[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「第二艦隊」-3

 足を運び、資料室に繋がるドアを見つけ出す。開くと人二人分ぐらいの小部屋に、また扉。指紋認証錠付きだ。そうだよなあ、と思いながらダメ元で指を押し付けてみる。驚いたことに認証された。どうやら、研究所所属の者なら入れるらしい。電子錠の情報モニターに表示された僕のクリアランスは最低レベルだったが、それでも棚から牡丹餅(ぼたもち)という気分だ。思ってもみなかった幸運に、僕は微笑みと言うには少々怪しげなニヤニヤ笑いを浮かべながら入室した。資料室には何台かの端末と印刷機が設置されていただけだった。今日日(きょうび)は何でもデータ化の時代という訳だ。場所を取らないし、紙資源の節約にもなる。端末を詳しく見てみる。それにも指紋認証錠が付いていた。クリアランスでアクセス可能な情報に制限を掛ける為だろう。一つ起動してみると、資料データベースの検索画面が自動的に出てきた。サーチボックスは放っておいて『登録されたタグ』という項目に進む。数秒固まった後、山ほど出てきた。けれど九割九分が面白くもなさそうな報告書や陳情関連のタグで、僕をがっかりさせてくれた。まあ、機密指定もされていないようなものだ。仕方ないか。端末を操作し、戦闘関連の報告書を探してみるが、ヒットしない。データがそもそも存在しないとは考えにくいから、僕のクリアランスでは見せられないのだろう。

 

 別のことを調べてみよう。提督のデータなんかありはしないだろうか? 僕は彼女の名前を打ち込んでみようとして、僕が自分の権限を使って彼女の身元を調べようとしたことが、提督にバレることはないかと考えた。何度シミュレーションしてみても、提督は何処からか僕が探りを入れたことに気づいて、想像するだけで今晩の悪夢を約束してくれるような残酷な罰を与えようとするのだった。うん、彼女には触らないでおこう。それが賢明だ。では何をするか……研究所の艦隊員たちについてならいいだろう。サーチボックスにキーワードを入れ、検索してみる。おう、出てきたぞ。僕は何人分かの個人データを見てみることにした。まずは吹雪秘書艦を見てみよう。彼女はやはり最古参のようだ。その戦果も凄まじい。何度も引き抜きを打診されているが、その度に断っているようである。提督にそこまでの思い入れがあるのか、それともそれ以外の理由があるのか。気にはなるが、興味本位でほじくり返すべき点ではあるまい。

 

 第一艦隊所属の艦娘たちのデータもあった。その中に二人の見知らぬ名前を見つけ、疑問に思って開いてみる。そして僕は後悔した。彼女たちは任務の最中、揃って戦死したのだ。僕と隼鷹の着任よりもかなり前のことだったが、自分の前任が戦死していたということは、後任である僕の気分をよくさせはしなかった。それにこの二人は僕の友達じゃなくても、伊勢や日向、響や吹雪秘書艦の友達だったのだ。二人を失った彼女たちの苦しみのことを思うと、僕の胸まで締め付けられるように痛んだ。そして僕がその苦しみをまだ知らないことを幸いに思った。同じ訓練所を出た同期で、一度も話したことのない艦娘になら、戦死者はいる。あの岩礁で隼鷹と話した時には二人ほどだったが、今ではその数は五倍以上に増えていた。けれど僕は自分と関わりの一切なかった子たちの死にまで心を痛めていられるほど、感じやすくなかったのだ。

 

 艦隊員のデータを見るのもやめよう。もっと、何か別のこと……配属記録はどうだ? 僕は自分がそれを今になって思いついたことに驚いた。データベースを調べ、鎮守府・基地・泊地を瀬戸内海に近いところからピックアップし、かつて僕が子供で、溺れた頃にそこに勤務していた艦娘のリストを作る。処理に時間が掛かったが、リスト化自体はそう手間にはならなかった。何かに使うこともないからなのか、最低限の情報しかなく、艦種、艦娘としての名前、それから顔写真程度しかなかった。作ったリストを印刷し、資料室に備えてあったファイルに突っ込む。大きく膨らんだが、どうにか入りきった。

 

