[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「第二特殊戦技研究所」-4

 書いている間中、僕は自分が死ぬということに対して本気になれないでいることに気づいていた。僕は溺れた時、訓練所で那智教官にしごかれた時、あの岩礁で深海棲艦と戦った時、死を間近に見た筈だ。あれを笑い飛ばせるほどの本物の勇気が僕の心から現れることはないと思う。特別なんかじゃない、死ぬ時には僕だって誰だって死ぬ。しかも、僕はその可能性がかなり高いところにいるんだ。そういうことを理解しているのに、どうしてもっとそのことについて真剣な態度を取れないのだろう? 自分の心の動きさえ制御できないとは……思春期だからだろうか、きっとそうだろう。

 

 そうであっても、そうでなかったとしても、自分で左右できないものをあれこれくよくよと思い悩むのは意味のないことだ。僕は遺書をテーブルに置いた。部屋を片付けに来た人間に見落とされることはないだろう。後は、その片付け係が誠実で、戦死した艦娘の持ち物をくすねて私腹を肥やすような奴じゃないことを祈るばかりだ。部屋の時計を見る。十二時だ。工廠への集合まで三十分。このままここで、無為かつ贅沢に時間を潰すのもいいだろう。それか、工廠に行って艤装と装備の点検をしてみるのもいい。後者を選んでおけば、死ぬ前に明石さんの存在さえしない不手際を恨まずに済む。有意義な選択だ。

 

 部屋を出ると、隼鷹の部屋から扉越しに僕を呼ぶ声がした。どうも、僕がドアを閉める音を聞きつけたらしい。「何だ?」と僕が尋ねると彼女は言った。「あたしの遺品で欲しいものある?」「おい、クリスマスプレゼントの中身を渡す前に言う奴がいるか?」「リボン付き六〇キロ爆弾でも用意しとくかねぇ」「ペインティングも頼むぞ、ヌードがいいな……あ、女の子のな!」「ちぇっ、行っちまえよ。工廠で会おうぜぇ」友達との軽口の叩き合いは何度やっても楽しいものだ。工廠に行くと、吹雪秘書艦がいた。夕張と二人で艤装をチェックしている。見るだけでその細やかさは分かる。艦種が違っても、装備は似たようなものだ。サイズの差異はあるが、そんなことは大した問題ではない。整備点検で大事なのは、その装備の何を見るべきかを知っておくことだ。それさえわきまえていれば、魚雷だろうと主砲だろうと、副砲だろうと機銃だろうと、艦載機だろうと水上機だろうと変わりはない。ただし、電探とソナーについては専門家に聞く。あれは僕の手に負えない。

 

 明石さんに艤装を用意して貰い、装備してチェックする。彼女はナイフも持って来てくれた。よく研いであり、オイルを塗布してあった。ものをどう扱うべきか理解している人間の、念の入った仕事だ。彼女は鞘を取り付けられる革ベルトも用意してくれており、僕はそれを腰に巻いた。使う機会がないことを祈ろう。祈れば祈るほどその時が来そうな気がする。それに、神がいたとしても彼を信じていない奴を救ってやろうとは思わないだろう。でも彼のことについては大体が冗談みたいなもんだ、僕らを創造したという全知全能の偉大なる神が、その矮小な被造物からおべっかを使われて喜ぶとは。二千年以上掛けて自慰行為がまだ終わらないのか? 医者に行け。涜神は罪らしいので、僕の人生で響をどうしてもキレさせる必要が出てきたら、この話をするとしよう。

 

 大方の調べが終わったところで、僕は隼鷹が工廠に来ていたことを発見した。残りの第一艦隊の人々もだ。隼鷹は僕に約束していたものを持ってきてくれた。「どうよ、これ?」ピンクのリボンが可愛く結ばれた六〇キロ爆弾だ。僕はそれを受け取って、ためつすがめつ眺めてみた。知らなかったことだが、隼鷹は絵が上手かったらしい。どうやって彼女がこんな絵を描けたのか分からないが、それはまるで鋼鉄の表面に命を持って住み着いているかのようだった。生き生きとした、体重百二十キロはありそうな巨体、歯が三本、全裸で垂れ下がった胸を投げ出しているが、毛深くて大事なところは見えていない。とろけるようなその顔……ダリ※24の絵みたいだ。これは芸術(アート)だな。僕は彼女にそれを返して言った。

 

「サインしてくれ」

「いいともさ」

 

 彼女は快諾して、筆を取りに工廠の奥へと引っ込んでいった。響がやって来て彼女と擦れ違い、悪魔の業を見た、というような表情を浮かべた。「あの絵は?」「アート(АД)さ」「確かにАД(地獄)みたいだったけど」それから、戦闘に際しての立ち回りについて話した。僕が敵の注意を引き、響が始末するのが基本だ。その逆もできるが、響が全弾回避できるという前提に基づくことになる。そんな砂上の楼閣じみた計画に頼ろうとは思えない。即死するような攻撃を除いて、僕なら直撃でも何発かは耐えられる。長門みたいに砲弾弾きはできないが、駆逐艦より打たれ弱くはない。無傷ではなくとも、生きてはいられる。死んでなければ、あの希釈された修復材で帰港して治療を受けるまでの時間を稼げる。明石さんは僕と隼鷹の為に、あれを入れた防弾水筒を用意してくれていた。深海棲艦の攻撃に防弾性能がどれだけ役立つか疑わしいが、あって困るものでもない。ナイフとは反対側の腰にそれを下げると、僕は自分が実際よりも遥かにしぶとい男のように思えた。危険な兆候だ、気を引き締めておかなくてはいけない、のだが。

 

Однако как же круто(クソっ、しかしこのナイフ) этот нож, бля! (はマジでいいな!)

