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少し前、とあるファミリーレストランで男同士、油を売っていたときの話である。
そこには、比企谷の魂とおなじくらい薄っぺらい高校生の財布にもお手ごろであることから、ドリンクバーを頼むとそれきり何も頼まずに我が物顔でふんぞり返るてあいが多く見受けられた。むろん、我々はそんなてあいとは一線を画しているわけで、メニューを開いて唸ること数分、99円という端数に癇が障ることを除けば良心的な価格のドリアを頼むことが通例であった。ただしセットでドリンクバーを頼んで、奔放
その日も、早く帰れよと如実に語っている店員の冷め切った目に怯えながら、我々は無駄話に花を咲かせていた。咲かせすぎて収拾がつかなくなる頃にはみな一様に疲れ果てて、正視に堪えない惨憺たる顔を互いに向け合っていた。
私は目の前に座る二人の陰鬱な表情に、にわかに憤りを覚えた。とはいえ、相手も相手で顔色を見れば決してハッピーでないことは瞭然としており、私はやり場のない怒りをストローを一心不乱に噛みしだくことで発散していた。すると、メロンソーダを飲み干した材木座がひどく憐れを誘うような声色で話し始めた。
「何ゆえ我はこんなにもこんな有様なのだ。どう考えても間違っている。何がどう間違っているのかはっきりとせぬが、間違っているということだけは判る。無論、我は間違ってはおらぬ。ねえ、何が間違っているの」
材木座は周囲の男女和気藹々といった高校生グループを気にかけてか、そちらにチラチラと視線を投げかけながら、終始小声だった。明らかに青春のかほり
「頭大丈夫か? 禅問答なら余所でやってくれ」
比企谷は興味なさそうに窓の外を眺めながらそう返した。すげなくやり返された材木座はトホホなどと呟きながら情けない顔を私に向ける。その気色の悪いどこか猥褻じみた顔にさらなる怒りを掻き立てられた私は、いたって冷静に告げた。
「間違っているのはおまえだ。おまえは特別じゃない。高校という枠組みの中に掃いて棄てるほどいる典型的な一般生徒なんだ。客観的になってみろ。おまえは大マゼラン雲から来たと自称する人間と仲良くなりたいか? 俺はなりたくないね」
しかし、私の怒りはともすれば義憤であった。この場で、冷厳に教え諭してやらなければ、名誉あるわが日本においてひとりの奇怪な変態が世に放たれることになるかもしれないのだ。彼ひとりによって、十把一絡げに同世代の人間が罵詈されてはならない。私は唐突に使命に燃えた。
「あ、こいつは手遅れだ、距離を置こう。ってそうなるだろ、普通。それがまた剣豪って。十三代将軍って。なんだよそれ、阿呆だろ。そりゃ周りから人がいなくなるわけだ。いい加減、客観的になるんだ。目から鱗が落ちて、下手すると身を投げたくなるかもしれないが、そのときは止めてやるから」
材木座は歌舞伎の女形のようにオヨヨとテーブルの上に崩れ落ちた。私は打ちひしがれる材木座を前にひと仕事終えた気分になって、ふうと息をついた。これで彼の高校生活も少しは有意義になるかもしれない。迷える子羊を導くというのは、つらいながらも達成感に満ち溢れたものだ。ああ、これほど良い仕事をしたのはいつぶりであろうか。
私が救世主のような慈しみの表情を湛えていると、窓から視線を離した比企谷が気の毒そうに口を開いた。
「おいおい。その位にしておけよ。鱗が落ちる前に死んじゃうぞ、心弱いんだから」
「うん。まあこの辺で止めとくが、材木座。これはあくまでもおまえのためを思ってだな」
「だったらもう少し言葉を選んでやれよ。直接的過ぎるだろ……」
「言い過ぎたかな。しかし霞のような慰めを言う気はないぜ。事実だもの」
比企谷は少々呆れながら言った。
「雪ノ下もそうだが、おまえも大概だな」
「なんだよ、何が言いたい?」
「いや、別に。ただ、おそろしく痛ましいおまえの未来が視えただけだ」
「おいおい、比企谷くん。どういうことだい? だったらこのまま材木座を放っておいてもよかったと?」
「うむ、まあ、いいんじゃね?」
「……うん。じつは俺もそう思う」
私は逡巡した結果、おもむろにそう返した。すると比企谷はぷっと吹き出して、私も「えへへ」とはにかんだ。そこはかとなく解散の雰囲気が漂い始め、私は伝票を確認した。
「よし、いい具合に和んだし帰ろうぜ」
「だな」
