[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「長門」-4

「さあ、私の手を取れ、共に征こう」

 

 長門は腰を上げ、僕を見下ろし、手を差し出した。僕はその手に自分のそれを重ね、握った。ぐい、と引かれ、立ち上がる。「よし、火を持って付いて来い」と長門は僕に命じた。頷きを返し、僕はサバイバルキットに片付けておいた袋を取り出した。耐熱加工されているので、ススが付着する程度で済むだろう。後は袋を持っている手が熱いぐらいか。天龍の艤装や装備を取って小屋を出て、そのままずんずんと突き進んでいく長門の後に続く。奇妙な安心感があった。こうなった長門には、自分がロボットにでもなったつもりで従っていれば、万事が上手く運ぶだろうというような……彼女の精神的な安定についての懸念はあったが、今のところ問題化する兆候も見えない。任せておけばいいだろう。

 

 海からの視線を遮る木々から抜けて、かつて人々が小さな集落を作っていたのだろう場所に着く。家屋や商店だったらしい建物が、くっついて並んでいる。埃っぽく、不気味だが、田舎町の雰囲気を色濃く感じさせて、僕は自分の祖父母の家がある辺りを思い出した。もう長い間、帰っていない。直接手紙のやり取りはせず、両親経由でその様子が時折伝えられる程度だ。きっと心配させているのだろうな、などと場違いな思考を広げていると、長門が一つの建物を指し示した。その建物は、頭二つ分ほど他より背が高かった。ホテルとか旅館とか、その手の何かだったようだ。

 

「最上階か屋上の、海から見えやすいところで火を焚け。ある程度大きくなったらすぐに逃げろ。集落の入り口で落ち合おう。それと、そのサバイバルキットを貸せ」

 

 理由も聞かずに、僕はウェストポーチを渡した。中から着火用の燃料を半分だけ抜いておいたが、これは僕の仕事に必要なものだ。それを除けば、多分、長門は僕が使うよりも百倍有効に使ってくれるだろう。彼女は右腕に天龍の艤装を持っていたので、僕が後ろから長門の腰に腕を回して取り付けてやらなければならなかった。僕らは互いにむくれ顔をしながら、その作業を行った。僕は長門の腹の皮をポーチの留め具に挟んで痛がらせてやったし、彼女はさも「痛みによる反射的運動」でもあるかのふりをして僕の横っ面に肘打ちを食らわせた。僕は頭を、彼女は腹をさすりながらそこで別れ、それぞれの仕事を片付けに掛かった。

 

 入り口には鍵が掛かっていたが、僕は右足というマスターキーを持っていた。問題なく侵入し、階段を見つけた。火種を入れた袋を腰に結わえ、電灯だけを明かりとしながらコンクリの階段を駆け上がっていく。両手はフリーにしておきたいので、電灯はスリングで体にぶら下げた状態だ。埃と蜘蛛の巣だらけだが、気にしない。軍の外の世界じゃ、こう言う人がいる──愛は全てに勝利する(Omnia vincit Amor.)ヴェルギリウス※65が彼の書いた詩の中に文脈的関連を色濃く持って現れる、この三単語のフレーズに関する独立した解釈についてどうコメントするかはさておき、軍の中じゃ、これは誤りだ。ここでは命令が全てを打倒する。蜘蛛の巣、埃、不快害虫、深海棲艦、ムカつく同僚。

 

 二段飛ばしで上がっていると、突然足元が崩れた。空中に放り出されるあの不快感を覚え、僕は咄嗟に目の前の階段の残骸に腕を伸ばした。衝撃が腕に走るが、落ちるよりマシだ。下を見る。高さからすると落ちても死にはしないだろうが、足を挫くか折るかするかもしれない。腕に力を込めて体を持ち上げ、這い上がる。口に砂と埃が入った。吐き出して、上がり続ける。壁に書いてあった消えかけの階数表示によれば、もう少しだ。

 

 階段は最上階までのもので、屋上に続く道は見つけられなかった。だがまあいいだろう、ここは海の近い集落だ。屋上では風が強すぎて、火を焚いても消えてしまいかねない。僕は電灯を左手に構えて、長門の条件にぴたりと合う部屋がないかを探した。見つけ出すまでに僕の体中に汚れがへばりついたが、どうにか僕はやり遂げた。三方に窓があり、海を見ることができる。

 

 別の部屋にあったテーブルを持って来て、その上に火種を出す。着火用燃料を惜しみなく使って火を強め、テーブルと一緒に回収しておいた古新聞やその他の燃えそうなものをそこに突っ込む。火が大きくなったところで、部屋の片隅に置いてあった木製の椅子を蹴り壊し、燃料として足す。そしてとどめとばかりに、窓からカーテンを引き剥がしてそれも燃料にしてやった。薄布なので、じきに燃え始めるだろう。火を焚くどころか大火災にしてしまうかもしれないが、そうなったらそうなった時だ。

 

 満足して見ていると、窓の外で何か光った。海の方だ、何だろう……そう思っていると、地震のような物凄い揺れが僕を襲った。ああクソ、「何だろう」じゃないぞ、畜生! 時間を使いすぎた。タ級が明かりを見つけて、撃って来やがったんだ。僕は持っていたもの、椅子の残骸なんかを全て床に放り投げ、その場を逃げ出した。その直後、二回目の揺れが来た。一回目より小さいところを見ると、最初のは建物に当たったが、二発目は外したらしい。階段を三段飛ばしで下りる。すると、悪夢みたいな光景が広がっていた。

