自身の命を天秤に載せた、恐らくは人生における最大級の賭け。勝算などあるはずもなく、それどころか実行可能かどうかも不確かなまま賽は投げられた。
「これは……盾?」
だが、アイリスは賭けに勝った。半透明の光の盾――正確には障壁か――が、溶解液の浸食を防ぐ。然しもの酸も、光までは溶かせない。
(これが、わたくしの魔法……)
自分が魔法を使っているという実感が湧かない。何故使えるのかも解らない。しかし、現実は疑問の解消を待ってはくれなかった。
「くっ……!」
己の攻撃を防いだ光の盾に、
盾が軋みを上げる。衝撃が掌にまで伝わるが、後退りはしなかった。それどころか、アイリスの左腕は先ほどから一ミリたりとも動いていない。どうやらこの盾の魔法は、地面に杭を打ち込むかの如く空間に固定され、術者が衝撃でノックバックするのを防いでくれるらしい。だが、逆に言えば、魔法を解除しない限り逃げる事は叶わないという事でもある。
二度目の衝撃。やはり盾はビクともしないが、魔物は諦める事なく、何度もその巨体をぶつけてくる。度重なる衝突によって、黄緑色の皮膚は破け、血の代わりに溶解液を周囲に撒き散らす。
自傷すら厭わない苛烈な攻撃。これを当初からしていれば、アイリスは今頃この世にはいないはずだ。ならば何故、初めからそうしなかったのか。いや寧ろ、何故積極的に攻撃してくるようになったのか。
(魔法に――魔力に反応している……?)
そう思ったときだった。これまでで一番の衝撃が掌に伝わり、盾が
視界が暗転――。次いで、白熱した。
「あっ……ああああああああああ――!!」
まるで、熱した鉄の板を押し当てられているかのような激痛がアイリスの背中を蝕む。
これまでに味わった事のないような痛み。アイリスは、喉が引き裂けんばかりに悲鳴を上げ続ける。
もしかしたら、これはルールを犯した罰なのか。
何だっていい、とアイリスは思う。今は、この焼け付けるような痛みが有り難い。どういう訳か、先ほどから意識が飛びそうなのだ。手放しそうになる意識を、この痛みが繋ぎ止めてくれる。
『……どうしてそこまでして、赤の他人のこの子を護ろうとするの? その盾を消してしまえば、今からだって、貴方は逃げられるかもしれないのに』
それは、悪魔の囁きか。
極限状態まで追い込まれた為か、遂には幻聴まで聴こえ始めたらしい。
『……このまま続けても、ジリ貧なだけ。生きたいなら、その子を置いて逃げなさい。いい具合に、囮になってくれるはず』
悲鳴が消えた。しかし、痛みが消えたわけではない。やり場のない怒りを抑える為に、歯を食い縛ったに過ぎない。
「……ふざけないで」
この幻聴は、決して己の内から湧いて出てきたものではない。そして、このダウナーな声の主は、いつか夢で見た人物ともまた違う。自分も彼女も、絶対にそんな事は言わないという確信があった。
アイリスは眼前を見据える。相変わらず魔物は自分が傷付くのも厭わずに身体を打ち付けている。今だって、アイリスの頭上に体液を落とせば簡単に殺せるだろうに、それを考え付けるだけの知能は最早ないらしい。それでも、あの巨体に押し潰されれば確実に死ぬ。認めたくはないが、幻聴の主の言う通り、このままではジリ貧である事は否定出来ない。
やがて、重々しい溜め息がアイリスの耳朶を打った。
『……貴方には、こんな処で死んでもらっては困るのよ』
幻聴の主は続ける。
『……死にたくなければ、続けて。――【装填】』
「【装填】……? って……え!?」
アイリスは今度こそ驚愕した。役に立たない事を理解しつつも握り続けていたマスケット銃のフリズンが独りでに開閉し、更には撃鉄が引き起こされたのだ。
『……これから貴方が撃つのは、必中の魔弾。けれど、用心する事ね。射手の意思に従うのは六発だけ。七発目の弾丸は、私の望んだ場所にいく』
私が望むのは貴方の心臓、と幻聴の主は言う。
死ぬのは困ると言いながら、今度は逆に殺すと言う。明らかに矛盾しているが、そんな事を指摘している余裕はアイリスにはなかった。
『……それと、もう一つ。この弾丸は、あくまで望んだ処へ当たるだけ。弾丸が消滅すれば、その限りではない』
さあ、どうする――と、幻聴の主がアイリスの耳元で囁いた。
× × ×
アイズは風を纏って疾走しながら、周囲の音に耳を澄ませていた。
闘技場から逃げ出した魔物のうち、既に八体は討伐出来ている。しかし、最後の一体だけがどうしても見付からない。何処かに息を潜めて隠れているのか、それとももっと遠くに逃げてしまったのか。アイズは眉を顰めてどうするべきか考える。――その直後だった。