私と比企谷が鞄を持って立ち上がろうとすると、机に頭をのせてときおり震える以外はおとなしく打ちひしがれていた材木座が、急にがばっと起き上がった。
「ではお主たちに聞くが、我がマトモになれば友人が100人作れるのか? 女の子と仲良くできるのか? 班分けで余ることはなくなるのか? 答えたまへ!」
「お、おい、その話はもう終わったぞ。さっきのはちょっと言い過ぎたから、そうぷりぷりするなよ」
「そうだぞ材木座。お前はお前のままでいいんだ。そのままピリオドの向こう側まで突っ走れ」
材木座は我々の
「嫌であるぞ我は! 凡俗に成り下がるのであればそれくらいの見返りがなければ! 保証してくれるのであろうな? なあ!? なあ、お主たちッ!」
「うわ、うっざぁ……」
「落ち着くんだ材木座。まずはそのメロンソーダを一杯飲んで」
材木座はメロンソーダを飲み干すと、眼鏡の奥の目をぎらぎらと輝かせて私と比企谷を交互に睨みつけた。爛々たる双眸を持ち出して気色ばんだところで材木座は材木座であり、ちっとも怖くはなかったのだが、迫力だけはあったので、私は真剣に保証しうるのか考えることにした。材木座がこれまで汚い汁をまき散らして犠牲にしてきた一年間と数ヶ月、それを嘲笑うかのように築き上げられた同級生たちの絆、現在の客観的な材木座の評価とこれから育まねばならぬ交友関係、その難易度、容姿、性格、運、ダサい手袋、それらを総合的に分析してみたところ、大した時間はかからなかった。というより、瞬時に答えは導き出せた。比企谷ははなから考える気などなかったらしい。コーラを飲みながら涼しい顔をしている。
私は慎重に、しかし断固として材木座に告げた。気休めを言うつもりはなかった。
「できない。こればかりはできないんだなあ。……だが逆にだ、これまで棒に振ってきたんだ、一年と言わずに卒業まで立派に棒に振ることが出来ることを保証しよう。大丈夫、俺たちがついている」
材木座は奇天烈な呻き声を上げてわなわなと震えた。そしてそのまま机に突っ伏した。
「そう落ち込むなって。もしかするとちょっぴり先に大人の階段を昇ることがあるかもしれないけど、それまではおまえのことはしっかり見ててやるつもりだから」
「いいから、そういう余計なことは言わなくていいから」
我々はやっとのことで悄然とする材木座を立ち上がらせ、会計を済ませた。レストランから出ると、材木座は今までの落ち込みが嘘だったかのように不敵な笑みを浮かべた。
「なーーる、なーーるである。そういうことかお主たち。我とずっと一緒に居たいのであればこそ出た失言だったということであるな。フハハハッ、いいだろうッ! 路傍に果つるその時まで共に歩もうではないかッ! これより先、我らに隠し事はなしであるぞ。忌憚なき忠言を分かち合い、清廉潔白に茨の道を進もうではないかッ!」
材木座は大袈裟な身振りでそう言うと、私と比企谷の前に手を差し伸べた。
「変なスイッチ入っちまったじゃねえか、どうすんだよこれ」
比企谷はぼそっと私に呟いた。私は「まあ、いいだろ」と答えて、面倒な弱音がぐちぐち吐かれる前に乱暴に手を重ねた。比企谷はしばらく濁った目をさらに混濁させて眺めていたが、事態の収拾を優先させたのか苦笑すると仕方なしといった感じに手を重ねた。
ここに青春のかほりが絶望的に見当たらないむくつけき円陣が組まれた。そしてそれは円とは名ばかりの歪な三角形であった。
「ディメンションドライバーッ!」
「おお……」
材木座のすこぶる快活な叫びは薄暗い夕闇に溶け、続いて甚だやる気のない男二人の声がその後を追っていった。
◇
比企谷の住処を訪ねると、玄関の戸を開けたのは意外にも小柄な可愛い少女であった。てっきり沼の底から這い上がってきたような人間が顔を出すと思っていたため、私は不覚にもビックリして後ずさってしまった。すぐに妹さんだと気がついた私はしどろもどろに比企谷の在宅を尋ねたが、明らかに不審であった。怪しいものではないことを説明しようとさらなる挙動不審に陥りかけた私を、しかしながら、妹さんは気軽に家に上げてくれた。あまりにも気軽だったことから、妹さんの貞操を危ぶんだほどである。
居間に通された私は大きなソファーに座らされた。妹さんは鼻歌交じりでお茶を淹れてくれている。私はクラスメイトの家にお邪魔したことなど小学生以来であり、こちこちに緊張していた。
「もうすぐ帰ってくると思います」
