始まりは些細なことだった。
毎日弄くられる体と実験の日々。それは俺と同じ白い髪、赤い目をした仲間たちも一緒だった。皆名前はなかった。皆、その赤い目で医者からは冷たい目でで見られていた。そんな中、実験室へと向かう俺たちとどこか似ていて、決定的に違うアイツを見かけたんだ。
俺たちとは違う藍色の目。俺たちには世話をする人間だなんていないのに、奴にはいて、その上名前で呼ばれている? 俺たちにはそのどれもがないものだというのに、当たり前のようにそれを享受している凪という女。嫉妬しないほうが人間としてどこかおかしいほどに俺たちとアイツは違っていた。
それからすぐに医者に問い詰めて分かったのはそいつがオリジナルであること、そして、アイツと同じ眼の色にならない俺たちへの明確な差別と不本意ながら世話をすることになってしまったことの厳しい目線。アイツの名前が狛枝凪といって、院長のお気に入りであること。才能を持った子供であること。つらつらと並べるそんな言葉に怒りを覚えた。そんな奴が存在するせいで、少しそいつと違うだけで俺たちは毎日痛みつけられ、ときには仲間の死を見送っているのか、と。
俺たちなんて名前もないただの有象無象だ。最初はただ嫌な境遇への怒りと鬱憤を原因に叩きつけられればいいと考えていた。あわよくばそいつを排除して、特別扱いされるその座を手にいれようとも。でもそれが間違っていることを叩きつけられて、俺は愕然としたのだ。
その日、あらかじめその廊下をアイツが通ることを知っていた俺は仲間たちに黙って計画を実行に移した。そいつを呼び止めて近場にある誰もいない病室に叩き込み、少し痛みつけてやればいいと考えていたのだ。
「こんにちは」
片手で頭を押さえるという変な格好で壁伝いを歩いていたアイツを眺めながらやり過ごし、丁度後ろを取った状態になってから隠れていた個室から出て、呼び止める。アイツは嫌そうな顔でこちらに振り返ると心底面倒そうに挨拶を返してきた。ああ、そんな態度が俺を苛々させるんだよ。有象無象に声をかけられる道理なんてない、みたいなその態度が怒りを加速させるんだ。
無言のままアイツの襟首を掴んで先ほどまで潜んでいて、出て来たときに開けっ放しにしていた個室に放る。普通ならば同世代の子供を片手で掴んで放るなんてことはできそうにないが、体格の差もあり、尚且つコピーされた仲間の中でも力が特別強い方である俺だからこそできることだ。
アイツはそのままされるがままに、というよりも何が起こったのか分からないのか一歩二歩下がってから崩れ落ちた。咄嗟にバランスを取ることができなかったのか。こういうところはただの子供だと感じさせる。目を丸くして暫く呆然としていたオリジナルだが、やがてはっとしたように首を振るとこちらを睨みつけてきた。
「なに?」
無意識なのか、また頭を片手で押さえつつこちらを睨みながら見上げるそいつにさっさと本題を出したくて声をかける。
「お前がオリジナルか」
痛そうに尻へと向かう手をこちらの目線に気がついたアイツは慌てて止めて、それを隠すように呆れたような声を出してそっぽを向いた。
「はぁ?」
俺が見下すような目線をしていたのを嫌がってか、スカートを軽く掃って立ち上がる。心底嫌そうな顔をして襟元を広げ、片手を後ろの方へ移動したためもしかしたら打撲くらいはしたのかもしれない。ざまあみろと思ったが、少しだけ罪悪感が胸をくすぐった。
考え込んだように暫しの間沈黙したあと、アイツは思い当たる節がないのか首を傾げる。それに、俺たちの存在を知っているものだと思っていた俺は焦りを感じさせぬようになるべく低い声で問うた。
「知らないのか?」
「いや、知ってるわけないでしょ。初対面だもん」
知らないのか、そうか知らないのか。思ったよりも早かった回答に苛立ちが募りどろどろとした黒い感情が湧きあがる。知らされていない可能性? そんなものクソ食らえだ。その答えはまるで俺たちが取るに取らない存在だと、自分にとってはどうでもいいものなのだと、所詮有象無象でしかないのだと言われているようで嫌だった。けろりとしてそんなことを言い放つこいつのことが気に入らない。目の前が真っ赤に染まったような感覚がして、気がついたときには奴の首元の服を掴んで壁際に追い詰めていた。
