エリザの開発……もとい献身的なマッサージを受けていると、体と心が少しずつ解され、凝った部分を解されることで生じた快感が心地のいい眠りを誘ってきた。
「んんー……しょっと。あ、ここすっごいカチカチだ。ぐにぐにー、どう辰巳君? 気持ちいい?」
勿論気持ちよかったので、そう返事をしようとしたが口を開くとあまりの快感に「らめぇぇぇぇ!」という情けない声が出てしまいそうで、俺は自分の口を手で押さえ込んだ。そんな声を出してしまったら、俺は駄目になってしまうだろう。いろんな意味で。
「……っ」
何か不倫の真っ最中、不倫相手から旦那に電話をかけるように命令された奥様みたいでちょっと興奮する。
口を開かないように必死で耐えつつ、このまま寝てしまったら午前中の講義には出られないので、眠りの誘惑にも抗う。
だが誘惑というのは抗えば抗うほどその濃度を増していくもので、体の中からあふれ出す眠気は限界に来ていた。
そして――プツンと。
俺の中で何かが切れた。決定的な何かが。
決壊した眠気は瞬く間に俺の体を包み込み、俺は穏やかな眠りに身を委ねたのだった。
「あれ? 辰巳君? あ、寝ちゃってる。……えへへ、かわいい寝顔」
■■■
夢の中で目を覚ました瞬間
『ガハハハ! 待ってたぜ坊主!』
と蝶のマスクで顔を隠した肉屋のオッサンが鞭を構えてスタンバってたので、心臓が止まりそうになった。
以前見た夢の続きだ。
ここまで露骨な天国から地獄があっただろうか。
このままだとこの地下室にある特に意味のない歯車を回しつつ、オッサンに舐めるように視姦される拷問を受けることになってしまう。
にじりよってくるオッサンから、逃げようとするも背後は壁で逃げ場はない。
万事休す――そう諦めかけた瞬間、空から眩い光が降りてきた。
その光は神々しく輝き――
『辰巳に酷いことをするのは許さんでゲソ!』
そう言って触手を発射、オッサンを貫いた。オッサンはなんか死んだ。
俺はこの声を知っている。この穏やかで可愛らしいCVは金元――
『……辰巳が無事でよかったでゲソ。最後の最後に辰巳に会えて……よかった』
最後、だと?
何だよ……その言い方だと、まるでもう会えないような、そんな……。
『大丈夫でゲソ。いつだって私は辰巳の心にいるでゲソ。会えなくなっても……一緒じゃなイカ?』
俺は得体の知れない焦燥感に導かれるように光に手を伸ばした。
だけどすぐ側にあるはずの光には決して手が届かず、光の中で微笑む彼女に触れることはできなかった。
俺はゆっくり消えていく彼女の名前を叫び――
■■■
「――はっ!?」
俺は目を覚ました。どうやらエリザのマッサージが気持ちよくて眠ってしまったらしい。
畳にうつ伏せで寝たため、頬に畳の跡が残っていた。
ふと頬に残った畳の跡に触れていると、冷たい物を感じた。
その冷たい物は涙だった。なぜか俺は涙を流していた。よく分からない喪失感が胸の中に横たわっている。
それが何かは決して分からなかった。きっと、その喪失感の正体が分かる日は永遠に来ないだろうと、それだけが理解できた。
「とりあえず起きるか」
今が何時か分からないので、起きてスマホを取ろうとしたが不思議なことにあまり体が動かない。
その原因は俺の背中に乗っかったまま、穏やかな寝息をたてているエリザだった。
「えへへぇ……辰巳君の背中あったかぁい……」
などと言いつつ、背中にしがみ付いているので、上手く身動きが取れない。
しかし決して不快ではない。密着している体から感じる暖かさは心地よく、抱きしめられるという行為は相手からの信頼を感じて精神的な満足感を得ている。
それに背中に柔らかい物が押し付けられる、いわゆる『当ててんのよ現象』をリアルタイムで観測できて学術的にも興味深い。
拘束されているという点でM的な要素も若干満たされている。
あれ? この状態無敵じゃね? 最強スタイルだわ。
このままこの状態を維持したまま一生を過ごすにはどうすればいいかを考えてみたが、その前に絶対に抗えない生理現象に襲われたので、どうやらこの状態を永遠に続けることはできないらしい。超残念。
