家賃1万円風呂共用幽霊付き駅まで縮地2回   作:ウサギとくま

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エピローグ(偽)

 

「……んん、今何時だ?」

 

 もぞもぞと布団から這い出て、薄暗い部屋の中、スマホを探そうと手を動かす。

 

「ひゃふっ」

 

 何か柔らか冷たい物(例えるなら冷蔵庫から出して少し経った雪見大福)に手を触れた瞬間、小さな悲鳴が聞こえたので何事かと思ったら、同じ布団に入っていたエリザだった。

 正確にはエリザの雪見大福だった。雪見大福の正体? 雪見大福は雪見大福だろ。それ以上でもそれ以下でもない。ちなみに俺はカラメルプリン味が好き。

 

「ひゃふぅ……もう、ダメだよぉたつみくん……えっち……むなむな」

 

「まだ寝てるのか」

 

 珍しい光景だ。朝はいつもエリザに起こされるから、こうやって寝ている姿を見たことがない。

 海亀の産卵シーン並みに貴重なエリザの寝顔を脳内に焼き付ける。エリザは素で可愛いから脳内フォトショップで加工とかしなくていいから助かる。

 どうでもいいが、早く誰でもいいから脳内の画像をDVDにコピーする技術を発明して欲しい。早くしないと俺の脳内HDDが破裂しちゃう。分かりにくい遠藤寺の表情の些細な変化とかをコマ撮りで画像を保存してるからな。容量が足りない足りない。

 

「あった」

 

 ようやくスマホを探り当て、時間を見る。

 5時だった。今日くらいは昼まで惰眠を貪ろうと思っていたんだが、どうやらここ数日の習慣がすっかり身についてしまったらしい。

 

「…………………うーん」

 

 結構長く悩んだ後、今日も習慣通り、ジョギングに行くことにした。

 俺の体にイカのように絡みついているエリザを起こさないように、ヌルリと抜け出す。

 

「あぅ……さむいよぉ……たつみくん……」

 

 抱きつく対象が無くなって手をワキワキさせているエリザが見ていてかわいそうなので、代わりにタンスからイカちゃん等身大抱き枕を出してそっとエリザに渡す。

 

「あ……たつみくんの匂いだぁ……えへぇ……ぎゅぅー」

 

「よし」

 

 どうやら気に入ったようだ。イカちゃんに抱き着くエリザ。イカちゃんの顔辺りにエリザが顔をぐしぐし押し付けてて、いい感じの光景だ。美少女が美少女抱き枕に抱き着く……そういうちょっと特殊なフェチ心が満たされた。はい保存保存。

 エリザを起こさないように、こっそりタンスからジャージを取り出し、もそもそ着替える。

 

「たつみくん……あ、ここ辰巳君の匂いいっぱいする、えへへぇ……」

 

 エリザがイカちゃん抱き枕のイカちゃんの唇辺りにスリスリ顔を擦りつける。何故かどうして全く不思議だが俺の匂いがその辺に集中しているらしい。イカちゃんにエリザがチュッチュしてて、朝からこんないいもん見せてもらって……今日って元旦か何かだっけ? もしくはクリスマス? とにかくめでたい日だ。エリイカ……そういうのもあるのか。イカエリだとエリ〇ベートバートリーちゃんのエクストラクラス(フォーリナー)みたいだな。エリちゃんにイカ……襲われてる光景しか浮かばんな。

 

 そうこうしている内に、ジャージに着替え終わり、適当に顔も洗った。

 洗面台に顔の水滴を垂らしたまま、タオルを待っていると、いつもタオルを渡してくれているエリザが寝ていることを思い出し苦笑する。

 エリザに頼り過ぎだ俺。

 3分くらいタオルを探し、何とか発見。顔をグシグシ拭う。タオルにしてはいい匂いだったので、変だなぁと思ってると……エリザのパンツだった。ま、ラブコメあるあるですよね。

 

「じゃ、行ってくるよエリザ」

 

「行ってら行ってら……ねむねむ」

 

 寝ている状態でもちゃんと見送りの挨拶もしてくれる辺り、エリザは本当に優しいなぁ……ただ、朝から服を全部脱いでるのは正直どうかと思うよ。人間だったら確実に風邪ひいてるよ。

 エリザに布団をかけて、部屋を出た。

 

■■■

 

 部屋を出てまだまだ薄暗い外に出る。

 最初の頃は心細いし何か寒いし人もいないしで、好きなじゃなかったこの光景もすっかり慣れたものだ。 

 軽く上半身のストレッチをしながら、ゆっくり公園に向かう。

 

 いつもの公園に辿り着くと、いつものように美咲ちゃんがそこにいた。

 

 

「――あ、お、お疲れ様ですっ!!! 一ノ瀬先輩! おはようございますです! おっす!」

 

 

 公園に足を踏み入れた俺を見るや否や、駆け寄って来て体育会系っぽい挨拶をしてくる美咲ちゃん。

 

「先輩が来るまでにちゃんと地面慣らしておきました! おっすおっす!」

 

 バッバッと格闘技っぽい挨拶(お腹の前辺りで両腕をクロスするあれ)をする美咲ちゃん。

 ふと公園の地面を見ると足跡の1つもないほど、綺麗に慣らされていた。ブランコの辺りにはよく野球部とかが使ってる整地ローラーが。

 

「……お疲れ様」

 

「っす!」

 

 バッバッバと例のアクション。

 

