世界が回っていた。
上下の感覚が消え失せ、視界に映る空と地面と水晶の輝きが絵の具のように混ざり合う。
羽虫の如く宙を舞うというのは、想像していたよりもずっと間抜けな体験だった。
浮遊感があったのはほんの一瞬で、次の瞬間には背中から隆起した岩塊に叩きつけられ、肺の中身が根こそぎ口から飛び出していた。
「ご、ふっ......!」
大岩に蜘蛛の巣状の亀裂を刻み、私は地面に転がり落ちる。頭上からは瓦礫が雨のように降り注いだ。
生きている。
外殻を纏ったゴライアスの一撃が届く寸前、盾を斜めに構えて衝撃の大半を逸らした。あの判断がなければ、今ごろ私は大樹の染みになっていただろう。盾を握っていた左腕は痺れて感覚が怪しいが、折れてはいない......たぶん。
震える右手をバックパックに突っ込み、最上級の回復薬を3瓶を取り出しまとめて飲み下す。喉を焼く薬液の苦味。スキル発動状態でミアハ様に手ほどきを受けた特製品だ。折れた肋骨が軋み、元の位置へ戻っていく激痛に口腔内に溢れた血液を吐きながら呻きが漏れる。
「いッでぇッ! い、痛いが…これでまた全力で走れる!」
空き瓶を放り捨てて顔を上げれば、薄闇に染まる18階層の天井で、砕け散った水晶の欠片が星屑のように瞬いている。
美しい光景だ。
その向こうから大地を揺らす足音と、獣の唸り声さえ混ざった無数の気配が迫っていなければの話だけどな。
「さて、休憩時間は終わりだ。労基もへったくれもない世界だが、命を拾うために働くかね」
自身に軽口を叩いて立ち上がる。膝は笑っているが、動く。盾を握り直し、『氷原滑走』で足元の摩擦を殺しながら、森と大平原の境界線に沿って走り出した。
◆
走りながら、ふと気付く。
私の周りには、誰もいない。
モンスターの群れは、私を中心に渦を巻くように集まってくる。
ゴライアスも、水晶から生まれた亜種共も、他の冒険者には目もくれず、ひたすら私だけを追ってくるのだ。
理由は大方、神の力を宿した盾と首飾りのせいか、あるいは......スキルの代償がダンジョンそのものにまで及んだか。
遠巻きに眺める冒険者達の視線が、森の木陰や平原の岩場から痛いほど突き刺さる。
誰も手を貸さない。
誰も声を掛けない。
囮が生きているうちは、敵の牙が自分に向かない。そんな打算が、見ずとも伝わってくる。
慣れている。ああ、慣れているさ。『強欲代償《マモーナス》』のおかげで、私はこの世界に来てから大抵は一人で戦い、一人で帰ってきた。
疎まれるのも、頼られないのも、日常だった。
今さら囮役を押し付けられたくらいで傷付く繊細さなど、もとからありはしない。
自嘲を込めた思考に乾いた笑いが零れた、その時だった。
平原の向こう、モンスターの群れを切り裂くように、白い影が躍っているのが見えた。
ヘスティア・ファミリアのベル・クラネル。
黒い短刀と炎雷の魔法を巧みに使い分け、群がる異形を次々と斬り伏せていく少年の背後を小人族の少女が駆け回り負傷者の移送や武器の回収・補充を行い、赤髪の鍛冶師が大剣で炎の波濤を生み出しモンスターの群れを薙ぎ払う。
桜花たちタケミカヅチ・ファミリアの3人も斧で、刀で、弓で互いの死角を殺し、強化個体へは連携して攻撃を与えている。
リヴィラの冒険者たちも普段は殺伐としたものだが、今この時だけは、誰かが傷付けば誰かが庇い、誰かが転べば誰かが引き起こし、互いの命を支え合う。自分から誰かに助力しなければ、自分の危機に誰からも助力を得られない。危機的な状況だからこそ、リヴィラの冒険者たちは普段の好悪を度外視して戦っている。
その光景に少し、ほんの少し羨望を抱く自分がいた。
ずっと、焦がれていたもの。『仲間がいる光景』。
胸の奥で、何かがどろりとしたものが蠢いた気がした。
――ああ、良くない兆候だ。
私の中で羨望は容易く嫉妬へと変じる。
腹の底から黒い泥のようにせり上がる吐き気。
ミアハ様から教えられた、私の中に在るもう一つのスキル。
『嫉妬怪物《リヴァイアサン》』。
他者を妬めば妬むほど能力が増大し、その代償として判断力が削ぎ落とされていく、厄介極まりない呪いだ。
普段は酒の席での八つ当たり程度で済んでいたが、今、この場には、あまりにも条件が揃いすぎていた。
視界の端がじわりと赤く染まる。
ヘタれていた脚が軽くなる。
槍と盾を握る掌の力が増す。
心臓の音が耳元で早鐘のように鳴り響く。
求めて、求めて止まない、力が湧いてくる……その反面、頭の中の大事な部品が、一つ、また一つと外れていく。
――あの兎小僧や、他の有象無象どもも。ゴライアスの餌にしてやるか?
「......っ!?」
ぞっとして、頭を振る。奥歯を噛み締め、口の中に血の味が広がる。
それでも足は止まらず、いつの間にか私の進路は、緩やかに平原の方へ、ベル・クラネル達の戦場へと逸れ始めていた。
「こんな時でも理不尽な嫉妬を抱くなんてな」
スキルの影響だと自分でも認識していても思考が引き摺られるのは抗いがたい。
私の『強欲』による嫌悪を感じる人達は、このような感覚だったのだろうか?
