(あなた様のこと、最初は嫌いでした。変わったのはそう、あなた様がオレンジのあの子と出会う、もっともっと前のことなのです)
いつからだろう。事務的で、無機質な声が変化したのは。
いつからだろう。最低限だった触れ合いが、増えていったのは。
いつからだろう。無表情に笑顔が加わり始めたのは。
いつからだろう。憐憫が消えていったのは。
いつからだろう。微笑みかけられるようになったのは。
いつからだろう。贈り物をしてくれるようになったのは。
いつからだろう。偽りの優しさでなくなったのは。
まだ私に彼女しかいなかったとき。頼るものが何一つなく、友達の一人も、知り合いさえいなかった幼い日の記憶。
薄れていく記憶の中で、濃く残る彼女との思い出。その中に答えが見つかるような気がした。
それは寒い寒い、年越しの夜のことだった。
我儘も言わず、なんでも言いつけを守り、病室の中から出ることも叶わず、誰とも会うことができずに、ただ一人で四度年を重ねた。
打っても響かない反応が返って来ることを知りながら、何度も彼女に懇願した。それでも毎年、彼女は就業時間を過ぎるときっちりと自室に帰り、私に構ってくれることなど一ミリたりともなかった。
そのことに退屈を感じ始め、無機質な実験を受ける毎日。何もかもが詰まらなかった。
生前の強い記憶から死ぬことに恐怖を感じていたはずなのに、何も変化がないのなら死んでしまいたいなどと、今では考えられないくらい真剣に死を考えていた。
たとえば、実験中に点滴の針を首に突き刺してやろうかとか、階段から落ちたら痛いだろうかとか、屋上から飛び降りたら意識を失ったまま死ねるだろうかとか、そんなくだらないことしか考えることもなく、死を考えれば考えるほど何かが麻痺していった。
一生部屋の中にいることしかできなくて、一生生きている誰かと会うことはなくて、誰とも親しくなれない。そんな生活ならば必要ない。いらない。欲しくない。
事務的な対応しかしないメイドに依存しながら、世話をするだけの自動人形のようだと恐怖したりもした。
死んだ目をした病院関係者についぞ生を感じることができなかった。
私の世界はとてもちっぽけで、その中に生きていると感じる人間は一人もいやしなかった。
勿論私もその中の一つで、いつしか捨てられる玩具でしかないと認識していた。
自動人形は遅かれ早かれ壊れる玩具一つに何も感慨を抱かないだろう。病院関係者は、そもそも生きていないのだから玩具が壊れても次を探すだろう。
表面上はどれだけ優しそうに接しても、長く付き合えば
私を見てくれる人はいない。
ここに人間はいない。
あるのはただの空虚でしかなく、それに幾ら手を伸ばしたって虚しいばかり。
いつからだろう。優しさが偽りだと気づいてしまったのは。
いつからだろう。それに反逆したくなったのは。
いつからだろう。変えたくなったのは。
殻にこもって、自動人形の感情から必死に目を逸らして、必死に取り繕った。良い子であろうとしていた。
―― それがなによりも不気味に映るということを知りながら
ちょっとした反抗心。
ちょっとした賭け。それは私一人だけで行った賭けだった。
大晦日の夜。
言いつけを幾つも破り、一人だけで屋上へと向かった。
別に死ぬつもりなんてなかった。ただ、昇った朝日を見て生きているという実感がしたかった。生きて、死んで、また生き始めた。それを朝日に重ねたかったのかもしれないし、ただ暖かさを知りたかったのかもしれない。
誰かが来るという期待など、欠片もなかった。…… いや、欲を言うならば欠片はあったかも。
誰かと幸せを分かち合いたかった。
誰かと一緒に生きていたかった。
願いはただ、それだけだった。
いつも着ている病衣だけで屋上に上がり、一人ベンチに座って夜景を眺めた。お子様の脳は何度も睡眠を要求していたが、全て無視した。意地でも初日の出を拝んでやると気合を入れて、しかし一枚だけの病衣では寒くて寒くて、すぐにでも帰りたいと何度も心が折れそうになった。
冷たいベンチの上で縮こまり、スリッパしか履いていない素足を丸めた体で温めるように折り込んだ。所謂体育座りと言うやつで何分、何十分、何時間と待ち続けた。寒さでかじかみ、数分の時間が何時間にも引き伸ばされているように感じた。
寒さで死んでしまうんじゃないか。そのときはそのときだ。やせ我慢をしながらいつしか夜景を見守る余裕さえなくなっていた。俯き、膝に額を当て、悔しくて悔しくて涙が出た。生きている意味を失った。生に苦痛を感じている自分に嫌悪した。
そんなときだ、扉を開きかけたような甲高い金属音が鳴った。戸惑いを覚えるようなその音に溢れていた涙を止め、視線を上に向けた。
「でてきなよ」
誰かが来たのだと期待に胸を躍らせたが、その正体に気が付いて心の中でこっそり落胆した。