 美咲ちゃんだが、この間俺が大学生(としうえ)だと判明して以来、こんな体育会系対年上行動をとるようになってしまった。

 最初こそ今まで経験したことのない絶対的先輩としての地位をそれなりに楽しんでいたのだが、やっぱり美咲ちゃんはあのちょっと遠慮がないくらいの距離が近い関係が懐かしい。

 ぶっちゃけ、辰巳って呼び捨てにして欲しい。年下JKに呼び捨てされる貴重な機会を失うなんて耐えられない。泣きそう。

 精神的な距離感もそうだが、物理的にも距離が出来た。常に1歩引いてるというか、2メートルくらい距離がある。

 

「あのさぁ、美咲ちゃん」

 

「あ!? ご、ごめんなさい! っす! 朝ご飯まだですよね! パン買ってきます! えっと一番近くのあんぱんが美味しいパン屋さんはまだ開いてないから……隣町のパン屋さんに行ってきます! 5分待っててください! っす!」

 

 とか言い出してノーモーションから最高速で走りだそうとするから、俺は慌てて腰のあたりに飛びついた。

 

「スッタァァァプ! 待った待った美咲ちゃん! 止まって止まって!」

 

「うおおおおおおッ!!!」

 

 一瞬で時速0㎞から500㎞の最高速まで加速した美咲ちゃんは俺を引きずったまま、公園の外に出ようとする。……爆殺シューターかな?

 

「待って待って! 美咲ちゃんストップ! ステイステイ!」

 

「よぉし……あそこの電柱を蹴って吉山さんのお家の屋根に登って、その後小池さんの家の中を通って行けば……」

 

 パン屋への最短ルートを呟く美咲ちゃん。やばい。このまま腰にしがみついてたら死ぬ。多分、途中で小池さんの零したラーメンを被って火傷死ぬ。もしくは電線に引っかかって虹〇形兆みたいに感電死する。

 この先生きのこるには……

 

「止まれストップウェイト! ――お座り!」

 

「わふっ!」

 

 正直美咲ちゃんって動物で言ったら犬っぽいよねぇ(八重歯的な意味で)と思っていた事から発言したが、どうやら効果があったようで美咲ちゃんは急停止した。その場で屈みこむ。慣性の法則で俺はゴミ捨て場(燃えるゴミは月・水・金)に突っ込んだが、ラーメンによる熱死や感電死するよりはマシだ。

 

「はい先輩! 何でしょうか! わん!」

 

 ゴミ置き場から這い出る俺を忠犬の様に待つ美咲ちゃん。

 その目からは年上からの命令なら何でも聞きますワン……的な忠誠心を感じた。

 恐らくは年上の命令には絶対従うよう部活の先輩にそれはもう厳しく躾けられたのだろう。

 

「ゴクリ……」

 

 きっと美咲ちゃんは年上からの命令なら何でも聞いてくれるだろう。

 ん? 今何でもって言った? 言ったさ! 

 例えば俺がJKにやって欲しい……体操服を着てプロレス技をかけて貰うとか、図書室で騒いで眼鏡をかけた美咲ちゃんに説教されるとか……あとあと! 授業中に居眠りしてたら放課後になってて、夕暮れの中委員長である美咲ちゃんが残っててくれて「やっと起きたの? ほら、戸締りするから残ってたの。さ、帰ろ。……と、途中まで一緒にね」みたいな! な!? おい! おいこら!? 文句あんのか!? やんのか!? ……落ち着け俺。

 

「あのさ、美咲ちゃん」

 

「はい、何ですか先輩! っすっす!」

 

 キラキラした目で俺の言葉を待つ美咲ちゃん。あー、これはもう洗脳されてますねぇ。先輩からの理不尽な命令を聞くのが気持ちよくなってる顔ですねぇ。

 でもなぁ、やっぱりなぁ……前の方がいい。

 

「――そういうのやめてくれ」

 

「へ?」

 

「いや、だからそういう……先輩! っす! キャオラッ! みたいな?」

 

「キャオラとかは言ってな、言ってないですけど」

 

 やっぱり俺は以前の美咲ちゃんがよかった。ちょっと幼馴染っぽいくらい距離感が近い美咲ちゃんがよかったのだ。

 

「え、えぇ……でも、一ノ瀬先輩は年上だし。年上のいうことは絶対だし、年上は神様だし……先輩の言うことを聞かないと壺に閉じ込められた状態で山登りをさせられちゃうから……」

 

 ちょっと何を言ってるか分からない。

 とにかく美咲ちゃんは年上……先輩相手には絶対の忠誠を誓ってるわけだ。……うーん、薄い本が熱くなりそ(炎上的な意味で)

 

 さて、美咲ちゃんとの関係を以前の状態に持っていくにはどうすればいいか。

 うーん、美咲ちゃんはかなり頭が弱いから上手く論破すれば元通り、いやそれ以上まで持っていけるはず……。

 遠藤寺に相談すればいい知恵を……ってバカか俺は。何を遠藤寺に相談しようとしてるんだ。最近の俺、遠藤寺に頼り過ぎ! google先生じゃねーんだぞ?