 時間を確かめる。ふむ、もうそろそろ響たちも我に返って、自分の部屋にでも戻った頃だろう。ここでリストを調べるよりも、部屋で見る方がゆっくりできる。僕は端末の電源を落とし、印刷物を持って資料室を後にした。部屋に帰ると既に無人になっており、響が使っていた僕のノートには、僕のこれまでの人生で見てきた全部の数式を合わせたよりも長い、禍々しささえ感じさせる艦娘の戦死時期算出用公式が残してあった。僕はこの式の存在、艦娘にとっての死そのものを数学的に表した記述を憎み恐れる気持ちから、このノートをすっかり切り刻み、焼き捨てたい衝動に駆られた※57が、ページを切り取って隠すだけにしておいた。やれやれ、響と隼鷹はとんでもない置き土産をしてくれたものだ。

 

 部屋に鍵を掛け、印刷物を持ってベッドに寝転がる。いつもの寝る時間までにはまだまだ余裕がある。僕は僕を助けてくれた艦娘の顔を探して、プリントアウトした記録を調べ続けた。暇潰しにはいいだろうと思っていたが、実際には大変な作業だった。何しろ、別に楽しくもないことだ。あっという間に眠気に襲われてしまう。でも、僕はこれをやらなければならなかった。久しぶりに、ちゃんと僕を助けてくれたあの艦娘の姿を見たかったのだ。そうすれば、僕は融和派たちの掛けた呪いから解放されるという確信があった。あの温かみや感触はしっかりと覚えているし、どんな顔だったかも大体は覚えている。ああ……大体、だ。自分自身は騙せない。白状すると、前ほど鮮明に思い出せなくなった。けど写真を見れば、この人だ、と分かるだろう。

 

 全体の四分の一まで目を通したところで、僕は眠ってしまった。そのせいか、また夢を見た。これまでとは違う感じの夢だった。僕は海上に立っていたが、艤装もつけていないというのに、沈んでいなかった。ただ、囲まれていた。艦娘たちにだ。金剛、赤城、祥鳳、高雄、最上、木曾、叢雲、時雨、伊一九、その他にもいる。沢山、大勢、水平線が見えないほどいる。知っている艦娘もいれば、見たこともない艦娘もいた。きっと、世界中の艦娘が僕を見ていた。不穏なものを感じながら、僕は彼女たちの目を見つめ返した。そこには羨望が見えた。一番近くにいた金剛に、僕は尋ねようとした。これが何なのか、夢に答えさせられるものなら、答えて欲しかったのだ。でもその前に悲鳴が上がった。それは隼鷹の、響の、利根の、北上の、長門の断末魔だった。深海棲艦が襲ってきたのだ。僕は逃げようとした。取り囲んでいた艦娘たちを押しのけて、近づいてくる死に際の声と言葉から離れようとした。それなのに、声は段々と大きくなっていく。どれだけ急いでもダメだ、追いつかれる。服が誰かに掴まれた。

 

 僕は恐怖に引きつった声を上げ──叫びながら、目を覚ました。目を覚ましたんだ。だから、聞こえたのは夢じゃなかった。

 

「トラエテ……イルワ……」

 

 確かに、夢から覚めた直後には脳が半覚醒状態にあって、現実と虚構が交じり合うことがあるという。でも僕は断言する。今の声は夢じゃなかった。あの頭に直接響くような声は、深海棲艦に特有のものだ。岩礁でル級が僕に呼びかけた時も、港湾棲姫が僕を殺そうとした時も、耳ではなく頭の中に響くかのようだった。ル級の声など、僕の頭を揺らしまでしたのだ。

 

 どうしたらいいのか分からなかった。僕の心臓は激しく鼓動していた。こういう時には、普段の習慣に従うものだ。そうすれば、平常時の落ち着きを取り戻すことができる。そこで僕は、起きた時にいつもやっているように、部屋の時計を見た。朝は朝だが、いつも僕が起きる時間よりかなり早かった。よろける足で、毒づきながらベッドを出て、今日の予定を確認する。運の悪いことに、今日は出撃任務の入っていない休日だった。正式には待機任務だけれども、外出許可が取れれば外にだって出られるのだ。休日と言って差し支えなかった。しかし、やることがないということは、やるべきことで頭を一杯にして、考えたくないことを心から追いだしてしまうという手が使えないことを意味している。実に不都合だった。

 

 そこで僕は昨晩寝る前にやっていたことを思い出した。その続きをすることに決め、リストのチェックを再開する。眠気は起こらなかったが、狙い通り僕は時間と恐怖、それからあの声が聞こえたことにどう対処すればいいのか、という不安を心の隅に追いやることができた。

