[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「洋上」-3

 どちらにもメリットとデメリットがあった。教官の案は、敵に見つかる蓋然性(がいぜんせい)の高いものだが、その一方で敵が準備を整える前に味方のところへ戻れるかもしれなかった。第一、迅速だ。僕の案は、敵との接触は最低限に抑えられるだろうが、物資のやりくりに難があった。雨でも降ってくれなければ、食料はともかく水が尽きてしまうだろう。ソーラー式蒸留器の真水生産量は、最高の条件下でも一日五リットルだ。実際にはそれをずっと下回る。水がなくなれば、僕らは干上がってくたばってしまう。それを防ぐには、水の配給量を那智教官の案より減らさなければならない。それも、相当な割合をだ。

 

 教官は一人につき毎日二リットルの水を配給するべきだと考えていた。これは医学的に見ると最善の量だった。この量であれば、消化によって消費される水分のことを気にしたりせずに、どんな糧食も食べることができる。魚を釣ったり、鳥を捕まえて食べることだってできるだろう。ソロモン諸島まで五千キロと見て、利根と北上と僕の三人が二人牽引、一人休憩の交代制で向かえば、計算上はおよそ八十三時間で到着する。実際にはぶっ続けで活動はできないし、それよりも先に救援隊との連絡を取ることができるだろう。自分たちの力だけで基地まで帰還するというのは、最後の手段だ。けれど八十三時間、三日半と考えて七人に毎日二リットルの水を供出するのか? 約五十リットルを? それは蒸留器や脱塩キットをフル活用し、真水を海水でかさ増ししてやっと出せる量だ。何かをしくじった時に、取り返しがつかない。

 

 僕は教官と違う考えを持っていた。水は可能な限り節約するべきだ。糧食のケースの中には密封された砂糖の小袋もあった。様々な実験などから、五百ミリの水に砂糖を小さじ二杯入れたものを飲めば、じっとしている限りその一日は脱水を起こすことはないとされている。なら一リットルの水と必要分の砂糖を配給すれば、脱水を防ぎながら水も節約できるだろう。救援隊と連絡が取れたら、その時には水でパーティを開けばいい。しかし、それまではお預けだ。例え教官が僕にしなだれかかって、水をくれるなら何でもすると言って来たとしても、だ。まあ、そんなことは起こらないに違いないという確信があった。那智教官は僕を籠絡するよりも、僕を拘束する方が楽だと知っている。

 

 天蓋をまくり、外を見る。曇りだ。黒くて分厚い雲が、太陽光を完璧に遮ってくれている。お陰で月夜みたいな明るさだった。風でじきに吹き飛ばされてしまうだろうが、それまでは移動も安全に継続できる。時計を見る。僕は右手と左手に一つずつ腕時計をしているのだが(何しろどちらの腕もしょっちゅう消し飛ばされるのだ)両方とも動いていた。流石は軍用だ。午前三時半過ぎ、日本ならまだ夜も夜ってところか。ところがハワイの南千キロじゃ、事情が違う。ここじゃ日の出は午前一時から二時の内で、日の入りはその十二時間後だ。雲の僅かな切れ目から見える太陽の位置から考えると、日の出から二時間は経っているだろう。僕らの飛行機は日の出の直前頃に墜落したらしいな。

 

 那智教官との話し合いはその後も続いた──お互いに意見をぶつけ合い、僕と彼女がそれぞれ持つ計画が、その遂行の最中に遭遇すると予想できる状況にどう対応できるかで、案としての強度を計測しようとしたのである。どちらにも弱みがあり、どちらにも強みがあった。なので、とどのつまりは折衷案ということになった。水はある程度節約する、しかし移動は日中も行い、素早い敵勢力圏離脱を目指す。僕らが無線で助けを呼べないのは、ここが敵勢力圏の奥深くで、たとえ近隣の艦娘たちに声が届いたとしても、彼女たちがここまで来れない(そして付け加えるなら、僕らの無線を傍受した深海棲艦たちは鼻歌交じりでも来られる)からだ。せめて、人類と深海棲艦の勢力圏がぶつかる前線海域にまで逃げられれば、無線で助けを求めることができる。その距離なら、直接泊地や基地の連中とも話せるだろう。

 

 話は決まった。僕らはやるべきことに取り掛かった。時刻は午前四時半だった。一時間ほど話し込んでいたようだ。

 

「利根、天蓋に戻って休め。北上、僕と一緒に船を引っ張るぞ。さっきのロープを使うんだ」

「はいはーい」

「待ちに待った休憩か! ありがたいぞ、あ、天蓋の風除けを上げさせて貰ってもよいかの?」

 

 換気にもなるし、これから日が高くなるにつれて、天蓋内は蒸し焼きになる。利根の提案を却下する理由はなかった。利根からコンパスを受け取ってから水の上に立ち、ロープを掴んで機関を始動させる。徐々に加速していき、事前に教官と取り決めた三十五ノットまで達する。いつもなら風を切って進むのは気持ちがいいものなのだが、今日は例外だ。気が重かった。海に出てこんな気分になったのは初めてだと思うが、遭難するのだって初めてだ。

 

