[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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 “星空のもとに墓穴を掘って、わたしを埋めておくれ。わたしは喜んで生き、喜んで死んでいった。この墓碑に刻むべき言葉は、こここそわたしの横たわりたかったところ。幾千里の山を海を越えて、帰ってきたかったところなのだ。”
        ──ロバート・ルイス・スティーブンソン※1  (抄訳:矢野 徹)※2



Home is the sailor, home from the sea.
「艦娘訓練所」-1


 海の上で、僕は死にかけていた。ほんの一秒にも満たない短い間、頭が水面から出て、また数秒の間下へと沈む。それを繰り返して、僕はもうへとへとだった。海水に洗われて目はかすみ、その癖水平線に消えゆく夕焼けだけはやけにはっきりと見えた。

 

 死ぬんだ、と僕は思った。こんな何処だか分からないようなところで、僕は死ぬ。泳げないばかりに、たかが泳ぎなんかができないばかりに、僕は死ぬ。嫌だ、と心は叫んだ。だが体は、僕の心の主は従容と運命を受け入れ始めていた。さっきまで突き刺すようだった海の冷たさが、やがて体温のように感じられてくる。水は僕の体を優しく包み、まるで誰かに抱きとめられているかのようだ。もう僕は浮かばない。水面が遠く見える。ぐわんぐわんと耳鳴りが始まる。僕と共に沈む陽の赤い輝きがまぶたに影を残す。

 

 僕はそっとそれに手を伸ばした。

 

 何かがそれに絡みついた。

 

*   *   *

 

 目を覚ますと、僕は全身にびっしょりと汗をかいていた。それこそまるで、海で溺れた後のようだった。息も荒く、心臓がばくばく言っていた。平静を取り戻そうとしながら、溜息を吐く。嫌な夢を見た──それも最後に待っていた助けを省いた、救いのない編集版ときた。何年も前のことだというのに、まだ夢に見るとは思わなかった。あれは小学生低学年ぐらいの、小さな子供だった頃の夢だ。僕と家族は海に出かけた。瀬戸内海だ。エメラルド色の海って訳じゃないが、四国と本州の間ということもあって比較的安全で、シーズンには全国の海水浴客が一斉に集まるほどである。僕が行った時もそうだった。芋を洗うような混雑の中で、僕は親とはぐれ、しかも人の波に押されて沖の方へと流れ出てしまった。挙句、生来の考えなしでうとうとしながら浮かんでいたものだから、気づいたら日も暮れ、すっかり陸地から離れたところにいた。

 

 戻れないのではないかという不安に安定した姿勢を崩した僕は、すぐに溺れ始めた。体温は下がり、手足は満足に動かず、助けが来る当てもない。たった一秒長生きをする為に、全力を振り絞らなければいけなかった。僕は悔やんだ。考える余裕はなかったから、直感的に自分に何が足りなかったのかを把握して、それを持っていなかったことを悔やんだ。自分がここでこうなるという運命だったことを呪った。死にたくないと願った。奇跡が起きて、天から背中に羽の生えた子供が降りて来たりしないかと思った。最後のは嘘だ。そんな余裕はなかった。本当に奇跡が起きるまでは。

 

 艦娘。力強き人類の守護者、深い海から来るものどもの敵、かつて僕らの母か、姉か、妹か、恋人か、妻だった、誰か。栄華を誇り、地と海と空を埋め尽くした人類の前に、その天敵として現れた深海棲艦を滅ぼすもの。深海棲艦と共に現れた、妖精と呼ばれる何かの手を借りて人が生み出した、災厄からの守り手。彼女たちがどんな存在かを言い表す方法は沢山あるが、ここまでにしておこう。僕を助けてくれたのは、彼女たちの一人だった。今でも思い出せる。彼女のあの手、指先から伝わるあの熱、僕を抱きしめたあの力、あの声、あの顔、あの姿。

 

 僕はその日、同世代の連中より幾分か早かったが、自分が何に人生を捧げるべきか知ったのだった。

 

 助けられてから暫くは、病院に連れて行かれたりニュースになったせいであれこれ記者に質問されたりで忙しかったが、そういったものが片付くや否や僕は自分がこれからどうするべきかを模索し始めた。とはいえ子供のやることだ、親や小学校の先生に色々と尋ねる程度とたかが知れていたが、どちらも僕のこの熱狂を命を救われたことによる一時的な興味だと思ったようで、何も気にせずに素直に教えてくれた。そのお陰で、僕は海軍に入るという志を十歳の誕生日の時にはもう持っていた。本当なら、僕も艦娘になりたいところだったが……性別の壁は越えられないだろうと思ったのだ。そこで僕は、艦娘を指揮する提督という存在に憧れた。