 

 柄を撫でて、僕はそう呟いた。響が耳聡く聞き咎めて言った。「私が教えておいて言うことじゃないけど、熱心に勉強するというのも考えものだね」「Абсолютно.(全くだ) ……ごめんよ、気に障ったかい?」「いいさ。汚い言葉は兵隊のものだ」僕はそれにもまた同意した。汚い言葉、スラング、卑語、猥語、そういったものは、訓練課程で誰もが身につける。使うかどうかは別だ、それは個人の裁量に任されている。でも、訓練所での辛い教練を受けている最中に、志願を取り消さなかった愚かな自分への呪いの言葉を心で吐いたり、教官を口汚く罵ったりしなかった艦娘がいたとしたら、僕はそんな得体の知れない子と同じ艦隊で戦いたくはない。卑語は兵士と切っても切れない存在なのだ。

 

 戻ってきた隼鷹を加え、候補生が兵士になる過程における特徴的な語彙的成長について話し合っていると、時間が来た。人生最後の雑談がこれにならないように、気をつけて戦うとしよう。響と共に水路に立ち、艦隊の先頭を務める。名誉なことだ。砲雷撃戦においては真っ先に敵と当たる訳だから危険度も高いが、誰かの背中に隠れて、その艦娘の血と引き換えにした安寧なんて僕には我慢ならない。艦娘として働けると分かる前までの僕なら、諦めていただろう。現実問題として、どうしようもないことには諦めを以って接するしかないのだから。だが僕は運命に選ばれたのか、響言うところの神のありがたいお導きか何かなのか、他の艦娘と肩を並べて戦うことを男として唯一許された。諦めたままでいられる訳がない。

 

 後ろをちらりと振り返り、隼鷹を確認する。真剣な顔をしている。緊張もあるだろうが、吹雪秘書艦がついているならきっと大丈夫だ。伊勢・日向の二人もどっしりと構えて、安心感がある。僕はヘマをしないように気をつけて、弾を撃ち切りに行くのだというような気楽な気持ちで戦えばいい。伊勢も慣らしだと言っていた。大規模作戦の一環でもないのだし、生きて帰れば僕らの勝ちだ。これは自らへの励まし以上に、真実としての価値がある言葉でもある。僕は、というか人類は、深海棲艦がどのように生まれて来るのか知らない。奴らはもしかしたら胎生で、海の奥底には男の深海棲艦もいるのかもしれない。あるいは昔、魚がそうだと考えられていたように、海の何処とも知れぬ場所から、自然と湧き出てくるようなものなのかもしれない。卵生? それもありそうな話だ。しかし奴らについてはっきりと判明していることもある。それは、あいつらは敵を殺すことに掛けては生まれながらの才能を持っているってことだ。どれだけ多くを殺しても、あいつらはほんの少しの間を置いて、また姿を見せる。駆逐イ級でも、戦艦ル級でも、どれでも、変わらない強さと共に戻ってくる。ところが僕ら人間と来たら、長い時間を掛けて殺すことを教えないと銃の引き金一つまともに引けないし──中には教えたって学ぼうとしない者もあるのだ。幸いなことに、現代の軍ではそんな奴は最初から弾かれる。志願制だからだ。ある程度歴史のある国なら何処でも、徴兵によって作られた軍を持つ時期というのがあった。当時はそれが時代の流れで、その時点では正しい選択だったのだ。だが現代では、そんな国に生き残る権利は与えられない。

 

 僕らと深海棲艦の戦争において、僕らが圧倒的不利だということを表現する為に、少し大げさな例え話を考えてみよう。一人の駆逐艦娘が、自分の命と引き換えに空母ヲ級を半ダース沈めたとしよう。その戦いで負けたのは僕らだ。一人の軽巡艦娘が、一グロスの重巡リ級を道連れに沈めたとしよう。その戦いに負けたのは僕らなのだ。僕は時々、彼女たち深海棲艦が単細胞分裂みたいにして増えるんじゃないかと想像することがある。そうでなきゃ深海に畑があって、種を撒くとそこから採れるのだ。その種は何処から持ってくるかって? 知るかよ、きっとスーパー深海(ディーパー)マーケットの家庭菜園コーナーにでもあるんじゃないか。一袋十グラム、春夏秋冬いつでも旬だ。たっぷりの海水と、とんでもない水圧下でお育て下さい。

 

 頭上を索敵の瑞雲が飛んでいく。僕はそれを見ながら、きっとこの出撃が終わったら、水上機を僕にも配備してくれと持ちかけようと考えた。訓練所以来触ってもいないから、再訓練の必要はあるだろうが、あれがないと重巡の重要な役目の一つ、索敵が果たせない。今回はいい、日向たち航空戦艦がいて、隼鷹もいて、艦隊の目になる航空機も潤沢と言っていい数だ。でも次の出撃では、海域に出るのは僕と響と吹雪秘書艦の三人だけかもしれないのだ。どうしてそんなことが、という質問に意味はない。そうなる時、それはただそうなるだろう。理由とか原因というのは、もっと僕から上の方で話し合われることであって、現場の兵士に過ぎない僕が関わっていけるようなことではない。とにかく、そうなった時に水偵がなかったら困るのだ。提督が薬でハッピーな気分になっているのを邪魔するつもりはないが、彼女の仕事は果たされなければならない。そして部下が無駄死にしないように気をつけるのは、上官の仕事だ。他の誰のものでもない。それに水偵は別に高価だったり希少な装備だったりしないし、不都合で支給できないということはないだろう。