 それにしても捜索救難艦隊が空から落ちた挙句、海難とは! この皮肉に、思わずくすりと笑いが出た。この状況でそんな感情が生まれることに驚いたが、艦娘としてはむしろ当たり前のものだったのかもしれない。特に、僕は世界一タフな教官に鍛えられ、お墨付きを貰って訓練所を出た艦娘なのだ。気丈なユーモア精神が根付いていることにも頷ける。北上は怪訝そうな顔をしてこちらを見た。その表情がまた、おかしく見えた。すると、彼女も口角を上げて訊ねた。

 

「どしたのさ、にまにましちゃって。やらしいことでも想像してたの?」

「違うけど、そいつは生きる希望を保つ為の、掛け値なしにいいアイデアだな」

 

 この短いやり取りの間にも既に、僕の気分は少し上向いていた。艦隊員と軽口を叩き合うことは、旗艦としては褒められた行いではないかもしれない。それはその立場にある艦娘の威厳を損なうものだと言う人もいる。しかし、そういった権威者たちの言葉を軽んずる訳ではないのだが、それはそれとして彼女たちとの会話が精神を休め、心を和ませることについて極めて大きな役割を果たすことができるというのは、僕個人の経験からしても明らかな事実だった。加えて、僕はこの状況下では旗艦の威厳よりもまず心の健康を保つことの方が重要だと考えていた。

 

 無論、人間としては落ち込む方が当然だ。響は死んだだろう。友達を失くして一日と経っていないのに笑うとは何事だ、と言われれば、返す言葉もない。だが、そもそも戦場で人間らしくあるということは、遠回しな自殺の方法だ。だから僕には到底、そんな恐ろしい選択を下すことはできなかったのだ。

 

 水偵……いや、水観を二機飛ばし、進行方向を偵察させる。燃料は余分に食うが、前方に敵がいた場合には戦闘を避けなければならない。妖精たちにも、その旨は伝達してある。きっと、上手に立ち回ってくれるだろうと僕は信じていた。僕の約二年に渡る艦娘としての活動の中で、妖精たちは僕に対して彼ら彼女らの信頼性と献身を完全に証明していたのだ。そうなるとは考えたくないが、万が一水観が敵に発見された場合、僅かな例外的状況を除いて妖精たちは戻って来ないことになっている。僕たちの位置を敵に知らせない為だ。これよりも妖精たちの忠誠を確かに僕へと信じさせる事実があるだろうか? あいつらは、自分たちの使命を果たす準備ができているのだ。そんな連中と共に戦えることは、誇らしいことでもあった。

 

 水観から暗号化された無電が入った。僅かな駆逐艦で編成された敵の艦隊が、針路を横切るようにして進行中らしい。このまま進めば、ばったり出くわすことになるそうだ。僕はハンドサインで北上に指示をして、足を止めた。天蓋の中の教官たちに事情を伝え、水観妖精には監視を続けさせておく。もう大丈夫、となれば移動を再開すればいい。その間に、青葉の様子を見てみる。彼女はずっと意識を失ったままだ。呼吸はしているので生きてはいるのだが、意識を喪失していては水も飲ませられないし食事もさせられない。早く目を覚ましてくれることを祈るしかなかった。祈るだけでは十分でないことは分かっていたが、それだけが今この時の僕にできることの全てだったのだ。

 

 隼鷹が「青葉、さっき一瞬起きてたよ。水と糧食を一口ずつやったら、また寝ちゃったんだけどさ」と言ってくれたので、気が楽になった。青葉は、疲弊した体を休ませているだけなのだ。一度目を覚ましたのなら、そのまま死んでしまうようなことは起こるまい。隼鷹はわざわざ青葉のかじったブロック状の保存食を見せてくれた。僕は彼女の気遣いに苦笑いを浮かべ、彼女への友人としての愛情が前にもまして大きくなるのを感じた。いつか軍を抜ける日が来るとしても、この素晴らしい女性とは一生の付き合いを保っていたいものだ。まあ、今のところ望まない形で一生(死ぬまで)の付き合いになりかねない状況だったが、それはあえて無視しよう。

 

 水観からまた無電が来た。針路クリアの伝達だった。僕らはまた動き始めた。

 

 一時間ごとに二人の内の一人を入れ替えながら、僕と北上、利根は救命艇を引っ張り続けた。一時間交代というのは忙しないと北上たちは思ったかもしれないが、気を抜かずに警戒しながら救命艇を牽引するというのは、結構な重労働だ。また、僕が旗艦になるに当たって受けた教育によれば、こういった状況での見張りを内容に含むような労働は、連続二時間までにしておくことが重要だとされていた。人間の集中力というのは、連続で活用するとすぐに枯渇してしまう。鍛えられた艦娘だったとしても、精々二時間が限度なのだ。注意散漫な者を見張りに立てていたところで、何の利益もない。

 

 常に集中力を維持させていたこと、そして水観妖精たちの任務遂行に懸ける意志の力の甲斐あって、僕らは初日の日の入りまで、一度も接敵することなく進むことができた。日が水平線の向こうに沈んでいくのを見て、僕は美しいと思った。シチュエーションが違えば、最高の夜だったろう。考えてもみるがいい、と自分を説得するかのような言葉を胸で呟く。周りには美人だらけ、動ける男は僕一人。まるでハーレムの王様じゃないか。邪な考えを頭の中で弄んでから、ぽいと投げ捨てる。空腹で、妄想に浸る余裕もなかった。

 

