[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「洋上」-4

 風除けは下ろされており、そこから誰か出てくる気配はなかった。さっきの警戒命令を出した手前声を上げづらかった僕は、手を振って一旦停止を利根に伝達した。ボートに近づいて風除けをめくり、僕に背を向けて腰掛に座り、ゆらゆらと上半身を揺らしながら眠りこけていた北上の肩をつついて、起こそうとする。だが疲れているのか、中々起きようとしない。それは仕方ないことだが、起きて貰わなければ困る。甘やかしている余裕はないのだ。ここが研究所で、出撃がない日だったなら、僕は彼女を好きなだけ寝かせてやるだろう。一日中だって構わない。せめて一食ぐらいは食べて欲しいので、以前に日向が僕にやってくれたようなことをするかもしれないが、休日を休むことに使うのを咎めはしない。しかしここは残念ながら、研究所ではない。海なのだ。戦場なのだ。彼女を気持ちよく寝かせておいてやりたい気持ちがなかった訳ではないが、そうすることはできなかった。

 

 那智教官は後方の警戒をしていた。起きていることを示す為にか、僕の方をちらっと向いたが、そんなことをしなくても彼女が居眠りをするところなんて想像さえしていなかった。隼鷹は青葉と操縦士の近くで横になっている。彼女は教官と交代で警戒と休養を取っているのだ。

 

 北上は目を覚まさない。何だか気持ちよさそうな寝顔と寝息が小憎らしい。僕は馬鹿らしくなって、彼女の小さな鼻を軽くつまんで左右に揺さぶった。悪戯をしているところを見咎められた時のように北上の体がびくりと震えた。お、やっと起きたな、と思い、声を掛けようとする──だが北上が僕に寄越した裏拳の方が、僕の言葉よりも早かった。

 

 横っ面をもろに殴り飛ばされ、足場が悪かったこともあって僕は後ろに倒れこんだ。殴られてから倒れるまでの間に僕の頭に巡っていたのは、ぶん殴るほど怒らなくってもいいじゃないか、というひどくのんきな考えだった。北上が彼女の夢の中でどんな状況に晒されていたのか知りたくもないが、きっと僕がよく見るような気味の悪い夢だとか、あるいは眠っている自分の喉を掻き切りにやってくる深海棲艦たちの夢でも見ていたのだろう。夢から覚めた直後の、一瞬の意識の空白に、僕がやったことと彼女の夢がぴたりと一致したに違いない。

 

 軽巡らしいスピードで僕を殴り倒した北上は、訓練所で教わった通りのことを続けようとした。即ち、倒したら殺す、である。けれど僕だって那智教官に教育された身だ。北上が次にどんな手を使うかは、容易に推察できた。まだ僕がゴムボートの上にいる以上、発砲はできない。ナイフか素手で、ボートの外に叩き出すかここで殺してしまうかしなければいけない。僕が旗艦になって以来、第五艦隊の一員たるものは全員がナイフを身につけることを義務付けられていたが、北上はより原始的な本能に身を任せた。首を目掛けて伸ばしてくる腕を払い、体勢を崩した彼女の足を蹴って僕の体の上に転ばせる。身を起こそうとするのを邪魔しながら片腕を彼女の脇の下に突っ込み、もう片腕を背中に回して北上の利き腕である右腕ごと押さえつけた。

 

 彼女はまだ暴れようとしたが、やがてぴたりと動きを止めた。僕もそれに合わせて力を緩め、ようやく正気を取り戻した北上の目を覗き込む。彼女のつぶらな瞳はこう言っていた。「何処までが夢だったの?」はてさて、それは救命艇を引っ張りながら彼女自身に考えて貰おう。

 

 僕は彼女の謝罪を聞くのを後回しにして、さっさと移動を再開してくれるように頼んだ。どうせ、大したことじゃない。どんな理由であれ友達に殴られたのは久々だったが、一発の裏拳など、軍隊では寝覚めのコーヒーみたいなものだ。僕は北上の体温の残る腰掛に座り、どたばたしていた間にも警戒を続けていた那智教官の背中にじとっとした視線を送った。助けてくれてもよかったんじゃないですか、という意味合いを込めてだ。それは冗談であって、僕は本気で助けを求めてなどいなかった。那智教官が警戒を解いて止めに入っていたら、僕はむしろ彼女の親切のせいで教官を叱咤し、しかる後に罰さなければならなかっただろう。そんなのは胸が痛む。僕は教官が軍人として正しい行動を取ってくれたことに感謝した。

