[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「“六番”」-2

「私の誘いをすっぽかすなんてな。分かってるのか? 紅茶二杯で半日も粘るのが、どれだけ大変だったか」

 

 そうは思ってなさそうな、楽しげな表情で彼女は言う。僕は答えない。武蔵は遠慮など見せず、ベンチに近づいてきて僕の隣にどっかと腰を下ろした。「知ってるかい? あのウェイトレスは引っ越したらしいぞ」とうそぶく。その声色は僕が当然それを知っているだろう、と確信している人間のものだ。「ほら、何か言えよ。また私が誰かを密告したくなる前に」「くたばれ」「偉いぞ! 男たるもの、女性の頼みはすぐに叶えてやるべきだ……ちょっとばかりここが傷ついたがね」武蔵は自分の胸をとんとんとつついて、くつくつと笑う。僕は警戒を隠さず、刺々しい声の質問で彼女を牽制する。

 

「何でここにいる」

「偶然さ。だが運命と言った方が私好みだな。お前と私、面白い組み合わせじゃないか。物語の始まりを予感させる」

 

 結構だ。僕はベンチから立ち上がった。寮に帰ってシャワーを浴び、飲んで寝よう。この不愉快な艦娘のことを忘れるまで飲んでしまうのだ。恐れることは何もない。僕が離れようとしているのを、武蔵は止めなかった。ただ背中に言葉を投げ掛けてきた。「今度はいつ会える? 寂しくて誰かを密告……」僕は彼女が言い終わるまで待ってはいなかった。「明後日だ」「じゃ、正午にあの喫茶店の前で待ち合わせだ。他にいい店があるから、一緒しようぜ」拒否したくなったが、それで彼女が本当に無実の人を有罪に仕立て上げてしまったら? そう思うと、拒む言葉を吐き出そうとする僕の舌は、石のように硬くなった。僕ははっきり答えないままそこを歩き去ったが、それは武蔵の誘いに乗ったも同然の行為だった。

 

 翌日、夜まで掛かった戦闘に勝利して帰ってきた僕は、休む間もなく執務室に呼びつけられた。提督は用事がある時、一々それを前もって説明したりしない。彼女は「来い」と命じ、来たら言いたいことを言って、呼びつけられた相手をへこませたり、傷つけたり、苛立たせたり、怒らせたりするような真似をして、反応に満足したら追い出す。それがここの提督のやり方だった。もし、彼女が僕らに対してのみ、彼女自身の部下に対してのみこういう態度を取るのだったら、僕は提督を蔑んでいただろう。しかし彼女はそうではなかった。上官だろうと気にせずに、そいつを生まれつきの傲慢さであざ笑い、皮肉や嫌味を言うのを楽しんでいる。清廉潔白な人に責められたって「そうとも、これが私の悪徳さ。嫌がられるのが楽しみでね。憎まれたいね。貴様には分かるまいよ、白い目を剥く奴らの前を歩いてやるのがどんなに気分のいいものか!」※32というような態度を崩さない。彼女は相手を選ばない。女でも、男でも、子供でも、大人でも、健常者でも、障害者でも、日本人でも、外国人でも、同性愛者でも、異性愛者でも、他人でも、自分自身でも、お構いなしだ。だから僕は提督の人間性が最低のレベルにあるとは考えていたが、軽蔑はしていなかった。それに、この数ヶ月見ていただけだが、実務では偽りなしに有能なのだ。最初期からずっと一緒に働いているという吹雪秘書艦は、さぞや苦労していることだろう。

 

 僕が入室した時、彼女は定規をカタパルト(投石器)代わりにして錠剤を跳ね上げ、それを口でキャッチして遊んでいた。僕はそのまま帰りたくなったが、彼女がこちらに気づいたのでそれは無理だった。執務室に敷かれたカーペットの感触を靴の下に覚えながら、僕は執務机の前に立った。「命令により参りました」「お前は私がこれまでに見た中でも随一の問題児だ」そら来た。「それがこの度の本題でしょうか?」「いいや、今のは『突然けなされた思春期の少年がどんな顔をするか』の実験だ。もっとも、真実を告げることは誹謗中傷には当たらんと思うがね。本題はこれだ」そう言って彼女は引き出しから数枚の書類を取り出し、机の上に投げ出した。「見ろ」という提督の言葉に従い、それを手に取ってみる。憲兵本部からの通達だ。召喚命令……重要参考人……対象者は……僕だ。

