ご無沙汰でございました。
今回は陽乃さんの一幕をご覧あそばせ。
彼は
趣味を見つけてはどうか、と以前に言われたことがある。
そのときは急に言われたものだから、面食らって思わず考え込んでしまい、自分の無趣味さ加減を省みたりしたものだが、しかし、それは生来のものだからして、いきなりそうは変わったりしないのである。
周りがこぞってこんなのはどうか、等といくつか提案を受けたりもしたが、どれもそれほど琴線には触れなかった。だってサバゲーとか柄じゃないし。釣りはちょっと興味あるんだけど、やっぱり道具揃える系のは学生にはキツいものがあるだろう。
まぁ、それはさておき、今になって思ってみれば、俺はどうにもなにか文字を連ね、文章を作るということが思いの外好きなようで、国語学年三位という肩書きがもたらすちっぽけな自信も手伝ってか、ふと思ったのだ。
材木座義輝のように、書き物をやってみるのも悪くはないかもしれないな、と。
俺という横着者にしては珍しく、思い立ってからは早いものだった。
まず、書きたいものを考えた。存外に、これはあっさりと決まってしまう。
たいしたことなどこれといってない俺の生涯からなにかを書き出してくるのはあまりおもしろい出来になるとは思えなかったので、知人の人物像を少しばかり拝借して、物語の軸に立つ人物に被せることにしたのだ。
幸いにして、俺の周囲には個性的ともいえる面子が揃っていた。そして、俺はその中からとある人物を選んだ。
内側にあるものを絶対に表に悟らせず、まさに見たまんましか伝わってこない彼女のことをモチーフに、俺は文章の作成に取りかかった。
おおまかな話の筋を作って、プロットを練って細かい設定を詰めていく。それらをまず書き出してから、本文に手をつけ始めた。
最初はやはり、ところどころで行き詰まって、思うようにいかなかった。
文章のムラ。誤字、脱字。書きたいものがあるのに、それをどのように表現し、描写すればいいのかがわからない。いくら国語学年三位だからといって、そんな肩書きがこういったものにまったく関係のないことを身を持って実感した。なんなら材木座のことをちょっとばかり尊敬しかけたまである。寸前で踏みとどまれたのは幸いだった。
区切りのいいところまでを一息に書いてしまって、添削し、読み直すという作業を繰り返す。
家のパソコン、学校では部室のパソコンを使わせてもらって、俺は書き続けた。
人が変わった、というか、今までにないことをやり始めた俺に周囲は少しばかり驚いたようだったが、その行動に害がないことを察すると早々に放置してくれたので、初めての試みから若干気恥ずかしさのある俺にとってその対応は好ましいものであった。
そして、そんなこんなで一月と少しばかりが過ぎ去ったある日の朝のこと。
俺の目の前には、十万と少しばかりの字数から成る作品がきちんと出来上がっていた。
書き上げ、プリントアウトしたのは昨夜なのだが、どうも一も二もなく読み始めてしまって、気づけば朝日が昇ってしまっていた。経過時間から察するに、何度か読み返してまでこの作品を堪能していたらしい。
とりあえず、作品を脇に置いて、机の上ですっかり冷えきっていたコーヒーに口をつけた。まずい。砂糖やら練乳やらを入れて疑似マックスコーヒー化しているだけに、とても飲めたものではなかった。それでも残りを一気に煽って、深く、深く息を吐き出し、吸う。
瞬間、言い知れない、なにか込み上げるような気持ちが胸中を走り抜けた。
「できた」
思わず、口をついて出てしまったそれを皮切りに、溢れ、こぼれそうになるのを必死にこらえて、自分でもわかるくらいにだらしなくにやけるまでにとどめる。
本当に、少しだけだが、作家病というものの一端を感じられたように思った瞬間だった。
今日は平日であるので、ひとしきり達成感染みたものを噛み締めたあと、登校の準備を済ませる。
いつもよりも早い時間に階下に降りて、朝食を摂り、家を出るまでの間をだらっと過ごす。
やがて小町が支度を済ませて、二人で家を出る。両親はすでに出勤していったので、戸締まりをしてから、一路学校を目指す。
