[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「“六番”」-3

 背後で音がする。収容室のロックを破壊する音だ。僕はそちらを振り返り、身構える。ロックが壊されて、扉が開く。目出し帽で顔を隠した男たちが二人。何のつもりだか知らないが「こっちに来い」と言っている。何が正しいことなのか確信はないが、少なくともその手を取ることが間違いなのは直感で理解できた。すると、また後ろで音がして──ばちばちという音が──僕は全身に物凄い電流が走り回るのを感じた。助手席から回り込んで来た何者かが、割れてしまった監視用の窓から腕を突き出し、僕に高出力のスタンガンを押し付けて使ったのだった。

 

 溺れさせられる夢の続きに入るのを恐れたが、杞憂に終わった。気絶すると夢は見ないものなのだろうか。だとしたら、今度から快眠の為に僕はスタンガンを試してみてもいい。火傷をしなくて済む方法を誰かが見つけてくれたら、すぐさま通販で購入するだろう。僕は椅子の上で目を覚ました。手錠を掛けられたままで、足も縛られていた。狭い部屋、明るさの足りない裸電球、テーブルと僕の椅子、それから向かいにもう一つ椅子。そこに男が座っている。眼鏡を掛けていて、じっとこちらを見つめている。そこらにいそうな男だ。学校を出て、何処かの会社か何かに就職して、働いて、結婚して、子供が一人や二人はいるかもしれない。政治的にも成熟していて、自分の意見を持っているだろう。だが彼は意見だけでなく秘密の持ち主でもある。僕と一緒にここにいて、なのに手錠を掛けられてもないし縛られてもいない。僕がこっち側なら、彼はあっち側だ。

 

 初対面だし、挨拶をするべきだったのだろうが、口の中はぱさぱさだったし、舌が回りそうになかった。彼はそれを察して、懐から小さなペットボトルを出すと、蓋を外してその中身を僕に飲ませた。生ぬるい水だったが、水分には変わりない。飲み込むと、楽になった。胃に水が落ちていってから、その水の中に何かが入っていたのではないかということに気づいたが、どうとでもなれという気分だった。憲兵隊もクソだし、僕に電撃なんか浴びせやがった連中もクソだ。僕は首までそれに浸かってる。

 

「気分は?」

 

 僕は虚勢を張ることにした。困難(タフ)な状況では、気丈(タフ)に振舞うものだ。

 

「寝覚めに見たのが融和派だったってことを差っ引いたら、いいね。ここは? 秘密基地かい?」

「終着点です。史上初の男性艦娘である、あなたの」

 

 どくんと胸が高鳴った。恋をしたんじゃない。僕はストレートだし、恋を始めるに相応しい時を見定める目を持っているつもりだ。今日じゃないことには自信がある。

 

「心配させましたか。私たちがあなたを吊るすと?」

「吊るすだって? いいや、死ぬまで殴られると思ってたよ」

「たかが一人の艦娘を処刑する為に、憲兵隊の護送車を襲いはしません。使いどころを間違えた暴力は、我々を人民から遠ざけるだけです」

 

 笑い飛ばしてやる。彼が言うところの「使いどころを間違えた暴力」は、全くのところ融和派の専売特許みたいなものだったからだ。彼らはこれまでに壊した建物の残骸で天まで届く塔だって作れるだろう。彼らのせいで死んだ人々の血で海を真っ赤に染め上げることだってできるだろう。彼らのせいで生まれた悲しみは、世界中を塩水に浸すのに足りないということはないほどにある。爆弾テロ、誘拐、往来での乱射、「人民の目をこちらに向けさせる為」という大義の下で、融和派が何をやってきたかは誰でも知っている。

 

 もちろん、融和派だって色々あるんだろう。『深海棲艦解放戦線』とか『深海棲艦派共同戦線』とか『人民=深海棲艦戦線』とか。中には血を流さないで世界を変えられると信じている者たちもいるのだろう。だが彼らは、彼らのお仲間がやったことを「あれは違う」とか「知らない」とか「別の連中がやったこと」と言い逃れをする権利を持たない。持ってはいけない。敵が、深海棲艦が人類の敵である限り、彼らは人の中の裏切り者なのだから。

 

「僕も普通の連中を相手にしてるならそう考えるだろうけど、融和派はアホ揃いだからな……これはあんたを傷つけたくて言ってるんじゃないぞ、統計的事実だ」

「あなたは何も知らないのです。命を懸けて戦っているというのに」

「あんたは自分が何も知らないことさえ知らない。しかも多分戦ってさえいない。最悪だな」

 

