家賃1万円風呂共用幽霊付き駅まで縮地2回   作:ウサギとくま

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四天王最後の刺客――雅郎(遂に雅夫は吾郎を打ち倒し、その身体を取り込んだ。生まれた者の名は雅郎。人類では再現できなかった古の奥義、縮地を得た初めての人間。そして雅郎は最後の戦いへ赴く)

冷たい水で顔を洗い、エリザが差し出してくれたタオルで顔を拭く。

 

 歯を磨いてから、肩の部分にエリザ作の鯖ワッペンが縫い付けられたジャージにいそいそと着替える。

 

 ジャージ姿の自分を鏡で見る。

 

 

「に、似合わねえー……」

 

 

「そんなことないよっ、辰巳君のジャージ姿かっこいいよっ」

 

 

 エリザはそう言ってくれるが、似合わないものは似合わない。

 

 何というか違和感がハンパない。大学の入学式で生まれて初めて着たスーツよりも似合ってない。

 

 ネットゲームでアニメ作品とのコラボで生まれた、アニメキャラ再現装備みたいな違和感ある格好。

 

 何だかこの姿で外に出るのが恥ずかしくなってきた。が、今更そういうわけにもいかない。

 

 

「はい、ウエストポーチにお水とかタオルとか入れておいたよ。ちゃんと水分補給しなきゃダメだからね? 絶対だよ?」

 

 

 夫のネクタイを締める新妻のような手つきで、俺の腰に手早くウエストポーチを取り付けるエリザ。

 

 こうやって突っ立ったままウエストポーチを着けられていると、何だか自分が外装交換中のラ○ガーゼロになったみたいだ。

 

 

「はいできたっ」

 

 

「ありがとうエリザ。じゃ、そろそろ行くわ」

 

 

「うん。えっと……まだ暗いから気を付けてね? 足元とかしっかり注意しなきゃダメだよ? 車にも付けてね? 変な人には付いて行っちゃダメだよ? それかそれから……」

 

 

「子供か」

 

 

 初めてのおつかいに行くわけじゃないんだからさ……心配しすぎだろ。

 

 何が心配なのか不安げな表情でそわそわ落ち着かない様子のエリザ。

 

 そのまま俺の袖を掴み

 

 

「……や、やっぱり付いて行っちゃ……だめ?」

 

 

 と上目遣いのまま聞いてきやがった。

 

 これには俺の心臓も大ダメージ。ダメージの正体はジャパニーズ『萌え』。萌えはいくら鎧を纏おうとも簡単に貫通して心臓とかの重要機関に直接ダメージを与えてくるのだ。

 

 俺は萌えへの対処法である『マザーノラタイ、マザーノラタイ』を心の中で連呼しつつ、エリザの頭に手を置いた。

 

 

「ごめん。なんていうかさ。エリザと一緒に走るよりも、エリザが家で待ってくれてるって考えた方が、その……なんだ。そっちの方が頑張れる気がするんだ」

 

 

「……そうなの?」

 

 

「多分。ほら、1週間で頑張って痩せないとだし。この1週間だけは本気で頑張らせてくれ。それが終わったら、まあ……一緒にジョギングでもなんでも付き合うから」

 

 

 本当にな。あの雪菜ちゃんのことだから、宣言通り1週間以内に痩せなければ、俺の縄に首を付けてでも俺を実家に送還するだろう。

 

 俺は今の実家を離れた1人……いや、エリザとの2人暮らしが非常に気に入ってるし、このまま続けたい。実家から学校に通うのも面倒だしな。

 

 そして何より、俺がこの家を離れたら……エリザはどうなるんだろうか。それが不安で仕方が無い。

 

 またたった1人で、この部屋で新しく入居してくる人間を追い返す生活に戻るのだろうか。

 

 

 部屋の中にポツンと佇むエリザを想像して、何だか胸が痛くなった。

 

 

「……うん、分かった。辰巳君が頑張るなら……わたしも頑張って我慢する。ほんとはすっごく付いて行きたいけど……我慢するね」

 

 

 エリザは頭に置いた俺の手に触れながらそう言った。

 

 でも……と続ける。

 

 

「も、もうちょっと頭撫でてくれたら……もっと頑張れるかも」

 

 