 自分で頭を使わないと。うーん……よし。

 

「あのさ、俺って年上だよね」

 

「う、うん。大学生様にあらせらり……られ……らりるれろ?」

 

 首を傾げる美咲ちゃん。

 普段使わない言葉を使おうとしているせいで、呂律が回っていない。

 

「大学生様? ……ま、まあ確かに年上だから先輩だ。でもな……ことジョギングにおいては……違うよね?」

 

「へ?」

 

「だからジョギングでは美咲ちゃんの方が先輩だよね? だって、俺つい最近ジョギング初めてわけだし。美咲ちゃんは?」

 

「えっと、えっと……うん、あたしは……幼稚園に入ったころから、走ってたよ」

 

 思ったより歴史が長かった。園児がジョギングしてる光景とか想像できない。

 ヨクサルの漫画かよって思った。

 

「つまりことジョギングにおいては、俺よりも美咲ちゃんの方が先輩というわけだ。俺の方が後輩」

 

「え……う、うん」

 

「美咲ちゃんにとって俺は人生の先輩だけど、俺にとって美咲ちゃんはジョギングの先輩なわけ」

 

「え? え? ん? 一ノ瀬先輩は先輩で、私も先輩? は? え? あ、あぅ……」

 

「俺そんな難しい事言ってる?」

 

 目をグルグルさせて頭を抱えだした美咲ちゃん。

 このままだと美咲ちゃんの頭がフットーしちゃいそうだ。

 

「先輩、せんぱい。私がせんぱいで辰巳もせんぱい、せんぱいとせんぱいでせんぱいがいっぱい……あわわ……」

 

「ちょ、ちょっと美咲ちゃん。落ち着いて」

 

 ちょっとヤバイ感じの美咲ちゃんの肩を揺する。

 

「そう難しく考えなくていいって。とにかく……お互い譲歩しよう」

 

「じょう……ほ?」

 

「そう譲歩だ。俺たちはお互いに先輩なわけだ。俺も美咲ちゃんの事を先輩って呼んでいい?」

 

「む、無理無理! わ、私年下なのに先輩なんて呼ばれたら、頭がおかしくなっちゃうよ!」

 

 どうなってんだこの子の頭は。

 

「だったら俺は美咲ちゃんの事をこれまで通り、美咲ちゃんって呼ぶよ。だから美咲ちゃんも俺の事を辰巳って呼んでくれ」

 

「せ、先輩を呼び捨てなんか出来ないよぉ!」

 

 目をグルグル回したまま、涙目になる美咲ちゃん。

 俺は「最後まで聞いてくれ」と手の平を突き出した。

 

「だからこれからは……辰巳先輩、と」

 

「辰巳……先輩?」

 

「そう。美咲ちゃんは俺を先輩って呼びたい、俺は美咲ちゃんに辰巳って呼ばれたい……お互い譲歩すれば、こうなるけど。……どうかな?」

 

 これは一種の賭けだった。

 やはり美咲ちゃんの頭がクソ頑固で「いくら先輩って付けても下の名前で呼ぶなんて実際シツレイ!」と許容しないのなら、仕方がない。甘んじて受け入れよう。これ幸いとアレコレ命令してどこまでやっちゃっていいのかギリギリのラインを見定めるイケない遊戯に耽ろう。

 だが……

 

「辰巳先輩、辰巳先輩……う、うーん。これだったら……まあ、セーフ?」

 

「セーフ?」

 

「う、うんセーフ、だと思う。……うん! セーフセーフ!」

 

 美咲ちゃん何度も頷きながら眩しいくらいの笑顔を浮かべた。

 

「辰巳先輩! あははっ。いいね、これ! しっくりくる! あ、いや、しっくりきますね!」

 

「敬語禁止」

 

「で、でもぉ……」

 

「下の名前で呼んでるのに、敬語使うの変だろ?」

 

 何が変なのかは分からないが、今の美咲ちゃんにならウッホウッホとゴリ押しが通じるはず。

 

「そ、そっか……変、だよね。う、うん分かった!」

 

「よかったよかった」

 

 やっぱりゴリ押しはジャスティス! 辰巳、ゴリ押し好きぃ! ゴリザードリィも好きぃ!

 

 テンションの上がった美咲ちゃんは、楽しそうに俺の手を握って上下にブンブン振った。

 さっきまで滅茶苦茶壁を感じてたけど、すぐにこれだ。美咲ちゃんの距離感ってば超極端。

 つーか痛い。やっすいプラモデルみたいに肩パーツが取れそう。

 

「ほんとよかったー! 先輩って呼んで苗字でも呼ぶとやっぱり先輩だなぁって感じですごく先輩っぽいけど、先輩って呼んで下の名前だとあんまり先輩っぽくなくて……なんか、こう――親しみやすい!」

 

 大丈夫かこの子。

 

「とにかく安心したよー! ほんとはね、一ノ瀬先輩って呼ぶの凄く辛かったんだ。せっかく男の子の友達が出来たのに、先輩になっちゃったら距離が凄く出来た気がして……でも、辰巳先輩。うん、この呼び方だったら今まで通りいける! こう……先輩でありながら、友達みたいな? その、なんていうか、あれ、ほら……親しみやすい?」

 

「美咲ちゃんマジで語彙貧だな」

 

「ありがと!」

 

 えっへっへと笑う美咲ちゃん。褒めてはないが、もう褒めてる扱いでいいや。

 褒められて機嫌のいい美咲ちゃん。尻尾があったらブンブン振っていそうだ。

 

「じゃ辰巳先輩! えへへ……辰巳先輩っ! 今日も頑張って行こーう!」

 

 元気のいい掛け声と共に、いつものジョギングを始める。

 

 こうして俺は年下JK相手に下の名前で呼ばせつつ先輩とも呼ばせる、禁断の呼称を手に入れたのだ。

 先輩と呼ばれ若干尊敬の念をくすぐられつつ、フレンドリーな雰囲気もある。こんなチートや……無敵だ……敵が無い……最高……最も高い……俺は今、高次の存在となった……フフフ……。

 

「辰巳先輩っ! ちょっと遅れてるよ、もう!」

 

「へへ……すいやせん」

 

 いいなぁこれ! さっきまでの絶対年上服従的な雰囲気も少し惜しいけど……その何十倍もいいわ!

