ!」
由比ヶ浜さんはぷりぷり怒っていたが、ふと顔を伏せるとぽつりぽつりと話し始めた。
「私、こういうの憧れてたから。ほら前にも言ったでしょ、クッキー作ったときに。なんか全然建前とか言わないのすごく良いなって思ったの。私空気読んでばっかだったし……」
皆、由比ヶ浜さんの顔を見守ったまま口を結んでいる。
「あはははは、こういうの変だよね。ごめん、話変えよっか」
「いえ、おかしくないわ。それじゃあ逆に聞くけれど、なぜ空気を読んでいたのかしら?」
「え……、だってみんなに合わせないとハブられるかなって……」
私と比企谷はほぼ同時に笑った。おそらく同様の思考回路をたどって表情筋を振るわせた、という事実を否応なく思い知らされた我々は、顔を見合わせ、そしてしかめた。
「くだらない迎合ね。まあいいわ、空気を読むという行為をかなぐり捨ててきたそこの男たちの意見を聞きましょうか」
比企谷はなぜか誇らしげに胸を張った。
「俺は空気を読むことに関してはスペシャリストだぞ。本物のぼっちは空気を読まずして成り立つものじゃない。空気を読んだうえで、あえてぼっちを謳歌してるんだ。ぼっちはいいぞ、煩わしい人間関係から解放される」
「うそつけ。空気を読んでいたら、そんな反社会的な目をしてないだろ」
雪ノ下さんが生ゴミにたかる小蠅をみるような視線をこちらに向けている。私はあわてて付け足した。
「たしかに由比ヶ浜さんのいう空気を読むことも大切だとは思うけど、支配されちゃダメだよ。あくまでもこちらが主導権を握り、流れを変えるくらいでなくては」
「だいたいな、そんなの友達とは言わねえと思うぞ。相手の望む言葉、行為をわざわざ察知して、それを与えるなんて主従関係だろもはや。騎士道かよ」
由比ヶ浜さんは少し俯きながら我々の言葉を受け止めていた。
「由比ヶ浜さん、あなたのそれはただの馴れ合いよ。馴れ合いはどこまでつき詰めても所詮馴れ合いなの。あるべき自分を殺してまで求める価値なんてないわ。幻想よ。それに……」
雪ノ下さんは、どこか遠い目をして続けた。
「そういう連中は不穏分子に悉く排他的なのが通例よ、あなたが言ったハブというやつね。意にそぐわない者を手前勝手な理由で晒して悦に浸る……自己保身のために他人を排除するなんて、本当に虫唾が走るわ」
最後の言葉とは対照的に雪ノ下さんは微笑んでいた。
彼女も相当苦労したのだろう。その容貌で周囲を法界
「うん……」
由比ヶ浜さんは力なく頷いた。
所属している集団から弾かれるということは、社会的な死を意味している。学校という狭い環境の中では尚更のことであろう。ひとたび、井戸の縁から顔を出せば、なんて狭い世界で右往左往していたのだろうと馬鹿らしく思うこと必定だが、我々はまだ井の中の蛙なのである。そこがすべてで、そこで生きていくことしか出来ないのだ。
待てよ……。そう考えれば、由比ヶ浜さんの空気を読むという行為は処世術であって、決して批難されるべき対象ではない。彼女だけでなく、大抵の人間が無意識下、人間関係が損なわれるのを恐れて同様の術を行使しているのだからそれは常識の類いである。なるほど、むしろ批難されるべきなのは我々の方ではないか。蜀犬日に吠ゆとはこのことか。雪ノ下さんも含め、我々は彼女に教えを請うべきなのかもしれない。
雪ノ下さんの言葉は全面的に首肯されるべきものではないと考えた私は、しおれ気味の由比ヶ浜さんを励ますように言った。
「由比ヶ浜さん。さっきも言ったけど空気を読むことは大切なことだと思うよ。俺たちを見てごらんよ。馴れ合えなかった末がこれだぜ。なにか手厳しいこと言ってるけど、客観的にみたら負け犬だから、俺たち」
