◇
葉山君は、私と同じクラスに所属している。
休憩時間になると、教室の後方でむやみに賑やかな話し声が聞こえはじめる。男女入り混じった井戸端会議のようなその会話は、果てしなく生産性の欠落した、いかにも軽薄なものであるが、その中心でつねに笑顔を絶やさないのが葉山君であった。
葉山君は、水も滴るイイ男である。目は澄んで、鼻もすらり、軽くあてられたパーマには嫌味なところが微塵もなく、頬にはすがすがしい微笑を浮かべている。四方八方どれだけアクロバティックな角度から見ても阿呆面に見えないという非の打ち所のない知的な顔をしている。相対するものに安心感を与える絶妙な高さの身長を有し、エースとして活躍するサッカー部において鍛えられたがっしりとした骨格は、決して剥き出しの野性味を発揮していない。そして、私が軽蔑する迎合的集合体にあって、なおその魅力を微塵も失わないほど品性に溢れ、かつ心地よい緊張感を持っている。自己を律している男とは彼のことである。私は自己を律するところにおいては葉山君に引けをとらないと自負しつつも、彼に相対すると、なにゆえおまえはそんなことになってしまったのかと、己に深い幻滅を覚えるのも無理からぬ話であった。
そんな葉山君に対して、私が法界悋気の中で鬱々とした感情を抱いていると思ったら間違いである。彼は、比企谷のような矮小で卑屈な小物にも気軽に話しかけられる非常に篤実な人間なのだ。彼が比企谷と顔を合わせて話している風景は、驚異的な格差に違和感を覚え、なにか神話の世界を垣間見ているような気がするほどであった。
とにかく、葉山隼人は我々とは一線を画した人間なのである。
「この前のことなんだけど」
葉山君はそう言って、椅子に座った。
「職場見学は何事もなく、仲良く終えられたよ。どうもありがとう」
「仲良く、ね。それはよかったわね」
雪ノ下さんは、どこか含みのある言い方をして返した。以前から感じていたのだが、彼女は、我々に対する口ぶりとは方向性を異にした、いくぶん棘のある接し方を葉山君に用いるようであった。はじめは、彼の美貌に浮かれない殊勝さに孤高を見出していたのだが、実際は、二人の仲になにか因縁めいたようなものがあるように思われた。
「あははは……」
葉山君は眉をひそめて居心地悪そうに笑った。
「それで、礼を言うためだけにここへ来たのかしら?」
「いや、もちろんお礼もしたかったんだけど、もう一つあるんだ」
「もう一つ?」
私は疑問を呈した。
「うん。実は最近、結衣の様子が変なんだ。それで何か知らないかなと思ってね」
「なるほど。やっぱり葉山君は気がついていたか、さすがだね」
「え? あ、ありがとう」
彼を褒めることによって、気に入られたいとか必要以上に仲良くなりたいとかおこぼれに預かりたいとか、そういう不埒なことは露ほども考えていない。私は、単純に葉山君の人間観察能力に賛辞を送っただけである。媚を売ったわけではない。
雪ノ下さんはなぜか鋭い目で私を一瞥してから、葉山君に言った。
「今、まさに私たちもそれについて話していたところよ」
「そうなんだ。じゃあ、原因は分かっているのかな?」
「いや、それが分からなくて閉口してる。比企谷と関係があるんじゃないかと推測してるんだけどね」
「そうか……」
葉山君は顎に手を当てて、少し考えているようであった。
「それなら、俺が出る幕じゃないね。結衣のことは君たちに任せてしまってもいいかな?」
「言われなくてもそうするわ」
「あ、ああ。よろしく頼むよ。俺たちは普段どおり接することにするよ」
葉山君ほどの人格者が介入すれば、たちどころに解決しそうな気もしたが、我々に任せると言っている以上、私は余計なことは言わず黙っていることにした。
「優美子たちも心配してるんだ。誕生日も近いことだしね……じゃあ、俺はこれで失礼するよ。本当にありがとう」
葉山君は小さく呟いてから、もう一度礼を言った。そしてすくっと立ち上がると、颯爽と部室から出て行った。去り際も後を濁さずすがすがしい。
「爽やか極まってるな彼。男子高校生とはかくありたいものだね」
「そうかしら。有名無実なだけだと思うけれど」