 

 理由は? 理由がある筈だ。書類をめくり、それを探す。見当たらない。五度、六度と見直しても、見つからない。書類を返しながら「何故です?」と聞かずにはいられなかった。でも思い当たることはあった。武蔵が言った通りだったなら、あのウェイトレスの親が融和派だったのなら、そのせいで僕が呼ばれることもあり得る。憲兵たちにとっては、単に彼女の働いていた喫茶店の常連だったというだけで、引っ張るには十分なのだ。その先で何が行われるかについては、考えたくなかった。処刑はない、ない筈だ。僕が融和派だと断定された訳ではない。それに僕には価値がある──世界で唯一の男性艦娘だという価値が──それが価値だと見なされるなら。

 

「理由など知るか。お前の出撃は全て取り消しとする。部屋に戻って準備しておけ、連中は明日の夕方来るそうだ」

 

 僕は呆然として退出した。執務室を出て数メートル歩くと、提督の言葉が頭の中で蘇った。「連中は明日の夕方来るそうだ」。彼女は、こんなことを僕に言う必要はなかった。出撃を取り消して、自室で待機しているように命じ、心配なら見張りをつけておけばよかったのだ。提督は、一か八かに賭けて逃げ出すチャンスを僕に与えようとしたのだろう。ということは、これは提督の持っている出所不明な謎の権力を以ってしても、抗うことのできない動きであると分かる。そんなものから頼りもなく当てずっぽうに逃げて、どうにかなるとは思えなかった。提督の方も多分そのことを分かっていて、それ故に「逃げろ」とは言わずに回りくどいやり方でその選択肢を僕に示したのだろう。彼女はクズだが、自分の部下を平気で憲兵に突き出すような人間じゃなかったってことだ。それが慰めにはならなくとも、感謝はしておこう。

 

 部屋の片づけをしながら、どう振舞うべきか考えた。まず最低限の備えはしておかなければならない。想定すべきは最悪のシチュエーションだ。その場合、僕は死ぬ。どのようにしてかは知らないが、憲兵か誰か、気の利く奴が僕の悲劇的な死を演出してくれるだろう。担当者が優しければ、戦死したことにしてくれるかもしれない。そうすれば故郷の家族は安泰だ。恩給も出るし、名誉も守られる。彼らまで消される可能性はないだろう。一人疑いを掛ける度にそこまでやっていたら、日本の人口は半減してしまう。何にせよ、僕の遺書が改ざんされることなく効力を発揮するようにしたい。隼鷹に渡すのは問題外だ。彼女を余計な厄介ごとに巻き込みたくはない。じゃあ長門は? 彼女は僕を嫌っているが、誇り高い。僕が頭を下げてまで頼んできたことを跳ねつけるという、罪深い喜びに屈しさえしなければ、必ず約束を果たすだろう。彼女のような手合いは、嫌いな奴と結んだ約束ほど律儀に守るものだ。それが自らの道徳に沿った行いであるだけでなく、彼女自身の自尊心も強烈に満足させるからだ。けど、彼女に頼むのは最後の手にしておきたい。とすると……僕には一人の候補しか思い当たらなかった。遺書の入った封筒を折り曲げて、更に別の封筒へと押し込み、糊付けして閉じた。中で膨らんで不恰好だが、これで中身が何なのかは分からない。

 

 死ななくて済んだら? その場合は懲罰部隊行きになるか、監視付きの生活をすることになる。何だかんだで無罪放免という可能性だって、存在しないとまでは言えない。そうだな、その可能性を分数で表現してみよう。分子、即ち最高のハッピーエンドを迎える確率を一と仮定する。そうすると分母は、日本最大の流域面積を誇る利根川の底に沈んでいる砂粒と同じ数だけの利根川が存在するとして、その全ての利根川の底に沈んでいる全砂粒を足した数ぐらいになるだろう。おお、結構希望が持てそうじゃないか。僕は今から知り合いみんなに手紙を書いて別れを告げておくべきだな。

