そこにはいつもの見慣れた光景が帰ってきた。
その光景を守るために彼は。
では、どうぞ。
11 彼らの平生は続かない
6月16日 火曜日
退院した雪ノ下が学校に復帰した。
校門に横付けされた黒いリムジンから降りてくる普段と変わらない姿。凛とした佇まい。周囲を威圧するかの如き冷気も、かつての雪ノ下雪乃そのものだった。
「ヒッキー、ゆきのん学校に来たよっ。ところで…その足どうしたの?」
由比ヶ浜はその喜びを落ち着きの無さで表す。
「はちまん、よかったねっ。あれ、その足」
戸塚も嬉しそうに、その天使級の笑顔を惜しげもなく振りまく。遠くの席で葉山がこちらを見て微笑む。つられて三浦もにかっと笑う。すれ違う川崎もぽんっと肩を叩いて笑みを零していく。
「つーか、俺を祝福すんな。お祝いなら本人に直接言えよ」
と不機嫌に呟くと、すかさず戸塚が笑顔で俺を宥める。
放課後
奉仕部部室
由比ヶ浜結衣は「待て」を言いつけられた犬のように落ち着きが無い。今にも飛び掛からんばかりにソワソワとしている。
無理も無い。この一週間近くずっとお預けの状態だったのだ。
湿った音を立てて部室のドアが開くと、平塚先生が入室する。
その後に続く人物こそ由比ヶ浜結衣が待ち焦がれた、奉仕部の部長。
雪ノ下雪乃だ。
「ご心配をおかけしました。おかげ様で退院できました」
由比ヶ浜、平塚先生、そして俺の前で感謝の意を述べる。
すかさず雪ノ下に抱きついて久々のゆるゆりを堪能する由比ヶ浜。それを涙ぐんで制止する平塚先生。零れそうになる笑みを歯を食いしばって堪える俺。
「おかえりゆきのーん。ゆきのんゆきのんっ」
「お帰り、雪ノ下」
「よう」
雪ノ下を囲む友人と顧問。そしてそれを傍観する俺。
ふと雪ノ下の視線が長机の下、俺の足元へ向く。
「しばらく見ないうちに変わったわね比企谷くん。特に右足が」
久しぶりに見る笑顔。
「ほっとけ、階段踏み外しちまったんだよ」
「あなたって、人の道だけでは飽き足らず階段までも踏み外すのね」
「復帰早々辛辣だ!?」
この会話のリズムは何事も無かったあの日のままだった。
「ま、人の性質は入院したくらいではそうそう変わらん、てことだな」
「あら、あなたにも入院をお奨めするわ。隔離谷くん」
「いまさら隔離されても、ぼっちであることに何ら変わりはないからな。無駄だ」
暴言や突っ込みが飛び交う部室。そこには誰一人としてあの日の事件のことは口にする者はいない。
「まだ病み上がりの身なので、とりあえず今日はご報告だけさせていただいてお先に失礼します」
再び一礼をし、出口に向かう雪ノ下を名残惜しそうに呼ぶ由比ヶ浜。それを鼻声で制止する平塚先生。
皆一様に雪ノ下雪乃の快気を心から喜んでいた。
雪ノ下が退室したあとも部室の中は彼女の話題一色だった。
「ゆきのん、元気になったみたいでよかったね、ヒッキー」
今度は俺に抱きついてくる由比ヶ浜を引き剥がそうとするが、こいつ案外力が強いんだよな。
仕方がないので口頭で注意する。
「おい、平塚先生が睨んでるぞ」
事実だった。
いや、睨むどころか両手の指をパキパキと鳴らしながら立ち上がろうとまでしている。
「お前ら、いちゃつくなら余所でやれ。ここは神聖なる学び舎だ」
放たれる怒気に気づき、ぱっと俺から身を離して平塚先生に頭を下げる由比ヶ浜結衣。
「す、すいません。これからは二人っきりの時に…」
「歯を食いしばれ比企谷…抹殺のオォ――」