 僕らは睨み合った。彼が何を考えているのだか分からないが、どう転んでも死ぬか人生詰むのが目に見えている人間が、どれだけふてぶてしくなるかということについては、彼は明らかに無知だった。たっぷり一分は目と目で交わっていたが、僕と彼は同時にそれを外した。「私の乗り組んでいた艦はかつて深海棲艦と交戦しました。艦は呆気なく破壊され、私は海へと投げ出されたのです。あの日までは」と彼は呟いた。「私も(めし)いていました。軍と国家に忠誠を誓い、社会を深海棲艦から守ることに誇りを持っていましたよ」どうやら、同じ海軍にいたらしい。手ひどい言葉を使うなら、海軍の面汚しと言ったところだ。見るからに本物の海の男ってタイプじゃない。何かつまらない仕事でもさせられていたのだろう。

 

 軍人の転向は表沙汰にされることこそ少ないものの、その数は多いと言われている。とりわけ、海軍軍人においてはだ。艦娘以外は領海の警備航海程度しかしないが、それでも陸や空に比べて深海棲艦に近いところにいる訳だし、そのストレスが原因で転向しやすい傾向にあるんじゃないかと僕は考えている。

 

「だがあの方々は私を救いあげて下さった。私に真実をお伝え下さった。彼女たちと人間が、共に生きていける未来を見せて下さった。あの方々は(まこと)に我が(いわお)、我がやぐら※39、寄る辺なき者が寄って立つもの……海の水の中で私は洗礼され、言葉を聞くようになった。あの方々は貧しい私に(きん)をお授けになったのだ。生来目が見えないが為に、見えていないことにも気づいていなかった私の精神の目に、御手ずから薬を塗って下さったのだ。あの方々は戸口を叩く手だ。自ら立ち上がって迎え入れる者は、みながその言葉を聞く……」

 

 宗教まで絡んできやがったか。これはちと厄介だな。

 

「失礼、比喩抜きで、子供でも分かるように喋っていただけるかな? あの方々というのが深海棲艦のことを指しているってのは、何となく分かるんだが」

「あの方々、彼女たち、深海棲艦、好きなようにお呼びなさい。あの方々は、平和を望んでおられるのです。争いのない海を願っておられるのです。命が無意味に奪われることのない海を欲しておられるのです。あなたも救われた筈だ」

 

 僕は彼が、僕の子供時代に起こったことを言っているのだと悟るまで、彼が何を言っているのか本気で分析していた。それから、気は進まないが反論してやった。「お生憎さまと言うしかないが、僕を助けたのは艦娘だった。僕に絵心があれば彼女の体や顔がどんなだったか、描いてやれるんだが。ああ、恥じなくてもいいぞ、深海棲艦と艦娘はよく似てるからな。間違えるのも仕方ないさ」「本当に?」「嘘だよ、艦娘と深海棲艦を間違える奴なんている訳ないだろ」「本当に艦娘でしたか?」僕は思いがけない問い掛けに、言葉が喉元で詰まるのを感じた。けどすぐ気を取り直して、あれは絶対に艦娘だったと言ってやる。あの手、あの暖かさ、あの目……忘れなどしない。僕はあの日、自分が何の為に生きるべきかを知ったのだ。それを、誤認するなんてことはあり得ない。

 

 すると彼は、テーブルの下に設けられた小さな物入れから、ファイルを取り出した。「これはあなたが救われた頃に、あの海域での任務に当たっていた全種の艦娘の写真付きリストです。確かめてごらんなさい」それから、そのファイルを開いて僕の前に置いた。僕は目を動かし、見ているふりをした。このリストが正確なものだなんて、最初から信じていなかったのだ。彼らが何を提示しようとも、それによってむしろ僕を頑なにさせるだけだ。「見当たらんね」「そうでしょう」「あんたらが抜いたからだろう。都合が悪いからな」「そうお考えですか。では、溺れた日がいつか、覚えていますか?」忘れる訳がないことその二だ。僕は自信を持ってその日付を答えた。彼は軽く頷いて、指先でファイルをぺらりとめくった。そこには新聞記事のコピーがあった。雑誌の記事なんかもある。これが何だって言うんだ?

