鞍を取り付け終え、馬を引いて少女は一旦昨夜泊まった宿へと戻ってきていた。正確には、宿の中庭で佇む少年のところに、だが。
「あ! お姉ちゃんお帰り!」
「ええ、ただいま戻りましたわ」
少女の姿を認めた少年が大きく手を振り、少女はそれに笑みで答えた。
少女はこの少年――宿で下働きをしている一〇歳くらいの子供――に出かける前に荷物を預けていた。下着などの衣類や雑貨の入った
少女は少年から荷物を受け取り手早く中身を確認してから、遠い昔に少女の母がしてくれたのと同じように少年の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、坊や。お蔭で凄く助かりましたわ。これ、余り多くはありませんけど……」
そう言って、今度は少年の小さな手に銀貨を数枚握らせる。
「これで、何か美味しいものでも食べてくださいまし。ご主人には内緒、ですわよ?」
しぃ~、と唇に人差し指を付けて少女がウィンクすると、少年は頬を赤らめながらも大きく頷く。
「うん……! ありがとうお姉ちゃん!」
それから少女は昨日のうちに買っておいた一週間分の食料とエプロンドレスを左右の鞍袋に納め、更に鞄と筒をそれぞれ鞍袋の上に紐で括りつけた。これで出発の準備は整った。
少女は少年の頭をもう一度撫でてから、町の出口を目指し手綱を引いて馬と一緒に歩き始めた。
「お姉ちゃんまた来てね~!」
少年の声が背中に降りかかるが、少女はもう振り返らなかった。少年の純真さに少女は心洗われる思いだったが、同時に自分が
町を抜け、民家が疎らになってきたところで少女は馬に乗った。乗馬の経験はあったが、長いスカートのせいで少々手間取った。
その後は快適だった。鞍は中々に良いものだったらしく、馬の気性が穏やかなのも相まって乗り心地は悪くない。
町を出発してから数刻が過ぎ、小さな丘を越えた辺りで少女はふと気付いた。
「そうでしたわ。まだ貴方に名前を付けていませんでしたわね」
馬は少女の足であり、旅の仲間である。名前が必要だ、と少女は思う。それから少女は瞑目し、むむむっと唸り始めた。
「……白王号。……ああ、そういえばこの子雌でしたわね。では、スノーファイアなんてどうでしょう? ……駄目ですわね、パクリ臭いですわ」
それからも少女は次々と名前を列挙していったが、どうにもどれもこれもしっくり来ない。だが、数がとうとう三桁に達しようとしたところで、少女に閃きという名の電流が走った。
「ハッ……! そうですわ。白王……ハクオウ……ハクトウ……白桃……。良いですわね、白い桃。この子の毛の色にぴったりですわ」
佐目毛というのは純粋な白ではなく、淡いクリーム色なのである。それが昔食べた桃の色と重なったのだ。
「流石わたくしですわね。我ながら、素晴らしいネーミングセンスですわ」
ふふん、と大きな胸を張り、口角を片方だけ吊り上げるという器用な真似をする少女にツッコむ者は……今はまだ、誰もいない――。
× × ×
「――火起こしって、一体どうすればいいのでしょう……?」
途方に暮れ振り仰げば満天の星空。はぁ~~、と少女は感嘆の溜め息を漏らす。
「綺麗ですわねぇ……。人がいない地域だからでしょうか? ……まあ、人がいないということは、火起こしのやり方を尋ねることも出来ないということですけど」
詰みましたわね、と少女はがっくりと項垂れる。これでは今晩の夕食は冷や飯確定だ。船内での食事とさほど変わらない。
取り敢えず枯草や乾燥した木の枝を集めてみたまでは良いものの、肝心の着火方法が解らない。常識がないと言われればそれまでだが、少し前まで少女は正真正銘のお姫様だったのだ。火起こしのやり方が解らないくらい大目に見てほしい、と少女は思う。しかし、大目に見てくれる人間もまたここにはいない。
「弱りましたわねぇ……。そろそろ冷えてくる頃でしょうし……」