 

「……見ーつけたっ!」

 

 伊勢が楽しそうに口走る。彼女の瑞雲から、敵の艦隊を発見したとの報告があったらしい。「数は?」と秘書艦が尋ねる。「重巡リ級が二と軽巡三、潜水艦はいないと思うよ」「では取り掛かりましょうか。隼鷹さん、航空攻撃を。他の方々も攻撃に移って下さい」「はいよ! 商船改装空母隼鷹、行くぜぇ、ひゃっはー!」日向とはまた違ったベクトルに元気な奴だ、相変わらず。敵艦隊の位置を伝え聞き、秘書艦と隼鷹以外の四人で前に出る。僕たちが砲戦可能な距離に入ると同時に、迂回した隼鷹の航空隊が彼女たちを攻撃し始めた。迂回とは、実に細やかな気遣いがされている。お陰で敵は僕らにまだ気づいていない。僕は近づこうとする響を止め、有効射程ギリギリに標的を収めて立った。「遠すぎやしないかい?」「いや、いけると思う」腰を落とし、衝撃を分散する姿勢を取って、狙いをつける。撃つのは、対空戦闘に夢中で動きを止めている重巡だ。風とコリオリの力を計算し、角度を決めるが、最後は勘と運がものを言う。響は黙って僕についていてくれている。彼女が先任なのだから、やめさせようと思えばやめさせられるのに。

 

 発砲した。反動を受け止め、着弾を待たずに動き出す。当たるのを見たい気持ちはあるが、それに突っ立っている必要はない。移動しながらでも見られる……当たった! 僕の放った砲弾が直撃し、リ級の一人の体がちぎれ飛ぶのが、遠くからでも確認できた。「あんな狙撃を見るのは久しぶりだ」と響が言う。言外に、あれができるのは何もお前だけじゃないんだぞ※25、ということを響が言っているような気もする。そうだとしても、この僕もそれをやったのだということは変わりない。自分のやった見事なことは、正しく認識して称えてやるべきだ。僕はにっこり笑う。「さあ、行こう」敵艦隊はその中核を成すリ級の一隻を突然失って、混乱しているようだった。混乱、混乱か。奴らには知性があるという証拠だ。だったとしても、相手が僕を殺すつもりの時、彼女たちの知性の存在が何の慰めや得になる? それは、奴らがひどく手の込んだ迂遠な方法でこちらを殺しに来るかもしれない、という心配を僕にさせるだけだ。

 

 伊勢と日向が砲撃を始める。やはり戦艦の砲撃は威力が違う。軽巡の一隻が至近弾か何かを受けて、水面を跳ね飛ぶのを僕は見た。隼鷹の爆雷撃と彼女たちの砲撃を前にして、彼女らなりの秩序を失った深海棲艦に勝ち目はなかった。僕はキルマークをもう一つつけ損ねたものの、戦闘には無傷で勝利できた。それが大事なことだ。怪我なくやっていこう。こつこつとだ。どうせ、明日にも戦争が終わるという訳ではない。僕の子や孫の時代まで続くかもしれない……おい待てよ、僕の子供や孫って、どうやって作るんだ?

 

 やり方の話じゃない。状況次第では誰かとその話をするにやぶさかでない程度には、僕はやり方を知ってる……体験としてではなく、マジで素晴らしい知識としてだ。そうじゃなくて、誰とって話なんだ。僕はお相手を何処で見つければいいんだ? 休暇で街に出た時に、いわゆる赤線地帯※26に出かけるのか? それもいいだろう、髪の毛としわの数、どっちが多いのか分からないような人を相手にして、ついでに何か病気の一つでもおまけで貰って来れる可能性だってある。あるいは親戚のおばさんを探して、お見合いの話はないかと持ちかけるもよかろう。確かまだうちはその手のおばさんの在庫があったと思う。昨今は女性不足(言うまでもなく、無視できない数の女性が艦娘になるからだ)で、何かと大変だと前に話を聞いた覚えがある。ああ、だが無論、最高なのは、長い試練と経験を通して本当の愛を見つけることだ──しかしそれは幽霊みたいなもので、誰もが語るが、見た者はいないという。それに職場恋愛はご法度だ。男性提督が艦娘に手を出さないようにと作られたルールは、僕にも適用されたのだ。破ったらどうなるか、好んで試してみるつもりはない。絞首台の上に立つのはお断りだ。うん? 絞首台だったか? 鞭打ちだったかもしれない。まあとにかく、自分がそんな目に遭うところを考えるとぞっとする。

 

 艦娘が絞首台に上がることは滅多にない。罰として殺すには金を掛けすぎているし、戦力に余裕もないからだ。最悪の場合でも、懲罰部隊に放り込むだけで終わる。一応、名誉回復や生存のチャンスはある訳だ。だがもし、そんな甘っちょろい判決をよしとしない誰かが「同期中で一番最初に絞首台に上がる艦娘になりたい」と決意したとしよう。彼女がその夢を叶える為には、軍を脱走して融和派に加わるとか、挙句民間人を殺すとか、戦場で味方殺しをしでかすとか、僕には到底できそうにない類の並外れて愚かなことを行わなければならない。命令拒否、上官への反逆とか、殴打なんかではダメだ。それでは軍法会議の種類──僕は軍に入ってそれが複数存在することを初めて知った──を告発の担当者に操作されて、痛くて辛い体罰を食らい込むことになるだけである。