 

 苦しい状況にいる友軍や、同僚を助けないというのは、特に民間人などにはおかしく感じられるかもしれない。僕だって、十四歳の頃に今みたいなシーンを映画なんかで見たら、助けてやれよと思うだろう。実際、一般社会ではそれでもいいのだ。警戒を解いたところを目掛けて魚雷を放ってくる潜水艦や、見ていない時に限って姿を現してこちらに撃ち掛けてくる敵の水上艦は、一般社会のよき人々が接することのない連中だからな。だがここは戦場で、僕らは軍人だ。軍人は仲間を助けることを大事にするが、それよりも大事にするのは、命令を受けて実行するという原則だ。でなければ、目的がどんなに崇高であっても、それは持ち場を許可なく離脱したことになり、敵前逃亡と見なされることさえあるのだ。だから、那智教官は動かなかった。そしてその判断はいつものように正しかったのである。

 

 目を閉じて、眠りに入る。さっきと違って意識はすぐに深い底へと落ちていったが、響とは会えなかった。代わりに出てきたのは、天龍だった。今度の彼女は怪我をしていなかった。また君か、と僕は彼女に言った。そうさ、またオレさ。そう天龍は答えて笑った。

 

「こんなことを言うのは失礼だろうけど、響に会いたかったよ」

「オレだってお前なんかじゃなくて龍田と会いたかったさ。だがまあ、願っても叶わないことだってあるし……叶わない方がいいことだってあるんだ。我慢するしかない、だろう?」

 

 妙に聞き分けのいいことを言う天龍に、僕も笑ってしまった。彼女は僕の夢に出てくるようになって、随分と角が取れて丸くなった。まるで僕が彼女にそうあって欲しいと思っていたみたいだ。「龍田をここに呼べればよかったんだけど、どうも無理らしい。僕の夢なのにな」「自分の夢なら自分の思い通りになると考えてるのか? 分かってないなあ、夢は現実の一部なんだぜ。そうそうお前の好きには動いてくれないさ」綺麗に並んだ白い歯を剥き出しにして彼女は再び笑い、くくく、と声を漏らした。それは猫が喉を鳴らしているかのようだったが、猫は猫でも彼女は山猫に例えられるべきだろう。

 

 座ろうぜ、疲れるだろ。そんな天龍の誘いに頷くと、僕と彼女は研究所の食堂にいて、向かい合って座っていた。周りには昼食を取る所員たちがいて、騒がしかった。ざっと見渡す。テーブルの一つに、僕が接点を持ったことのない筈の艦娘たちがいた。金剛型とか、高雄型の艦娘たちだ。彼女らは一様に口元を引き結び、押し黙ってこちらをじっと見ていた。その視線に意識を絡め取られ、引きつけられて、僕も彼女たちの目を見返そうとする。だが天龍が僕の顎を掴むと、無理に彼女の方を向かせた。「人が喋ってる時は、そっちを見るってのが礼儀だぜ」それについては彼女の言う通りだった。見ると、彼女の手元には食事が並んでいた。こんがり焼かれたステーキ、付け合わせのポテトサラダ、焼きたての匂いだけでそのおいしさを確信できるパンに、赤ワイン……現実の研究所でそんなものが出たことはなかったが、そんなことが気にならないほど、おいしそうだった。僕はすんでのところでよだれが垂れるのをこらえると、少し分けてくれないかと頼もうとした。夢だとは分かっていたが、せめて夢でぐらい腹一杯になるまで飲み食いしたかった。

 

「ダメだ。これはオレの食いもんで、お前のじゃない」

「僕はまだ何も言ってないじゃないか」

「分けてくれって顔に書いてあったんだよ。全く、死人から食事を奪うなんていい根性してるぜ。オレもそれぐらい生き汚けりゃ、そっちにいたのかね」

 

