[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「“六番”」-4

 耳をつんざく轟音が頭の後ろから僕を殴りつけ、上でぶちりと音が聞こえると同時に、浮遊感が僕を襲う。恐慌が心を吹き荒れる。絶望の内に僕は死ぬ、僕は死ぬ、今ほど命を恋しく思うことはなかった!※45 次に苦痛が全身を打つ。まるで高いところから落ちたような痛みだ……そして実際にそうだった。把握できたのは二つだけだ。一つ。全身痛いしうつ伏せに倒れてるが僕は生きてる。二つ。上で誰かが狂ったアメリカの高校生みたいに銃を乱射してる。何の因果で僕が助かったのか、後ろにいた奴が助けてくれたのか、結果的に助かっただけなのか、そんなことを判断するのは後でいい。僕がやるべきことは脱走だ。立ち上がろうとする。ダメだ、力が入らない! こんなことなら抵抗せずに連行されておけばよかった。あの時の大暴れ、それに伴う融和派たちの暴行、高所からの落下という三つの要因が、僕の体から力を奪っていた。近くで舌打ちが聞こえた。誰かがいる。それは僕の友達ではないだろう。折角助かったのに、地獄に落ちる途中で天国を見せるような真似をしやがって!

 

 けれども、その誰かがやったのは僕の息の根を止めることではなかった。彼女、その小さな手から駆逐艦娘と分かったその彼女は、僕の足を掴んで引っ張り、絞首台の開口部の直下から移動させてくれたのだ。その直後、開口部からもう一人飛び込んできた。僕は目だけを動かしてそいつを見た。後ろにいた死刑執行官だ。銃からは硝煙が漂っていた。そいつは銃を駆逐艦娘に投げ渡して、僕を肩に担ぎ上げた。混乱している間に、喧騒と怒号が聞こえてくる。僕を担いだ元死刑執行官が走り出す。心地よいとは言えない揺れの中で、僕はどうにでもなれという気持ちになって、意識を手放した。起きなきゃいけない時には、起こしてくれるだろう。

 

 何かの中に投げ込まれた衝撃で、覚醒する。目を開けたが、暗いままだ。また袋を被せられているらしい。幸い、目が粗いので呼吸を遮られる恐れはなかった。ばん、と音がして僕の投げ込まれた場所のふたが閉じられる。それからエンジン音。車の中、いや、トランクの中か、ここは。僕は息を潜めて、何か次に起こることを待った。あの元執行官と誰だか知らない駆逐艦娘が僕をあの場での処刑から助けてくれたことは否定できないが、それを理由に二人が僕の味方だと考えるのは愚かなことだ。彼と彼女が第三の勢力で、僕の生殺与奪権が別の連中に渡っただけかもしれないのだから。僕は意識を保っていようとしたが、疲れすぎていた。

 

 頭から水を掛けられて目を覚ます。袋は取り払われ、場所は車のトランクから再び営倉めいた小部屋に移っていた。これには、全く、うんざりだ。水を掛けたのは絞首台の下で僕を助けた駆逐艦娘だった。僕はしたたる水滴を頭を軽く振って払い、彼女を睨みつけた。ここ数日は誰もが僕の敵意を買いたがって困る。そんなものはあんまり持ち合わせていないというのに。部屋の扉が開き、元死刑執行官があの時のままの格好で現れる。駆逐艦娘は彼に一礼して出て行った。彼女が行ってしまってから、僕はあっちが口を開く前に言ってやった。

 

「何か食べ物を」

「少し我慢して下さい」

 

 言い終わる前に跳ねつけられる。むっとするが、耐えた。少し我慢しろ、と言ったのだ。食事を出そうという気はあるのだろう。それと訂正だ。彼じゃなかった。彼女だ。覆面を外すと、どうやって収めていたのか不思議に思えるほどの長い黒髪がばさりと投げ出された。顔を見る。つい最近、見たことのある作りをしていた。夕食時、食堂で見た顔だ。でも、これがあの彼女なのかは分からない。すると彼女は、二日近くに渡って僕の手を戒めていた手錠の鎖を、腰に提げていたボルトカッターでばちりと切り離してくれた。「私が誰かはお分かりですか」「正規空母赤城。この前、テレビで見た。ちらっとだけど」「なら、危険を冒した甲斐はあったということですね。他の融和派グループに攻撃を仕掛けてまであなたを連れてきた理由は?」皆目見当もつかない。君らも僕に転向を迫って、断ったら吊るすと脅すつもりなんじゃないか、と答えた。彼女はくすりともしないで、無表情にそれを否定した。