 

 もっと言えば、今例に取った三つでは、軍法会議を開かれさえしないこともある。指揮官、僕ら艦娘の場合は提督が隊内処分で片をつけることにし、裁かれる方でもそれに同意したなら、営倉入りやトイレ掃除、夜間当直、食事抜き、その他諸々の雑務を罰として科されるだけで済むのだ。隊内処分は軍隊流のお世辞みたいなもので、そいつのキャリアに傷をつけることで、本来はより高いところで発揮されるべき彼の才能が、下っ端で埋もれてしまうことを忌避した結果生まれたものだ。だから軍法会議と違い、それは記録に残らない。ただ罰によっては記憶に残ることになる。そして、刻み付けられた記憶は、容易なことでは消し去れないのだ。

 

 最初の敵艦隊を撃滅した後、更に二回ほど交戦の機会があった。僕の戦果としては重巡をもう一隻沈めた他、響との共同戦果として駆逐を二隻撃沈、それに空母一隻へ大きな被害を与えるという中々の手柄を上げた。艦隊を組んで戦うのが初めての艦娘が、よくやったものだと思う。それもこれも、吹雪秘書艦の素早い指示、伊勢と日向の息の合った援護や、隼鷹の絶妙な航空支援、響の的確な砲雷撃があってこそだ。艦隊として戦うのは、一人二人で戦うのに比べて、何とまあ落ち着いていられることだろう。僕がミスをしても、必ず他のメンバーが助けてくれると信じられる艦隊で戦う今、強くそう感じる。だからこそ僕は当然、他の誰かがミスをした時には何があってもその助けになろうと思うし、また思うだけでなく実際にそうするのだ。

 

 夕方になって、僕らは帰投した。工廠へ行き、使った弾薬や燃料の量をメモしてから余った分を返還して、艤装を外し、整備員へと渡した。ナイフは私物なので持って戻ることにする。今日は使わなかったが、明日も使わないで済むといい。背伸びをして体の凝りをほぐし、隼鷹を誘って夕食にしようと考えていると、吹雪秘書艦から声を掛けられた。彼女が僕に直接声を掛けるというのは意外な出来事だが、仕事のようだ。「司令官に、資材使用量や戦果の直接報告をお願いします」と彼女は言った。僕は真面目な顔でその指示を受けたが、吹雪秘書艦が足早に工廠を出て行って、僕の声が聞こえないという確信が持ててから、尋ねた。「そういうのって秘書艦の仕事じゃないのかな?」すると伊勢は困った顔をして答えた。「うん、いつもは秘書艦がやってるんだけど。でも、これだけは言っておくけどさ、あの子は自分が楽したいからって仕事を人に押し付けたりしないよ。それは信じて欲しいなあ」彼女の悲しそうな声のトーンに、僕は慌てた。そういうつもりじゃなかったんだ。単なる愚痴みたいなもので、ちょっと笑って軽く励ましてくれればそれでよかった。伊勢が心配しなくてもいいように、僕はちゃんと言っておいた。「吹雪秘書艦は立派な艦娘だ。付き合いは短いし浅いけど、それは分かってるよ」そうだ、それに疑いの余地はない。あの提督の秘書艦を務めていることからも、それは明らかなのだ。

 

 普段秘書艦がやっている仕事とはいえ、彼女から委託された以上僕はその仕事に責任がある。務めを果たすことを怠ってはいけない。軍は怠慢に厳しいのだ。僕は急いで他の艦隊員たちから資材使用量を聞き出し、その総量をまとめた。それから秘書艦以外の面々に頭を下げて集合させ、事実確認を行い、可能な限り正確に、誰がどの敵をどれだけ砲撃、雷撃、爆撃し、どの艦娘がどの深海棲艦を沈めたかなどをきっちりと書き出した。経験があって、僕の要領がよければ、ほどほどに手を抜いてやっただろう。しかしこの手の報告を自分でやるのが初めてだった僕は、全力でそれに対応せざるを得なかった。結果、時間が掛かった。昼が少なかったせいで空腹も抱えているだろうに、文句も言わずに僕の仕事の為に手を貸してくれた艦隊員たちには頭が上がらない。

 

 彼女たちを解放し、僕は作った書類を持って提督の執務室に急いだ。僕もいつ腹の虫が肉と皮を食い破って出てくるか、気にする身だったからだ。健康な少年にとって、空腹・飢餓というのは耐えがたい責め苦の一つである。夜間出撃の命令は来ていない。腹が膨れて動けなくなるまで食べて、消化して、トイレに行こう。これは何にも劣らぬいい考えじゃないか、ここ暫くで最も賢明なことを考えたような気さえするぞ。僕は未だ見ぬご馳走を思い浮かべた。肉、魚、野菜、米……どんなものでもそれに六本の足とか複眼がついていない限り、今の僕にはおいしそうに見えるだろう。理性を失って、人間や艦娘にだってかぶりついたかもしれない。ところで人肉と艦娘の肉は同じ味がするのだろうか? 栄養素は? 食べようとは思わないが、あくまで学術的興味の為に誰かに聞いてみたい話だった。妖精にでも聞いてみたら、答えてくれるだろうか。