 肩をすくめて、彼女の質問への応答とする。もしもの話は楽しいが、それだけのものでしかない。天龍もそれは分かっている筈だ。だからか、彼女は答えを言葉にしなかったことについて何も言わなかった。声の調子を真面目なものに変えて、彼女は言った。「お前のお友達のことは残念だったな」響のことを天龍は知っていたのだろうか? 研究所に立ち寄った際、会っていた可能性は十分にある。もし会っていたのだとしたら、二人はどんな話をしたのだろう。さっぱり思い描けなかった。僕は頷いて、本当に残念だ、彼女にもう会えないのが寂しくてたまらない、と呟いた。天龍は椅子の背もたれに寄りかかると上をぼんやりと見つめて、吐息を吐き出すように、ああ、そうだよなあ、と相槌を打った。

 

 話題を変えようと思った。夢の中でまで響を偲んで湿っぽい気分になりたくなかったのだ。しかし、僕と天龍は親しい友達ではなかった。候補生時代の天龍は僕を避けていて、僕の方でも彼女と特別仲良くなろうとはしていなかった。その上、前に研究所の食堂で話した時には怒らせまでしてしまった。そんな相手と何を話せばいいだろう。僕は基本に従うことにした。自分が喋るのではなく、相手が喋るよう仕向けるのだ。それには、相手の好きなトピックを話題に選んでやればよかった。そこで、一つ訊ねた。

 

「まだ戦争が好きかい」

「ああ。お前は……好きじゃなさそうだな」

「まあね。憎んでるよ。だって、響が死んだんだ。君には悪いけど」

「いいさ。オレはオレ、お前はお前の好みってもんがある。それは分かってるよ。だけどな、おい」

 

 天龍は食事の皿を脇に押しのけ、身を乗り出して僕の目を見た。彼女の瞳には怒りが燃え盛っていた。それは傷つけられるべきではない者が傷つけられたことへの怒りだった。傷つくべきではなかった者とは、響だけのことではない。天龍の友人たち、部下たち、顔も名前も知らない何処かの誰か。海軍本部や戦場に出ない人々にとっては書類上の存在でしかない艦娘たち、兵士たち、そして通達一枚で片付けられてしまうような彼女らと彼らの死。その出来事は多くの人々の人生を、彼ら彼女らの世界を見る影もなく変貌させてしまう。そんなものがありふれていていい筈がない。なのに、現実にはそれは何処にでも転がっている悲劇なのだ。天龍は戦争が好きだった。でも、彼女はあくまで自分のものとしての戦争を愛していた。誰かが傷つき、死ぬことまでを愛することは、決してなかったのだ。

 

「血迷ってもあいつらみたいにはなるなよ。辛くて悲しい戦争はやめよう、深海棲艦とお手手を取り合って世界をよくしようなんて連中みたいには。そうさ、あいつらが前に言ったように、お前は戦争を終わらせられるかもしれない──けど、それは奴らと深海棲艦どもを、皆殺しにするってやり方でだ。いきなりぶっ放してくるような奴らと、どうやったら相互理解なんてできるんだ? あり得ねえだろ。

 

 深海棲艦とオレたち……いいや、オレとお前は、どっちかが血反吐垂れ流してくたばるまで撃ち合うのがお似合いなんだ。融和派どもは腑抜けの腰抜けさ。臆病風吹かしてよ、逃げ出しちまったんだ。お前だけはそうなるなよ。そうならない限り、オレはお前の味方だ。いつもここにいる。いつでも手を貸してやる。気をしっかり持って、やり遂げるんだ。深海を奴らの墓場に変えてやれ。復讐でも、制裁でもいい。深海棲艦と融和派たちを始末しろ」

 

 目をぱちくりさせながら聞いていた僕は、天龍の訴えに戸惑いを感じていた。僕の知っている天龍らしくない、と思った。僕の味方? 彼女が? 急に僕へ親しみを表すのには、何の理由があるんだ? 夢だから、ではなく、僕の深層心理にどういった願望があってこのような天龍が現れたのかを知りたかった。納得できる理由があったとしても、これがただの夢だという厳然たる事実があったとしても、他人の人格を捻じ曲げる行為は許されるべきではない。僕は自分自身に嫌悪を抱いた。すると天龍は身を引いて深く椅子に座り直そうとしたので、僕はその機を逃さずに立った。こちらを見上げる天龍に、僕自身が作り出した都合のいい虚像に、別れの言葉を投げつけてやる。

