ほんと、なんだろね、これ。
まぁ、平塚さん書けたからいいや。
「ほら、飲みたまえ」
こと、と卓上におかれたマグカップには、並々とコーヒーが注がれていた。
おかまいなく、と一瞬そう言おうとして、べつにそんな仲でもないかと素直にただ礼を口にする。それに満足げに一つ頷いた静さんは、卓を挟んだ対面に腰をおろす。
にしても。なんでまた、こんなことになっているのだろうか。休日の真昼間っから、高校の女性教師の自宅に男子生徒が上がっているなんて、よくよく考えなくても違和感のあるシチュエーションである。
静さんは俺が国語の成績を学年トップに押し上げたそのお祝いだなんて言っていたけれど、果たして、ただそれだけのために独り身の自宅に俺を上がらせるだろうか。いや、それを言うなら、一介の生徒である俺だけのために、こうして休日を潰してまで共に喜んでくれるのは、いったいどうなのだろうな。まぁ、人柄といえば、それだけで終わる話ではあるが。だって、あの静さんだし。
「なんだ、そんなに見つめられると、照れるぞ」
なんてことを、静さんの私服姿を眺めながらつらつらと考えていたのだけれど、
「いえ、なんか、私服もかっこいいなーって」
「なんだ、もっと女らしい服装のほうが、君の好みか?」
「……まぁ、そのほうが静さんがもっと映えるとは思いますけど」
「そ、そうか……」
それにしたって、こうしているぶんにはなんの実害もないわけで、むしろ役得ですらあるわけで、いっそいつもどおりにしていればいいか、なんて、そんな結論に至る。
べつに、断じて、静さんの普段見ない一面に思考放棄したとかではないことを、ここに明言しておくことにしよう。
「……ふむ、なら、少し着替えるかな」
はにかむように俯いていた静さんが、おもむろに立ち上がって、隣室へ移動するそぶりを見せる。
「え、着替えるんですか……?」
この状況で、それは、少しばかり勘弁してほしい。
ただでさえ、憧れの
「君が恥ずかしがってどうするんだ。……それに、見たくないのか?」
故意に主語の抜かれた、そこはかとなく蠱惑的な調子のその問いに、たまらなくなって、抗議の体をとっていた視線を取り下げる。
「ふふっ、素直な君はかわいらしいのだな……」
「っ……」
どことなく艶然なその言葉が、否応もなく年上の女性を思わせて、一気に顔が紅潮するのが手に取るようにわかった。
「で、どうだろうか……?」
数分後、見事なまでに変身を極めた静さんが、眼前にいた。
「…………」
「いや、まぁ、その、女性らしい服は生憎持ち合わせていなくてな。が、これだと、女性の武器は強調できるだろう」
チューブトップにホットパンツ姿の静さんは、そんなことを言いながら、惜しげもなくその柔肌を晒していた。
「…………」
「ん、どうした、比企谷。……その、こういうのは趣味ではなかったか?」
正直、こういうのは、本当、どう反応すればいいのかわからない。
が、しかし、たまらなく好きだということはたしかだった。
「いえ、好きです」
少なくとも、咄嗟にサムズアップしてしまうくらいには。
「そ、そうか……!」
顔を喜色一面にして、静さんがやにわに柔和な笑みを浮かべた。
そして、その姿のまま、彼女は俺の背後に回りこみ、あろうことか、俺を背中から抱きすくめる形で密着してきたのだった。
「って、な、なにしてんですかっ……!?」
「んー? ふっふっふー」
やや高くなったトーンで嬉しげに笑う静さんは、俺のその抗議を黙殺し、さらにぎゅぅっとその豊満な肢体を惜しげもなく押し付けてくる。
唐突なことで、頭の理解が追いつかず、かといって静さんを乱暴に扱うこともできず、されるがままになっている俺は、差し詰め、抱き枕といった体だ。
「比企谷、君、以外と筋肉がついているのだな」
「……まぁ、男ですし」
