義足のお姉さんや、目隠しお姉さんがどうしても名前を教えてくれないのでカルテを探してみることにした。やってはいけないことだとは理解していたが、名前が呼べないのはとても不便なものだ。いい加減、姉さんで統一するのにも限界がある。
今だ明かりが灯る隣の部屋の前を通り、静まり返った廊下を歩きながら暢気に呟く。
「意外と静かなものなんだなぁ」
現在時刻、夜中の二時。この時間でも飲み物が欲しい患者さんなんかは自動販売機を利用…… できるのだろうか。私は今まで消灯時間になったら大人しく寝てしまっていたため、試したことがない。なのでこうして夜中に病室を抜け出すのは初めてだ。廊下は季節関係なく少しひんやりとしている。
静かな廊下で私には大き目のスリッパがぺたぺたと音をたてている。音を消して歩こうとしても上手くできないものだ。ぺったんぺったん。ぺったんぺったん。
「誰もいませんかー?」
受付に辿り着き、中を確認する。本来は夜勤の看護師さんがいるはずなのだが、誰もいない。今日の担当はきっとあの、無口な看護師さんだ。あの人は糞親父のことが大好きだからきっと一緒にいるだろう。院長室の明かりは確認できなかったけれど、用心しておくにこしたことはないだろう。
「そういえばあの人の名前も知らないな」
糞親父が私を贔屓するものだから、あの看護師さんもなんだかこちらを敵視しているようだが、特に干渉してくることもないし、あの人は意外と大人だ。私が言えることじゃないかもしれないけれども。
病室順に並んでいるらしいカルテを一枚引き抜き、自室に戻る。
自室に戻るときの廊下でも相変わらずぺったんぺったんと音を鳴らして歩いた。カルテは片手に持って、自動販売機でついでに買った炭酸飲料をもう片手に持ってだ。炭酸を夜に飲むと歯がぎとぎとになる? 子供の歯だからきっと大丈夫でしょう。そう信じておきたい。飲みたいものは飲みたいのだから仕方ない。
「ただいまー」
カルテが濡れないように飲み物の缶を一度下に置いて、扉を開ける。今、メイ子さんはいないのでおかえりと言う人はいないけれど、気持ちの問題だろう。そして私は缶をベッドの傍にある机に置き、カルテを読み始めたのだった。
カルテ
被験者NO.12 りん子 十歳
Rust感染後五年が経過。
日記には自由をワードするものと、閉塞をワードするものが多数見受けられる。
NO.14とNO.16との接触時は経過良好。我々と接触する際は鉛筆を振りかざし、自傷行為に走る傾向がある。
自ら蒐集していた鉛筆で再起不能になるまで足を傷つけていたのを職員が発見。時間があまりにも経っていたのでやむなく切除。骨が見える程までに自傷していた彼女に怯え同職員が退職。
鉄食器に異常に怯える傾向がある。鉄類が全て錆に覆われた状態に目に映る模様。幻覚が見え始めているので限界が近いと思われる。
近頃、引き離した母胎への関心が異様に強く、しきりに名を呼んでいる。
肌は白くなってきているが、髪は未だ白くなる様子がない。身体的進行はあまり進んでいないようだ。
名がないと不便なので片輪のりん子と呼称することにした。
「……」
なんだこれは…… なんだこれは、なんだこれは、なんだこれは、なんだこれは!
ただ私はあの子の名前が知りたかっただけなのに、どうして、どうしてこんなものを手に入れなければならなかったんだ! 薄々気がついていたことだが、やっぱりこの病院は狂っている!
カルテをぐしゃぐしゃに握り締めたい衝動をどうにか耐えて、ベッドから降りる。元通りにこの書類を戻しに行かなくては。怒りで乱れる息を整え、またそっと病室を抜け出した。
「っは、っは……」
流れて行く景色がどこか歪んで見えて私は大きく息を吐く。涙で歪む景色。白い廊下が何故だか牢屋のように見えて、誰かが私を覗いているような感覚を受けながら廊下を進む。看護師はまだ受付に戻っていない。途中父の部屋から明かりが漏れていたが、そこは気にしないことにした。
そして隣の病室の前を通って自室に帰る。隣の病室はまだ明るかった。あの、目隠し姉さんは今夜手術があると言っていた。悲鳴が、聞こえた気がしてストレッチャーの音が通り過ぎてからまた病室を抜け出した。
夜の病院は光がなくても少し明るい。白色だからだ。嫌いだけれど、好きな色。私は嫌いな病院の中を歩き回って、歩き回って、悲鳴が聞こえてくる方へと足を向けた。
見つかってしまわぬように、慎重に歩を進めて病院の奥へ。
一つ一つ、見て回った病室には私にそっくりな赤ん坊や子供が沢山寝ていた。そして進んで、進んで、いつしか悲鳴のあがる手術室を通り過ぎて奥へと進んでいった。
そこには非日常が広がっていた。
漫画とかで実験体がよくホルマリン漬けにされているような大きなビンに入った子供達。それは全て私に似ていた。髪は白く、肌も白くて長髪だったりくせっ毛だったり、まるで私がそこにいるかのように錯覚できてしまうほど、私に似た子供もいた。
ここにいるのはなんだ。小さく震える肩を無理矢理押さえて、カチカチとなる歯を必死に堪えた。音を出したらバレてしまうかもしれない。そうしたら私もああなってしまうのかもしれない。それは嫌だ。
なるべく静かになるよう、スリッパを脱いで素足になり、脱いだスリッパは手に持った。そして、恐怖と吐き気を抑え付けてビンとビンの間を歩いていく。
溶け出した私、変な色をした私、奇形の私、カビみたいのが生えた私、顔に赤錆がついた私、まるで自分を守るかのように膝を抱えた私、角の生えた私。沢山の私を見て、狂ってしまいそうな精神を叱咤して、それでも前に進んだのは、そこに望んだものがある気がしたからだ。
半分目を瞑りながら一番奥にあった扉を開く。
そこにあったのは、病的な白に支配された病室。薄暗くて灰色に近いが、どこか懐かしい場所。やつれた顔で眠っていたのは、かつて優しく笑ってくれた、あの諦めた目をしていた人だ。
「ぁ…… さん?」
母さん。その言葉はカラカラに乾いた喉では音にならなかった。
幼い頃に別れてそれっきりの母。そしてあの時よりもさらにやつれた顔。膨らんだお腹。今まで通って来た道にいた、私に似た赤ん坊や子供達に、ビンの中で生まれたらしい子供達。どこか、顔立ちが似ているりん子姉さんと、目隠し姉さん。りん子姉さんは、目隠し姉さんと私の顔立ちが似ていると、言っていた気がする。
A=B、B=C、A=C
そして、私に似た子供達。私達三人は全員幼い頃に母親から引き離されている。全て、繋がった。繋がってしまった。気づきたくない事実に気がついたのだ。心の中でガラガラと何かが崩れていく。精神に忘れられない錆がつく。全員、兄弟で、姉妹、だったのか。景色が歪む。耳が痛い。体が傾く。視界がブラックアウトする。
「お嬢様!」
そして何かに抱きとめられて、私は、いけないと分かっていたのに、愚かにも安心してそのまま黒い波に意識ごとさらわれてしまったのだ。
・名前
他意はありません。障害を持つ人への侮辱的意図は一切ございませんのであしからず。