「ゼノン・ダイシン! そちらではないぞ!」
疾風が、私の進路を断ち切るように割り込んできた。
緑の外套、流れるような金の髪、手には木刀。枝の上から音もなく降り立つ姿は相変わらず麗しい。
「進路を修正しなさい。ゴライアスをクラネルさん達へ当てるつもりか!」
「すまない、すこしジェラってただけだ」
「じぇら…は?」
エルフの美貌が、侮蔑と困惑の中間のような表情に歪む。ああ、いい。その目は実にいい。
美女の罵倒や侮蔑の目で興奮できる性癖を持っていたことが幸いし、嫉妬の侵蝕が和らぐ。
その時、胸元で『神の首飾り《ミアハ・ネックレス》』がじんわりと熱を持った。
ミアハ様の御力が宿る、小さな石の温もり。
それが、軽鎧の上から全身へゆっくりと広がっていく。
せり上がっていた黒い泥が潮が引くように遠ざかり、赤く染まっていた視界に色が戻ってくる。
「……すまない。少し、頭が冷えた。今のは忘れてくれ」
「今は急を要します。貴方は……それは何だ!?」
リューは木刀を私の顔へ――正確には、額のあたりに切っ先を向け、言葉を詰まらせた。
「ゼノン・ダイシン。その額のモノはなんだ!」
「額?」
言われて、左手で生え際をなぞる。
硬い。
熱を帯びた小さな突起が、こめかみの上に一つ、反対側にも一つ、指先に触れた。
どれほど指でなぞっても、髪の毛や傷跡の感触ではない。
「あ〜やっぱり、出たか」
「それは何だ? 何かの呪いか?」
「まぁ、呪いといえばそう言えなくもない、かな?」
『強欲の代償』には、肉体に変化が生じる可能性があると以前から記されていた。
欲望に呑まれれば強欲の悪魔に、欲望に打ち勝てば施しの聖者に。
ミアハ様が記してくれたステイタスに記載された情報は、比喩でもなんでもなくそのままの意味だったようだ。
「まぁ、大丈夫だ。まだ、人間でいられる。たぶん」
「たぶん、ですか?」
「そこは疑問符を付けずに信じてくれると、もっと嬉しい」
リューは小さく息を吐くと、迷いを振り切るように視線を上げた。
「本題に入ります。リヴィラの冒険者達が、平原の東側に集結しました。大規模な魔法の詠唱に入っています。貴方は、ゴライアスをそこへ誘導しなさい」
「つまり、このまま囮を続けろ、ということだな」
リューは声に出さず頷いた。
彼女は、ここで戦う者たちは、私を切り捨てたのだ。自分たちの命と私の命を秤にかけて、迷うことなく、それを選んだはずだ。
私のスキルがそのような判断をさせているのだと思った。
このスキルにより、私はほとんどの他者を心底嫌いにならずに済んでいる。
「……そうだ。皆を生かすために貴方は走りなさい」
言葉の非情さと裏腹にリューの瞳には憐憫の色が混ざっているように見えた。
彼女が言葉にした事実は、彼女の心情を裏切らせているのだろう…と勝手に解釈させてもらうとしよう。
スキルの深度が上昇し、ミアハ様の御加護が薄れてきているのだろう。
「貴女の言葉も判断は、間違っていない。言われたとおりにゴライアスの囮は引き受けるよ」
「貴方は……、怒らないのですか?」
「怒っているさ、多分な」
リューの問いに即答する。
それは間違いなく私の中にある感情だ。これに嘘をつくことはできない。
「しかし、ここで囮として最適な能力を持つのは私だ。自身の適正くらいはわかっているつもりだ」
リューは言葉を失ったように、私の目を見つめていた。
「正直に言います。貴方の存在は、今も不快に感じています。それは変わりません」
「知っている。私のスキルのせいだ」
「ですが」
彼女の声は、凪いだ湖面のように静かだった。
「貴方がここで命を落とせば、私は後悔する。あとからそう思う気がする」
「……は?」
――不覚にも、目頭が熱くなった。
不快と言われた。何度も何度も、数え切れないほど。
けれど、後悔する……自身を惜しむと言われたのは、この世界に来て初めてだった気がする。ミアハ様以外からこんな言葉をかけられるとは思いもしなかった。
「つまり、私にホの字ということか!」
「私の手で死にたいのですか?」
絶対零度の視線と声音が私の淡い期待を両断した。
「おふぅ、ありがとうございます!」
最高の罵倒をもらい、本当にリューの手にかかりたくなる衝動を抑えつつ、感謝を伝える。
リューは額に青筋を浮かべ、木刀を握る手に力を込めた。が、振り下ろすことなく、背を向ける。
「……生きて戻りなさい。まもなくリヴィラの冒険者たちの魔法詠唱の準備が完了します。それまで、持ち堪えなさい」
翡翠色の風が、森の奥へと消えていった。
背後の大地が震える。
振り返れば、巨木を薙ぎ倒しながら、黒い巨人が私の姿を見つけて口を開けていた。
爛々と輝く双眸は、神への憎悪ではなく、もっと別の......私個人への嫌悪に満ちているように見える。
「ああ、お前もか。ダンジョンまで私を嫌うのか。ま、慣れているから傷付かないけどな!」
槍を握り締め、盾を構える。
額の両脇が、じくじくと熱い。
飢えは、まだ満たされていない。
ならば、せめて最後まで派手に踊ってやろう。
私は大きく息を吸い込み、腹の底から叫んだ。
「来いよ、デカブツが!」
咆哮が返ってくる。大地が砕ける。
私は笑いながら、東へ向かって駆け出した。
何年ぶりかの投稿です。原作進行や執筆意欲・心情・環境の変化もあるため、続けられるかは未定です。多くの方には、お目汚しになるかと思いますが、せめて、一段落つけるところまで投稿できればと思っております。