 

「我々と彼らは別の目標を目指しています。と言っても、あなたにとっては一括りに『融和派』なのでしょうが。さて、多少ショックなこともあるかもしれませんが、気を楽にして聞いて下さいね。融和派グループには二種類あるということからお話ししましょう」

 

 二種類? 毒と猛毒みたいなものか? いやいや違うな、きっとバターとこれがバターじゃない(I Can't Believe)なんて信じられない!(It's Not Butter!)※46ぐらいの差異があるのだろう。

 

「一つは、人間並びに艦娘だけで形成しているグループ。目に見えるような破壊活動を行っているのは大半がこの類です。彼らは過激で、向こう見ずで、長期の見通しや計画を持たず、現れては取り締まられて潰されるだけの存在です。やることも爆弾テロやビラ撒き、立てこもりに銀行強盗などと、犯罪者と変わりありません」

 

 まるで自分たちはそうじゃないとでも言いたげな喋り方だ。実際、そう言いたいのだろう。「じゃ、僕を最初にさらったのもその手の連中か? 過激で、考えなしの?」「いいえ。もしそうだったら、あなたは初日に殺されていたでしょう。軍や政府、国家への忠誠を見せただけで、彼らにとっては死刑判決を下す理由になりますから」そりゃひどい連中だな。人間的だがひどい。だからなのか、僕にはどうしても、艦娘たちがその種の過激な融和派の中に加わっている姿を想像できなかった。覆面をつけて参加している姿なら、記憶を思い出すだけだから可能だが、例えば隼鷹や、利根や、北上が、僕を小突き回した挙句に首に縄を掛けて来ようとするところなんて、脳裏に描くのも無理だったのだ。もちろん、僕が友情を培ったあの隼鷹、あの利根、あの北上でない三人が融和派にいれば、その彼女は容赦なく僕を吊るそうとするだろう。それは分かっているのだが、人間の脳というのはそこまで合理的に割り切って考えてくれない。

 

「もう一つは、これは我々や、先ほどまであなたが一緒にいた人々が属している種類ですが……構成員に深海棲艦を含むグループです。軍や政府が最も警戒しているのはこのタイプでしょう。誰でも嫌ですからね、敵と通じている身内などというものは」

「待て、深海棲艦が構成員にいるだって? 冗談も大概に……うわっ」

 

 赤城によって頭から袋を被せられる。何だってんだ? もう被された状態に慣れてしまっている自分が何やら情けなくさえ思えてくる。映画の中のヒーローだったら、こんなシチュエーションは脱出の為に用意されているようなものだ。僕が主演俳優なら、冒頭十分で激しいアクションシーンを交えつつ、色々あって爆発する収容所から脱走するだろう。映画はいいものだ。現実は違う。

 

 手は自由だが、あっちがそうしたいと思ってやったことを邪魔するのは身の安全の為に避けた方がいいだろう。赤城は淑女としての慎みから、パンチなしで袋を被せてくれたのだ。でも、僕が彼女の望みを邪魔するなら、赤城は数発ほどパンチしてから袋を被せることにするだろう。正規空母の体力や基礎的な身体能力は、重巡洋艦の僕よりも高い。戦艦の次に殴られたくない相手だ。僕が抵抗しないのを見て、赤城はほっとしたようだった。「すみません。仲間からそう聞いてはいたのですが、あなたの顔を見ていると無性にイライラするので。もう大丈夫です」「それを聞いて僕が大丈夫じゃなくなりそうだ」長門のような失礼な奴でさえ──そうだ、初対面で僕を罵ったあの長門ですら、だ──彼女の感じている苛立ちを「お前のせいだ」と僕に言いはしなかった。それどころか、提督に相談するほどそれが何のせいなのかを思い悩んでいた。しかし、この赤城はそれをやった。僕はいたく傷ついた。

 

 幸いだったのは、彼女が僕の友達とか、同じ艦隊勤務の戦友ではなかったということだろう。見ず知らずみたいな間柄だ。よもやこれから彼女と同じ職場で働くことになりもするまい。そんな相手に何を言われても、僕はすぐ立ち直る。これは軍に入り、多くの僕を嫌う艦娘たちと接触するようになってから身につけた、悲しい特技だった。

 