 

「こちらはあなたが奇跡的に助かった、ということについての記事です。声に出して読んでいただきたい」

 

 逆らうのは賢明じゃない。僕は彼の言う通り、口に出して読んだ。どれも内容は同じことだ。小さな子供が、親の目を離れて沖に流された。生存は絶望視されていたが、不可解かつ奇跡的にも助かった……「ええ、実に奇跡的です。しかし、誰が助けたと書いてあります?」「それは」僕はまた言葉に詰まった。書いていない。胸がずきりと痛んだ。艦娘なら、軍は大喜びで書き立てさせる筈だ。いや、けれども──「この記事も贋作だ」僕は考えずにそう言って、彼の質問には答えなかった。「お前たち融和派は嘘ばっかりだ」「落ち着いて下さい。私は、私たちは、あなたの目を開いて差し上げたいだけです。私だけではなく、私の同志たちの多くもまた、あなたのようにあの方々に助けていただいた。あの方々は人間と違って、自ら戦争を始めるような種族ではありません。我々人類は、初めて種族として自分を上回る相手を見つけたのですよ」

 

 だとしても、そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。ああ、いいだろう。彼の言うことが正しいとしよう。人類がここ最近躍起になって探している平和というものが、すぐそこに、そら、戒めさえなければ僕の手が届くところにあったとしよう。それは手付かずで、僕に拾い上げられ、発見され、世界中に広まるのを待っているとしよう。だがもしも、僕や僕以外の全ての人類がそれを手に入れ、その恩恵に浴する為に、人ならざる種族に向かって頭を下げ、彼女らの支配下に入り、慈悲を乞うて嘆願せねばならぬとしたら、また、戸を叩く音に辟易しながら彼女らを招き入れ、その全然益体もない御言葉を賜らねばならず、しかもその対価として更に彼女らが既存の社会秩序や人間が築き上げてきた偉大なもののことごとくを例外なく灰燼に帰することを要求するのならば、そこに生きているこの僕個人はそんなものは真っ平御免の口だし、その時は彼女らや彼女らに同調する連中みんなに僕だけでも言ってやるのだ。あんた方の『平和』というのはクソだと。

 

「あなたは強情だ。まだ納得なさっていないとは。まあいいでしょう、では、言葉を聞いたことはありませんか?」

「誰の?」

「軍が言うところの、深海棲艦のです。鬼級以上ではなく、例えば……リ級や、ル級などの」

 

 危うく反応するところだった。僕は即答を避け、かつ無言の肯定にならないギリギリのところを見定めて言った。「ないね」彼は身を乗り出して僕の目を覗き込んだ。狂信がその瞳の中に燃え滾っている。嫌な目だ。僕は個人的な信念として、行動を決めるのは自分でありたいと思っている。人間の人生は神や、上位存在なんかによって操作されるものではなくて、運命と呼ばれるような見えない全体の流れの中で、個人個人が自己の意志で以って決定して行くものなのだと信じたいのだ。信仰を否定するのではない。信仰への傾倒を否定してるんだ。それは、自由意志を放棄する行為だ。

 

 狂信者たちはよく言う、もし無神論者たちが主張するように神がいないのであれば、この自我という欠陥を持った人間と名乗る生物は、恐るべき偶然によってこの苦しみの多い世界に何の庇護もなく生まれ、何の救いもなく、何の目的も栄光も持たずに生きて死ななければならなくなる、と。神の存在も不在も証明できない以上、そうかもしれないが、だとしてもそれの何が問題なのか? 自分の命の舵取りを神の手に委ねる方がどうかしてる。僕らは不完全だ、それは認めよう。間違いもやる。しかもしょっちゅうだ。取り返しがつかないようなことをやる? それは何千年と続いて来た、人類の伝統みたいなもんだ。いずれ僕らは一人残らず自分の喉を自分で突いて死に絶えるだろう。だが、そのことについて天にまします我らの主からああだこうだ言われる筋合いはない。僕らがやることには、僕らが責任を取る。父と子と聖霊にはすっこんでて貰おう。

 

 考えが横道にズレた。今は信仰と理性について脳内で議論したりしている時ではなかったのだが、今の僕の状況で現実逃避したくなるのを誰が非難できる? 賭けてもいいが、僕の友達には誰一人としていないだろう。何故って、彼ら彼女らは僕がここにいることを知らないからな。知らないことは語れない。語れないことについては、黙っている他ない。

 

「嘘をついておいでだ」

 