「俺は!お前のコピーだよ! アルビノの癖にやたらと丈夫で、子供らしくない知性!そんなやつが生まれたから! あいつら同じものを作ろうとしてんだ! お前のせいでどれだけ兄弟が死んだと思ってる!」
昔は同じ病室に詰めきれないほどの仲間が寝泊りしていた。だというのに、毎日の厳しい検査や手術、実験でそのほとんどは病室に二度と戻ってくることはなかった。同じ病室で、ここまで成長できたのはもう三人しかいない。
お前に想像できるのか? 新しい実験の話が来るたびに仲間同士で騙し、押し付け合い、先に眠ったり、すぐに起きない奴が実験室送りにされた。そんなことがあるから何日も眠らない日が続いて、生き残った奴らはみんな眼の下に隈をつくって笑顔も知らないまま育った。涙が枯れ果てるまで過酷な実験は続き、喉が潰れるまで叫んだ。
実験室送りになって運よく生き残った俺でも忘れられない。舌を噛まないように布を口に詰め込まれ、押さえ切れないよだれが顎を伝ってベッドに染みを作った。そのせいで息もろくに出来ず、過呼吸に陥ったり殆ど効かない麻酔のせいで痛みを我慢できずに何度も気絶した。実験が終わる頃には水分も枯れ果てて、無事とは言えない状態で病室に戻ると数少なくなった兄弟たちが急いで水差しを差し出してきた。一命を取り留めてもそんなことの繰り返し。多かった仲間は徐々に減っていき、廃人と化した仲間に涙したこともあるし、何度も見送った。
そしていつしか仲間に実験体になることを押し付けることもなくなり、それぞれがその役割をローテーションで担うことを了承した。この頃から騙し合いとは聞こえのいい間接的な殺し合いはやがてなくなり、今の俺たちがいる。同じ病室の奴らはとうとう、三人しか残らなかった。他のところでは全滅したところさえある。三人も生き残っているのは稀で、とても運のいいことだといけ好かない医者が嬉々として語っていた。
アイツになるのが無理だということは理解している。どんなに努力したって、どんなに似せようとしたってそれが報われないことはアイツを見れば一目瞭然だ。何もかもが違う。どこを? と訊かれたら答えることはできない。ただ漠然と、アイツがこの世界にいることがどこかおかしいような、それが一種の奇跡であるような、そんな錯覚を覚える存在であるという曖昧なことしか言えない。そして、それが俺たちとは何もかもが違う所以であるということも。姿かたちが似ているだけで俺たちがアイツになることができないのは残酷な事実として襲い掛かった。初めてその姿を目にしたときも何となくそう思っていたが、今日目の前にして、話をして、より深く理解した。こいつは化け物、いや、怪物であると。
何事かをまた考え込んでいたアイツは冷たい目をして言った。
「知らないものは知らない。キミ、私に死ねって言ってるの?」
「……」
何も言えなかった。最初は確かにそう思っていたので、事実そうだったからだ。やはり、こいつは俺たちとはどこか違う。何度も刷り込まれ、賢くなった俺たちとは違う。殆どそういうことはされていないはずなのにすぐそんな回答が出てくるのはおかしい。普通は自分が殺意の対象になっていることなど気づけるはずがないのだ。
「やだよ。死にたくないし。それにキミが私の代わりになったとして、他の子が祝福してくれるとでも思うの? 今度はキミを憎むだけだと思うけどね。このことについて、キミはどう思う?」
アイツらはそんなことしない。そう言い放ってやりたかった。だけれど、本当にそうだろうか? アイツらは俺を祝福してくれるだろうか。そう思ったとき、心の中で否定している自分がいることに気がついた。騙し、騙され、間接的にだとしても殺し合いを生き残った奴らだ。今度は俺の立場を羨んで狙ってくるかもしれない。それが例え、支え合って生きてきた仲間だとしても。俺だったらどうする? 仲間の誰かが特別な地位に就くことができたら俺はどうするだろう? きっと嫉妬するだろう。どうしてアイツだけが苦しみから逃れているのだ、と。