風に乗って聴こえてきたのは、痛みに耐えるような女性の悲鳴。次いで、何かが激しく衝突する音。
――あそこか。
アイズは地面を蹴り付け民家の屋根に跳び乗り、目的地に向かって一直線に駆けて行く。奇しくもその場所は、今朝アイズがロキと共にフレイヤに会った喫茶店の近くだった。
「……見えた」
喫茶店の近くまで、ものの一、二分で到達したアイズは、高い位置から周囲の様子を伺う。
そして、目に飛び込んできた光景に唖然とした。
「どうして、あの魔物がここに? それに……」
こんな街中にいるはずのない、先日迷宮で遭遇した新種の芋虫型の魔物と、第一級冒険者である【ロキ・ファミリア】の面々を苦しめた魔物の攻撃を悉く防ぎ続ける盾の魔法。
「あの人は、確か」
盾の魔法を操るドレス姿の女性。彼女の事をアイズは知っていた。間違いなく、あの時酒場でベートに冷や水を浴びせたフード姿の女性であるという確信がある。そしてその事実は、アイズにとって別の意味があった。
(あの子の、知り合い……)
アイズがミノタウロスから助け出した、兎のような白髪の少年。彼はあの時、偶然にも同じ酒場にいたのだ。
ドレス姿の女性が、ベートにいきなり冷や水を浴びせたのは、きっと怒っていたからだ。少年を侮辱したベートに対して、きちんと自分の気持ちを行動で示した。それは少し羨ましい、とアイズは思う。アイズはあの時、何も出来なかったから。
そして、今はどうだろう。ここに来て、どうすればいいのか解らなくなっている自分にアイズは気が付く。
彼女なら、たとえ自分が手を貸さずとも、あの魔物を倒してみせるのではないか。
少なくとも、あの盾の魔法は非常に堅牢だ。もしも今、攻撃魔法の詠唱中であるのなら、自分が横から出て行ってあの魔物を倒してしまえば
普段なら考えもしない事が、次々と頭の中に浮かんで来る。先ほどまではあんなに遠くの音まで聴こえていたのに、今はもう全ての音が遠くに聞こえる。
だが、それでも――。その澄んだ声だけは、不思議とハッキリ耳に届いた。
「ヴァレンシュタイン! 風を纏わせてくださいまし!」
何に、とは聞くまでもなかった。
アイズは小さく息を吸い、風を操るべく声を発した。
× × ×
必中の魔弾――。言葉通りなら、左手を使えない今の状態でも、狙い違わず目標を撃ち抜く事が出来るだろう。問題は、『魔石』に到達する前に、魔物の体液に弾丸が溶かされてしまう事だ。
何か、ないか。
ここまで反則級の特権を与えられておきながら、負ける事など許されない。何より、もう二度と諦めたくない。
活路は必ず存在する。只、自分が気付いていないだけ。
(見付け出せ……!)
己を叱咤し、霞み始めた両目を見開く。
そして、それは現れた。
陽光を反射して煌めく
忘れるはずがない。オラリオ最強の一角にして、ベルの命の恩人である少女。【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタイン。
アイリスはここ数日、アイズについて少しだけ調べていた。得られた情報は、殆どが下らない与太話で、有用なのは二つしかなかった。彼女がLv.5の冒険者であるという事と、風を操る魔法剣士であるという事だけ。だが今は、それが突破口になる。
「ヴァレンシュタイン! 風を纏わせてくださいまし!」
聞こえるだろうか。通じるだろうか。少しだけ不安に思いながら、アイリスは懇願する。
反応は直ぐにあった。携えていた細剣を鞘に納め、アイズは口を小さく開いた。
『……運がいいわね。告げる言葉は――』
幻聴が止み、アイリスは迷わず引き金を引いた。
狙うは、
「【フライクーゲル】……!!」
「【エアリアル】」
二つの声が、重なった。
上空へと放たれた闇色の弾丸に風の衣が纏われ、
『――――――――ッ!!』
それは、最後の悪足掻き。
だが、その最期の攻撃も、消えかけた残照に阻まれる。
『――――』
蛍火が散り、白い花が咲いた。
『魔石』を撃ち抜かれた魔物は死体すら残さずに、灰の山と化す。
薄れていく意識。迫り来る地面。もう、焼け付くような痛みは感じなかった。
アイリスは瞼を閉じ、安堵しながら眠りに付いた。
アイリスとアイズの共闘。これを書く為の第一章だったと言っても過言ではないでしょう。
次回は原作主人公の奮闘とエピローグになる予定(あくまで予定)