 

 それが狭い門だということは、調べるまでもなく明らかだった。艦娘になるには、十五歳で受けることを義務付けられている適性検査をパスした上で、志願し、訓練を受けなければならない。つまり、適性さえ備わっていれば後は本人の意志次第なのだ。しかし提督の場合は違う。適性検査で提督としての適性を認められ、体力試験と学力試験に合格し、口頭試問を受け、その他諸々の下らないテストを突破して、やっと候補生として訓練を受けられる。そこでも徹底的にふるいに掛けられ、残った(わず)かな男女だけが提督という、深海棲艦をことごとく打ち滅ぼそうとする者の末席に加わることを許されるのだ。

 

 望みは薄かった。限りなく薄かった。だが、そのことで不安になる度に僕はあの海での出来事を思い出すのだった。もしあの時、どうせ助からないだろうと言って早々にもがくのをやめていたら、僕はどうなっていただろうか。少なくとも、今より幸せになっていたとは思えない。死んでいるより生きている方が僕は好きだし、僕の親や友人たちだって、死んだ僕より生きている僕の方を好きでいてくれるだろう。もがくのだ。もがき続けるのだ。それが必ずやいい結果を生むとは言えないが、可能性を自ら投げ捨ててはならない。僕はそう信じていた。

 

 溺れたあの時から年月が経ち、僕は中学三年生になっていた。学校では文武両道の優等生として通っていた、と言えたらよかったのだが、残念なことに学力面においてはいささか能力不足を感じていた。けれども、個々人の用意の有無と多寡とに関わらず、時間は流れるし予定は実行されるものだ。とうとう、僕のいるクラスにも適性検査の時が訪れた。僕と数十人のクラスメイトは身体検査を受け、採血し、精神と肉体のどちらについても問題を抱えていないか聞かれ、僕にはする意味が分からない質問(「普遍的真実は存在するだろうか?」※3とか)をされ、どんな仕組みかは知らないが艦娘と提督の適性を診断する為の機械に繋がれた。

 

 嘘か本当か定かではないが、提督の適性と艦娘の適性を一つの機械で測定できるようにした理由は、軍部の圧力があったからだと言われている。男で艦娘と同様の存在になれるものを探しているとか、何とか。艦娘は読んで字の如く、女性だけに適性が現れるものなのだが……高潔なのか、それとも面子を気にしているだけなのか、彼らは深海棲艦との交戦において矢面に立って砲火にさらされるのが女性であることを、快く思っていないのだそうだ。年端も行かない女を戦場に立たせるよりは、深海棲艦との戦いが始まってすぐの時のように鋼鉄の船で戦いを挑み、未亡人と父なし子を大量生産した方が落ち着くのだろう。まあ、彼らが自分も戦えると考えるのにも無理はない。緒戦において通常戦力を有りっ丈投入したお陰もあって、立ち直るのに十年単位で時間を要するような、ほぼ壊滅という規模の被害を受けつつも、彼らは何隻かの人型深海棲艦をも撃破することができたのだ。これは、その撃破した深海棲艦を解析して艦娘が作られるようになった今でさえ、人型深海棲艦にはそこそこ手を焼かされていることを考えると、驚くべき功績だった。

 

 そしてこの日、僕と僕のクラスメイトたちが検査を受けた日、彼らの切望は遂に報われたのだった。

 

*   *   *

 

 何度か調べ直して、どうやら僕は人類史上初の男性艦娘……冗談でクラスメイトは「艦息」と呼んだが、それに適性を持つ人物らしいということが確かにされた。するとまあ、当然のことだが、溺れた後以上の大騒ぎになった。軍は僕に沢山の約束をして、志願してくれるように頼んできた。学校の方は二通りに分かれた。片方は僕に是非志願したまえと言い、もう片方は拒否しなさいと言った。友人たちは自分で考えろと言ってくれて、それが僕にどうするかを決めさせた。僕は志願することにしたのだ。ただ、思い返してみると当時の僕はそこまで深く考えていなかったように思える。提督になるのは難しそうだから、降って湧いたこのチャンスに乗ってやろうという具合だった。両親はそれを見抜いていたのか、生まれてこの方僕が自分の人生をどう生きるかについて一度たりとも口出ししてこなかった彼らが、今回ばかりは猛烈に反対した。カッコいい制服とカッコいい鉄砲の世界じゃないんだぞ、と彼らは僕に言った。その言葉に顔を赤くしたことを覚えている。心の中にちょっとだけ、そういうものを期待する自分がいるのを知っていたからだ。