そんな自分自身に苛立ち、可能性を示したオリジナルの服を掴んでいた手を外す。今以上に泥沼と化しそうな状況には俺だってなりたくないし、これ以上こいつと一緒にいたら狂わされてしまいそうだったからだ。
「ちっ」
自身への苛立ちから漏れ出た舌打ちに目を瞬いているオリジナルを捨て置き、さっさとその場から去る。アイツは何も言わせずに言論に勝ったとでも思っているだろうか。それはそれでむかつくが、あの場に残って何か言うことのほうが不毛なことであることは明らかなので自身の心情は無視だ。
それから数ヶ月ほど経って、重体患者の自殺騒ぎがあったりしたこと以外は殆ど平和に過ごすことができた。自殺騒ぎは病院側が握りつぶすのに必死でこちらに目が向かなかったこともあり、過酷な検査地獄は暫く免れることができていた。アイツとも関わらず、弟と妹は興味津々のようだったが俺がそれを抑制することで平和にしていた。しかし、それもすぐに終わりを告げた。
「舐められたままじゃだめなんだって!」
「そうは言われてもな」
「そーよ上にい!下にいの言う通りこのままじゃだめだって!」
仲間の我慢の限界がきてしまったのだ。説得はしたが、もうやる気が最高潮を振り切ってしまっている二人を止めることはできなかった。この二人だけに任せると過激なことをやりかねないのでとりあえず見本を示すことにした。
用意したのは検査室から盗んだホルマリン液。そしてそれをかなり薄めた消毒液をさらに薄め、絶対に怪我をしない程度にした液体。これをバケツ一杯に用意して何ヶ月か前のように個室で待ちうける。二人には逃亡先となる廊下の角に待機してもらい、自分だけがバケツを持って隠れる。入院している俺たちや訳ありで身寄りのない患者しかいない病棟の廊下であるため俺のことを注意するような人間はいない。それにほぼ無人だから嫌がらせがばれることもない。アイツが告げ口をしたら終わりだということは理解しているが、そのときはそのときで外の世界に飛び出すときが来たということでいいだろう。
「おい」
アイツの背後から声をかける。そして、振り返るか、返らないかのときに思いっきりバケツを振るって液体をかけた。服と頭の上を狙ったので目に入ることはないだろう。アイツがびしょ濡れになったのを確認してからバケツを持ったまま走り、アイツの視界に入る前に廊下の角を曲がる。合流した仲間たちは嫌らしい笑みを浮かべながら喜び、二人とも片手を上げたのでそれに応え一人ずつハイタッチをした。
「いいな、怪我させない程度の嫌がらせにするんだぞ。劇薬を使うのも駄目だ。危険だからな。分かったな?」
「…… はーい」
「はーい」
少し返事が怪しかったがまあいいだろう。
それからは毎日細かい嫌がらせを二人で実行していたようだ。すれ違いざまに転ばせたと聴いたときは姿を見られたことが明らかな状態だったので複数で嫌がらせしていることがばれたと焦ったが病院側も、アイツもなにも動きがないので不思議には思ったが仲間には何も伝えなかった。本来ならばすぐ告げ口されて病院から逃げ出すことになると思っていたからだ。もしかしたら、アイツが何も言わずに我慢してくれているのかもしれない。
「あ、上にいちょっとこっち来て!早く早く!」
妹に先導され、走って向かったのは隣の病棟の階段の上。そこには既に弟も来ていて、階段横の角に身を潜めていた。なにをするのかと問うても口元に人差し指を当てて「しぃー」っと言うだけなので黙って同じように身を潜めた。他の病室の仲間とかくれんぼでもしているのだろうか。
そこに身を潜めてから少し時間が経ったとき、タッタッ、という階段を上がってくる音がした。随分と間延びしていて二、三段階段を飛ばしてスキップしているような歩き方に動き出そうとした俺を弟が押さえつけた。そうしているうちに目の前に現れたのはいつかの白髪で、そいつを妹が笑いながら両手で押し、弟も立ち上がって援護するようにアイツを階段のほうへと押し出した。
「あ」
あげた声が被ってアイツと目が合う。焦った俺はすぐさま笑う弟と妹を連れ出し、迂回ルートで自室に戻る。アイツがどうなったのかは分からなかったが、逃げていく中どこかで甲高い笛の音が聞こえた気がした。
