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やっと、追いついた。
やっと、辿り着いた。
その一心で彼女に声をかけていたのだ。
霧切さんと結お姉さま。置いてきてしまったことにほんの少しだけ不安に思いつつ、こちらに背を向けたまま屋上から外を眺める看護師長へと歩みを進める。
「なんで、あなたがここにいるんですか? やっぱりここの管理をしてるのって」
「あの人とは…… ちっとも似てないわね。本当に、昔から」
私の言葉を彼女が遮りながら、顔だけでこちらを向く。
遠くを眺める視線は虚ろで、なんだか今にも消えていってしまいそうな危うさを感じさせた。
「どういうことですか?」
「一緒に来た人たちは、お友達?」
「え、ええ。友達です…… 探偵の」
こちらの質問にまるで答えようとする様子がない。
だが、彼女が屋上の端のほうに立っていることであまり強く刺激することもできない。そこに幽霊のように佇んでいながら、今にも飛び降りてしまいそうな雰囲気を醸し出している。手を伸ばしてもするりと抜け出ていってしまいそうな、そんな危うさだ。
「そう、探偵…… いよいよ決心がついたのね。いいえ、構わない。構わないです。もう10年くらい前のことだから」
「私がやろうとしてること、止めないんですか」
「ええ、結構。結構よ。私も心の整理がついたの。もう、解放されたい。夢の中で貴女に殺されるのは、もう勘弁願いたいし」
夢の中の私はいったいなにをしているんだ……
というか、この人も〝 夢 〟を見ている? 普通の夢ではなく、恐らく私たちと同じ精神に巣食う
この人にとってあの出来事はよほど印象に残ることだったのだろう。
そして私の存在が悪夢に出るほど…… 強く根付いている。
「教えてください。あのとき、なにがあったのか」
すぐそばに答えがある。
だから、私はその場で精一杯の声を出した。
答えの近道だからではなく、そうしなければ彼女がこの場から融けて消えていってしまいそうだったから。引き留めようと、声をかける。
「私は…… あの人を、貴女の父親を愛していました」
ぽつり、零される言葉に驚きはなかった。
そんな気はしていたからだ。だから、私とメイに対応する態度がほんの少し冷たかったのだろうと理解している。
「でも、それは良くないことでした。あの人には、港さんには既に青子様がいましたから。私はね、港さんの情熱が好きになったの。でも、青子様を病から救いたいがために希望ヶ峰の名誉を蹴ったあの人の、その真っ直ぐなところに惹かれてしまった」
語られる言葉は私の知らない父親の、狂ってしまう前の思い出。
初めて聞かされるそれに聴き入って、目を細める。
「私があの人と出会ったのは、この場所に配属されたから…… だからはじめから、青子様に敵うなんて思ってなくて、ただそばで頼れる看護師長として支えられたらそれで良かったと、思っていたのよ」
この人は、父が狂っていく様子をずっと目にしてきたのだ。
愛した人が、手に入らないと理解して思いを告げずにいた人が静かに狂っていくのを。ずっと、見ているしかできなかった。それは、きっとすごく辛いことだと思う。
「いつしか、あの人は青子様を治すために研究をしていたのに、研究をするために青子様を利用するようになっていきました。少しずつ、少しずつ…… 心にこびりついた錆は侵食していった。きっとここにいた人間みんなを蝕んでいた」
閉鎖的な状況下で、同じ精神的な病気を持つ人間が大勢集まっていれば、狂っていくのも無理はない。
父が、希望ヶ峰に入学した上で研究に着手していたならば、こうなることはなかったのかもしれない。
全て、タイミングも状況も良くなかったのだ。
「苦しかった。この想いを言葉にすることは私自身が許せなくて、なのにあの人は、自分が選んだ人を蔑ろにし始めた。だから、あの人の心を占める青子様にも、貴女たちにも嫉妬していたわ。分かっていても、止められないのよ」
「あの日…… ここは火事になりましたね。それは、あなたが?」
「ええ」
いっそ爽やかなくらいに彼女は言う。
屋上から陽を見上げるように、眩しそうにしながら。
「私は、あの人を愛していました。あの人の不利益となることは残したくなかった。あの人が堕ちるとこまで堕ちていたとは知られたくなかった。精神を病んで患者を殺して回った真実は隠しようがない。だから、貴女たちのことだけは、隠させてもらったの」
私に責められるわけがなかった。
あのとき背を向けてメイと出て行った私に、本当の父親を知らない私に、彼女を責めることはできない。
「でも、もういいの。貴女がこうして、帰って来たということは…… 真実を知りに来たのでしょうから。いいわ、貴女の好きにすればいい…… ここの管理は、今私がしているの。録音、しているでしょう。それを持ってどこへでも行けばいい。私のことは放っておいて」
ドキリと心臓が跳ねる。
服の下で握りしめていた録音機器は、今の会話の全てを滞りなく記録していた。
キイ、と扉を開いて霧切さんたちが合流するが、互いに無言のまま屋上に佇む。この均衡が崩れ去ってしまえば、幽霊のように彼女が消えてしまいそうで。