 この司祭殿は犯し得ない威厳を持った調子で言った。「あなたは嘘をついておいでだ!」※40「そりゃ大変だ。地獄に着いたら絵葉書を送るよ」「嘘をついておいでだ!」彼は三度目に、一層高飛車な口調でそう断言した。ま、確かに地獄に葉書という習慣がなければ嘘になっちまうよな、と僕は頭の中で囁いた。それに僕の絵心のなさのせいで、絵葉書と認識できないかもしれない。「どうして認めようとなさらないのですか。あなたはこの偽りの戦争を、終わらせることもできるのに!」その言葉には気を惹かれた。僕の様子が変わったのを見抜いたのか、男は安心したように微笑んだ。「私たちの仲間におなりなさい。そうすれば、あの方々との実りない、意味のない戦いからあなたは抜けることができる。そして、意義ある闘争、他の人々を啓蒙するという戦いに身を投じることができる」僕は下手な誘い文句に落胆し、再び興味を失った。

 

 彼はそれでも僕を口説き落とそうとしていたが、相手が言葉を聞いていなければ効果も上がらない。彼の説教の間、僕はずっと自分がもうすぐ十六歳になることを考えていた。訓練所で三ヶ月、半年に達さない程度の広報部隊勤務、それから 第二特殊戦技研究所、通称「二特技研」で四ヶ月。同世代の他の少年たちが今頃何をやっているか、僕には想像しかできなかった。学校に行き、友達と会い、勉強し、帰りに寄り道して遊んで、また明日。そんなところだろうか。バイトをやっている者もあるだろう。バイトどころか、高校に行かずに就職する者もあるだろう。今は色んな仕事が人手不足だからな。

 

 遂に目の前の男は、休憩を挟むことにした。僕の強情さに苛立ちを覚えながらそれを丁寧さの仮面で隠そうとしているところは、大人らしい社会的な態度だ。彼は守衛を呼んだ。僕を何処に連れて行くのでもいいが、護送の際に隙を見せたら、そこに飛びついてやろうと考える。でも、やってきた守衛の男たち三人は手馴れており、それを指揮している目出し帽の女は艤装をつけた艦娘だった。男たちをどうにかしても、艤装なしでは艦娘に太刀打ちできない。撃たれて終わりだろう。それに、僕はここが何処なのかも分からないのだ。建物の中ということ以外に、知っていることはない。もしかしたら外は街中かもしれないし、田舎の山奥かもしれない。逃走後のプランも何もなしに飛び出すのは、なるべくやめておきたい。

 

 椅子ごと運ばれるというのはユニークな体験だったが、別段面白くはなかった。違った状況でなら僕も笑っただろうが、艤装に取りつけられた砲がぴたりと自分を指している時には、笑いというのは何処を探しても見つからないものだ。全力でくすぐられたって無表情を貫いた筈である。覗き窓のついた分厚い鉄扉付きの狭い部屋に入れられ、足の戒めを解かれる。手錠はそのままだが、足を動かせるというのはいいものだ。ここまで僕を運んできた男たちが退出するのと入れ替わりに、説得役の司祭殿がいらした。「いと高き方は」僕は彼が単数形で話していることに気づいた。「あなたが私たちの同志として迎え入れられることを望んでいます。しかし現実問題として、同志ではないあなたを抱え続けるというのは大変な保安上の困難です」彼は溜息をついた。心を痛めている、という様子だったが、本心かどうか。人間は大人になるにつれて、本心を隠すのが得意になる。僕も、自分が五歳の頃に比べて何とまあ嘘の上手くなったことかと思うことがあるのだ。

 

「ここにいられるのは、二日が限度でしょう。明日、それから明後日。よくお考えなさい、生き延びて、よりよい生を送る為に」

 

 彼はそう言って扉を閉めた。僕は横になった。眠気はなかったが、椅子に座っているより楽だったからだ。マットが敷かれており、そこそこ快適だった。目を閉じ、去り際の言葉を考える。あれは要するに、宣告だ。彼らは僕を取り込もうとしている。広告塔として使う為なのか、それ以外に考えがあるのかはここで考えることじゃない。二日の期限が過ぎれば、彼らは僕を吊るすだろう。それか、憲兵隊の手に返す。憲兵隊の目から見れば、護送車から脱走したという事実は変わらない。連中は、融和派による誘拐ではなく救出と捉えるだろう。つまり、融和派に恭順を示さない限り、吊るされる場所が違うだけの同じ結末を迎えることになる。

 