雪ノ下さんは「それ私も入っているのかしら」とややお怒りだったが「まあ、いいからいいから」と私は続けた。
「だからすべて真に受ける必要はないよ。本音で語り合うことが正しいってわけじゃないからさ。ときには言いたいことを言わなくちゃならない場面もあるだろうけど、それ以外は適当でいいんじゃないかな」
朝令暮改のようで申し訳ないが本心をさらけ出せば、今、私が考えたこと、言ったことはまったくつまらないことである。そんなこと心の底では思っちゃいない。客観的に見ようが、俯瞰で見ようが、望遠鏡で覗こうが私が負け犬ということはありえないのである。余人が自己保身のために空気を読もうが、不羈独立たる私の知ったことか。空気は吸うものである。
しかしながら、私は悩める乙女の前では、韜晦することを厭わずに敢えて道化を演じることのできる男なのである。空気を読む行為とはまた違った、自己犠牲の精神、と言い換えることもできるだろう。我ながらなんともいじましい健気さだ。
私は、己を律した奉仕的主張を切り上げるべく「な、比企谷」という言葉で続きを促した。
「ま、そうかもな。俺もコイツも雪ノ下も、明らかにズレてるからな。世間の総意と捉えるのは誤りだな」
物分りのよい比企谷に感謝すると同時に、私の涙ぐましい奉仕的主張を言語道断しそうな唯我独尊女・雪ノ下さんは果たしてどうかと、恐る恐る彼女の方を見遣った。
「そうね、由比ヶ浜さん。あなたはあなたが望むようにすべきじゃないかしら。本音が言いたいのであれば言えばいい、場に合わせたいときは合わせればいい。臨機応変ね」
意外にも、雪ノ下さんはそう言った。
由比ヶ浜さんは伏せていた顔を上げると、元気を取り戻したように笑った。
「うん! 私、やっぱり優美子たちとも本音が言えるようになりたい。だからなんだかよく分かんないけどとりあえず頑張ってみる!」
比企谷は「なんだよそれ」とスカし気味に笑った。
私はふぅと息をついた。ともかく奏功したようで、よかった。道化を演じた意味があるというものだ。だいいち、こんなところで由比ヶ浜さんが性狷介にして自ら恃むところすこぶる厚い孤高の乙女になってもらっては困る。私の有意義な高校生活において今のところ彼女だけが頼りなのだ。
それにしても雪ノ下さんが同意してくれるとは思わなかった。てっきり、「あなたたちのそういう弱さを肯定するところ大嫌いだわ。むしろ気持ち悪いわ、一度死んでちょうだい」などという罵倒が飛んでくると思ったのだが。比企谷もそう感じたらしいのか、なぜ同意したのか疑問を投げかけていた。
雪ノ下さんは目を細めて不気味に笑った。
「これが空気を読むということじゃないかしら?」
我々は苦笑した。
◇
書店から戻り、自宅の居間にでんと腰を落ち着けると、先ほどの由比ヶ浜さんの様子が念頭に上った。いまどきの高校生がどんな心の機微をしているのか、まるで分からないのが正直なところではあるが、明らかに由比ヶ浜さんの様子はおかしかった。たかが二、三ヶ月、ともに部活動に励んだだけではあったが、されど二、三ヶ月である。彼女がその豊かな感情をもってして意味不明な言葉を操り、部室の明度を大幅に押し上げていたことは言うまでもない。そんな太陽のように明朗であった由比ヶ浜さんが、なんの断りもなく部室に顔を出さないばかりか、仔細ありげに面持ちを曇らせたとあれば、まず間違いなく何かあったのだろう。きっかけはやはり職場見学か。しかしながら、あの時二人がどんな会話をしていたのか、全然記憶にない。青春破壊衝動に駆られていた自分が恨めしい。もっとしっかり会話を聞いておくべきだった。