 

 突然、ノック音が聞こえてびくりとする。音に過敏になっているようだ。ドアのところまで行き、覗き穴から誰が来たのか見てみる。隼鷹か響だろうな、と思っていたが、意外にも日向だった。僕は急いでドアを開けた。隼鷹とは友達だ。響とも君と僕の間柄になった。そして日向とだって、一緒に陸軍を殴った仲だ。けど、彼女が訪ねてくるのは初めてだった。いや、前に僕と隼鷹を歓迎会に招いてくれた時以来初めてだった、と言うべきか。僕はなるべく内心の動揺を隠すようにしながら言った。「何かあったのか?」すると彼女は眉をひそめて質問を返した。「時間を見てないのか?」言われて、壁の時計を見てみる。夕食の時間をとっくに過ぎていた。食堂はもう閉まっている。おいしい食事はお預けということだ。自分の迂闊さに腹を立てつつも、人間の集中力は未来へのタイムマシンみたいだな、と僕は感心した。飢餓感もなかったので、こんなに時間が経っていたとは気付かなかったのだ。時間のことを認識した今ようやく、僕は自分が空腹らしいということを知ったぐらいだった。

 

「出撃前に食堂で昼を済ませた時もいなかったから、隼鷹たちも気にかけていたぞ。外出許可も取っていないようだし、腹に何も入れていないだろう? これでも食べておけ」

 

 日向はにこりともせずに、持っていた布袋を僕に渡した。目の粗い布を通して、中に入っている丸いものの温かさが伝わってきた。これがおにぎりじゃなかったら、僕は今の仕事をやめて艦娘寮の玄関マットか何かにでも転職しよう。普段無口で無愛想な先輩にして同僚の気遣いに、僕はじんと来るものを感じた。「それじゃ」と彼女が行こうとするのを、慌てて引き止める。何かして貰ってばかりというのは嫌いなのだ。一を受けたらせめて一を、できることなら二を返したい。残念ながら、一に対して二を返すとあっちが負担に思ってしまうかもしれないので、基本的には受けたのと同じだけのお返しをするしかないが。とにかく、お茶の一杯でも飲んでいって貰わないといけない。艦娘なんてやってたばっかりに、今日が人生最後の夜になるかもしれないのだ。僕に最期の時が訪れた際、そういえば日向に返礼もしていなかったなとか、貰い物だけどいい茶葉があったのになとか思いながら沈んでいきたくはない。

 

 嬉しいことに、僕の頼みを彼女は断らないでくれた。二度までは遠慮しようとしたが、僕がどうしてもと頼んだら「喉も乾いてきたところだ、丁度いいか」と言って受け入れてくれたのである。無理させたような気もしたが、本当に嫌なら日向ははっきりと言うだろう。彼女は社交辞令を使うべき時と、そうではない時をきっちり区別している。そして戦友と話す場合は、彼女の中で「そうではない時」に該当するのだ。従って、彼女が僕や他の誰かに「今度、一緒に飲みに行こう」と言う時、その「今度」は必ずいつか来る「今度」だ。日向は相手が断らない限り、休みがいつになるかを調べて「この日なら空いているが、どうだ?」と打診してくるだろう。また、休みの日に私服で出かけようとしたところを見られたとする。その服が壊滅的なセンスの下にコーディネイトされたものだったなら、日向は決して「悪くないな」なんて言わない。ちょっとだけ見て、それから目をそらすだろう。彼女はそういう性格だ。

 

 部屋に招き入れ、椅子に腰を下ろして貰う。テーブルの上を急いで片付けなければならなかったが、元々大したものは置いていない。給湯ポットから茶葉を入れた急須にお湯を入れ、三十秒待ってから湯のみに注ぎ、持っていく。ポットや急須、湯のみは私物で、戦艦ほど沢山の給料を貰っていないので安物なのが恥ずかしかった。日向は口の端を緩めて湯のみを受け取った。僕も自分の湯のみを用意し、そこに注ぎ残しを入れる。香りを含んだ湯気が立ち上り、鼻を楽しませてくれる。茶の色を見ていた日向が言った。

 

「ほうじ茶か」

「カフェインの量が少ないから、今から飲むならこれがいいと思ってね」

 