 ではテロリストの仲間入りをするか? 自動車爆弾を仕掛けたり、電波ジャックしたり、ビラを撒いたり、艦娘の家族を誘拐したりすることになってもか? 僕は悩んだ。自分の命が惜しかった。自分はこれをする為に生まれたのだ、という信念を持つ人間にとって、それを果たせずに死んでいくというのは最大の恐怖となる。僕の場合は、艦娘に関わる合法な仕事をするというのが「それ」だった。だが、僕が生きれば彼女たちを苦しめることに繋がるのだ。とは言っても、やはり、到底、死を選ぶのも苦痛である。僕はこの問題に答えを出す上で役立ちそうな記憶を、掘り出そうとしてみた。大体、何で僕は艦娘になったんだ? この肉体を砲弾の雨と魚雷の脅威に晒すようなことを、どうして進んで選んじまった? 挙句、ここにこうして横たわって、処刑を待つか裏切り者になるかで迷っている。訓練所で学んだ全てのことは、吊るされる為にあったのか? 僕は唐突に武蔵のタロット占いのことを思い出し、にやりとした。占いも馬鹿にできない。でもすぐにそのユーモアもしぼんでしまった。

 

 一体、艦娘とは何なのか? 僕はうっかりそんな愚問を思い浮かべた。それは名前でしかない。人格的主体を持つ何かではない。あくまで概念だ。そこに主体を見出そうとするのは、誤った視点であり、「車とはタイヤのことなのか? エンジンのことなのか? シートのことなのか? ホイールのことなのか?」※41などという質問を大真面目にしているようなものだ。車とはそれらや様態、感受、知覚、表象、認識が重なって、名のみを持つ存在として成立するのであって、どれを欠いても車とは言えないのに。より深く問いたいのなら、艦娘であるということがどういうことか、を考えるべきだろう。

 

 僕は那智教官のことを思った。今の僕、艦娘としての僕の根幹を作り上げたのは、彼女だ。彼女には揺るぎない自己があった。精神的にもろい一面もあったが、プロの職業軍人であり、艦娘だった。あの人がここにふと現れて、僕に「死ね」と言ったら、僕はただちに覚悟を終えるだろう。しかしそんなことは起こらなかった。それに、これは僕が選ばなくてはいけないことだった。いつものように。僕はふつふつと怒りが湧き上がるのを感じた。それは自暴自棄な感情だった。軍への怒りであり、融和派への怒りであり、民間人への怒りだった。僕が思いつく全部のものを、僕は憎んだ。それは、まごうことなき八つ当たりだった。僕を訓練した教官たちのことさえ、憎もうとした。

 

 けれどその時突然、僕の思考が弾けた。変な表現だが、頭の中に微細な電流が走り、言葉を思い出したのだ。それは実際に放たれた時よりも遥かに厳かな声で、僕の心の中に再生された……「何かが私には有益だが家族には有害であることが分かれば、私はそれを断念する。私の家族に有益な何かが、私の祖国にとってそうでないなら、私はそれを忘れようと努める」……「問題なのはお前が、何の為に、何と戦うかということだ。それを忘れない限り、お前は艦娘だ。お前の同期の艦娘たちの同胞で、私の同胞だ。世界中の艦娘たちの同胞だ」……老いた元提督が引用していたのは、その言葉その通りに受け取るべきことではなかった。裏を読むべき言葉だった。僕には有害だが家族には有益なことがあれば、僕はそれをするのだ。家族には有害だが社会に有益なら、僕と僕の家族はそれをしなければならないのだ。そして、僕はこれまで人類を防衛する為に、深海棲艦と戦うのが艦娘だと勝手に思っていた。那智教官が何故はっきりそう言わなかったのかとは、考えもしなかった。違うのだ。那智教官は艦娘だった。彼女は今も艦娘だ。それは、彼女が深海棲艦と戦う次代の艦娘を育てているからではない。守られるべき者の為に、彼ら彼女らを害さんとするもの全て、彼ら彼女ら自身を含む全てを前にして、例えそれが自らを滅ぼすことになってでも立ち塞がり、死の眼前に己の身を投げ出す者こそが、艦娘なのだ。彼女はその定義に最も忠実な女性であり、従って当然彼女は艦娘だったのだ! そして那智教官は言った! それを忘れていなければ、僕は彼女の同胞なのだと!

 

 僕は今ようやく、艦娘になったのだ!

