疑念を抱く由比ヶ浜結衣。
さて、どうぞ。
25 彼と彼女は隠せない
翌朝。見慣れない空間の中。
聞き慣れた声の、聞いたことのない優しい声音によって俺、比企谷八幡は目を覚ました。
「小町~あと5分だけ…」
「残念だけど小町さんではないわ。起きなさい」
時間を確認しようと、ごそごそとスマホを探そうとして自身の両手の怪我に気づく。
「…っ」
その痛みによりやや覚醒した俺は、今自分が沈んでいる大きなソファーから身体を起こす。
背中の柔らかく添えられた手に助けられて、そのままソファーに座った。
「おはよう比企谷くん。やっとお目覚めかしら?」
背中を支えてくれた手の主である雪ノ下雪乃は、優しい微笑で俺を包む。
「お水、飲む?」
そういう雪ノ下の手には、すでに水が入ったグラスが準備されている。お言葉に甘えて一口飲ませてもらうと、そこで漸く現在の状況の把握に務めた。
俺は昨晩、雪ノ下のマンションに招かれて夕食をご馳走になって、髪を洗ってもらった後…、多分だがそのまま寝てしまったのだろう。
「夕べあの後、その…ソファーで寝てしまったけれど、身体は痛くないかしら?」
「ん? ああ、大丈夫」
未だ視点が定まらない寝ぼけた目で雪ノ下の顔をぼーっと見る。
「…綺麗、いや可愛い」
寝惚けているせいで思考がそのまま口に出る。
「そ、そう…ありがと…」
毎朝こんな微笑に起こされる奴は幸せだなとか愚考しつつ、いつもの癖で頭を掻こうとする。
「痛っ」
右手に負荷をかけた瞬間に、刺すような痛みが走る。
「だ、大丈夫!?」
またしても自身の怪我を失念していた俺の愚挙に、雪ノ下は慌てた声を上げる。
そういえばこいつが慌てる姿って、あんまり見ないよな。
「もう自分の怪我を忘れてしまったのかしら。あなたってニワトリみたい」
いつもの暴言ではない。かなりソフトな言い回しだ。それどころか若干甘い空気さえ漂っている。
「ほら、掻いてあげるわ、どこが痒いの?」
雪ノ下の指先が頭皮を探る。その柔らかな指の感触に敏感に反応して、声を漏らして身を捩ってしまう。
「どうしたの? そんな声を出して」
仕方ないじゃん思春期だもん。超敏感肌なんだもん。
ふと気になり自分の股間に視線を落とす。
よかった。男性特有の朝の生理現象は発現していない。もしそんなモノが発現していたら即通報の憂き目に遭っていたに違いない。
「なあにその顔、気持ち悪いわね。さ、その汚い顔を洗いましょう」
暴言を吐きながらも楽しそうに顔を綻ばせる雪ノ下を見ていると、何故か妹の小町を思い出した。
小町は俺が帰ってこなくて心配して…る訳ないか。
「大丈夫よ。小町さんには電話で説明しておいたから。後で教科書を取りに行きましょう」
どうしてこう、ナチュラルに思考を読まれるのかな。魔女なのかな。
「シスコンのあなたが考えそうなことぐらい予測できるわ」
また読まれた。そう考えると、俺って別に無理して喋らなくても良いのではないか。いや、無理はしてないか。少なくともこいつや由比ヶ浜の前では。
戸塚となら無理してでも喋りたいなぁ。戸塚の笑顔ってマジ福音。
「くだらないこと考えてないで洗面台に行くわよ、ほら」
雪ノ下の手で顔を洗ってもらい、ふわふわのタオルを顔に当てられる。
キッチンには朝食が用意してあり、それをまた雪ノ下に食べさせてもらう。
俺、完全に餌付けされてるな。スポイトを口に突っ込まれたひな鳥の気分だぜ。
恥ずかしい朝食が終わると、ドライヤーとブラシを持った雪ノ下に髪を弄ばれる。
「いいってば」
「だめよ。ただでさえ貴方は目が腐っているのだから、寝癖くらいはちゃんとしないと」
なんか霧吹きで髪を濡らされてブラシを通される。昨晩も感じたけど、これすっごく気持ち良いんだよな。少しこそばゆいけど。
そんなことを思っているうちに、段々我慢が出来なくなってきた。
何がって? トイレだよ。
起きてから…正確には雪ノ下のマンションに着いてからずっと我慢していたが、流石にもう限界だった。
「悪い、トイレ貸してくれ」
細い人差し指に促されてトイレのドアの前まで行く。
しまった。ドアのノブが丸いやつだ。
「はい」
雪ノ下が開けてくれて、中に入る。
「じゃあ、ズボン下げるわね」
「ちょっと待て。それはマズいだろ」
「大丈夫よ。見ないから」
「大丈夫じゃねぇよ。俺二日風呂に入ってない状態だぞ」
怪我のせいとはいえ、二日も入浴出来ない状態ではさぞかし臭うだろう。特に新陳代謝が活発な思春期だもの。
「気にしないわ。貴方のなら」
違うんだよ雪ノ下。お前が俺の背後からズボンを下ろすってことは、下ろした瞬間にお前の顔が俺の尻にニアミスするんだよ。
目を瞑ってもニオイは防げないんだよ。
「…えいっ」
いきなりズボンを下ろされた俺は、初めて涙目で用を足した。