 

 でも道理と言えば道理だ。僕一人の体重に耐えられない箇所があるほど、老朽化していた階段だ。建物に砲弾が直撃したらどうなる? 全部が崩れ落ちずに、一部だけで済んだことを僕は幸運に思うべきなのだ。それが慰めにはならないことを別にしても、幸運だった。一発目で建物自体が崩壊する可能性だってあったのだし。

 

 電灯で階段の崩れた部分を照らす。僕の立っているところから、踊り場部分まですっかり壊れている。踊り場部分は無事で、そこからまた次の踊り場まで崩れている。いいだろう、僕とて一人の少年だった時代がある。ゲームは好きな方だ。自分がアクションゲームの主人公だと思ったことはないが、そうならなければいけないというのなら、そうなろう。数歩下がり、助走をつけて、飛び降りる。踊り場に飛びつけることは分かっている。心配なのは、僕がそのまま踊り場をぶち破って下に落ちやしないか、ということだ。

 

 それは杞憂ではなかったが、最悪の事態にはならなかった。僕が足場に着地すると同時に、足の下で何かが壊れ始める予兆のような音を立てた。僕はそれが何か確認しようとは思わなかった。即座に次の足場へと飛び移る。助走をせずに。していたら今頃真っ逆さまだったろうから、この判断は正しかったと思う。しかし、助走なしでの跳躍だった為に、足場へ飛び移るのに飛距離がやや足りなかったのも事実だ。さっき階段から落ちかけた時みたいに、腕だけで掴まる。だが、持ち上げるだけの力が出せなかった。誰だってそうなる、腕に先の尖った鉄筋か何かが刺されば。

 

 下を見る。似たような踊り場。階段は上にも下にも残っている。どうする? 僕は自分に訊ねた。有効な考えが出て来ない内に、三発目の着弾があった。それは僕がさっきまでいた階を吹き飛ばし、僕に何をするか決めさせた。とにかくここから逃げろ、だ。足が折れようと、ここから逃げなきゃ死ぬ。腕に刺さった鉄筋を抜き、掴まっていた足場から手を離す。浮遊感、ショックと痛みに備える。砂の詰まった袋が倒れる音がして、頭までぼんやりさせるような強い衝撃が僕の体を襲った。うつ伏せになって、尻を押さえる。そこから落ちた。とてもじゃないがこんなざま、長門には見せられないな。もし見られたら彼女は言うだろう、「教官が教官なら教え子も教え子か」と。那智教官も僕も誰かに尻を呪われているのかもしれない。

 

 さっきも経験した感触が体の下で起こった。ヤバい。崩れる。僕は尻の痛みを無視してその場から逃げた。大変愚かなことに、上にだ。咄嗟のことで気が回らなかった。気づいた時にはもう遅く、踊り場と下り階段は、すっかり崩れていた。こういう時にはどうするか、こういう時には……とりあえず動くことだ。僕は、階段なんか放っとけ! と自分に命じて、建物の内部に続くドアを開けた。大きな揺れ、天井からぱらぱらと塵が降ってくる。四発目が何処かに撃ち込まれたらしい。そろそろマジで崩れそうだ。

 

 片っ端から扉を開け、部屋を検分する。一部屋につき十秒も掛けずにだ。そうやってどうにか、僕の条件を満足させる部屋を見つけた。ベランダ付き、向かいに建物とその中に続く窓。僕は迷わなかった。五発目が撃ち込まれるのとほぼ同時に、僕はそのベランダから向かいの建物の窓へと飛びついた。窓を割って、その建物の中へと転がり込む。勢いのままに転がり、壁か家具かに背中を打ちつける。激痛が走った。息ができない。腹に大きなガラス片が突き刺さっていた。僕は消えそうになる意識の中でガラス片を思い切りよく抜いた。痛みで意識が鮮明になるのを利用して、希釈修復材を腹の傷に振りかける。鉄筋の刺さった腕の傷にもだ。水筒を拾っておいて、本当によかった。中身はほぼ空っぽになり、ほんのかすり傷を治すのにしか使えない程度になってしまったが、それと引き換えに僕の命を救ってくれたなら、何の文句があろう。

 

 呼吸が平常に戻るのを待ってから、僕は床に手をついてよろよろと立ち上がり、壁を支えにしながらその建物を出た。出た直後に、灯台の役目を果たしてくれたあの廃屋が崩れた。咄嗟にドアを閉めて屋内に戻っていなければ、飛んできた瓦礫に頭を砕かれていただろう。音が落ち着いてから、僕は集落の入り口を目指して移動を始めた。長門はそこで待っていた。僕のひどい有様を見て彼女が言ったのは「だから火をつけたら逃げろと言ったのだ」だった。僕は肩をすくめてそれに答えた。彼女は訊ねた。

 

「走れるか?」

「長くとなると難しいが、やってみよう」

 

 ゲームか映画のヒーローめいた脱出劇の後ではへとへとだったが、僕は己の体を走らせた。那智教官が候補生たちに課した地獄の基礎訓練のことを思えば、こんなものはピクニックだ。前を行く長門を見ていると、彼女がもう天龍の装備を持っていないことに気づいた。何かに使ったのだろう。答えはすぐにでも分かる筈だ。

