暗闇の中で時計の鳴らす音が反響してうるさく響く。カコン、カコン、と迫り来るような音に耳を塞ごうとして、気がついた。いくら暗闇の中だからといっても、すぐ目の前にあるはずの自身の手が見えないのは明らかにおかしい。カコン、カコン、ヒールのような音が近づいてくる。何も見えない。何も分からない。ただ、音だけが聞こえてきて体を震わせることしかできない。
「…………」
目を開けていても、閉じていても景色は変わらない。耳を塞ぎたくてそこに耳があるであろう場所に手を持っていく。そして、感覚だけがやたらと鋭敏になって、ヒヤリと耳元をなにかが覆う。自分の手だ。そうでなくてはならない。体が動かない。なにか、恐ろしいものに絡め取られたかのように硬直する。金縛りだろうか。それとも、恐怖だろうか。カラカラに渇いた口、ましてや開くことさえできないのに悲鳴があげられるはずもなく、音もなく消えていく。自分の音はなにもかもないのに、あの、カコン、カコン、という音だけは相変わらず響いていて、泣きそうになった。動かない体、動かない顔に涙が流れて頬が濡れる。何故こんなにも怖いのだろう、何故こんなにも近づいてほしくないと感じるのか、正体不明のそれに私は唯一動く心の中で願う。「こっちに来るな」と。
「…ぎ ……」
聴覚だけが刺激され、耳を覆う冷たいなにかがまったく意味をなしていない。
「な…… さま」
一層体ごと包み込んで隠してよ。そう思うと耳元にあったものがわさわさと移動しはじめ、体を覆っていく。そうして何もかもが飲み込まれて、体の感覚が消えた。
「…… ぎさま」
立っているのか、座っているのか、はたまた浮かんでいるのか、なにもかも分からなくなって闇の中に自分が溶けて消えてなくなるんじゃないかと思った。怖い、怖い、怖い、怖い…… 怖い!
「凪様!」
意識が浮上する。目を覚ましたとき、そこにいたのは正しく女神様だった。
「メイ……」
声が掠れて上手く名前を呼べない。酷く汗をかいて、身体中の水分が搾り取られてしまったかのようだ。
「凪様…… ひどくうなされていたようですが…… 水差しを用意しております。水は飲めますか?」
長い黒髪を後ろで緩いおさげにしたメイ子さん。目は充血して赤っぽいが、全体的に黒くて、メイド服に似た看護服を着ていて、いつも私を助けてくれるお姉さん。まだこの人も学生だろう年齢なのにこんなところにいていいのか。そう疑問に感じてしまうくらいだ。
彼女は清潔なタオルを桶の水に浸し、硬くしぼったそれで私の額の汗を拭いてくれている。そして、プラスチックでできた水差しを差し出された。飲めるか? という言葉に頷き、そのまま上半身だけを起こす。一瞬腹から何か余計な物が出て来ていないかなどと心配してしまったが、あれは夢の中の出来事だった。まさか、夢から覚めたと思ったらもう一度一般的な悪夢を見るとは思わなかったし、気が動転している。
「メイは…… 学校とかないの?」
喉を潤してから問いかける。無意識に出た言葉だった。何故こんなことを今訊くのか分からないし、本当は口に出すつもりなんてなかった。だから目を丸くして言葉に詰まるメイ子さんを見て、しまったと内心思う。だが、ずっと訊きたかったことだったので好奇心が理性に打ち勝ち、自分の発言を打ち消す言葉はついぞ口から出ることがなかった。
「義務教育は終えておりますし、高等教育も教えて頂いておりますので問題ありませんわ。高等学校には…… 通っておりません。スカウトが来たこともありますが、全て断りました。ですが、お嬢様…… 私はあなたのそばに居られてとても幸せなのですわ」
戸惑いながらも応えて、それでも彼女は優しい顔で言った。高校生活に憧れはしなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。後悔していないだろうか。彼女の表情は優しげで、そんな風には見えなかった。まったく、そんなことを言われたらなにも言えないじゃないか。メイ子さんはずるいな。たまには叱ってくれたっていいのに。話したくないことをわざわさ言う必要もないのに。どうして彼女はこんなにも優しいのだろうか。どうして私を大切にしてくれるのだろう。