「にしても、お兄ちゃん。最近ずっと様子が変だったけど、今日はまた、一段と変な感じだよ」
自転車に二人乗りをしている後ろから、小町が言葉をかけてくる。
その言葉にふと考えてみると、なるほど、たしかに思考はわりとクリアで、見える景色も今日は違っている気がした。
「――――っと……!?」
「おっ、お兄ちゃん!?」
や、違った。
普通に徹夜明けのあの妙に清々しいテンションなだけだわ、これ。
だって今ハンドル切るのミスりかけたもの。やべぇ、危ねぇ。普通に判断力落ちてるわ、これ。
いや、ほんと危ない。
「お兄ちゃん!」
「……すまん」
もうっ、とぷりぷり怒ってしまった小町を宥めながら、彼女の通う中学校までなんとか無事に送り届ける。
機嫌はそうそう直らないようで、未だ頬を膨らませたままの小町が勢いよく自転車から飛び降りて、前籠から自分の鞄を引ったくる。ぷんすこぷんすこと校舎のほうへ歩き出そうとしたので、今日はいってらっしゃいはなしかなぁと悲嘆に暮れていると、小町はこちらを振り向かないまま、ぽつりと、
「事故だけは、ダメだからね。ゴミいちゃん」
それだけ溢して、いそいそと駆けていってしまった。
お兄ちゃん、それだけでご飯三杯はいけます。これで勝つる。ふはは。
「――――さて」
踵を返して、総武高校へと舵を切る。
早めの時間の登校、そして、小町の心配からふと思い起こされる記憶。が、そんなものは振り払う。今日ばかりは、事故なんて起こしている暇などこれっぽっちもないのだ。
一刻も早く、俺はあの人にこの作品を読んでほしかった。
なぜそう思ったのかは、正直なところ自分でもよくわからない。勝手に登場人物のモデルにしてしまった罪悪感か、その登場人物の顛末を突き付けたいのか、本当によくわからない。
けれど、読んでほしい、とそう思った。
他の誰でもなく、真っ先に、あの人に――――。
学校へ漕ぎ着けて、駐輪場へ自転車を置いて、上履きに履き替えるために正面玄関に回り込む。
「お」
そのとき、視界の端に、俺は彼女を見つけた。
流麗な黒髪は低い位置で二房に結われ、どこか気品さえ感じさせるその容貌は同い年とは思えないまである。あれだけ目立つ見た目の人物など二人とそうはいまい。百人、二百人からの人混みであっても、俺は彼女をその中から見つけ出せるだろうと常々思っていたりする。
「雪ノ下」
背後から、声をかける。
「あら、おはよう。この時間にあなたの顔を見る日が来るなんてね。まさか、」
振り向き様、挨拶とジャブを一緒くたにぶっ放される。
まぁ、たしかに俺はいつもなら遅刻ギリギリの時間に登校しているので、この早い時間にいつも来ているのであろう雪ノ下とは顔を合わせるべくもない。それが、あくまで偶然に過ぎないが、こうしてこの時間に顔を合わせてしまったのだから、まさか、という言葉の後に続く台詞なんて、簡単に予想がついてしまった。
「ちげーよ。そも、俺がお前に好意を抱いてる前提はおかしいって言ってるだろ」
だから、言葉を被せて、先手を打たせてもらう。謂われのないことを言われるのは慣れているが、ないならないほうがいいことはたしかだ。
どうせ、あなたストーカーね、とか言うつもりだったんだろ。わからいでか。
「ま、今日はお前に会いたかったのはたしかにあるけどな。今はこの偶然に感謝しとくわ」
それから続けた言葉に、雪ノ下雪乃は頬を染めてそっぽを向いた。
本格的に俺の判断力とかその辺がなんかもうアレだった。
今日という日に限っては、朝から放課後まで、目が冴えっぱなしだった。
寝不足なのは自覚があるし、実際に眠いのだが、なんというか一向に眠れる気配がなかった。
一日中頭の中を堂々巡りしている今朝の約束が、また思い起こされる。
『――――じゃあ、今日、放課後にね』
今朝、俺は雪ノ下に会いたかったと口にしていたのは、もちろん彼女に用があったからだ。しかし、それは彼女自身へのものではなく、彼女を通じて連絡をとった雪ノ下陽乃へのものであった。
それを雪ノ下に言ったときにはずいぶんと渋られ、睨まれ、詰られたものだが、俺はめげなかった。偉い、俺。
俺は書き上げたこの作品は、雪ノ下陽乃をモチーフにしたものだ。
