[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

15 / 49
「“六番”」-5

 僕は全て了解して、力が抜け、吐瀉物の上に尻餅をついた。汚いなとは思ったが、今はそこまで気にならない。空腹と緊張の弛緩による倦怠感が、僕の前に立つ女性への不快感で上書きされる。「武蔵」僕は声を搾り出す。彼女は笑い、変調のない声で言う。「ふっ、この武蔵に任せておけと言ったろう」何が任せておけ、だ。彼女が僕を探し出して助けに来た訳がない。そんな都合のいい話はない。そうじゃない。こいつは僕を、融和派を釣る為の餌にしやがったんだ。僕と直接話をすることまでが融和派を釣り出す作戦の内だったのかは知らないが、そうだろうとそうでなかろうと何の違いがある?

 

 精一杯の嫌悪を込めて、武蔵を睨みつける。彼女は歯牙にも掛けない。「怒っているみたいだな。まあ、当然か。でも私たちは友達で、食事だって一緒した仲じゃないか。許してくれるな?」こちらに寄ってきて、手を差し出す。その褐色の手を取れと、彼女の鋭い目が、くいくい、と僕を誘う指が言っている。僕はそれを、跳ねつけることはしない。その元気もない。けれども、その手を取るような真似もしない。僕は、自分の目的の為に僕を利用して、あまつさえ殺しかけたような奴と握手するつもりはないのだ。

 

「おいおい、そう拗ねるなよ。男がすたるぜ」

 

 彼女の手が、前にもあったようにこちらの意志を無視して、僕の手首を掴む。多分、手を取らなかったのは武蔵なりの気遣いとか、矜持なのだろう。自分からその手を取ろうとしない僕の気持ちを、彼女のやり方で慮ったのだ、と思う。だが、そのことは僕の武蔵への気持ちを揺るがさなかった。引き起こされ、立たされる。

 

「歩けるかい」

「君のせいで僕は……絞首台に立たされたんだぞ!」

「そりゃ凄い、同期で一番乗りじゃないか? 家に帰って家族や友達に自慢できるな。賭けたっていいが、ざらにあることではないぜ」

 

 僕は閉口した。この女は反省とか、後悔とか、およそ人間の美徳として名が上げられるようなあらゆる感情を持っていないのか。「ざらにないと言えば、姫級をナイフで始末したっていうのもそうか。よくそんなことやったなあ、見上げたものだ」

 

 ナイフで深海棲艦を始末するのは、難しいことだが、不可能じゃない。深海棲艦と対面した時、拳銃とナイフがあれば、後者を選んだ方がより高い確率で生き残れるだろう。彼女たちの肉体(そして僕たち艦娘の肉体)は、人間と同じ柔らかさを持ちながら、遥かに強靭なのだが、その秘密の一つは彼女らの肌が持つ特殊な性質にあり、十分な圧力を加えるとその部分が瞬間的に硬化するのだ。その際の強度は圧力に対して比例的なものであり、半端ではない。

 

 従って、あえて不十分な圧力を加え、それを弾くほど硬化していない皮膚を傷つけることのできるナイフなどと比べて、点に圧力を加える攻撃である通常の銃砲は彼女らに一切効かないか、効いたとしても限定的になる。例外は艦娘の装備品だけで、あれがどうして効くのか、軍では研究を続けているという。

 

 まあ、通常兵器でも動かない的であれば撃ち続ければいいし、こちらに百の味方がいて相手は一人だと言うなら、集中砲火でどうにかなるだろう。しかし、現実の彼女らは多数で、素早く動き回り、伝統的な海軍艦艇としては想定していなかったほどに小さく、その癖その火力はこちらの通常の船舶を撃破するに不足のないものだった。それ故に海軍は艦娘を運用できるようになるまで、負けに負け続けていたのである。

 

 僕は足元の港湾棲姫を見下ろし、武蔵の言ったことを認めた。誇れることだったろう──海の上で、戦闘の中で、そうしてやろうという意志の下でやったことだったらな。今日のこれは違う。はかりごとに巻き込まれ、生き延びようとしただけだ。あの岩礁での時と全然何も変わらない。こんなことが誇れるか。

 

 それよりも僕は人間として僕の扱いに、僕への横暴に、ここまであがなわれることのなかった献身と不遇があがなわれないままに放置されそうになっていることそのものに、怒りたいのだ。僕はそこらの道に出て行って、会う人会う人の首根っこを掴んで耳元に叫んでやりたい。彼らは嫌がるだろう、ほっといてくれと言うだろう。

 

 だがそんな頼みを聞いてやりはしない。僕は彼らへ僕に同情しろとは言いはしない。共に軍へと抗議デモをしようとも言うまい。何しろ軍の何に対してデモをするのか僕自身も分からないからだ。ただ僕の怒りを聞け。「今の僕はクソみたいに怒り狂ってるぞ! こんなのにはもう耐える気はないってな!」※48という僕の言葉を聞け!