 食料はあったが、それは全て遭難時に喫食することを目的に開発された高カロリー栄養食であり、つまるところ体を動かし続ける為の最低限の燃料みたいな具合で、腹の足しにもならなければ士気の足しにもならないものだったのだ。僕たちみんな、飢餓感を覚えていた。北上は無意識にか指の爪を噛んでは、ふと気づいてやめていた。飢えだけでなく、渇きも少なからずあった。砂糖水のお陰で脱水症は起こしていなかったが、水を入れた容器を見る度に、それを思い切り喉に流し込む自分を想像せずにはいられなかった。

 

 夜になってから、解決のしようがない問題が二つ発生した。水観が出せなくなったこと、そして大人らしく恥ずかしがらずに直接的な言葉を使おうか……排便の問題である。

 

 僕らは生き物だ。当然、食べれば食べただけ出すし、飲めば飲んだだけ出す。自然の摂理であり、これは僕でも那智教官でも逃れ得ない運命と言えよう。下は駆逐艦から、上は大戦艦殿まで、誰でもトイレに行く。行かないのは那珂ちゃんだけだ。けれど、この広い大海原の何処に鍵付き個室洋式トイレなどという気の利いた用意がある? 僕らは、この海そのものをトイレに使うしかなかった。誰か天蓋の風除けを目隠しにして用足しをすると、暫くみんなの口数が減った。でも、こういった不便さにはその内に慣れるだろう。そんなものは真の「問題」ではなかった。

 

 真の問題は、青葉と操縦士の排便だった。青葉はまだ意識を失ったままだったし、操縦士だってそうだった。彼女と彼が漏らしたものを後片付けするのは絶対に嫌だということで、僕と僕の艦隊員たちは共通の見解を持つことを確認した。でもどうやってその、排尿などをさせたものだろうか。僕は十二歳から十五歳の時に受けた学校教育に答えを求め、生物の時間に学んだ知識を総動員して、案を提出した。

 

「膀胱を刺激してみてはどうだろうか?」

 

 この案への反対は皆無であった。僕はしめしめと思った。だが「テストとしてまず青葉を……」と言ったところで那智教官が「重要な発言は航海日誌に記録しておく」と宣言したので、僕の少年らしい企みは完膚なきまでに破砕された。仕方なく、操縦士を担いで服や下着を脱がせ、救命艇の縁に腰を下ろさせる。そうして彼の毛深い下腹部を触りながら、人生には何があるのか分からないものだと考えていると、反対側から青葉を担当した隼鷹が質問を投げかけてきた。

 

「膀胱を刺激するって、どうやんのさ?」

「下腹部のマッサージだ」

「下腹部?」

 

 彼女のオウム返しな問いかけに、僕は投げやりな気持ちで言った。

 

「恥骨の辺りを押さえて緩やかに振動を与えてみろ」

 

 生物学的にその対象が人間であれば、女性の膀胱というのは大抵の場合、恥骨(あるいは恥骨結合と言うべきかもしれないが、僕は医者じゃない。艦娘だ)と子宮の二つに挟まれた場所にある。子宮の後ろには腸もあるが、まさか青葉の尻に手を突っ込んで直腸側からも押せなんて言えはしない。そんなことをしたら青葉はショックで死んでしまうだろう。あるいは後で話を聞いた時、死んだ方がマシだと思うだろう。僕は彼女の友人として、彼女にそんな思いをさせるようなあらゆるものから彼女を守りたいのだ。その逆ではない。

 

 僕の思いは伝わったようで、この発言は医学的に正当性のある真摯な言葉であると受け止められた。よかった。助かった後で、艦隊員たちに「そういえばあの時」みたいな話を陰でされたくはない。言うまでもなく、面と向かって言われるのも嫌だ。

 

 操縦士の大小の面倒を見た僕は、彼に下衣を履かせ、再び天蓋の中に戻してやった。彼を横にさせていると、隼鷹が体を捻って天蓋の風除けに首を突っ込み、こちらを見て言った。

 

「出たよ」

「よかったね」

 

 思わず素で返してしまったが、それ以外にどんな言うべきことがあっただろうか? 僕は青葉が目覚めても、この時のことは絶対に黙っていようと心に誓った。それこそ何があってもだ。彼女の名誉は守られなくてはいけない。僕と関わったばっかりに、彼女は融和派との繋がりを持ち、知らずに薄氷の上で踊ることになってしまったのだ。これ以上、僕のせいで何か青葉が不幸になりかねない事態を招きたくなかった。そんなことになれば、僕は青葉の友人なのだと自信を持っては言えなくなってしまう。青葉が彼女の優しさで僕を許したとしても、負い目が残る。

 

 その晩には不思議な出来事もあった。僕と北上が牽引作業をしていた時のことだ。雲が星を隠してしまって真っ暗闇の中、僕らは進んでいた。時折は雲の切れ間から星や月が顔を出して光を与えてくれるのだが、現れた時と同じぐらいすぐにまたベールの裏側に引っ込んでしまうので、てんで頼りにならなかった。僕と北上は、溜息を吐いて空を見上げた。同じタイミングでだった。僕はそれが彼女と僕の気持ちが一つになっていることを示すものであるように感じて、暖かな気持ちになり、前を向いた。その時だ。視界の端に、何か動くものがあった気がした。