 

 執務室に着く。と、先客がいるようだった。僕も急ぎだが、その先客もそうかもしれない。失礼だが、誰なのか確かめさせて貰おう。僕は戸口に立って、耳をそばだてた。途端に、僕の眉は垂れ下がった。困ったことになった、中には長門がいる。しかも、真面目な話をしているような雰囲気だ。その中に僕が入って行ったら、提督は気にしないだろうが、長門がどう反応するか分からない。第二艦隊の旗艦にはただでさえ睨まれているというのに、これ以上不興を買うことになったら、第一艦隊のよき人々さえ僕を遠ざけるようになるかもしれない。そんなのは嫌だった。だが、かといって、書類を渡さずに逃げ帰って忘れてしまうという訳にもいかない。執務室の扉には報告書用のポストみたいなものもあるが、吹雪秘書艦は直接報告せよと言った。勝手に逃げるのが許されるのは民間人だけだ。そして僕は、自らその権利を投げ捨てて、民間人ではなくなってしまったのだ。お陰で昔からの目標だった、艦娘関連の職業に就くという目的は達成できた──でもそれが正しかったか、よい選択だったかどうかと言われると、ちょっと疑問が残る。僕は目の前の餌に飛びついた魚みたいに吊り上げられただけだったのかも。

 

「平和な戦前に生きたかったものだな」

 

 提督がそう言うのが聞こえた。その言葉には軍や戦争への嫌悪がこもっていた。誰でもそうだろう、戦争が好きな奴はいない……いや、一人だけ知ってる。天龍はそれが好きなようだった。訓練所でのあの地獄のような鍛錬の日々だって、戦争に行く為の準備として楽しんでやっているようにさえ見えた。実戦を経験しただろう今、彼女がどんな見解を有するようになっているか、訊ねてみたいものだ。彼女と仲良しの龍田の為にも、戦死していなければいいが。

 

「戦前? あの頃はそう平和とは……」

「大戦じゃない、この戦争のことだ。それで、何の話だった?」

 

 学者たちはこの戦争のことを何と呼ぶべきかということについて、派閥ごとに一定の考えを有している。ある派閥では「深海戦争」と呼び、また他の派閥では「人類自衛戦争」、更に別の派閥ではこれは戦争ではなくて「長期警備出動」であるという立場を取る。そんな奴らは、僕らにとって知ったことではない。これは戦争だ。深海棲艦の最初の一匹が、人間の最初の一人をぶっ殺しやがったその時から、戦争は始まっていたんだ。頭でっかちでその実お馬鹿な民間人どもはそれに気づいていなかったかもしれないが、これが戦争じゃないならその他の何をも戦争とは呼べないし、呼ばせるつもりはない。僕はそんな大それたことを主張する思い上がった市民閣下を、一人一人とても強く殴打して回るだろう。それも二発ずつだ。名前にこだわって本質を見てもいなければ見ようともしないし、見たいとさえ思っていない奴らにも二発ずつぶち込んでやる。

 

 僕らはこれをただ「この戦争」と呼ぶ。それで十分だからだ。荒々しい兵隊っぽく振舞いたいなら、「この(ここに好きな罵倒語)戦争」でもいい。どうしても固有名詞を使って表現したければ、各々で好きなように呼ぶ。学者から借りてくるもよし、自分で考えるもよし。艦娘でおふざけが好きな者たちは、しょっちゅう「新しい名前を思いついた」と言ってそれを仲間に披露したものだが、まあその中の九割は卑猥か、馬鹿馬鹿しくて下らない冗談のような名前であるかのどちらかで、後の一割はその両方だった。

 

「旗艦を交代したい」

「どうやら私の幻聴じゃなかったらしい。まあいい、却下する。不服か? だが多数決を取ろうにも私たち二人だけじゃ無理だな。行け」

「提督、私は本気だ」

「私だって本気だ。根競べしたいか? 私はしたくない。だからお前が出て行くんだ。私には命令権があるからな、どうだ、羨ましいだろう?」

 

 長門は黙っていた。僕には部屋の中で起こっていることを想像することしかできない。彼女たちは視線を交わし合って、そこで僕にはできないほど沢山の思いを交換しているのだろう。提督の人間的素養については批判しかできないが、彼女の能力については彼女が提督であるというその一点のみによって、軍が保証していた。コネがあろうと、無能な人間は提督にはなれないのだ。人類世界防衛の為に、そうならざるを得なかったのである。やがて提督は溜息を一つ吐いた。それは彼女が、したくない我慢比べをするよりかは聞きたくもない長門の話を聞き流して、適当に終わらせてやった方が早いだろうと判断したことを示していた。または、長門が本当に本気であると確信したことを、だろうか。長門は提督が聞く姿勢を見せたことで、喋り始めた。

 

「私は不安定になっている。あの男と知り合ってから、あれへの不快感が抑えられない。吐き気がする。背中を見せていると落ち着かないし、そうでなくとも怖気が走る。苛立ちも、怒りも、止められない。

 

 どうしてしまったのかと、何度も考える。こんなざまでは早晩沈むかもしれないと思えて、夜も眠れない。寝ても悪夢を見て、自分が海の上にいるのか、部屋にいるのか、それとも海の下なのか、分からなくなって飛び起きる。私に何が起こっているのか理解できない。

