劇薬が宙を舞う。
そして、ソレは不運にも手を滑らした加害者へと降り注ぎ、幸運にも助かった私を地獄へと叩き込む。驚く顔。そして、ジュワァと鳴る嫌な音。肉の焼ける臭いが周囲に漂い、次の瞬間大絶叫が病院の隅々にまで響き渡った。
私は勘違いしていた。彼の幸運は今までの日常で起こったもので全てだと思っていたのだ。だけれど、幸運はそんな生易しいものではなかった。それが分かってしまった。
幸 運 が 私 に 牙 を 剥 く。
そして思考停止。
目の前が真っ赤に染まる。なにが起きた? なにがあった? 分からない、分からない、理解りたくない!
「ーーーーっぁぁぁぁ!」
目の前にあるこれはなんだ? 白に赤が斑になっていて、転がっているこれはなんだ? 一時的に耳が聞こえなくなるほどの大音量で叫んでいるこれは、これはなんだ? 何も見たくなくて、俯く。すると目に入る赤、赤、赤。どこにも逃げ場がない。逃げ場? 逃げればいいのか? ここから? あんなに苦しんでいるのに見捨てる? 私が? いやいや、ここは病院だろう。手当する人なんて沢山いる。逃げるか? いや、逃げられない。足が動かない。怖くて、怖くて、震えてしまって固まったように動けない。どうすればいいの? 助けを呼べばいいの? あのときの橙子ちゃんのように。
これはなに? これはなに? もう顔がぐちゃぐちゃで分からないよ。あれが人? そんなわけない…… そんなはずない! あんなものが、私のよく知った、悪戯三人組の、次男だなんて、認めない! 認めない、認めたくない! ああ、でも私がああなっていたのかもしれないなんて!
あのとき、私を階段から突き落とした彼の顔が蘇る。記憶の中にある悪い顔をしていた七三分けの姿が崩れる。崩れ落ちる。どろどろと溶けて、皮が剥がれて怪物が剥き出しになる。
私と話した長兄はここにはいないし、妹もいない。ここには二人だけ。私たちだけ。酸で爛れた顔が崩れ、溶けて、目も、鼻も、耳も、皮膚も真っ赤に染まりぐずぐずになる。
ああ、彼は本物の怪物になってしまったんだ!
「いっ、やっ……ぅあ゛ああああああああ!?」
今更のように口が動く。でも、体はいっこうに動いてくれないのだ。涙が出る。狂ったように悲鳴をあげながら、両手で耳を塞いで、泣き続ける。悲鳴が重なり、理性が擦り切れ、その恐ろしさに身を任せてただ泣き叫ぶ。
「メイ゛!メイはどこぉ!?いやぁっ、いやぁ゛!」
目の前には狂ったように暴れまわり、顔を押さえる怪物。顔は血だらけで原型がない。それなのにそこから悲鳴をあげて真っ白な廊下を彩っていく。
これが薔薇ならどんなにいいか!白い薔薇をその血で赤く染めた兵士のように怪物は暴れる。暴れまわる。
そしてその状態で何分、何十分。はたまた何時間経ったろうか。私には分からない。短い時間だったのかもしれないし、長かったのかもしれない。突然怪物は動きをピタリと止めた。
「ぅ……あ……」
ヒタリ、足音がする。私は目を閉じて泣くだけでなにもできない。周りで騒ぐ大人なんか知らない。メイがいないから頼れない。なんにも感じない、感じたくない。こんな現実早く夢に変わってしまえばいいのに!
「ひっ!」
とても強い力で肩を掴まれる。捕まえられる。逃げられない、怖い。なのに、私は驚いて目を開けてしまったのだ。
原型のない顔。髪はもう白くない。ぐるぐると爛れて混ざった血肉。もう悲鳴をあげていないソレ。そんな顔が目を開けたらそこにあった。すぐそこに、それこそ、キスするように近く。呪いをかけるように近く。酷い臭いが鼻につき、ダバダバと血を垂らしている。私もまた、鼻水と流れ続ける涙で床にシミを作っている。
肩が外れるんじゃないかというくらい強く掴まれ、圧迫される両肩をガクガクと揺らして腰を抜かす。今まで保たれていた均衡が崩れ、座り込む。そして、私が倒れれば当然の如くソレも倒る。ああ怪物が私に迫る。
べったりと服についた赤。
頬に跳ねた血飛沫。
血で固まった髪先。
肩についた赤い手形。
手折れた怪物。
理性を奪うには十分すぎた。あまりにも酷すぎる光景に意識が保つはずもなく、静かになる音、見えなくなる視界。全てを拒絶して散り散りになった思考が深い海に沈んでいく。
そして、ぷっつりと意図が途切れてブラックアウト。
ねえメイ。どうして、どうしてこんな目に遭うのが私なのかな。神様はどうして私を選んだのかな。こんなに苦しいのはどうしてなんだろうね。
ねえメイ。私って本当に嫌な奴だよね。あなたはどう思う?
私の心の中を知ったらメイだって軽蔑するだろうね。私がそう思うんだからきっとそうだよ。だって、ああなるのが私じゃなくて良かったなんてことを思ってるんだ。正直に言ってください。
ああならなくて良かったなんて考えている私は嫌な奴でしょうか。
薬品を被ったのが長兄じゃなくて安心してしまった私は最低でしょうか。
血に塗れた怪物を一瞬でも嫌悪してしまった私をあなたは嫌いますか。
苦しみを誰かに代わってもらいたいだなんて考える私を嫌いますか。
それでも死にたくないと願う私を軽蔑しますか。
きっと怪物になったのが橙子ちゃんでも、姉さんでも、私は変わらなかったと思うんだ。そんな私は最低?生きる価値なんてない?そんなの、分からないよ。
ねえメイ、教えてよ。私は間違ってるのかな?
・怪物
怪物君の姿が「発狂」と「通常」に分かれる夢に合わせて現実のほうでも「発狂」状態になっていただきました。追いかけキャラもやはり記憶の具現化ですからその姿が二つあるのは意味があると思うのです。つまり、正常だった頃も知っていて、その子を怪物だと思い込んだ出来事もあったと仮定できます。〝 夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である 〟今回のテーマ回収ですね。
・手折れた怪物
誤字ではありません
・傷
古代ギリシア語で傷はトラウマの語源。日本では心的外傷。または精神的外傷を表す際に使われる言葉ですが、元々は身体的外傷もその言葉の意味には入ります。
ジークムント・フロイトの言葉を引用したのは彼が「心的外傷研究論」つまりトラウマについての研究をしていた人だからですね。彼の著作物の影響により心的外傷がトラウマと呼ばれるようになったようです。