「おーいエリザー。トイレに行きたいんで、ちょっと離してくれー」
「むにゃんむにゃん……」
「いやむにゃんむにゃんじゃなくて。何だその寝言、かわいいな」
そうではなく。
俺はエリザを起こす為に、体を揺すった。背中に乗ったエリザも揺れる。背中に当たる2つのプリン体も一緒に揺れて、俺の心も揺れ動いた。
だが、エリザが起きる気配は無い。よっぽど俺の背中の寝心地がいいのか、眠りの国から帰ってこない。
そうこうしてる内の俺の生理現象ちゃんもその勢いを増してきた。いつ『尿意――ドン!』とスタートしちゃうか、分からない状態まで来つつある。
「お、おーいエリザ! マジで! マジで起きてくれよ!」
「うへへ……メリーゴーラウンド楽しいね辰巳君……」
かなりの勢いで体を揺らしているのだが、今のエリザにとってはアトラクション感覚でしかないらしい。
「ヤバイよヤバイよヤバイよヤバイ!! ヤバイって!! 本当にヤバイよ コレはヤバイ!!」
焦りによって誘発されたのか、尿意は更に勢いをドンドン増していく。
このままじゃ、エリザを背中に乗せたまま、部屋の中でこの年になって失禁、ポルノ的に言うならジョバっちゃうよ! 俺、ジョバっちゃうよ!
そんな事になったら、目覚めてはいけない性癖が目覚めてしまいそうだ。できれば心の中でじっとしていてくれ……。
「くっ、こうなったら!」
俺は全身に力を入れて、立ち上がった。立ち上がることでエリザが離れることを期待したが、奴さん抱っこちゃん人形みたいに俺の背中から離れない。仕方ないので、そのままトイレに向かう。
そして――
■■■
全てが終わった後、手を洗っている最中にエリザは目を覚ました。
背中に張り付いたまま眠ってしまったことに、照れながら謝罪をしつつ「でもね、すっごく居心地よくていい夢も見たんだ。辰巳君と遊園地に行ってね、それから家に帰って沢山のお花に一緒に水をあげたんだ」とニコニコしながら夢を語った。
花の香り……水をあげる……。
いや、何も言うまい。エリザは幸せな夢を見た。それでいいじゃないか。
真実は時に残酷だが、語られなければそれは存在しないものと同じだ。
その後、昼食を食べた後、夕方にある講義の時間までエリザと遊んだ。
最初は講義をサボるつもりだったが、夕方の講義は完全に出席重視の授業で出席さえしていればテストで下手の点をとっても単位が貰えると、デス子先輩から教えてもらったので、面倒だが出なければならない。
エリザとはオセロゲームをして遊んだ。実家から越してきた時に持ってきた物だ。
昔はよくこれで雪菜ちゃんにボコボコにされたものだ。いくらハンデを貰おうとも、雪菜ちゃんに勝つことはできなかった。最終的に目隠しをした雪菜ちゃん相手に挑んだが、それでも、まあ負けましたね。ボコボコにね。それでも決して手を抜かなかった雪菜ちゃんのそういう所は好きだったりする。
さて、エリザとのオセロゲームの結果だが。
白が7分に黒が3分、繰り返すが白が7分に黒が3分で――俺の勝ちだ。
「ぐぬぬ……」
不満げに頬を膨らませながら、盤面を睨みつけるエリザ。その表情には普段の彼女からは珍しく『悔しい』といった感情が強く出ていた。
「も、もう1回!」
そしてすぐさま、再戦を挑んでくる。
再戦の結果はやはり俺の勝ちだった。俺の名誉の為に言っておくが、別にイカサマをしてるわけでもハンデを貰っているわけでもない。
だた純粋に、エリザがクソ弱いだけだ。そう、びっくりするほど弱い。
俺如きが思いつく罠に簡単に引っかかるし、小学生でも鼻ほじりながら見抜くような見え見えの罠を張って来る。
最初あんまりにも弱いので、俺を哀れんで手を抜いてるかと思い
『見下すな! 俺を! お前は! お前だけは!』
と症年のように激昂しかけたが、何のことは無い。ただ単純に弱いだけだった。
真剣に本気でゲームに挑んで、この強さなのだ。
そして負けると年相応に悔しがって「もう1回!」と何度も勝負を求めてくる。