 

 彼らの反対が懸命なものであったことは疑いようがない。現在の社会情勢においてはかなり際どい表現や言葉を使ってまで、僕を説得しようとしていた。もし二人の言ったことが百分の一でも当局に知られていたら、僕は二人をむざむざ逮捕させない為に志願しただろうというほどだ。しかし最後には軍の交渉担当官がやってきて、軍への志願というものが、深海棲艦との戦いが始まった後に改正された法の下で、十五歳になった男女に初めて与えられる彼もしくは彼女の自由意志の下に行使できる権利であることを説明した。これには僕の両親も反論できなかった。その倫理的・道義的問題点についての議論は尽きないが、それでも確かに法の下ではそういうことになっていたからだ。そして、そうである以上、両親に僕が志願するのを無理矢理やめさせる権限はなかったのである。

 

 母は悲しみ、父は怒った。僕が忠告を受け入れなかったことよりも、それによって母を悲しませたことに怒っているようだった。でも僕は決めて、その意志を表明したのだ。そうして、軍は、一度言ったことを簡単に取り消させてくれるような組織ではなかった。

 

 僕は艦娘訓練所に送られた。ここでは僕は特別あつらえの男性候補生用被服と、小さな個室を与えられ、更に三度の食事を自室で取ってよいという特権を与えられていた。他の艦娘候補生たちと混ざって生活するものだと思っていたが、考えてみれば女の園に男を一人放り込むのは大問題だろう。しかしそれは、僕が訓練期間中孤独であったという意味ではなかった。軍なりの精一杯の計らいというものなのか、同級生の女子で艦娘に適性があり、僕と同じく軍に志願した者を、同じ訓練隊に加えておいてくれたのだ。彼女とは学校時代から親しくしていた間柄ではなかったが、それでも見知らぬ他人ではない。僕は彼女を通じて、他の候補生たちと少しずつ交流することができた。背が高く黒の短髪、それに切れ長の瞳を持ち、しかし女性的な丸みも帯びた彼女は、僕という例外的存在に対する他の候補生の警戒を解く上で大変に活躍してくれた。

 

 最初の一ヶ月は艤装の艤の字も見えず、もっぱら基礎体力作りだった。僕は幼年期からの積み重ねがあったので、特段苦労はしなかった。疲れずに走ったりするコツを他の候補生に教えたりした。実技教官は前線から退いた艦娘の一人で「那智」だったが、顔の左側に大きな火傷痕があり、右腕がなかった。座学で習ったことによれば艦娘は特殊な修復材によって肉体的欠損さえあっという間に再生してしまうのだが、噂では彼女は彼女の隊が全滅した戦いの後、洋上の小島に辿り着き、そこで救援が来るまで耐え忍んでいる間に傷が半端に塞がってしまい、修復材でも治せなくなってしまったのだという。彼女は遠目から見るだけでも僕らを震え上がらせたが、その本当の迫力を最初に見せ付けたのは訓練が始まってすぐのことだった。

 

 その時は座学の後で、僕らは走り続けていた。座学では敵の分類や生物学的構造、保有する兵器などについて講義された。艦娘がヘッドマウントカメラで撮影したという実際の映像も交えて解説された僕らは、艦娘になって戦うということをそろそろ本気で受け止め始めていたが、根っこのところでは学生気分が抜けていなかった。僕らは走り続けていた──小高い丘を上がり、下り、ふもとの折り返し地点で引き返して、また丘に上った。折り返し地点にいる筈の教官がいないのを見て、彼女も気を抜いてサボりたくなることもあるのだろうという馬鹿な勘違いをしながら。

 