 年下のJKに下の名前で呼ばれつつ、先輩とも呼ばせる……そんな超特殊な状況(ガチャ)を引き当てた俺は、もしかすると一生分の運を使ってしまったのかもしれない。

 でもいいさ、こんな素敵なイベントを経験できるんだったら一生分の運くらい。

 

 いや……そういえば、この後、一世一代の勝負があるんだった……ヤッベ。

 

 

■■■

 

 

 いつも通り美咲ちゃんとのジョギングを終え「ファイトだよ! 辰巳先輩! 今日まであたしと頑張ったんだから、絶対痩せてる! 妹ちゃんを倒せるよ!」という可愛らしい後輩からの応援を受けつつ、帰宅。つーか別に雪菜ちゃんと戦うわけではないんだけどな。……そんな恐れ多い。

 

 アパートへの帰宅中、スマホが震えた。

 また雪菜ちゃんの精神攻撃か……と身構えたが、相手は遠藤寺だった。

 

『おはようございます。今日はダイエットの成果発表日でしたね』

 

 例によって何故か文章だと敬語になる遠藤寺に苦笑する。

 

『今日までの君の頑張りはボクがよく知っています。きっとうまくいくでしょう。というか、うまく行ってもらわないとボクが困ります。既に今日の夜、お気に入りのお店に予約をとっています。お祝いをしましょう。君が成功することを信じて待っています。早く来てくれないと、先に飲んでしまいますので、可能な限り早くお願いします』

 

 俺の予定も聞かずに勝手に予約を……いや、行くけどさ。

 

『今日の夕食はいらないとメイドのタマさんに伝えているので、君が来てくれないとボクは今日の夕食を抜くことになってしまいます。大切な友人を餓死させたくないなら、必ず来てください。最悪、ダイエットに失敗してても来てください。ほとぼりが冷めるまで、ボクの家に匿いましょう。それでは――頑張れ親友』

 

 以上、遠藤寺からのメールでした。

 遠藤寺の家にお泊りかぁ……いやいや、ちょっとダイエット失敗してもいいかなとか思っちゃったよ!

 あかんあかん。エリザを1人にするわけにはいかん。遠藤寺の部屋ってどんなのかなぁとか、遠藤寺って寝る時どんなパジャマなのかなぁとか、ぶっちゃけメイドさんに会いたいとか! そんな事を思うな! いや、思うくらいは自由か。

 

 ほわんほわん遠藤寺との同棲生活を妄想しながら、アパートに戻る。

 遠藤寺宅で朝起きたら、寝起きでちょっと油断したのか寝間着であるネグリジェをはだけさせた遠藤寺とエンカウントして……とか妄想しつつ、自分の部屋の扉を開けた瞬間、何者かが俺の腰辺りに突っ込んできた。

 

 ――既にラグビー部の刺客が!?

 

「く、口で勘弁して下さいっ!」

 

 想定外のエンカウントに尻を押さえ慈悲の言葉を叫びながら腰を見る。

 そこにいたのは屈強なラガーメン……ではなくエリザだった。

 涙目のエリザが顔をあげる。

 

「よ、よかったぁ……た、たつみくん、朝起きたらいなくて、もういなくなっちゃったのかって……ぐすっ、思って……ひぅ」

 

「ご、ごめんエリザ」

 

 書置きでもしておけばよかったと今更後悔。

 昨日知ったはずだ。エリザが誰よりも孤独を恐れていることを。1人なるのを怖がっていることを。

 なのに俺の……バカ! 辰巳のバカ! もう知らない!

 

「ほんとごめん。マジでごめん」

 

「ふぐっ……すんっ……」

 

「何でもするから許してくれ」

 

 俺の言葉にエリザがしゃっくりをするみたいに泣き止んだ。

 

「……じゃあ、お部屋まで抱っこして」

 

 ジョギングで疲れてる俺に抱っこ求めるとか、エリザちゃんマジで駄々っ子。

 でもやっちゃう。泣いてる女の子と初見のバル〇トスには勝てねーからな。

 

「では失礼して」

 

「お姫様だっこがいい」

 

 おひめ……さま、だっこ?

 あの、少女漫画とかでよく見る、あの? 恥ずかしいやつ?

 現実に存在してたのか?

 

「いや、俺、爵位ないし騎士でもないから……」

 

「お姫様だっこ! ロイヤルお姫様だっこ!」

 

「なにそれわかんない」

 

 ともかくやらないとエリザの気が済まないようなので、エリザの肩下あたりと膝の下に手を入れて持ち上げる。

 びっくりするほど軽い。この幽霊は体重が軽いぜ……。

 

「はわっ」

 

 一気に持ち上げて驚いたのか、エリザが俺の胸の辺りをギュッと掴む。

 

「……えへ、えへへぇ」

 

 そのまま顔を押し付けて来る。

 耳からうなじにかけて肌が赤くなっている。

 

「すんすん……あ、いい匂いがする……」

 

 俺の汗がいい匂い……だと……?