「雪ノ下さんも人のこと言えな――」
「何か言ったかしら」
「さて、そろそろ帰ろうかな」
軽率な発言をしかけた私は、帰る支度をはじめた。
「待ちなさい。さっき、葉山くんが聞き捨てならないことを言っていたわ」
「何」
「誕生日が近いって」
「誰の?」
「はぁ……あなた本当に阿呆ね。由比ヶ浜さんの誕生日に決まっているでしょう。メールアドレスにもその日付と同じ数字が入っていたの。間違いないと思うわ」
「ふぅん。誕生日ね……あっ、なるほど!」
「そう。原因は分からなくても、元気づけることは可能でしょう?」
雪ノ下さんは、目を細めて「それに」と続けた。
「これまでの感謝もこめて誕生日のお祝いをしてあげたいの。たとえ今後、由比ヶ浜さんが戻らないとしても……やっぱり伝えたいから」
「うん」
さしもの雪ノ下さんでも、由比ヶ浜さんの存在は大きかったのだ。彼女に感謝してはいるものの、今まで伝えてこなかったのはその不器用さゆえだろう。誕生日というきっかけを得て、彼女がこれまでの諸々の感謝を由比ヶ浜さんに伝えるとあれば、私にはそれを手伝う義務がある。否、同じく感謝を伝えるべきである。
どうやら、私にもできることがあった。
「由比ヶ浜さんに、誕生日プレゼントを贈ろう」
雪ノ下さんは微笑みながら頷いた。
「ええ。誕生日は来週だから、週末に買いに行きましょうか」
「じゃあ、俺は今日の帰りにでも買っていくことにするかな」
「……何を言っているのあなたは。一緒に行くに決まっているでしょう」
「は? どうして?」
「そ、それは……」
雪ノ下さんは恥ずかしそうに口ごもった。私は、はてなと思いつつも、普段なかなか見られない雪ノ下さんの赤面具合を舐めるように観察することにした。
終始堅固な外壁に身を包んでいる人が脆い部分を露にしたときの魅力たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。敢えて表現するとすれば、可愛いという一言に限る。泰然自若たる私が、危うく雲散霧消していた恋に落ちかけるところであった。辛辣な罵倒を受けたり、彼女の類を見ない性質を知るにつれて、真っ白に燃えていったはずの煩悩がふたたび燃え出しそうになったところを私はぐっとこらえ、紳士的ににやにやと観察するにとどめた。
「由比ヶ浜さんがどんな物をもらったら喜ぶのか分からないの。だから、その……手伝ってもらえると助かるのだけれど」
「えっ? あ、ああ。まあ、かまわないけど」
「……なんでそんなに偉そうなのよ。それと、その気持ち悪い顔やめなさい。気分が悪くなるわ」
「すみません。ただ、俺にも由比ヶ浜さんの欲しいものが定かではないから、比企谷も誘おうよ」
私は、瞬時に普段どおりに戻ってしまった雪ノ下さんにそう言った。
雪ノ下さんと休日に街をぶらぶらと歩くのは悪くないが、二人きりというのは遠慮したい。学校内ならまだしも、私は天下の往来で罵られて悦に浸るような変態ではないからである。そんなことになれば、見放し気味の誇りをついには見捨てることになりかねない。スケープゴートとして比企谷の存在が不可欠である。それに比企谷には妹がいる。なんらかの助言をもらえることだろう。
「そうね。あの男が一番に贈らなくてはいけないから当然ね」
「もしかすると、それを機に解決するかもしれないな」
「であればいいのだけれど」
誕生日プレゼントを贈られて喜ばない人間はいないだろう。たとえ比企谷と由比ヶ浜さんのあいだで複雑な諍いがあったとしても、関係がよりこじれるということにはならないはずだ。
時間と場所は雪ノ下さんが、追って連絡するということで、話は決まった。
「では、また明日」
「ええ。さようなら」
私は何を贈ろうか考えながら学校を出て帰路についた。
◇
職場見学に関する事前レポートを提出した日のことである。
私は、前回の失敗を踏まえて、当たり障りのない模範的レポートを提出した。あまりに模範的すぎて、やぶへびにならないか心配したほどであったが、無事受理された。一方、比企谷は学習しない男で、再び阿呆なレポートを提出したらしく、さっそく平塚先生に連行されていた。