「真実を、公表しなさい。凪ちゃん」
「……」
初めてそう呼ばれた気がする。
私も彼女の名前を呼ぼうとして、愕然とした。
看護師長さんの名前を私は知らない。教えてもらったことが、ないのだ。
幼少期のほとんどをここで過ごしていながら、私はメイの本当の名前も、看護師長さんの本当の名前も、知ることがなかった。その事実に言葉を失う。
「…… あ」
引き留めようとしても、引き留めたくても名前が呼べず、一歩踏み出す。
「私の行きつく場所は分かっています」
やっと体ごと振り向いた彼女は、胸いっぱいに彼岸花の花束を抱えていた。
一筋、頬を流れる涙を見て走り出す。
「待って!」
死ぬ気だ。
この人は、この場で死ぬ気なんだ。
夢日記を書く者たちに共通するように、その一生は自殺で閉じられる。
「待ってよ!」
それだけは、それだけはいけないと、彼女の元へ。
「〝 青篠原 夕子 〟よ、狛枝さん」
「狛枝ちゃん、今なら間に合うよ!」
背後から霧切さんと結お姉さまの声が聞こえた瞬間、私は反射的に叫んでいた。
「行かないで、夕子さん!」
「……」
ほんの少しだけ動きの鈍った彼女に、その隙にと抱きつき、その場に崩れ落ちる。代わりに、ポケットの中から録音機器が飛び出して屋上から落ちて行った。
そうして、ヘリの上で2人揃ってへたりこめば、ギリギリで間に合ったことに安堵してへらりと笑った。
「許さない。ここで死んだりしたら一生許さないから。まだまだ私の知らない父の思い出も聞きたいし、メイにも謝ってもらうんだから」
「貴女は、ずるいわね」
「それに、録音機器も落ちちゃったから、きっと中身もダメになってる。あなたに自主してもらわないと、証拠がなくなっちゃうよ」
安心したように入口の扉からこちらへやってくるお姉さまと霧切さんに目配せをする。すぐに彼女らは警察に連絡を取り始めた。
見届け人の探偵として彼女たちを選んで良かった。本当に良かった。霧切さんの持つ看護師名簿や隠し部屋の鍵らしきものを見ながら、そう思った。
私だけだったら、きっと間に合っていなかった。彼女の名前を呼ばなければ、きっと引き留める時間は残されていなかった。
霧切さんたちが名前を教えてくれたから、引き留めることができた。
「ありがとう、2人とも」
「探偵として、仕事をしただけよ」
「先に調べておいて損はしなかったね。よかったよかった」
屋上に散らばった彼岸花の花束の中で、夕子さんを抱きしめたまま笑う。
「あはは、腰が抜けちゃった」
「ふふ、情けない子」
酷いなー、なんて軽口を叩きながら、遠くから聞こえてくるサイレンに耳を傾ける。
きっと、この後この病院の真実や、私の出生の秘密が世間に明かされることになるだろう。確実にニュースになるし、なんなら昔よりずっと同情を寄せられるかもしれない。周りが騒がしくなるだろうし、父と夕子さんを悪く言う人だって、絶対に出てくるだろう。
そうしたら、私とメイはそれらを否定するんだ。謝ってもらって、そして、彼女を私たちの家に招いて許す。
世間的に許されないことをしたのだとしても、私たちが許す。
許さないでくれなんて言われても、そんなの嫌だね。許してあげる。だって、私捻くれてるから。許してって言われたら許さないし、許さないでって言われたら速攻で許してあげるんだ。
過去に戻ることはできないけれど、未来は創っていけるから。
―― 彼岸花の花言葉は、「再会」「悲しい思い出」「想うはあなた1人」
霧切と、王馬と。才能育成計画の会話より。一部抜粋。
「でもさー、キミが今日探偵の仕事に行ってたのは事実でしょ? それをクラスの違うオレが知ってたのは、事件のほうに関わりがあるから…… そう考えられない?」
「私が今日、終業式を欠席したことさえ知っていれば、探偵の仕事だと推測することは容易だわ」
「まあ、それはそうだね。でもさ、だからってオレが嘘をついてる証明にはならないよね」
「あなたが嘘をついていると言える理由なら、他にもあるわよ」
「へぇ、どういうこと? 言ってみてよ」
「今日私が依頼されたのは、数十年も前に起きた事件の解決なの。今更解決したところで、犯人は捕らえられない…… けれど、被害者の感情はそれでは収まらない。その被害者は末期ガンを患っていてね…… 彼に残された時間はとても少ないの。だから、命があるうちにかつての事件の真相を知りたい…… そう私に依頼してきたのよ。どう? 数十年前に発生して事件にあなたが関わっているなんて、非現実的じゃないかしら?」
「ふーん…… 霧切ちゃんも嘘をついたりするんだね。いかにも本当っぽい話だったけどさ…… 探偵が被害者の背景を軽々しく喋っちゃうなんて…… おかしいよね?」
「でも、それは私が嘘をついている証明になるかしら? もし、あくまであなたの主張が真実だと言うなら…… 私が今日関わった事件について、あなたが知る内容を説明してみせて」
「…… ちぇー、さすが霧切ちゃんだね。そう簡単には騙されてくれないかー。霧切ちゃんにならそのうち、オレの悪事も根こそぎ暴かれちゃうかもねー。怖い怖い」
真実は、そう遠くない未来に公表される。
そのときまで、と。霧切はそっと嘘をついた。