 

 手を打っておくのは最初の可能性、僕が消される可能性についてだけで十分だろう。根本的に避けられないなら、これ以上できることもない。僕は部屋の片隅に並べてあった酒から一本取って、氷を入れたグラスを用意し、テーブルにセットした。ロック用の氷は最後の二個で、僕はそれを二つとも自分のグラスに入れてやった。だが飲み始める直前にノックもなしにがちゃりとドアが開かれて、紫髪のつんつん頭がひょこっと姿を覗かせた。彼女は僕がやろうとしていることを見て、言った。「あたし好みのワインはあるかい?」「一九六九年以来、そんなスピリットは用意しておりません」※33「ああそう……で、ワインは?」「いいからとっとと入れよ」彼女は入ってきた。自分でグラスを選んで、僕の対面に座った。彼女のグラスに注いでやる前に、訊ねる。「氷は?」「欲しいけど、そのグラスに入ってる二つで終わりじゃなかったっけ?」「まあね。ほら、取りなよ」グラスを差し出す。彼女の指がすっと伸びて、つるりと滑って逃げ出そうとする氷を器用につまみ、自分のグラスへと移し変える。その指の動きの優雅さ、彼女の腕がこちらに近づいた時に鼻をくすぐった、彼女の香り。瓶詰めにして売ったら、僕は一晩で億万長者になれるだろう……おい、自分で考えたことながらこの思考は流石に気持ち悪いぞ。

 

 隼鷹がいつも入れる量だけ、グラスに酒を注ぐ。彼女が欲しがったワインじゃあないが、隼鷹は他人の酒を飲む時にあれこれ注文をつけたり、文句を言ったりはしない。彼女は相手に敬意を払うということを知っている。それは敬語を使うとか、上座を譲るとか、そういう表面的なことじゃない。真の敬意とは、ある時、ある瞬間にふと顔を出すものなのだ。誰にもそれを前もって察知することはできないから、偽ることもできない。

 

 彼女は僕の手からボトルを取り、こちらのグラスに注いでくれた。それが終わり、ボトルがとん、と気味のいい音を立ててテーブルに立てられる。僕らはグラスを手に取り、それを互いの顔の高さにまで掲げる。隼鷹が訊く。

 

「何に乾杯する?」

「飲んだくれの友達に」

「飲んだくれの友達に!」

 

 まさにその夜にぴったりの乾杯だった。僕がその日のことで最後に覚えているのは、ドアを探して走っていた頃、その前後のことだ。どうしてもトイレに行かなければならなかった。僕の部屋のトイレは隼鷹が閉じこもった末に独立を宣言、対話の道が拓かれないまま彼女が気絶してしまったので、使えなかったのだ。扉をぶち破って隼鷹を引っ張り出すことはできなかった。扉のないトイレには酔ってても入りたくない。幸いなことに、僕の体は悲劇的な流出事故を起こさないでいてくれた。用を足し終わって手を洗った僕は、へにゃりとトイレを出たところで腰が抜けてしまった。そこへ僕の足音を聞きつけて来た伊勢が現れた。彼女は夜警当番だったのだ。伊勢は僕を引きずって部屋まで連れて行き、ベッドに転がしておいてくれた。

 

