[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「第二艦隊」-2

 でも、その自己保存欲求に基づいた考えは、リ級が天龍たちの方に戻ろうとする素振りを見せたことで捨てざるを得なくなった。駆逐艦を庇いながら戦い、足柄たちと協力してフラッグシップ攻撃にも参加した彼女は、一目で大破と分かるほどの痛手を負わされていた。彼女がここまで守り切った駆逐艦たちも、一人として無傷の者はいない。ある者は血を失いすぎてか、真っ青な顔をして足を震えさせている。ある者は他の駆逐艦の肩にすがらねば航行もできない。僕がここでエリートを抑えていなければ、フラッグシップに気を取られている足柄や羽黒はもとより、助けようとした天龍たちさえ無事では済まないかもしれない。艦娘が死ぬには、適切な場所への砲弾・魚雷一発で足りるのだ。

 

 負傷程度はこちらが上。練度は似たようなものと信じたい。僕は自分の命以外にも守らなければならないものがある。認めよう、こうしてまとめてみると、状況はあっちに味方しているようだ。けれども、自由意志による選択の余地がないなら恐れたって仕方がない。ただ義務を果たすか、果たそうとする試みの中で死んでいくかだ。僕はその考えを気持ちよく受け入れた。死を前向きに解釈することは難しいが、これはそこそこその難しいことをやり遂げていたからだ。沈思黙考していれば粗は出てくるだろうが、僕はそうじっくりと哲学的なことを考えられるほど頭がよくなかった。実に幸いなことに。

 

 機関に活を入れ、天龍たちへの奇襲を行おうとしたリ級エリートに向けて前進する。彼女は僕が考えを変えたのを悟り、先にこの死に損ないを沈めてやろうと決めたようだ。残った左腕の艤装を、僕へと向けてくる。せめて彼女が撃ちにくいようにと、僕は向かって左側から回り込む。あっちもそれに対処する為に、僕の右手側へと回ってこようとする。円を描きながら互いに近づく形だ。僕は肩部砲塔があって、それを使えるだけ手数が多い。あっちは右腕欠損がない分、狙いが安定している。五分五分と言えるが、安定して狙えるが為にだろう、リ級エリートの発砲間隔は定期的だ。それがブラフ(偽装)で、僕の失敗を誘っている可能性はあるが、タイミングさえ合わせれば一気に距離を詰めて、必中の間合いに入ることができるやもしれない。

 

 ──いや。僕は考え直した。間違いなくブラフだ。奴を侮ってはいけない。あの赤い目は、ただ輝いているだけのものではない。それは彼女が高い能力を持った戦闘員であることを、公正に証明しているのだ。そしてきっと彼女も、僕のことをそう思っている筈だ。あの男は噛み付く牙と、多少のことなら見て取れる目を持っている、と。だから彼女は、罠を仕掛けたのだ。

 

 見えている罠には、二つの対処がある。それを避けるか、飛び込むかだ。避ければ損はないが、得もない。飛び込めば、ハイリスク・ハイリターンの賭けになる。罠を食い破れればこちらの大儲け、しくじったらたった一つの命と体を差し出さなければならなくなる。ここで選ぶべきはどちらか? 僕は後者を取った。前者を取れば、艤装以外には無傷のリ級エリートと右腕のない僕との間で、どちらが先に弾を食らわせるかの競争になるのが見えていたからだ。で、その場合は、怪我のないリ級の方がずっと有利だった。僕は長門たちの到着前に左腕も吹き飛ばされるか、頭と体が泣き別れするか、腹に風穴が開いて文字通りに腹蔵ない艦娘になっていただろう。

 

 リ級エリートへの直線ルートを走る。彼女が「ここで決めよう」と考えるまでにどれだけ近づけるか、そして彼女が決意した瞬間を見極められるか、この二点が重要だった。まだ遠い内にリ級が発砲間隔をズラして来たら、それを読まれていたことへのショックから立ち直る時間を与えてしまう。真実の瞬間を正しく見ることができなければ、待っているのは深い海の底だ。彼我の距離と適切なタイミング、その両方の条件をクリアし、なおかつリ級エリートが死に物狂いで築くであろう防御を突破しなければならない。僕は持ち物を確認した。左腰のナイフ、半分ほど希釈修復材の残った水筒、サバイバル用品の入ったウェストポーチ。ポーチは役に立ちそうにないが、前二つは使える。