 

 僕は首を回してそっちを見て、驚きに声も出せず、ただ口をぱくぱくさせた。すぐそこ、十数メートルかそこら向こうに、深海棲艦の一隊がいたのである。重巡に戦艦、正規空母を中核に構成された艦隊で、どう考えても今の僕らでは太刀打ちできない相手だった。彼女たちは揃ってさっきの僕らのようにぼんやりと空を見上げたまま、僕たちが来た方向へと進んでいた。そして、こちらに気づかないまま水平線と夜の闇の向こうへと消えていった。※81

 

 彼女たちが行ってしまってから、僕は北上を呼んだ。「んー?」と気のない声で返事をした彼女に、何と言えばいいか分からなかった。「おい、たった今僕らは命拾いしたんだぜ」とか、あるいは「今のを見なかったのか?」だろうか。どちらにせよ、北上は僕の言葉を信じないだろう。自分自身、半ば信じられないでいたのだ。それで最終的に、僕は言った。

 

「前を見ていよう」

「そだね」

 

 そういうことになった。

 

 交代の時期が来て、僕は利根と代わった。一時間のお休みだ。僕は救命艇の腰掛けに座って、目を閉じた。寝られるなら寝なければいけないのだが、寝られそうになかった。様々なことが胸に去来して、平静をかき乱すのだ。その筆頭が赤城たちの寄越したあのデータのことだった。人型深海棲艦が増えた理由、鬼級深海棲艦の現れた理由。こんな時に考えることではないが、想像せずにはいられなかった。人型深海棲艦は旧型艦娘配備の後に増加したのであって、新たに現れた訳ではない。僕に与えられたデータが十分かつ確からしいものである確証はないが、これだけを見て言うなら、艦娘の配備が人型の増加に関わっていることは容易に推測することができるだろう。では、何故増えた?

 

 最も単純な説明は、艦娘が沈むと深海棲艦になるというものだ。人型深海棲艦の増加と結びつけるところには独自性があるが、これは十割が僕のオリジナルのアイデアという訳ではない。安直な話ではあるのだが、こう考える人々は一定数いるのだ。深海棲艦を解析して艦娘が生まれたのだから、その逆が起こってもおかしくない、という論理だろう。それが正しいかどうかは分からない。けれど、僕もその考えには反対できない。科学的な裏付けはないにせよ、安直なりにもっともらしさがある。しかしそうすると、原初の一人は何処から来たのかという話になる。鶏が先か卵が先か……とは多少違うか。今回はどちらが先かははっきりしているのだから。

 

 他に説明はあるだろうか? さあ、どうだろう。あるのかもしれないが、思いつかなかった。仕方ないだろう。人型深海棲艦がどうして人と同じ形をしているのかという問いにさえ、人類は正しい答えを出せていないのだ。色々な人々が頭を捻って考えたが、どれも決め手に欠けていた程度である。ましてもっと根源的な問いに答えられる筈もなかった。中には収斂進化説という珍妙な意見もあったことを不意に思い出した。海で生きていくのに、陸棲生物の人間と同じ形を持つことが有利だった、だって? 幾ら何でも、それはないだろう。

 

 頭が回らないのに、僕は考えようとしていた。よくないことだ。漠然とした思考で気力と体力を浪費し、旗艦の務めを果たせなくする行為である。思考を振り払おうと努力する。その内に、一時間なんかすぐに経ってしまった。「交代だよー」という北上ののんびりとした声に、目を開ける。彼女のいつもと変わらない態度は、僕を安心させてくれる。しばし見上げていると、柔らかな微笑みをたたえた北上が言った。「大丈夫?」旗艦ともあろう者が弱音を吐く訳には行かない。僕は自然に頷いて、立ち上がった。

 

 海の上に立つ。民間人たちは艦娘について沢山の勘違いをしているが、その一つに『艦娘たちなら誰もが海を好いている』という誤った認識がある。実際には、誰でもが好いているのではない。僕だってその時々で、水の上に立って「ああ、やっぱり僕は艦娘なんだなあ」と思う時もあれば、土の上に立って「とは言っても生きるなら陸の上に限るな」と思うこともある。今日の僕は、どちらかと言えば後者側だった。最寄りの陸地から数千キロ離れているということが、僕をそういう気持ちにさせたのかもしれない。

 

 利根と協力して救命艇を引っ張る。ロープは体に食い込むので、たまに持ち直してやらなければならない。そうしていても、跡が残りそうで嫌だった。僕は自分の体に見とれるようなナルシストではないが、そういう傷や跡が自分の体に残るというのは気に入らない。広報部隊での経験が影響しているのだろうと推測する。まあ、これらの心配は杞憂だ。圧迫痕などは、僕が生きている限りドックに入れば治る類のものだからだ。ただし、首を絞めて殺した艦娘の体をドックに放り込んだらどうなるかについては、データがないので答えられない。

 

 時間というのは、座って目を閉じていると矢のように過ぎていくというのに、海を走っているとこちらの速度に反比例するかのような遅さになるものだ。そろそろ一時間だろう、と思って時計を見ても、十分しか経っていない。もう三十分は経ったか、と見直すと、十五分しか経っていない──集中力が失われてくると、そういうことがよく起こる。車の運転と女性への口づけを例に取って相対性理論の説明をしてもいいのだが、それより僕が興味深く思っていたのは、利根の口元の動き、そして彼女の小さな口の中にある何かだ。それは彼女の真っ白な歯だとか、ピンク色の柔らかな歯茎だとか、鮮やかな紅色の舌のことではない。彼女は何かを咀嚼していた。正確に言えば、し続けていた。僕は海の音に紛れて聞こえるか聞こえないか、という大きさの声で、憶測を口にした。