 翌日の朝九時に起きた僕は、隼鷹の様々な後始末をしてやり、彼女に間に合わせとして僕の服を着せ、酔い覚ましの薬を飲ませてシャワーへと送り出した。頭痛がひどかったが、こういったことも最後かもしれないと思うと、いっそ感慨深かった。僕も薬を飲み、部屋の窓を開けて換気してからシャワーに向かった。暖かい湯を頭から浴び、服を着替えると、マシな気分になる。二時間ほどすれば薬で酔いも収まるだろう。僕は小さな鞄に遺書の封筒を詰め、研究所を出た。寮から出る直前に、提督と擦れ違った。彼女は僕を見て、軽く頷いて、何も言わなかった。外出許可を取っていない艦娘が、外に出ようとしているのが明らかであるのに、だ。その程度なら、彼女でも揉み消してどうにかしてしまえるのだろう。夜の間に逃げ出したとか、帰港直後に姿を消したとか、もしかしたら昨日の戦闘で行方不明になったということにされているかもしれない。戦闘中行方不明は基本的に、戦死と同じ扱いを受けることができる。ただ、きっと遺された家族はより辛い思いをするだろう。行方不明になって帰って来た例は、数えるほどしかないのだ。まだ生きているとも、もう死んでいるとも思えずに子供を待ち続ける親の気持ちなど、僕に想像できる筈がなかった。

 

 喫茶店に到着したのは十一時半だった。二日酔いからは既に覚めかけていた。店の前で暫く立っていると肌を焼く感触がして、僕は「クソっ、日焼け止めをまた忘れた」と心の中で毒づいた。日差しを避けて、店に入る。日焼けに強くなるように、体質改善薬でも飲んでみようか? そう考えて、その薬を手に入れて飲むことができるほど長く生きていられるかどうかも分からないことを思い出した。僕は自嘲の笑みを浮かべたが、タイミングが悪かった。新人のウェイトレスがこっちに来るところだったのだ。彼女の気分になって考えてみよう。昨日に続いて店に来た男が、自分を見てにたにたと笑っているのだ。彼女は今日、仕事を終えて帰る時、しきりに背後を気にしながら早足で家路を行くことだろう。表情筋を引き締めて、彼女が仕事をしやすいようにしてやる。「ご注文は?」「クリームソーダ。それだけで」誰が僕に何を言おうと、見たこともないような額の大金を積まれようと、みんなで取り囲んで馬鹿にして指差して笑ったって、僕はここでクリームソーダ以外の飲み物を頼むつもりはない。コーヒーが飲めるようになるまでは。

 

 ソーダを飲み、アイスをつつきながら待っていると、トイレに行きたくなった。薬の副作用だ。鞄を置いて、まだそこにいるということをアピールしつつ、トイレへと向かう。用を足し、鏡に向かう。目に生気がないように思えるが、これは鏡のせいだ。顔色が悪いのは鏡のことに加えて、照明が薄暗いからだろう。僕は自分が精神安定剤か何かを用意しておかなかったことを悔やんだ。そんなものを飲酒後に服用したら、幾ら艦娘と言えども無事ではいられないだろうが、僅かな間でも平和な気分でいられるなら喜んで僕はそれを飲んだだろう。しかし、ないものはない。分けて貰うか? 誰に? 知っている限り、あの手の効果がある薬を持っているのは提督ぐらいのものだ。彼女は死んでもそれを他人に分け与えなどしないだろう。死んで火葬にされる時も、薬の瓶を抱きかかえて棺に入るのだ。彼女が行く場所に大麻あれかしと僕は祈りを捧げた。切り離す前のシート状LSDが生る木とコカイン樹脂の泉もあったら、なお彼女にはよいだろう。注射器はその辺に自生してるのを使ってくれって感じで。

 

 トイレから出る。と、武蔵が僕の席におり、僕のクリームソーダを飲んでいた。昨日ならこの不逞の輩に嫌味の一つでも言ってやっていただろうが、今日は我慢する。武蔵と提督はその性格においてやけに似ているから、提督と話す時のように自分の心を抑えていれば大丈夫だろう。「甘くて胸焼けしそうだ。こんなのが好きなのか?」「アイスも一緒に食べるんだよ、ほら、そのスプーンですくって」「ふーん? 試してみるか……ほう、胸焼けしてきたぞ」「やったね、計画通りだ」「気は済んだかい」「少しね」「だろうよ」抑えられなかったし大丈夫でもなかった。

 

 武蔵はソーダとアイスを一気にその大口に注ぎ込み、ごくりと喉を鳴らして嚥下した。開けた口の隙間に白い歯が光り、彼女の褐色の肌と合わさってコントラストを生み出す。彼女は唇の端に残ったクリームを真っ赤な舌でちろりと舐め取って、それからテーブルに備えてある紙ナプキンで拭った。