 

 発砲に合わせたジグザグ走行で砲撃を回避し続ける。敵はまだ決めに来ない。僕が彼女を狙い撃とうとして、回避直後に砲撃姿勢に入ったところを撃ち抜くつもりなのだろう。とするとその姿勢さえ取らなければ、彼女がこれはおかしいぞと感づくまで近づける訳だ。その推測を確かにする為に、反撃を試みるふりをする。リ級エリートは反応した。いいぞ、こちらの読み通りだ。敵から目を離さず、歯を食いしばって進む。接触まで十数秒の距離まで詰まった。そろそろ気づくだろう。僕は腰のナイフを抜き、しっかと握った。射撃で終わればそれでよし、僕も彼女も生き残ってしまったら、刃の出番だ。

 

 等間隔射撃が中断され、リ級エリートの構えが変わった。僕を狙いに来ている。すぐに水平移動で避けたくなるが、理性で抑えこむ。わざとらしすぎる。ここじゃない。違う。彼女の構えがもう一度変わる。砲口から彼女の艤装の中を見通せる気すらした。ここだ! 水面を蹴り、強引に斜め前に移動して、僕を殺す筈だった一発を外させる。それでも即座に次の、そのまた次の砲弾を放ったのはエリートの矜持だったのかもしれない。しかし冷静さを欠いた砲撃は容易に回避可能だ。再装填の隙、仕込みではない本物の隙を突いて、僕は斉射した。大半が外れ、見当違いの場所に落ち、水柱を立てるだけに終わる。一部は敵へと吸い込まれていく。リ級エリートは避けきれぬと悟り、素の右腕を盾にした。右胸と腕一本を失いつつ、彼女は僕の砲撃を生き残った。

 

 彼女の赤い目は復讐に燃えている。その目に向かってひた走る。艤装の口が開き、砲が僕を捉えようとする。僕のナイフが届く前に、一発は放たれるだろう。それを避ければ、リ級エリートには刃が突き立つ。だが、どうやってこの距離で避ける? 僕にはそこまでの腕がない。彼女の砲弾は僕に当たるだろう。このことについては、未来は確定しているのだ。なればこそ、僕には何をすればいいか直感的に理解できた。

 

 腹にこたえる重低音、金属と金属が激しくぶつかる甲高い悲鳴のような音、僕の視界が揺れ、体に痛みが走る。生きている。左腕も残っている。ナイフも握っている。だが僕の左腕部砲塔はもうダメだ。壊れて、煙を吐き出している。ル級の艤装みたく盾にするには、耐久力が足りないらしい。ともあれ、一発は防いでくれた。僕の突進を避けようともしなかったリ級の喉に、刃を刺し入れる。勢いのまま体当たりしてから、ナイフを彼女の喉から抜き、逆手に持ち替えて頭に突き刺す。リ級エリートの目が光を失うのを確認し、僕は彼女を海の底へと送ってやった。後片付けは魚にでも任せよう。

 

 フラッグシップの方を見る。気づかぬ間に長門たちが到着していたようで、第二艦隊の有力者たちからの全力攻撃を受けて沈んでいくところだった。受ける側からしてみれば数の暴力とは恐ろしいものだが、逆に自分たちが多数の側ならこれ以上に心強いことはない。僕はこれ以上の戦闘がないことを祈りながら、煙を吐き出す左腕部砲塔をパージした。何かの拍子に残弾が爆発したりして死ぬなんてことになったら、いい恥さらしだ。それに肩部砲塔は生きているので、最低限の戦闘能力は残っている。切り離しに問題はないだろう。

 

