それは、旅行帰りのことだった。
「音楽を聴くのは構わないけれど、携帯電話はちゃんと機内モードにしておくんだよ」
「はーい」
通路側に座る寛人さんがヘッドフォンを首に掛けた私に向かって言う。
その表情はとても満足気で、しきりに島内で撮影した写真を確認していた。
「ガムの用意はできたかしら?耳が詰まるのは困りものよねぇ」
「そうですよねぇ。寛人さんが平気なのが信じられないくらい!」
真ん中に座る和子さんが沢山あるガムや飴の中からお気に入りの味を見つけて窓側に座る私へと渡してくれる。珍しく曇った空港の空を眺めながら私はそれを受け取り、何度も忘れ物がないかを確認しながら包みを開ける。
「パスポートもちゃんとバッグの中に入れたものね」
「はい。パスポートなかったらここにはいませんよ」
「うふふ、そうよねぇ」
包み紙を丁寧に畳んで携帯しているビニール袋のなかに捨て、真っ青なガムを口にポイと入れる。一噛みで爽やかな味が口内に広がり、目が覚めた。これは日本に帰ったら時差ボケが酷そうだぞと思いながら胸元で揺れるホイッスルと写真入りのロケットを手で掴み、笑う。
ロケットペンダントとホイッスルは、さながら神父さんがいつも十字架をつけているかのように毎日毎日ずーっと身につけて行動している。
これは大事な思い出であり、そしてそれと同時に私を戒めるものなのだ。彼ら、彼女らをどんな幸福の沼に浸かったって忘れてしまわないようにと。忘れられないようにと。
こんな私を過去に囚われているという人がいる。
だけれど、私は現在に生きていないという認識もない。
ホイッスルと思い出は私の胸元に。
昔のゆめにっきは捨てられずに段ボールの中に。
今の私には短くなってしまったマフラーも丁寧に洗い、クリーニングし、毎年使用しているし、マンションのベランダで育てている花々にはメイにもらったジョウロでお世話をしている。
初めて私を家族として迎え入れてくれた
扉から飛び出して、そのまま何処へと消えて行ってしまった真っ白で華奢な彼女。
そして、それを探す際に起きた悲劇。
―― やだぁ! ―― 死なないでぇ!
傾く電柱。
色褪せる犬小屋。
今でも柔らかな彼の感触がこの手に残っているように
瀕死の状況で応急処置の一つでもできなかった私にその鼻を押し付けふすふすとかすれた声で鳴く〝 あの子 〟を。
自分が死なずに済んだことを心のどこかで喜ぶ私を決して責めず、守れて心底嬉しいのだというように一振りだけ動かした尻尾を。
忘れられず、忘れず、今もその形見を使って製作したぬいぐるみと共に過ごす私を人は弱いという。過去に囚われているという。でも、それでも良かったのだ。
―― 欲を言えば、最後まで犬猿の仲のまま逝ってしまった
「凪ちゃん、もうすぐ出発するって」
「え、あ、はい」
窓際に凭れた私の肩を軽くつつかれ沈んでいた思考が浮上する。
『 皆様、まもなく離陸いたします。座席ベルトをもう一度お確かめください。 』
アナウンスが流れ、お互いにベルトをチェックして搭乗員に見せる。
そのとき、エコノミークラスの方からやって来た二人の男が何かを頭上に掲げ、叫び出した。
「全員静かにしろ!」
なまりの強いスペイン語で話す男が掲げたものは真っ黒に光る拳銃であった。
一瞬で静まり返る機内。搭乗員も硬直し、じりじりと後ろに下がるが既に入り口は閉じているし、離陸準備に入っているので退路は断たれている。
望みはパイロット席から通信を繋ぐことだろうが、そちらの扉からも一人登場し、後退していた搭乗員を捕まえてハイジャック犯と話し始めた。これでビジネスクラスはどちらの扉にも犯罪者が張り付き、おまけに拳銃を持っていることになる。
大笑いをするハイジャック犯に、私は既視感を感じた。
ああ、いけない。
気づいてはいけないことに気づいてしまった。
思い出してはいけないことを思い出してしまった。
自分の視線がついと観光情報誌に向き、それを再確認する。
『
―― その日はちょうど家族でサンスクリトバル空港から 飛行機に乗る予定だったんだけどね。
なんとびっくり! 飛行機がハイジャックされたんだよ! 酷い不運だと思うだろう? ――
それで、その後、どうなるんだっけ……?