 丘の上の林道に入った時に、それはいきなり始まった。空気が破裂する音が響くや周囲の木々が弾けてちぎれ、何かの破片が僕の頬をざっくりと切りつけて何処かに飛んでいった。僕らは座学で学んだことなど全て忘れ、悲鳴を上げてうずくまって、この嵐が通り過ぎていくのを待つしかなかった。やがて耳鳴りに混じって足音が聞こえてきて、それは小さく丸まって地面にしがみついている僕らの前で止まった。彼女は無事な左腕に、いびつな砲めいたものを持っていた。その砲身からは熱が発されており、砲口からは煙が立ち上っていて、今しがた発砲されたことを示していた。彼女は落ち着き払った声で言った。

 

「今のは敵の巡洋艦がよく使う砲だ。発砲音をしっかりと覚えておけ」※4

 

 こういった脅しは正規のカリキュラムに含まれているものではなかった。だが効果はあった。大きな怪我をした者を誰一人出すことなく、撃たれる恐怖を思い知ったのである。教官たちは誰もがそれを候補生たちに教え込もうとしていたが、最も上手くやったのは那智教官だったのだ。彼女は僕らをまるで陸軍の兵士を鍛えるように鍛えた。石土を詰めた背嚢を背負わせ、永遠に終わらないのではないかというほど行軍を続けさせ、障害物を乗り越えさせ、豚の血と内臓をばらまいた土の上を這いずり回らせ、候補生たちの頭上に向けて実弾での機関銃射撃を行った。僕らはまだ艦娘ではなくただの人間だった為、ほんの数ミリサイズの弾丸が致命的になる身だったのに、だ。そしてその間中、那智教官は僕らに怒鳴り続けていた。僕らはあの恐怖を一生忘れないだろう。でも、それと同時に、あの恐怖の下で目標を目指して進んだことを、重圧の下で恐怖を克服したということを忘れることもないだろう。

 

 もっとも、残念なことだが、誰もが艦娘として真の意味で相応しい素養を持っている訳ではなかった。適性は一つの物差しに過ぎない。水上スケートが上手いだけでは、艦娘にはなれない。苦しみに耐え抜き、戦友と協力することを覚えるところがスタート地点だ。それが最初は分からない者もいたし、いつまで経っても理解しない者もあった。ある候補生は背嚢の中に毛布を入れて目方をごまかしたのがバレた。那智教官は彼女を教官室に呼びつけ、顔が倍にも膨れ上がるほど殴りつけた。ある少女は早足行軍の時は毎回、途中で座り込んで誰かがおぶってくれるまで動こうとしなかった。またとあるお嬢さんは、頭の上数センチのところを鉛弾が飛び交うことに耐えられなくなって、正気を失って立ち上がって逃げ出そうとした。奇跡的に死にはしなかったそうだが、彼女は僕の知る限り、とうとう訓練隊に戻ってこなかった。

 

 ここで挙げた何人かの内、一人とは話す機会があった。教官に殴りつけられた子だ。黒々とした髪の毛をいじる癖があり、マイペースで、サボり癖があって、楽ができるなら喜んで毛布の件のような手抜きをする性格だったが、それで他人に直接迷惑をかけるような不正はしない子だった。教官室から鼻血と涙を流しながらよろよろと出てきた彼女に、僕は思わず世話を焼いてしまったのだ。他の候補生たちが遠巻きに見ているだけだったことに苛立ちを感じはしていたが、何か特別の考えがあってそうしたのではなかった。ただ、傷ついている相手には手当てをしてやらなければならないと思ったんだ。僕は氷嚢を作り、打撲傷の為の湿布を用意し、止血を施してやって、それから彼女が落ち着けるように話をした。内容は覚えていないが、彼女がどの艦娘に適性があったか、という話だったと思う。我ながら愚か過ぎる話題の選択だったが、彼女に必要なのは痛みやショックから気をそらすことだった。この試みは成功して、以降彼女と僕は個人的な軽い挨拶を交わしたり、時には食堂で一緒に食事をしたりする間柄になった。

 

 基礎体力訓練だけで十数人が脱落したが、残った候補生たちも正直なところ、限界の近い者が多かったと思う。僕は何処まで行っても男で、候補生たちの中では異分子に過ぎなかったから、それを確信できるほど深く彼女たちのことを知っていた訳ではない。でも機会があれば那智教官に一矢報いて、ついでに軍から追い出されてやろうと本気で狙っていた跳ねっ返りは、片手では足りないほどいた筈だ。そうでなくとも、入隊宣誓の際に辞退を表明する権利は候補生に固く約束されたものだったから、その時に「もう結構です、十分やりましたので家に帰ります」とやる心積もりでいた者もあったろう。実際、僕は何人かの女の子たちが兵舎の隅に集まってこそこそとその話をしているのを聞いた。みんなで一緒に言えば怖くない、と考えて、示し合わせて辞退しようとしていたのだ。