 

 長門に付いて、山を上がる。僕は一生、登山を趣味にすることはないだろう。こんなことの何が楽しいのか分かりそうにない。疲れるし、死ぬこともしばしばだという。山が見たくなったら、僕は断然絵を見に行く。高いところから何か見たくなったら、都市部の高層ビルにでも出掛けよう。文明と文化は最高だ。

 

 適当なところで、長門は足を止めた。僕もそこで彼女に並び、集落部を見た。さっき僕が苦労して上がったのだろう建物の周囲に、火がついていた。僕を狙った弾が外れ、可燃物に引火でもしたのだろう。大きなかがり火になりそうだ。そう思っていると、長門が僕の艤装を触り始めた。「おい、何をしてる?」「お前の艤装から燃料を貰う。私のは空だ」「そうかい、次からはちゃんと声を掛けてくれよ」言った言ってないの軽い口論を交わしつつ、次の指示を待つ。長門は僕の燃料を自分の艤装に移しながら言った。

 

「タ級は確認に来る。死体を見つけられないかもしれなくても、念の為にな。お前はここから奴を撃て。当てられなくてもいい。反撃に注意して、山に引きずり込め」

「分かった。でも、どうやって見つけられる?」

「幾つか罠を仕掛けておいた。運がよければ、どれかに引っ掛かるだろう。そうすれば分かる筈だ。それと言っておくが、私の砲撃支援は当てにするな。もう弾は残っていない」

 

 了解、と返事をする。長門の気配が遠ざかっていく。一人にしないんじゃなかったのか? と意地の悪い質問をしてやろうかと考えたが、彼女によるその言葉の意味をわざと誤って解釈してまでからかおうとは思わなかった。真剣な言葉には、真剣な態度で応じてやるべきだ。茶化したり、からかいの対象にしていいようなものではない。僕はその信念を大事にしていた。気を静め、時を待つ。敵は必ずやって来る。長門の判断は、信じるに値するものだ。僕はそれに従って戦えばいい。

 

 右腕部の砲を撫でる。壊れてはいないが、新品のようにぴかぴかな状態とはとても言えない。中で彼ら彼女らの仕事をしている妖精たちも、顔を黒く汚している有り様だ。けれど僕はそいつらの顔に、昨日今日とここまで生き延び、戦い抜いてきた兵士の自信とでも言うべきものを感じていた。今のところ、妖精の仕事は再装填程度だ。砲塔を動かし、仰角を調整し、発砲するのは妖精の手を借りずにできる。だから彼ら彼女らの仕事は少ない。けれどこいつらも、命を懸けて戦っているのだ。僕が轟沈すれば、妖精たちも海へ沈む。存在そのものとしてはやっぱり胡散臭いが、ここ一日二日の出来事を共に生き抜いた後では、僕と一心同体めいたこの小さな連中を、戦友と認めないではいられなかった。

 

 発砲音が聞こえた。次いで、小さな爆発が集落部で起こった。海に近いところだ。その辺りから上がってきたところで、長門の罠に掛かったらしい。火の手が不自然な速度で上がり、海へ戻る道を閉ざす。上手いな、と僕は素直に感服した。きっと、天龍と自分の艤装から燃料や弾薬を出して、燃えやすいように撒いたのだろう。そうすれば長年放置されていた建物ばかりだ、すぐに燃え広がる。タ級は事態の把握をしようとする前に、炎から逃げる為に前に行かざるを得ず、前ではなくて後ろに行くべきだったと分かった時には、もう遅い。退路は深海棲艦とて焼き尽くす火に覆われている。しかも、この策の持っているよい点がもう一つあった。

 

 これなら敵がよく見えるってところだ。

 

 僕は腰を下ろし、足を組んで台にした。岩礁でやった時のことを思い出し、懐かしく感じる。あの時も、結構キツい状況だった。だが切り抜けた。今日もそうなるだろう。そうしてみせるのだ。僕と、長門の二人でだ。タ級は彼女を追いかけてくる炎の海から、急いで逃げようとこちらに近づいてくる。無警戒なものだ。慢心ではないが、迂闊だった。

 

 発砲する。タ級の近くに着弾した。彼女の顔がこちらを向く。何処から撃ったのか、特定しようとしているのだ。そんなことをしている場合じゃないぞ、と心で彼女にアドバイスしてやると、それが伝わったのか、タ級は山を凝視するのをやめて動き始めた。切り替えができるのはいいことだが、僕を無視させるつもりはない。撃ち続ける。残弾は多くないが、それはあくまで僕の持っている全砲門が使用可能な場合に考えた時だ。今は肩に一門、腕に一門しかない。この一戦ぐらいなら、余裕で保つ。

 

 一発が走るタ級の艤装に当たった。左半身側の砲塔部だ。火を吐き出し始めたそれを、彼女は潔く三門とも切り離した。どれに着弾したのか、とか、鎮火できないかを確認した素振りはなかった。置き去りにされた砲は、やがて爆発を起こした。彼女の判断は正しかったのだ。思い切りのよさ、鋭い直感、それらを火に巻かれ、狙い撃たれているこの状況下でも失わない冷徹さ。強敵だ。もし僕と長門の目論見から彼女が抜け出せば、相当マズいことになるだろう。だが、そうはさせない。