 エリザがそう言ったから今日はエリザ撫で撫で記念日。

 

 

 エリザが満足するまで頭を撫でた後、俺はアパートの扉を開けた。

 

 振り返ると、いつも大学に行くときと同じく、エリザが玄関マットの上に立ち、胸の辺りで手をヒラヒラと振っていた。

 

 いつもと同じように少し寂しそうな表情で俺を見送ってくれた。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 朝5時過ぎのアパートは人気が無く、非常に薄暗かった。

 

 見慣れたアパートの姿とは全く違い、知らない場所に感じる。

 

 ここ半年で慣れ親しんだホーム感を感じない、圧倒的なアウェイ感が俺を襲った。

 

 そして何よりも寒い。

 

 体の芯まで染み込んで来る寒さだ。

 

 

 このまま「暗いよ寒いよ怖いよ~」と情けない声をあげつつ、バックトゥザホームしたい衝動が湧き上がる。

 

 恐らく俺が出て行って間もなく帰宅しようともエリザは温かく迎えてくれるだろう。

 

 一瞬困った顔をしてから、パッと花が咲いたような笑顔で俺を迎え入れてくれるはず。

 

 そんな甘美な欲望に身を委ねなかったのは、委ねたらそのままだらだらと日々を過ごし、結果この部屋を出ることになってしまう結果が見えたからだ。

 

 今頑張らなければ、期限内に目的を達成することなんてできない。

 

 逆に言えば今だけ頑張ればいいのだ。そう考えると気が楽になる。

 

 

 エリザとの幸せハッピーライフホームを守るため、俺は一歩を踏み出した。

 

 スポーツシューズが地面を踏みしめるサクサクという音がアパートの庭に響く。

 

 

「……しかし寒いな。本当に夏かこれ?」

 

 

 早起きして知ったが、夏でも朝ってこんなに寒いのね。

 

 いつも起きるのは暑さが本調子になる時間だし、夏になってこんな寒さを感じるのは初めてだ。

 

 地球温暖化がどうこうとか騒がれてるけど、アレって本当なのか?

 

 夏なのにこの寒さの前では、ちょっと信じられない。

 

 

 しかし暗い。寒い。人気が無くて切ない。

 

 特に1番最後が問題だ。

 

 交友関係が非常に狭い俺だが、ここだけの話、とても人恋しいタイプなのだ。

 

 常に誰かしらが側にいて欲しいと思ってしまう寂しんボーイ。それが俺だ。

 

 いつも起きてからはエリザと一緒だし、家を出ても大家さんと会えるし、通学中はまあ……イカちゃんが脳内にいてお喋りしてくれる。最近はナーベラル・○ンマちゃんもな。

 

 学校では遠藤寺と一緒だし、遠藤寺が用事で離れてもデス子先輩に会いに行ってるしで、基本的に1人になることが少ない。

 

 だから今、超心寂しい。イカちゃんもまだ寝てるみたいで、話しかけてくれないし、夜行性なのにね。

 

 このままじゃ人恋しさからくる寂しさのあまり死んでしまいそうだ。タツミンは寂しいと死ぬってちゃんとwikipediaにも書いてあるし。

 

 

 いかんいかん。このままじゃダメだ。楽しいことを考えよう。

 

 そうだ。せっかくこんな早起きをしたんだ。

 

 世の中には『早起きは三文の得』ってありがたいお言葉がある。

 

 きっともうすぐいい事があるはず。

 

 具体的には……そうだな。ジョギングを始めたら、同じようにジョギングをしてるスポーツ女子高生と仲良くなって、いずれお茶する関係になったり……とか。

 

 そういうハッピーな展開が待っているに違いない。

 

 

 そう考えたらやる気が出てきた。

 

 庭を歩く足も軽快だ。

 

 そのままアパートの門を出て外へ――といったところで、アパートの門に入ってすぐ横に作られている大家さんの家庭菜園で、何かが動く気配を感じた。

 

 

「ん?」

 

 

 そちらに視線を向ける。

 

 農園の前に立ててある『欲しい方は大家さんに一声掛けてくださいねー』と書かれた看板。

 

 その向こうでもそもそと何かが蠢いている。暗いため、はっきりと姿は分からないが人影だ。

 

 

 もしかして……野菜泥棒か? 