彼は海馬に重大な欠陥があるのか、あるいは、殴られることに快感を覚える性的倒錯をもっているのか。一瞬悩んだが、兼ねているということで簡単に答えは出た。もはや、手の施しようのない阿呆である。いっそのこと殴られ続けて、風貌から性格まで一新したほうが彼のためであろう。暴れ馬に振り回される騎手のごとく連れていかれる比企谷を尻目に、私は奉仕部へ向かった。
部室へ到着すると、凛とした佇まいで読書に耽る雪ノ下さんと挨拶を交わし、私も文庫本を開いた。
数分後、由比ヶ浜さんがやってきた。
「あれ、ヒッキーは? 平塚先生に連れてかれたの見たからこっち来てると思ったんだけど」
「まだ来ていないわ。どうなの?」
雪ノ下さんは文庫本から目を上げて私に問いかけた。
「職員室だと思う。連行するとき、レポートうんぬん言っていたからね平塚先生」
「はぁ、レポートって職場見学の。おおかた働いたら負けとかなんとか書いたのでしょうね、彼のことだから」
「あははは……」
雪ノ下さんは嘆息交じりで由比ヶ浜さんは苦笑いである。
「阿呆だから、見学先を自宅にしてたりするかもしれないね」
「ありえるわね……ただ、比企谷くんもあなただけには言われたくないと思うわよ。その言葉」
「あははは……」
由比ヶ浜さんに笑われてしまった。私は阿呆かもしれないが、比企谷を阿呆と断定しても余りあるほどには利口であるつもりだ。失敬な雪ノ下さんに抗議しようか逡巡したが、ちょっと考えてみれば、やっぱり阿呆であることに変わりはないのだから遠慮しておくことにした。私は勝てぬ戦はしない男なのである。
「あのさぁ、こういう時って不便じゃない?」
唐突に、由比ヶ浜さんがそう言った。
さすが由比ヶ浜さんである。余計な客語が省かれた素晴らしい日本語を弄するところ余人の追随を許さない。しかし、修行の足りない私にはいまいち何を言っているのか分からなかった。それは雪ノ下さんも同じようである。
「どういうことかしら?」
「何かあったときに連絡先しらないとか、ちょっとなって。同じ部活なんだしメアドくらい交換した方がよくない?」
「……それは一理あるわね」
「でしょでしょ!」
「と言っても、私たちはもう交換済みよね。そこの阿呆と職員室の阿呆のことかしら」
「う、うん。……どうかな?」
そう言って私をうかがう由比ヶ浜さんは、潤んだ瞳で恋する乙女のようである。少なくとも私にはそう見えた。そんな彼女とメールアドレスを交換し、夜な夜な鼻から血が吹き出るような恥ずかしい睦言を交し合うのは、さぞや心躍ることであろう。しかし、悲しいかな。私は携帯電話を所持していなかった。家に置いてきたというわけでもなく、単に持っていないのである。
「大変恐縮なんだけど、携帯電話を持っていないんです」
「え?」
由比ヶ浜さんは途方に暮れたような顔をして固まった。
「嘘でしょ……?」
「いやはや本当なんだな、これが」
「まるでアーミッシュね。まあ、あなたに彼らのような崇高な理念なんてないとは思うけれど」
アーミッシュがどういったものか定かではないが、さぞかし誠実で心清らかな人々なのであろう。私は、心の中でまだ見ぬアーミッシュと固い握手を交わした。
「欲しくないの?」
由比ヶ浜さんはきらびやかに装飾された携帯電話を握りしめながら、答えに窮する難問を私にぶつけた。
「欲しくないというかなんと言うか……」
実のところ、以前、私は携帯電話を持っていた。高校入学と同時に、必要になるだろうからと両親が買い与えてくれたのだ。それはマルチタッチ液晶のスマートフォンであった。
文明の利器を手に入れたからといって、私は決して浮かれなかった。電波を通してつねに誰かと繋がっていないと不安で夜も眠れない有象無象に成り下がるのは御免である。己を縛りつける
教室において、ときに大胆、ときに控えめな動作で携帯電話を取り出していた私ではあったが、無用の長物となるべき携帯電話は、定石どおり無用の長物となった。いつまで経っても考えていた有用性がいっこうに発揮されず、必要性を見失った一年の二学期には中古品店に売り飛ばしていたように思う。陽の目を拝むことなく任を解かれた携帯電話の電話帳には、覚えている限り、両親の名と懇意にしている本屋しか表示されていなかったはずである。