 

 心の中でそう叫ぶと、ちょっとマシな気分になった。結局、僕は一人のつまらない人間に過ぎない。怒ったところで、それを自分の胸に片付けておき、後で目を閉じてその怒りを噛み締め、時が経つにつれてもやもやとした憂鬱になってくれるまで我慢を続けるしかないのだ。部屋の窓を開けて首を突き出し、思ったことを口に出して大声で世界に聞かせたいと思うこともあるだろうが、それを実行する度胸のない、子供だ。じっと我慢する以外に何ができる? 嵐が過ぎ去るのを待つしかない。その移動経路に僕がいたという不運を呪いながら、やがてはこの嵐も終わるのだと言い聞かせて耐えるというのが、僕のたった一つできることだ。

 

「彼を置いていくのか?」

 

 そこを立ち去る前に、僕は床に倒れたままの、オペレーターの死体を指差した。武蔵は頷いて言った。「どうせ後で回収できる。それと失礼なことを言うもんじゃないぞ、こいつは私の班の艦娘だ。だから『()』じゃなくて『()()』だ。まあもう『()()』になったがね」くっくっ、と彼女は喉を鳴らして笑う。君もその中の一人になる時が来るかもしれないことは考えないのか、という言葉を、口にはしないでおく。彼女は馬鹿じゃないだろう。そんなことを考えていない訳がない。考えた上で、それでも彼女はそういったことを笑い飛ばしているのだろう。それは強い精神の持ち主か、さもなければ何処かネジの飛んでしまった頭の持ち主でなければできないことだ。彼女はどっちだろうか? どちらにも思えた。しかし両方ということはないから、どちらか片方ではある筈だ。それとも、僕が思いつかなかった第三の可能性か。

 

 手錠を掛けられるようなことも、目隠しを受けることもなく、僕は歩かされた。手首を握られたままだったのには何か意味があったのかもしれないが、これから自分の扱いがどうなるか考える方が大事だった。やっとの思いで、僕は憲兵本部からの呼び出しのことを訊ねた。武蔵はまた笑い「心配するな」と言っただけだった。

 

 とても不愉快なことに、それで僕の心配は全部杞憂なのだと信じられたのだ。彼女が嘘を言わないと自分が信じていることに、僕自身気持ち悪さのようなものを感じていた。確かに彼女は僕を助けた。でもそれは僕を地獄に突っ込んだ後で、そこから引き上げてくれたというだけだ。プラスマイナスゼロ、という話ではない。マイナスの方がずっと大きい……大きい? マイナスだから小さいと言うべきか? 負の方向に大きいと言うべきか?

 

 ああクソ、そんなことはどうでもいいんだ。だが混乱したくないから強いと言い換えておこう。それで? 何だったか? ああそうだ、武蔵のやったことの正負の関係だった。とにかく、彼女は自分の仕事の為に、僕をむざむざ傷つけさせ、死ぬ覚悟までさせやがった。なのに、そんな奴を信頼してる自分がいる。僕は馬鹿なのか? お脳が病気なのか? きっとそうなのだろう。

 

「彼女の名前は?」

「聞いても仕方ない」

 

 歩きながら、僕で融和派釣りをやった女と短い会話を交わす。僕を無視すればいいのに、律儀に答えるところが嫌だった。「話せよ」「知ってどうする? 自分のせいで女の子が死んだんだと一生うじうじするのか? アホらしいな」答えられなくなる。その質問への回答を、僕は持っていなかった。違う、と噛みつくのは簡単だ。何故違うのか述べることは難しい。僕の手の届くところで死んでいった彼女が、どうしてここまで引っかかるんだろうか? これが明日の僕なら分かるのだ。落ち着いて、冷静になって、思い返して、あの時もっと上手くやってればとか、そんな風にありもしなかった過去を思い描いている時の僕なら。だが今日の僕が、どうしてそこまで客観的になれる? 今だってそうだ。ひどく、他人事みたいなことを考えてる。「自分じゃなくてよかった」型の、後でPTSDの原因になりそうな思考でさえないじゃないか。

 

 大きな扉の前で武蔵が立ち止まった。彼女は言った。「肺活量に自信があるなら、息を止めておくといい」それから扉を開けた。彼女がどうしてそんなことを言ったのか、お陰ですぐに分かった。血と汚物の臭いが混じった悪臭が、僕の鼻に飛び込んできたのだ。扉の先の広間には間に合わせのもので作った遮蔽物があり、それは弾痕だらけになっていた。辺りに倒れた死体は、そのままになっている。さっき吐いたせいか、吐き気は来なかった。ただ、気が滅入った。融和派艦娘らしい死体もある。僕はその中に赤城や電がいないことに気づいた。逃げ出したのか、別のところで見つかって死んだか分からないが、武蔵に尋ねるつもりにもなれなかった。

 