◇◆◇
その後は劇的な変化が俺を襲った。もう思い出したくもないが弟と妹が単独行動を起こしているときに片方がとんでもないことを犯したからだ。俺はそのとき、アイツに思わぬ大怪我をさせたことで謝るべきか、否かを体裁だとか色々なことを引き合いにだして悩みに悩んでいた。いや、これは言い訳か。俺があいつらを監督していれば弟は、弟は、し、だめだ。認めなければならない。例えそれが弟の自業自得だとしても、それがショックであることに変わらないし、見当違いの怒りをアイツに向けそうになる。
弟は死んだ。
アイツを×して、その座を手に入れようとしたがために。俺が躊躇ったその道を進んだがために、俺たちはたった二人だけになってしまった。
三人でずっと耐えてきた。確かに、騙し騙され、お互いに死を押し付けあったこともあった。だが、支え合って生きてきたのもまた事実。兄弟のように育った三人のうち一人が欠けた。
「上にい!なんで、なんで仕返ししてやろうとは思わないの!?上にい!」
「酷なことを言うが、あれは仕方ないことだったんだ。他愛ない嫌がらせだったらいい。だがな、危険物を扱うのは駄目だとお前らに言ったはずだ。そうだったろう?俺が見ていれば…… こんなことにはならなかったんだ。」
「上にぃ……」
「俺だって悔しいし、悲しいし、アイツに仕返ししたいとも思ってる。だけどな、アイツに当たるのはなんか違う気がするんだ。お前も、勝手なことをするんじゃないぞ。俺は、お前を失くしたくない。ただでさえ二人になっちまったんだから……」
俯いた妹の頭を撫でる。他の病室の奴らはオリジナルに興味ないようだし、誰かが欠けるということもないだろう。
あと何回、こうして仲間といられるか分からない。あと何回、俺が生きて食事できるかも分からないし、あと何回笑えるのかも分からない。そして、あと何回アイツに謝るチャンスがあるかも分からない。
一度だけ、そうただ一度だけ謝りに行こうとしたことがある。
アイツのいる病室の前に立ち、小さな勇気を握りしめて佇む。何度も謝る練習をしていたがどうしても許されないんじゃないか、そんなことを言われてもアイツにとっては取るに足らない、どうでもいいことだと切り捨てられるのではないかと、いつも得体のしれない怯えに襲われて実行することはできなかった。
そうこうしているうちに俺がまだ迷っているというのに病室の扉がスライドして開く。
何か声をかけようと咄嗟に出る言葉もなく、何も見ずに出て来たお間抜けなアイツがぶつかってきて出そうと思っていた言葉ではない声が漏れる。
「おっ、と」
「あいたっ、って」
あちらが俺に気がついて硬直する。俺よりも少し低い頭の位置、華奢というより病的な程に細い肩が揺れる。そんな姿に何も言葉が出ずに暫く沈黙が落ちた。
「あー…… その、だな」
散々練習したはずなのに言葉を探しながら目を泳がす。なぜだかアイツを直視することができなかった。
「えっと、階段のときは、わ、わる、か、わ、わ」
いざとなると言葉が引っかかって出てきやしない。素直に謝ると決めていたというのにこんなにも難しいものだったか。アイツもアイツで頬を紅潮させたままとろんとした目を泳がせている。
「悪かったな」
異変に気が付いたのはすぐだ。俺のどもり具合に笑いを漏らしたアイツの様子がおかしくなった。
熱に浮かされたように赤い顔、胸を押さえ、苦しそうなうめき声。俺の顔を瞬きもせずに見たまま硬直し、動かない姿。その額に汗を浮かべ、俺のことを見据えたまま徐々に目を見開いて行き、大きくなる瞳孔。荒くなる息、恐怖に歪む顔、泣き出しそうな表情。全てが混ざり合ってアイツが錯乱状態に陥っているのが傍目にも理解できた。
「ごめっ、き、こえな、っう、ううぇ」
錯乱状態に陥りつつも律儀にアイツは返事を返してきた。耳にも異常があるのだろう。焦ってアイツの背後にいるメイドを見る。
するとすぐにメイドも対処し、崩れ落ちていきそうなアイツを支えて立たせた。その様子が尋常でなく苦しそうで、何か恐ろしいものを見たような顔で俺のことを見続けるアイツにもやもやとしながら熱を計ってやろうと声をかける。
