「珍しいですね、伯母上がこういった場所に来るなんて」
ディオニュソスは意外そうに言う。そこに悪意は一切ない。実際、彼は心底驚いていた。
「伯母上はこの様な騒がしい催しはお嫌いなのかと思っていました」
ディオニュソス自身も神ではあるが、伯母であるヘスティアを神聖視しているところがあった。その為、ヘスティアの言動を勝手に良い方向に捉えてしまう。
「どうしてそう思ったのか知らないけど、ボクは別に賑やかなのは嫌いじゃないよ」
「そうだったのですか。という事は、当然フィリア祭にも?」
「うん、一応顔は出すつもりだよ。そもそも今夜の宴って、ガネーシャがフィリア祭の協力を要請する為に開いたものだろう? でも、どうだろうなぁ? ちょっとまだ行けるかどうか解らないよ」
「……そうですか。――ああ、そのワイン」
ディオニュソスの視線が、ヘスティアの持つワイングラスに注がれる。
「実はこのワイン、デメテルのところのファミリアが栽培した葡萄を使っているそうですよ。ご存知の通り、私は少々ワインには五月蝿いですが、このワインは本当に美味しい。これが目に留まるとは、流石伯母上です」
実際はウェイターに勧められるがままに受け取っただけなのだが、否定したところでディオニュソスには謙遜と受け取られる。長い付き合いもあって、その程度の事はヘスティアにも簡単に予想する事が出来た。なので、態々訂正はしない。
「デメテルも来てるのか。……ん? いや、ちょっと待つんだ」
「どうかしましたか?」
デメテルは、ディオニュソスと同じようにオリュンポス十二神の一柱ではあるが、ヘスティアにとっては同時に妹でもある。つまりは、
「ディオニュソス。君、デメテルの事を何て呼んでる?」
「デメテルですが」
「じゃあ、ボクの事は?」
「伯母上、と」
「………………」
(デメテルだって君にとっては伯母だろうがぁぁぁぁ!!)
流石に衆人環視の前で叫ばないくらいには分別があるヘスティアだが、心の中の絶叫までは止める事が出来なかった。
「何でデメテルは呼び捨てで、ボクの事は伯母上なんだよ?」
「……?」
何を当たり前な事を言い出すんだ、とでも言いたげな顔をするディオニュソス。ヘスティアは内心イラッとした。
「伯母上は伯母上でしょう? それ以上はあっても以下はない」
「それ以上って何だよ!?」
「それに、アテナだって伯母上の事を伯母様と呼んでいたはずですが?」
「そ、それは……!」
「アルテミスもそう呼んでいますし、差異はあれ、基本的に皆伯母上と呼んでいますよ。まあ、例外もいますが」
ディオニュソスは冷静に事実だけを述べた。
「うっ……」
ヘスティアの完敗だった。もしここでディオニュソスに伯母と呼ぶのを止めろと言えば、他の甥や姪たちにも同じ事を言わなければいけなくなる。そもそも、長年染み付いた呼称を今更改めろと言う方が無理があるのだ。
すると突然、ディオニュソスが笑みを消し、表情を引き締めた。周りには聞こえないほどの声量で小さく囁き始める。
「ところで伯母上、これはまだ正確な情報ではないのです――が!?」
だがその途中で目を見開き、驚きの声を上げるディオニュソス。まるで幽鬼でも見たかのようだ。
「す、すみません伯母上。急な用を思い出しました。これで失礼する事をお赦しください」
そう早口で捲し立て、人混みならぬ神混みに消えていこうとするディオニュソス。しかし、最後に振り返り、
「伯母上、今のオラリオは危険です。どうかお気を付けください」
そんな意味深な忠告を残して、ディオニュソスは今度こそ神混みに紛れて見えなくなった。
(オラリオが危険? そんなのいつもの事なんじゃ……?)