 

 大家さんが汗水垂らして育ててる野菜を泥ップするとか、マジで許されねえな。大家さんが頑張って育てて、俺を含めた皆様にお裾分けしてる野菜を無断で……許せん!

 

 

 大家さんがお裾分けしてくれる野菜は旨い。俺、正直野菜ってそこまで好きじゃなかったけど、大家さんの野菜を食べるようになってから大好きになった。

 

 それくらい大家さんの野菜は美味しい。大家さんが作ってるって考えたら、更に美味しく感じる。

 

 何故か最近、狂ったようにカブばっかりお裾分けしてくるのがちょっと気になるけど……そこはまあいい。

 

 とにかく美味しくて大家さんの愛がたっぷり詰まっているのだ。それを盗むなんて不届き者は完全にギルティーだ。

 

 

「警察……いや」

 

 

 警察が野菜泥棒くらいで動いてくれるとは思わない。というか呼んでる間に逃げるだろう。

 

 だったら俺がやらねばなるまい。

 

 やってやるさ。殺して解して並べて揃えて晒して畑の肥料にしてやんよ。

 

 

「……」

 

 

 俺は今までプレイしたステルスゲーを参考にして、慎重に賊へと接近した。腰を落としつつ、足音が鳴らないようにかかとからゆっくり足を下ろす。

 

 賊は野菜に夢中なのか全くこちらに気づく気配はない。どうやらゲーム内とはいえ、レイ○フと一緒に熊を前に隠密技術をカンストさせた俺のレベルは相当なものらしい。

 

 簡単に手が届く距離まで近づいた。無防備な首が丸見えだ。

 

 よしここまで近づけば、ボタンが表示されるからテイクダウン、周囲に敵兵はいないからそのままノックアウトスマッシュを……いかんいかん、ダークナイト脳落ち着け。ここゴッサムじゃないし、リアルだからボタン出ないし。

 

 

「よし。……一ノ瀬抜刀」

 

 

 俺は指先を揃えピンと伸ばした。手を刀と見立てる構え――手刀だ。

 

 意識を刈り取る形をしているだろう?

 

 これで相手の首をトン! 相手は崩れ落ちるって寸法だ。漫画とかで見たし、上手くいくだろう。多分。

 

 

 俺は手を振り上げ、賊の首後ろに一気に振り下ろし――

 

 

「――へくちっ」

 

 

 という可愛らしいくしゃみを聞いて手を止めてしまった。

 

 くしゃみの発生源は俺ではない。俺のくしゃみはエリザをして「トドの鳴き声みたいで可愛い」と呼ばれるタイプのくしゃみだからな。

 

 この可愛らしいくしゃみは……目の前の賊、女の子のものだ。

 

 

 何となく先入観から、相手は男だと思ってたけど……そうか女の子。美少女泥棒だったか。

 

 

 いや、相手が女の子だからと言って差別してはいけない。泥棒は泥棒だ。捕まえることには変わらない。

 

 まあ、その後の処遇については検討しなおすけども。

 

 男だったら捕まえた後、肉屋のオッサンの店の前に全裸で放置するつもりだったけど、女の子なら話は別だ。

 

 捕まえた後、2人っきりで徹底的な尋問をさせてもらう。壁ドン、肩ズン、股ドン、アゴくい、などなど最先端の尋問を駆使する一ノ瀬尋問術。

 

 一ノ瀬尋問術の結末は罪の告白か、はたまた愛の告白か……。

 

 さてさて、先に相手のハートを盗むのは俺か美少女泥棒か――どっちかな?

 

 

 ん? どうして美少女だって分かるかって? そりゃこんなに可愛らしいくしゃみをする女の子が美少女じゃないわけないだろう。

 

 くしゃみにはその人間の容姿が現れるからな。ブサイクはくしゃみもブサイクだし、美少女のくしゃみは美しい。可愛い女の子のくしゃみは当然可愛い。

 

 ん? エリザにトドのようなくしゃみって言われた俺って……いやいや深く考えまい。

 

 

「……うーん、風邪ですかねー? 夏っていっても朝は寒いですねぇ。もっと厚着してこればよかったです」

 

 

 美少女野菜泥棒は俺が背後にいることなんて全く気づかず、そんな暢気なことを呟いていた。

 

 その言葉に思わずあすなろ抱き(知らない人はお母さんに聞いてね)をして暖めたくなったが、まだまだネタバレには早い。

 

 

 しかし、この美少女野菜泥棒……長いな、略して美少女棒にするか。ん? 美少女棒? なんだそれ。美少女の棒ってお前……女の子にも棒があるの? 不思議!