普段は天使で出来たお嫁さんのような振る舞いを見せるエリザだが、こうやって子供っぽい姿を見せられると素直に微笑ましい気持ちになる。
いつもは見せない本気で悔しがる顔が見られるので俺としても素直に楽しいのだが、あまりに弱すぎるので何度も求められるとちょっとげんなりしてしまう。
「よし、じゃあ終わろうか」
「えぇー!? あ、あと1回! あと1回だけ!」
そう言って破滅していったガチャラーがどれだけこの世の中にいるのか、エリザは知らないだろう。
だが、このままじゃキリがないし、俺も疲れてきた。
「……わ、分かった。じゃあ次、辰巳君が勝ったら、何でも好きなこと質問してもから! だからもう1回!」
「先攻はそっちに譲るわ」
何でも好きなことかぁ。
何聞こうかな、普段じゃ絶対聞けないことを聞くことにしよう。楽しみだなぁ。
今日のパンツの色……は、聞いても意味ないか。さっきマッサージされてる時にも気づいたけど、今日例の日(ノーパンデー)だったわ。
だったら風呂に入ったらどこから洗うか……も知ってるか。足の先から洗うんだよな。ちなみに俺は膝の裏から洗うんだ。クラスのみんなには内緒だよ?
となるといつまでおねしょをしてたか……いや、自分の体のどの部分が敏感……いやいや、異性のどんな部分に魅力を感じるか……駄目だな。間違いなくヒかれるわ。辰巳君きんもーい☆とか言われちゃうわ。
いざ何でも聞いていいって言われても、あんまり変なこと聞くと嫌われるし、これ正直あんまり美味しくないな。
「……ひぅ。また負けた……ぐすん」
質問について考えていると、いつの間にか勝負は決していた。
目の端に涙を浮かべて悔しがっているエリザを見れば、その勝敗は明らかだろう。
がっくり肩を落としているエリザに変な質問をして鞭打つのもアレだし、ここは当たり障りない、それでいて前から地味に気になったことについて聞いてみよう。
「ぶっちゃけ聞くけど……エリザって日本人じゃないよな? どこの出身なんだ?」
「え? それが質問でいいの? 別にそれくらい、聞かれたらいつでも答えるのに」
確かにそうだ。
「うん、じゃあ答えるけど。えっとね、わたしが住んでたのはイギリスだよ」
「イギリス……」
イギリスかぁ。確かにイギリスっぽい美少女オーラ出てたしな。こう何ていうの? 北欧的な? まあ、適当だけど。
しかし、いざイギリスって言われても、具体的に浮かばないな。飯が不味いらしいのと、ヘルシングの本部があって、アナコッポラちゃんの出身地ってことくらいしか分からないな。
それにしてもわざわざイギリスから、どうして日本に来たんだろうか。しかも幽霊ってことは死んでるわけで。死んでから日本に来たのか、それとも日本で死んだのか……。
今更だが、そういったエリザの核心について、聞くタイミングを逃してしまったように思う。
多分会ってすぐの時でも、俺が聞いたらその辺り答えてくれたんだと思うけど……何であの時の俺は深く聞こうとしなかったんだろうか。
必要以上にエリザの事情に踏み込みたくなかったからだろうか。
同居することになったとはいえ、そこまで親しくもない相手からの情報は煩わしいと感じていたのかもしれない。
それに相手に踏み込めば踏み込むほど、距離が近くなって……裏切られた時の辛さが増す。
裏切る。そう裏切られるのが怖いんだ。
過去のあの時の出来事があって、裏切りに対して嫌悪感と恐怖を覚えている。
あの出来事が俺の中に深くにある黒い部分を形作っている。
その黒い部分がいつ無くなるのか、それとも一生付き合っていくのかが分からないが、少なくとも……エリザが裏切ることはないだろう。
エリザなら大丈夫だ。俺を裏切ることはない。
俺は自分にそう言い聞かせた。
■■■
未だ未練がましくオセロボードを見つめるエリザを背に、俺は大学へ向かった。
通学途中、メールが届いた。送信主は――今俺を取り巻く厄介な状況を引き起こしている人物、雪菜ちゃんだ。
震える手でメールを開く。
件名『あと5日』
うひゃー! コワーイ! つーかもしかして、最終日までこのメール毎日届くの? 雪菜ちゃんって暇なの?