「っふ、う」
「おい、大丈夫か?」
「うっぷ、ぅあ」
熱を計ろうと伸ばした手を払いのけられ、突然駆け出すアイツを唖然としたまま見送り、もう遅いと思うが思わず声が漏れ出る。
「あ、おい!」
慌てて出した行き場のない手を彷徨わせ、その場に降ろす。そして漠然とアイツが思ったことを考えた。
そうか、俺のことが怖いのか。
そう結論付けるには随分と時間がかかってしまったが、謝りたいのに怖がらせてしまうのなら手を引くしかないだろう。そのときはそうするしかなかった。
あと何回、アイツに謝るチャンスがあったのかは分からない。
だけれど、とうとう俺はアイツに謝ることなく二度と会えない場所に行くことになってしまった。だから心の中だけでも謝ろう。
すまない。お前に嫌な思いをさせた。
トラウマを植えつけた。
そして、何もしなかった俺をどうか憎んでくれ。
◇◆◇
最期のときは唐突に訪れた。
気がついたら周りは阿鼻叫喚の地獄になっていた。妹も部屋からいなくなっていて、俺は痛む頭でベッドから起き上がり、長年世話になったその部屋から出る。何かが起きているのだと、何かが終わるのだと本能のような奥深くの場所で自分自身が叫んでいた。
廊下に出ると、すぐにそこが地獄になっているのだと気がつけた。まるで殺人鬼が複数そこを通ったかのように白い壁や床が血や脂で汚れ、蹂躙しつくされた光景が目の前にあったからだ。
「なんだ、これ」
情けないことだが足はがくがくと震えていたし、血と脂で彩られた廊下に足を進めるたびに滑り、何度もその中に転んだ。もしかしたら、足がもつれてまともに立てていなかったのかもしれない。壁伝いに片手を預けながら進み、時折倒れ伏した犠牲者達の姿に足を止め、迂回したり跨いだり、自身の青ざめていく顔色がありありと自覚できた。ビチャビチャと音を立て、転んだせいでぬるつく服に苛立ちながら酷くゆっくりと進み、玄関を目指す。妹もそこにいると、なぜだか確信できたからだ。
「いって!」
手術台がなぜか部屋からはみ出していて、それに気づかず思い切り手をぶつけて崩れ落ちる。様々なものがぐちゃぐちゃになっていて、書類もばらばら。廊下の血の海に沈んでいる私物らしきペンやらなにやらもそこら辺にある。
案外裸足で歩くのは危険なのかもしれないが、血で塗れた廊下に靴下を履いたところで気持ち悪くなるのは目に見えているので足元を軽く視野に入れつつ進むことにする。
やがて、もうすぐ玄関口だというときに角から飛び出してきたのはアイツだった。
俺が見えていないのか、ふらふらとおぼつかない様子で走りながら器用に障害物を避けて玄関を目指していく。
「上にい゛ぃぃ」
アイツの姿に目を奪われ、足を止めたとき、すぐ近くから妹のくぐもった声が聞こえた。
「ここか!」
近くの部屋の扉は半分外れかけていて、妹の体からは細く短い刃物で何度も傷つけられたらしい跡があった。気力だけで話しかけているようで、壁に立ったままもたれている妹を受け止めて体を支える。
「凪様! 早くこちらへ!」
外から声が聞こえる。もうすぐ出口だ。せめて妹と共に外の世界に一歩踏み出したい。そう思った俺は妹の腕を自分の肩に回し、一緒に歩けるようにする。
「行くぞ」
「だめだよ、上にぃ」
「文句言うな」
一緒に一歩、一歩歩いて玄関を目指す。しかしそれも無駄なことだと、誰かに嘲笑われた気がした。
「上にぃ!」
「なんっ!?」
思ったよりも強く妹に突き飛ばされて近くにあった受付の内側に倒れこんだ。そして、妹の絶叫を聞きながら恐怖で身が竦む自身をどうしようもなく情けなく思った。
自分は妹と一緒に外に出るんじゃなかったのか?
その夢が潰えようとしているのに、自分は何をやっている?
怯え、竦んで、震えているだけじゃないか。俺は長男なのに、なにもできない。
弟は自分勝手だったがやりたいことをやったし、妹は傷ついていたのに俺を守った。
じゃあ俺は?
なにもしていないじゃないか。
何もかも中途半端じゃないか。
俺はなにを迷っているんだ?