「なぜ俺に怒気を向けるんですか。どうみても由比ヶ浜が俺に…」
「問答無用!」
ラストブレットが俺の耳元を掠める。拳を引く平塚先生はふんっと鼻を鳴らして微笑む。
その生温かい空気に、俺が余計な水を指す。
「…雪ノ下の登下校は心配ないんですか?」
これだけは確認しておきたかった。雪ノ下を襲った犯人はまだ捕まってはいない。再び襲われる可能性だってある。いや、その可能性のほうが高いといえる。
平塚先生は、少し俯いたまま窓の外に目を向ける。
「あ、ああ。しばらく…というより、事件が解決して安全が確認できるまでは、ご実家の車で送迎するそうだ。心配は無用だ」
話し終えたその視線は俺を捉え、微かに笑う。
「よかった…あたしもそれ、すっごく心配だったの」
安心したのか、顔面がふにゃふにゃになる由比ヶ浜。その緩んだ顔が妙に嬉しくて、じっと見てしまった。
ふと由比ヶ浜と視線が合わさる。
「…よかった。ヒッキーも、ちゃんとキモいし」
「ちゃんとキモいって何だよ。俺のキモさはマストかよ」
頭のお団子をいじりながら由比ヶ浜は口の中だけでもにょもにょしている。
そんな光景を遠い目で眺めていた平塚先生がふと立ち上がった。
「あー比企谷、ちょっと来い」
手招きをする平塚先生へ顔を向ける。
「何ですか…ぐっ!?」
いきなりのヘッドロック。痛い痛い痛いでも柔らかい痛い。
腕がぐりぐり、胸がむにむに当たる俺の顔、耳元に平塚先生のほんのりニコチン臭い息がかかる。
「おまえ、妙なことを考えるなよ」
大人の女性の香りに包まれながら、その香りの主は俺に根拠の解らない釘をさす。
「無理です、こんなに密着されたら妙な気持ちに…ぐぎっ!」
俺を締め上げる腕に、更に力がこもる。
「事件のことは警察に任せろ、と言ってるんだよ。ぐぎがや君」
大人の女性の激しいスキンシップに遭遇している俺を見て由比ヶ浜は苦笑している。
「はあ、解ってますよ。俺だって怖いの嫌ですからね」
ヘッドロックが解除される。と同時に両頬が大人の女性の掌に柔らかく包まれる。
「本当だな? これ以上、私の生徒が傷ついたら、泣くぞ」
先生の目を見ると、本当に今にも泣きそうなくらいに潤んでいた。不謹慎にも程があるが、その優しくて寂しい表情に目を奪われる。
「私は泣くとしつこいぞー比企谷」
そこには先程の美しい大人の女性の顔は無く、平生の教師の顔が笑っていた。
「はいはい、わかってますって」
「約束だぞ、比企谷」
そういい終らない内に、俺の全身は平塚先生に包まれていた。
先生、優しいな。可愛いな。いや、やっぱり綺麗と表現するべきか」
「な!? か、可愛い…綺麗…だと?」
あれ?
「何を言ってるんだお前は…仮にも私とお前は教師と生徒、そんなこと言われたら静…」
どうやら心の声が漏れ聞こえていたらしく、平塚先生は俺を抱いたまま身を捩じらせる。
「むぅ、ヒッキー!?」
膨れてリンゴ飴みたいに丸い顔をした由比ヶ浜が俺の耳を引っ張る。
これだ。この感じだ。懐かしいな。俺は悪くないのに由比ヶ浜に怒られる感じ。
これこそが俺が取り戻したい平穏であり、平生だ。
だから。
だから俺は、平塚先生の訓告を破る。
後顧の憂いを絶つべく。
「…あ、もしもし比企谷です。あの時の運転手さんの件で…はい」
お読みいただきありがとうございます。
第11話、いかがでしたか?
うーん、書くって難しい。
こんな駄文に35件ものお気に入り登録をしてくださった皆様、本当にありがとうございます。
ではまた次回。