記憶の奥底に埋もれた台詞が脳裏をよぎり、小さな窓から空を見上げる。
…… その途中で、空港内にいる人たちが私と同じく空を見上げ、逃げ去っていく姿を捉えた。
赤い。
赤い赤い小さな点が分厚い雲を貫いてこちらに向かって来る。
それはまるで狙ったように煙の尾を引いて真上に向かって落ちてきていた。
目を見開き、その姿を捉えようと食い入るように見つめ、窓に張り付く。
そして、急に周りの音がゆっくりに聞こえるようになった。
こちらに向かうそれが枝分かれし、複数に変わる。赤黒く、眼前に迫るような錯覚を抱かせるそれに記憶の中の大きな黒い鉄板を重ねて私は口を開いた。
「あ、あ、あああああ!」
意識もせず出て来る叫びにハイジャック犯が何事かを叫び、黒い凶器を私に向かって構える。
「ぃやだぁぁぁぁぁぁ!」
あっさりと引き金にかかる指と、止めようとする周囲の叫び。そして軽い音を鳴らしてその指が引き金を弾く。
だが、拳銃から弾が出ることはなかった。弾が引っかかって出てこない状態、ジャムだ。
視界から外れた赤黒い球体はいつの間にか見えなくなっていた。
そして、拳銃がジャムったことに苛立ちを隠せない男が一歩後ろに下がり、仲間に場を任せた途端にそれは起きた。
パァン!
金属音の後に何かが破裂する音が響き、一瞬目の前が真っ白になった。
ああ!
見た。
見てしまった。
人の頭が変形していくさまをこの目で。
一瞬で命を刈り取られるその光景をこの耳で。
刹那に起こった出来事を私は理解してしまったのだ!
男の下顎がだらりと垂れ下がり、捕らえられた搭乗員の頭上へシャワーのように骨の混じった血飛沫が降り注ぐ。それを被ってしまった彼女は何が起きたのかも分からず、ゆっくりと頬を濡らす血を手に掬い取った。
「え、あ、い、いやぁぁぁ!」
声を漏らしてその正体に気づいた彼女はがくがくと体を震わし、甲高い悲鳴を上げる。
一瞬にして正気を失い、自分に覆いかぶさる男を除けて逃げ出す彼女に男たちは焦った様子で次ぎ次ぎと発砲する。
よだれを垂らし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を歪め、発砲された搭乗員は逃げ切れるわけもなく崩れ落ちた。
この時点で場は阿鼻叫喚の嵐となった。
子供の泣き声。女性の甲高い悲鳴。男性の怒鳴り声。ヒステリーを起こす者数名。呆然とする者。他者に襲い掛かる者さえいる中で二度、発砲音が鳴った。
「てめぇら撃たれたくなかったら……」
そしてまた、発砲音ではない何か別の音がその場をまた狂わせた。
赤黒い玉。
私が空に見ていたそれが飛行機の天井を突き破り、丁度話していた男に着弾したのだ。
軽い音と共にその男の頭は仰け反り、体が傾く。
そして、数瞬の間をおいてそこから紅白の花を散らせた。
弾け飛ぶ血液に脳漿、小さな骨の欠片。
首の骨が折れたのか、男の顔は折りたたまれるように肩へだらんと垂れ下がり、衝撃に耐え切れず皮一枚で繋がっていたその顔がこちらをじっと睨みつけ、自重によりぼとりと転がった。
あられが降っているかのような軽い着弾音が天井から響き、幾つかがその硬い機体を突き抜けてハイジャック犯を地に伏せさせる。
そして轟音と共に飛行機の機体がぐらりと傾き、男の顔が苦悶の表情をしたまま私の足元に転がってきた。
私は漸く思い出した事柄で頭がいっぱいになり、ぐるぐるとかき混ぜられるような支離滅裂な思考に顔を青ざめさせる。
転がって来た男の頭に嫌悪感が沸き上がり、背筋を這うように撫であげた。
私は思わず足を引っ込め、自分を抱え込むようにして席の上に足を上げた。
そこでようやく私は周りの音が聞こえないことに気がついたのだ。
「や、だぁ」
そう呟いて隣に座る和子さんの胸に顔を埋める。震える彼女の声で何か言われたような気がしたが、私には聞こえなかった。
優しく撫でる女性の手。それが突然離されたとき、私は何度も何度もしているはずの迂闊な選択を回避しようともしない自分を呪った。
私を心配して来たのだろう。寛人さんが席を立ち、顔をこちらに覗かせていた。
二人は少し顔を青ざめさせているが私を不安にさせまいと笑顔を作り、私の頭を撫でる。
ああ、優しい人だ。私にはもったいないほど本当にいい人たちだ。