 もしかすると幽霊を引き寄せる特殊なフェロモンでも出てるのか?

 試しに俺も匂ってみよう。

 うん、臭い! 死んだ土竜の臭いがする! 吐きそう! 

 

「じゃあ、このまま部屋に戻るけど」

 

「うん。……ごめんね辰巳君、わがまま言って。嫌いにならないでね」

 

 エリザは俺の胸に顔を押し付けたまま、小さな声で言った。

 嫌いになるかならないかで言うと……ちゅき。こんなんでわがままとか言っちゃう、謙虚なエリザちゃんいっぱいちゅき。

 つーかエリザはもっと俺にわがままとか言うべきだ。それくらいの権利はある。

 

 そうだ。今度、エリザを連れて外に遊びに行くのもいいかもしれない。

 買い物とかは行ったことあるけど、普通に遊びに行ったことないしな。エリザくらいの女の子がどんな場所を喜ぶか分からないけど……幸い知り合いに女の子は多い。参考までに彼女たちに聞き取るのがいいだろう。遠藤寺……はないか。デス子先輩、いやいや大家さん……聞くべき相手がちょっと特殊で参考にならんな。

 

 

■■■

 

 

 エリザが作った朝食を食べる。

 いつもと変わらない朝食だ。いつもと変わらない朝食をいつもと変わらず何気ないお喋りをしながら食べる。

 朝食後もいつもと同じく過ごした。

 洗濯物を畳んだり、部屋の掃除をするエリザを眺めながらインターネットをする。

 たまにエリザが画面を覗き込んできて「これ面白いね」と笑う。最近ハマってるバーチャルユーチューバーの動画を一緒に見て「私もユーチューバーやってみようかな」と言ったので「エリザの場合、バーチャルじゃなくてゴーストユーチューバーだな」みたいな下らないことを言って、笑いあう。お気に入りだった可愛いバーチャルユーチューバーの動画視聴中に中の人が――映ったような気がするが幻だ。のらきゃっとちゃんに中の人なんていねーし。ほんとだし。ほ、ほんとだし……。

 

 そんなどうでもいい時間――でもきっと大切な時間を過ごしていると……タイムリミットが来た。

 

「……っ」

 

 スマホが震える。

 雪菜ちゃんからの電話だ。

 楽しい時間から現実に引き戻され、冷や汗が流れる。

 スマホに伸ばす手が震える。

 もしダメだったら、今日までの頑張りが無駄だったら……そんな恐怖で手が震える。

 

 その震える手を冷たくて柔らかい手がそっと握ってくれた。

 

「大丈夫だよ辰巳君」

 

「エリザ……」

 

 そばにエリザが居てくれる。それだけで手の震えが止まった。

 大丈夫、俺は大丈夫だ。例えこの先に待っているのが絶望だとしても、俺の心は折れない。

 いつも側にいてくれるこの優しい幽霊の少女がいる限り。

 

 スマホを耳に当てる。

 

『どうやら逃げずに家にいるようですね』

 

 電話越しにでも伝わる、冷たい声だ。雪菜ちゃんの声。

 この声で話しかけられるとゾクゾクする。

 

「何で家にいるって分かんの?」

   

『発信……いえ、電話口から聞こえる生活音で分かります』

 

 今、発信がどうとか……発進? 出撃? あっ、ラグビー部の出撃……。

 

『さて兄さん。逃げずにいたことは褒めてあげます。まあ、別に逃げてくださってもよかったんですが。そちらの方がずっと楽しめそうですし』

 

 ほんと俺を追い詰めるの好きだなこの子。

 前世は狩猟民族かな?

 

『ではさっさと本題に入りましょう。これから兄さんがいつものように写真を私に送ってきます。そして私が兄さんの健康状態を把握します。そこで私が定めたラインを下回ったなら……即実家に戻ってもらいます。そして私の徹底した管理の下で生活して頂くことになります。起床から就寝まで私が作ったスケジュール通りに、完璧な生活を送って頂きますので』

 

 雪菜ちゃんが定めるライン。

 1週間前の時点から3㎏痩せる。それも真っ当な手段で、ということだ。

 

『管理、支配、服従……フフフ、素敵な言葉』

 

 若干うっとりしたような口調。

 前世は管理職かな?

 

『当然、トイレに行く時間も決まっています』

 

「人権! 生存権! 人として最低限の! トイレくらい好きに行かせろや! 膀胱炎になったらどうすんだよ!」

 

『安心して下さい。既にオムツは購入済みです』

 

 よかった。これで多い日も安心だな。

 

『ちなみに体重ですが、売り払った臓器の分ははきっちり計算しますので、悪しからず』

 

「売ってないし。これからも腎臓ちゃんには2人で頑張ってもらうし」

 

 腎臓ちゃんは2つで1つ。どちらが欠けてもいけないのだ。

 1つだと唯の臓器だが2つ揃うと炎になる! コーチが言ってた。

 

『では早速写真を――失礼』

 

「え、どうかした?」

 

『いえ、兄さんを連れ戻す為に集まってもらった優しいラグビー部の方々が少し騒がしくて』

 

 よくよく耳を傾けると、何やら複数の男たちの騒めきが聞こえる。

 え? マジでラガーメンいんの? マジで呼んでたの?