 

 美少女棒については後でゆっくり考えるとして。この少女の声だ。この声……どこかで聞いたような……。

 

 

「それにしても……えっへっへ。お野菜さんたちも随分大きく育ってきましたねー、これも私が注ぐ愛の賜物ですかねぇ。これを一ノ瀬さんにお裾分けして……あ、あわよくばそのついでにお部屋にお邪魔したりなんかしちゃって! むふふっ……へくちっ」

 

 

 あ、これ大家さんだわ。

 

 暗くてよく見えなかったけど……泥棒じゃなくてウチの大家さんだわ。

 

 

「大家さん?」

 

 

「はいー? いかにも私が大家さんですが、そういうあなたは……一ノ瀬さん?」

 

 

 振り返って現れた顔は、やはり大家さんだった。

 

 いつもの和服にほっかむりを被り、軍手を嵌めて長靴を履き、スコップを装備した――農業仕様大家さんだった。

 

 どうやら野菜を盗もうとしていた泥棒ではなく、農作業をしていた大家さんだったようだ。残念ながら一ノ瀬尋問術を披露する機会は失われてしまった。まあ、妄想の中で美少女クノイチを捕獲してるから、そっちで我慢してもらおう。

 

 

 しかし、大家さんはほっかむりを被ってても可愛いなぁ。

 

 田舎で一緒に農業をしながら慎ましく暮らしたい。田舎で特にやることないから、やることばっかりやって結果、子沢山な生活を送りたい。農家初のサッカーチームを結成してJリーグに殴りこみだ(サッカーなのに殴りこみとはいかに)

 

 

「一ノ瀬さんじゃないですかぁ!」

 

 

 大家さんは膝に手を付き「うんしょ」と言いながら、立ち上がった。

 

 立ち上がったことで距離が近くなり、いつもの向日葵の臭いに若干の土臭さが混じった香りが俺の鼻をくすぐった。

 

 

「あはっ、おはようございます一ノ瀬さん!」

 

 

 早朝の薄暗さが一瞬眩しくなったと錯覚するような笑顔を浮かべる大家さん。

 

 

「どうしたんですかっ? こんな朝早くに? 私、こんな朝早くに一ノ瀬さんを見たの初めてだから、すっごくビックリしましたよっ、あははっ」

 

 

「いや、実は……」

 

 

「ビックリマンならぬビックリウーマンですね! なんちゃって!」

 

 

「……」

 

 

「どうしたんですか一ノ瀬さん! 今の笑うところですよ? お茶の間ドッカンドッカンするところですよ? うードッカーン!って」

 

 

 ……なんだろう。

 

 大家さんといえば元気の代名詞みたいなところあるけど、これはちょっと元気過ぎじゃないだろうか。

 

 しかもこの早朝から、色々振り切った元気具合。声に無茶苦茶ハリあるし。さっきからリアクションがやたらとオーバーだ。

 

 間違って畑に生えていた危ないキノコを摂取したと言われても納得してしまいそうなテンション。

 

 

「いやあ、それにしてもこんなに朝早くから大好きな一ノ瀬さんに会えるなんて、早起きは三文の徳って言葉もあながち嘘じゃありませんね、えへへっ。これはもう三文どころじゃありませんね、500000ペリカくらいの価値がありますよ! 劣悪な地下での労働の後に清清しい地上に脱出、それくらいの感動です! もーっ、嬉しいですっ」

 

 

 嬉しさを体で表そうとしてるのか、シャドーボクシングを始める大家さん。やばい。

 

 何がやばいって分からないのがやばい。

 

 

「まあ、早起きは三文の得って言いましたけど、実際のところ私、早起きどころか寝てないんですよね! 超ウケますね!」

 

 

「え、大家さん寝てないんですか?」

 

 

 俺の言葉に大家さんは片足をぴょこんと上げて、大きく挙手をした。

 