 

「外で待ってるぜ」

 

 一言残して、行ってしまう。そこで、僕は牛歩戦術を取ってやった。ウェイトレスと数分は話をしたと思う。もっと待たせてやりたかったが、店員さんが今日はもう僕と話したくないようだった。渋々店を出ると「遅いぞ」と言われる。僕は平然と返す。「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」※34武蔵は声を出して笑った。それから僕らは歩き出した。褐色肌のお陰で陽光を気にしないでもよさそうな武蔵を羨みながら、僕はなるべく日陰を行った。こちとら春夏秋冬、日焼け止めが欠かせないのだ。日焼けしてしまえばいいかと考えたこともあったが、黒々と焼けた自分というのがどうしても僕には受け入れられなかった。ジェンダー論に口出しするつもりはないが、僕は「男らしさ」としての日焼け肌とは対照的な、この白い肌というのを結構気に入っている。不健康と思ったことはない。

 

 夕方には憲兵どもに連行されるというのに、僕は自分がのんきに日焼けのことなど気にしながら、武蔵とこうして歩いていることに気づいた。さっき似たようなことを思ったのにもう忘れて、また思い出したのか。僕の頭ときたら、艦娘になるには丁度いいってほどにはおかしくなってしまっているんだな。何だか楽しくさえ感じられるようになって笑っていると、武蔵はこちらを振り返り、「ようやく笑ったところを見た気がするな」と言った。「憂鬱質※35が強くてね」答えながら、考える。今の状況は実に「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」※36というようなものだ。だが、それがどうした? ロシア語を教わった時に響からロシア的精神の言語的発露、その最たるものとしてゆめゆめ忘れるなと言われた、あの言葉を思い出そう、Пофигу(どうでもいい)”を……スラヴ人に言わせれば、金も女も名誉もその一言に尽きるのだそうだ。ただし酒は別だとか。※37

 

 武蔵が僕を連れて行ったのは洒落た雰囲気のカフェ、そのテラス席だった。テーブルには日除けが備えてあり、その陰にいる間は光に気を使う必要がなさそうだ。「ここはステーキサンドとワインがうまい」と武蔵は言った。彼女の助言に逆らう理由は五百と二個あったが、従う理由は五百と三個あった。僕がアドバイス通りにするのを見て、彼女は目を細めて微笑んだ。頼んだものが来るまで無言で時間が経つのを楽しむのもいいが、溜め込んでいるものや感じているものを解き放ったっていいだろう。隼鷹と飲みに来てる訳じゃない。「ここに連れて来た理由は何なんだ?」彼女は「太陽は明日もまた昇ってくるのか?」とでも訊かれたかのように、大げさに目を丸くして答えた。「ステーキサンドとワインがうまいからさ! 他に何があるんだ? ジェラートか? ああ、それはやめておくことだ、大声じゃ言えないが」ずい、と身を寄せて来て、声を潜めて囁く。「マズいからな」僕は呆れて少し声が大きくなった。

 

「じゃあ、うまいステーキサンドとワイン以外に、何か目的があったんじゃないと?」

「ああ、そうだ」

「約束を取り付ける為に僕を脅しまでしておいて、一緒に昼食を食べたかっただけだって言うんだな?」

「おう、そうだとも!」

「僕を馬鹿にしてるのか?」

「その(とお)……おっと、引っ掛けか? 意地が悪いな! だがいいぞ、そういう男は好みだ。いや、そういう人間は好みだ、と言うべきかな?」

 