 

「それ、ガムか?」

「うむ、北上がくれたのだ。欲しいか?」

 

 イエス以外に答えはなかった。利根は悪戯が成功した子供のように笑うと言った。

 

「残念じゃなー、これが最後の一枚なのじゃ。欲しければ吾輩の口に指でも突っ込むことじゃの!」

 

 このように言われて、奮い立つどころか怖気づいて引っ込んでしまう人々もいる。そういう連中には言ってやりたい。人生を、もっと素直に楽しむことだ。僕は迷わなかった。一人の男性として、彼女のような軽率で愛嬌のある人物に対してどう振る舞うべきかを知っていた。すっと近寄り、さっと手を出し、ずぼっと指を突っ込んでやる。「むぐっ!」と声がして、指先にまず柔らかくてぬめぬめしたものが触れ、その次にやや固いものが触れた。それを指に引っ掛けて取り出そうとすると、利根は逃すまい、奪われまいと口を閉じようとした。けれど遅かった。彼女が噛んだのは僕の指ではなくガムだったのだ。僕はガムをつまみ、伸ばして、断裂したところでひょいと自分の口に放り込んだ。そのせいで本来の半分の大きさしかなかったが、全部取ってしまっては利根が可哀想だ。彼女は残り半分を口の中に戻し、自分の唾液で濡れた唇と口元を指で拭いながら、僕に恨みがましい小声で言った。

 

「この負けず嫌いめが」

「何を今更」

 

 ガムは味もなかったし小さかったが、集中を保つには事足りた。

 

 次に僕が牽引作業を担当したのは、闇が一番深くなる頃合だった。僕はまだガムを噛んでいて、隣にはまた利根がいたが、さっきみたいな会話はなかった。僕も彼女もぴりぴりしていたのだ。特に理由はなかったが、何かを感じ取っていたのだと思う。救命艇にいる残りの連中も口を閉じて、身じろぎと息の音だけを発していた。機関の低い唸り声と、救命艇が水の上を滑る時に立てる囁きに、僕らは耳を澄ませていた。

 

 こう静かになると、物思いに耽ってしまうのが僕の悪癖だ。訓練によってそれは抑制されていたが、それでも時々は顔を出すのだった。僕は響のことを思い、少しだけ泣いた。声など出さなかった。涙を数滴落としただけだ。彼女ともっと仲良くなる機会は永遠に失われてしまった。彼女は僕の知らない内に、知らないところで、誰にも見取られずに、天龍のような最後の言葉さえ残せずに死んだ。そんな風に彼女が死ぬとは思いもしなかった。運命が実在するとしたら、それは彼女を不当に扱っているに違いなかった。響は歴戦の勇士で、どんな時も冷静で、多弁ではないが常にユーモアを忘れず、博学であり、今までに僕が知り合った駆逐艦娘の中で最も大人らしい温かみと優しさを持った人だった。彼女に会いたかった。会って、いつものように「やあ」と声を掛け、話をしたかった。だが響は去った。もういない。銀髪と見紛うような薄い水色の髪の毛も、眠そうな目つきの裏に隠した鋭い観察眼も、不可解な信仰も、帽子を脱いだ時にふわりと辺りへ舞い散るあの香りも、今や記憶の中だけのものだ。

 

 僕の心の片隅に生きているあの天龍が「許せねえよな」と呟いた。「ああ」と僕は胸の中の彼女に呟き返した。天龍の時のように、今度もまた、復讐が必要だ。苦しみはそのままにされていてはいけない。死んだのは、僕なんかじゃない。あの響なのだ。彼女の死に何の価値も、何の報いもないという判決は一切認めない。それを下したのが神だろうと、どうしても無理だ。十分な報償なしには、受け入れられない。彼女が死ななければならないような理由もなしに死んでいった響の苦しみも、彼女を失った僕の苦しみも、いや、それだけでは足りない。これまでに傷つき、死んでいった艦娘たちの苦しみ全てが報われなければ、僕はたとえ戦争が今日終わったって、それを認めないだろう。そんな平和はこれっぽっちも欲しくない、と感情的に突っぱねるだろう。

 

 深海棲艦と、彼女らに与する融和派たちは残らず死ななければならない。僕は赤城と電が何を僕に考えさせようとしていたか、忘れることにした。そして、研究所に戻ったら提督に電について話し、手を尽くして青葉を守ってくれるように頼もうと決めた。何処の提督に無理でも、うちの提督なら、という思いがあった。武蔵と接触を取ろうとも考えた。ああ、彼女は嫌な女だ。提督と同じように。けれど有能だ。それもやはり、提督と同じように。電という手がかりを掴ませれば、きっと赤城にまで達してくれるだろう。そうすれば、余計な考えに惑わされたり、悩まされることもなくなる。僕は以前のように旗艦の仕事を務め、戦い、生きるか死ぬかするだろう。

 