 ここだけの話、俺を怖がらせる為の雪菜ちゃんの小粋なジョークって可能性も考えてたんだけど……そうか、本当にラグビー部が俺を襲いに来るのか……。

 貞操帯とか買っとくべきだったな。もう遅いけど。

 

『皆さん、少し静かにして頂けませんか? ……はい? ええ、最初に言った通りです。連れ帰る際、多少乱暴に扱っても問題はありません。できれば手足は使える状態で連れ帰って欲しいのですが。トイレやお風呂が面倒ですし。……まあ、最悪、私が面倒を見ましょう』

 

 いや、まだまだ家族に下の世話されたくないんですけど。あの冷たい目と言葉でお世話されたら、マジで開けちゃいけない性癖(とびら)が開いちゃう。

 

『はい? ええ、そうです。A? B? C? どこまで行ってもいいか? よく、分かりませんが……AでもBでもCでも、Zでもお好きにどうぞ』

 

 ゼェェェェット!?

 

『はい。最悪、妊娠さえしなければ問題ありません』

 

 今理解不能な発言があったんだが。

 俺は一体何をされるの? 

 

『……失礼しました兄さん。周りが騒がしくて』

 

「いや、いやいやいや……え? マジで? マジなの? マージ・マジ・マジ・マジーロ?」

 

『兄さん、あまり頭の悪い言葉を使わないでください。では電話を切るので、早く写真を送ってください』

 

 そう言って雪菜ちゃんは電話を切った。

 

「……」

 

「終わった? だ、大丈夫辰巳君? すごい汗かいてるけど……」

 

 無言で立ち尽くす俺に、エリザが話しかけてくる。

 

 気が付けば足元に水たまりが出来るくらい汗をかいていた。もしかすると汗だけじゃなきかもしれない。

 これ失敗したらマジで逃げないといけないヤツだ。恥も外聞も捨てて、本気で遠藤寺に匿ってもらわないと。マジで一ノ瀬辰子になっちゃう。標識とか武器に使いそうだな。あ、あとタグに『TS』って入れないといけなくなるわ。

 

「も、もうダメだぁ……おしまいだぁ……」

 

 先ほどまでの勇気はどこにやら、たった1本の電話で俺の心は折れかけていた。

 

 

■■■

 

 

 いつも通り着替えて、写真の準備をする。

 体重は計らなかった。もし体重が規定に達していなかったら、その時点で逃げてしまうと思ったからだ。

 約束を破った上で逃走なんかしたら、雪菜ちゃんは絶対に許さないだろう。世界の果て、いや別の平行世界に逃げても俺を追い詰めて、死ぬよりも酷い目に合わされるはず。

 

「頼むエリザ」

 

 俺は覚悟を決めて、スマホを構えるエリザの前に立った。

 軽快なシャッター音が響く。

 

「で、出来たよ辰巳君」

 

 エリザからスマホを受け取り、撮られた写真を見る。

 特に変わったところのない写真だ。例によってこの部屋で死んだ魚やら野菜が映った心霊写真ではあるが、それ以外は特に変わらない。いや、俺の背後に見覚え無い褐色美少女がピースしながら映ってるけど……誰だコレ? まあいいか。

 

「うーん」

 

 ダイエット前……1週間前の写真をスライドさせ、比べてみるがやはり変わったようには見えない。

 

 これはもしかするとダイエット失敗か?

 いや、3kg減らせばいいんだよな? 3kgって意外と少ないし、見た目じゃ分からないのかも。

 でもガンプラの『HGUC1/144デンドロビウム』が確か3kgだったはず……3㎏って結構あるな。

 

「うーん……南無三!」

 

 ええいどうにでもなれ!と画像を雪菜ちゃんに送信。

 最悪、この瞬間にラグビー部の面々が突入してくる可能性もあるので、脱出経路――窓枠に足を掛ける。

 

 しかし……暫く待っても、ラグビー部が突入してくることはなかった。

 

 雪菜ちゃんからの返事もない。

 

 電話を掛けてみる。

 

「も、もしもし俺だけど」

 

『……』

 

「おーい雪菜ちゃん」

 

『…………』

 

「せ、雪菜さん? ……せっちゃん」

 

『その呼び方はやめてください』

 

「ゆっきー?」

 

『次にその呼び方をしたら、兄さんが大切にしているお人形さんたちをお隣さんの子供に全てプレゼントします』

 

「やめてぇ!」

 

 お隣さんの子供、死怒(シド)君はおもちゃを魔改造して楽しむヤベー糞ガキだ。

 実は結構仲良かったんだけど、俺が前にあげた貧乳キャラをエイ〇ンに出て来るキャラ並みの魔乳に改造しやがった時から袂を別った。

 あんな糞ガキに俺の大切な子供たちを渡すわけにはいかない。

 

「えっと……返事がないから、どうしたのかなって。え、どうなの? ダイエット失敗? 成功?」

 

 言ってからゴクリと生唾を飲み込む。

 失敗なら即座に逃走しなければならない。何なら『しっ――』くらいで逃げ出さないと間に合わないかもしれない。

 

 

『……成功です』

 

 

「え?」

 

『ですから。成功です。ええ……1週間で、3kg、いえ3.5㎏……減量していますね』

 

「マジで!?」

 

 思わず聞き返す。『……なーんちゃって。USODEATH。さあ、ラグビー部の皆様――おいきなさい』みたいな俺の心を折りに来るフェイントだったらどうしよう。その作戦は成功だ。だってこの喜ばしい瞬間にそんな事言われたら反動でマジで心が折れる。その場で崩れ落ちる自信がある。