 血を失ったことで軽いめまいを起こしながら、僕は艦隊員のところに戻った。長門と天龍が話をしている。邪魔しては悪いので、僕は負傷した三人の駆逐艦娘のところに行った。既に面倒見のいい足柄が彼女の希釈修復材入り水筒を使って治療をしていたが、旗艦二人の話を聞く限り、天龍たちはこの後先に離脱させた輸送艦隊との合流を目指すらしい。同伴した二人の駆逐艦娘がどんな状態か知らないが、怪我をしている可能性だってある。しかし余程の大怪我でなければ、僕の持っている希釈修復材の量で間に合う筈だ。そういう訳で、僕は腰の水筒ごと駆逐艦娘の一人にそれを渡した。彼女は礼を言わなかった──正確には、言えなかったのだ。足柄の手当てによって塞がってはいたが、喉に傷跡があった。これでは発声は難しかろう。代わりに彼女は頭を下げてくれた。

 

浦風!」※53

 

 天龍が駆逐艦娘の一人を呼んだ。重傷を負った別の駆逐艦娘を支えている青髪の子だ。僕は彼女の代わりにその重傷者を引き受けた。片腕を失っても、それぐらいの力はある。天龍と浦風が話をしている間ぐらい、何ということはない。浦風は天龍の艦隊で二番艦を務めているようで、この後のことについて話し合っていた。

 

「合流? うちはそれには反対じゃね。ぶち(とても)ひどい怪我しとるのがうち入れてこがぁに(こんなに)えっとおる(沢山いる)んじゃけえ、はあ(いっそ)もう合流せん方がどっちにもえかろう(いいだろう)よ。まあそれでも言うんじゃったら、たちまち(とりあえず)、そうじゃねえ、うちと天龍さんの二人で行って、後はあれら(彼女たち)に(ここで浦風は長門たちを一瞥した)連れ帰ってもろうた方がえさげ(よさそう)じゃ思うわ。で、どうしんさるん(しなさるの)? 正直、うちも砲はめげとる(壊れてる)し腹に食ろうたのがひどうにがるしなけえ(ひどく痛むから)たいぎい(つらい)けど、天龍さんが行くならうちも行くけえね」

 

 うわあ、方言キツいな……僕は浦風の艦娘としての特性を思い出したが、ここまで濃い方言を使うとは思わなかった。同じ訓練所に黒潮や龍驤がいて、彼女たちが関西弁を操るのは見たことがあるが、あれはまだ聞いていて容易く何を言っているか了解できた。こっちはちょっと難しい。同じ艦隊に所属していなくてよかった、と思った。慣れるまで一々頭の中で標準語訳したりしていたら、とてもじゃないが連携なんてできそうにない。天龍は旗艦だけあってタイムラグなしに理解しているようだ。彼女には素直な一言を贈ろう。フフフ、凄い。

 

 戦闘の興奮が途切れたせいか、右腕の傷が痛み始めた。サバイバルパックには鎮痛剤も入っているが、僕は提督と違って薬物の使用には慎重になることにしているのだ。本当に必要な時まで、使わないと決めている。でもマジで痛いな。利根はこれを何度も体験しているのか。昨日までより、彼女のことをより深く知った気がする。同じ苦しみを味わうことは、誰かと仲良くなったり、理解を深めるのに有効なステップの一つなのだ。

 

 天龍は結局、浦風の出した折衷案を選んだ。長門たちも重傷の駆逐艦娘を引き受けることを拒否はしなかった。立派に旗艦をやっている天龍は疲れきった顔で長門に救援の礼を言い、後日正式に礼をする旨を告げて、僕の水筒を仲間から受け取った有能な二番艦と共に去っていった。その間際に、天龍は僕を見た。左手を振ってやると、頷きを返してくれたように見えた。いいね、あれだけでも右腕の痛みを忘れられる。

 