「ふふっ、そうだな。君は、男だよ」
やはり艶やかな声音で、静さんはそう口にし、俺の首筋に頭を埋めた。
「し、静さん……?」
「ん、どうした?」
「いや、どうしたって、そりゃあなたのほうですよ……」
「まぁ、そうかもな」
悪びれもせず、あっさりと己の否を認めた彼女は、しかし、燦然と光り輝くような笑みを浮かべると、俺の額を小突いた。
「あたっ」
「でも、悪いのは、比企谷だぞ。私の否より、君のが遥かにひどい」
「なんなんですか、もう……」
「なにって、君、いつも私のことを見ているだろう」
「うぇっ」
まさか、知られているとは思わなくて、突然の指摘にしどろもどろになる。
いやいや、冷静になれ。一応隠す気はあったとはいえ、こちらがガン見しているのだから、あちらが気づいたって、べつだん不思議なことはない。
冷静に、冷静にだ。
「ところ構わず不躾な視線を投げかけてくるものだから、その、まぁ、あれだ……」
はにかみながら言いよどむその様が、冷静な部分に一気に熱をふきかけた。
ああ、これ、駄目なやつかも……。
「その、だな……私も、大人気なく、その気になってしまったというか、だな……」
俺の肩の上に顎を置いたままそっぽを向きながら、静さんは独白するように、そう紡いだ。
「…………」
「べ、べつに誰彼構わずこうして部屋に連れ込んでいるわけではないぞ……?」
こういった気持ちを抱いたのは、君だけで、それにこういうのは、本当に久しぶりなんだ……。
そんな破壊力の高すぎる台詞を静さんは、意図せずしてだろうけど、ばらまいた。
なんだこれ。
なんだこれ。
これが、あの静さん……?
あれだけ凛としていて、パンツスーツを着こなしていて、普段は少しばかりヤニ臭さがまとわりついてて、無類のラーメン好きでいて、ちょっと古い感じの熱血展開が好みの、あの静さん……?
しかも、彼女は教師で、俺はその生徒だ。年齢も一回りは離れているだろうし、社会的な立場だってある。たしかに普段から彼女に熱視線をやっていたのは本当のことで、それはなんかこう、純粋な気持ちに付随してのものだった。けれど、ただ近くで見ているだけでよかったのだ。本当に、それだけで……。
なんて、そんな殊勝な心意気を、持ち合わせているには持ち合わせているが、現状、そういうのは心底どうでもよかった。
「その、比企谷……?」
うつむいたまま、俺が反応しなくなったからだろう。
声音に不安を走らせた静さんが、肩越しに俺の顔を覗き込んできていた。
なに、俺がガン見しまくったから、静さんも満更でもなくなって、こうして休日にわざわざ理由までこじつけて、二人きりの時間を作ってるって?
しかも、静さん自身の部屋で?
「…………」
「ひょ、ひょっとして、その、私の勘違いだったのか……?」
なんだこれ。夢じゃねぇの。
え、なに、なんで。と、黙り込む俺に、静さんが一人で早合点して顔を青くしているのが横目に捉えられた。
「比企谷、な、なにか言ってくれ……」
背中に張り付いていた静さんは、殊更にその流麗な肢体を押し付けてくる。
俺が無言でいるための不安が、彼女の胸中を埋め尽くしているのだろう。
対して俺は、なんというか、落ち着いていた。
平塚静という
はじめは一目惚れで、授業や生徒指導を通して、その人柄にも好意を抱いた。
そんな焦がれ続けた憧憬が、今、眼前にあるというのに、俺の心境は酷く穏やかだったのだ。
「静さん」
「比企谷……」
――――伝えてもいいんだ。
「俺、好きですよ。静さんのこと」
「比企、谷……」
――――傍にいても、いいんだ。
ずっと、互いの立場のために、俺は静さんのことをただ焦がれ続けるだけの存在として、割り切っていた。
けれど、もうそんなことはしなくてもいい。
一緒に、どこまでも、いつまでも。
「――――好きです」
「――――ああ、私もだ」