いやあの子、生徒会長だし弓道部の部長でもあるし、自分磨きの為に日々の勉強と運動は欠かさないしで、暇なんてことはないと思うんだけど……。
忙しい時間の合間を見つけてこうやってメールを送ってくれている……なんて考えると非常に萌えるのだが、我が妹に限ってそういうことはないと思うので、単純に俺を焦らせる為だけに時間を作っているのだろう。
昨日とは違い、今日のメールには本文があった。
『今日は兄さんが帰ってきた後に過ごして頂くスケジュールを作りました。添付しておきますので、今の内にある程度は把握しておいて下さい』
とのこと。あの妹、完全に俺がダイエットに失敗するものと思っていやがる。まあ、実家にいた頃の俺なら、間違いなく失敗していただろうけど、今の俺には頼るべき仲間がたくさんいる。
雪菜ちゃんの敗因はただ一つ、俺の交友関係を調べていなかったことだ。
とりあえずジュルスケを確認しておこう。
6:00 起床
6:15 朝の体操
6:30 奉仕(調教)
6:45 朝の勉強
7:00 朝食
7:30 奉仕(調教)
7:45 朝の運動
8:00 奉仕(調教)
「な、何だこれは……」
起床してから2時間で既にこの過密スケジュールである。小学生が考えなしに立てた夏休みの予定かよ。
つーか、間に挟まる奉仕(調教)ってなに? 15分の間に何されちゃうの? 奉仕をするの? されるの? それによって大きく意味が変わるんですけど。
こ、こんな分けの分からないスケジュールに従ってられるか! 俺は家に帰らない!
俺は雪菜ちゃんに『トイレに行く時間がない。やり直し』とだけ打ってメールを返した。
するとすぐにメールが返ってきて『吸収性が高く漏れにくい物を用意しているので、夜まで持つ予定です。ご心配なさらず』と書いてあったから、ウチの妹は頭がおかしいんだなぁと、改めて思った。
■■■
大学に辿り着くと、校門の辺りで美少女と遭遇した。
妹から送られてきた恐ろしいスケジュールを見てすっかり拗ねてしまったマイお目目がパッチリ開いた。
「……おや」
美少女はどうやら俺の知り合いのようで、俺を見つけるやいなや、そのムスっとした表情をわずかに綻ばせ分かる人にしか分からない笑みを浮かべた。
全体的に黒が多い、ゴシックロリータな服と赤白のストライプリボンを揺らしながら、ゆっくりだが、先ほどより若干小走りに見える速度で近づいてくる。
美少女は彼女の香り(柑橘系)が漂ってくる距離まで接近してから、アメリカ人がやるような「やれやれ」といったポーズをとった。
このやれやれ系美少女の正体は一体誰なんだ……あ! 俺の親友こと、遠藤寺ちゃんじゃないですか!