 長門は僕と川内に一人ずつ駆逐艦娘を担当するように命じた。文句はない。僕は右腕を失くし、左腕部の砲も捨てた。二、三度も敵弾の直撃を受けた艤装が動作しているのが何故か、明石さんでも説明できない筈だ。しかも多分、今は右腕の痛みで気づかないが、左腕も骨折かひびぐらい入っているだろう。戦闘能力は最低限だ。単独航行が不可能な艦娘の曳航を務めても、艦隊の戦闘力低下を招くことはない。一方、川内が戦線から離れるのは痛いが、彼女の担当艦娘は自走可能だ。帰還中に戦闘になっても、一人で退避できる。僕は自分が一人の命を預かっていることに責任と重圧を感じた。ただ一人の命ってだけじゃない。天龍の艦隊の艦娘なのだ。彼女が助からなければ、天龍は強気な顔の裏で、悲痛に胸を引き裂かれるだろう。同期をそのような苦しみと悲しみから遠ざけたいという願いは、全く当然のものだった。

 

 幸運にも、帰投中に交戦することはなかった。加賀の航空隊が少数の非人間型深海棲艦を発見したことはあったが、先制航空攻撃によって撃破することができたので、僕らの出番は一切なかったのである。研究所に戻ると、前もって長門が連絡していたお陰でスムーズに治療を受けられた。彼女は僕のことを嫌っているし、僕も彼女を好いてはいないが、長門が旗艦でいてくれて嬉しく思う。戦闘は人間の、艦娘の精神を変調させるものだ。高揚するかその逆になるかは艦娘次第であるが、常通りの平静を保てる者は少ない。僕なんて全然ダメだ。その点、長門は落ち着いている。きっと世界が滅ぶ日の前日の夜だって、彼女は変わらないだろう。いつも通りに出撃し、深海棲艦を血祭りに上げて、帰ってくるのだ。

 

 能力の高い者がより高い地位に立ち、権力を握っているということは、その組織の健全性を証明している。軍には是非、健康でいて貰いたかった。もちろん、軍高官が全員、申し分のない人格者で、戦術戦略に通じており、艦娘たちに気を使っていて、税金をきちんと納め、選挙には必ず行く──そういった人間であってくれと言っている訳ではない。むしろ、人格が破綻していてもいい。脱税? まあよかろう。投票棄権? うーん、個人の選択だ。現場の人間や艦娘が、上に願うことは一つだけ。彼ら彼女らが、その地位に見合った才腕を有していることだ。僕は潔白な無能より、悪徳の見本みたいな才人を上官として戴きたい。別に提督の話をしている訳じゃないぞ。よりよい上司とはどういうものかの話だ。

 

 ドックでの治療によって、僕の腕は元通りになった。生えてから少しの間は違和感があったけれども、神経含め、腕が正常に復元されたことを確かめる為の感覚チェックであれこれしている間に、それも消えた。僕らが護送した駆逐艦娘たちの治療にはもうちょっと苦労した。怪我した直後に止血できた僕と違って、彼女らには大量の輸血も必要だったからだ。希釈修復材での応急処置以前に彼女たちが自分でどうにかしようとしなかったのではない。彼女らは彼女らに配給された個人用治療キットで、できることはやっていた。けれどそのできたことというのは、精々が傷口にゲル状止血剤を塗りこむぐらいで、それだって発砲の衝撃や至近弾の水飛沫で流されたり、無駄になってしまったりだったのだ。やはり、この希釈修復材は一刻も早く正式に配備されるべきだろう。

 

 まあ、艦娘というのは大体が強靭な生命力を持っている。死にさえしなければどんな傷からも復活できると言われるほどだ。これはやや誇張されたところのある言葉であり、正確な表現ではないが、それほどしぶといのだということを誰かに伝えるにはいいと思う。負傷者はやがて全快し、心が折れていなければ戦線に復帰するだろう。

 