 だとしたらそれはきっと、肉が好きか魚が好きか、という類の好意に違いなかった。武蔵は気持ちよさそうに伸びをして、背もたれにだらしなく寄りかかった。申し訳程度に覆われただけの肢体を、惜しげもなく衆目に晒している彼女を、普段の僕なら感謝と共にじっと見つめていただろう。僕は見るに値するものを凝視する喜びを知る男の内の一人だからだ。しかし、他にやることがある時に喜びにかまけてはいられなかった。鞄に手を突っ込み、封筒を取り出す。武蔵は何も言わずに、興味深そうな顔を取り繕ってこちらを眺めている。でも内心には、何の思考もないだろう。彼女は空虚な人間だ。相手をからかったり、嫌がらせをしたり、好意を見せてみたり、人間的な振る舞いを真似ているだけだ。それだから、そのどれもが僕の感情を害するのだとしか思えなかった。

 

 封筒を渡して、暫く預かってくれるように頼む。嫌な奴でも、信用できるかどうかは別の問題だ。時には、そういう人物こそが最も信頼に足る人物だということがある。武蔵は提督に似ている。信じてもいいだろう。違うところがあるとすれば、提督は自ら望んで捻くれたのだろうが、武蔵はそうじゃなさそうだってことぐらいだ。彼女は受け取った封筒を振ってその音を聞き取ってみたり、指でつまんでみたりしていたが、やがて僕に押し返した。「頼みを聞いてくれないのか?」「小物入れに余裕がなくてね」僕は自分の鞄に封筒を収め、それを彼女に持たせた。武蔵はそれを受け取った。「で? いつ開ければいい?」「一週間後に返してくれ。返せなかったら、その時開けるんだ。何をするべきか分かる筈だ。僕の所属は──」「有名だからな、知ってる。まるでサスペンス映画だ」頷きで答える。そのコメントに異論はない。

 

 サンドイッチとグラスワインが来た。(しゃく)だが、武蔵が請合った通りにうまかった。僕はサンドイッチのお代わりを頼み、武蔵はもう一杯ワインを飲んだ。彼女への反抗心からジェラートも注文したが、これは武蔵が嘘つきではなかったことを身をもって証明しただけに終わった。食べ終わった後、僕らはアールグレイをホットで飲んだ。ジェラートの不愉快な風味を、この優れた飲み物は消し去ってくれた。それにアルコールから来る火照りもだ。しかし、陽気な気分まで洗い流しはしなかった。「あのウェイトレス」と僕は言った。「本当に密告したのか?」彼女は答えなかったが、イエスと答えられたら僕の気分は台無しだったろうし、ノーと言われても信じなかっただろう。質問の答えの代わりに、武蔵は落ち着いた静かな声で訊ね返した。

 

「何を恐れてる?」

「何も」

 

 即答で返してから、失敗したなと思う。即答するという行為は、様々なことを示す。強い意志、思慮のなさ、それから反発だ。特に、図星を指された時の。これでは僕が恐怖を抱えていることを認めたようなものだった。“Пофигу(どうでもいい)”に代表されるようなロシア的精神は僕を救ってはくれなかった。考えないようにしようとしても、ダメだった。隼鷹、響、伊勢、日向、提督……彼女たちならどう対応するだろう? 思いを巡らせても、そこには何の救いもない。この状況に置かれているのは、彼女たちじゃなくて僕だからだ。

 

 食後の一杯を終え、武蔵の最近の趣味だというタロット占いを彼女の手で受け(僕の象徴は吊るされた男(ハングドマン)※38らしい)、会計を済ませた。武蔵は僕をそれ以上何処かに連れて行こうとはしなかった。別れ際に彼女は言った。「大丈夫だ。この武蔵に任せておけ」一度だけ首を縦に振って、僕らは別れた。彼女は僕が頼んだ通りにしてくれるだろう。僕は歩いて研究所に戻り、提督と会った。会ったと言っても、会いに行ったのではない。寮への道すがら、また出くわしたというだけだ。彼女は僕を見て「そうか」と自分だけに通じる一言を残し、執務室に引きこもってしまった。部屋に入り、ベッドに体を投げ出す。夕方までまだ時間はある。一眠りするとしよう。

 

 ノックで目を覚ました。「ここを開けろ」提督だ。時間を見る。午後六時。予定通りなら、第一・第二艦隊共に出払っている。僕を連れて行くには絶好のタイミングだ。憲兵に護送される姿を見られないでも済む。ノックの音は激しくなった。こりゃ、もう提督じゃないな。僕は寝起きの体を引きずって、扉を開けた。提督と憲兵隊所属の艦娘が一人、待っていた。彼女は事務的に、僕への命令を読み上げた。そして同行を求めた。僕はそれに従った。