 

「はーいっ。一ノ瀬さん! 徹夜ですよ徹夜! ツバメ返しですよ!」

 

 

 それは哲也じゃ……。

 

 なるほど、徹夜か。それならこのアッパッパーなテンションも納得できる。

 

 よく見ると目のしたにうっすらと隈ができている。

 

 しかしこの危ういテンション、一徹(鈴木ではない)だけとは考えられないな。もっと行ってるはず。

 

 

「大家さん、どれくらいですか?」

 

 

「はい? どれくらい? えっと……学校を卒業してから、ひーふーみー……ということは今年で――」

 

 

「いや年齢じゃなくて!」

 

 

 危ねー。いきなり大家さんの年齢が暴露されるところだった。

 

 誰も大家さんの年齢が明かされることなんて望んでないしな。大家さんみたいな年齢不詳ロリはそのまま年齢不詳を突き進んでいて欲しい。

 

 安部菜々さんじゅうななさいの年齢を明かしてしまった公式を俺は許さない……絶対にな。

 

 

「徹夜ですよ。今日で何日目ですか?」

 

 

「ああ、徹夜の話ですか。えっとぉ……3徹目ですっ、あはっ」

 

 

 何故かピースサインをしながら笑顔を浮かべる大家さん。

 

 これが大家さんの3徹目テンションか……。

 

 

「恥ずかしい話、この間出た新作ゲームが面白くて面白くて。お話は面白いし、○コネちゃんは可愛いしで、つい夢中になっちゃいまして。今、ものすごーく盛り上がってるところなんですよ! この後まだまだ続くだろう展開を考えたら……まだまだ徹夜は続きそうです。わーい! あ、今のは嬉しい悲鳴ってやつです」

 

 

 俺もそのゲームはクリアした。

 

 確かに○コネちゃんは可愛いし、話も面白い。だが最後に関しては……いや、何も言うまい。アニメがどうなるかが見物だ。

 

 

「それにしても一ノ瀬さんがこんな時間に外出してるなんて珍しいですね!」

 

 

「まあ……あはは」

 

 

 果たして何と説明すべきか。

 

 素直にダイエットをするためと説明してもいいけど、何だか気恥ずかしい。

 

 俺が言葉に詰まっていると、大家さんの表情が不審な物を見る目になった。

 

 

「……むむっ。何だか怪しいですねぇ」

 

 

 そのままツカツカ歩み寄ってくる。

 

 

「なーんか変ですねー。こんな時間に、それもジャージで。気になりますねー」

 

 

 眉を顰め、じーっと俺を顔を見つめてくる。

 

 まあ、隠しておいても仕方が無いか。

 

 

 俺はダイエットの件を説明することにした。

 

 

「実は――」

 

 

「いや、待ってください」

 

 

 大家さんはビックバンアタックを発射するみたいに、こちらに手の平を向けてきた。

 

 

「一ノ瀬さんが隠している秘密、私が解き明かしてみせましょう。おばあちゃんの名にかけて!」

 

 

 さっさと説明してもいいが、大家さんが楽しそうなので付き合うことにした。

 

 

「まあ、秘密と言っても、そこまで大したものじゃありませんね。証拠は十分に出揃っています。あり得ない時間に現れた一ノ瀬さん、一ノ瀬さんのイメージからはもっとも遠い服であるジャージを着ている、そして私は徹夜明け」

 

 

 最後のいるか? ていうか俺にジャージって最もイメージからかけ離れてるの? もっと遠い服あるだろ、メイド服とかさ。

 

 

「さて、決定的な証拠が3つ……来ますよ一ノ瀬さん!」

 

 

 まあ、朝からジャージ姿で外出する人間なんて、目的はジョギング以外のなにものでもないだろう。

 

 誰だって分かる。

 

 

 大家さんはビシリと人差し指を俺に向けた。

 

 

「以上の証拠を組み合わせ、私の知識の泉が導き出した答えは――そう! 一ノ瀬さん。今、私の前にいるアナタは――私が生み出した幻!」

 

 

 ババーンと背後に効果音を背負ってそんなことを言う大家さん。

 

 何だか凄いことを言い出しだぞ。

 

 

「フフフ……Q・E・D」

 

 