 

 タ級がこちらに近づく道から逸れようとする度に、砲撃で彼女の動きを操ってやる。要領は魚雷の前に誘導するのと変わらない。むしろ、魚雷が行き過ぎるまで、という時間制限がないので、こっちの方が格段に楽だ。隙があれば当ててやるのだが、そこは深海棲艦でも戦艦を務める身、中々そこまでの狙い目を見い出せない。それにもう彼女は僕の位置をおおよそ見抜いているようだ。残った砲門をこちらに向け、応射を始めた。辺りに弾が降り注ぐが「山に引きずり込め」と長門は命令した。それを果たしていない以上、この場を放棄して逃げ出す訳にはいかない。撃たれるのは覚悟の上だ。それは、軍に入った者なら誰でも、覚悟していなければいけないことなのだ。

 

 とはいえ撃たれるのは本当に怖い。僕はやや震えつつも、艦娘としての意地と、長門への男としての意地、この二つで持ち場を守り続けていた。それに、ここで逃げ出した僕に長門がどんなことを言うか、どんな顔をするか思い浮かべるだけで、もう一分、もう五分、ここでタ級を引きつける囮になろうという気になるのだ。ここで僕が頑張っている間に、長門は長門の仕事をしている。研究所に配属されてからこれまで何度も繰り返しそのことを確認してきたように、僕は彼女を信じていた。

 

 近くに砲弾が落ちた。小さな破片が背中に刺さる。僕は左手を伸ばし、身をよじってそれを掴んだ。じゅっ、と音がしたように思うほどの熱さだったが、指を離さずに引き抜いて、投げ捨てる。刺さった時の感覚からすると、放っておいてもいい傷だろう。そんなことが分かるようになってきた自分に呆れながら、僕はタ級にもう一度狙いを定めた。そこに、無電が入った。長門からだ。道を通ってあの小屋のある辺りまで退け、という命令だった。願ってもない申し出だ。僕は短く二度の信号音を送信して、ただちに走り出した。腰を下ろしていたことで、体力はやや回復していた。

 

 小屋の前まで来る。月が出ている。雲はない。ただの上弦の月だが、いい月だ。タ級が死ぬのを見るには、ぴったりの明かりになる。長門は小屋の陰に隠れていた。彼女は僕を見て頷き、僕も同じものを返した。ここで待ち伏せるのかと思ったが、もっと先に行くという。確かに、ここで待ち伏せというのはいかにもそれらしく、疑われそうなことであった。それにここで交戦したら、小屋に寝かせてある天龍の体……遺体が、損傷してしまうかもしれない。それはできれば避けたかった。

 

 肩を並べて走りながら、残弾を確認する。思ったよりタ級の誘導に使ってしまったが、彼女一人を相手にするのには足りる量だ。最悪、ナイフや刀もある。長門においては、殴り殺すことも(いと)うまい。戦闘の最中、弾が切れた程度で敵と戦う術を何もかも失ったと考えるような艦娘は、海に出るに値しないと思う。私見ではあるが、那智教官の下で訓練を受け、実戦をくぐり抜けた艦娘たちなら、誰でもこの意見に賛成するという自信がある。僕らには腕もあるし、足もあるし、その艦娘が用心深いなら刃も用意しているだろう。艤装でぶん殴るのもいい。艦娘は全身が武器なのである。小指の一本を取ってもそうだ。

 

 小屋から少し行ったところで止まり、長門と僕はそれぞれ道を挟んで隠れた。僕は太い木に身を隠したが、長門は艤装を外してそれと一緒に伏せた。そんな隠れ方で大丈夫だろうかと思ったが、茂みの中にいるので案外に分かりにくい。聴覚を研ぎ澄まし、足音なり砲声なりが聞こえるのをひたすら待つ。汗がたらりと落ちてきて、目に入った。それでもまばたきもせずに、指でそっと拭って待ち続ける。心拍数が増えるのが分かる。どくん、どくんと胸で音が鳴っている。うるさいが、止める訳にも行かない。

 

 そよそよと風が吹き、火照る頬を撫でる。タ級の姿を思い描く。彼女に真実の瞬間が訪れる時を思い描く。それはすぐだ。もうすぐ来る。タ級を片付け、救援を待ち、研究所に帰る。また病院行きだろうが、それが終わったら休暇を申請しよう。提督が僕のことを何と言って罵っても知ったことじゃない。暫く休養が必要だ。それに龍田に連絡もしなくちゃいけない。天龍の両親にも手紙を送るべきだと思う。青葉や利根、北上、隼鷹や響とも話したい。彼女たちの一人一人との付き合いを、これまで以上に大事にしたい。呉に遊びに来て欲しいって北上が前に言ってた。休暇の間に行くのもいいな。隼鷹や響の都合がつけば、三人で行くのもいい。そんなことは無理かもしれないが、想像を裁く奴らはいない。

 