 

 それに気づいた時、僕は跳ね起きた。急激な動きの気配に、扉の前に立っていたのだろう歩哨が慌てて覗き窓を開け、僕を睨んだ。だが気にはならなかった。さっきまで僕を襲っていた不安や、恐怖は、夜霧のように消え去ってしまった。自分が何者であるか、何として振舞うべきなのかを、理屈ではなく精神で理解した僕にはそれはつまらない、理性によって無視できる感情に過ぎなかった。感じないという訳ではない。死を思うと心身共に震えが走る。望んで死にたいなんて思わない。生きていることは素晴らしいし、永遠にだって生き続けたい。けれど、どうしても、僕が死ななければならないなら、艦娘として死ななければならないなら、そうしよう。僕は死の虚ろな口に飛び込んで行こう。死がその喉に僕を詰まらせて、思わず吐き出してくれるかもしれないしな。

 

 満足して、再び横になる。僕は艦娘だ。何度か頭に思い浮かべたことのあるこのフレーズが、今ほど喜びと確信に満ち満ちて感じられたことはなかった。那智教官への深い尊敬と、感謝と、男女のではなく人間としての愛情の念が僕の体を安らかにしてくれた。彼女が投げてくれたこの花を、僕はこの牢獄でも手放すまい。しぼんで干からびることもないこの花を。僕は何時間も、何時間でもまぶたを閉じて、その心でのみ嗅ぐことのできる甘い香りを楽しみながら、暗闇の中に彼女を想うだろう。二度と会えないだろう。言葉を交わすことも叶わないだろう。が、それは意味のないことだった。僕は彼女の同胞なのだ。それだけで十分だ。

 

 いつの間にか眠っていたようだ。僕は喉の渇きと空腹で目を覚ました。体を起こし、鉄の扉を叩く。覗き窓が開いた。「何だ」「今何時だ?」「自分で決めろ」気が利いた答えだ。「じゃ、水をくれ」覗き窓が閉じた。無視されたかと思っていたが、暫くすると扉の下にある食事の差し入れ口が開き、マグカップが乗ったプレートが突き出された。カップを取って、水を飲む。こんなにあっさり要求に答えてくれるって言うんなら、食べ物のことも言っておけばよかったな。しかし、何度も手を煩わせて守衛の機嫌を損ねるのは避けたかった。それに、僕を飢えで殺すつもりでもなければ、あっちから食事ぐらい出して来るだろう。その量や質にケチをつけなければ、取り上げられることもあるまい。

 

 水を半分ほど残して部屋の隅にカップを置き、僕は軽く柔軟体操をした。寝具でさえないものの上で寝たせいで、体が強張っていたからだ。多少楽になってから、僕は腰を下ろして目を閉じ、時間が過ぎるのをただ待った。それ以外にやることもなかった。

 

 鉄扉の覗き窓が開かれる音で意識を取り戻す。「客だ」と短く守衛が言う。僕は背伸びをしてから、残しておいた水を口に含み、その中で転がす。ドアが開いて、例の司祭殿が現れる。後ろには護衛なのか、覆面の艦娘を連れている。サイズからして、駆逐艦だろう。砲は僕に向けられている。二人は僕の収容室に入ってきた。抵抗の意志がないことを示す為に、腹でも見せて仰向けに寝転がってやろうか。「よく眠れましたか?」水を飲み込む。「夕べのあんたと同じぐらいよく眠れたよ」「でしたら、かなりひどい夜だったでしょうね」彼は明後日の方向を見て、悲しみを感じさせる横顔を僕に見せつけた。不眠症でも患っているのかもしれない。哀れな男だ。

 

「ご用件は?」

「引き続き、あなたの説得を。いと高き方の為に」

「へえ、今度はどんなインチキをするんだ?」

 

 彼は答えなかった。代わりに駆逐艦娘が一歩前に出た。男が言った。「私たちの調べでは、あなたは特技をお持ちのようだ」「特技?」「妖精の助けなしに艤装を操作できるとか」僕は頷きもしなかった。あっちは答えを知っているんだから、今更僕が何を言う必要もないだろうと思ったからだ。「あの方々は、私たちに様々なものを授けて下さる。妖精なしに艤装を動かす力も。残念ながら、艦娘の誰もが与えられた力を十全に発揮できる訳ではありませんが」駆逐艦娘の指示に従って、妖精が砲塔の一つから出て行く。僕を狙う砲が一つ減ったが、もう一つが残っていて、それが僕を強行突破という夢のある考えから遠ざけていてくれた。それから、その駆逐艦娘は妖精の出て行った砲塔を動かし始めた。いい見世物だったが、僕よりも格段に出来が悪かった。砲塔の旋回速度や、仰角をつける速度も、僕や那智教官とは比べ物にならなかった。

 