 一人の男が仰向けに倒れていた。その腕は彼から失われゆく生命を掴んで引き戻そうとしたかのように、斜めに上へと伸ばされていた。死後硬直だ。通常は少し時間が経ってから起こるものだが、筋肉の疲労状態によっては死後即座に発生する。有名なラッパ吹きの話を僕は思い出した。目を背け、そのまま脇を通り抜ける。武蔵が掴んだ手がついてこない。彼女が立ち止まっているからだ。振り返る。彼女はその男を眺めていた。武蔵にも何か感じるぐらいの心があったのかもしれないと思っていると、武蔵は躊躇いのない動きで男の伸ばした手を握り、軽く上下に振った。もし武蔵が僕の手首を優しく握っていたのだったら、僕はその光景を目にした時に振りほどいていただろう。彼女は僕の拒否反応を見て、楽しんでいるようだった。

 

「こいつ、生きてる時は乱暴者だったが、死んでからはフレンドリーになったな。私と握手までしたぞ」

「僕は君のことを空虚な人間で、感情豊かなふりをしているんだと思っていた。だから君のやることなすこと僕を苛立たせるんだと」

 

 彼女は器用に片眉を吊り上げてから、息を吐き出すような声で返事をしてみせた。

 

「ほう?」

「君をこれだけ嫌う為の、納得できる理由が欲しかったんだ。けど、考えを変えたよ。僕が君を嫌いなのは、純粋に君が嫌な奴だからだ」

「あっはっは! 面白いなあ、私の知り合いみんなそう言うんだ、四つの時に保育園で言われて以来な……しかも園児じゃなくて保父さんにだぞ? 信じられるか?」

 

 それは百パーセント掛け値なしの真実だろう……だろう、だって? そんな連語を用いるのもはばかられる。文法的に見て、この連語は断定の助動詞「だ」の未然形と推定の助動詞「う」が接続されて作られている。つまり、不確かなことに対する断定もしくは推定を表す訳だ。彼女が保父さんにけなされた具体的内容は知らないが、四つの子供に投げつけるには手厳しかっただろう言葉が、こと武蔵についてのみはそれに値したことと、そのことに保父さんも気づいており、彼女にその価値があるからには与えられねばならないと理解していたのだということは、疑いもなく信じられる。従って今の話の確からしさは僕にとって推測せねばならないことなどではなく、もし今の話が武蔵の創作であったとしても、僕の主観的な視点から見ているこの現在、それは実際に発生した事実と変わりがないのだ。

 

 自分で考えていて頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。僕は考えを切り替えようと務め、武蔵と共に融和派たちのアジトの出口を目指して歩き続けた。「腹が減った」と呟く。結局、赤城たちは食事を出してくれなかった。武蔵が答えてくれることを期待してはいなかったが、意外にも「ここに来る時に使った車に、レトルトの粥がある」という答えが戻ってきた。粥か、と子供っぽい落胆を覚えるが、飢餓状態の人間に急に普通の食事を与えるのはよくないという。二日やそこらでもそうなのかとか、艦娘なら大丈夫じゃないのかと思うところもあるが、わざわざ自分の体で実験して後世の連中に伝えてやる必要もないだろう。いかにも、医学の発展の歴史上には、消化器についての研究をする為に木の筒の中に肉を入れて飲み込んだイタリア人※49や、自分で自分の腕の静脈から心臓にカテーテルを挿入したドイツ人※50がいる。彼らのような勇気ある人々なしには、今日の医学もまたあり得なかった。しかし、その科学的探究心などには頭が下がるが、彼らは決してお仲間になりたい連中じゃない。

 

 出口に続く上り階段まで辿りつく。担架で運んで貰うつもりだったのに、どうして僕は歩いてるんだ? 武蔵に聞かれないように胸の奥で自分を罵り、一段一段上がっていく。どうせ手首は掴まれたままなのだし、力を抜いて倒れてしまえば武蔵が引きずって外まで連れ出してくれるんじゃないかと馬鹿な考えが頭を過ぎった。そんな無様を晒すぐらいなら、這ってでもいいから自力で外まで行ってみせる。そうだ、足を動かすだけのことだ。それで死ぬ恐れもない。ここでは意志の力のみが問題なのだ。そしてそれは、訓練所から今日この時に到るまで、僕が散々培わされてきたものだった。望んでではなかったが、だからこそ僕は僕の個人的な考えや好き嫌いに関わらず、やるべき時には成すべきを成す、という美徳を身につけることができたのだ。手を抜かず、やり遂げよう。

 

 最後の一段を上がり、扉に手を掛ける。ドアノブを捻り、押し開ける。室内の停滞した空気が、外の真新しい空気と出会い、交じり合う。その新鮮な大気の冷たさによって、ゆっくりと汗が引いていくのを感じた。立ち止まり、目を閉じ、深呼吸をして、荒々しい鼓動を刻む心臓を落ち着かせてやる。生きているというのはいいものだ。音に耳を澄ませる。虫の鳴き声、かさかさと何かが遠くで草むらを掻き分けて通っていく音、鳥のさえずり……目を開ける。僕は山の中にいるようだった。自分が出て来たところを見てみると、木々や草葉で念入りに擬装を施された出入口があった。トイレの個室一つ分くらいの大きさの、雨なんかを防ぐ為だけに建てられたミニチュアサイズの小屋みたいなものだ。建築業界の用語で何と言うのかは知らないが、とにかく入り口の見た目はそんな感じだった。適切に形容する単語が頭に浮かばなかったことを後で思い返せば、必ずや自分の無学が恥ずかしく思われるだろう。