雪ノ下の目の前で尻丸出しで放尿とか、どんなシュールなプレイだよ。
時間は午前8時を過ぎていた。
雪ノ下のマンションで夜を明かしてしまった俺は、いま雪ノ下雪乃と並んで高校に向かって歩いている。
遅刻である。始業前のホームルームには完全に間に合わない。
こんな時間になった最大の理由は、俺の着替えにある。下着を替えろといって脱がそうとする雪ノ下と、それを阻止しようとする俺の戦いで20分を浪費してしまった。
昨日と今日で、俺の黒歴史は格段に増えた気がする。
傍から見たら、今の俺達はどう映るのだろうか。
両手にバッグを提げた美少女と、両手を指先まで包帯に巻かれた目の腐った男。
どう見ても釣り合いは取れていない。美女と野獣の野獣にも負けている。
言うなれば、美女とゾンビ、もしくはミイラ。
これで雪ノ下が銃でも持ってたら完全にゲームの世界だ。
今朝教科書を取りに家に寄った際も、たまたま出勤が遅くて鉢合わせした母親に、似合わないだの、あんたには高嶺の花だの、散々に言われた。
うちの母親には身内の贔屓目なぞ期待できないことを再確認したが、小町だけはテンションを上げまくって昨晩のことを根掘り葉掘り聞き出そうとした。
「本当に何も無かったの?」
「ある訳ねぇだろ。俺は怪我人だぞ。しかも両手使えないし」
「あら、手が使えたのなら私に何か如何わしいことをするつもりだったのかしら」
「しねえよ。そんな恩を仇で返すマネは出来ない」
小町のジト目が、俺達二人の間を往復する。名づけて小町スキャン。怖えぇよ。
「なーんかさ、いつもより雪乃さんとおにいちゃんの距離が近いよね」
「いいからほれ、鞄を肩に掛けてくれ」
はいはいと小町が俺の鞄を持ち上げると、横から雪ノ下がそれを奪う。
「私が持つわ。それくらいさせて」
「いいって。お前には世話かけたし」
またまた小町スキャンが起動する。
「ほほう、雪乃さんにどんなお世話をしてもらったの~?」
俺に問いかけながら視線は雪ノ下を捉えて放さない。
「あ、あの…大したことではないわ。夕食を、その、食べて貰ったのよ」
「…その手でよく食べられましたね~」
「あ、あれよ。介護のようなものよ。それに、その手の怪我は私のせいなのだし」
もう頭から湯気が上がりそうなくらいに雪ノ下の顔は上気している。
「おい、そのくらいにしとけよ。遅刻するぞ」
ニヒヒと笑いながら小町は家の中に戻っていった。
ゆっくり歩いたせいで、教室に着いた頃はもう1時限目が始まる間際だった。俺の姿を見て、すぐさま由比ヶ浜結衣が駆け寄ってくる。
「やっはろ~ヒッキー。あ、いつもと髪型が違う。ちょっとだけかっこいいね。目は相変わらずアレだけど」
朝っぱらからホメとイジリの波状攻撃。そうこうしているうちに、由比ヶ浜が俺の頭の匂いを嗅ぎ始めた。
「ん? くんくん……あー! ヒッキーの髪、ゆきのんと同じ匂いがする~!」
普段注目を集めない俺を戸塚が、川崎が、葉山が、その他の男子が、簡単に言うとクラス全員が見る。
ダンっと机を叩いた由比ヶ浜は頬を膨らませて俺を睨む。
「どーいうこと!? なんでヒッキーの髪からゆきのんの匂いがするの!?」
どうしたものかと言い淀んでいると、透き通った声音が背後から響いた。
「それは、私が説明するわ。由比ヶ浜さん」
雪ノ下雪乃。
F組には滅多に来ない雪ノ下が俺のところへ来ている。それだけでも目を引くのに、その美しい珍客はこともあろうかぼっち兼校内一の嫌われ者である俺のところへ来ているのだから、クラス全員には奇異な光景に映ることだろう。
更に言及すると、校内一の美少女に向かって対等な口を聞き、しかも『お前』呼ばわりする嫌われぼっちに、クラス中から無言の『はぁ?』とか『何様だよ』とか、いろんな感情が渦を巻く。
見回すと、葉山や海老名、三浦は遠くでケラケラと笑っている。戸塚は何故か赤面している。川崎沙希は、ムッとしてそっぽを向いている。
そこで雪ノ下は、普段絶対に言わないであろう、陳腐な言い訳を繰り広げた。
「助けてもらったお礼に、シャンプーとリンスをあげたのよ。小町さんも使えるし」
おい雪ノ下、なんで助けてもらったお礼がシャンプー&リンスなんだよ。言い訳ヘタ過ぎ。つーか、誤魔化してくれるのはいいが赤面だけはやめてくれ。今後の俺のぼっち生活に響くから。
「…ふーん。そーなんだぁ」
ジト目で雪ノ下を見るなよ由比ヶ浜、おまえら友達どうしだろ。いつもゆるゆりしてる仲だろ。そしてクラスの皆さん、見せモンじゃねぇぞこのやろう。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
第25話、いかがでしたか?
前回も感じたことですが、いちゃいちゃを書くのって難しい…
では、また次回。