 治療やその他の報告などが終わると、夕方になっていた。僕は広報部隊以来の習慣として隼鷹と食事を取った。ああ、それに響も一緒だった。最近は響がグループに加わるようになり、僕としては嬉しい限りだ。響からの繋がりで時折不知火先輩とも話をできるしな。彼女と話をしていると隼鷹を置いてけぼりにしてしまうことさえあるが、この飲んだくれの美女はそれを笑って許してくれるので、つい僕らはそれに甘えてしまう。「負傷したんだって?」席についてすぐ、ドレッシングの掛かったグリーンサラダを食べながら、隼鷹は僕にそう尋ねた。僕は「耳が早いな」と答えた。友達には心配を掛けたくない僕としては、嬉しくないことだった。「右腕をね。ここからなくなったよ」指で、さっきまで傷口だったところを叩く。「うへえ」隼鷹は顔を歪めて彼女が感じているものを示した。空母であり、他の艦娘たちより安全な位置取りのできる彼女は、まだ欠損レベルの負傷をしたことがない。これから先ずっとそうであればいいが、戦争が終わりそうにないところを見るとその願いは叶うまい。

 

 戦争の終わり、か。そんなものが来るのだろうか? それともこの先人類は、永遠に深海棲艦と戦い続けるのだろうか。奴らの本拠地は掴めていない。地上に彼女たちが作った泊地を攻撃することはある。僕はまだ参加したことがないが、確か北上と利根は大規模作戦に従事していた筈だ。利根が手紙で、敵の占領地帯の泊地を更地にしてやったわと自慢気に書いていたことを覚えている。で、北上は支援艦隊だったか、主力が出払って手薄になっている鎮守府の防衛担当だったかで、楽ができると踏んでいたら深海棲艦の別働隊とやりあう破目になったと言ってたな。それでもきっちり生き残ってくれてよかった。彼女にもう会えない、手紙のやり取りもできないとなったら、僕は立ち直れそうにない。北上だけじゃなくて、利根についてもだ。

 

 安心できるのは那珂ちゃんと青葉などの、前線に出ることの少ない友達だけだろう。那珂ちゃんは本人の希望もあって、時々は前線に出ているらしいが、ほとんどの時間を内地で青葉と共に広報活動(ライブ)などして過ごしていると聞く。何度か休暇を取ってライブに参加しようとしたものの、あの捻くれ者の提督から休暇を勝ち取るより、ライブのチケットを手に入れる方が難しいことを悟らされただけだった。だが僕は負けない。いつか、インディーズ時代からの那珂ちゃんのファンとして、恥じるところなくライブに参加するのだ。それまではCDを買い、布教し、ライブ映像でコールの練習をして過ごしておく。那珂ちゃんがファンのみんなの為に全力で打ち込んでくれる以上、ファンとしてもそれに見合うだけの力を込めて応援するのが礼儀だからだ。このスタンスを誰かに押しつけるつもりは毛頭ないが、僕個人としてはそう考えている。

 

 それにしても、那珂ちゃんのスケジュールは大丈夫なのだろうか。過労で倒れたりすることのないように祈ろう。青葉がいるから大丈夫だとは思うが……彼女は記者であるだけあって、洞察力が高い。プロが陥りがちな誤った考えから那珂ちゃんが疲労を隠そうとしても、見破ってくれるだろう。

 

 あ、そうだ、青葉と言えば今日は青葉の新聞が届く日だ。不定期に発行される新聞だが、僕は彼女と友人関係にある為、いつ発行される予定かぐらいは教えて貰えるのだ。中身までは言ってくれないだろうが、僕だってそんな無粋なことをする気はない。楽しみにわくわくしながら待つのもいいものだ。彼女の新聞は創刊号からずっとファイリングしているが、記事は公正な視点から丁寧に書かれており、かつユーモア十分で何度読み返しても飽きるということがない。彼女の知己による作品ではあるが、ご丁寧に連載小説と四コマ漫画まで載っていて、これらもまた面白い。こんなに面白いものがどうして規制されてないのか僕には分からないが、実は密かに上層部に彼女のファンがいるか、そうでなければ青葉がお偉いさんの秘密をすっぱ抜いて脅しでもしているんだろう。

 

 隼鷹と響もこの新聞が好きで、僕の部屋に遊びに来るとよくバックナンバーを読んでいる。響に至ってはこの前、投書をしていた。感謝の一筆と粗品が届いたそうだ。僕もやってみようかと思うが、響のハガキを見て諦めた。芸の限りを尽くしてあって、とてもこれには勝てないなと思えたのだ。青葉は記者としては厳しいから、友情に免じてということもないだろう。