 

「座って待っていろ」

 

 武蔵はそう言ってようやく手を離し、さっさと一人で姿を消した。車のところに行って、取ってきてくれるようだ。彼女の僕に対する好意と言い換えたくない気遣いと悪意のような何かは、どうしてこうも入り混じることができるのだろう。僕を馬鹿にし、不愉快になるようなことを言い、人間の尊厳を踏みつけにし、それでいてまともな女性のようなこともやる。彼女は時々狂気に陥るのか? それとも時々正気に戻るのか? どちらにせよ、待ち望んでいた食事をこれから持ってきてくれることは確かだ。誰の手で持って来られたか、ではなく、何を持って来てくれたかということを大事にしよう。

 

 土と草の上に座り込み、頭を巡らせて、周囲の様子を更に観察する。武蔵は一人で来たのではなかった。あの監房で死んでいった勇敢なオペレーターを含む、複数人でやって来たのだ。それは武蔵が「六番」と呼ばれていたり、また死んだあの子が「三番」と呼ばれていたことからも推察できるし、赤城たちが「排撃班」と呼んでいたことから推し量るまでもなくその通りだと断定しうる。なら、外に誰もいないのはおかしいだろう。僕は特殊部隊員じゃないからその手の訓練を受けてはいないが、普通の感性を持った軍人なら見張りを残す筈だ。敵の拠点に攻め込んでいる間に、相手の増援が到着して挟み撃ちを食らったりしたいとかでもなければ、誰だってそうする。

 

 しかし、僕の見る限りこの辺にはいなかった。何も出入り口を見ていなくても、敵が近づいてくる時に使うだろうルートを見ておけばよい、と考えているのだろうか。僕にはそうは思えなかった。多分、僕などの目では見抜けないところに潜んでいるのだ。訓練された人間は、ぴたりと動きを止めてその場の風景に同化することができるものである。流石の那智教官も陸上での擬装や隠蔽までは教えてくれなかったが、融和派狩りを任務とする武蔵たちなら身につけていてもおかしくはない。

 

 武蔵が戻ってきた。それに気づいたのは、彼女が後ろから声を掛けた時だった。それまで何の音も気配もなかったので、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。本当に飛び上がったりしなかったのは僕の自制心のせいではなく、その元気がなかったからに過ぎない。彼女は耐熱プラスチックのスプーンと、市販のレトルト粥のパックを二つずつ持っていた。既に温められ、パックの切り口からは湯気が立ち上っている。僕はスプーンとパックを一つずつ受け取り、袋にシールでくっつけられていた塩の小袋の中身を全部入れてかき混ぜてから、一口食べた。粥なんて、噛む必要もないぐらいのものだが、味わって何度も噛み締める。二日ぶりなのだ。しかも、一パックしかない。がっついていたら、あっという間になくなってしまう。

 

 そうは思っていても、気を抜くとがつがつとやりたくなるのが人間の情ってものだ。僕はそれを避ける為に、同じものを食べている武蔵と話をすることにした。他愛もない話を、思いつく先から口に出した。暖かい食事は人の舌を緩ませるものなのだ。その会話の中で僕は「どうやって温めたんだ?」と訊ねた。しっかり熱くなっていたので、気になっていたのだ。武蔵は口の端に米粒の残骸をくっつけたまま「携帯糧食用のヒーターだ」と答えた。それから、突然僕に真面目な顔を向けた。「広間に入った時だが」僕は嫌な予感がして、その話をやめさせようとした。「おいよせよ、食事中だぞ」でもダメだった。僕の言葉で追求を止めるような奴は、特殊部隊員にはなれない。

 

「お前、誰かを探していたな。赤城か?」

 

 胸を一突きされた経験はない。まさに今日近くでそんなシーンを見たが、僕自身の胸は処女のように未経験だ。けれども、もし細くて鋭い、錐のようなもので心臓を貫かれたら、こんな感じの気持ちになるんだろう。僕はどう答えたら丸く片付くか考えようとして、冷めていない粥を口の中に突っ込み、火傷しかけた。見かねた武蔵は腰に下げていた水筒を僕に貸してくれたが、質問の効果が消えてなくなった訳じゃなかった。「誰も探してない。僕があそこに友達を作りに行ったとでも思ってるのか?」そう言い返すと、彼女は首を横に振った。

 

「お前は違う。だがあいつらはそうだ。お前を友達にしようとした。お前は突っぱねたようだが、助けが来なけりゃそれだって、いつまで続いたかな」

 