 見栄を張ってそう言っておく。実のところ、そもそも僕はお茶っ葉をこれしか持っていないのだ。しかも自分で買ったのではなく、親が一人暮らしの学生を心配するように送ってくれたダンボール一杯分の種々の物資に入っていたものだった。両親には常日頃から感謝しているが、このことについては特に頭を下げておかなくてはいけないだろう。父母のお陰で僕は日向をもてなすことができたのである。いつか、もしかしたら紅茶党の誰かをもてなす日もあるかもしれないし、次の給料でその手のものを揃えておいてもいいかもしれない。

 

 日向から受け取った布袋から、中身を取り出す。ああよかった、僕は玄関マットにならなくともいいようだ。ちょっと惜しい気もするが、まだその境地に至るには十六という年は若すぎるだろう。アルミホイルに包まれたおにぎりが四つ、大きめに握ってあった。へえ、面白いな、と考える。僕の母はアルミホイルではなく、ラップで包んでいた。アルミホイルよりも見栄えがいいから、と彼女は言っていた。三色おにぎりなんかを作った時には、母の言葉の正しさは子供心にももっともらしく受け入れられた。加えて、父によれば、もう亡くなった母方の祖母はアルミホイル派だったそうで、その無骨な感じを少女時代の母はとても嫌っていたらしい。でもこうしてホイルのおにぎりを見てみると、僕には母の感じた嫌悪よりも何やら奇妙な期待感を覚えた。

 

 早速一つ開けて、食べてみる。おいしい。世間の人々は「空腹は最高の調味料だ」などと、知ったようなことを心底うんざりするほど言っているが、これが満漢全席を食べ終えた直後だったとしたって、僕はこのおにぎりを突っ返しはしなかっただろう。あっという間に一つ平らげてしまった。日向はそれを見て「喉を詰まらせるなよ」と言ったきり、後は素知らぬ顔でお茶を飲んでいる。次へ次へと行きたいが、彼女のアドバイスに従おう。一つ目は味わう暇もありはしなかった。それは作ってくれた相手に失礼なことだ。ところで、これは日向が作ったのだろうか? 何の気なしに訊ねると彼女は、どうしてそんなことを聞くのか分からない、という顔で「まあ、そうなるな」と言った。祖母の話のことを考えて、「お祖母ちゃんっ子だった?」などと言いたくなるが、黙っておく。プライベートな話をするには、僕と彼女の間には距離があった。考えなしに喋るのは僕の悪癖だが、それにしても越えたらマズいラインの見分け程度、つくというものだ。

 

 二つ目は落ち着いて食べたので、中に具が入っていたのも分かった。ゆっくり噛んで味わい、飲み込んで、時々お茶を口に入れてさっぱりとさせる。二つ目の半分ほど食べたところで、日向がベッドの上に散らばっていたリストに気付いた。「あれは?」僕は答えに窮した。融和派のことを教える訳にはいかない。僕の過去のこともだ。何故なら、融和派の言うことを信じるんじゃあないけれども、彼らの多くはかつて溺れた経験があると言っていた。そこを深海棲艦に助けられたと。なら、もし僕も溺れたことがあると、そして誰に助けられたのかはっきりしないと知られたら、どうなる? 日向はもしかしたら、融和派が溺死同好会の集まりだと知らないかもしれないが、知っていたら? 彼女がそれを提督や、僕の知らない誰かに伝えたら? 日向は戦場では信頼できる。僕は彼女の背中よりも頼りになり、安心感を与えてくれるものを、ほとんど挙げられない。厳しいが、優しさもある。第一艦隊の誰か一人と困難な任務に赴くよう言われたら、僕は隼鷹や響でなく、日向を選ぶだろう。友情で生き延びることはできないからだ。あ、吹雪秘書艦でも何とかなる気がする。彼女だったら僕を置いて出撃して、一人で全部片付けて帰って来るんじゃないかな。

 

 が、それらの信頼は全て戦場でのものだ。そこから退き、日常生活を舞台にした時、日向は戦場でのそれと同程度の信頼ができる相手か? 食事まで持ってきてくれた相手にひどいことを考えているのは分かっている。でも、失敗できないのだ。これはゲームじゃない。しくじったら、人生の終わりを見ることになる。折角、この前は助かったと思ったのにだ。僕が答えないのを見て、日向は彼女の推測を口にした。それが僕を救ってくれた。

 

「この前、遠征か何かに行っていたな。それ関連か?」

「ああ、それ関連だよ。それよりこのおにぎりの具、これも日向が作ったのか?」

 