 早く帰りたかった。なのにタ級は来ない。苛立ちを感じ始めて、僕は長門のいる方を見た。どうなってる? タ級は追跡を諦めたのか? いや、諦める深海棲艦など知らない。僕の知っている深海棲艦は、死ぬまで奴らの目的に向かって邁進する。同じ人間だったなら、ある種の尊敬を抱くこともできるような連中だ。空母棲鬼が戻って来て、新しい命令を出した? それもないだろう、もし彼女が戻ってきていれば、空には航空機がわんさかいる筈だ。となると、これは我慢比べなのか? 彼女は僕たちが「待ち伏せは失敗した」と思って姿を現し、警戒が解ける一瞬を待っているのか。それはありそうな話だった。敵は、僕らが逃げるだけではないことを知っている。彼女の仲間を殺し、上官を傷つけて激怒させたのは僕たちなのだから。

 

 また風が吹いた。優しい風だ。でも風向きが違って、背中側からだった。さっき涼めた場所とは違う体の部位が冷やされて心地よかったが、鼻につんと触る何かの臭いがあった。薄くて分かりづらい。僕は音を立てないようにしながら深呼吸を行った。何だろうか? 馴染みのある臭いの気がするが、この臭いは何なんだ?

 

 長門の呟き声が、やけに大きく聞こえた。

 

「……燃料?」

 

 背後でぱきりと音がした。同時に、僕が以前に仕掛けてそのままにしていた警報装置が作動した。長門が叫ぶ「後ろだ!」そんなことは分かってる。僕は振り向こうとする。時間の流れを遅く感じる。月の光の下、端正な顔や均整の取れた体をススだらけにしたタ級の目が、僕を見据えている。その砲は今にもこちらを向こうとしている。右腕を突き出し、発砲──衝撃──腕が吹き飛んだかのような痛み。だが、まだついている。やられたのは砲塔だ。僕はそれをパージする。頭に破片か何かが当たったらしい。意識が朦朧とする。気を抜くと意識が真っ暗闇に落ちて行きそうになる中、敵がどうなっているか見る。タ級の弾が僕の砲を破壊したように、僕の弾はタ級の砲を破壊していた。けれど一門だけだ。もう一門が残っていた。それを僕に撃とうとしていた。

 

 長門が茂みから飛び出して、殴りかかる。それを避けたせいで、タ級が僕に放とうとした砲弾は明後日の方向へと飛んでいった。長門は言ったことをやったのだ。僕を守ってくれた。相手が砲を持っているのに素手で戦いを挑まなければならない時、どんな気持ちになるか、僕は知っている。それでも長門は、タ級に向かっていった。彼女だけを戦わせておいていいのか? 違う、絶対に違う。僕も、戦わなくてはならない。意識が急速に復旧される。よし、と力を入れて立とうとするが、叶わない。心はともかく、体の方のダメージが大きいのだ。準備を整えるのにもう少し時間が必要だが、悠長に見てはいられない。長門は劣勢だった。片腕しかない上に、相手の艦種は同じ戦艦。不利すぎる。肩部砲塔で狙おうとするが、長門を誤射しかねない。仲間殺しだけは嫌だ。

 

 柄を握って、ナイフを鞘から抜く。タ級の顔を狙った長門のパンチを、敵は脇をくぐるようにして避け、振り返りながら肘打ちをする。それが長門の首に入り、彼女は膝を突く。大きな隙だ。タ級はその背中を撃ち抜こうと砲を構える。僕はナイフを放り上げ、刃の部分を持つ。それからタ級目掛けて投げつけた。

 

 投げナイフというのは、艦娘が実戦で使える技術ではない。それは訓練に訓練を重ねてようやく身につけられる上に、海では用いる機会のない技術であって、そんなことに時間を浪費するぐらいなら他のことを覚えた方がいい。僕はずっとそう考えていた。何も知らなかった癖に、知った風な思い込みを持っていた訳だ。那智教官がナイフでどう戦うかということを僕や他の候補生に教えようとした時、どうしてもっと真剣にならなかったのかと、今、後悔している。僕は投擲に失敗したのだ。那智教官は僕を叱るだろうが、言い訳は幾つかある。僕が投げたナイフは投擲用ではなかった。これが一つ。夜だったので距離感を掴みにくかった。これが二つ。そして三つ目だ。僕は悪運が強い。投げたナイフは刺さらなかった。刺さらなかった、が。

 

 それでも上手く行ったのだ。僕は四百グラムの金属の塊を、艦娘の力で思い切り投げた。そんなものがタ級の頭に当たった。さぞ強い衝撃になったことだろう。彼女は注意を逸らされ、長門を撃つ前に、何があったのか確認しようとしてしまった。そうして僕に顔を向けた。百戦錬磨の大戦艦が立ち直るには、その僅かな時間のロスだけで事足りたのだった。長門がタックルでタ級を押し倒す。砲が暴発し、空を撃つ。僕は木に体を押し付けながら、立ち上がる。タ級が長門を跳ね飛ばし、素早く起き上がって、身構えようとする。戦闘準備の整った僕が、天龍の刀を抜いて斬りかかる。

 

 敵を褒めるのは癪だが、タ級の判断は素晴らしかった。彼女はほんの一歩動いて、彼女の左肩に備えた装甲で受けたのだ。刀の扱いに慣れた天龍ならそのまま切り裂けたかもしれないが、素人が力で振り回しているだけの僕では無理だった。装甲に弾き返され、反動で仰け反ったところを、蹴り飛ばされる。深海棲艦に蹴られたのは初めてだったが、それはひどく痛いものだった。吹き飛ばされ、地面を転がる。一対一なら、勝負はついていた。僕は叫んだ。「長門!」僕のナイフを拾った長門が、タ級の背に跳び掛かり、突き倒し、それで刺した。一度ではない。二度、三度、四度と長門は彼女を滅多刺しにした。