 でもその中に、あの響はいないのだ。僕が決して失いたくなかった、かけがえのない友達はいないのだ。彼女は天龍のような、心の中でだけ会うことができる、空しい虚像でしかなくなってしまった。「これが君の信仰への報酬だというのなら」と僕は挑戦的な態度で言葉を思い浮かべた。「『彼を信頼するものは、失望させられることがない』※82なんてどうして言えるんだ?」すると想像上の響は被っていた帽子を優しく僕に投げつけて、気遣いと憤りを同時に表した。これには僕も感銘を受けざるを得なかった。彼女は言った。

 

「私たち──つまり信仰者の魂がひたむきに努力するのは、いや、あるいはもっと具体的な行為を挙げようか。神を信じ、神に仕えて祈るのはね、それは現世での対価を求めてのことではないんだよ」

「僕は敵に撃たれてる間中ずっと、神様を心から信じて祈ってるぜ、当たりませんようにって。そんで、そこそこ聞き届けて貰ってると思うな」

「かもね。でも神に仕えてはいないだろう? 率直に言って、君が仕えてるのは悪魔だよ。君は自分が助かりますようにと願う。あるいはもうちょっと謙虚に、自分と自分の仲間たちが助かりますように、なんて。そして、他の誰かが代わりに死ぬことには何の文句も差し挟まない」

 

「君みたいな人以外はみんなそうさ。だって、神に仕えるには神を信じなきゃダメだろう。どういう理屈で全知全能にして僕らの創造主たる神様が、被造物からの甲斐甲斐しいお世辞なんか欲しがるのか分かんないけど、とにかくそれが要るらしいじゃないか? でも悪魔に仕える時には、そいつは僕らの甘ったるい信仰心も、身勝手な承認も、ましてやあの胸のムカつく(きよ)らかさなんてものも必要としないんだからな。聖らかさだって! 僕は気に入らないよ。君らのよい本に書いてある通りのことが歴史的事実だったとしたって、一体、僕らやこの世界全てを生み出したことがそんなに偉いのかね。あいつがこの世界を作った時に僕が何処にもいなかったからって、文句を言っちゃならないだとか、どうあるべきかを押しつけるだなんて!」

 

「でも君、聖らかさへの反発は不和にも通じるだろう。聖らかさは、好き嫌いや、個人的信念で選ぶようなものじゃないよ。それは人間の義務なのさ」

「信仰は個人的信念ではないとでも言うつもりかい? それに……ごめんよ、やけに話が逸れた。さっきの続きを教えてくれ」

「いいとも。言うならばだね、私たちが持っているこの信仰心というのは、実際のところまさに愛なんだ。親を愛する子の、子を愛する親の間にあるものなんだ。分からず屋の君が誤解しないように二重の表現を使うなら、無償の愛だ。対価だって? 報酬だって? 報いだって? 私は、私たちのよき魂は、そんなものを求めたりはしないさ。その考えは魂の穢れになり、傷になるものなのだからね。ところで友達にこんなこと聞きたくないんだけど、悪魔崇拝者さん、君は愛に対価を要求するタイプの人間なのかな?」

 

 もちろん答えは決まっていた。「いや」と僕は響に言った。「そこについては僕も多分、君と同じさ。たとえ君を愛していたとしても、それを理由に君から何かを受け取ろうなんて絶対に思わなかったろう。それは僕が嫌いな態度だ。不誠実だ」「おや、私は自分が君から愛されていると思っていたよ」「君が神を愛するようにの話なら、そうだよ」響は微笑み、分かるだろう、と僕に囁きかけた。僕は頷き、友人への愛情を込めて微笑んだ。

 

 そして突然に、また当然に、僕はそういった彼女とのやり取り全てが単に己の妄想に過ぎなかったことを思い出した。響の姿は頭の中から掻き消えて、僕の無意味で気味の悪い微笑だけが残った。眠ったら、夢の中で彼女に会えるだろうか? 付き合いの薄かった天龍とさえ、そこでは会えた。なら、実戦部隊への配備以来の付き合いだった響に会えない道理はないだろう。彼女の顔が見たかった。他の響ではダメだ。彼女の、あの響の顔が見たかった。しかし航行しながら寝ることはできないし、止まっていたとしても敵への警戒をしながら眠れる奴はいない。僕は休憩が待ち遠しかった。

 

 今だけは響を忘れようと、救命艇にいる那智教官のことを考える。彼女の魅力はその強さだ。肉体や装備の話ではなく、その不足を補って余りある鍛えられた精神の話である。僕にもそれが備わっていて欲しかったが、精神は個人の経験・体験が作り上げるものであって、訓練で促成できる肉体や、材料さえあれば生産できる装備とは訳が違う。それだけに、その重要性は大きかった。

 

 精神、この何だかぼんやりしたものについて考える度に思い出すのは、訓練所にいた頃のことだ。その時、那智教官は入所以来何度目かの徒手格闘訓練を行っていた。僕ら候補生はまだ赤ちゃんみたいに何も知らず、格闘訓練なんて言っても腕を振り回しながら相手に突っ込んでいくのが関の山だった。しかも、こういった訓練が本当に役立つのか疑ってもいた。正規のカリキュラムには存在しない訓練だったからである。現在の僕から言わせて貰うと、この疑念そのものによって僕らが犯してしまったことが証明されている「愚かさ」という罪は、厳罰を科されるに値するものだ。那智教官は初めは口で説明し、適当なところで切り上げて実技に入った。この時は、僕ではない艦娘が那智教官に投げ飛ばされる役目を負った。