 反論したいが、ぼろを出すだけになりそうだ。口を閉ざしているしかない。その様子を見た武蔵は、彼女の言葉で僕が傷ついたと思ったらしかった。「侮辱してる訳じゃないぜ。誰にだって限界はあるし、赤城は──あいつは私の班が長い間追ってるんだが──相手の限界を引き下げるのが得意な女だからな」時間さえあれば、僕だって誰だって、それこそ自分自身だって転向させてしまうだろう、と武蔵は言った。その言葉は確信に満ちていた。追う者のプロとして、彼女には追われる者の有能さが分かるのだろう。そんなことを考えていると、武蔵はぽつりと言った。「否定しないな。やっぱりあいつか」「そう思いたければそうするといい」「そうするさ」それから、彼女は片手で自分の頭をがしがしとかきむしり始めた。かゆみがひどいせいじゃなくて、苛立ちか何かを発散する為にそうしているようだった。見ていられなくなって、僕は訊いた。

 

「最初の融和派に捕まった時、どうして助けに来なかった?」

 

 彼女は手を止めない。答えもしない。不愉快な音、そしてフケや抜け毛なんかが万が一にでも粥のパックの中に入ったらどうしてくれるんだ、という気持ちを我慢できなくなって、僕はスプーンを持った手で彼女の腕を掴み、何とかやめさせた。彼女が老廃物に気を使っていないと決め付けたかのような思考に罪悪感を覚えたので、自分の心に言い訳しておこう。女性の多くが自分の頭髪に並々ならぬ熱情を注ぎ込むことは知っているが、武蔵がそうとは限らないし、彼女もまたその手の女性らしさを有する一人だったとしても、あんなに引っかいてれば健康な髪の毛だって抜けて落ちてしまう。僕がやったことは間違っていなかった筈だ。現に、武蔵は自傷行為じみた引っかきをやめている。彼女はぼうっとした目で僕を見て、それから急に理性をその瞳に取り戻した。それからいつも浮かべているか、もしくは浮かべようと努力している皮肉屋の微笑みを顔に貼り付けようとして、何かが上手くいかなかったらしい。本気で不機嫌そうな顔になって、結局はぶっきらぼうに答えた。

 

「奴らは小物だったからな。それに、赤城のグループが奪取に動いているという情報が入っていた。奴ならお前が処刑される前に連れて逃げると踏んだのさ。読みが当たってよかったよ、お陰で二つのグループをまとめて片付けられた」

 

 粥を食べ終わった後で、武蔵は僕を彼女たちが乗ってきた車の内、一台の後部座席に乗せて、連れて帰ってくれた。僕は車の窓にもたれかかって、景色が街に変わっていくのを楽しんだ。文明、平和、地上、僕の居場所だ。武蔵は丁寧な運転を心がけていたので、楽しむ時間はたっぷりとあった。その途中にふと気になって、これから僕はどうなるんだ、と訊ねる。彼女は、まず病院で身体機能の検査を受け、数日入院すれば軍務に戻れるだろうとコメントした。戦争の日々に戻りたい訳じゃないが、友達を戦わせておいて自分はベッドの上ってのは具合がよくない。実によくない。僕は艦娘で、艦隊の仲間たちもまた艦娘だ。僕の同胞なのだ。彼女たちが傷つく時は僕も同じように痛いし、彼女たちが勝利する時、僕もまた勝利しているのだ。彼女たちだけに危険を負わせて、平気ではいられない。なので、彼女の言葉は僕を安心させてくれた。数日の休息は生き抜いたご褒美だとでも思ってありがたく受け取り、それが終われば艦隊に帰るのだ。それはいいプランだった。

 

 十字路の赤信号で車が止まった。辺りには通行人も他の車もいない。なのに止まらなければならないというのは、ちょっと非合理的に思えるが、ルールはルールである。社会の一員として遵守すべきだろう。武蔵はそこのところを、理解しているようだった。だが退屈は退屈として、紛らわさずにはいられないものだ。彼女は車を運転し始めてから初めて口を開いた。「ここから右折して、ずっと道なりに進めば病院だ。もうお前の受け入れ準備も整えてある」「いいね」と僕は言った。他のセリフが出て来なかったのだ。この言葉には相槌以上の意味がこもっていなかったが、僕の次の言葉は重要な質問だった。

 

「けどそれなら何故、ウィンカーを出さないんだ?」

 

 武蔵は十字路を直進するつもりなのか、指示器を操作していなかった。誰もいないからか? いや、それならこの赤信号だって守らないだろう。武蔵は深い溜息を吐くと、運転席から体をよじって後ろを向き、僕の目をまっすぐに見て言った。「直進すれば、私の班員たちが待っている。だが」目をそらさずに、こちらを見ている。「昨日までと比べると、一人少ない。そこで、その、何だ」よかったら、もし本当によかったら、私と一緒に来ないか、と武蔵は言った。おどけもなし、嫌味もなし、冗談も皮肉も引っ掛けもなさそうな、本心からの誘いだ。僕は何と答えるべきかも分からなかった。信号が青になったことに気づいても、僕は指摘しなかったのだ。けれどそこまでしてやっと出てきたのも、下らない問い掛けだった。