「おい君、ちゃんと練習してるのか? それとも艤装の整備を怠ってるのか?」

 

 半笑いで、そんな言葉を彼女に向かって投げつけてしまったほどだ。駆逐艦娘は覆面越しにも分かる怒気を放ったが、司祭殿が手をさっと出して抑えると、後ろに下がった。「あなたは彼女よりも上手く動かせる。それこそ、あなたがあの方々に助けられたという証拠なのです。それ以外にどんな理由があるのですか?」だとしたら、那智教官もそうだって言うのか? 面白い冗談だ。僕はその話を「考える価値なし」のリストに分類した。「考えて下さい。あの方々が艤装を動かすのに、妖精を使いますか? あの方々の破壊された艤装から妖精が出てくるのを見たことは? あの方々と同じことができるのは、その加護のお陰なのです!」僕は彼の言葉を聞き流した。手を変え品を変え、よくもまあこれだけのでっち上げを思いつくものだ。海軍にいたってのも嘘なんじゃないか。二流の詐欺師としてなら通用するレベルだ。

 

 僕は手を振って彼を退けようとしたが、彼はハエよりもしぶとい生き物だった。司祭殿はほとんど自分の言葉に感動しているかのような口ぶりで、神聖な義務への僕の参加を促し、自ら世界平和の一助とならんとする姿勢を開けっぴろげにしていた。世界平和? そんな大層なもの、僕にはどうにも気が進まない。謹んで平に辞退し申し上げる。それに戦争を始めたのはあっちだ。何か問題を抱えていたなら、彼女たちは話し合いで解決することもできただろう。軍を組織する社会性を持ち、発話能力があるんだから、できなかった筈がないのだ。でも、奴らは黙って殺しあうことを選んだ。つまりこれは、どう言い訳しても、深海棲艦の始めた戦争なのだ。どちらかの全滅以外の形で終わらせたいと思うなら、あいつらから頭を下げに来るべきだろう──その逆ではない。

 

 たわ言は聞き終わる頃には戦争が終わってるんじゃないかと思うほど長く続いたが、今度も僕の忍耐が勝った。司祭殿は駆逐艦娘を連れて、しきりに頭を振りながら去っていった。きっと、彼はあんな風に頭を振るせいで、大事なところのネジが一本どころか四、五本抜けてしまっているのだろう。時々働きの悪い頭を攪拌(かくはん)してやりたくなることは僕にもあるから気持ちは分かる、が、それでも脳みそは大事にしなくてはいけない。手足や内臓なんかと違って替えが利かないからな。

 

 お客が行ってしまった後で、僕はそろそろ腹の虫に何か食わせてやらねばなるまい、という気持ちになった。さっきみたくドアをノックして、食事は出ないのかと聞いてみる。無言で閉められたが、水の時だってそれで持ってきてくれた。じきに来るだろう、と楽観してごろりと横になる。しかし、いつまで経っても来なかった。ははあ、これは飢餓状態に置いて正常な判断能力を奪うつもりだな。分かりやすい手だが、効果的だ。餓死は辛いものだという。人類の裏切り者としてでもいいから生き延びたいと考えるような手合いには、絶大な効力があるだろう。ただ僕の場合はどう転んでもいずれ吊るされて死ぬと分かっているものだから、効き目は薄かった。腹がしくしくと痛むのがうざったいだけだ。それだって、寝ていれば感じることはなかった。

 

 司祭殿による三度目の訪問はなく、僕はひたすら寝て過ごした。覚悟ができていたか? それは自答するには難しい質問だ。答えることは避けよう。だが、自分の人生の終わりを間近にして、この牢獄の中で一つだけ心に決めたことがあった。どうせ死ぬなら、ほんの少しの仕返しをしてからだ。僕が無駄に体力を使わないように横になっていたのは、その人生最後の楽しみの為だった。

 

 そういう訳で、僕がここに連れて来られてから二日後、哀れな死刑囚を絞首台に連れて行く為に入ってきた巡洋艦サイズの艦娘と二人の男たちは、仲良く床に寝転がることになった。那智教官に教わった体術がここでも役に立った。もし食事をきちんと取れていたら、もう二人か三人は殴り倒してやれただろう。しかし、二日も食事抜きを食らった手錠付きの子供にしては、いいスコアを出したつもりだ。僕は艦娘二人を含む四人がかりで打ち倒され、散々いたぶられた後で、ずた袋のようなものを被せられた。後ろから定期的に蹴りを食らいながら、人生の終わりへと歩みを続ける。心臓がばくばく言っていた。歯だってがちがち鳴っている。僕は袋を被せられたまま、口だけ笑いの形に動かした。タフな男っぽくだ。中学の英語の授業で詩を取り扱った時に、イェイツ※42のこんな詩があった。「誇りある男は/死に直面すれども/それを恐れじ/死とは人の作りしものと/知ればこそなり」※43これは詩の後半部分で前半は忘れてしまったが、僕はこれを覚えておこうと固く決意したものだ。将来、自分の死に際して、これを思い出せば勇気が出ると思ったのだ。さあ、過去の自分に向かって言わせて貰おう。クソ何の役にも立たなかったぞ!