そんなことは彼女にしか分からない。その胸の内を私が知ることはできない。だから私も私の思いを吐露することもなく仕舞う。彼女の優しさが毒のような安心感と僅かな恐怖を生み出していることなど、知られないほうがいいのだ。
「…… そう」
「さ、お召し替えをして、朝食を摂って、歯を磨いたらお勉強の時間ですわ。準備いたしましょう?」
「うん」
真剣な顔になっていた顔が微笑みのために緩み、立ち上がる。メイ子さんは精神的にとても強い。よっぽど大人よりも大人らしい。そう思って、ベッドから降りた。
そういえば、勉強外で医学書を読んでいるときに新たな発見があったのを忘れていた。一般的な勉強の合間に挟んで教えられる応急手当ての詳しい仕方や医学用語。医者になるつもりのない私にとっては覚える必要はあまり感じられない教科だが、そのときの私は別のことに興味を覚えたのだ。
小さく載っているマイナーな病。そこにあった記述には衝撃を受けた。
・さび病
一般的には植物体に起こる病気の呼称。進行すると植物体が汚白色になる。
・ナイトメア症候群
正式名称〝 狂気感染精神性症候群 〟別名〝
あまり広まっていない病気だが、別名の方が有名。由来は発症後、進行が進むごとに髪や肌が白くなることから植物のさび病になぞらえたことから。トラウマや、恐怖心を煽る夢を見ることが特徴づけられている。途中で耐えられず自殺するケースや、耐えても最終的に衰弱死するケースが見られる。トラウマを抱える精神的に不安定な患者が発症するケースが多い。
とにかく、連日続くゆめにっき特有の悪夢の原因は分かった。恐らく、この病院は錆病についてを研究しているのだろう。精神性のものなのだから発症理由はある程度突き止められているのだろうか。そうでなければ、あんなに沢山の錆病発症者がいるのはおかしい。偶然? そんなはずはない。思い当たる節はいくらでもあるし、狂気じみたところが錆病を発症させるためにあるのなら一応納得できてしまう。…… 認めようとは思わないが。
医学書を閉じる。勉強は既に終わっていたが、暇で読んでいたのが幸運だったのか、不運だったのか、こうして原因を知ることができた。まあ、幸運だったとカウントしておこう。
◇◆◇
「おい」
検査と言う名の人体実験が終わり、廊下を歩いているとき突然声をかけられた。なんだかデジャヴだ。声的にもデジャヴ。
「なに?」
バッシャア、と派手な音を立てて水飛沫が上がる。なんてベターな嫌がらせだ。白い髪から透明な水が滴る。しかしただの嫌がらせにしては悪質だ。嗅覚を刺激する臭いと、消毒液特有の臭い。ホルムアルデヒド。所謂ホルマリンの希釈液だ。こんなものを浴びせてくるなんて、禿げたり爛れたらどうしてくれるんだ。
「とりあえず、持ち出したのがバレたらマズイと思うんだけど」
そう言った頃には既に彼は逃げた後だった。曲がり角に消えていく後姿だけが見えた。廊下は走っちゃいけません。
病衣はビショビショ。スリッパも同じく。自分は濡れ鼠。そして今は幼女である。…… なんだろうか、この犯罪臭は。
「メーイー!」
叱ってもらうのは後にして、足早に自室へと帰る。いつもはペタペタと音が鳴るスリッパはペチャペチャと湿っぽい音を立てながら上下し、服や髪から液体が滴り落ちる。早くお風呂に入らないと本格的に禿げるかもしれない。目に入らなかったのは幸いだったが、顔がヒリヒリと痛み引きつっているので早々に処置しなければならない。
それにしても、あの子は開き直ってでもしたのだろうか。殺したいのか? という疑問に対して沈黙していたはずなのだが、そこらへんも吹っ切ったのか? 嫌がらせにしては質が悪いので注意しなければならないだろう。
病室のドアを開けるとき、よく濡れた手がヌルっと滑った。あら、溶けてる。
「はい、できました。」
処置をしてもらって少し。風呂に入ったら殆ど落ちたがやはり手はスベスベになっていて、髪はギトギトになっていた。本格的に洗い流した後だが、あと一歩足りず、暫くこのままらしい。薄い消毒液だったことが本当によかった。はたして、これは幸運か、不運か。微妙だな。まるっと不運にカウントして良いのだろうか。