 

 ああ、そしてもちろん、入隊宣誓式で辞退できた候補生など誰一人いなかった。

 

 宣誓式が終わると、候補生たちは順次処置を受けて艦娘になっていった。それは艦娘としての能力、つまり艤装の操作能力や、深海棲艦も持っている現代兵器その他への抵抗力の獲得のみならず、容姿の変化をも意味していた。がらりと変わった候補生もいれば、そうでない候補生もいた。例えば毛布の子は後者だ。彼女は軽巡北上になった。以前のクラスメイトの女子は前者で、重巡利根になった。背丈はそう変わらないが、何処か幼げで活発な雰囲気になった彼女を見た時には驚いたものである。「妖精」の技術というのは、全く不可解なことだ。僕も彼らあるいは彼女らの施術を受けたが、正直なところそのことは思い出したくない。というか、深海棲艦以上に謎の存在である連中に体中をいじくり回された、としか覚えていない。多分それが最も正しい解釈だろう。ただ僕が男であることまでは変わらなかったし、頭の中にマイクロチップを入れられて政府の監視下に置かれたと信じるに足るいかなる変調も起こらなかった。

 

 妖精たちの手によって、候補生たちは前もって用意されていた彼女らの艤装を割り当てられていった。例外は僕だけだ。僕には外見の完全な変化も起こらなかったし、またどの艦娘の艤装も割り当てられなかった。つまり、僕の艤装は全く特注品だったということだ。だから、できあがるのも一番遅かった。

 

 ようやく届いた時、その頃には僕と利根はそれなりに仲良くなっていたので、まず彼女に見せてやろうと僕は考えた。色々と世話になったし、僕の艤装に興味津々だったから、それぐらいの礼はするべきだと思ったのである。僕は彼女と連れ立って艤装を受け取りに行き、妖精の指示を受けながら装着した。既に艦娘と同じものになっていた僕には、そう難しい作業ではなかった。吸い付くように持ち上がった艤装を、大きな感動と共に一撫でする。重巡洋艦仕様の艤装に取り付けられた数門の二〇.三センチ連装砲と三連装魚雷発射管は、弾薬が装填されていなくてさえ静かな威厳を放っていた。

 

 僕は見せびらかしたくて友達の方を向いた。彼女も僕と同じ重巡洋艦だし、友人として喜んで貰えると思った。しかし待っていたのは、何か冷たいところを含んだ眼差しだった。僕が面食らってどうしたのか聞くと、彼女もびっくりしたような顔をして、それから取り繕って笑い、僕の艤装や自分の艤装のカタパルトに関する個人的な意見を幾つか述べた。でも僕は彼女の言葉より、彼女の目つきの方が気になって仕方なかった。僕の艤装に興味を持っていたのに、今はむしろそれから目をそらして見ないようにしている。僕は憮然として艤装を解除した。どうしてそんな態度を取るのか問い質してやりたかったが、やめた。彼女自身も分かっていなさそうだったからだ。僕に理解できたのはそこまでだった。艤装を解除すると彼女が目に見えてほっとした様子を見せたので、少し不愉快だった。

 

 那智教官は全員分の艤装が用意できるまでは基礎訓練の続きをやっていたが、僕の分が届いたことでようやく艦娘としての訓練を始めた。まず僕らは訓練所に備えられた大プールを使ったが、僕を含めてみんながちがちに緊張していた。艤装をつけて水の上に立った時、自分が艦娘になったのだという事実が目の前に転がってきたのだ。それを受け止めて、浮き足立たずにいられる者などその場にはいなかった。無論、軍規によれば今この段階からでも訓練隊を追い出されることはできる──その場合は艦娘になった時と同じように、妖精によって体をいじくられ、人間に戻される。運よく死なずには済んだがもう戦えなくなった艦娘が、那智教官のように軍に職を見つけることもできなかった時もそうだ。しかし、少なくともその時、僕らはみんな艦娘だった。いや、僕は娘じゃないが、そんなことを一々言っても仕方がない。

 