「いやいやQEDじゃないですよ。なにドヤ顔で言ってんすか」

 

 

「もーっ、何ですかっ? せっかく人が謎解決の余韻に浸ってるっていうのにー」

 

 

「解決してないですから。俺、幻とかじゃないですし」

 

 

「またまたー。幻はみんなそう言いますよー」

 

 

 繰り返し幻じゃないことを力説するが、大家さんは「あなたを幻です」の一点張り。

 

 ここまで強く主張されると俺もなんだか自分が幻のように錯覚して「俺の夏休み終わっちゃった……」とか言いながら感動的に消えてしまいそうになるが、実際のところ俺は現実なので消えることはない。

 

 

「ふぅむ。どうやら答えに納得がいっていないみたいだね、ホームズ君」

 

 

「どのポジションの台詞だよ」

 

 

 俺のツッコミを無視して、推理の過程を説明し始める。

 

 徹夜明けのテンションのせいで、いつも以上にマイペースだ。

 

 

「いいでしょう。ではまず最初の2つ。ありえない時間に現れた一ノ瀬さん、そしてジャージというありえない格好。一ノ瀬さんが日が昇る前のこんな時間に活動するわけありませんし、一ノ瀬さんはジャージなんて着ません。よってその2つから導き出される答えそれは――あなたが本物の一ノ瀬さんではない、ということ」

 

 

 具体的にどうありえないかを考えていない辺り、大家さんの推理がガバガバ過ぎるんですけど。つーか推理でもなんでもねえ。

 

 

「そして3つ目。私が3日目の徹夜明けだということ。徹夜明けの私は愛すべきお野菜さん達に水をあげながら、こんなことを考えていました。『ああ、いい感じに育ってきましたねー。あ、これなんかいい形ですね、一ノ瀬さんにお裾分けしましょう』『んー、朝から1人で農作業も寂しいものですねー。やっぱり誰かと一緒にしたら違うんでしょうね。……今度、一ノ瀬さんでも誘ってみましょうか。2人で農作業……ふ、夫婦みたいですね! 農家の! てへへ』『カブを……もっとカブを育てて……カブ……かみ……』といった具合に私の頭の中は一ノ瀬さんでいっぱいでした!」

 

 

「俺のことを考えてくれるのは嬉しいんですけど、最後の方、俺関係ないですよね」

 

 

「その時不思議なことが起こりました……。徹夜明けでいい具合にバーストしていた一ノ瀬さんでいっぱいの私の脳がこう……なんか……わーってなって、結果――幻であるアナタが生まれたのです!」

 

 

 肝心なところがフワフワな件について。

 

 

「フフフ……Q・E・D」

 

 

「いや、だから――もういいです」

 

 

 俺は諦めた。大家さんは俺が幻であると完全に思い込んでしまっているようだし、俺は彼女を納得させることができる気がしない。

 

 まあ、少し休んで落ち着いたら冷静な思考が戻るだろう。

 

 

 推理後の余韻とやらに浸っていた大家さんは、大家さん曰く幻であるところの俺をジッと見てきた。

 

 

「しかしアレですね。私が生み出した幻ながら……凄いクオリティですね! 本物の一ノ瀬さんと遜色ない出来でびっくりです」

 

 

 そのまま近づいて目と鼻の先に。

 

 そして真っ直ぐ手を伸ばして、俺のお腹の辺りに触れた。

 

 

「ほわぁっ!? さ、触れる……!? ま、幻なのに触れちゃってますよ! こ、これは一体……?」

 

 

 これで俺が幻じゃないと分かっただろう。

 

 

「い、いや、待ってください。きっとこういうことです。幻を生み出した私の脳がこう……ガーってなって、目の前の幻に触れていると錯覚している、そうに違いありません! ブブゼラ効果ってやつですね!」

 

 

「プラシーボな」

 

 

「そうですそれ! いやぁ、しかしリアルとほぼ変わらない幻を生み出すどころか、触感まで再現するとか……我ながらどんだけ一ノ瀬さんを好きなんだって感じだ。正直引きますね……」

 

 

 恋愛的な意味の好きじゃなくても、目の前でこういうこと言われると流石に恥ずかしいな……。

 

