「先輩、どうしましょう」
ぐいっと、ソファで本を読む俺の膝に跨って、いろはが顔を近づけてきた。
近い、近いよ。
「な、なんだよ……」
普段以上の近距離で見るいろはの顔は非常に目鼻立ちが整っていて、なんで俺がこんなのの彼氏やってんだろうなぁと、ふと疑問に思うまであった。
いや、まぁ、いろはが俺のことを好いていてくれているからなのだけど……。
んんっ、さて、惚気ている場合ではない。いろはがこうまでしているその訳を聞いてやらなければ。
「それはですね、先輩」
「なんだ……?」
「実は、明日で私たちがこういう関係になって、ちょうど一ヶ月なんですよ」
そう言いながら微笑み、いろはは俺に口付けを落とした。
「っ……」
「あはっ、先輩、照れてる」
「うっせ……」
「でも、そういうところは私的にポイント高いですよ、せんぱい……」
言い切るそばからいろはが、すらっとした指先で先ほど口付けを落としたばかりの俺の唇を撫で始める。
「…………」
や、ほんと、勘弁……。
「それで、一ヶ月云々って話は……?」
「ああ、そうでしたねー」
あのまま変な雰囲気にシフトチェンジし始めたところを同じリビング内で寛いでいた小町に正され、俺たちは改めて頭を突き合わせる。
ていうか、居間でなんてことしてんの俺ら……。
……や、いいや。なんかここ最近を振り返ると今さら気がしてならないし。
元よりの話題を突きつけると、いろはは可愛らしく舌をちろっと出したあと、話を切り出した。
「それでですね。なにかこう、普段しないようなことをしたいなーって」
あー、なるほど。
なんとなく予感はしてたけど、女子がやりたがるという、これが噂のほにゃらら記念日ってやつか。
妙にきらきらとした期待の視線を向けてくるいろはが、失礼ながら今は若干ながら面倒くさく見える。
「えー……」
「……先輩、ポイント消滅しそうです」
えー、減少を一気に通り越して?
「まぁ、億劫そうにしそうだなーというのは予想通りなのでいいです」
頬を膨らませて、若干冷たい視線させながら言われてもあんま説得感ないよね。
「そこで。ここは一つ、私が先輩を見事説得して見せようではありませんかっ」
一転して、にこやかに微笑んだいろはが、意味ありげにそう言った。
「説得……?」
「はい、説得」
「お前が、俺を……?」
「はいっ」
思わず胡乱げな目を向けてしまった。
自慢ではないが、俺に屁理屈を捏ねさせたら、この千葉において右に出るやつはいないことだろう。
いろはも頭は回るが事態の展開を導いていくことには疎い。
彼女はどうやれば己が可愛く見えるか、ということにおいては凄まじいまでの戦闘力を誇るが、それも俺には通用しない。
ここ最近のこいつとの付き合いで若干ながら耐性がついたのもあるが、なにより、こいつのあざとさを「はいはい、あざといあざとい」なんてふうに流せるのは、千葉広しといえども俺くらいのものだろう。
「じゃあ、いきますよー……」
また一転。今度は至極真面目そうな表情をしたいろはが、ずずいっと顔を寄せてきた。
すわ、またキスでもされるのかと身構えたが、どうもそういうことではないらしい。顔を寄せたまま、じーっと視線を合わせるだけのいろは。
思わず、身悶えしそうになる。
「な、なぁ、これってなんか意味あんの?」
説得と称するなら、なんかこう、とりあえずなんでもいいから言葉で頑張ってほしいものである。
そんな見つめられても、俺の鉄の意志は折れぬのだ。
「……ね、先輩。私の言うこと聞いてくれたら、今度は私も先輩の言うこと聞いちゃいますよ……?」
「え、マジ?」
ふいに耳元まで寄せられたいろはの口から漏れ出た吐息のようなその台詞に、全俺は敗北の味を知ったのだった。
「で、どうする? 帰る?」
そんなこんなで休日に家から連れ出された俺は、いつも以上にめかしこんだいろはを前に、帰りたいという意志を強くプッシュしたささやかな抵抗を目論んでいた。
「またまたー。そんなことより、先輩、なんか言うことないんですかー?」
「む……」
言いよどむ。
間が空く。
すると、いろはが向けてくる期待の視線がさらにそのプレッシャーを増す。
「きょ、今日はまた一段と可愛いでしゅね……」
はっはっは、今日も空が青いなぁ……。
「さ、行きましょう、先輩」
ほんとに、もう……。
俺たちが二人だって外出する折は、まぁ、情けないことだが、その日一日の予定はほぼほぼいろはの一存で決定される。
たまに俺の意見具申も聞いてくれるのだが、十中八九が彼女のそのときの気分次第だ。
そのことに文句はないし、最初の頃はいったいどこに連れて行かれるのやらと気が気でないことが多かったのだが、それが落ち着いた今となっては、ただ行く先々でいろはが様々な表情を見せてくれるので、それが楽しみの一つだった。
「見てください、これっ。このペンダント、ちょーよくないですかっ?」
ちょーかわいー、と陳列台に並べられていたアクセサリーを手に取ってはしゃぐいろは。
定番の可愛いって言う私可愛いアピールである。
「あー、そうだな」
かつては普通に流せたそんな仕草でさえ、今になって見てみると、その破壊力の高さを思い知らされた。
なにこれ、ちょーかわいーんですけどー。
「もう、先輩、真面目に聞いてますー?」
下から覗き込むようにして、抗議の視線を向けてくるいろは。
彼女の表情の移り変わりをただぼうっと見ていたからか、肝心の彼女自身への応えがおざなりになってしまっていたらしかった。
「ん、聞いてるよ」
ぽん、と頭に手を乗せて、それから、いろはが先ほどまで手に取って値段札と見比べて難しそうな顔をしていたペンダントを摘み上げる。
「先輩……?」
訝しげにするいろはをいったん放っておいて、レジに向かう。
会計を済ませた頃になって、ようやっといろはが状況に追いついてきたようだった。
「せ、先輩、そ、それ……」
「ほら、いろは……ちょっと、動くなよ……」
「あ、せ、先輩……」
後ろから服の裾を摘んできたいろはの正面から、購入したばかりのそれを首にかける。
巻き込まれた栗色の髪を持ち上げて、優しく梳く。
「……ん、似合ってる。な、ちゃんと聞いてただろうが」
「…………」
「……いろは?」
「……先輩、ちょっとこっち来てください」
俯き、黙していたかと思えば、ばっと素早い動きで俺の手を掴むと、これまたボ○トも斯くやという速さで店を退出し、人目の消える裏道まで俺はいろはに引き摺られていった。
「ずるい……先輩、ずるいですっ……!」
人目が消えた途端、形振り構ってられない様子で、いろはが飛び込んでくる。
手を引かれた瞬間、頬に赤を差して、口角が釣上がるのを必死に隠していたのがちらっと見えたから、薄々予感はしていたが、どうにも、実際にやられると結構痛い。
「つってもなぁ……」
記念日だって言うし、話もちゃんと聞いてたし。だったら、ちょうどいいかなぁって。
「もう、もうっ。……先輩っ」
「お、おう」
「ずるすぎです!」
満面の笑みと共に近づいてくるいろはの唇を、今度はちゃんと照れることなく、俺は受け止めたのだった。