では、もう一人の当事者、比企谷はどうであるか。昨日の著しく覇気を欠いた顔は、やっぱり由比ヶ浜さんとの悶着に起因するのだろう。そうであるならば、その冷徹さを自他共に認める雪ノ下さんならまだしも、太平洋のように広い心とガラス細工のように繊細な感情を持つ私にまで、なぜひた隠しにする必要があるのか。話せば楽になるということもある。たとえ打ち明けられた私が、十中八九、解決に向けてなんら役に立たないとしても、話すべきである。解決できない代わりといってはなんだが、気晴らしにでもしたまえと、猥褻文書を貸してやることも吝かではなかったというのに。彼は今頃、その目と同様にどんよりと澱んだ自室で、ぶつぶつと己の不手際をかこっているのであろうか。
そこまで考えた私は、ふと怒り心頭に発した。そういえば。
比企谷は先ほど可愛らしい女の子と連れだって歩いていた。由比ヶ浜さんとの遭遇で、すっかり忘れていたが、あれは逢引だったのではあるまいか。私が慈愛と哀れみの心で気遣っているとも知らず、今まさに、ちんちんかもかもやってやがるのか。許せん。今すぐに家を飛び出して、街中を探し回り、見つけ次第「天誅」と叫んで猥褻文書を投げつけてやろうか。
しかし、勇ましい考えとは裏腹に、私の怒りは急速に萎んでいった。休日の昼間から比企谷が逢引きしている現実は、平生から泰然自若をもって自任している私であってもさすがにこたえたのだ。なんだか非常に馬鹿らしくなってきた。もうどうにでもなれ。私は、比企谷のことも由比ヶ浜さんのことも頭の隅に押しやり、自室で横になるとおもむろに猥褻文書の封を解きはじめた。
月曜日がやってきて、一週間が始まった。私は、このもの言わぬ巨人が現れるたびに言いたくなることがある。おまえはどうして、そう無感動にずけずけとやって来ては、去りし二日間の怠惰的生活を虚しゅうさせるのか。某国民的アニメが終わる頃、余計な焦燥に怯えてしまうのは、まったくおまえのせいなのだ。もう少し緩慢に歩んでは来られないのか。返せ。ただちに私の休日を返せ。しかし、私がいくら抗議しようが、巨人は聞く耳を持たない。頑固一徹に己の道を粛々と歩むばかりである。
そんな月曜日の初め、鬱々とした心持ちで登校した私は、校門をくぐったところで声をかけられた。
「おはよう」
平塚先生であった。生活指導という立場から、朝の登校時間には校門に立ってのどが枯れてしまうほど「おはよう」を繰り返すのが彼女の仕事の一つである。どうやら本日も勤しんでいるようだ。私はねぎらいの言葉を胸中に「おはようございます」と言って、そそくさと彼女の横を通り過ぎた。
「待ちたまえ」
その声にびくりと肩を震わせて振り返ると、鋭い目をして平塚先生が手招きしていた。これといってやましいことはないが、彼女に近づくのがためらわれた。おそらく、それは彼女の目が原因であろう。
平塚先生の目には、対象者にてんで不必要な自戒を促す謎の力があった。ひとたび彼女の視線に捕らえられれば最後、
以前、どうして平塚先生ともあろうお方が生涯の伴侶にめぐり合えないのか、比企谷と論議したことがあった。論議は横暴に始まり乱暴に尽きるとして、ごく短時間に結論を見たのだが、その数日後、この目に相対した私は、彼女が知るはずもない論議内容を、「何でもお見通しだぞ」といわんばかりの謎の力によって漏らすよう強制され、結果、鉄拳制裁を甘受するハメになった。その場に崩れ落ち、殴られた腹をさすりながらうめき声をあげていた私は、なんと惨めであったことだろうか。このような有様で誇りなんぞどうして保ち得よう。彼女の視線の前に、私はあたかも春の到来を待ちわびるシマリスのように縮こまってしまうのである。