 

「どうして僕を?」

 

 これは彼女を失望させたようだった。眉を寄せて、武蔵は自分が感じているじれったさその他を表現した。

 

「そんなことも分からないのかい。お前のような奴が必要だからさ」

「だって君の班が必要とするのは僕なんかよりもっと有能な……」

「班にじゃない」

 

 武蔵はぴしゃりと言い放ち、僕の口を閉じさせた。「私に必要なんだ」体温が下がった気がした。その言葉に込められていたのが何なのか、読み取れなかったからだ。どうして彼女が僕を必要とする? 友情か? ちょっと喫茶店で話をして、カフェのテラス席でサンドイッチとワインを食べただけでは、ここまでのことを言わせるような友情など育つまい。愛情? 思い上がるのも大概にした方がいいだろう、彼女が僕に惚れるような理由は一つもなかったし、僕は彼女に嫌いだとはっきり言いまでしたのだ。僕の何が求められているのか分かりもせずにこの誘いに頷く訳にはいかないし、第一彼女が僕をどう思っていようと、僕は武蔵のことをやはり好きにはなれなかった。外見や性格だけでなく、より彼女の人間的な本質に近い何かが僕を躊躇わせ、武蔵を忌避するようにさせたのだと思う。

 

 僕が答えなくとも、武蔵はこちらの意志を読み取ったらしかった。彼女は前を向き、指示器を作動させた。それからアクセルを踏み、ハンドルを切って、道を曲がった。やがて、病院が見えてきた。表玄関に停車するかと思ったが、武蔵は裏口から入るつもりらしく、裏手の駐車場へと車を移動させた。正確に枠の中へと駐車して、彼女はエンジンを切った。心地よい振動が失せて、場を沈黙が支配する。僕はドアを開けて、そこを立ち去り、休息を求めて院内へと向かうこともできただろう。けれどその時僕がやったことは、そうじゃなかった。僕はただじっと息を潜めて、待っていたのだ。武蔵がドアを開けて車を降りる時をだ。どうしてか? そうなって欲しいと思ったからだ。ここで僕が先に出たら、彼女はエンジンを再スタートさせ、行ってしまうだろう。いずれはそうなって貰いたいが、それに先んじて聞いておきたいことが沢山あった。ここまでの会話で、彼女が排撃班とやらの班長であることは分かっていた。そんな立場なら、融和派の連中が言ったでたらめを一蹴してくれると思えたのだ。

 

「降りないのか? これは私の経験から忠告させて貰うが、早めに手当てを受けた方がいいぞ」

「同感だ。でも先に君から聞きたいことがあるんだ」

「答えてやるつもりはないって言ったら、降りてくれるかい?」

 

 そうせざるを得ないだろう、と答えた。僕は彼女に応答を強制する権限も、実際的な能力も持っていなかった。彼女が答えるかどうかは、武蔵自身の判断に全く依存していたのだ。そして、彼女は答えないことを選んだ。僕はそれに従うしかなかった。ドアを開けて、外に出る。首を巡らせて運転席の武蔵を見ると、彼女は窓を開けて腕を突き出した。その手には見覚えのある封筒が納まっていた。僕が彼女に押し付けた遺書だ。「これなんだが、もう持ってなくてもいい、そうだろう」「そうだね」封筒を受け取る。武蔵は軽く頷いて、それで車の窓を閉めるかと思ったが、僕に言った。

 

「私は待っているよ、お前が考えを変えるのを。その時が来たら、きっと迎えに行こう。いつか、私にとってのお前のように、お前が私を必要とするようになった時には、きっとな」

「その前に戦争が終わるさ」

「ふふ、私たちにそんなことができるとでも? 可愛いなあ、十五歳には見えないぞ」

「十六だ、もう数日で」

「知ってる。ハッピーバースデー、後で病室にプレゼントを届けさせよう」

 

 そして、彼女は車を急発進させた。「じゃあな」の一言もなかった。それはまるで彼女が、ちょっとばかり席を外すが、また戻ってくることは間違いないんだから、一々断りを入れる必要もないだろうが? と主張しているようだった。排ガスを顔面に吹き付けられた僕は顔をしかめたが、武蔵はそんな僕の表情を目にも入れなかっただろう。多分運転席で、すっかり彼女のもの、彼女の代名詞、誰かがそれを浮かべるだけで僕に彼女を思い起こさせるようになった、あの亀裂みたいな笑みをこぼしているに相違ないのだ。何故なら彼女は嫌な奴で、友達をからかい、様々な手を尽くして嫌がらせをして、それを楽しむような女だからだ。

 