もしかしたら、私を引き取ることになんてならなければ夫妻は幸せに暮らせたのかもしれない。
だからこそ、私は何も言えない、言う資格はない。
…… なんでだなんて、口が裂けても言う資格はないのだ。
「────」
何も聞こえない。
口を大きく開いた寛人さんの、優し気な父親の顔が歪んで、その口から小さな石ころが吐き出される。
それは尚も勢いよく空を滑り、私に迫った。
ああ、いっそここで死んでしまえたならば幸せだったのだろうか。
でも、そんなことを考えておきながら欠片もそう思っていない自分に嫌悪感が沸き上がる。
……
条件反射だったのか、和子さんが何事かを叫んで私の頭をその体で抱え込んだ。
衝撃が頭のすぐ傍に来てなおも直進し、ずぶりと嫌な感触がして右太腿に激痛が走る。
「いっ、ぅ、ぐうぅぅ」
覆いかぶさる和子さんをそっと座席に凭れ掛けさせ、視界が晴れたその光景に自分の脳を疑った。
倒れている人々。泣く人々。逃げ出す人々。
後頭部から口までを斜めに貫かれ、幸いにも痛みを知らぬまま逝った寛人さん。
彼にぶつかったことでは減速せず、私を守ってつぶてをその身に受けた和子さん。
そして、二人の体を貫いてもなお止まることのなかった拳大のつぶてが私の右太腿に突き刺さり、ごっそり肉を抉って行った様。
「あ、はは……」
体はびっしょりと濡れている。
何って、汗と、赤い粘着質のものと、白いどろどろしたもの。ああ、これは目玉だろうか。骨片だろうか。
自身から流れる血と、両親から噴き出した血にまみれもはやなにがなんだか分からない。血と、脂と、骨と、体の部位が飛び散って全部全部私に降り注いだ。
がりりと下唇を噛んで歯を食いしばり、自分の足にくぼみを作った石をどける。
…… 甘い。
自分のものか、顔にかかった和子さんのものか、判断はつかないが、ただ甘いとだけ漠然と感じた。
次いで、つんと鼻に来る刺激臭に自嘲の笑いが浮かぶ。
「っ…… ふ、ぅ」
どくり、どくりと太腿が脈打っているように感じてしまう。
傷口が深すぎて血が足りない。
意識が霞みかかり、夢の中へ自分が入り込もうとしていることが分かる。
視界の端に映るのは、
ぶるりと体を震わせて目を閉じる。
血を流し過ぎて寒気すら覚える体を自分で抱きしめ、まだ温かい彼女の体に寄り添うように身を預けた。
生理的にうっすらと滲んだ涙で頬を濡らしながら声を上げる。
「…… さい」
写真展、楽しみにしていたのにもう二度と父の作品は見ることができないね。
「…… め………… さい」
母の和やかな表情も、優し気な表情も、私に向くことはもう二度とない。
「ごめ…… なさ、い」
私はただ、自分が生きていることに感謝するしかできないのだ。
でもなぜだろう、謝罪の言葉しかこの口から出すことができないのは。
私は確かに生き残ったことを喜んでいるというのに、なぜ涙しか出ないのだろう。
「ごめっ、なさっ……」
しゃくりをあげ、段々冷えていく体が怖くて、寄り添った彼女に縋りつくように自分を横たえる。
…… こうして頭を撫でてくれた思い出も今日で最後だ。
あの子たちと一緒に虹の橋の袂で待っててね。寿命を終えたら、必ず向かうから。
それまではあなたたちの分も含めて精々長生きするよ。
根拠?
………… だってほら、憎まれっ子世に憚るって、言うでしょう?
「はは、はは……」
遠くに聞こえる救助活動の音を余所に私は意識を手放した。
・犬と猫
エフェクト〝 ねこ 〟は扉の沢山ある迷いやすい場所にいるので迷子を探していたのではないか、という解釈。それに漫画版狛枝凪斗のわんこを上乗せした形に。
書き始めてから漫画版を見て、すごい焦ったのは内緒です。
・離陸前にハイジャック
すごいせっかちだったんじゃないですかね?(すっとぼけ)
空の上だったら墜落→漂流→未知の樹海へになりかねないんでちょっと話数が増えすぎるんですよね。要望があれば完結後に別ルートで書くかもしれません。
・隕石
拳大の大きさ。ハイジャック犯とご両親が亡くなるのは確定していたのだが、書いているうちになんか被害が大きくなった気がする。
あと、いくら幸運だからといって無傷なわけないよね。
かの戯言遣いも周りが死にまくった上に重度の怪我をして入院ばっかしてますし。