今回も、惨劇が繰り返されてしまうのかと、私はびくびくしながら近づいた。
「どうだ、奉仕部は。正式に入部する気になったか」
「もう少し考えさせてください」
「そうか。本当ならとっくに仮入部期間は過ぎているのだがな、まあよしとしよう」
平塚先生はそう言って微笑んだ。この美しい笑みに騙されてはいけない。私の内部にある何かやましげなものを引きずり出して、それが気に入らなければ腕力に訴え出ようという腹である。私は迂闊なことは喋ってはならぬとほぞを固めた。
「それと、君自身の更生の方はどうなっている。いまだにクラスの者たちと馴染んでいないようだが」
「はあ。精進します」
「あまり努力しているようには見えないな。やる気がないんだろう」
「い、いえ。決してそんなわけでは」
平塚先生の目に鋭い光が宿る。私の誇りが悲鳴をあげた。このままではガラガラと崩壊するのも時間の問題である。焦った私は、「一時間目の予習がありますから失礼します」と、虚偽の言辞を弄し、会話を切り上げた。
「うむ。とにかくしっかり努力するんだぞ」
「はい」
惨劇が繰り返されなかったことに一安心した私は、急いでその場を離れ教室へ向かった。
◇
昨今、便所飯なるものが一部界隈で流行しているらしい。昼休み、周りを囲む談笑に耐えられなくなった孤独な人間の末路が便所であり、自分と外界を遮断する鉄壁の個室において、ほのかに香るアンモニア臭をおかずに弁当をつつくのがその一般的概念である。私は、比企谷からその話を聞いたとき、世の中にはケッタイな人間がいるものだと驚いた。軟弱者の姑息な逃避だと一笑に付すことは簡単だが、少し想像してみれば、彼らの忍耐力がいかに優れているかが分かる。アンモニア臭など序の口だ。ひっきりなしに聞こえてくる、じょぼじょぼという音を甘んじて受け入れるばかりでなく、ブボッブリュなどというおぞましい音と、その後に訪れる筆舌に尽くしがたい激臭に耐えながら食事をとるというのだ。さぞかし飯が不味いだろう。超弩級の忍耐力といわざるを得ない。そんなところで弁当を食うくらいなら、談笑に埋もれながら、己の不遇を嘆いているほうが余程いい。
「極めて阿呆としか言いようがない」
「そう言ってやるな。これは友人の友人から又聞いた話なんだが、慣れると臭いも音も気にならなくなるんだと。つまり五感を排してるわけなんだが、当然、味も分からなくなる。だからどんな飯でも不満がなくなる。食パンだけ持ってくれば安上がりだ」
「うそだろ、おまえ。哀れすぎるぞさすがに」
「ちょ、バッカ、おまっ。俺じゃなくて友人の友人だって言ってるだろ」
昼休みになると、私は、弁当を持参して校舎裏の階段に座り込んだ。哀れな比企谷との会話を思い出しながら、ペットボトルのお茶に口をつける。頬を撫でる涼やかな風が、非常に心地いい。
便所飯は御免だが、賑やかな教室の中で悠然と昼飯を食うくらいなど、私ほどの人間になれば造作もない。では、なぜ校舎裏の階段というあからさまな場所で昼食をとるのか。それは比企谷がどうしても一緒に食べようとしつこく誘ってきたからであり、温厚篤実な私が致し方なく了承したからである。間違っても、私が教室から逃げ出したと捉えてもらっては困る。