 まあ、俺も大家さんの幻を生み出せるくらい大家さんのこと好きだしな。脳内には1人で寂しくないように、常駐型のミニ大家さんとミニエリザが待機してるし。

 

 

「ふむふむ。お腹の辺りはこんな触り心地なんですか。あはっ、ぷにぷにしてますねー」

 

 

「ほっといてくださいよ」

 

 

「いやいや。気持ちよくていい感じですよー。よし、上の方は……」

 

 

 と言いながら、するすると手が這い上がってくる。

 

「ほうほう」と言いながら胸、首元に手が触れる。途中、俺の性感帯であるINS48のいくつかに触れ、体がビクンとなったが、なんとか耐えた。

 

 更に上へ。顔の辺りに触れようとするが、届かない。

 

 

「んーっ、んんーっ。と、届かない……。ちょっと、一ノ瀬さん。いえ、ここは幻にちなんでファンタズム一ノ瀬さんと呼びましょうか。少しかがんでくれませんか?」

 

 

 カッコイイが安直過ぎる名前だ。ここはもっとこう……メキシコに吹く熱風という意味でサンタナ――とかそういうネーミングセンスを魅せて欲しかった。

 

 ていうかさっきからペタペタ触られてるけど、ここまで大家さんに付き合う必要があるのだろうか。

 

 俺を幻だと思い込んでる大家さんが体を触らせるっていう、もう2度と来ないだろうイベントは楽しんでいるけど……。

 

 まあいいか。どうせ時間はあるし、いつもお世話になってる大家さんが満足するまで付き合うことにしよう。

 

 べ、別に大家さんに触られて気持ちいいとかじゃないんだからねっ。

 

 

 俺は大家さんと目線が合うところまでかがんだ。

 

 

「ではでは。はー……男の人の顔って触るとこんな感じなんですねー。私と全然違います。ちょっとカサカサしてますね。保湿は?」

 

 

「いや、特には……」

 

 

「ダメですよ? 男の人でも保湿はしっかりやらないと。今は夏だからいいですけど、冬になったらもっと乾燥しますからねっ。ちゃんとしないと」

 

 

 目の前にある大家さんの肌は、乾燥のかの字も見えないくらい潤っていた。モチモチしてそう。唇もぷるぷるツヤツヤで、この唇を通って声が出てくるんだなあって考えたら、あの可愛らしい声も納得だ。

 

 

 一通り顔に触れて満足したのか、立ち上がるように指示を出す大家さん。従って立ち上がる。

 

 そして大家さんの視線は、再度お腹の辺り……いや、それよりも若干下の方へ向いていた。

 

 

「じー」

 

 

「……」

 

 

 無言でジッと俺の腹部の下辺りを見つめる大家さん。

 

 俺の位置から、大家さんの表情は見えない。何を考えているかも。

 

 

 1分ほどその状態が続いた後、大家さんの右手がそろそろと何かを誘われるかのように前へ伸びてきた。

 

 腹部の下。股間の方へ。

 

 流石に見過ごせない。

 

 

「大家さん。正気ですか?」

 

 

「え、ええ? な、何がですか? わ、私はほら、あくまで学術的興味のもと、ここはどうなってるのかなぁという疑問を持ち行動を起こしているのであって、べ、別に変な気持ちは一切合財全くこれっぽちも微塵もありませんよ? ほんとですよ?」

 

 

 手つきが生まれて初めて下着泥棒を犯そうとしている犯人のそれなんですけど。

 

 

 まあ、大家さんも年頃の女の子だ。異性のそういった部分に興味があるのだろう。

 

 だが、だからといってハイどうぞと触らせるわけにはいかない。

 

 何せその部分はまだ誰にも触らせていないパンドラの箱。中に眠っているのが希望か絶望か、それも理解していないまま開けるのはあまりにも危険だ。

 

 大家さんにとっても、そして俺にとっても。

 

 

「もう1度聞きます。正気ですか? そこはお腹や顔とは違います。別領域です。ベータ版と製品版くらい違います。本当に幻とはいえ、それに触れるつもりですか? その覚悟があるんですか?」

 

 

「……う。あの……ほら、あくまでこれは……その保健体育的な……教科書でしか見たことがないので……そういうことじゃ……ダメですか?」

 

 

 ダメだ。ダメに決まっている。

 