「深海棲艦が仲間にいるというのは意外でしたか? まあ、そうでしょうね。特に艦娘にとっては、深海棲艦は撃ち合う相手であって、同じ目標の為に協同する相手ではありませんから。でもですね、あなたも座学で習ったでしょうが、彼女たちは社会性を持っているんです。小さなグループを作り、それらをまとめて大きなグループを作り、またそれらをまとめて彼女たちの軍隊を作り、組織的に戦うことができるんです。似ているではありませんか、私たち艦娘、ひいては人類に。だとすれば、ですよ? どうして融和派が人類にのみ存在すると思うのですか?」

 

 僕はうっかり真面目に考えそうになって、急いでその愚かさを振り払った。融和派の言うことは聞くべきじゃない。彼ら彼女らの言葉を操る力は、それこそ悪魔めいたものだ。丸きり相手にしないことが一番なのだ。そうでなければ適当に反論していればいい。それで時々奴らの話を聞いているかのようにちょいと質問を投げつけてやれば、大喜びであれこれ話し出し、熱中して、僕が聞いているかどうかなどどうでもよくなるだろう。まともに受け取って考えるのが最低の悪手なのである。

 

「その理屈は、奴らの有している『社会性』が僕らのそれと全く同一だという前提に基づいてるぞ」

「はい。そしてその前提は正しいのです……これは今からお話しすることで信じていただけると思いますが、事実です。この戦争の歴史についてどれくらいご存知ですか?」

 

 この質問には「訓練所で習ったことは覚えてる」と答えるに留めておく。これは意訳すると「大したことは知らない」という意味になる。提督ならまだしも、艦娘にとってはそれでいいのだ。歴史の勉強で深海棲艦が倒せる訳じゃない。奴らを倒すのは僕らの砲であり、魚雷であり、航空機である。奴らを前にしても退かずに戦おうとする意志が勝利するのであって、知識や教養を見せびらかしたら沈んでくれる深海棲艦などいないのだ。いてくれたらどんなによかったかとは思うけれども。

 

 しかし直接の戦いに役立たずとも、自分が何なのかということを候補生たちに教える為に、歴史は役立つものだ。悲惨な史実を覚えさせれば覚えさせるほど、昨日までの自分たちと、艦娘になった今日からの自分たちは違うのだと、自分たちは故国の守りの一線で、祖国で戦う術も身を守る術さえもなく震えている小さな子供から年老いた老人までを背に負うた、人の世最後の大砦なのだと思い込ませることができる。しかもそれがそれなりに正しい認識だというのだから、たまらない。そういう都合で、どの訓練所の座学教官も艦娘候補生たちには彼女たちの義務感を刺激し、より大きなものの一部になる自己犠牲的快感の芽を植えつけるような話をする。例えば最初期の艦娘たちに関する話だ。

 

 彼女たちは今日のような艦娘適性の検査など受けられなかった。艤装を着用できるかどうかが検査だった。着用できれば訓練過程に進まされた。それがどれだけ彼女たちにとって辛い訓練だったか、僕には何となく分かる。今の艦娘候補生たちは艤装を着用した日から、水上を動くだけならそこそこやれるものだ。それは妖精たちが艤装に彼らの言うところの「船魂」を「転写」するからだ。そういったオカルト的なものに対して不信感を抱いてしまう現代的な人間としては、それが科学的にどのような意味合いを持つのか、いつか解明される日が来ることを祈ることしかできない。けれどとにかく、そのお陰で僕らは艦娘として、人型の船としての動き方を知ることができる。リハビリ以外で、子供時代に陸を歩くやり方を誰かに教わったことがある人間はいないだろう。それと同じように、海の上を走るにはどうすればいいか、何とはなしに分かるのだ。でも最初期の艦娘、後には教養をひけらかす連中によって誰でもない(ウーティス)※47とあだ名されることにもなった艦娘たちは、艤装をつけただけの人間だった。彼女らは、水上航行を学ぶところからのスタートだった。それだけではない。彼女らには艤装の動かし方も分からなかった。

 

 僕らは指を動かすのに、一々どうやってそうするかを考えたりはしない。ただ指を動かす。艤装もその延長線上にある。だが最初の艦娘たちは、砲塔にいる妖精たちに声で指示を出さなければいけなかった。戦闘の最中でも、砲塔をどの方向にどれだけ動かし、仰角は何度で、といったような細かい指示を、声でやるのだ。僕には、戦闘中にそんなことに気を回せるとは思えない。だからこそ彼女たちは英雄だった。現代的な艦娘が生まれるまで、深海棲艦と戦って海を守ったのは、鋼鉄を背負っただけの人間だったのだから。彼女らには高速修復材もなかったというのに、それを成し遂げたのだ。

