あの人の背中が消えるまで手を振り続けた。消えた今でも、その方向を私は見つめている。
「……また、来てくれますよね?」
誰かに確認するわけではない、ただ自分に希望を持たせるために呟いただけ。
昨日会ったばかりの人にこれほど惹かれることは普通は無いだろう。しかし、その人との出会いが普通でないとしたら?
……そう、間違いなくそれは普通ではなかった。昨日の記憶が鮮明に蘇る。
…………………………
……………
………
それは、まるで物語に書かれるような出会いだった。妖怪に襲われ、最早助からないと諦めた私を助けてくれた男性。
その男性は目の前に大きな体躯の妖怪が居るにも関わらず、舞台の役者のように振る舞った。余裕であり、優雅であり、取り乱すことはなく淡々と言葉を放ち妖怪を挑発する。
それにのった妖怪が襲いかかってきても動じずに、目に見えない速度で攻撃をしていた。気付けば妖怪は叩きつけられて、音も立てずに着地する。
私の知る限りではこのような身体能力を持った人間はいない、巫女も魔法使いも身体能力自体はそう高くなかった。
だけど妖怪だとしても、これだけ強いなら噂ぐらいは耳にするはず。しかしまったくそんな噂を聞いたことはない……即ち、正体不明。
妖怪に襲われた私を、正体不明のとても強い男性が救った。ありふれた、しかも助けられる役は私と出来損ないのようではあるが本当に一つの物語のようだ。
近付いてきた男性を見上げる。顔立ちは整っており、発せられる言葉は上品で、見たことはないがとても似合った服を着ている。背もとても高い……これで頭がよければ完全無欠、まさに勧善懲悪物の劇の主人公だと思った。
「さて、お嬢さん。お怪我は?」
「……え……あ、だ、大丈夫……です」
モゴモゴとした喋り方になってしまったが、なんとか答えれた。
チラッと顔を見ると、やはり整った顔が見えた。だが、何故か沈んだ表情に変わっていく。聞くと落ち込んだだけと答えてくれたが、何に落ち込んでいるのだろうか?
しかしそれを聞くことは出来ず、急いで帰ることを提案される。それに肯定しつつ、名前を聞いてみる。
「私の名前はズェピア、ズェピア・エルトナム・オベローン。気軽にズェピアとでも呼んでくれ」
微笑みながら教えてくれた名前は、聞きなれない名前。恐らく外の世界、しかも異国の人間なのだろう。それなら知らないのも納得出来る。
ズェピア・エルトナム・オベローン……ズェピア……。幾度か脳内で繰り返してから呼び掛ける。
「ズェピアさん、ですね。私の名前はひ」
「危ない!!」
「え?」
名乗ろうとした瞬間、腕を引かれ背後に回される。何かと思ったが、次の瞬間にそれは分かった。
「■■■■■■!!」
妖怪の咆哮、何かが貫かれるような音。その何かがズェピアさんの体だと気付くのに時間はいらなかった。
慌てる私に、大したことはないと告げるズェピアさん。でもそんな筈が無い、貫かれたのは腹部のやや上……肺の近くなのだから。肺ならば呼吸が出来なくなり、そうでなくとも内臓部には多大な損傷……不安しかない。
これだけ考えることが出来るのは、ズェピアさんが平静を保ったままだからだろう。ここまで平然としていると混乱は流石になくなり、頭も冷える……が、それ故に一つ疑問に思った。
何故ズェピアさんはこれだけの怪我を負っても平然としていられるのだろうか、と。
可能性として浮かび上がった仮説は一つ、彼にとってこの程度なら本当に許容範囲というとんでもない話だ。しかしこれ以外には考えられない、外の世界であの怪我が許容範囲になってしまうような日々を送っていたのかもしれない。こちらに比べ平和と聞くが、場所によってはそういった地獄のような環境もあるのだろう。
仮説にしては酷いものだが、これ以外に思い浮かばない。
「やれやれ。アンコールを求めるとは、実に奇特だな君は」
痛むであろう傷を無視して話す彼を見ると、より納得が深まる。
本当に大したことが無いからこそああして無視できるのだろう、と。
「だがアンコールは無しだ。潔く消え去りたまえ」
考えてる間にも、彼は言葉を紡ぐ。
流れるような動作、淡々としながらもどこか芝居がかったそれは役者を見ているような気分にさせられる。最初に見た瞬間からずっとそう、まるで目の前のこと全てが一つの演目のように思えてくる。
「無様で無粋で無骨な技だが、受けてみたまえ……」
次の瞬間、ズェピアさんは飛び出し妖怪の頭を砕いた。
………………砕いた?
いや確かに妖怪相手ならそれが一番、それは理解出来る。でも、ズェピアさんは平然と簡単に行った。
硬いはずの妖怪の体皮をものともせずに砕き、なにやら呟いている。だがそれを聞き終わることはなく、私の意識は飛んでしまった。
……流石に気持ち悪さの限界を越えてます。
…………………………
……………
………
「…………はっ!?」
バサッと掛けられていた布団を弾きながら起き上がる。ここは間違いなく私の部屋、これは間違いなく私の布団。キョロキョロと見渡すも彼の姿は無い。
……これは、もしかして?