 

 頭ではおかしいと分かっている。あの男は最高ではないが、それなりに優秀にはなるだろう……よく鍛えられ、戦意もあり、その二つをどう活かすかも教えられている。以前に調べた限り、勤務態度も悪くなさそうだ。私があれを嫌う理由なんて、あれが彼女の代わりにここに来たことだけだというのに。

 

 面と向かって顔を合わせるまでは、努力すればあの男のことをまだ正しく認識できる。だが目の前に現れると、あっという間に感情が理性を排除してしまう。あいつか私か、どちらかがいなくなるべきだ、という気分になる。全くの病気だ」

 

 抑揚を抑えた無感情な声に、僕は長門の苦悩を感じ取った気がした。この告白が、これまでの長門の態度を全て赦免してくれるとは思わない。でも、彼女は上手くやった──意図せずして、僕にこの話を聞かせやがった。もうこれで僕は長門のことを、根っから嫌ったり憎んだりできないだろう。僕は彼女が彼女の意志に反した感情に囚われ、それによって苦しんでいるということを知って、それでも彼女を心置きなく憎めるようなタイプの人間じゃない。もし長門がこれを僕が聞くように仕向けていたのなら、軽蔑を覚えるだろうが、そのことを考える度に僕は長門の高慢な態度、彼女の持つ全てに基づいて育まれた、自尊心の強さと大きさを思い出した。その存在は僕に、彼女が嫌っている相手にわざと弱みをさらけ出すことは絶対にしないと信じさせた。

 

 僕は書類をポストに入れた。音がしないように気をつけなければならなかった。それから足音を立てないように、そっとそこを後にした。もやもやした気分だった。長門に嫌われるのは別にいい。だがそれなら、彼女が僕を嫌うのと同じように、僕にも彼女を嫌わせて欲しかったのだ。そうすれば、僕らは永遠にでもいがみ合って、それなりに付き合い方を模索していけただろう。今はどうだ? 彼女は変わらず僕を憎む。僕はそのことを否定できないし、これまでと同じようには彼女の悪意に反応できない。手詰まりみたいなものだった。僕はすっきりしたかった。友達と騒いで、忘れてしまいたかった。考え込んだって答えの出ないこともある。それに、長門がどうあろうと時間は流れるものだ。その内に僕も、新しい対応法を見つけるだろう。時間がきっと何もかも解決してくれる。

 

 何か食べようと思って、僕は食堂に行った。時間は飲み食いするには僅かに遅かった。だがそこには秘書艦を除く第一艦隊の皆が何も口にせずに待ってくれていた。吹雪秘書艦は相当お忙しいようだ。「待ってたよ、それじゃ行こっか」と伊勢が言った。「行く? 何処に?」「お前たちの初出撃祝いだ」日向が口元を緩めて答える。その所作の美しさに僕は意識を奪われそうになるが、からかわれないようにぐっとこらえて笑い返す。「丁度、僕もみんなで盛り上がりたい気分だったんだ」「いいねー、さあさあ、早く店に行ってひゃっはーしようぜー!」「おいこいつもう酔ってないか」食堂を出て、この研究所の敷地内にある駐車場へ向かう。そこにはSUVが一台置いてあった。僕にはそれが陸軍で使われている仕様のものであるように思えたが、質問しても日向は「民生品だ」としか言ってくれなかった。このことについては突っ込んだ話を聞くまいと考え直し、その代わりに別のことを訊ねる。運転席に座ったのは日向だったが、彼女はそうすると飲まないのだろうか? それとも運転代行を頼むのか? これは後者だった。

 

 長門とのことで曇っていた気持ちは今や、からっと晴れ渡った青空みたいな状態だった。自分の単純さが僕は好きだ。それは僕が生きる上で多くのことについて悩まずに済むという、ありがたい加護を与えてくれる。人間誰しも、若い内は様々なことで思い悩むが、僕だけはその苦しみから解き放たれているか、苦しんだとしても指の先をちょっと切ったとか、ささくれを引きちぎったせいで少し出血した時に感じる程度の痛みしか受けないでいいのだ。若きウェルテル※27のようにピストルで頭を吹っ飛ばしやしないかと、心配する必要もない。

 

 店は居酒屋だった。店員は軍人慣れ……いや、艦娘慣れしているようで、先に待っていた民間人よりも優先して通して貰えた。これは軍人の特権の一つだ。命を懸けている人間には、それなりの社会的な見返りが与えられるものである。古代ローマでは、市民権は軍務に就けるものしか得ることができなかった。※28 現代で僕らが享受できるのはそれに比べると見劣りする権利だが、それでも特別な待遇をされるというのは気分がいい。民間人の中にはそれを気に入らないと言う奴もいるが、それなら予約でもしておくことだ。幾ら何でも、予約客よりふらっと来た軍人を優先させるほど僕らの特権は強力ではないからである。僕らは座敷に上がり、めいめいに注文を始めた。隼鷹は早速ハードリカーに走り、日向と伊勢はつまみと日本酒を頼んだ。響はウォッカかと思いきや、彼女も日本酒だった。「こういうところのウォッカは好きじゃなくてね」最後に僕の注文を受けた店員が行ってしまってから、僕の視線に答えて彼女はそう言った。

 