 

「深海棲艦については?」

「殺し方なら」

 

 言ってから、失言に気づく。彼女たちの仲間には深海棲艦がいるのだ。友達の殺し方を知っていると豪語されるのは、気分のいいものではないだろう。それにしてもここ暫くの経験によれば、僕はろくすっぽものを考えずに喋る悪癖があるようだ。それを改善する機会が与えられることを願いたいものだが、望みは薄い。僕の危惧を感じ取ったのか、赤城は軽く笑って言った。

 

「失礼しました。艦娘ならそう答えるだろうと思うべきでしたね。ええと、ではさっきのグループ分けと同じように行きましょう。私が深海棲艦を二つのグループに分けるなら、どう分類すると思いますか?」

「人型とそれ以外?」

 

 脅威度の面から見て、これは適切な分類法だとされている。訓練所でも新人艦娘は人型深海棲艦との単独の交戦を避けるように言う。まあ、新人艦娘を一人で海に出す提督もいなければ、単艦でうろついている人型深海棲艦もいないから、この忠告は敵の有能さを伝える為のものでしかなくなっているのが現実だ。それでいいだろうと思う。敵の有能さを信じない軍は存在しない。そんな軍とも呼べないような馬鹿の集まりを税金で飼っているような国は、十中八九戦争に負けるからだ。だが赤城はこの分類に不満なようだった。彼女は首を横に振った。「仲間か敵か?」「それなら仲間といずれ仲間になる深海棲艦、と言いたいですね」「喋るか喋らないか?」「惜しい。正解は『鬼級以上と鬼級未満』です。ところで、今のあなたの答えにお礼を言わせて下さい。知りたかったことの一つが分かりましたから」僕は困惑した。彼女たちには何の協力もしたつもりもない。固い口調でそう言ってやるが、赤城の答えを聞いた僕は、一言の反論の後には口を閉じているしかなかった。彼女はこう言ったのだ。

 

「あなたは、恐らくは人型なら、鬼級未満とも会話できるのでしょう? だから『鬼級以上とそれ未満』ではなく『喋るか喋らないか』という言い方をした。違いますか?」

「それは……論理の飛躍だ」

「あなたが分かりやすい方で本当に助かります。さて、鬼級以上の深海棲艦は、人類側の艦娘投入によって戦争の流れが変わった為に、深海で指揮するだけでなく前線に出てくることを余儀なくされた、と考えられていますが──」

 

 と、前に聞いたことのある音がした。銃声だ。「なんてこと、早すぎる」赤城がぽつりと漏らす。ドアが激しく音を立てて開かれる。目の前の女が振り返るのが感じられたので、僕は袋を外した。この状況で彼女のご機嫌伺いなんかやってられない。すると、赤城よりももう少しよく知っている顔が見えた。

 

「電」

「……お久しぶりなのです」

 

 僕は、あの喫茶店で話を聞いた電だという確信があった訳ではなかった。単にぽろりと、彼女の名前を口に出してしまっただけだ。しかし、それに反応した彼女は、自ら打ち明けてくれたのだった。初歩的なミスだ。僕は彼女のことを意識の中から除外し、銃声のことを考えた。襲撃された融和派グループが仕返しに来たのだろうか? 発砲音はさっきの一度だけでは終わらず、今や明らかに撃ち合いと分かるものになっている。「彼女は?」「撃たれたのです、出血がひどいので止血してからこっちに」「相手は」「排撃班です」「最悪ね」僕には分からない会話を続けている彼女たちに割り込むには、勇気が要った。

 

「何があったんだ?」

「軍の融和派狩り専門の特殊部隊です。何処かで捕捉されていたのでしょう」

 

 目の前に狩りの獲物の方々がおられなければ、僕はダンスだって踊っただろう。僕も機械じゃないので、小さな友人だと思っていた電のことについては少しだけ胸が痛んだが、それでも彼女らと一緒にいるよりは、同じ軍所属の奴らといる方がよかった。憲兵本部への呼び出しのことを忘れてはいなかったが、僕の体に残っている暴行の痕や、胃の内容物を検査すれば、僕が融和派に仲間として扱われてはいなかったことぐらい分かる筈だ。笑顔を浮かべてしまわないように努力するのが辛すぎて、僕は再び袋を被った。赤城はそんな僕を見てから、舌打ちをした。僕にではなくて、彼女のやろうとしていたことを途中で邪魔されたことに怒っているようだった。