「やれやれ、随分な重役出勤だね。もう夕方だよ」
「そういう遠藤寺は今帰りか?」
「まあね。もう暫くいつもの場所で時間を潰して君が来たなら雑談でもしようかと考えていたんだけど、少し用事が入ってね」
「ふーん。あ、遠藤寺、その用事とやらまで、まだ時間ある? 聞いてくれよ、実は今朝の話なんだけどさ」
早速俺は今朝の素敵な出会いについて語ることにした。
俺の超スーパーすげぇどすばいコミニュケーション能力に遠藤寺が俺をリスペクトするか、もしくは妄想甚だしいと可哀想な者を見る目で見られるか……2つに1つだが、どちらにしたって俺に損は無い。
「へぇ、その話がボクの好奇心を少しでも刺激してくれる物なら、とても嬉しいけどね――っと、話の途中ですまない。電話だ」
そう言うと遠藤寺はスカートのポケットから、スマホを取り出した。
一瞬、この間撮られて待ち受けにされた俺の変顔が映った画面が見えて、ちょっと恥ずかしかった。
そんな変顔スマホを耳に当てる遠藤寺。
「――ボクだ。すまないが急用でないなら、後にしてくれないかな? ボクは今、愛すべき親友からとても素敵で愉快な、抱腹絶倒間違いなし、構後世に語り継ぐべき壮大な話を聞くところなんだ」
電話口の相手にそんなことを言う遠藤寺。愛すべき親友って部分でキュンときたが、首が痛くなるくらいの高さにハードルを上げるのはやめてほしい。そんな大した話じゃないのに。
ここは遠藤寺の期待に応える為に、話を盛っておくべきだろうか。そうだな……とりあえずメインの登場人物である美咲ちゃんに漆黒の片翼が生えていたことにしておこう。
「そんなボクの貴重な時間を邪魔するような事情が――なに? 2人目の犠牲者が出た?」
犠牲者とか、どうにも穏やかな話じゃないですね。
スマホから聞こえてくる声に、俺は聞き覚えがあった。この甘ったるいアニメ声のふにゃふにゃした情けない声。
恐らくは遠藤寺の知り合いである女刑事だろう。
妙に事件に巻き込まれやすい体質で、巻き込まれては手に負えずしょっちゅう遠藤寺に助けを求めてくるのだ。今回も恐らくなんらかの事件に巻き込まれて、遠藤寺を呼んでいたのだろう。用事ってのはこのことか。
「確かボクが行くまで、全員部屋から出さないようにと指示を出していたはずだが」
遠藤寺の声が低くイラついたものになる。
「ほう。犠牲者が? 『犯人がいるかもしれない部屋になんていられない』そう言って出ていたった? なるほど……で、君はそれを黙って見ていたのかな? 止めようとはしたがあまりの剣幕に腰を抜かしてしまった?」
表情こそいつもの遠藤寺だが、かなりイラついてるのが分かる。
目がいつもより若干細まって、口角が吊りあがっている。遠藤寺の怒っている姿なんて珍しい。
レアなのでとりあえず写真に撮っておこう。
「何とか立ち上がって追いかけたら、既に犯人に手にかかった後だった、と」
電話口から、泣き声混じりの謝罪が繰り返し聞こえた。
「そうかそうか。今から君の為を思って、かなり酷いことを言わせてもらう。いや、君の許可は聞いていない。では――」
遠藤寺はニコリと笑顔を浮かべた。だが俺と一緒に飲んでいる時とかに浮かべる本当に小さな笑顔ではなく、どこか攻撃的な笑顔だった。
正直怖い。夜中トイレに起きて廊下でこの笑顔を浮かべる遠藤寺と遭遇したら、体中の穴という穴から失禁する自信がある。
そんな笑顔を浮かべたまま、遠藤寺は言った。
「――無能。キミは一体、どれだけ無能なんだい? ボクは何も難しいことを言っていないだろう? ただ暫くの間、集めた人間を部屋から出さないように指示しただけだよ? 犯人に繋がる証拠を探しておけ、怪しい人物がいたらそれとなく情報を引き出しておけ、なんてことは言っていないだろう? ああ、いい。もういい。もう謝罪はいい。君の謝罪は聞き飽きた。耳にタコが出来るのほどにね。いいかい? 今度こそ、ボクがそちらに行くまで、誰も部屋から出すな。1人もだ。何なら支給されてる拳銃で脅すなりなんでもすればいいさ。とにかく……なに? 拳銃を忘れた? ……もういい。知らないよ。誰かが出そうになったら、その無駄にでかい胸でも使って足止めでもすればいいさ。うるさい黙ってくれ。泣いてないで行動しろ。じゃあ切る」