 純真無垢と言いたくなる段階の、ひたむきな正直さだけが彼女の美徳だった──いや、それさえ悪徳の一つに数えてやった方がいいかもしれない。率直さという、羊の皮を被った狼、善のふりをした悪だ。しかもそれを誇ることはより一層業が深く、許されるべきではない罪悪であって、そんな大罪人と仲良くなるくらいならいっそスカンクとでもお近づきになった方がまだ気を揉まずに済むという代物である。だってスカンクはその臭いにどうしても耐えられなくなったら、ナイフなり薬なりで始末してしまえるしな。ああもちろん、自分勝手に命をもてあそぶことに罪悪感を抱かないでいられる類の人間なら、の話だ。僕はそうではないので、一線を引いてどちらとも仲良くはならないことにしている。その線をわざわざ踏み越えてきたのは、武蔵が初めてだった。

 

 彼女の言葉通り、裏口には医療スタッフが待機しており、こちらの予想とは違って僕を見て度肝を抜かれた様子だった。彼らは僕が、担架か何かで運ばれてくるものと思っていたのだ。その思いに僕は深く共感する。どうして武蔵は僕をそっと担架に寝かせ、優しく運び出してくれなかったんだ? 何でまた、意地の悪い質問も手首を掴むのも抜きで、ただ連れ帰ってくれなかったんだろうな? 僕には山ほどの質問があった。A4の紙に一問につき五秒から八秒で書きつけるとして、全部リストアップするのにはどう見積もっても一ヶ月以上掛かるだろう。しかも、そのリストを送りつける相手が何処にいるか、僕に教えてくれる人はいないのだ。

 

 軍のデータベースを青葉に探させるという手はある。でも多分、急病で死んだ青葉の葬式に出ることになるだろうし、彼女は僕の為に命までベットしやしない。友達とは、友情とは、いつでもそこまで高尚なものではないのだ。病院で、僕を取り巻く安全さという概念の権化のような部屋で過ごしている僕は、友達の為に命懸けで何かに取り組む自分を想像することができる。それは自己犠牲だ。崇高で、美しく、意義のある行為だ。けどもし現実にそんな状況になったら、僕が想像通りの気持ちになれるかどうかには疑いを差し挟む余地がたっぷりある。

 

 病室に運ばれた僕は点滴を受け、柔らかなベッドで高いびきとしゃれ込んだ。しかしふと悪寒を覚えて目を覚ますと提督がいたので、眠気や気だるさ、睡眠直後の穏やかな快感の残滓はみんなして火星まで(ひと)っ飛びしてしまった。敬礼をしようとして、病院のベッドにいる間にはその義務を免除されるということを思い出す。提督が何も言わないので、僕は自分から口を開かなければならなかった。「ご無沙汰しております」僕はなんて馬鹿だ。北上に初めて話し掛けて以来、全く話術というものが成長していないではないか。この挨拶はない、提督が僕に文句か軽蔑、罵倒を投げつけるのにはいい的だ。そう思ったが、提督は相手に与えられた餌に食いつく、自尊心のないペットではなかった。

 

 彼女は僕の失言を無視してひどいことを言った。何を言ったかは僕の心に鍵を掛けて仕舞い込んでおこう、それに相応しいコメントだった。僕は変わらない彼女の態度に、湧き上がってきた笑いを耐えた。空腹による腹痛は、僕が危うく心の外に出しかけたおかしみを打ち消すには、強力すぎたくらいだった。提督は肩透かしを食らったような姿を見せ、それから僕がいなくなっていた間、部隊で僕がどのように扱われていたかや、提督がどんな風に僕のことを把握していたかを教えられた。

 

 それによれば、提督は早い段階で事態を理解していたらしい。少なくとも、融和派に拉致されたということについては知っていた。自分では排撃班云々までには行き着いていなかったものの、時間さえあれば彼女はその事実を探り当てただろう。それを証明するかのように、武蔵は提督の下を訪れたという。面白そうな場面を見逃したものだ。性格のひん曲がった二人が顔を付き合わせるところに、是非居合わせてみたかった。多分、武蔵も提督について僕と同じ意見を持ったのだと思う。それで、どうせ知られるなら先にこちらから釘を打っておけと考えたのだ。彼女が提督に「要求」したことというのは、概ねのところ僕が後で部隊に復帰しやすいように取り計らってやれということと、金輪際邪魔はするなということの二点であった。それで提督は、僕が餌にされたことを見抜いたのだ。

 

 僕は武蔵の心優しい気遣いに胸が温かくなった。嘘だ、冷え込んだ。何であれ、この提督に対して艦娘が要求するなどということは越権もはなはだしい行いであり、その行為が彼女を愉快な気持ちにさせたことに疑いがなかったからだ。提督を愉快な気持ちにさせると、みんなが不愉快な気持ちになる出来事が起こる。数日経っていても、その原因となった僕には提督が溜め込んだ感情を向けてくる恐れがあった。ベッドの上では逃げることもできない。これもまた、過ぎ去ることを願うしかない嵐になるだろうと思ったが、嵐にも慈悲の心があるのか、それとも僕をからかってその生来の残酷さを満足させようとしているのか、提督は最初の一言を除いて、ろくろく僕をこき下ろさなかった。彼女はポケットから白い錠剤の詰まったピルケースを取り出し、二粒飲んだ。「それ、何なんです」と僕は訊いた。