 

『何度も言わせないでください。確かに規定の体重を減量しています』

 

「シッ!」

 

 拳を空に突き上げる。

 成功だ……今日までの俺の頑張りは無駄じゃなかった。

 嬉しい。頑張ったことが無駄にならないのが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 

『ありえない……こんなの、ありえない……』

 

 スマホからブツブツと呟く様に雪菜ちゃんの声が聞こえる。

 小さい声だ。蚊の羽ばたきのような、囁く声。

 

『ただ体重を落とすだけなら、食事を抜けばいい。……でも、この肌艶、表情、髪質……適度な運動とバランスの取れた完璧な食事をしっかりとっている。そして精神的な負担、ストレスを何ら感じていない……健全で適切で無駄のないダイエット。あの兄さんが? まさか、ありえない……嘘です……こんな……私がいないと自分の体調すら管理できていなかった兄さんが……』

 

「も、もしもーし」

 

『誰か協力者が? いや……それこそあり得ない。ここまで完璧な管理、ずっと何よりも兄さんの事を優先して考えていないと出来ないはず。兄さんにそんな相手が現れるわけがない。もし仮にそんな存在がいたと仮定しても、あの兄さんが、あれだけ酷い経験をした兄さんが他人をそこまで許容するなんて……私以外の……』

 

 電話口だからか、彼女の声が小さいのか、よく聞こえない。あと後ろのラグビー部がマジでうるせえ。

 

「ちょっと! 聞いてる?」

 

『……ああ、なるほど。そういう事ですか』

 

 溜息を吐きながら言う雪菜ちゃん。

 

「何が?」

 

『これは夢でしょう? ただの夢。だってそうじゃないと、あの兄さんがこんなお手本のようなダイエットを成功させるなんてありえませんから』

 

「いや、夢じゃないけど」

 

『いえ、夢です。……ふぅ、私とした事が少し焦りました。しかし、夢は深層意識を映し出すとも言いますが……私は兄さんに帰ってきてほしくない?』

 

「だから夢じゃないってば。おーい、聞いてる?」

 

 何やら見当違いの考察を始める雪菜ちゃん。

 この子、ちょっと思い込みの激しいところあるからね。小学生の頃、誰に吹き込まれたのか「パイナップル食べると舌がビリビリするのは、発電しているからです!」とか謎の主張をして、周りに吹聴するわ自由研究の課題にするわ、その研究があまりに見事で周囲を納得させるわ……思い込みの激しさには定評がある。

 まあ発電云々を吹き込んだのは俺なんだけど。それは別のお話。

 

「雪菜ちゃんや。リアルのお兄ちゃんとお話しようぜ」

 

『何をやっているんですか兄さん。夢だったらいつものように、さっさと私の目の前にワープをしてきて好きなだけ頭でも撫でたらいいんじゃないですか? いつもみたいに少し強めに抱き締めればいいでしょう。全く……夢の兄さんときたら本当にいつもいつも、私が身動きできないのをいい事に……』

 

 完全に夢だと思っているなこれ。

 つーかなに? 夢の中の俺ってそんな事してんの? 羨ましい! 俺だってそんな事したの子供の頃だけだぞ!

 

 しかし、このままじゃ埒が明かない。痺れを切らしたラグビー部が襲い掛かってくる可能性もある。

 

「雪菜ちゃん。ちょっと自分の頬を抓って」

 

『兄さんの分際で私に命令をするなんて、まさしくこれは夢。ま、いいでしょう。……いたひ』

 

 雪菜ちゃんの珍しい痛みを訴える声だ。本当に珍しい。

 

「どうかな?」

 

『ほっぺたが痛いんですが。私に何をさせているんですか? ……死ぬまで殺しますよ?』

 

 死ぬまで殺す(深い)

 つーかかなり怒ってるし。何かメキメキ音が聞こえる……スマホの悲鳴かな?

 

「ほっぺた痛いよね?」

 

『ええ、痛いですとも。この痛み、兄さんに65535倍にして返さないと気が済みません』

 

 倍率がカンストしとる……。

 

「それはおいといて……痛いよね。つまりこれは、夢じゃない」

 

『夢じゃ、ない?』

 

「そう。だって現実だし」

 

『…………………』

 

 何かを思案している空気を電話口から感じる。

 

『この痛み、確かに。……癪ですがそのようですね』

 

「つまり?」

 

『信じられませんが……兄さんは真っ当な手段で、ダイエットを成功させた、と』

 

「ということは?」

 

『…………実家への強制送還の話も、無かったことに』

 

「ラグビー部の面子は?」

 

『ラグビー部? …………ああ、ええ。そう、ですね。では解散で、はい』

 

 これで貞操の心配をしなくてよくなる。童貞より先に処女を卒業するとかマジで勘弁してほしいからな。

 

『…………』

 

「どうかした雪菜ちゃん?」

 

『……やっぱり信じられません。もう1度聞きますが兄さん。兄さんは本当に1人暮らしなんですよね? 誰かほかの人間と寝食を共にしている、その人間が兄さんに協力をした――なんてことはありませんよね?』

 

「……うん。他の人間なんていないよ」

 

 そう。他の人間なんていない。幽霊はいるけど。

 嘘は言ってないでーす。辰巳君わるくないもーん。

 

『そう……でしょうね。兄さんと一緒の部屋で過ごすなんて、まともな人間だったら精神が持たないはず』

 