台所から妹さんがそう言った。どこか楽しげな声である。続けて比企谷に買い物を頼んでいるということも笑いながら教えてくれた。私の口は火星表面のような乾燥地と化しており、言葉を返すのにひどく苦労した。
私が大胆にも比企谷の家を訪ねたのには3つ理由があった。
ひとつは住所を知っていたことである。これは以前、川崎さんの依頼を遂行したのちに比企谷兄妹と同伴したことに由来する。帰り道が同じであったことから、仲がよろしい兄妹を尻目に気まずい時間を過ごした私は、そこで比企谷宅の住所を知ったのである。
もうひとつは、丁度そのときの帰り際、妹さんからぜひ遊びに来てくださいと誘われていたことが挙げられる。そのときは、真に受けていなかったし、妹さんの顔もまともに見ていなかった。
最後は比企谷家の事情であり、私の便宜のためであった。比企谷から聞いたところによると「両親が共働きで基本的に夜遅くまで兄妹ふたりで過ごしている」らしく、クラスメイトの両親と言葉を交わすという私にとって高すぎるハードルをクリアする必要が省かれていたことは最後にして最大の理由だ。よもやそんなことになれば、私の表情筋は愛想笑いの状態で壊死することだろう。想像しただけでも神経的な胃痛に襲われる。
ともかく、以上のような理由から私は大胆な行動に出たのであった。
「どうぞ、粗茶ですが」
「いやはや、これはご丁寧にどうも」
妹さんはテーブルにお茶を二つ並べると、あろうことか私の隣にちょこんと腰を下ろした。そうして朗らかな笑みを浮かべて、純粋無垢な顔を私に向けた。私はやや狼狽したが、ふと妹さんの顔を捉えた瞬間に、次のような驚愕の事実を目の当たりにして全神経の注意がそこに向けられた。にわかには信じがたいことではあるが、妹さんの目はまったくもって濁り腐ってなどいなかったのである。むしろ、滾々と湧き出ずる清冽な泉のように澄み切っていた。なんとも驚くべきことではなかろうか。いかにしてこの兄妹の眼球における差異が生じてしまったのか、そこにはメンデルも匙を投げるような神秘的な法則が潜んでいるにちがいない。遺伝学的大問題である。私はそこに神の戯れを感じずにはいられなかった。
私が長い間目を見つめていたからか、妹さんは頬を薄っすら赤らめた。
「あのぉ、何かついてます?」
「アッ、すいません。いや、そういうわけではなくて。何というか……」
私が今度こそ狼狽していると、妹さんは面白そうに笑った。
「ふふっ。兄から聞いてますよ、理屈っぽくて頭が固くて、妙に馴れ馴れしくってほんの少し面白い人だって」
「はあ、そうですか。比企谷はそういうこと結構話すんですね」
「あ、いや、兄からってワケではなくて、私が強引に聞いちゃう感じですかね」
私は礼を言うとお茶を一気に飲み干した。妹さんは自分のコップを両手で包み込んでちびちび飲んでいる。その姿は小動物のようで、私は素直に可愛いなと思った。こんなに可愛い妹をもちながら、どうして彼は、あれほどまでヒネくれた存在になってしまったのかと心底疑問に思った。根拠は希薄だが、仮にこんな妹がいたら、私は断じて今の境遇に甘んじていることはなかったであろう。繰り返すが根拠は希薄である。
妹さんはコップを机に置くと、にこにこしながら私に話しかけた。
しばらくして、妹さんは唐突にほっとため息をついた。
「けど本当に良かったなぁ……」
妹さんは微かな笑みを口元に湛えて、優しげに目を細めると、コップの底を見つめながらいたわるように続けた。
「良かった良かった……ずっと友達がいなかったお兄ちゃんに遊びに来てくれる人が出来て。……お兄ちゃん、ぼっちでも全然問題ないみたいなこと言ってたし、実際それで悩んでるようなこともなかったから、特に気にしてなかったんですけど……それでもやっぱり嬉しいです」
妹さんは時折、言葉を詰まらせてその度に「あははっ」と笑っていたが、そのとき目元を拭うのを私は見逃さなかった。
「お兄ちゃんって全部一人で背負い込むようなところがあるんです。それって心を許せる人がいない、相談できる人がいないってことなんじゃないかなあって思うんですよ。たまには私に相談してくれるんですけど、全部ではないんですよね、やっぱり。だから……だから本当に嬉しいです。あの、良かったらこれからもお兄ちゃんと仲良くしていただけませんか? お願いします」
妹さんはそういって私に頭を下げた。