 

 それでもタ級は抗った。体を捻っての肘で長門の横っ面を打って倒すと、ナイフが体に突き立ったままで、足元はおぼつかず、傷口から蛇口を捻ったように大量の血を流しながらだったが、立とうと試みた。それは英雄譚に出てきそうな、勇ましい姿だった。敗北の中の美を、タ級は体現していたのだ。そうしてとうとう彼女が二本の足で地に立った時、僕は彼女の前にいて、刀を振り上げていた。

 

 人型深海棲艦は、研究によって人間や艦娘と同じように、痛みを感じるということが分かっている。だがこのタ級は不要には苦しまなかっただろう。僕は思い切り刃を彼女の首に叩きつけて、それを斬り落としたのだから。

 

 手に生々しい感触が走り、首が地面に落ちる。それに一呼吸遅れて、タ級の体が地面に打ちつけられたが、大した音は立たなかった。僕は刀を片手に持ったまま、倒れた長門のところまで重たい体を引きずって行き、彼女の横に跪いた。刀を脇において、体を揺さぶり、目覚めを促す。呼吸をしていたので、死んではいないことは分かっていた。彼女は三度目に体を揺らした時に、目を覚ました。

 

「どうなった?」

「済んだ」

「そうか」

 

 長い呼吸、深い溜息、二人分の。僕は訊ねた。

 

「望む結果は得られたかい」

「分からない」

 

 彼女は即答した。「考えてみようとは思う」そうするがいいさ、と僕は言った。それから立って、刀を鞘に収め、タ級の体からナイフを引き抜いた。指で血を拭い取り、これも鞘に収める。横になったままの長門に手を貸し、二人で足をもつれさせながら、小屋に戻った。ドアを蹴り開け、中に入り、そこで並んで倒れ込む。疲れていた。ろくな食事も取らず、まともな武器と言えば僕の砲二門だけで、敵の戦艦を始末したのだ。でも、全てが終わった後では、心地よい疲れだった。陸で深海棲艦を倒すなんて、滅多にない経験をしてしまった気がする。横の長門は、安らかな寝息を立て始めた。僕ももう、限界だ。長門が真横にいるってのは落ち着かないが、寝かせて貰うとしよう。

 

 久方にも思える夢を見た。僕は溺れていた。子供の頃の夢だ。手足をばたつかせながらも、僕はうんざりした気持ちでいた。たった一度の出来事でその後の五年、十年苦しむことになるというのは、何か釈然としない。疲れて、手足が痺れ始め、少しずつ沈んでいく。息ができず、がんがんと頭が痛む。水の中にいるのに顔が熱い。水面が遠く見える。ぐわんぐわんと耳鳴りが始まる。僕と共に沈む陽の赤い輝きがまぶたに影を残す。僕はそっとそれに手を伸ばした。

 

 その時だ。その時、それまでには起こったことのないことが起こった。僕は誰かに押し上げられているのを感じた。沈むのではなく、引き上げられるのではなく、誰かが押し上げている。僕を水面へと、息のできる世界へと戻そうとしている。意識が白む中、この未知を恐れた僕は腰を捻り、首を回し、水底の方を見ようとする。深海棲艦か? そんな考えが浮かんだ。頭の中に、融和派の司祭殿の言葉が蘇る。「あの方々は(まこと)に我が(いわお)、我がやぐら、寄る辺なき者が寄って立つもの……海の水の中で私は洗礼され、言葉を聞くようになった……」言いようのない恐怖が胸を埋め尽くす。

 

 だが、違った。深海棲艦じゃなかった。それは、違ったんだ。僕は海の中で人が泣くこともできるとは知らなかった。ああ、そんなになってもまだ君たちは──伸ばしたままだった手に何かが絡みつく。首を水面に向ける。近づいていく。赤い光に近づいていく。誰かが左の耳元で囁く。「後、少しだから」水の中なのに、それはちゃんと聞こえた。海面が近づいてくる。僕は助かるんだ、と思う。そしてようやく僕の手が水の上と下を隔てる一枚の薄い膜に触れようとした時、右の耳元で天龍の声が叫んだ。

 

「起きろ!」

 

 凄まじい恐怖に襲われ、目を覚ます。目前、僕に覆いかぶさるようにしている、リ級の顔。視線が合う。彼女が動こうとする。けれど、僕の訓練された体は考えるまでもなく反応していた。彼女を突き飛ばし、たたらを踏んで後退したその土手っ腹に肩部砲塔からの射撃を撃ち込む。瞳孔と虹彩を識別できるほどの近距離だ。外す筈もなかった。

 

 肩の連装砲から放たれた二発は、そのリ級の上半身と下半身を泣き別れさせ、貫通して小屋の壁を破壊した。その段になって長門が飛び起き「これは一体どうしたことだ、何があったんだ」と僕に言ってくる。

 

 が、僕は彼女を放っておいて、ナイフを抜き、壊れた壁の下で痙攣しているリ級の上半身にしがみつくようにして、彼女に怒鳴った。「どうして撃たなかった? 僕を殺せた、長門のことも──何故だ? どうして?」リ級は口の端から血を流しながら、僕の頭を揺らす声を発そうとした。僕は深海棲艦の声を聞く時に感じる、頭がぐらぐらする感覚を覚えた。でも結局、彼女は何も言わなかった。すぐに生命の兆候はリ級から失せ、疑問を抱えた僕だけが残った。