 

「まだお伝えしたいことがあったのですが、仕方ありません。もし自分で調べたいなら、軍の戦闘記録を探しなさい、編集された戦闘詳報ではないものを」

「スパイになるつもりはないし、あの手のものは機密指定されてる」

「ふふ、あなたみたいな分かりやすい人がスパイなんかになったら、三日とせずに捕まりますよ。それより、あなたのお友達にはうってつけの人物がいるではありませんか。彼女に頼みなさい」

 

 赤城はそう言い残して、電と出て行った。被った袋を脱ぎ捨て、思う存分にこにこさせて貰おう。ドアは閉ざされており、鍵も掛かっているので逃げることはできなかった。ま、じきに助けの方からやってくるんだから、落ち着いていればいい。小部屋の奥に行き、へたり込んで壁に背中を預ける。赤城が最後に言っていた、僕の友達とは誰だろう? 情報通な青葉のことだろうか。今更、僕の交友関係を把握されていたこと程度で驚きはしなかった。余程注意して、僕を観察していたのだろう。電が近づいてきたのも情報収集の一環か。とすると、彼女は何の成果も得られなかったことになる。僕は自分が意識している時より、意識していない時の方が正しいことを行えるのかもしれない。

 

 床が固いせいで、座っていると尻が痛んだ。殴られたり蹴られたりしたところもずきずきする。ここを出て行く時はきっと担架に乗ってやるぞ、と心に決めた。自分で歩くなんて真っ平だ。融和派に捕らえられていた艦娘に対して、その程度の配慮が認められるのは自然な成り行きというものであろう。

 

 助けが来るのを僕は待ち続けた。銃撃戦の音が遠ざかると怖くなり、弱まると片付いたのか片付けられたのかと思ってはらはらした。だから足音が聞こえてきた時には、思わず「こっちだ!」と声を出してしまった。歩きだった足音がぴたりと止まり、それから小走りになる。よかった、助けだ! こんな安心に包まれたのは久々だった。あの岩礁で長門たちが駆けつけてくれた時に匹敵する安堵感だ。とにもかくにも、今は生き延びられた。この小部屋の鍵が開けられて、戸が開く。僕は救い主を迎え入れようとして、それからそこにいる相手に目を疑った。病的に白い肌、赤い目、胸元から口元までを覆う他、乳房を持ち上げて支えている装甲板、両手の鉤爪、額の(つの)。写真でしか見たことのない存在。深海棲艦の指揮官級の一人にして移動基地、大要塞とも呼ばれて恐れられる、姫級深海棲艦。港湾棲姫!

 

 赤城の言っていた仲間の深海棲艦か、と頭の冷静な部分が分析するのが聞こえた。艤装はつけていない。でも、そんなのは僕だってそうだ。それに僕にはあんな鉤爪はない。彼女に抵抗する手段? 馬鹿も休み休み言うものだ。僕には、彼女が哀れな艦娘をさっくりと殺してくれることを望むぐらいのことしかできない。殺すつもりでなければ、どうして彼女は僕に鉤爪を向けて、近寄ってくる? ああ、そうだ。彼女は僕を殺しに来た。見ろ、あの脇腹を。深くえぐられて、そこから流れ出る液体が彼女の白い体を赤く汚している。あれでは逃げようにもろくに動けない。今日を生き抜くことは叶わないだろう。だから、彼女は僕を道連れにでもする気なのだ。

 

 ぺたり、ぺたりと足音がする。遠くで雷鳴のような轟音が幾つも鳴っているのに、彼女の足音はどうしてか僕の耳に届いた。彼女の激しい息遣いもだ。荒い息が、喉で擦過音を立てている。赤い目は僕をじっと見ている。僕はそこから目が離せない。彼女の口が小さく、のろのろと、動いている。僕の視線と彼女の視線が一つになる。その目の中に赤い光が輝いている。まばたき一つしない目が僕を射抜いている。鉤爪が僕に近づいてくる。その尖った先端。赤く濡れているのは血だ。「やめろ」と声が出た。こんな怯えきった声が僕のものだとは、信じたくもなかった。

 