 僕や隼鷹なんかは飲めれば何でもよくって、飲めるだけでなくおいしければ更によいという考えの持ち主だから、響のこだわりは面白かった。自分と違う考えを持つ相手と話すのは楽しいものだ。違うということは素晴らしい。それは、僕と比較して違うということだけについての話ではない。駆逐艦娘としての響は全国に大勢いる。でも目の前の響と、横須賀の響と、呉の響と、その他の泊地や鎮守府や基地の響は、必ず全く同一の存在ではない。そしてそれこそ、僕が話題にしているこの響が、かつてない唯一無二の燦然と輝く魅力を持つ理由なのだ。誰と置き換えることもできない彼女だからこそ、この響は素敵な女性なのである。

 

 しかし、美しいものを楽しむには余裕が必要だ。僕にはその時、それがなかった。空腹だった。ぺこぺこだった。飢えていたし渇いていた。だから飲み物が運ばれてきて、最初の乾杯が終わるや一息に飲み干し、突き出しをむさぼり喰らった。他のみんなも似たようなものだった。彼女たちは僕ほど下品ではなかっただけだ。伊勢と日向の前に置かれたつまみの皿は、僕がほんの数秒目を離した間に空っぽになっていた。響は一杯に詰まった食べ物で頬をぷくりと膨らませていた。隼鷹は……こいつは放っておこう。げらげら笑い出した後に突然沈黙を始めるまで。それは隼鷹の飲酒量が彼女の限界を超えたことを示すサインだった。

 

 腹がやや満たされ、喉が潤うと、僕らの舌は滑らかになった。沢山の話をした。第三艦隊は何をやっているのかとか(研究所への資材輸送警護任務専門だそうだ)、僕と不知火以外に第四艦隊所属のメンバーはいるのかとか(夕張と明石だった)、出た訓練所の話とかだ。訓練所というのは艦娘にとって忘れがたい場所で、それは民間人にとっての出身校みたいなものと言えばいいだろう。二人の艦娘が期こそ違えど同じ訓練所を出ていれば、その艦娘同士はすぐに仲良くなれる。同じ教官にしごかれたという繋がりは、それだけ大きく強いものなのだ。残念なことに、第一艦隊の面々は伊勢と日向が訓練所の同期である以外に、そのような共通点はなかった。でも、他の訓練所ではどんな訓練を受けたかや、教官がどんな人物だったか聞くのは楽しかった。

 

 さて、そのまま僕らが話し続け、飲み続け、食べ続け、平和に楽しくやってから艦娘寮に戻ってぐっすり眠りました、と言えれば幸せなものだ。しかし、そんな一日の終わりが兵隊に相応しいものだろうか? 僕はそれに答えることを避けたいと思う。が、その質問に対して明確なノーを突きつけるような奴もいるものだ。そいつらは陸軍の一団で、分隊の仲間同士なんだろうが、静かに飲んでいた。お通夜みたいな雰囲気で、実際そうだったのかもしれない。彼らは僕たちの近くの席に陣取っていて、こちらの会話を盗み聞きしているのを隠そうとしていたが、失敗していた。そして段々と彼らは隠すつもりもなくなったのか、僕らを当てこすり始めた。それに最初に気づいたのは響だ。それは、一番に彼らの皮肉やからかいの対象になったからでもあるだろう。陸軍の嫌がらせが終わらないことで、とうとう日向が不機嫌そうに舌打ちした。伊勢は眉をひそめた。隼鷹は笑っている。僕はこいつを見ると安心する。響は無視を決め込んで、食卓の上に並んだ料理をぱくぱくと食べ続けている。

 

「出よう」

 

 響が食卓を片付けてしまったのを見て、日向はそう言った。僕にもそれを拒否する理由はなかった。伊勢が会計を済ませに行ってしまい、僕らはその少し後からレジに向かった。その時に、僕の足が陸軍連中の靴に当たった。わざとじゃない、わざとじゃないと思う、が、心の奥底で奴らに仕返しの一つでもしてやりたいと考えていて、それがこういう形で発露したんだと言われたら、僕はその意見に一定の説得力を認めるだろう。

 

「俺の靴だぞ!」

 

 酔っ払った陸軍兵が飛び出してきて、僕の胸倉を掴んだ。ここで睨み返してやれたらよかったんだが、僕は十五歳、あっちはひげも生えて体つきもがっしりとした大の大人だ。僕はかちこちになりそうだった。そうならなくて済んだのは、すぐに日向が割って入り、彼の腕を掴んで止めてくれたからだ。「やめろ」と彼女は短く言った。でも僕は半ば疑っているのだが、この時の日向は「やめてくれるな」と思っていたのではないだろうか?

 

 陸軍兵が日向の手を振り払う。彼の指先が彼女の頬を打つ。それで反撃の理由には十分だった。酔っ払いの顔面に彼女の固い拳が叩き込まれた。一発でノックアウトされて床にぶっ倒れた仲間をぽかんと眺めていた男たちが、突然正気に戻って襲い掛かってくる。ありがたいことに、そっちには僕も反応できた。近くのテーブルにあったコップを掴み、それを僕に向かってきた兵士に投げつける。顔に当たりそうになって、彼は腕でガードした。そのせいで視界が遮られ、僕の突進に気づかなかった。押し倒して、殴りつける。伸びてしまったそいつを放って立ち上がり、次の敵を探す。と、最初は僕らと近くの席の陸軍どもだけだったのが、今や店中の海軍と陸軍が殴り合っていた。海軍側は数が少ないが、艦娘がいる分、質的に優位だ。伊達や酔狂で深海棲艦と戦って死線をくぐってる訳じゃない。それに妖精たちの手で艦娘になった時に変わるのは、外見だけではないのだ。身体能力も、個体ごとに差異はあるがそれなりに上がる。