たしかに、きゃんきゃんと喧しいクラスメイトたちに少々嫌気が差したことは事実である。そして、なにか契機さえあれば、よそで弁当を食べたいと願っていたことも、まあ、事実である。さらに、比企谷がベストプレイスと称して校舎裏の階段で昼飯をとっていると聞き及び、なるほど、それは悪くないなと思ったのも事実といわねばなるまい。しかしながら、階段で惣菜パンを頬張る彼の前を、弁当袋を提げ何気なく往復していた私に対して、「座れよ」と声をかけたのは比企谷なのである。諸君には、最後のまぎれもない事実だけ、しっかりと記憶してもらいたい。他は忘れてもらって、いっこうに構わない。
私は、母親手製の弁当を開いた。生姜焼きを味わっていると、ビニール袋を提げた哀れな比企谷がやってきた。
「よう」
「おう」
比企谷は隣に腰掛けると、いつものように惣菜パンを頬張った。
「おまえ、毎日似たようなものばかり食べてるな。偏食で将来、痛風になるぞ」
「いいんだよ好きなんだから。だいたい健康に気を遣ってたら何も食べられねえよ。すべての食べ物に一長一短があるんだぞ。それに食べたいものを食べられないストレスで病気になる可能性もある」
「詭弁だな。おまえの将来が見えた。痛風で年中顔をしかめながら歩き、最終的に腎臓がやられてなすびみたいな顔色になるだろう」
「不安を煽るのは止めろ、怖すぎるだろ」
「己の不摂生を墓に入る寸前まで呪うといい」
「くそっ、飯が不味くなってきたじゃねえか。この話はやめだ」
「フフフ――あ、そういえば!」
にやにやと笑っていた私であったが、突然、一昨日のことを思い出し声をあげた。勢い余って、たれのよく染み込んだご飯が比企谷の顔へ降りかかった。
「おまえ、一昨日なにしてやがった」
「おい、きたねえぞ!――ったく。で、なんだよ?」
「一昨日何してたかって聞いたんだ」
「あ? 一昨日は……なにしてたかな」
「とぼけるなよ。ちゃあんと証拠は揃ってるんだぜ」
「はあ? 意味わからん。何が言いたいんだよ」
「ぶっ飛ばすぞてめえ。しら切るのも大概にしろ」
「っだから、きたねえよ! 食いながら喋るなボケナス」
「ごめんごめん」
私はとりあえず、生姜焼きをゆっくりと咀嚼した。
「街に出てたよ、何か問題あるか?」
「やっぱりな。おまえなどこうしてくれる」
好物とは程遠い椎茸をつまむと、私は比企谷の口の中へ押し込んだ。比企谷は濁った目を見開いて口をもごもごやっていたが、飲み込むと「うまいな」と呟いた。
「くそ、なんなんだよ一体」
「こっちのセリフだ。俺の優しさをコケにして、女の子と遊びやがって」
「え? いよいよわからねえ。一昨日は戸塚と遊んでたんだが」
「なるほど。意中の相手は戸塚という名前なのか。生意気にも俺たちの癒しである戸塚君と同じ姓か」
「いや、だからその戸塚だって」
「え?」
私はしばし放心した。そうして、一昨日のことを思い出そうと努めた。
小柄で華奢な体型、遠めからでも分かる大きな瞳と可愛らしい横顔。女の子と断定してもなんら不思議はないが、たしかに服装が少しボーイッシュだったような気がする。それにしても、我らが癒し、戸塚君であったとは。それまで、幸せそうな男女が幾組も視界に入っていたからであろうか、どうやら比企谷と戸塚君を同類とみなしていたらしい。我ながら、なんとも迂闊な早合点である。
「そうかい。なあんだ、それならいいや」
ちょっと、いやかなり羨ましいが、比企谷が抜け駆けまがいのことをしていなければ、私の自尊心は保たれる。情状酌量の余地ありだ。
私は比企谷の肩を叩きながら、「それくらいでいい。焦る必要はどこにもない」と声をかけていると、後方から、唐突に馬鹿でかい声が響き渡った。
「おぬしたち! 本日も良き日和であるな!」
振り返った我々の眼に映ったのは、右手を虚空へ伸ばし、高らかに笑う
「我も混ぜたまへ、いつものように」