良家の長女に生まれた女が押し付けられた生き方の中で、擦りきれ、ひび割れ、そしてやがて生まれてきた実の妹に救われ、同時にとどめをさされる。
そんなどうしようもない、ただそれだけの話を俺は書き連ねた。
物悲しいまでの女の半生に、結局のところ、俺は悲嘆からの解放というものを書き添えなかったし、作品の中の女は、悲しい人のままにその幕を下ろされた。
この話は、俺が持つ雪ノ下陽乃への印象とその素性への下らない勝手な妄想からできたもので、ただの作り話に過ぎない。
けれど、やはり、俺はこれを雪ノ下陽乃に読んでもらいたかった。
もし、もしもこの話に続きを書き加えることができるのなら、それは彼女にこれを読んでもらったその後で、それからだと思うのだ。
つつがなく、というか完全に右から左の授業がすべて終わると、俺はさっさと帰り支度を済ませて学校を後にした。
部活のほうへはすでに欠席の連絡を入れてあるし、抜かりはない。
自転車に跨がって、取り付けた約束の待ち合わせ場所に向かう。
しかし、本当に、俺の拙い誘い文句に二つ返事で了承がなされたときなど、暇すぎかよ大学生とか思ったものだが、今回ばかりはそのことに感謝するばかりだ。断られたときのことなど考えたくもなかった。だってほら、たぶん俺が自分から誰かを誘ったのって、高校入ってから、これが初めてだったと思うし。
待ち合わせに指定された駅近くの喫茶店に入ると、店員の対応よりも早く、俺は雪ノ下陽乃を見つけた。
お一人様ですか、と問われる声に、食い気味に待ち合わせなんで、と返す。
その足で湯気を立ち昇らせるコーヒーカップを前に文庫本のページを捲っている彼女の元へ向かった。
「ちわっす」
テーブルの横手で立ち止まって、軽く頭を下げた。
「お待たせしました」
「ほんと、すっごく待っちゃった。こんにちは、比企谷君」
「すんません」
「ふふっ。いいよ。ほら、座って?」
はい、とだけ返して、雪ノ下さんの対面に腰をおろす。
店員に注文を言いつけて、さて、と向かいの女性に視線をやった。
「……あー。どんくらい待ちました?」
誘った側はこちらなのだし、なにか話を切り出すべきだろうと口から出た言葉は、あまりにも当たり障りのないものだった。
眼前の美女と二人きりで、しかも今回は自発的に会っているという事実に自分が緊張しているのを知った。
なにせ、紡がれた声音が若干上擦っている。くっそ恥ずかしい。
「そ、ね……。だいたい一時間とちょっとくらいかな」
形のいい指を顎にあてて、小首を傾げる。
愛嬌のある仕草も、この人がやると途端に艶やかになってしまうのだから不思議なものである。
「すんません」
「だから、いいってば。君は授業あったんだし、私、実は待ってるのも嫌いじゃないってわかったから。ね」
「うっす……」
ゆったりとした調子で言い含める言葉に、安堵を覚える。
やはりこの人は、妹である雪ノ下雪乃が関わってこないところでは、ただの年上小悪魔属性の美人でしかない。それがもうその時点で破壊力抜群なのはこの際置いておく。置いておくのだ、うん。
そうしていくつか言葉を交わしているうちに注文していたコーヒーが出されて、そこでふと会話の尾が途切れた。
互いにカップに口をつける。
そして、
「それで、今日はどんな用があるのかな」
そこで彼女は、俺に水を向けた。
いったんは緩みかけていた緊張の糸が再び張り詰め出す。
ふぅ、と一息吐いて、俺は鞄から二百枚強にもなるA4用紙の束を取り出してみせた。
「それは?」
クリップで留められ、クリアファイルに挟まれただけのそれを前に、雪ノ下陽乃は俺を見据えた。
汗が滲んでくる手のひらを握り込んで、負けじと見つめ返し、問いかけに返答するために口を開いた。
「小説というか、物語というか。まぁ、そんなものです」
「ふぅん。市販のものとも思えないけど、これ、もしかして、」
「そっすね。書きました。俺が」
はっきりとそう言葉にすると、また自信のようなものが胸の内に湧いてきた。
自信の著作であるという確固たる自負がそうさせていた。
そんな俺を見て、雪ノ下陽乃はさも愉快そうに俺とファイルとの間で視線を行き来させ、笑ってみせた。
「ふぅん。そうなんだ」