 プールでの訓練は水上航行に始まり、隊列を組むことや、ある隊列から別の隊列に組み替えることなどを教えられた。時折、那智教官は候補生たちと一緒にプールに出て、一人一人に指導を行った。僕は彼女が候補生たちに呼びかける時、名前を呼んでいることに気づいた。それまでは「おい」とか「そこの」とか「お前ら」とか「このうすのろども」とか、そういった呼び方をしていたのだ。ただ、名前を呼んでくれるようになったからと言って、彼女が優しくなった訳ではなかった。僕は彼女によって、覚えているだけでも八回は航行中に引きずり倒され、突き飛ばされ、遠隔操作で艤装の機関を停止させられ、どうにか水の上に頭を出そうとしていたところを足蹴にされ、水面下に押し込まれたり、方向感覚をすっかり狂わされたりした。この八回という回数は訓練隊で最高で、他の者は僕の半分程度で済んでいた。まあ、僕が彼女に目をつけられた理由が何であったにせよ、その為にプールでの訓練が一段落する頃には、僕はどんな状況にでもそこそこ素早く対処できるようになっていた。何があっても候補生を褒めたりしない那智教官に「まあまあだ」と言わせたことは、僕の生涯の誇りになるだろう。が、その時の僕は酸欠の上にたらふく水を飲んでしまってひどい有様で、感動する余裕はなかった。

 

 射撃訓練も当然やった。候補生全員が、訓練弾を装填した砲で撃たれる経験もした。僕はその日の晩、撃たれた場所が痛んでどうしても寝付けなかった。そこで、就寝時間は厳密には「就寝することを推奨している時間」であって、「就寝を義務付けている時間」ではないということを知っていた僕は、こっそり起き出して艤装を取りに行き、保管庫の警備を丸め込むと、プールで普段は絶対にできないような水上スケートを楽しんだ。いい感じに気が紛れたところで僕は寝に戻ったが、部屋に入るとどういう訳か那智教官がいて、僕は勝手に艤装を動かして燃料を無駄遣いした罰を受けさせられた。それで翌日、僕は目の周りを黒く腫らして訓練に参加しなくてはいけなかったが、誰も心配してくれなかった。というのも、もう那智教官に一発食らう程度では誰も驚いたり文句を言ったりしなくなっていたからだった。

 

 那智教官は知っていることを全て僕らに教える気でいて、それは深海棲艦との戦いで直接役立つのか微妙なものも含まれていた。その中の一つが、地上での徒手格闘技術だった。彼女はある時、訓練生たちを屋外訓練場に連れ出して、僕らの水上航行における不手際が目立つことや、射撃訓練でのひどい成績、覇気のない顔、猫背、足が大きいことだとか、僕たち自身も決して知らなかった先祖の驚くべき遺伝学的欠陥までをこき下ろしてみせた。僕は何処吹く風だった。彼女のことが、自分でも最初は信じられなかったが、好きになり始めていたからだ。彼女は手厳しいし、平気で暴言を吐くし、暴力に躊躇いがないが、公正で平等だし、加減をわきまえている。彼女は自分の役割を果たそうとしている。彼女によって苦しみを与えられている時こそ、僅かなりとも憎んだり罵ったり呪ったりするが、そうでない時は僕は彼女の下で訓練を受けられることを軍に感謝していた。他の訓練隊のことは知らないから比較はできないが、こんな奴に訓練されたくない、という教官ではなかったのは明確に分かっているのだ。それだけでもここに僕を配属してくれた誰かに礼を言うには十分だろう。

 

 文学的と言ってもよいほどの巧みな表現と豊かな語彙で一通り僕らを滅茶苦茶に罵倒した後で、那智教官は悲痛な表情を浮かべて言った。

 

「お前たちを鍛えたところで、全く何になる? お前たちを一端の艦娘に仕立て上げるなどという賭けと比べれば、駆逐イ級の一隊に芸を仕込んでみる方がまだ目がある! たったこれっぽっちの闘志もない奴らめ、これだけ罵られて、私を一発殴り飛ばしてやろうと思う者もいないのか! 片腕のない相手にも勝てないで深海棲艦に勝つつもりか!」

 