 

 新聞のことを話に出して二人を誘うと、彼女たちは快く受け入れてくれた。女の子が! 二人も! 僕の部屋に! なんて思うんだろうな、僕以外の十六歳の男の子だったら。生憎と僕はこの状況に慣れてしまって、昔ほど特別なものを感じられないようになってしまっていた。これではもし奇蹟が起こって戦争が終わっても、社会復帰の上で著しく大きな困難を抱えることになりそうだ。「そういえば」響が僕を見ながら言った。その手には透明な液体、つまり水の入ったグラスが握られている。「ケッコンカッコカリってあるじゃないか」「あるね」「男性艦娘としてはどうなんだい?」「お、あたしもそれ聞きたいなあ」困った質問だ。

 

 ケッコンカッコカリとは、艦娘の体に備えられているという、リミッターを解除する行為の艦娘間での俗称である。改造が艤装に行われる強化である一方、こちらは艦娘そのものを強化する訳だ。リミッター解除による恩恵は多岐に渡り、また改造よりも大きく、同じ艦娘でもケッコン前と後では戦闘力は桁違いになる。この研究所でも何人かは済ませているらしい。俗称の由来は、記念品として軍から艦娘に贈られる指輪にある。これには象徴的な意味しかないが、失くすと有償なので出撃時に身につける艦娘は多くないという。

 

 僕は隼鷹と響の顔を見た。楽しそうだ。こんな話の何が楽しいんだ? 女の子のことは分からない。彼女たちは天気みたいなものだ──期待はできる。予測もできる。素晴らしい時は、素晴らしい。そして、何がどうあれ、受け入れるしかない……さて、どうなんだと言われてもな。僕は十六になったばかりで、結婚を考える年ではない。ケッコンについても、それを行う条件がある。それは高い練度を持つことであり、ケッコンを行う前にはその練度を証明する試験を受けなければならない。僕は自分がその段階に達していると思わない。結論「どうでもいい」だ。響はこの答えを聞くと「どうやらロシア語とロシア精神を学びすぎたようだ」としたり顔で言った。僕は微笑んで言い返した。

 

「ああ、君はいい教師だったよ」

「『(ТЫ)※54だって? 私とあなた(ВЫ)はいつからそんなに親しくなったのかな?」

「言葉じゃ人が傷つかないと思ってるなら、大間違いだぞ……Ну-ка, давайте(そんじゃ、『君』の間柄に) перейдём на “ты”(なろうじゃないか、), окей(どうだい)?」

Ну что ж, давайте.(いいとも、なろう)

 

 隼鷹のスキットルを借り、僕らは互いに互いのグラスへと飲み物を注ぎあった。そして向かい合い、グラスを持った腕を組み合わせ、そのまま飲み干した。※55 僕はその後当然来るべきものを待ち望んだ。頬か唇へのキスである。しかし願いは裏切られ、響はそのまま引き下がってしまった。何だか期待していた自分がおかしくなって、僕は真面目くさった顔を作って言った。「君がしないなら、こっちからキスしても怒るまいね?」「やってみなよ、鼻に噛み付いてやるから」「なるほど、やっぱりキスには鼻が邪魔になるらしいな」※56 僕らは笑い合い、隼鷹から少しずつ二杯目を貰った。

 

 食べ終わって僕の部屋に移動中、今度は隼鷹がケッコンの話を蒸し返した。僕はいとも尊敬するべき女性の方々が、どうして本物の結婚でもないこれにそこまでこだわれるのかほとほと不可解であるとコメントした上で、この話し好きの軽空母に一つのことを思い出させてやった。艦娘たちから見て、ケッコンカッコカリが誰との間に結ばれるものであるか、ということをだ。「お遊びでもあの提督と結婚したいか?」「分かってないねえ、ああいうタイプは情が深いんだよ。いずれそれに気づく奴が出てくるさ」情が深い? あの提督が? 事実と違い、真実とは視点によって異なるものだが、これには異論を挟みたくなる。僕は挑戦的な態度に出た。