無機質で一定に鳴る靴音。メイドさんに期待半分、落胆半分いつも通りはにかみがちな子供を演じた。
「みつかっちゃった」
彼女は無言で自身が羽織っていたカーディガンを私にかけてくれた。次いで引っ張られた手を振り払い、いつもの笑顔で「きょうはわるいこなんだ」と言い放つ。彼女は初めて我儘を言った私に驚きながら静かに「お嬢様」と言った。咎めるような声だった。
彼女の驚き顔なんて見たことがなかった。嬉しかった。二人きりなんだからもっと彼女の反応を見たいと思った。
「はつひのでをみるの」
「初日の出、ですか」
今度は私が彼女の腕を引っ張ってベンチに誘導する。
温かい彼女の手から体温を奪ってしまうのは少し罪悪感があったが、誰でもいいから傍にいてほしかったのだ。
「なぜ」
「メイといればさむくないから」
ここでまた、メイドさんは驚いてくれた。そんな呼び方したことなかったから。いつもキミとか、メイドさんと呼んでいたから新鮮なのだろう。悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑って続ける。
「メイドさんだとながいんだもん。ね、メイもわたしのこと、なまえでよんで」
「しかしお嬢様……」
戸惑いが感じられる彼女の言葉に上乗せして「ふたりだけのときでいいからさ」、とお願いする。
彼女に寄り添った体が段々温かくなってきているのを実感して、精一杯の笑顔を彼女に向けた。
「おねがい。でさ、いっしょにはつひのでみよう?」
「……凪、様でよろしいのでしょうか」
「うん。メイ、だいすき」
腕に抱き着き、二人でそのまま色んな話をした。
メイ子さんも不思議と硬さが和らぎ、ぽつぽつと私と話してくれるようになった。最初は相槌を打っているだけだったが、段々と彼女からも話題を振ってくるようになり、数分しか続かなかった会話がずっと続くようになった。
幸せだ。たとえこれが夢の中の出来事だとしても。彼女は打っても響かない自動人形なんかではなかった。れっきとした人間だった。まだまだ彼女も子供と言える年で、我儘を言いたい年頃で、それを無理矢理仕事を理由に押しつぶしているだけだったのだ。
二人で一緒に泣いた。
どちらも寂しかったのだと、そう認めて泣いた。互いに互いを抱きしめ合い、互いの胸の中で。
「ごめんなさい」
優しさに隠れた冷たさを、私が見抜いている、いないは関係ないとばかりに彼女はそう言った。
「それでもわたしは、メイのことすきだったんだよ」
「ええ、私も凪様のこと、好きですよ」
親愛の情を確かめ合い、長い時間のすれ違いがこのときやっと解消されたのだ。
私は何を思っていたとしても傍にいてくれるメイ子さんのことを慕っていたし、メイ子さんもきっとなにかあったのだろうと思う。それは私には分からないけれど、私と同じ、寂しい思いをしていたことは何となく分かる。だから、お互いの隙間をお互いで埋めた。
「凪様、ほら、初日の出ですよ」
「ほんとだ!はじめてみたよ!」
何時間にも引き伸ばされていた時間はいつの間にか数分にも縮められていた。
苦しい時間は長く感じるが、楽しい時間は短く感じる。同じ時間のはずなのにこんなにも違うのかと驚いた。
「きれいだね」
「ええ」
地平線の向こう側から昇って来る日の光に目を細め、世界の始まりを目にしたかのように感動した。彼女の袖を何度も引っ張り、地平線の彼方を何度も指さしながら興奮して捲し立てた。
綺麗綺麗と言い続ける私に、彼女は真に優しい眼差しを向けて何度も頷いた。
ずっとこの時間が続けばいいな。
そう思っていたが、限界はすぐにやって来た。
「どうされました?」
「ねむい……」
必死に押し殺していた眠気が達成感からか、安心感からか、また顔を出して来たのだ。
私が一人でした賭けは勝利に終わった。どういう経緯であれ、私が人間だという実感が持てるようになったからだ。これで自殺衝動は死んだ。あとは生きるだけ。
「帰りましょうか」
「もうすこしだけこのままがいい」
彼女の膝に頭を預け、頭を撫でる温かい手を両手で包み込んだ。彼女が逃げられないように。
「ともだち、できるかな」
「できますよ、あなたなら」
静かな声に安心して私は微睡の中に旅立っていく。
またいつか、きっと、彼女と初日の出が見れますように。
「また、ふたりで……」
「ええ、また、いつか」
大好きな私の保護者。
大好きな私のメイド。
いつまでも貴女と一緒に、幸せでありたい。
そう願って、私は眠りについた。
――
いつかの大晦日。
この日、はじめて私たちは人間になった。
お年玉投稿。
ほのぼのにするつもりが思ったよりもシリアス成分高めになってしまった。
最初からお互いを大切に思っていたわけではないのです。でも、だからこそその絆は強固になったのです。番外編なのに『番外小話』にしない理由は、まあ色々張り巡らされているからですね。