そして遠藤寺は泣き声が止まないスマホを乱暴にポケットにしまった。
先程の攻撃的な笑顔から、自然ないつもの表情に切り替わる。
「や、すまなかったね。じゃあ君の話を――」
「いやムリムリムリ! この流れで俺のそこまで面白くない話はできねーよ! いいから早く行ってやれよ!」
巨乳の女刑事さんが涙を流しつつ遠藤寺を待っているのに、俺のどうでもいい女子高生との出会い話なんてできねえよ。
この流れで「今朝ジョギング中に漆黒の羽を生やしたJKとさあ~」なんて切り出せるほど、俺は常識人をやめてない。
「む。なんだい? 君はボクに君との雑談より、今孤島の洋館で起こっている事件の方を優先しろと、そう言うのかい?」
「そりゃそうだろ。人が死んでねんで!?」
「ああ、そりゃ誤解だよ。死人は出ていない。ただ被害者は体中の体毛を剃られてその画像をネットにアップロードされるだけだよ」
「死んだ方がマシだろそれ……」
何が怖いって、犯人の目的が一切理解できないところが怖い。
俺は必死で遠藤寺を説得した。今、遠藤寺を必要としている人間がいること。俺の話なんていつでも聞けること。探偵としての頑張ってる遠藤寺は素敵、抱かれたい、と。
俺の説得の甲斐もあってか、やっと遠藤寺が折れた。
「まあ……君がそう言うなら、分かった。行く事にするよ。君の教科書に載せるべき、いやモノリスに刻んで宇宙に住む他の知的生命体へ送り届けるべき愉快な話を聞けないのは残念だけど、それは次君に会う時の楽しみにしておくよ」
「お願いだからあんまりハードル上げないで」
もうハードルが上がりすぎて、成層圏を突破している。
「ん。なんだったら君も一緒に行くかい? 使えない無能刑事よりもまだ君の方がよっぽど使える。それに君が傍にいてくれた方が、ボクのモチベーションも上がる」
「嫌だよ。間違いなく俺が酷い目にあうって前の時で学んだわ」
以前、こういった誘いに乗って遠藤寺の事件に巻き込まれたことがある。その時のことはあまり思い出したくない。
ただその時の事件のせいで、ホッケーマスクに対して強いトラウマを抱いた、言えるのはそれだけだ。
「なんだい。まだ前のことを根に持っているのかい? あの時だって、済んでのところでボクが助けに入ったじゃないか。今回も責任を持ってボクは君が守る、必ずね」
遠藤寺のことだから、守護ると言った以上必ず守護ってくれるとは思うけど……でも、怖いものは怖いんだよ!
この恐怖は1度事件に巻き込まれた人間にしか分からない。コナン君の取り巻き小学生は凄いよ……あんだけ事件に巻き込まれて平然としてるとか……。
「つーか、次の講義出ないとヤバイやつなんだよ。悪いけど何言われても、行けないものはいけないから」
「むぅ……そうか。そういうことなら仕方が無い。君が居てくれると推理が捗るんだけどね」
しょんぼりする遠藤寺にちょっと罪悪感を覚えた。
まあ……いつもお世話になってるし、そこまで危なくなさそうなら、付き合ってやってもいいかもしれない。
でも孤島とか洋館、先祖の呪いみたいなキーワードが入った事件はマジで無理。
「じゃあ行ってくるよ」
「心配はしてないけど、まあ気を付けてな」
「ふふっ……ありがとう。ボクの身を案じる君の言葉は素直に嬉しいよ」
そう言って遠藤寺は校門まで歩き、そこに止まっていたリムジンに乗り込んだ。
走り去っていくリムジン。
リムジンに乗るゴスロリ女を見た周りの連中がザワザワしてるけど、先程まで一緒にいた俺のことは誰も見ていない辺り、俺の影ってやっぱり薄いんだなぁって思った。いや、遠藤寺が濃すぎるだけだろうけど。
■■■
退屈な講義が終わり、せっかく大学に来たことだし先輩に会いに行くことにした。
この間会いに行った時は留守だったしな。
たまに会いに行っとかないと、変わり者の先輩のことだし「はて? どちら様デスか?」とかいって忘れられる可能性もないとはいえない。
サークルの部室に向かうと、小窓から見える室内はいつものごとく真っ暗だった。
もしかして今日も留守だろうか。そう思い扉に近づくと――
「――んっ、はぁ……あっ……っん」
そんな水っぽい声が聞こえたので、とりあえず次回に期待することにした。