 俺がこの箱を開くとき、それは新婚旅行の初夜だと決まっている。そう古事記にも記されている。

 

 間違っても朝から外で徹夜明けの人間相手に披露するものではない。相手は大家さんという部分に関しては問題ないけども。

 

 

「み、右手が勝手にー……とか? だ、だめですかね?」

 

 

「そういうのは間に合ってるんで」

 

 

 流石に1作品に中二病が2人とか完全に属性が飽和してるからな。何言ってるか分からんけど。

 

 

「……うぐぐ。幻に拒否されてしまった……。た、確かに相手が幻とはいえ、私のキャラである清楚系大家さんとはかけ離れた行動でした。……自重します」

 

 

「それでいいんです」

 

 

 大家さんのキャラは守られた。

 

 これでいい。名残惜しそうな大家さんには悪いが、その箱を開けるには正当な手順を踏んでからにして欲しい。待ってます。

 

 

 さて、大家さんも満足しただろう。そろそろ行くか。

 

 

「じゃ、俺行くんで」

 

 

「え! 行くって……私の部屋ですか!?」

 

 

「違いますよ。ちょっと外に用事があるんで」

 

 

「え? あれ? 私の幻なのに、勝手にどっか行っちゃうんですか? え、ええ? よ、用事って?」

 

 

「ジョギングですよ。ジョギング」

 

 

「ほぁー……ジョギングですかぁ。でもそんなことしたら痩せちゃいますよ?」

 

 

「痩せるためにジョギングするんですよ」

 

 

 俺がそう言うと、大家さんはギョッとした表情で俺の行く手を遮ってきた。

 

 

「ちょ、ちょっとちょっと! 何を言ってるんですか一ノ瀬さん! いやファンタズム一ノ瀬さん! や、痩せるなんて……それ(脂肪)を捨てるなんてとんでもないですよ!?」

 

 

「何なんですか一体」

 

 

「せっかく私が今まで差し入れとかして、頑張って一ノ瀬さんを太らせようとしてたのに……それが全部水の泡じゃないですか!」

 

 

 おい、こんな所に黒幕がいたぞ。

 

 俺がいい感じに太り始めていた原因は大家さんだったのか? 確かに思い当たるフシがないこともない。

 

 差し入れされる食材。俺とエリザに2人で消費するには多いそれらを、腐らせては勿体ないからとエリザが多めに調理をする。結果食卓に並ぶ食事の多さよ。

 

 そして今の俺のボディが出来上がったのか。

 

 

「もう少しで! もう少しで私の理想の体型に……一ノ瀬さん改造計画が成就するというのに……! それを邪魔するのなら、例え一ノ瀬さん本人とはいえ、容赦しませんよ!?」

 

 

 何だか勢いに任せて謎の計画を暴露し始めたぞ。問い詰めたい気持ちもあるが、そろそろ行かないと時間がなくなる。

 

 つーか俺が幻って設定はどうしたのか。

 

 

 大家さんがファイティングポーズをとった。

 

 

「ここを通りたければ、この私を倒し……」

 

 

 優しくデコピン。

 

 

「やんっ。い、いたいですよぉ……一ノ瀬さん。……え、えへへ……一ノ瀬さんにデコピンされちゃいました。も、もういたいじゃないですかー」

 

 

 何故か嬉しそうな大家さん。

 

 まあ、なんちゃってデコピンだから、痛みはないはずだ。

 

 というわけで大家さんの脇を抜けて、アパートの外へ。

 

 

「い、いいでしょう。ここは負けを認めましょう。ですが覚えて置いてください! 例え私が負けようとも第2第3の私が一ノ瀬さんの前に現れ、太らせるということを……!」

 

 

 その言葉を背に、アパートの門をくぐった。

 

 何故俺を太らせようとするのか、一ノ瀬改造計画とは、そしていつ俺が幻じゃなかったと気づくのか。それはまだ分からない。

 

 だがいずれ分かるだろう。そんな気がした。

 

 

「あ、まだ暗いから車には気をつけて下さいねー」

 

 

 アパートの敷地から出た俺の耳にそんな声が届いた。

 

 エリザといい、大家さんといい、どれだけ俺の心配しているのか。嬉しいけども、ここまで心配されると逆に何だかフラグのように感じて怖い。


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