「それにしても、困りましたね。どうしましょうか?」
メイ子さんが問う。
確かに悪質ではあるが、このことが院長にでも知られればあの子はきっと酷い目に遭うだろうし、あまり表沙汰にはしたくない。
「院長に知られたらきっと大変だから、私が持ち出したことにしておいて。勉強の成果を知りたくて怪我人を探して走ってたら転んで被った。そのくらいでいいでしょ?」
「ですが……」
「ダメ。これは命令だよ」
「……承知致しました」
結構渋っていたが、念押しするように権力を使うと少し悲しそうな、心配そうな表情をしながら無理矢理納得してくれた。事なかれ主義でごめんね。
それから、毎日小さな嫌がらせを受けることになった。アレは流石にやりすぎたと反省したのか、スリッパがお風呂場にあったり、ベッドのシーツが剥がされていたり、すれ違うときに転ばされたり、水差しが壊されていたり色々だ。全部チクチクとした攻撃で、最近私がドジするようになったという噂がつきまとうくらいの可愛らしい嫌がらせだ。橙子ちゃんに会いに行くためのメットが割られていたのにはキレそうになったが、メイ子さんがどうにか宥めてくれて、橙子ちゃんには新たに笛を貰った。地震が多いからと自分に贈られてきたオレンジと白の笛の、その片方を私にプレゼントしてくれたのだ。最近本当に天使なんじゃないかと背中を確認する日々を送っている。今日も翼は確認できなかった。ああ勿論、新しいメットも手に入れることができたので結果オーライだった。
しかし不思議なのはその手数だ。メイ子さん曰く、私が別のところで直接悪戯されているときには既に部屋が荒らされているらしい。それに、私が転ばされたときに見たのは真っ白なツインテールを揺らす女の子だった。だから少なくとも三人はこの嫌がらせに参加している計算になる。
やられているほうとしては年相応の幼稚な嫌がらせから、リミッターが外れているんじゃないかと疑うような派手な嫌がらせまで様々なので飽きもこないが、いい加減鬱陶しい。あと、検査帰りに悪戯されるのが一番よくない。ただでさえ検査でイライラしているというのに、悪戯までされたら大人気なく怒鳴り散らしたくなるのだ。子供だろうって? 精神は枯れてるから大人でいいんだよ。
「そうだ、橙子ちゃんで癒されよう」
京都は遠いが橙子ちゃんの部屋は一階違うだけだ。すぐに行ける。そう思いいたって鼻歌混じりに階段を降り、廊下を渡り、隣の病棟に移る。そして橙子ちゃんの部屋の近くに繋がっている階段を上がり、スキップなんてものをしながら一段、二段。そして一段ずつ上がるのに焦れったくなってきてからは一段飛ばしに。
今日は何を話そう? 翠君のことがあったり、いろいろあって随分久しぶりに感じる。ついこの前に笛を貰ったばかりだというのに。
せっかちな私は最後には二段も飛ばして階段を駆け上がり、異様なジャンプ力を発揮する。からだが軽い…… こんな幸せな気持ちで走るなんて初めて!
もうなにもこわくな
「あ」
フラグを建てたのがいけなかった。
ドンッとまたもやデジャヴを感じる擬音を出して私は宙を舞う。最後の階段を登り切ったそのとき、腕が伸びてきて押し返されてしまったのだ。二段も階段を飛ばして走っていたのでそれはとても簡単だったろう。まさか、夢の出来事が別の形で正夢になるとは思わなかった。内臓飛び散らしはしないだろうが、よくて打撲。悪くて骨折か。
視界がぐるぐる回って一気にスロウモーションになる景色。空を切っていく体が階段の方を向き、犯人の姿を一目見た。揺れるツインテールに七三分け。それに見覚えのあるぱっつん。全員集合かよ、豪華なことで。
にやけるツインテール。
悪い顔をした七三分け。
驚いているぱっつん。
三者三様で大変よろしい。こんな状況じゃなかったら眼福だったろうに。腕から離されたヘルメットが先に落ち、カツーンと音を立てながら転がって行くのを見る。そしてそのまま、私は背中から着地した。
鈍い音と衝撃に、力を入れていたはずの首が簡単に動き頭を打つ。一種のムチ打ちのように首が引きつり、強かに打ち付けた背中の感覚が麻痺する。そして痛みがスッと引き、一息吐いた途端またビリビリと痛み出す体。痛い、痛い、痛い!