 

 とはいえ、自嘲の笑いを出すことはできたし、それも笑いには違いなかった。ずた袋の向こう側に笑い声が漏れてしまったのか、一際強く僕は蹴られた。たたらを踏んで、こけてしまう。そこに容赦なく追い打ちが浴びせられる。僕はよろよろと立ち上がり、突き飛ばされる方へと足を進める。恐怖は抑えがたかったが、今の僕は艦娘だ。死ななければならないなら、そうしよう。心の中で何度もその言葉を呟く。本心からそう考えているのか、自分を納得させる為に言い聞かせているのか……多分、どちらでもあったのだろう。自身を励ます為に、多くのことを頭に思い浮かべたものだ。例を出してみると、ウクライナだか何処だかのゴルロヴォという村では物流がほぼ途絶えており、住民は自給自足の十八世紀風なライフスタイルを強いられているそうで、そこの人間の一人はこう言っていたという。「我々は生きているんじゃない。生き抜いているんだ。どうだ、そう言ってみると何となく励ましになるだろう?」※44ならなかった。何しろこれから死ぬもんでね。

 

 大きな部屋に入ったのが分かった。大勢の囁き声がしたからだ。公開処刑は歴史的尺度で言えば最近まで、庶民の娯楽の一つだった。融和派の連中がその精神を受け継いでいたからと言って、不道徳だ何だと責めてやることもないだろう。絞首台への十三階段を上る。艦娘を処刑する時には、軍も融和派も好んで吊るすものだ。これは、見た目がいいからではない。艦娘でも十分な高さからなら首を折って殺してしまえるし、もしも規格外に頑丈で首が折れなくとも、窒息で必ず殺せるからだ。過去には銃殺を試みたこともあったそうだが、どうやってか拘束を解いた艦娘に銃を奪われて何人か死人が出たらしい。銃殺はそんな前例があり、薬剤注射は金が掛かるということで、以来人々は縄と古典物理学に艦娘の処刑を委ねている。時には古人の知恵が現代的発想に勝るものなのだ。

 

 首に縄を掛けられる。頭の袋を外される。観客は二十人ほどだ。大勢集まったもんだな、と他人事みたいに僕は考えた。脇には屈強そうな、がたいのいい覆面の兵士が銃を手に控えている。今の僕じゃ、首の縄がなくとも彼に立ち向かうこともできないだろう。逃げ出そうという気さえ起こらなかった。司祭殿は最後まで僕にチャンスを与えようとしてか、熱の入った表情で僕に言った。「まだ間に合います、何なら、今からでも私がみなを説得しましょう。ただあなたが一言、いと高き方にお仕えすると誓ってくれるなら……それとも、あなたはむざむざここで死ぬというのですか? 国に忠誠を誓ったからですか? 彼らがあなたに何をしてくれたというのです!」僕は答えた。「誰が僕に何をしてくれたかって問題じゃないんだ。僕が誰に何をするかの問題なんだよ、これは」彼は僕の目を長い間見つめていた。それから虫唾が走る、というような態度で口を開いた。「あなたは狂信に囚われている。また一人、政府の洗脳の被害者が、この若さで死ぬ……彼自身に落ち度はないというのに」みんな今の聞いたか? おいおい、ならこの処刑中止しろよ。言っとくけどな、今から死ぬ男は政府じゃなくてお前らが殺すんだぜ。これらの出掛かった言葉は、首の縄が強く締め付けられたことで引っ込んでしまった。

 

 司祭殿が離れていく。脇にいた兵士にして死刑執行官の男がスイッチに手を掛けるのが気配で分かる。それを押せば、僕の足元はぱかりと開いて、一巻の終わりだ。目を閉じる。最後に見るものは自分で選びたい。まぶたの裏へと、様々なものを浮かべる。家族、同期、戦友、上官。がちゃりと音がした。

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