役立たずな主人のところへやって来たばかりに不遇をかこつ羽目となった携帯電話は、ショーケースに陳列されながらさぞかし清々していることだろうが、それは私も同じことである。あんなもの持っていても、ディスプレイに明々と表示されるのは己の孤独ばかりである。
「それを聞くのはあまりに酷じゃないかしら。由比ヶ浜さん、もうちょっと気を遣いましょう。ね?」
「え? あ、あははは……ごめんね?」
「ちょっとなんで謝られてるのか俺にはわからないのですが」
ひどく迂遠な侮辱を受けたような気がしたが、雪ノ下さんのことだからむしろ卑近なのだろう。
「じゃ、じゃあさ! 買えばいいじゃん! ほら、奉仕部の活動で必要になるかもしれないし。そう思わない?」
「……そうね、そういう機会が訪れないとも言いかねるわね」
顎に手を当てながら少し考えてそう言った雪ノ下さんは、不気味なほど優しい笑みを浮かべて続けた。
「それに安心して。少なくとも私と由比ヶ浜さんは連絡先を交換してあげるから。ご家族以外の名前が並べば、あなたも満足でしょう?」
諸君、かような施しまがいの発言を受けたとあれば、誇り高き私のことだから憤激して断固抗議すると考えてはいまいか。考えが甘い。非常に甘い。それでは、まだまだ私という人間の奥深さを知らないといえるだろう。
私はうんうん呻吟しながら、彼女たちの提案を分析してみた。すると、これは明らかに好機である、と導き出せた。雪ノ下さん由比ヶ浜さん、二人の連絡先を知ること自体、十分な収穫と言えるだろう。しかし、それだけでは終わらない。提案にかこつけるわけではないが、もやしよりも成長速度の速い私は、昨年と同じ轍は踏むことはない。きっと、携帯電話の有用性を思うさま発揮し、あれよあれよという間に電話帳の登録件数は百件を超え、落ち着く暇がないほど着信に悩まされることうけあいだろう。私ほどの人間であれば、そんな未来が訪れると仮定しても、ちっとも違和感を覚えない。画面に映し出されていた孤独は、薔薇色の高校生活へと変わること間違いなしである。
そうだ。
今からでも遅くはない。可及的速やかに文明の利器を再び取得し、あり得べき有意義な高校生活へ飛び込もう。
私がそんな風に考えていると、平塚先生に解放されたのか比企谷がやってきた。
「あぁ! ヒッキー遅いっ!」
鞄を置いた比企谷のもとへ詰め寄る由比ヶ浜さんを尻目に、私は座る雪ノ下さんの前へ立って宣言した。
「俺、携帯電話、購入しようと思います」
「あら、そう」
心ない返事を残して雪ノ下さんは読書に戻ってしまった。
もうちょっと他に言うことがあるだろうと、依然として待機していた私であったが、雪ノ下さんは顔を上げるそぶりすら見せない。仕方がない。言質は先ほど獲得している。それを引き合いに出せば、嘘を
連絡先を取得することに必死になっている己にやや
不毛な話が終わったのか、比企谷は携帯電話をもったまま話しかけてきた。
「おい」
私は顔を上げずに適当な返事をした。
「携帯」
彼は一言、そう呟いた。
さすが比企谷である。まともな言語力を備えていないとは恐れ入った。その言葉だけで意思疎通が図れると考えていることがそもそも間違いである。いくら研鑽に研鑽を重ねた私の洞察力であっても汲み取れないものもあるのだ。それにしても、かような言語力をもって、国語で高得点を取れると言うから驚きだ。なんらかの不正をしていると考えるのが妥当である。でなければ奇跡だ。
海馬だけでなく言語野にも支障をきたしている比企谷は、再び「おい」と言った。私は読みかけのページにスピンを挟んで顔を上げた。
「携帯がどうした」
「流れで分かるだろ。さすがのコミュ力だな」
その発言に、怒りを通り越して唖然としてしまった私は、たっぷり数十秒、濁った目を穴が開くほど見つめた。
「な、なんだよ。気持ちわりいな」
「ひ、ヒッキー。あのね……」
「彼は携帯電話を持っていないそうよ。まあ持っていたとしても、あなたと同様に意味がないとは思うのだけれど」