 話題逸らしが露骨すぎるきらいもあるが、仕方ない。

 

「そうだ。うまいか?」

「とってもね。料理が得意らしいな」

「昔取った杵柄さ。たまに食堂の手伝いもやっているから、腕に錆はない」

 

 食堂の手伝いを? それは凄いな。とすると、僕は知らずに日向の手料理を食べていたかもしれないのか。胸が熱くなるな。これからは欠かさず食堂でご飯を食べようという気持ちにさせられる。「僕も料理を始めてみようかな」と呟くと、日向は軽く頷いて言った。「趣味を持つのはいいことだ」その意見には賛成だ。艦娘になるまでは、将来提督になるつもりだった僕は趣味を持つ余裕がなかった。勉強、鍛錬、その二つが人生の大半を占有していたのだ。艦娘になるとその二つの内、一つからは解放された。けれど、趣味の始め方を知らずに成長した僕は、訓練所と広報部隊で覚えた酒を除いて、それらしい趣味を見つけることができなかった。料理か……趣味と実益を兼ねられて、いいんじゃないか? 僕は興味を持ち始めていた。

 

「始めたとして、上手に作れるようになったら、きっと日向に夕食をご馳走しよう」

「楽しみにしているよ。さて、そろそろ行くとするか。お茶をありがとう」

 

 これが隼鷹ならどういたしまして、と言って放っておくが、今日のお客は彼女じゃない。僕は食べかけのおにぎりを置いて、彼女を戸口まで送った。数歩の距離だが、果たすべき礼儀だ。部屋を出たところで日向は振り返って、「じゃあ、お休み」と言った。僕は頷いて、また明日、と返した。本当に明日会えるかは分からないが、この言葉に込められた意味はそれだけじゃない。また明日、相手に会いたいと思っていることをも伝えているのだ。会いたくもない奴にまた明日とは言わないだろう?

 

 部屋の中に戻り、日向の作ってくれたおにぎりの残りを食べた。持ってきてくれた時と比べると冷めてしまっていたが、それでもやっぱり、おいしかった。食べ終えて、リストの続きに取り掛かる。気づきもせずに一日中やっていただけあって、かなり減っていた。これなら、今日中には無理でも明日、出撃から帰って来た後には片付くだろう。

 

 出撃という言葉で考え込んでしまう。僕の所属している研究所は、艦娘を用いた対深海棲艦用の新戦術を実験する為に設立されたものだと聞いているのだが、今日までにそんなことをやった覚えがないのだ。もちろん、新戦術なるものが(それが実用に耐えないようなものだったとしても)ぽんぽんと雨後の筍のごとく現れる訳がないことは分かっている。ここに来てから一年どころか、半年と経っていない。だからだと言われればそれまでなのだが、そろそろ一つや二つ、出てきてもよさそうなものだった。過去にどんなものがあったか、伊勢に聞いてみたことがあるが、機密指定されていて同じ研究所の仲間であっても漏らしてはならないそうだ。原則として知る必要のない人間には知らせないでおくべきだという、軍が大好きな古きよき(Good Old-fashioned)スタイルである。ま、軍隊は僕の好奇心を満たす為に存在している訳ではない。望みが叶わないことに癇癪を起こす年も、はや過ぎて久しい。僕は我慢のできる子なのだ。

 

 ところで、おにぎりは米でできている。これは広く一般にそういうものだと認識されているという意味であって、この世全てのおにぎりというおにぎりが、その構成要素の最後の一粒に至るまで、言葉通り端っこのへげへげのところまで百パーセント、天地神明に誓って余すところなく米なのだという意味ではない。もしそういう意味だとしたら、海苔を巻くだけでそのおにぎりはおにぎりではないということになってしまう。これは到底、受け入れられることではない。

 

 形而上学におけるおにぎりについては放置しておくとして、ここで僕が取り上げたいのは、概ねおにぎりというものは成分として炭水化物を多く含んだ食べ物であるということなのだ。それを短時間に、大量に、ぱくぱくと素早く食べてしまうと、何が起こるか? 中学までの知識でも分かった。ブドウ糖などへの分解、吸収、血糖値の上昇、そしてインスリン分泌による低血糖だ。人間の体というものは上手くできている。芸術品と言ってもいい。だが融通は利かないし、時には身を守ろうとして自殺しようとするほど愚かなのだ。低血糖は強烈な眠気を引き起こす。こればっかりは、艦娘でも逃れ得ないらしい。それとも重巡程度では、というだけで、正規空母や戦艦になるとその辺も結構何とかなるのか? 誰かに聞いてみたいことが一つ増えたが、それよりも眠かった。僕は自分がひどい休日を過ごしたことを嘆きながら、ベッドに身を投げ込んで泥のように眠った。