問題は温かい食事にありつけないことではなく、夜間の冷気だ。今はまだ辛うじて空気に昼間の温もりが残っているが、それも時機に消えるだろう。
少女の周りには、何処までも続くかのような草原が広がるばかり。当然、風を凌いでくれる壁などありはしない。
そして、最大の懸念は――。
『ザッ』
風に揺れる草の
「……っ! 生憎と、今夜の逢瀬は受け付けておりませんわよ……!」
少女は舌打ち混じりに悪態を吐くが、その後の行動は迅速だった。
荷物は捨て置き、白桃に直ぐさま飛び乗った少女の手には細長い革製の筒。
「
少女の発破を受け、白桃は全速力で走り出す。そして少女は自らを追うモノの正体を見極める為、手綱から手を放し見返った。
結果的に焚き火が出来なかった事が功を奏した。光源が月と星明かりのみだったが故に夜目が利く。少女のルベウスの瞳は敵の姿を正確に捉えた。
――それは、奇妙な生き物だった。
「……っ!? 話には聞いてましたけど……これが」
少女は知る由もなかったが、少女を獲物と見定め追い縋るのは『リザードマン』と呼ばれる人型爬虫類のモンスターである。個体によっては非常に知能が高く、石器や骨角器を用いて『狩猟』を行う。実際このリザードマンも、その手に無骨な石槍を握り締めていた。
絶体絶命。誇張ではない。少女の細い身体など、槍など使わずとも腕のみで易々と引き千切る事が出来るだろう。
だが、少女は悲鳴を上げて取り乱すような真似はしなかった。『王族』のプライド。
「……!」
意を決し怪物に背を向け、少女は革筒から『それ』を抜き放つ。
月明かりに照らされ、鈍く光るは
――《フリントロック式.69口径マスケット銃》。神聖ハイランド王国で開発され、しかし『欠陥品』の汚名を受ける事となった『火薬』を用いた試製武装。少女はそれを城から逃げ出す際に持ち出していた。
モンスターの存在は以前から聞き及んでいた。だが、如何に巨匠の鍛えた名剣を携えようと、女の細腕では満足に扱う事すら叶わない。剣を振るう前に、こちらの首が先に落とされているのがオチだ。
ならば、何を持ってすればあのような怪物と渡り合う事が出来るのか。――さあ、答え合わせの時間だ。
銃を水平に構え、撃鉄を僅かに起こしハーフコック・ポジションとし、フリズンを開く。次いでケープの下に忍ばせていた『紙製薬莢』を一発取り出し、
「……んっ」
何処か蠱惑的な吐息を漏らし、噛み千切る。そして、開いた穴から少量の火薬を火皿へと注ぎ、フリズンを再び閉じる。更に今度は銃を垂直に構え、銃口から残りの火薬と球形弾をともに
振り返り、両手で銃を油断なく構える。
リザードマンは未だ追って来ている。人の少ない平原だ。恐らくは久方振りに見付けた獲物なのだろう。向うも生きる為に必死なのだ。だが、少女も大人しく食われてやる気は毛頭ない。
(……目標までの距離はざっと一〇〇メートル――駄目ですわね)
《マスケット銃》の有効射程は約一〇〇メートルとされている。だが、揺れの激しい馬上での射撃だ。おまけに少女は経験も乏しい。ぶっつけ本番も同然だった。
(もう少し、距離が詰まらないと……)
そう思った矢先、白桃の走るスピードが急激に緩みだした。少女の意思を汲み取った――のでは勿論なく、全速力で走っていた為にスタミナ切れを起こしたのだろう。だが結果として、怪物との距離は徐々に縮まり始め――。
九〇……八〇……七〇……六〇……。
(……五〇。今ですわ……!)
目標に照星を合わせ、引き金を引く。それにより撃鉄が作動して火花を散らし、銃身内の火薬に点火した。
『パンッ』
「くっ」
乾いた破裂音。硝煙の香り。そして――ドサッ、と血飛沫を撒き散らし、
「はぁ……はぁ……」
汗がドッと噴き出す。優雅さの欠片もありはしなかったが、命のやり取りを演じたのだから当然だろう。少なくとも、少女は無事生き残ったのだ。
「……荷物を取りに戻らないといけませんわね」
呼吸を落ち着かせた少女は最後にそう呟いて、もと来た道をゆっくりと戻り始めた。