「夢……?」
「それは違うぞ」
私の呟きを否定する声、そちらを向くと襖を開けて部屋に入ってくる女性がいた。見覚えのある銀髪と、やはり見覚えのある青い服。
「慧音さん?」
ニコリと微笑みながら、その女性である慧音さんは近づいてくる。そして
―――ガゴォン!!
頭突きを、された。
「ひにゃあぁ!?」
あまりの激痛に、頭を押さえながら悶える。目には涙も溜まっている、噂には聞いていたが……まさかこれ程とは……。
成る程、これなら確かに宿題忘れなどはいなくなるだろう。変態的な嗜好を持った人でも、必ず遠慮するであろう威力だ。
「まったく、叫び声が聞こえたから誰かと思えば君とはな……。おおかた、何かしらへの好奇心に負けたのだろう?」
「うっ……」
「夜に外出、しかも里の外など自殺行為にも程がある。いつもは人の使う散歩道として妖怪達も契約に従って襲わないが、夜になり興奮して理性を失っている奴等がそれを守るわけもない」
「はい……」
「油断していたのだろう? 昼が大丈夫だから夜でも大丈夫だと思った、尚且つ昼と夜の相違点を失念していたといったところか」
「………………」
何も言えない、なんせ当たりすぎている。
夜になってから抜け出して、里の外にある散歩道を大丈夫だなどと思いながら歩いた。昼と夜の差なんて欠片も考えていなかった、考えたのは襲われる一瞬前だ。
ここまで当てられると、反論しようという気が完全に無くなる。元々反論する気なんか無いのだけれども。
落ち込む私を見ながら、慧音さんは溜め息をついた。
「まぁ、今回はアイツに感謝することだな。アイツの速度でなければ間に合わなかっただろう」
「……そういえばズェピアさんは?」
「今は家で寝てるはずだ、妹紅がちゃんと案内してればだが」
「いえ、あの……怪我をしていたはずなのですが……」
あれだけ大きな怪我に気付かなかったということは無いだろう。
だが、私の言葉を聞いた慧音さんは首を傾げていた。
「怪我、と言われてもな……服が破れていた以外はなんともなかったぞ?」
「…………え?」
そんなはずは無い、彼は間違いなく傷を負っていた。それも肺の近く、爪が貫通するという傷ではすまない大怪我を。
いくら彼にとって許容範囲と言っても、肉体は別で出血も凄まじかった。なのに、慧音さんには無傷に見えた?
「そもそもアイツは吸血鬼らしいから、普通の攻撃は効かないぞ?」
「吸血鬼!?」
私らしくない叫びをあげてしまう。
だけど、それについてどうこう考える余裕は無い。問題なのは彼について。
いやしかし、考えてみれば納得だ。彼が吸血鬼ならあの傷もすぐに治るのだろうし、あの強さも分かる。外では吸血鬼は妖怪と同じで襲われたりもしただろうから傷を負っても怯まなかったのだろう。
「まぁ吸血鬼らしくはないがな。陽射しを浴びても平気だし挙動も人間のそれ、試しに食事にニンニクを混ぜたが意味無かったし」
「何をしてるんですか慧音さん」
慧音さんに突っ込みを入れつつ考える。
ズェピアさんは吸血鬼、しかし弱点は克服済み。そういえば吸血鬼によくあるという傲慢な感じもしなかった。
……駄目だ、考えれば考えるほど彼が吸血鬼とは思えない。
「アイツは元人間らしいからな、吸血鬼っぽくないのかもしれん」
「元、人間……?」
「あぁ、そう言っていた」
元人間、それを聞いた瞬間残っていた疑問は解決した。皮肉なことに、私の仮説の大部分は当たっていたらしい。
人間から吸血鬼に成った存在ということは、なにかしらの禁忌を用いてズェピアさんは種族を変えた……否、変えられたのだろう。
肉体は人間でなくなった、しかし精神(こころ)は人間のままである彼。同じ種族であったはずの人間に吸血鬼として襲われ、それでも生き延びてきた。
辛かっただろうし、悲しかっただろう、私には想像出来ない人生を送ってきたのだろう。なのに人間としての心を失わず、恨んでもおかしくない人間である私を助けた。
嗚呼、本当になんて……なんて強いのだろう。私なら折れているだろう出来事も乗り越え、優しさを失わずにあるその心は強靭の一言に尽きる。
「……慧音さん、お願いがあります」
「なんだ?」
だからこそ、私は思った。
「ズェピアさんを、連れてきてくれませんか?」
「……何?」
彼に尽くしたいと。
「私は恩を受けました、それを返さないのは人としていけません」
「……断られると思うぞ?」
彼に優しくしたいと。
「構いません。何回断られても、礼を受け取ると頷くまで私は押しきります」
そして、彼の心を癒したいと。同情ではなく、憐れみでもなく、ただ心の底から思う。
何故なら、私は彼のことが―――――
…………………………
……………
………
ズェピアさんが来たのは朝食を食べ終わった頃だった。
玄関の近くに立ち、いつ来ても大丈夫なように言葉も考えていた。
……だけどズェピアさんが来た瞬間、考えていた言葉の数々は吹き飛んでしまった。緊張で口が乾き、心臓は喧しいくらいに早鐘を打つ。緊張がバレないように隠しつつ、口調こそ変にはなってしまったがなんとか案内する。
ズェピアさんのリクエストに答える為に珈琲を淹れる。豆は昨日、とある隙間妖怪がくれたもの。なんでも外界の最高級品らしく、名前は確かぶるー……ぶるー…………?