「マジかよ……今どき持ってないヤツとかいるのか――ていうかさりげなく俺を罵倒するな。俺はつねに携帯の必要性を感じているんだぞ。時間とか天気とかニュースをいち早く知ることが出来る」
「電話である必要が全くないわね」
「うるせえ。んで、お前はいつまで俺を見つめてるんだ。そっちの趣味はねえぞ」
私は、はっとした。今まさに、阿呆の言語力の惨憺たるありさまに思いを馳せていたのだが、その阿呆からコミュニケーション能力の無さについて言及されたのだから呆然としてしかるべきである。もはや怒る気にもなれない。
私は、「なんでもない。とにかく、おまえは一度草葉の陰に隠れろよ」とだけ言っておいた。
「ちょっと遠まわしに言ってる風だけど、めちゃくちゃ直接的だからなそれ」
「ふふふっ。なかなか気の利いた言い回しね。そうね、鬼籍に名を連ねるべきかしら比企谷くんは」
「俺を対象に類語を披露するのはやめろ。不吉すぎるだろうが」
その後も緩慢と口論が続いた。飽きないのかこの二人は。
隣を見ると口論に挟まれた由比ヶ浜さんが、ぽかんとした様子で左右に首を振っていた。私は、由比ヶ浜さんに声をかけた。
「考えてみたんだけど、今度、携帯電話買うよ」
「えっ? あ、そうなんだ! うんうん、それがいいよ。買ったらメアド教えてね」
思わず気味の悪い笑みがでかかった私であったが、紳士らしく堪えて、「うん。是非交換しよう」と、爽やかに返事をした。
「そうだ、もう中間近いよね。勉強とかってしてる?」
話が唐突に変わり、彼女はそう私に問いかけた。
私は、反射的に答えようとした言葉を飲み込んで、考えた。
しているか否かで言えば、もちろんしている。しかし、滅多にない由比ヶ浜さんとの高尚な会話への糸口が目の前に開かれた今、しているの一言で片付けていいものか悩んだのだ。そして、勉強が足りていない、努力が必要、提案、協力、勉強会、という一連の流れが激流のように私の脳内を駆けていった。
一点の澱みもない完璧な流れに、私はほくそ笑みながら返答した。
「いやぁ……実のところ、あんまりしてないんだな。まいったね」
「そ、そうなんだ。私も全然してないんだよね~~」
「奇遇だね。やっぱり一人だと、限界があるよね」
由比ヶ浜さんは私の言葉に、何度も頭を振って頷いていた。いい兆候である。しかし、なぜか雲行きが怪しいと私は感じていた。そうだ、左右から聞こえていた口論がふっつりと止んだのである。
そこはかとなく嫌な予感がしたが、すでに手遅れであった。
「何を言っているの。勉強は一人でするものよ」
「そうだぞ。勉強会とか非生産的なことしてるヤツらより点数取ってる俺が言うんだから間違いない」
「あなたが言うと僻みにしか聞こえないわね」
「うるせえ」
私と由比ヶ浜さんの高尚な雑談兼勉強会予約会話は、嵐のような口論に巻き添えを余儀なくされてしまった。私は呻いた。
流れは完璧だったのだ。しかし、この二人の奇襲までは想定していなかった。普段は黙座して読書ばかりしているくせに、こういうときに弁舌を振るいだすとは私に喧嘩を売っているのだろうか。寝ても覚めても罵り合う口論地獄へ落ちて、永久に出てこなければいいのに、この阿呆二人。
「じゃあさ、勉強会しようよっ!」
机だけが置かれたほかに何もない真っ白な空間において、鬼の形相で口論しあう比企谷と雪ノ下さんを想像していた私は、由比ヶ浜さんのその言葉で瞬時に現実へ帰った。
「話を聞いていたのかしら。勉強は一人で――」
「お願い、ゆきのん。ダメ?」
「……ま、まあ。別に駄目というわけではないのだけれど」
雪ノ下さんは照れたように眼をそむけながら訥々とそう言った。
ここだ。
私は意を決して「それじゃあ」と口走った。
「――それじゃあ、ファミレスでやろっ。 時間はまたメールするね! ふふっ、ゆきのんと二人で出かけるの初めてだぁ!」
ものの見事に流されてしまった。
私は盛り上がる由比ヶ浜さんと照れながらも明らかに嬉しそうな雪ノ下さんから目を逸らした。そして、固く結ばれた拳を解くと隣に座る比企谷の方を流し見た。彼は気まずそうに口角を上げると「どんまい」と呟いていた。
「どんまいなわけあるか、ちくしょう」
私は静かにそう言った。