しかし、ディオニュソスの真意が解らない以上、ヘスティアには身辺に気を付ける程度の事しか出来そうにない。
「何よ、あいつ。私の顔見るなり逃げ出すとか失礼にも程があるでしょ。あんたもそう思うでしょ、ヘスティア?」
振り返ると、そこに立っていたのは右目に大きな眼帯をした麗人だった。髪も瞳も燃えるような紅で、ドレスの色もそれに合わせている。彼女こそが、ヘスティアの捜していた人物だ。
「ヘファイストス!」
「ええ、久し振りヘスティア。驚いたわ……見違えたじゃない」
「ああ、これかい? 実は新しく
ヘスティアが胸を張って言うと、何故かヘファイストスは天を仰ぎ見て溜め息を漏らす。
「嘘でしょ……? あんた、遂に子供たちにまで集り始めたの?」
「し、失敬な! プレゼントだよプレゼント!」
「そう、ならいいけど」
流石にヘファイストスも、ヘスティアがそこまで堕ちていると本気で思っていたわけではない。冗談を早急に取り下げたのは話題を戻す為だ。
「で、さっきの質問の答えは?」
「……ヘファイストス、君まだディオニュソスの事怒っているのかい?」
「別に私は怒ってなんかいないわよ。あいつが勝手に逃げるだけよ」
だが、言葉とは裏腹に、その声は怒りに満ちている。
「私は只、あいつが他の女神たちには紳士みたいに思われているのが気に喰わないだけ。女を酔わせて連れ去ろうとするなんて下衆のする事よ」
「やっぱり怒ってるんじゃないか! ディオニュソスはあの時、ああする以外の方法を思い付けなかったんだ。いい加減に許してやってくれないか? 頼む、ボクの顔に免じて!」
「誰の顔に免じるって? あんた、自分が私にどれだけ借りつくってるのか解ってて言ってる?」
「うっ」
それを言われると、ヘスティアは二の句が継げなくなる。
そもそも、現在ヘスティアとベルの住居兼【ヘスティア・ファミリア】のホームとなっている廃教会はヘファイストスの持ち物だった。それを雨風が凌げる場所を発見出来ないと泣き言を言うヘスティアに無償で譲渡したのだ。
これ以上例を挙げればキリがなくなるので割愛するが、ヘスティアがヘファイストスに多数の借りをつくっているのは紛れもない事実だった。
「大体、あんたは自分に子供がいないからって、昔からディオニュソスに甘過ぎるのよ。いいえ、ディオニュソスに対してだけじゃないわね。他の姪っ子や甥っ子たちにも甘々。なのに、何で私に対してだけは甘くないのかしらね? やっぱり、私もヘスティア
「止めろォ!!」
ヘスティアとヘファイストスは神友であるが、実は同時に伯母と姪でもあったのだ。天界の世間は地上に比べて驚くほど狭い。
「オバサンなんて酷いわね、ヘファイストス。ヘスティアなんてこんなに肌モチモチなのに」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないから」
「……?」
「ふ、フレイヤっ?」
いつの間にそこに立っていたのか。ヘファイストスとの会話に夢中で、自己主張の塊のような彼女の存在にヘスティアは気が付かなかった。
容姿の優れた神たちの中でも一際整った美貌。銀糸のような長髪に、黄金律を体現したかのような完璧なプロポーション。女性の美徳と悪徳を全て内包するとされる女神フレイヤである。
「いいドレスね、ヘスティア。眷属の子に貰ったそうだけど……その子、とてもセンスがいいと思うわ。是非とも一度会ってみたいわね」
「そ、そう……」
どうやらフレイヤは、贈り主であるアイリスの美的感覚にシンパシーを感じているらしい。
(不味い……嫌な予感がする……!)