私は、川崎さんの依頼のために赴いたファストフード店で彼女が語ったことを思い出していた。もしかすると妹さんは、自分のせいで比企谷は友達を作ることができなかった、と思っているのかもしれない。一人寂しく家で過ごしていた自分のために、自分より先に帰って待っていてくれるようになった兄。それは嬉しい反面、どこか申し訳なさが付きまとうものであったのかもしれない。だからこそ今、こんなにも兄のために真心を砕いているのだろう。だからこそ本当に嬉しいのだろう。
私は一瞬そう思おうとしてみたが、やはりどうしても不可能であった。妹さんよ、比企谷は決して君のために友達が作れなかったワケではないよ。彼はどんな道を選んでいても今のようなありさまになっていただろう。
私はそんな言葉をかけてやりたくなったが、真心に水を差すのは道理に外れていると思い、少し潤んだ目をした妹さんに笑いかけた。
「いえ、僕の方こそ仲良くしていただいているので。それでも僕のような不束な男でよければこれからも仲良くさせていただきます」
むろん、心にもない虚偽の言辞である。あくまでも妹さんのためであり、仲良くしてやっているのは私であって比企谷の方ではない。私はいたいけな少女のためとあらば、自己を欺瞞することも敢行して厭わない男なのである。
私がそう言うと、妹さんは花が綻ぶような笑顔を見せた。
「ありがとうございますっ! ふふふ、それじゃあ私とも仲良くしてくださいねっ」
妹さんはにじり寄るようにすると、私の顔の下から覗き込むようにしてそう言った。
私はその瞬間、今現在、あまりにも典型的な異常事態を迎えていることにはたと気がついた。夕陽が差し込む虚ろな一軒家で女子とふたりきりという、なんともお誂え向きなシチュエーション。しかも相手はクラスメイトの妹という背徳的オプションつきである。ただの妹ではない、あの比企谷の妹である。これはもう冒涜的といっても差し支えない。複雑怪奇なクトゥルー的様相を自覚すると、目がくらみ意識がなかば朦朧としてきた私は、一度落ち着くためにもう一杯のお茶をお願いすることにした。
それにしても妹さんは無用心に過ぎるのではないか。
年上に憧れがちで好奇心旺盛なお年頃だからといって、誰もいない家に私を導き入れるとは危険である。むろん、私とて無法な暴挙に及ぶような非紳士的人間ではないが、物事には間違いというものがある。何をもってして間違いとなるか青道心たる私にはまだ分からない。分からないが、内的野獣の荒い息遣いに耳を傾ければ、それが犯罪的な、まったく犯罪的な要素を多分に含んでいることは想像に難くなかった。すると、火遊び、責任、追及、転校、迫害、転校、大迫害、引き篭もりという一連の流れが走馬灯のように脳裏を駆けた。とうてい堪えられない半生だと思って、限りなく杞憂に近いにもかかわらず、私はぷるぷると身を震わせた。これでは学校生活だけではない、人生すらも棒に振りかねない。紳士たれ。紳士たれ私よ。先ほどまで緊張からかぐっすりと眠っていたジョニーが不穏な気配をみせ始めると、私は大いに叱り飛ばして、一心不乱に呟いた。紳士たれ、紳士たれ!
このままではいけないと悟り、一時撤退、トイレに籠城して心頭を滅却しようか迷っていたところに、妹さんがお茶を携えて戻ってきた。
「お待たせしました! はい、どうぞ」
妹さんはお茶を机に置くと、再び私の横に腰を下ろした。鼻先にふわっと甘い芳香がにおいたつ。私は外部からの抗しがたい攻撃に、小さく縮こまってしまった。
そんな私と反比例するように、叱責されて縮こまっていたジョニーが己の存在を主張し始めた。「もしかして、出番かい?」とジョニーはおそるおそる頭をもたげようとする。私は「時期尚早、日を改めるがよい」と
私は緩んでいた理性を総動員すると鞭を打って奮い立たせた。ジョニーはまだ年端もいかぬ青瓢箪、長年培ってきた理性が敗れることなどあり得ない。鬨の声を上げろ、いざ行かん、目指すは厠だ!
私は決然と立ち上がった。
「トイレ借りていいですか?」
妹さんはいささか驚いたようであったが、すぐに場所を教えてくれた。
私は小刻みに歩いて居間を抜けると廊下へと出た。情けなくも前かがみになりながら、きょろきょろとトイレを探していると、ガチャリと玄関の戸が開かれた。
「……は? なにしてんのお前」
ようやく比企谷が帰ってきた。
「やあ」
私は引きつりながらも満面の笑みで「おかえり」と続けた。