 

 綺麗に投げられたその艦娘候補生は埃を払いながら立ち上がると、どうしても我慢できない、という顔で言った。

 

「教官、これはとても面白い訓練です。本当にそう思います。今まで自分がこんなに乱暴者とは知らなかったぐらいです。しかし、何の役に立つのですか? こんなことを練習するぐらいなら、砲や魚雷の扱いを学んだ方がよいのでは?」

 

 教官がこういったまともな質問を「自分で考えろ」というような言葉で一蹴したことはない。それは保証できる。候補生の質問や疑問に答えるのは彼女の役目であり、その問いかけがどれだけ馬鹿げたものであったとしても、教官はとりあえず答えようと試みることまで放棄したりはしなかった。例外は一度だけだ。その質問はある候補生の「何故戦争は続いているのですか?」だったが、この問いに答えるのは那智教官の権限を遥かに越えていたのである。

 

 彼女は、格闘訓練に疑問を差し挟んだ候補生に「私にも信じられないことだが」と言った。「実際、戦場において艦娘は未だに多くの問題を抱えているのだ。弾切れ、不発、装填不良、部品の破損……お前はその度に、深海棲艦に待ったを掛けるつもりか?」教官のこの問いかけは純粋な疑問でしかなかったのだろうが、侮辱されたと感じたその候補生は顔を赤くした。すると教官は候補生をじっと見て、普段よりは優しい声で言った。

 

「今のは意地の悪い言い方だったな。慣れるがいい。さて、私がお前たちを投げ飛ばしたりお互いに殴り合わせるのには、概ね二つの目的がある。一つは、先に言ったような状況下において、ここで学んだ技を戦場で用いる為だ。使う頻度こそ僅かでも、知識や経験の有無は絶対的な生存率の差となって表れる。もう一つは──これが大事なんだが──お前たちに『命令に従って他者を傷つけること』を覚えさせる為だ。

 

 深海棲艦は生物であり、従って傷つけば血を流し、痛みに苦しむ。命を持っている。お前たちの大半は、命令に従ってそれを殺すのが仕事になる。問題は、だ。中にはそんなことを気にしない者もあるが、大勢の新兵が初めて遭遇した人型深海棲艦を撃つことに……傷つけることに躊躇を覚える。良心が邪魔をするんだ。経験を積めばその躊躇いもいずれは消えるが、さりとてその為に誰か人を撃たせてやることもできん。人型深海棲艦の捕虜を取ることもほぼ不可能だ。これについて、軍は射撃訓練で人型標的を使うことで解決したつもりになっている。だが私の目が黒い内は、私の訓練隊でそんないい加減な真似は許さん!

 

 いいか、こういう言葉がある。『武器は、それを振るう腕よりは重要でない。腕は、それを導く精神よりは重要でない』。※83 これを言った、というより書いた男がどういう考えでこんなことを述べたのかは知らんが、言っていることは正しい。今日の戦争では、武器がなくては盾にもならんという点を除けばな。また、持っていても扱いを知らなければ役に立たん。そして武器を持ち、扱いをわきまえていても、自覚して他者の命を奪うことのできる強靭な精神力がなくては戦えない。だからお前たちは、努力して、武器を振るう腕や、それにもまして腕を導くに足る精神を養わねばならんのだ。そこで痛くて血は出るが死にはしない格闘訓練を通して、良心を制御し、命令に従って敵を倒す練習をしているという訳だな。

 

 理屈はこんなところだが、どうだ、分かったか?」

 

 その場にいた候補生の誰も、首を縦と横のどちらにも振らなかった。教官の引用が一つの重要な形容詞を省略したものであることが、わざとなのかうろ覚えだったからなのか訊ねようとしたものもいなかった。分かっていたのは、どうやら格闘訓練はためになるらしい、ということだけだった。そして僕らの理解するべき点というのは、まさにその一つに尽きたのである。

 

 僕がそれを意識したのは、かなり後になってからだった。第四艦隊に配属され、第一艦隊に出向してから暫く経った時分だ。日向と伊勢に広報部隊時代の話をしていて、その一環として僕はあの岩礁や付近で起こった戦闘の一件を語って聞かせていた。話しながら僕は、あの日、人型深海棲艦と初めて交戦した自分が、人間の形をした敵に弾を撃ち込むことに何の躊躇もなかったと気づいた。僕は驚き、興奮し、教官への敬意に震えたものだ。彼女のやったことに、間違いは一切なかったのだと。

 

 今日もそうであって欲しいな、と僕は願った。今日も那智教官は間違いを犯さない人であってくれればいい。僕は彼女にすがりたい。響が信仰に救いを見つけ、神に祈ることに安寧を見出したように、僕は那智教官に祈りたい。だから彼女に強い艦娘であって欲しい。立場が変わってしまったとはいえ、弱くなって欲しくはない。情けない、勝手な言い分だった。そんなことは自分でも分かっていた。だから口には出さないでいる。きっと教官でさえ、この気持ちだけは露とも知るまい。

 