「君の兄さんは神話生物か何かなの?」

 

 流石に幽霊と同居しているなんて気づかれないだろうが、あの聡い雪菜ちゃんだ。俺の発言や些細な変化から、その答えに辿り着く可能性もないとは言えない。

 さっさと切り上げよう。

 

「と、とにかく! これでいいんだよな? 俺、実家に戻らなくて」

 

『それは……ええ、約束ですから。――今回は見逃します』

 

 何やら聞き捨てならない言葉があったぞ。

 

「は? 今回って?」

 

『当たり前でしょう。今後も月1度の写真交換は継続します。その上で兄さんに不摂生を感じたら、問答無用で実家に戻って頂きます』

 

 どうやら、今後もジョギングは続けた方がよさそうだ。

 ちょっと辟易する一方で、美咲ちゃんとの楽しいジョギングを続ける名目が出来たのでやっぱり嬉しい。

 

『…………』

 

「さっきからどうしたの雪菜ちゃん? 他に何か言いたいことあんの?」

 

『……いえ。別に。言いたいことなんて……』

 

「あるだろ、何か」

 

『無いと言っているでしょう。何ですか、分かった風に』

 

「いや分かるだろ。何年兄妹やってると思ってんだよ」

 

 雪菜ちゃんは俺と全然似てない。万人が認めるほど容姿が整っているし、勉強も出来る。運動も人並み以上にこなせるし、教師やクラスメイト達からの人望もある。俺に対する態度や発言で人格面にアレな疑いがあるが、それは俺に対してだけだ。他の人間相手にはお淑やかで優しい。

 そんな同じ遺伝子から生まれたとは思えず何を考えているのか分からないことが多い彼女だが、それでも長年過ごした妹だ。こうやって分かる時は分かる。

 

「何か俺に聞きたいことがあるんだろ?」

 

『……ありません』

 

「……まあ、いいけどさ」

 

 本人が無いと言っているんだから、別にいいだろう。

 

『ではこれで失礼します』

 

「ん。じゃあね雪菜ちゃん。雪菜ちゃんも体には気をつけろよ」

 

『兄さん如きに心配されるほど、落ちぶれていませんので。兄さんこそ通学中の小学生を視姦し過ぎて通報されないように気を付けて下さいね』

 

「そ、そうですね」

 

 既に同じアパートの小学生と一緒にいる所を通報された経験があるけど何か?

 

『……どうしてそこで吃るのか、非常に気になるのですが……まあ、いいです。では――』

 

 そう言って雪菜ちゃんからの通話が途絶えた。 

 ほぅっと安堵を息を吐く。肩の荷が下りた気分だ。

 おっと忘れていた。

 

「……どきどき、そわそわ」

 

 すぐ後ろでエリザが待っている。

 俺は振り返り、エリザに向かって、親指を立てた。

 瞬間、パァッと笑顔の花を満開にさせたエリザが、俺に向かって飛び込んできた。

 押し倒される形で、尻もちをつく。

 

「よ、よかったぁ……! 本当に……よかったよぉ……! これで辰巳君はお家に帰らなくていいんだよね!」

 

 見上げて来る顔が凄く近い。

 薄っすらと紅潮した頬、涙が滲む青い瞳、震える唇がすぐ目の前に。

 

「そうだな。うん、これで大丈夫」

 

「これからも一緒に暮らせる?」

 

 頷く。

 エリザは溜息を吐きながら微笑んだ。

 

「嬉しい……」

 

 目を細め、眩しい物を見るように俺を見つめる。

 ともすれば妖艶とも思えるそんな表情に見入ってしまう。

 

「凄く嬉しい……これからもずっと辰巳君と一緒……考えただけで、胸の中が幸せでいっぱい……えへ、えへへ……」

 

 嬉しいのは俺も一緒だ。

 朝起きてエリザに挨拶をして、大学から帰ってエリザに迎えられて、エリザの顔を見ながら眠る。

 そんな生活が続くと考えるだけで、心が沸き立つ。まるで楽しいお祭りがずっと続く様な、童心を揺さぶる喜びを感じる。

 

「わたし、こんなに幸せなの本当に初めて。辰巳君と一緒に暮らして、幸せなのがずっと続いてて、これからも続くなんて……幸せ過ぎて、消えちゃいそう」

 

「消えるってまた縁起でもない」

 

 本当に縁起でもない。やっと雪菜ちゃんの試練を終えて、これからもこの生活が続く保証がされたのだ。

 そうだ。これからもエリザとの楽しい生活は続いていく。

 いつまで続くか分からないけど、短くはないはずだ。

 俺が大学を卒業してこの家を去るか、それともここを終の住処にして老衰を迎えるか……見当もつかない。

 見当もつかない……だけどこれだけは分かる。

 この部屋で過ごす限り、そこにはエリザがいるのだ。

 例え何があっても、エリザは変わらずそこにいる。

 

 

「これからもよろしくね、辰巳君!」

 

 

 今日一番の笑顔をしっかり記憶に留める。

 きっと明日からもどんどん増えていくだろうエリザの記憶。

 宝石のように輝く綺麗な記憶。

 

 いつか何かがあって俺が彼女の前を去った後、ふとこの宝石を取り出し過去の思い出にふける日が来るのかもしれない。過ぎ去った過去を悔やむのか、それともただ懐かしむのか。今の俺には分からない。できれば、そんな時が来てほしくないと、そう思う。

 

 

 


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