 

「死んだ。ネ級とタ級だけじゃなかった……もう一人いたんだ」

 

 長門に聞かせる為、そんな言葉を口から出すのに、やけに苦労した。僕は立ち上がろうとして、その億劫さに諦めて、近くの壁に寄りかかって座った。握ったナイフを鞘に戻すのも面倒で、床に突き立てておいた。長門は立ったまま、僕を見ていた。「お前、大丈夫か?」僕の心配からではなくて、彼女自身の心配からだろう。頭の壊れたような奴と、同じ小屋にいるのは我慢ならないだろうからな。僕は手を振って答えた。「疲れたんだ。ただ、疲れてるだけさ」それから目を閉じた。眠るのは怖かったが、体がそれを望んでいた。

 

 翌朝、僕らは無線の音で起床した。懐かしく感じる声が、長門と僕を呼んでいた。不知火先輩と隼鷹だ。僕は自分で応答したかったが、その役目は上官に譲った。現在地、負傷の状況、生存者の報告。長門は淡々とそれをこなした。報告が終わると、長門は僕に訊ねた。「第二艦隊の残りと一緒に、じき来るそうだ。話したいか?」僕は首を振った。「いや、後でいい」長門は何か僕に言おうとして、口を開きかけ、やめた。それで余りにも何やら気まずそうな顔をしているので、ふと僕は助け舟を出してやろうかという気持ちになった。

 

「君の背中だけどさ」

 

 長門は返事をしなかったが、僕が言葉を発するのを止めもしなかった。

 

「タトゥーか何か入れてるのか? 手当ての為に脱がせた時に、ちらっと見えたんだが」

 

 彼女はすぐに、僕が何のことを言っているのか合点したようだった。軽く横に首を振り「いや、あれは焼き印だ。ほら」後ろを向き、服をはだけて、それが印字されているところを僕に見せる。そこには“2.S.T.R.F.”と記してあった。頭字語はそれだけを見て何のことか見抜けるものは少ないが、僕はぴんと来た。「 第二特殊(2nd Special)戦技研究(Tactical Research)艦隊(Fleet)?」「そうだ。お前と隼鷹以外は、みんなこれを持っている」「仲間外れか」「お前はな。隼鷹は、受け入れるなら、じきに手に入れるだろう」そして彼女は受け入れるだろう。彼女は艦娘で、何であっても前進し、掴み取る人物だからだ。僕は余計な興味を覚えて、訊ねてみた。

 

「他の連中はその焼き印、何処にやってるんだ?」

「不知火は太ももの付け根、響は尻の割れ目のすぐ上にしていたな。それから吹雪は左胸の下だ。後は自分で聞け」

 

 あー……僕は「他の連中」と言ったのであって、「駆逐艦娘たち」とは絶対に言わなかったんだが、まあいい。背伸びをしてリラックスし、頭の後ろで手を組んでゆったりとした気持ちを味わう。近くにはリ級の死体と、天龍が眠っているが、見ないようにしていればどうにかなる。天龍、彼女のことは思えば思うほど悲しくなり、龍田や浦風に対しては罪悪感を覚える。それでも天龍の仇を討てたことは嬉しかったし、彼女の献身を無駄にしなかったことや、彼女の体を野ざらしにはしなかった自分や長門が誇らしかった。

 

 第二艦隊の旗艦殿は、小屋の窓から空を見ながら呟いた。

 

「問題は解決できなかった」

 

 僕と彼女の間に寝っ転がっていると長門が主張していた“問題”とやらのことだろう。つまり長門はこう言いたいのだ。「色々あったが、やはりお前のことが心底嫌いだ」と。正直な話、今の僕はそんなものに対して、何の感慨も抱けなかった。医者がエンジニアや心理学者ではないように、僕は艦娘であってセラピストじゃない。ましてや最早学生でもないから、問題を解く気にはなれなかった。どうとでもなれ、と僕は念じた。長門は窓の外を見るのをやめ、僕を睨みつけた。と思ったら、その目は鋭さを失い、ただ視線を投げかけるだけのものになった。

 

「帰ったら、提督にお前を第二艦隊から追い出すように言う。理由は、そうだな、命令不服従辺りでいいだろう。あの人も、この期に及んでは受け入れる筈だ」

「構わないよ。命令不服従だったら、満更嘘って訳でもないし」

「書類上の処理は私と吹雪に任せておけ。誓って、不名誉な形にはしない。第四艦隊から正式に第一艦隊へ異動という形を取るつもりだ。表向きは栄転と言ってもいいだろう」

「正直に話すけど、研究所から叩き出されるか、後ろから撃たれるかと思ってた。それを思うとかなりマシだな」

「妙高が怖い」

 

 僕は吹き出した。長門は僕をじろりと見やったが、率直な意見すぎて笑わずにはいられなかったのだ。ああ、確かに彼女は怖い。優しいし、美人だし、気配り上手な人だが、厳しさも持っている。私情で部下をひどい目に遭わせなどしたら、それを知った妙高さんが長門に何をするか想像もできない。怖がるのも頷けるし、そのことについては僕も同感の身だ。馬鹿にしたりはしない。