 

「いいだろう、僕が退役するまでに彼女が男と結婚してたら給料二ヶ月分だ」

「乗った。あたしは秘蔵のボトル二本な。響は?」

 

 彼女は薄い水色の髪をかき上げ、勝利を確信している静謐な美しさをたたえた目で僕を見て言った。「男性を差別するつもりはないけれど、私としては君の目は節穴か何かだと言わざるを得ないね。私もボトル二本だ」ふむふむ、つまり僕は退役時には四本のボトルを手にすることになるのか。こりゃあいいね、生き残る気力が湧いてきた。

 

 郵便受けには望み通りに新聞が入っていた。床に広げ、三人で読んでいく。今日のもこれまでと同じように楽しい記事だ。各戦線の状況、あちこちの艦隊に所属する艦娘たちの生の声、国民からの応援メッセージといった読者の戦意を高揚させる為のものから、歴史の影に潜んでいるという不死の艦娘の有名な伝説を題材にした、面白いが下らないゴシップ、そして主に外地勤務の艦娘たちの為に書かれた、内地ではどんなことが起こっているかという記事まで、僕らは一つ一つ字を追って読んだ。那珂ちゃんがヒットを飛ばして以来の恒例となった、那珂ちゃん担当のミニコラムもだ。アイドルとして一線に立ち続けようとする精神の表れなのだろう、彼女の頭のよさが読み取れる内容であり、誰からも共感を得られる一方で、反感を持たれたり、誤解を招いたりすることがほぼ不可能なものだった。単語のどれを取ってみても、そのニュアンスにまでしっかり気を使ってある。那珂ちゃんの一面だけを見て、彼女の頭を空っぽだと思っている連中もいるが、そいつらに人並みの頭があれば、このコラムを読むだけで考えを改めるだろう。

 

 一時間を掛けてじっくりと新聞を楽しんだ後、ふと僕は一つの記述に目を奪われた。それは今回の号にのみあったものではなく、前から一字一句変わらず記載されていたものだった。青葉による、読者への呼びかけのメッセージだ。何か面白そうな出来事や、噂、とにかくこの新聞に載せられそうなネタがあれば是非連絡してくれ、とそこには書いてあった。それを見て、赤城に言われたことを僕は思い出した。知るべきではないかもしれないことを探るには誰に頼めばいいか、彼女は僕に示唆していた。青葉……だが、彼女の身を危険に晒してまで僕は融和派たちの言う通りにするべきなのか? 考えるまでもない。

 

 僕は戦争中であることを残念に思った。平時なら、彼女らはいい作家になれただろう。融和派が深海棲艦にも存在するだと? とんでもなく尋常じゃない発想力だ。人間を殺す為に生まれたような連中が、どうして人間と仲良く手でも繋いで生きていこうという気になると言うんだ? 蛙がハエに同情するか? 猫が小鳥と語らうか? そんなことはあり得そうにもないことだ……起こったとしたら、その時にはきっと、僕らと深海棲艦たちは抱き合ってお互いを許し合い、キスをして同じベッドに入るだろう。きっとその日には畜産家たちは彼らの牛と愛情によって結ばれ、地と海とに住まう人々は至福の千年王国の到来を言祝ぐだろう。時間の概念はねじくれて、明日は今になり、昨日は五分後になる。地獄には冬が来て、死んだ人間が起き上がり、雨は空じゃなくて大地から降り注ぐだろう。

 

 そうだ、考えるまでもないことだった──いいや、正確に言うなら考えてはいけないことだった。僕は世界を救いたいのでもないし、真実や事実を知りたいのでもない。僕は生きていたい、そしてその上で、よりよく生きられるというならそうしたいだけだ。真実? そんなものは僕には扱えない。そういうのは、提督とか武蔵とか、その他の後ろ暗そうな連中がもてあそぶものだ。僕はそういう人々から距離を取って、彼ら彼女らが僕に見せたいと思うものを見ていたい。そうしている限り、僕は安全だ。欺かれているが、安全なのだ。事実や真実こそ遠ざけるべきなのだ。それは僕のような小人物を焼き尽くす激しい炎に他ならない。火遊びは厳禁だ。そう分かっているのだ。頭では。