 

 アラームが鳴って起きてまず感じたのは、悔恨だった。食べてからすぐ寝るのはよくない。どうにも、胸のところがもやもやした。小学生の頃はそんなことなかったんだけれども、成長と老化はそう違わないらしい。僕は胸をさすりながらベッドを出て、片付け忘れていた昨日の急須にお湯を継ぎ足してもう一杯お茶を飲んだ。最初の抽出で旨味成分が全部出てしまうほうじ茶だから、味は昨晩と比べることもできなかったが、それでも色と香りがあるだけ水より飲みやすく思えた。今日は出撃任務だ。今は◯七◯◯、出発は◯八三◯の筈だったが、確認をして悪いことはない。僕は予定表を調べてみた。すると、自分が思い違いをしていたことが分かった。出発は一一三◯だ。四時間半も間が空いてしまったが、やることはある。

 

 眠気のせいで中断していたチェックを再開する。もう残り少ないが、まだ僕を助けてくれた艦娘には出会えていない。おかしいぞ、と警告を発する僕がいる一方で、後少しで僕の救い主、僕がここにいる理由を作ったあの人をまた見ることができるのだと、楽観的な意見を述べる僕もいる。どっちに味方するべきか……どちらも正しいことを言っているように感じられたが、未チェックのリストが印刷された紙が減っていくにつれて、後者の声はより小さく、前者の声はより大きくなり始めた。融和派の魔手が軍のデータベースにまで達しているとは考えづらい。閲覧や印刷が僕のクリアランスでもできたほど、重大ではないと見なされていた情報だったが、軍は重要度が低いからと言ってその改ざんを許すような組織ではない。なら、僕を助けたあの人はいなかったというのか? 薄まってしまった記憶の中にいたあの人は、実在しなかった? そんな訳があるか、融和派の言ったことはおためごかしの大嘘だ。あいつらは僕を味方に引き入れようとしていた。深海棲艦が人間を助けるだなんて言って、融和派の深海棲艦もいるだなんて言って。事実はどうだ? 前者は知らないが、少なくとも後者は違った。港湾棲姫は僕を殺そうとしたじゃないか。あの鉤爪で引き裂こうとしたじゃないか。名前も知ることのできなかったあの“三番”がいなかったなら、僕はあそこで死んでいたんだ。

 

 とうとう、リストは最後の一枚になってしまった。僕はそれを見た。そうして、その紙を破り捨てた。僕を助けてくれた艦娘はそこにいなかったのだ。

 

 どういうことなんだ? あの人がいないなら、それじゃあ一体彼女は誰だったんだ? 僕の手を取り、海の底に沈む運命だったこの生命を救い出してくれたあの人は、僕が生み出した幻の記憶だとでも言うのか。

 

 シャワーを浴びに行き、服を替え、一旦戻って歯磨き用品を取り、共同洗面所に向かう。誰かに会って、僕が体験した、してしまった全てを伝えたかった。楽になりたかった。けれど、僕の臆病さがそれを許さなかった。苦しかったとしても、僕がこれまでの人生でよすがにしてきたことが不確かになって脆く崩れ去っても、生きていたかった。この件についての選択は、一つ一つが本当に自分の命を左右するものなのだ。いや、自分だけでなく、他の誰かの生命までをも左右するかもしれない。僕には、そんな決断を自分から下す度胸がなかった。

 

 艦娘としてなら、決断できる。戦場で天龍たちを庇う為に、命を危険に晒した。あれは僕が、戦場に立った艦娘だったからだ。あの時の僕は艦娘としての判断をしたのだ。でも、艤装をつけていても、艦娘ではなく僕個人としてあそこにいたら、きっと僕は天龍たちを見捨てただろう。自分の命惜しさに、同期を死なせただろう。そのことを恥じ、後悔し、それでも心の何処かで「だって仕方ないじゃないか、死にたくなかったんだ」と言い訳して生きていっただろう。僕はそんな人間だ。自分のことくらい、分かってる。僕は艦娘だ。けれど、いつでも艦娘である訳ではないのだ。


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