 僕は黙っていた。那智教官なら片腕がなくったって、ここにいる候補生たちを片っ端から地に沈められるだろうことは分かっていたからだ。彼女は敵に挑むということの意味を教えようとしていたのだ。特に、勝つ算段なしで敵に挑むとどうなるかということをである。思い上がった迂闊な誰かがいずれ手を上げるか声を出すだろうと考えていると、那智教官はこちらをじろりと睨みつけた。マズいと思ったが、もう僕の周りから候補生たちは一歩ずつ遠ざかっていた。那智教官は細いが強靭な腕をびしりと僕に向け、白い指を突きつけて言った。「お前! お前は男だろう? やれるとは思わないのか? 絶対にお前を殺そうとはしない教官に立ち向かうことさえ怖気づいてできないなら、他の男どもと一緒に内地に引っ込んでいろ!」僕は心中で深い溜息を吐いた。ここで引き下がれば、本当に内地に戻されてしまうかもしれないからだ。これまでの経験から、那智教官はそれをやりかねなかった。仕方ない。覚悟を決めよう。腕を失うようなことはないだろう。僕は二歩前に出て、教官のすぐ目の前に立った。彼女はにやりと獰猛な笑みを浮かべた。

 

「ようし、来るがいい」

 

 と彼女が言うや僕は襲い掛かり、そして地面に倒れこんでいた。猛烈な痛みとあり得ないところから曲がっている事実から、前腕部に骨折が生じていることが分かった。他の候補生が呻き声のようなものを漏らした。怪我をした候補生は多かったが、骨折というのは切り傷や打撲とはまた違う感じ方をされるものだ。思っていた結果とはちょっと違うにしても、前の想定通り、腕を失わずには済んだ。僕が痛みをこらえて立ち上がると、教官は軽く眉を上げ、それから「修復剤を使ってこい。駆け足、三分以内だ」と言った。これは僕が戻ってくるまで訓練を進めるのを待ってやる、という言外の意味を持っており、ほぼ強要されて教官に挑んだ末に腕を折られた新兵に対する、哀れみでもあった。僕は走ってドックに行き、修復剤を浴びて戻ってきた。教官が言った。「二分四十九秒か。次はもっと早くやれ。それでは訓練を続ける……」

 

 とまあこういう寸法で、僕は格闘訓練を受ける機会を逃さずに済んだのだった。彼女は腰にぶら下げていたナイフを抜き放ち、日の光を刀身で反射させた。本来、艦娘の装備にナイフなんてものはない。殴り合いの距離に近づくことがほぼないことや、深海棲艦の大半が人型ではないことがその原因だ。一部の艦娘、例えば天龍型などは近接武器を持っているが、彼女たちさえ基本的には砲撃戦で決着をつける。しかし、那智教官は自分の為に高い金を出して専門家に鍛えさせた完璧な一品を有しており、その複雑な使い方に熟達していた。それだけではない。那智教官は、およそ僕や他の候補生、深海棲艦たちがきっと考えもしないようなやり方と道具を使って敵を殺す方法を、少なくとも百三十七通り知っていた。それらは効果的で、効率的で、非人間的な業だった。

 

 肉体を単純な行軍などとは比べ物にならないほど酷使するこういった訓練の後、那智教官はクールダウンの為の体操を行った。それも終わると、僕らは疲労困憊して兵舎に戻り、食事を取ってベッドに入り、休んだ。それがまあ、何とも暖かい寝床だった。僕なんか、いつ寝たのかも分からない間に翌朝を迎えていたほどだ。基礎訓練を通して疲れることには慣れたつもりだったが、軍というのは、そこに所属する連中をへとへとにさせることに掛けては世界で一番の腕前を持っているのである。これは座学でも変わらなかった。一時間の真剣な机上学習で費やすエネルギーは、一時間の激しい運動によって費やすそれに匹敵すると言っても過言ではない。特に座学教官が老域に達した元提督の少佐殿ときては、気を抜いてなどいられなかった。彼は概ね物静かな男で、那智教官のように候補生を罵ることは決してなく、いつでも柔らかな物腰を崩さなかったが、鋭い目に射抜かれた候補生たちはしばしばその後に彼が投げかけてくる難しい質問に答えられないか、答えられたとしてもしどろもどろになってしまうのだった。

 