厄介な事に、神の勘というのは良く当たる。
フレイヤは美に魅入られた女神だ。異性同性を問わず、自らの美貌を持って相手を『魅了』する事が出来る。
『魅了』された者は、『魅了』した者に意のままに操られる。自分が命令に従っている事に疑問を持つ事もない。
相手の心を支配し、束縛する。それが、美の神の歪んだ愛の形だ。
そしてアイリスにも、他者を『魅了』する才能があるとヘスティアは思っている。勿論、美の神のソレとは雲泥の差があるだろう。しかし、他者の心を惑わせるという意味では同じ事だ。
朱に交われば赤くなるという。だから絶対に、アイリスはフレイヤと関わってはいけない、とヘスティアは思う。
偽りの愛ほど哀しいものはない。アイリスを護る為にも、彼女の才能を開花させるわけにはいかないのだ。
それに、それらを抜きにしても、ヘスティアはフレイヤが苦手だった。美の神というのは、総じて食えない性格をしている。関わらないのが吉だ。
「やっぱり血筋かぁぁぁ!?」
どうやってフレイヤの興味を逸らそうか。そう考えていたヘスティアの耳に、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「げっ」
ヘスティアの口から心底嫌そうな声が漏れる。
ヘスティアの視界に入ったのは朱色の髪と同色の瞳。髪を夜会巻きにし、細身の黒いドレスを纏っていた。
「あっ、ロキ」
ヘファイストスもその存在に気付き声を発する。
現れたのはロキ。天界一のトリックスターにしてヘスティアの天敵である。
だが、今夜のロキは、普段の飄々とした態度とは明らかに違った。
「何でドチビがドレス着とんねん!」
「ボクがドレス着てたら悪いのか!?」
「悪いわボケ! 折角笑いに来てやったのにとんだ無駄足やったわ! 気分悪い!」
「気分悪いのはこっちの方だ!」
質の悪いツンデレ発言とも取れそうな事を言うロキに、ヘスティアは思わず掴み掛りそうになる。だが、肩をヘファイストスにがっしり掴まれ静止させられた。
「ヘスティア、落ち着きなさい」
「放せヘファイストス!」
「おまけに何やそのドレス? 悪趣味やなぁ~」
「「あっ」」
ロキの次なる煽りに、しかしヘスティアとヘファイストスは同様の反応を示した。
「へぇ……」
フレイヤの浮かべた微笑が、凍り付きそうな笑みに変わる。心なしか、手に持ったシャンパングラスも小刻みに震えていた。
「何や、フレイヤいたんか」
「いたわよ? 貴方が来る少し前から」
「あっそ。――いや、ドチビのドレスなんてどうでもいいんや! 興味ないし!」
だが、ロキはフレイヤの変化に気付かない。何故なら、彼女の関心は別のところにあるからだ。
実は、ロキはヘスティアたちのところに来る前に、ディオニュソスとデメテルに会っていた。つまり、デメテルにはあって自分には決定的に欠けているものを散々見せ付けられた後である。
ロキはヘスティアに目を向け、次いでヘファイストスに同様の視線を浴びせる。ある一点に集中して。
やがて、ロキは俯きわなわなと震え、遂には絶叫した。
「何でドチビの家系みんなおっぱい大きいねん!? やっぱり血か!?」
「はぁ!? そんなのボクだって知るか!」
「それなら自分の全身の穴という穴から血ィ噴き出させて浴びてやるわ!」
それは奇しくも、昨夜眷属の
「君は吸血鬼か何かか!?」
「そこ動くなよドチビ!!」
「動くなと言われてホントに動かない馬鹿が何処にいるんだ!」
ヘスティアが脱兎の如く逃げ出し、それをロキが追う。
『ロキのヤツが遂に嫉妬で狂ったぞ!』
『誰か止めろ!!』
『いや、その必要はない!!』
「「ぶへっ」」
ヘスティアとロキが同時に素っ転び、鼻を強かに打ち付けた。
ヘスティアは勿論の事、普段は男装のロキもヒールなんて殆ど履かない。故に、起こるべくして起こったと言える。
しかし、それでも執念――或いは怨念に衝き動かされて、ロキの手がヘスティアのスカートの裾を握り締めた。
「放せロキ! そんな事をしても、君の胸は決して大きくならないんだ!」
「五月蝿いわボケ! やってみなきゃ解らんやろ!?」
『ヘスティアの血を浴びてもロキは無乳のままに一〇〇〇〇〇ヴァリス』
『万が一奇跡が起きて巨乳になっても一瞬で萎むに神の毛一本』
『お前の毛なんかいらねぇよ!!』
『打ちひしがれたロキたんを俺が全力で慰めるに
『賭けになってねーじゃねぇか』
見物だ見物だ、と取り巻きだす神々一同。熾烈な争いを続ける女神二柱。そして、それらを呆れて眺める隻眼。
神たちの狂宴は続く――。