 ぼそぼそと声が聞こえた気がした。この声の聞こえ方には覚えがあった。長門の第二艦隊にいた時、こんな声の後に潜水艦からの雷撃と、待ち伏せ攻撃があったじゃあないか。僕は利根と救命艇の連中に届く大きさの声で「警戒!」と命令し、自分も砲撃の準備をした。そして僕の気のせいであることを祈った。今の僕らには対潜装備が一つもない。爆雷や聴音機は響が装備しているものだけしかなかったからだ。唯一の対潜要員であった彼女がいない以上、もし多数の潜水艦による持続的な攻撃を受ければ、僕らは一人残らずこの海に眠ることとなるだろう。一隻、いや二隻までならどうにかなる。魚雷が尽きるまで避け続ければ、あちらは何もできない。通信で仲間を呼び寄せる為に浮上すれば、こちらからの砲撃の的になるからだ。

 

 十秒が経った。十五秒。二十秒。三十秒。何も起こらない。一分、二分、三分。砲弾も魚雷も、潜水艦も現れない。僕は肩の力を抜き、手を振って利根に警戒を解除させた。救命艇の方を見ると、天蓋の隙間からかすかな光を反射して輝く鋭い目が、僕を見返していた。教官だ。僕は黒板の前に出て解いた問題の答えが間違っていた子供みたいな気分になったが、そんな時に日本人がよく浮かべるはにかみの笑顔は出て来なかった。前を向き直り、無表情のままでいた。

 

 気まずかったからではない。警戒命令を出したのは間違いではなかったと思っていたからだ。あの声は、以前に聞いたものとよく似ていた。何を言っているのかきちんと聞こえない辺りもそっくりだ。はっきり喋れ、と僕は深海棲艦たちに苛立ちをぶつけた。

 

 小さな声でぶつぶつ言う奴らほど、僕の気に障るものはない。民間人だろうと、艦娘だろうと、艦娘ではない軍人だろうと、誰だって言いたいことはちゃんと言うべきだ。そうでなければ黙っていればいい。人間がぶつぶつ言うのは、それが独り言などでないのなら、明確に口にすることがはばかられるようなことを言っているからだと僕は考えていた。怒られるから、とか、自分の立場が悪くなるから、とかの理由があり、でも言わずにはいられないのだ。馬鹿馬鹿しい。僕はそういった態度の負け犬どもに対して、この一言よりも相応しい文句を知らなかった。昔は“女々しい”と言ったらしいが、「女性らしさ」という観念についてのあらゆる論争に巻き込まれるのを避ける為に、この言葉を使うのは避けることにする。そもそも、ジェンダーに関する僕の意見にもそぐわない言葉だ。

 

 ところでそれはさておき、鬼級や姫級ではない人型深海棲艦同士でもコミュニケーションが行われていることは、ほぼ確実とされている。これは、僕らの見ることができる彼女たちが、まがりなりにも現代的な軍事部隊の形を成していることからも推察できる。現代の軍隊は、獣の群れのような、頭を潰せば修復不可能な混乱に陥ってしまう原始的な集まりではない。ある種の社会性を持ち、高度に統制され規律の存在する、打たれ強い集団だ。もちろんこれからも軍のあり方というのは発展していくだろうが、ここに至るまでにさえ人は血と闘争の長い歴史を歩んできた。深海棲艦がいつ生まれたにせよ、彼女たちは僕らが長く汚れた道を歩いた末に見つけ出したものに、同じく到達しているのだ。であるならば、僕らが備えている情報伝達能力を持っていないと筋が通らない。やり方が違うだけで、その力はあるのだ。

 

 けれど彼女らの情報伝達のやり方が何によってどのように行われているか、ということになると、またもと言うべきか、世界最高の権威でさえ今もって皆目不明であると告白するしかないそうだ。とりあえず、彼女らは退化した声帯と、人間と同様の聴覚を持っていることが分かっている。本に書いてあったことだから、実際は違うのかもしれないが、少なくとも一般に公開されている情報ではそういうことになっている。

 

 彼女らのコミュニケーション方法については様々な説があり、その中でもっともそれらしいと人々に考えられているのは不可聴域音波、要するに超音波または低周波説だが、中にはテレパシー能力でやりとりしているのだという珍説もあった。深海棲艦はみんなサイキックだという訳だ。収斂進化説と同じぐらい独創的で、面白い発想だと思う。激戦地になっている海域では、ボールのような形をした航空機を飛ばしてくる深海棲艦が確認されているが、テレパシー説の賛同者たちの論理で行けば、恐らくそれらもテレキネシスか何かで浮遊させているのだろう。子供向けの本にでも載せるべき、真剣に考える必要のない与太話だった。

 

 ただ、音波説を筆頭とする、テレパシー説以外の有望そうな考えにも穴はあるということは認めなければならないだろう。人型深海棲艦の死体を何度解剖してみても、効果器や受容器……つまり、発信機と検知器が見つからなかったのである。音波説の支持者たちは戦闘による破壊のせいだと主張しているが、何人分もの死体が全て的確にその部分だけ破壊されているなどということは、考えづらい。

 

 時計を見る。針の先には夜光塗料が塗ってあるが、それも蓄光できなければろくに光れない。お陰で今が何時なのか知るのには苦労したが、僕の交代の時間が来たのは何とか分かった。救命艇の連中に交代を伝えようとして振り返る。


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