 

 それでも僕は考えることをやめなかった。気にし続けていた。海で溺れた時、僕を助けてくれたのは誰だったのか? 深海棲艦じゃない。彼女らは僕を助けない。人間を助けることはない。あれは艦娘だった。そうでなくてはいけないのだ。信じなくてはいけない。証拠を探してはいけない。響は言ったものだ、ある種の事柄においては、信じる為には証拠なんていらない、と。これは宗教的信仰についての話じゃない、過去に実際に起こった出来事についての僕の見解や、考えに過ぎない。だから響の言葉がそのまま適用できる問題ではない。だが、信じるという行為のあり方の問題であると捉えるならば、響のやり方を当てはめることもできるだろう。科学が、現実が、事実が、証拠がそれを否定するか、決して積極的には肯定しないという立場を取ってもなおまだその信ずるところを疑わず、ひたすらに「主よ、汝の言葉は正しかりき!」と叫ぶ人々のやり方だ。

 

 それを狂信と呼ぶのは容易い。けれど、彼らは実際に尊いのだ。何となれば、彼らはその従うところのものが正しいかどうかに左右されず、自分が歩むべき道をこれと決めているからである。その道の半ばで彼もしくは彼女が善悪のどちらを為すか、それは違う問題だ。信じ続けるということは尊いのだ。人間が理性の奴隷ではないことを、たゆまぬ信仰だけが証し、それが余りに、僕にはできないほど、困難であるが故に。

 

 二人と僕は今回の新聞と、次いでその他の由無し事について話し合った。戦争の趨勢、僕らが生きたままか棺に入って退役するまでに掛かる期間を算出する為の数学的公式、そんなことが主な話題だった。どんなものでも科学ならば数式で表せるのだと響は言った。信仰の徒たる彼女の口からそのような言葉が出てくるとは意外だったが、発言の真偽はともかくとして、その金言は一定の説得力を持っており、僕も隼鷹も反駁の言葉など思いつかなかった。彼女は僕の筆記用具を使ってメモ帳に何かの式を書いた。「いいかい、退役をイベントとするなら、その発生までに掛かる期間は種々のサンプルを生存関数S(t) = Pr (T >t) =∫[x,∞]f(t)dtや他の公式に当てはめて、その結果を推定・比較することによって導ける筈なんだ」と小さな哲学者は言ったが、僕には彼女が日本語を話しているのかさえ自信が持てなかった。響が本物の信仰者でなければ、大仰に胸の前で十字を切って、願わくは御名を崇めさせたまえとお祈りを始めていただろう。

 

 

 隼鷹は数学的素養に恵まれていたのか、それとも高校卒業後にでも艦娘に志願したのか、響の言っていることの幾らかは理解しているようだった。僕は自分が馬鹿だと言われたような気持ちになったが、図星を指されて怒るほどの馬鹿ではなかった。しかし分からぬ話を聞き続けるのもひどい苦痛である。そこで、僕は席を外すことにした。盛り上がっているところに水を差す無粋を避けつつ、苦しみを逃れる妙案だと思えたのだ。これはその通りだったろう、部屋を出た後に何処に行くか当てがあったなら、だが。残念なことに、僕にはそれがなかったのだ。工廠に足を向けて、夕張が嫌がるだろうと思い直す。食堂に行きかけて、そこで何をするのかと考えてやめる。本の一冊でも持ってくればよかった。外出許可はないので研究所内から出る訳にもいかない。後は何があるかな、と悩みながら研究所の通路の壁に掛けられた案内図を見る。と、その中の一つの表示に目が留まった。『資料室』とそこには書いてあった。少年の心をわくわくさせる響きだ。よし、ここに行ってみようじゃないか。


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