「しかし、念は押しておく。おまえと戸塚君は結ばれることはない。アブノーマルへの道を
「ちょっと何言っちゃてるのお前。別に俺は戸塚のことが好きとかそういうんじゃねえから。あくまでも友情を深めていただけだから。……たしかに戸塚は男子とは思えないほどカワイイかもしれないが――」
「わかる、おまえの言わんとすることは心底わかる。おまえが完全無欠のホモソーシャルな世界に棲息していることもわかる。だからといって、いくらなんでも不毛じゃないか。戸塚君は決しておまえに振り向かんぞ」
「いや、まったく分かってねえじゃん」
ごちゃごちゃと喋っている我々の前に立つと、材木座が声を低くしてささやいた。
「あの、ほんと、無視しないで」
今にも泣きそうであった。
「座れよ」
「そうか! それじゃあ失礼させていただこう!」
材木座は比企谷と私の間に、ずんと腰を下ろすと弁当を食べ始めた。
「して、何の話をしていたのかな」
「口の中に物を入れて喋るなよ。きたねえだろう」
「お前がそれを言うのかよ……」
私は残りの椎茸を材木座の弁当箱にねじり込むと、一昨日のことを語った。
「八幡。貴様、男色の気があったとは……たとえ戦国時代に男色が盛んであったとはいえ、今は現代、さすがの我も付き合い方を考えねばならないぞ」
「だからちげえっての。そいつが騙ってんだよ。俺と戸塚は健全な友情交際をしただけだ」
「じゃあなんで遊んだんだよ。珍しいじゃん、おまえが休日遊ぶの」
どうやら比企谷の急所を突いたらしく、眉をひそめて少し固まってから比企谷は言った。
「……誘われたからだよ。ていうかなんでお前は俺のプライベートを知ってるんだよ、気持ちわりいな」
「そんなもんは知らん。ただ俺たちには休日を遊ぶ友人がいないという事実がそこにあるだけだ」
「その通りだ八幡よ! 我々は我々だけが唯一分かり合える友なのだ。そんなことも忘れてしまったのか八幡!」
「うぜぇ……そして、悲しすぎる……」
「どんな物語でも、世界を救うのは少数精鋭と相場が決まっておる。我々の手でこの世を裏から操る機関に鉄槌を下そうではないか」
「まずまっさきに、浮かれポンチの比企谷に鉄槌を下そうぜ」
「はっ、まさか八幡は機関からの刺客だとでも言うのか?」
「その、まさかだ」
「ぬぁあにぃ!? 敵がここまで肉薄していたとは! 我としたことが、主従関係を結んでいると胡坐をかいていた」
「ありもしない幻想にとりつかれているおそれがある。早急に目を覚まさせてやれ」
「おのれ八幡!」
材木座は口から卵焼きを飛ばしながら激昂していた。比企谷は食事を終えたのか、盛り上がる我々を残し、「阿呆くさ、一生やってろ」と言って、歩き去ってしまった。
「待つのだ、どこへ行く。八幡!」
「スカしやがって。誘われたとかぬかしてたけど、本当かな」
「うむ。いずれにせよ気に食わぬ。我が誘っても遊んでくれたためしがない」
「許すべからざることだ。比企谷の分際で人を選ぶとは」
その後、残された材木座と私は、弁当のおかずを交換しながら比企谷への天罰について話し合っていた。しかし、気が付けばいつの間にやら話が逸れて、学校生活の理不尽に対し口汚く罵倒しあっていた。両者、舌鋒鋭く、昼休みの終わり間際になると、材木座は平生の奇天烈な口調を忘れて、「マジで修学旅行とか必要ない。隕石落ちねえかな」と、気焔を吐いていたが、その顔たるや将門公もしり込みするような容赦のない怨念に満ち溢れていたという。
予鈴が鳴ると、我々は校舎へと戻り、互いのクラスへと帰っていった。
「しばしの別れだ。明日、陽が天辺を突く刻まで、さらば!」