 彼の講義は二種類あった。一つは深海棲艦の生態学に近いものだ。長年の研究や、軍事行動の中で人類が発見した深海棲艦に特徴的なパターン行動を筆頭に、深海棲艦に関する多くのことをそこで取り扱った。奴らの体重、速力、武装の性能、好んで用いる魚雷の発射角、バイタルパートの位置、航空機の典型的回避運動……深海棲艦を叩く上で、覚えておかなければならないことの山だった。だがもう一つは毛色が違った。元提督は僕や艦娘たちに何かを理解して欲しがっていた。ある講義の時に彼は言った。

 

「義務と権利の関係について述べたまえ」

 

 これはいつものように僕らを大混乱させた。十五歳の人間が自分の権利ならまだしも、自分の義務なんかについてちゃんと考えたことはなかったし、ましてやその二つをまとめて論じたことなどなかったからだ。僕らにとっての権利は家庭や学校などの社会において上から付与されたもので、それはいつでも都合次第で取り上げられてしまうものだった。この年になってやっと与えられた、ただ一つの僕ら個人が自由に行使できる権利は、軍への志願権だった。で、義務の方はとなると、それこそ朝起きて歯を磨き、顔を洗うことから義務みたいなものだったのだ。候補生が誰も答えようとしないのを見て元提督はいつもそうしているように、一人を指差した。那智教官がやるようにびしりと指差すのではなく、すっと腕を上げて指を出すだけの動作だ。それだけに向けられた側は一瞬、自分が指されたのだとは思わないで、真実に気づくと俄然混乱してしまうのである。

 

 指されたその候補生は軽巡那珂だったが、テレビや映画館で放映される記録映像で見るような那珂とは違い……その、何と言えばいいか。アイドルではなかった。那智教官によれば、妖精によって艤装に転写された船魂に人間(艦娘)側が引き寄せられることによって、口調などを含む性格の変化と統合が行われるそうだ。それはつまり艦娘になるということは、外面的には戻れたとしても、本質的に不可逆的な行為ではないのだろうか。妖精たちは元に戻せると請け合うが、彼らを何処まで信用できるかは分からない。那智教官が退官しなかった理由も、案外とその辺りにあるのかもしれない。今でさえ、候補生の中に艤装を装着することで自分が少しずつ変わっていくのを体感して、恐れを抱いている者もいる。変わりきって長く経った後では、戻ることをこそ忌避もしよう。

 

 那珂はつっかえつっかえ答えた。

 

「私たち国民の権利は……国家と、その定めるところの憲法によって保障されたものであり……国家は国民の権利行使を遂行する助力を行う義務を負います」

「ほう、そうかね? おい、君!」

 

 元提督は突然僕を指差した。僕は考える間もなく背筋を伸ばし、返事をした。

 

「国民の権利及び義務について書かれた、日本国憲法第十二条を読み上げなさい。教科書を開いてはいかんぞ。君はそれを覚えている筈だ。前回の宿題で覚えてくるように言ったんだからな」

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」

 

 座学教官が頷くのを見て、僕は安心の溜息を吐いた。賭けてもいいが、僕は今回の講義で一番楽な質問を当てて貰ったのだ。教官は自分でも一度第十二条を繰り返して言い、軽く笑った。

 

「憲法というのは、全く綺麗ごとばかりだ。だが、憲法というものはそうでなくてはいかんからな。さっき答えた君! 君の発言だと、国民はいついかなる時も無制限にその権利を行使することができるように聞こえるが、そのような放埓ぶりは何によって制御されるのか?」

「人間の理性そのものである法律と、個人の道徳です」

 

 那珂はほとんど投げやりに答えた。どうでもいいが、個人的なイメージのせいで那珂の顔や容姿で今みたいなことを言われると違和感を覚えずにはいられなかった。

 

「君の()()()思想にはつくづく感心させられる。来週までに君の考えをレポートにまとめて持ってきたまえ。さて、法律はいいとしても、道徳か……では道徳とは何か、誰かに説明して貰おう。君!」

 

 今度の犠牲者は利根だった。可哀想に。僕は教科書を開き、彼女が何か大失敗に繋がるような発言をする前に、教官の話を別の方向に逸らせることができるようなヒントを含んだ箇所を探そうと試みた。だが僕一人でそれを探すには、この教科書の記述というのは余りにも漠然としていてやりづらかった。利根は「社会規範を遵守することじゃ……ないでしょうか」と言った。艤装の影響による艦娘特有の口調の発露を上手く何とかしたなとは思うが、相手はベテランの提督だ。今の小細工ではどうしようもないだろう。


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