……と、とにかく素晴らしいものだとか。これなら失礼にはならないだろう。そう思いながら差し出した。
「……………………」
しかし、どういうわけか飲もうとしない。様子を伺うと、別に不満があるような表情をしているわけじゃないんだけど……。
「そのように凝視されては飲みにくいのだが?」
「す、すみません!」
慌てて頭を下げる、しかし気になるのでチラチラと見てしまう。
何が悪いんだろう……?
「いいかね少女よ、君は間違いを犯している」
「間違い、ですか…?」
「そうだ、珈琲を出す前にすべきことがあるだろう?本来なら家に上げる前に、だがな」
「すべきこと……」
家に上げる前に、少なくとも珈琲を出す前に……?
……駄目だ、冷静に考えることの出来ない今の頭じゃ答えは出ない。それに痺れを切らしたのか、ズェピアさんが口を開いた。
「ズェピア・エルトナム・オベローン」
「え?」
間抜けな声が出る。恥ずかしくなりながらも、理解するために見つめる。
「私の名前だ、ズェピアと呼ぶといい」
「……あ!」
理解した、やっと理解出来た。彼は多少違えど、昨日も同じように名乗った。
だけど私はどうだろうか? 考えてみれば私は名乗っていない、昨日は仕方ないとしても今日は普通に名乗れたじゃないか。
「私は阿求、稗田阿求と申します」
「ふむ、阿求か……」
慌てて名乗った私の名前を呟きながら珈琲を飲むズェピアさん。少し減ったそれを置き、私を見つめた。
そして
「実に美味しい珈琲だ、ありがとう」
―――微笑んだ。
妖怪に向けたものとは全く違う、優しく暖かい笑み。
頬が、顔が熱くなるのを感じる。卑怯すぎる、そんなふうに微笑まれたら反応出来るわけがない。
しかし、その私の反応に気付かずに珈琲を飲みつつ呼び出した理由を聞いてきた。恐らく私の顔は赤いままだろう、それでも気付かないとは相当な鈍感なのだろうか?
とにかく説明はした、礼をしたいから呼んだのだと。それに対し、ズェピアさんの要望は安いものだった。
ズェピアさんが望んだのは宣伝。万屋なるものを始めるらしく、その宣伝をしてほしいのだとか。
無論その程度では礼にならないからと、他の要望を聞こうとするもいらないとしか言わない。そもそも元より助けるのが目的だったから礼はいらない、しかし何も無いと言えば納得しないだろうから宣伝を要望にしたとのこと。
……確かに私は礼をしなければ納得出来ないし、正直これじゃ足りないと思ってる。それを察したのか珈琲を飲みきり、ズェピアさんは立ち上がった。引き止めようとするも準備があるからと断られてしまった。
せめてお見送りをしようと、無理矢理押し切り一緒に外に出た。
「……少し、長居しすぎましたね」
外にずっと立ち尽くしていた私は、ふと現実に戻った。
理由は単純、この続きを思い出すとまた赤面してしまいそうだからだ。また来てくれる約束をしてくれたし、注意をされてへこんだ私の頭を撫でてくれた。この二つ、とくに後者は私の気分を明るくするのに強い効力を発揮した。
そっと、撫でられた部分に触れる。優しく撫でられた為、別に乱れはしていない。ただ思った。
「暖かい……」
それは別に温度的な意味ではなく、特別な感情があるから抱いた思い。
阿礼乙女である私の寿命は酷く短い。だけどズェピアさんの寿命は間違いなく長い、元は人間でも今は吸血鬼だから。恋愛をしてみたところで彼にしてみれば長い生涯の短い出来事に終わるだろう。私の残りの寿命など、その程度の時間しかない。
しかし、だ。私は諦めるつもりは毛頭無い。短いなら濃密に、どれだけ生きようと記憶に残るような恋愛をしてみせる。彼がいつでも思い出せるぐらいに思い出を作ってみせる。
「そうと決まれば作戦を練らなくちゃ……」
浮かんだ笑みを隠すようにしながら私は部屋に戻った。
その日の夜、夕食の買い出しに行っていた使用人さんが教えてくれたのだが昼前に慧音さんが最近来たばかりの外来人を絞め落としたらしい。使用人さんも見たわけではなく、話を聞いただけらしいけど。
昼前というとズェピアさんと別れて少ししたぐらいか。外来人らしいし、ズェピアさんなら何か知っているかな?
うん、今度聞いてみるとしよう。
注意:前書きに少々の紳士成分有り