そんなことをしているから何も貫けない、なにも出来ない!
「見てはなりません凪様!」
メイドの声が響く。気がつけば受付の向こう側に病院の院長が薄ら笑いを浮かべながらアイツとメイドを見つめて立っていた。
アイツは病院内に広がる壮絶な光景に今更気がついたようにその場に固まり、こちらを見つめているだけ。
――無防備なその姿に、今まで震えていた足が嘘のように動いた。
無我夢中で、なにを言ったのかも分からなかった。
周りも見ず、ただ駆けてアイツだけを視界に入れて、そして足をもつれさせて倒れ込む。
唇を噛んで見据えた先には、硬直して動かないアイツ。恐怖に竦む自身が情けなく思えた。
アイツが傷つく?
アイツが死ぬ?
アイツが、俺の前からいなくなる?
許さない。認めない。
一度としてちゃんと謝れていないというのに、口に出して言えてないというのに、アイツがいなくなるだと?
そんなの、絶対に許さない!
動け、動け、その震えを、その怯えを振り払え! 奮起しろ、立ち上がれ、アイツが消えていなくなってもいいのか!
床に手を付く。右足を動かす。立ち上がる。震える足を叱咤し、左右に一歩ずつ。
こんなにも走るとは難しいものだったか、ガチガチと鳴る歯の音を背景にアイツに向かう影を睨み据える。
そして、それが何を意味するのかさえも考えず、アイツに迫る殺人鬼に全速力でぶつかりに行った。
これでいい。中途半端な覚悟しかない俺にはこれがお似合いだ。アイツはひどく驚いていたが、それでいい。
さあ、早く走るんだ。そして逃げ延びてくれ。そうだ、そこのメイド。早くそいつを自由にしてやってくれ。早く、早く。
さあ、早く!
「行かせねぇ!」
見送る時間もなく、起き上がろうとする殺人鬼の上に跨り押さえつける。気色悪い笑い声を上げ続けてもがくそいつに鳥肌を立てながら殴りつけるが、そのときは突然訪れた。
殺人鬼が近くに転がっていた鋏を再び手に取るのが見えて押さえ込もうと手を伸ばす。しかし、スロウになった俺の体はその隙に弾き飛ばされ、仰向けに倒れこんだ。視界の端に笑う殺人鬼の顔が迫る。そして、突然俺の視界は真っ赤に塗りつぶされた。
「ぅっ、ぁぁああああ!」
右目に走る灼熱。倒れる自分の体。笑いながら立ち上がる殺人鬼。そして、手にされた椅子。俺が最期に見たのは、狂った殺人鬼の姿だった。
「……」
ああごめん、最後までちゃんと謝れなかったな。
ただ俺はお前が羨ましかっただけなんだ。幸せそうな場所にいるのにそうじゃなくて、暗い目をしているお前が憎らしかった。幸せな立場にいるというのに自分がいかにも不幸ですよって顔して、被害者ぶって、そんな顔が大嫌いだったよ。
だがそんなお前の場所を俺達が奪う権利などなかった。それが分かっているからただ謝りたかった…… いや、もしかしたら本当は、ただ普通に話したかっただけなのかもしれないな。
そっか、俺はただお前と話したかっただけなんだ。
今更気づくなんて馬鹿みたいだな。
せめて立場なんて気にせずにただの子供として、お前に出会いたかった。
弟も妹も助けてやれなかった、何もできなかった、何も行動しなかった俺にはここでの惨めな死にざまがさぞお似合いだろうよ。その代り、お前のクソ親父は連れて行く。安心しろ。
だからお前は幸せに生きろ。
そして、俺とは違って、ゆっくり死ね。
「すま、ぁかっ――」
届かないとは分かっているが最後に言いたかった。
なあ凪、
・怪物
30人以上いたのに最終的に生き残りは0。
・怪物兄
自覚のない初恋。最後の最期に自覚した頃には全てが手遅れでした。
・怪物弟
台詞二つしかもらえない上に怪物一号になるなんて絶望的だね(KY)
・怪物妹
上が両方ともお兄ちゃんなのでうえにぃ、したにぃと読んでます。ツインテールですし、あざとい。なんだかんだいい子。
・MONSTER
なまえのないかいぶつ。内容は全然違いますが、これほど彼に相応しいフレーズはありませんね。