頭を打つまいと体を強張らせていたのが幸いして頭はさほど強く打っていないが、体の方はそう上手くいかない。むしろ逆効果で、肘や背中の骨が軋んで悲鳴をあげている。まあ、生きていれば重畳だろう。できれば怪我もしたくないのだが、まあ無理だろう。痛みで辛うじて意識を保っているので再び麻痺したら目の前が真っ暗になりそうだ。とりあえず漏れる呻き声を抑えつつ、助けを呼ぼう。
「……ェ、イ」
だめだ、上手く声が出ない。こんなんでは大きな声も出せない。しかし、すぐ近くに転がっているオレンジ色の笛が視界に入った。痛む体を無理矢理這わせて笛に近づき、フラフラする頭を定めて伏せたまま食らいついた。貧弱な肺活量に加え、満身創痍で禄にできない息を整え、必死に笛を吹く。
そして、功が奏してピィーッと甲高い音が鳴った。
一番最初に気がついたのはやはり、彼女だ。階段上にあるすぐ近くのドアが開く音がする。
「凪ちゃん!?」
ヘルメットの奥にある表情を泣きそうに歪めて彼女はこちらを見ている。そしてすぐさま階段を駆け降りて来て、そばに来た。
「ちょっと、大丈夫!?じゃ、ないよね。こんなとき、どうすればいいのぉ?だ、誰かぁ!凪ちゃんが、凪ちゃんがぁ!」
泣きそうな顔で、時折ゴツンとヘルメットを壁に当てながら人を呼ぶ。階段の上にはもう誰もいない。このままでは彼女が犯人扱いされかねん。私は意地でも意識を失うわけにはいかない。せめてメイ子さんが来るまでは持たせなければ。
「橙子、ちゃん。そばに…… いて?」
「う、うん。誰か、誰か来て!怪我人だよぉ!」
次々と足音が聞こえてくる。燈子ちゃんの声も頭に響くが、これもなかなかだ。しかし、私のことを思って助けを呼んでくれているのだから咎めるなんてとんでもない。多少頭が痛かろうが彼女の涙を増やすわけにはいかない。なんでだろう、さっきまで怪物三人に対してイラついていたところがあったはずなのだが今はとても穏やかだ。あれ、フラグじゃないよね?
「お嬢様!?」
「どうされましたか!」
次々やって来て大声で話しかけてくるものだから「話すから黙りなさい」と言う。痛みはあるが、ずっと伏せっていたので大分楽になった気がする。軋む手を突き、上半身だけを起こす。ついでに橙子ちゃんを犯人扱いし始めている周りを黙らせる。思ったよりも低い声が出てびっくりだ。
「調子に乗って階段から落ちた。その子は関係ない、助けを呼んだだけだよ」
「とにかく、処置致しますのでこちらへ…… 立てますか?」
今更かよ。というかさっきから座り込んで喋ってるのにどうして立てると思ったのか。
「お嬢様!」
メイ子さんの姿が見えて、ふっ、と力が抜けるのが分かった。
「メイ!」
「メイドさん!」
橙子ちゃんも見知った顔なので声をあげる。もう既に泣き始めていてだみ声になってしまっているが、それだけ私を心配しているということだ。嬉しくないわけがない。それに、私の妄想でなければメイ子さんの瞳も心なしか揺れている気がする。
「なぜ誰も担架を持ってきていないのですか!」
メイ子さんは怒り心頭でそう言うと、橙子ちゃんの頭を撫でてから私を抱き上げる。
抱き上げる?
姫抱っこ…… だと!?(略)
長く話してしまった。とにかく、私は鼻血もののイベントにエンカウントしたのだ!怪我をしていなければ美味しかったものを。ああ悔しや。
◇◆◇
そして、無事看病イベントまで美味しく頂いて数ヶ月ほど安静にした。その間も悪戯はきていたようなのだが、家具をずらしたり、寝てるときに鼻を摘まれたり、可愛らしく小憎たらしいものばかりだった。常にメイ子さんがいるので悪戯しにくかったのかもしれない。とにかく、久しぶりに平和なひと時を過ごせた。いつも波乱万丈だって?余計なお世話ですよ。数ヶ月穏やかなだけまだマシだ。
「凪様、どうぞ」
「あーん」
「はい」
暫くはメイ子さんとラブラブして過ごそう。リンゴを頬張りながらそう思った。
・厭忌
えんきと読む。反感、または嫌悪を持つ・感じること。忌み嫌うこと。
・ホルマリン
被ったことは流石にないのでどうなるかは分かりません。とにかく、目に入ったら死ねるだろうことは分かります。あと、溶けてヌルヌルしそう。