 

 航空機の通り過ぎる音がした。隼鷹たちが来たのだ。上空で旋回している。僕と長門は揃って小屋を出て、手を振った。

 

 外に置いたままにしていた長門の艤装を回収した後、僕らは捜索隊が来る方向に歩き出した。僕は天龍を体の前に抱えていたが、その冷え切った体のずしりと来る重さは、肉体だけにではなく心にも作用した。僕は妖精たちが、天龍を元の少女あるいは女性の姿に戻せればいいがと願った。彼女の両親は天龍としての顔より、天龍になることを選んだ、彼と彼女の娘の顔を見たいと思うだろうからだ。

 

 三日と離れていなかったにも関わらず、不知火先輩と隼鷹の顔を見た時、僕は彼女たち二人が変わってしまったように見えた。何度かまばたきをし、そうではないことを確かめる。僕が変わった、というのでもないだろう。色々なことがあったから、そんな風に見えてしまっただけだ。僕は笑おうと試みたが、天龍の体を抱えているのに微笑むことが、どうしても不謹慎に思えて、顔を歪めることしかできなかった。不知火先輩は天龍を引き受けようとしたが、丁寧に断っておく。僕が運びたいんです、と言うと、彼女は理解してくれた。不知火先輩は僕と隼鷹の前に着任しているが、直前に着任した訳ではない。艦娘の死や、死んだ艦娘と親しかった他の艦娘の姿を見たこともきっとあるに違いない。最低限のことだけを言って、後はそっとしておいてくれた。隼鷹もだ。彼女の同期はみんな死ぬか退役するかして、いなくなってしまっている。だから、彼女はこんな時には前に進む為の切っ掛けが必要なのだと、分かっていた。そして今回の僕にとってその切っ掛けとは、天龍を僕の手で連れ帰ることだった。

 

 道中に交戦はなく、まっすぐ研究所に戻ることができた。研究所前には二台の救急車が停められており、僕と長門は負傷や欠損を入渠と高速修復材で対処した後、それに乗せられてすぐさま病院行きだった。怪我は治っているのに何故病院行きかというと、こういう理由だ。肉体の損傷は修復材で治せても、怪我した時に入った雑菌などから感染症を起こすことがある。特に、今度のように負傷した後ただちに帰投できず、敵対環境下でサバイバルをすることになった際には感染確率は跳ね上がるものだ。他にも衰弱や、軽度の脱水を治療しなければならなかった。ま、たった二日で治療は済んだ。僕の個室に誰も見舞いが来なかったが、看護婦さんから聞く限り、長門の方もそうだったらしい。きっと、すぐ戻って来るのだから行ったら却って邪魔になる、とでも提督が言ったのだろう。彼女は誰かの楽しみを奪うことに情熱を燃やすタイプだろうからな。

 

 退院日、手続きをして病院を出て研究所に戻り、報告に赴いた。昼過ぎのことだ。退院したのは僕一人だった。もちろん、長門が感染症でくたばったという訳じゃあない。単に腕を一本失った分、僕よりも念入りに検査などを行われており、僕よりも一日長く入院させられるだけだった。執務室に入ると、僕の青葉新聞コレクションを提督が読んでおり、その少し後ろにはいつものように吹雪秘書艦がいた。僕が口を開く前に、提督は言った。

 

「形見分けにこれを貰おうと思ってたのに、まさか生きて帰って来るとは」

「提督は誰かに会う度にそいつを傷つけなきゃ気が済まないんですか?」

「ちょっと出撃する度に入院しなきゃ気が済まない奴とどっちがマシかな?」

 

 心の中の曙が「このクソ提督」と吐き捨てた。実際にそれを口に出す勇気はないので、あくまで心の中の声である。吹雪秘書官はその心の声をも聞き取ったのか、ほんの半歩前に出た。

 

 提督は声のトーンを真面目なものに変えて言った。

 

「報告しろ。簡単なものでいい。既に長門からかなり詳細な報告を聞いている。命令不服従や、空母棲鬼のこともな。知ってるか? 複数の有力な鎮守府が捜索討伐隊を組んだ。まあ成果が上がるかは分からんが」

「それだけ聞いているなら、僕から言うことは僅かですね。奴らは、猫が鼠を扱うみたいに僕と長門、天龍を弄んだんです。でも、最後にヘマをやった」

「ヘマとは?」

「鼠を追い詰めたんですよ。……もう行ってもよろしいですか? まだ昼を食べてなくて」

「もう少し待て。お前の辞令を渡しておく」

 

 提督は机の中を漁って書類を出そうとし、吹雪秘書艦の助けを借りてそれを見つけ出した。まだサインをしていなかったらしく、秘書官の差し出したペンを使って、音だけで殴り書きと分かる書き方でサインを済ませると、青葉の新聞のファイルと合わせて僕にそれを突き出した。受け取り、提督の「またすぐ後で」という言葉に敬礼して、部屋を出る。

 

 扉を閉めてから、僕は受け取った書類を見てみた。懐かしの第一艦隊への切符だ。きちんと見ておかなければならなかった。そこにはこう書いてあった。

 

「第五艦隊創設に当たり旗艦の任を命ず」

 

 僕は踵を返して扉を開けることにした。「私の言った通りだろう?」とばかりに提督が笑った。


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