 

 庁舎のすぐ前に護送車が止まっていた。運転席に人間の憲兵がいて、後部の収容室は空だった。僕一人の為に用意してくれたらしい。乗り込む前に手錠を掛けられる。全力で引っ張って壊れるかどうか、好奇心が沸いた。だが、試すようなことはしなかった。試すなら一人の時だ。見張りの艦娘が僕を冷たい目で見ている時じゃない。彼女は僕を収容室に文字通り突っ込むと、脅迫するかのように激しい勢いでドアを閉め、外部ロックを掛けた。なるほど、理に適っている。これでは手錠を外せても、内から外には出られない。監視用の窓から前部の様子が見えた。艦娘が助手席に入り、車のエンジンが掛かる。僕は収容室の壁からせり出した固いベンチに座り、眠気の残滓をかき集めようとしていた。それがよくなかった。

 

 海にいた。珍しく海の上だ。苦しみのない空気の中にいた。でも僕だけだ。足元に浮いていたのは天龍だった。何故彼女が真っ先に現れたのか分からない。僕と彼女は親しい友達でもなかった。けど、現れたのは彼女だったんだ。うつ伏せに浮かび、顔が水に浸かっていた。水の中に消えていくのも時間の問題だ。僕は彼女の手を掴み、引っ張り上げた。肩に担ぎ上げる。だが、沈みかけているのは天龍だけじゃなかった。数メートル向こうには響がもがいていた。首が半分なくなっていて、自分の血に溺れていた。あっちでは榛名さんの腕が海面下へと飲み込まれていくところだった。僕は急いでその腕を取った。重い、が、そうせずにはいられなかった。響を助けに行こうとする。その足が止まる。左の足首を握られている。僕の足の下に紫の髪が広がっている。右の足首にも、いや、すねや太ももにも手が掛かっている。僕が知っている艦娘、僕が会ったことのない艦娘……支えきれない。沈む。僕はもがく。さっきは助けようとした相手を振り払おうとする。水が鼻の下に、目の下にまで達する。やがて僕は水に飲み込まれる。海の上には何も残らない。誰かが繰り返し言う。「何度でも……何度でも」視界が白くなり始める。真っ白になる。そして衝撃。

 

 護送車が転がっていたのだと気づいたのは、それが止まってからだった。体中をぶつけていたが、頑丈な艦娘の体に感謝だ。目が回って、鼻血が出ただけで済んだ。周りを見る。収容室は開いていない。頑丈な封印らしい。だが護送車は丸きり引っくり返ってしまったようだ。運転席の憲兵は……ダメだ。首が変な方向に曲がっている。大きなガラスの破片も刺さってる。艦娘は? 外傷は見当たらないが、痙攣(けいれん)してる。シートベルトもしていなかった僕が平気なのに、しっかり道路交通法を守っていただろう彼女が痙攣? 監視用の窓は割れており、そこから手を伸ばして彼女を動かし、その様子を見ることができた。でも彼女よりも気になるところが一つあった。ドアだ。護衛の艦娘が座っていた助手席のドアが開いている。事故のせいで開いたのか? 艦娘の頭をぐい、と動かして調べる。四箇所に丸い火傷の痕跡があった。

 

 背後で音がする。収容室のロックを破壊する音だ。僕はそちらを振り返り、身構える。ロックが壊されて、扉が開く。目出し帽で顔を隠した男たちが二人。何のつもりだか知らないが「こっちに来い」と言っている。何が正しいことなのか確信はないが、少なくともその手を取ることが間違いなのは直感で理解できた。すると、また後ろで音がして──ばちばちという音が──僕は全身に物凄い電流が走り回るのを感じた。助手席から回り込んで来た何者かが、割れてしまった監視用の窓から腕を突き出し、僕に高出力のスタンガンを押し付けて使ったのだった。


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