 

 僕が四人目の兵士を投げ飛ばし、五人目に取り掛かろうとしたところで銃声がした。何処かの馬鹿が持っていた拳銃でも撃ったかと思って音のした方を向く。人が多くて見えない。だが誰かが叫んだ。「憲兵隊だ!」

 

 それを聞いて逃げ出そうとする奴はいなかった。出口は押さえられているだろうし、捕まえて下さいと言うようなものだ。ずかずかと入って来た憲兵は、店内の惨状を一瞥して顔をしかめると僕らを怒鳴りつけた。曰く、共同して祖国を防衛するという神聖な任務に当たらねばならない陸軍と海軍が……これ以上は馬鹿馬鹿しくて聞いていられなかったので覚えていない。演説を終えると憲兵は「それで、誰が始めた?」と訊ねた。僕らはみんなで顔を見合わせた。それから憲兵に向き直り、肩をすくめた。「さっぱりですな」最初に日向のパンチを食らった兵士が、鼻血をハンカチで拭いながら言った。「お前は?」と隼鷹に憲兵が言う。「あぁー? 何だってぇ?」ダメだこいつ。憲兵は響に目をやる。彼女は誰かのテーブルの上に手付かずで残っていた料理に手を出すかどうか逡巡していて、彼に気づきもしなかった。日向と伊勢はそっぽを向いている。最後に彼は僕を見た。「いやはや、何が何やら」と言っておく。足元で僕が倒した兵士が呻いた。

 

 憲兵は怒りに震え、唸り声を上げて「いいだろう」と言った。「貴様ら全員、本当のことを喋るまで留置場にいろ!」

 

 しかし、僕らは予想に反してそうならなかった。憲兵たちは第一艦隊を護送車に押し込み、悪名高き留置場に連れて行くのかと思いきや、見慣れた庁舎の前で僕らを下ろしたのである。そこには提督と、吹雪秘書艦が待っていた。僕は肩に百キロも重りを乗せられたような気持ちになった。「楽しんだようだな?」一体「はい」という以外に……待て、こんなやり取りは前にもしたことがある気がするな。僕は黙っていた。「秘書艦、この間抜けどもを執務室に連行しろ」「はい、司令官」提督は移動する僕らの背中に呼びかけた。「逃げようとしてもいいぞ。秘書艦の運動不足解消に貢献してやれ」お断りだ。

 

 執務室で待つこと十五分、提督は杖を突きながら戻って来た。僕はその杖が、ヲ級の持っている杖によく似ていることに気づいた。提督は僕の視線が何に向けられているかを悟って、鼻を鳴らした。「じっくり見たくなるのも分かるよ、障害者はセクシーだからな」きまりが悪くなって、僕は目を逸らした。提督が執務机につくのを、秘書艦が手助けする。自然な動きでそれを受け入れて、彼女は僕らを壁の落書きを眺めるような冷めた目で見た。

 

「酔っ払って陸軍と乱闘、挙句店の破壊。立派なもんだな、テストステロン(男性ホルモン)のせいか、え?」

「僕は──」

「失礼、勘違いさせたかな。日向に言ってるんだ」

 

 恥ずかしさに顔が赤くなるのを感じる。それに、日向に対する侮辱への怒りもだ。彼女は僕を庇おうとして、そのせいでこれが起きた。彼女が辱められる理由はないし、仮にあったとしても、それがこんな言葉を吐きかけられるほどのものとは思えない。提督の背後に控えていた吹雪秘書艦が一歩前に出た。足音どころか衣擦れの音もしなかったが、提督はそれを察知して振り返り、視線だけで秘書艦を止めた。僕は自分が彼女に鎮圧されるところだったのだと気づいた。提督が止めさせなければ、今頃意識を失って床に這いつくばっていたかもしれない。どうやって吹雪秘書艦がそれを成し遂げるかは分からないが、彼女はやるだろう。

 

 僕らに向き直った提督は、もう僕らの不始末への興味そのものを失っているようだった。「伊勢と日向は今晩から四日間、営倉で寝転がっていろ。響は不知火との遠征任務を命じる。隼鷹は……おい、起きろ。隼鷹は一週間の夜間当直。それからお前、テストステロンまみれの子犬ちゃんは私の風呂掃除一ヶ月だ。トイレ掃除にしてやろうとしたんだが秘書艦が首を縦に振らなくてな。私を恨むな、秘書艦を恨め」誰も文句を言わなかった。軍規にあるよりも遥かに軽い処罰だったからだ。僕は提督が軍規と顔を突き合わせ、細かい条項や前例を持ち出して僕らに与えられるだけの罰を与えてくるものと思っていた。意外に思っているのが顔に出たのか、提督は僕を見て言った。

 

「罰は以上だ、もっと大事な話がある。喧嘩だが……どっちが勝った?」

 

 僕はぐんと背が伸びたような気持ちになった。彼女が僕らの味方をしているのが分かったからだ。考えてみれば、憲兵たちが僕らをここに連れてきたのも、彼女の意向か何かが介入してのことだったのだろう。僕は、胸を張って答えた。

 

「陸軍は埃の味を忘れないでしょう」

「そうか、よくやった。秘書艦、私の勝ち分を寄越せ」


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