 

「私のおやつだよ。甘くていい気分になれるんだ。死んでもやらんからな」

 

 見せつけるように、もう一粒を義手の指で器用に取って出す。欲しくもないが、その錠剤に彫られた男の横顔のシルエットは気になった。「その絵は一粒一粒に彫ってあるんですか?」「気になるのか?」「少し」彼女は、そんなことを艦娘に聞かれたのは初めてだと呟いて、面白がった。そして、僕はこれまで誰一人として見ることのなかったものを見ることができたのだ。提督自身による、彼女が所持する怪しげな薬物の品評会である。彼女はテーブルと椅子を引っ張ってくると、ハンカチをそこに広げ、注意深く錠剤を布の上に出した。

 

 それらはどれも白かったが、彫ってある絵は何種類かあった。さっき見た男の横顔、簡略化された花、十字架、星、眼鏡、アラビア数字、短い英単語……粒のサイズもよく見ると大小に分かれていた。「これは」と彼女は一つを指差した。鍵のマークが彫られている。「上物だよ。二十五回分買ったが、もう残ってるのは一粒だけだ」また別の一つを指差す。最初に見た時には気づかなかったが、それには細く赤い線が描かれている。「こいつも楽しいぞ。口に入れる度に、賭けになる。とにかくお祈りさ」「どうして祈るんです」「たまに、数秒間ほど永遠の地獄を見るんだ」※51僕はその表現をとても詩的だと思ったが、それは僕が十五、六歳だからかもしれなかった。僕は更に尋ねた。

 

「数秒間の永遠の地獄?」

「つまり、耐えられることもあれば、耐えられないこともあるってことだ」

 

 僕は分かったように頷いたが、耐えられなかった時に提督がどんな状態になるのかは聞かないでおいた。彼女は珍しく皮肉抜きで薬物に関する講義を行い、僕は中学生に戻ったみたいにそれを聞いていた。この知識は多分、人生の役には立たないだろう。しかし、一つ再認識したことがあった。もし提督が彼女のお楽しみのせいで何かをしくじるようなことがあったら、僕は僕が生きている限り何としてでも憲兵隊のところに駆け込んで洗いざらいぶちまけてやる。彼女が軍法会議でもいつもの態度を取れるかどうか、いい賭けの対象になるだろう。

 

 提督が帰ると(彼女は何をしに来たんだろうな)入れ替わりに看護士たちが来た。彼らは僕の面倒を見て、何か彼らの間でだけ通じる用語を用いた複雑で高度な会話を行い、僕には「大丈夫だ」としか言わなかった。そして僕は、その言葉を言葉通り、額面通りに受け取ることにした。これは何も、彼らが相談した結果僕に美人の看護婦をつけてくれたからって訳じゃない。権威主義に陥るのは好みじゃないが、彼らの取得した学位その他と、それを得る為に彼らが経験した艱難辛苦に敬意を払ったんだ。

 

 無論、美人の看護婦が付いたのは嬉しかった。民間人の女性というのは、艦娘たちと比べて確かに姿形で見劣りすることもある。それは身勝手な男の論理だが、僕は内心でまで性的に平等な立場を取ろうとは思わない。だが、一個人としての尊厳を持った女性というのは、民間人であれ軍人であれ、その中間の軍属であれ素晴らしいものだ。これは容姿の問題ではない。内面の話である。顔なんて、目を閉じれば見えなくなるようなものだ。人間としての魅力を測る上で重要なのは、内側に秘めているものなのだ。けれど、まあ、言うまでもなく一番いいのは両方持っていることである。

 

 お姉さん、と呼びたくなる若さで、海軍病院に勤めている看護婦なら誰でもそうであるように、優しく、元気な人だった。彼女は僕を甲斐甲斐しく世話してくれた。マッサージしてくれと頼んだらしてくれたかもしれないが、それを頼む勇気はなかった。入院の翌日、彼女は包みを一つ持ってきた。初めは早くよくなるようにと隼鷹たちが見舞い品でも送ってくれたのだろうかと思ったが、提督の話では僕の入院は彼女たちに伝えられていない筈だ。憲兵に連行されたことも隠されており、僕は別の鎮守府に出向していたことになっているのだ。とすると、後は一人しか考えつかなかった。彼女は嘘をつかないということを、また僕にしつこく証明したのだった。

 

 看護婦さんが去って行ってから、包みを開ける。そこには四葉のクローバーのマークと共に、流暢な筆記体の英語でお決まりの祝いの言葉が印刷されたバースデーカードと、布を巻かれた細長いものが入っていた。僕は布を取り払い、ぎょっとした。それは僕と“三番”が港湾棲姫を刺し殺した、あのナイフだったのだ。

 

 記憶が蘇り、嫌な気分になった。手早くそれを布で包み直し、バースデーカードを裏返す。そこには手書きで「どうだ、思い出にぴったりだろう?」と書かれていた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。