 震える自分の手に、脱ぎ捨てた袋が触れた。考えもせず、それを投げつける。港湾棲姫がそれを振り払う。体に指令を送る。逃げろ! 這ってでも逃げろ! だが、二日間の断食と暴力を経験した艦娘よりも、撃たれた姫級深海棲艦の方が強かった。彼女の爪が器用に僕の服を引っ掛け、腕の一振りで壁に叩きつけられる。「(ナニ)モ」と彼女は言った。頭の中に響くような声で。「(ナニ)モ……()カッテイナイ、ナラ」それから彼女は、地に伏せ、最後の一撃を前に処刑人を見上げることしかできない僕に向かって、その鉤爪を振り上げようとした。

 

 胸を貫く一撃。僕の胸じゃない。彼女の胸だ。港湾棲姫の。

 

 バラクラバで顔を隠した誰かが、彼女の後ろから長いナイフを突き立てていた。僕の目と、港湾棲姫の目が、その誰かに向けられる。鉤爪が、彼か彼女かをなぎ払う。簡単に吹き飛ばされ、部屋の入り口に倒れた相手へと、港湾棲姫は何度も爪を振り下ろす。ナイフを生やした背は僕に向けたままだ。僕は再び自分の体に命令する。立て、立ち上がれ、今度の命令は逃げる為じゃない。戦う為だ。僕の目と鼻の先で今にも死のうとしている奴を見ろ。そいつは僕を助けようとしたのかもしれないし、ただ深海棲艦を見つけて襲い掛かったのかもしれない。どちらにせよ、犠牲によって作られたこの一瞬を、無駄にしてはならない。

 

 身を起こし、立ち上がる。港湾棲姫は気づかない。彼女を貫いた敵に、まだ気を取られている。僕は一歩を踏み出す。足の下で、直前に敵へと投げつけたあの袋がかさりと音を立てる。港湾棲姫がこちらを向こうとする。その腕を、はらわたを抉り出されたまま、彼女に倒された誰かが掴んで止める。僕はナイフ目掛けて飛びかかる。

 

 どうやって港湾棲姫に引導を渡したのか、覚えていない。どうして僕が死んで、彼女が生きているというようなことにならなかったのか、考える気にもならない。多分、那智教官に教わったやり方を実践したのだろう。彼女は人型深海棲艦をナイフで刺す時には、太い血管や臓器を狙えと言っていた。奴らにも動脈があり、肺や心臓があるのだからと。僕がその言葉に忠実だったことを証明するかのように、部屋で唯一生きて立っている僕の足元は、血の池と化していた。僕も生暖かい血にまみれている。飛び掛かった時、港湾棲姫が振り向こうとするのを最後の力で止めてくれた誰かも、その中で倒れて、死んでいた。僕は気分が悪くなって、部屋の隅で吐いた。断食をやらされていてよかった。出てきたのはほとんどが液体だった。

 

 複数の足音が聞こえてきた。何を言っているかまでは聞き取れないが、指示を飛ばす声も。そのメリハリのある調子から、軍の連中だと分かった。さっきみたいな喜びはもう沸いてこなかった。ああ、僕の命だけは助かったとも。だが、そのせいで一人死んだのだ。僕の命と、この人の命、そのどちらが価値あるものなのか、僕には決められそうにもなかった。価値があるものの為には、より無価値なものは身を捧げるべきなのか? その答えは知っている。だが、それが一つの命と、もう一つの命の時では? 二つの金塊が、重みそのものは等しくとも、その値段がそれぞれ違うなどということがありえるのか? 僕は艦娘としての答えは知っていたが、それよりも人間としての答えを求めていた。でも、僕が欲しがったものが天から降ってくるようなことは、到底願うべくもないことである。そして僕は知っていた。それについて考えるには、僕が余りにも愚かすぎるということをだ。

 

 黒い戦闘服に身を包み、バラクラバで顔を隠した上にサングラスまで掛けた、赤城が言ったところの特殊部隊員の一人が、小部屋の戸口に立った。長身で、銃どころかナイフの一本も持っていない。全くの徒手だ。真っ黒なサングラスに遮られて目は見えなかったが、この状況をどう理解したものかと悩んでいるようだった。やがてそのオペレーター(特殊部隊員)は腰の無線機を取って言った。「三番が死んだ」変声機でも使ったみたいな、妙な声だった。すぐにざざっ、とノイズがして、同じ声調の返事が聞こえた。「こちら二番、了解。一番と共に継続して制圧中。要救は?」「発見。私が連れて行く」「よろしく、六番」それから、そのオペレーターはおもむろにサングラスとバラクラバを外し、呆気に取られて彼女を見ている僕に、薬指を折った平手をひらひらと振ったのだった。


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