 

「もういい、十分だ。君と響は死んだ。夢で話したところで、現実に戻れば二人ともいないんだ。全部、僕の頭の中での出来事だ。それもひどい再現性の。天龍、君は何だって僕にそう優しくする? 君とは戦友だったが、友達という言葉を使える関係じゃなかっただろう」

「やれやれ、これだ。何も分かっちゃいねえんだからな、お前は。いいか、好むと好まざるとに関わらず、今となってはオレもお前なんだよ。どうして自分自身を嫌える?」

「何だって? ちょっと待て、いきなりそれはないだろう。荒唐無稽にもほどが……」

 

 後ろから肩を掴まれる。僕はそれを振り払う。今は天龍と話しているのだ。それを邪魔されたくは──「こら、起きんか!」がん、と頭に衝撃が走り、僕は目を閉じて頭を押さえ、鈍い痛みに息を漏らした。今や僕の耳には人々の喧騒ではなく、海の音が聞こえていた。隼鷹の寝息も。目を開くと、利根のくりんとした目が僕を見つめていた。僕の頭が予想よりも固かったらしく、叩いた手もそこそこ痛かったようだ。手をぱたぱたと振っている。手間を掛けさせた上に痛い思いまでさせて、申し訳がない気持ちだった。深呼吸して、利根と場所を代わる。北上は欠伸をしながら待っていた。遅れたことを詫びながら、ロープを掴む。「ん、行こっか」と彼女は言った。「そうしよう」と応じる。

 

 上を見る。じきに風で飛ばされるだろうと予測していた雲は、まるで空にへばりついたみたいにずっとそこにある。敵の視界とこちらの視界、どちらも平等に封じてしまう暗闇は、今のところ僕たちの味方をしてくれているが、気を抜けば牙を剥いて飛び掛って来るだろう。前を向いて、牽引を開始する。

 

 那智教官は六分儀を持っていたが、この天候では使えまい。月や太陽が見えなければ、天測航法は不可能なのだ。もし実際の針路が計画と違っていたら……僕らは当てもなく最期の時まで海を彷徨い続けることになる。ぞっとする未来だった。いや、そんなことにはならないぞ、彷徨うのはユダヤ人かオランダ人※84だと相場が決まってる、と自分に向かって冗談を言ってみても、その不安は拭えなかった。北上は僕の言葉を耳聡く聞きつけて言った。

 

「いつまでに帰港できるかな」

 

 ここで無意味な勇ましさを演出して、「たとえ最後の審判の日まで掛かっても帰りついてみせてやる」などと言ってしまおうものなら、命運は尽きたも同然だ。そこで僕は趣向を変えて、あえてネガティブなユーモアを発することにした。「地獄が凍りつくまでには帰れるさ」この言葉はさっきの冗談とは違い、口にしていて僕の胸にすとんと落ちて入った。何と表現するべきか……つまり、受け入れられたということだ。不安を払拭するのではなく、自分のものとして認め、無用な動揺を生まないようにする。それはそういう効果を発揮した。憂いの類は綺麗に消えてくれた方がもちろん嬉しかったが、現実でいつも最良の結果を得ることはできない。

 

 ところで、僕は時間というものに対して常々文句を申し立ててきた。やれ進むのが遅いだの、早いだの、その場その場で違うことを平気で言ったりもした。挙句、そのことを反省するつもりもない。だからここで時間というもののいい点を一つだけでも挙げておくとしよう。それは止まらないのだ。

 

 僕と北上が牽引作業を続けている内に、朝が来た。海の波立ち、それと雲の状態が偶然にぴったりと合わさって、まるで燃えているかのような赤で天上と足下の両方が塗り潰されていた。見とれていたかったが、僕は自制心を最大限に動員して水観を発進させ、海上警戒に戻った。水平線上に目を凝らすと、水面が反射する朝焼けの光で眼球がずきずきと痛んだ。昨日の昼はそうでもなかったのだが、色が赤なのが悪影響を増しているのだろう。腰のサバイバル用品を入れたポーチに手をやって、中から小さなケースを取り出す。黒や緑や茶色のファンデーションが、この鏡付きケース(コンパクト)に収まっている。黒を選んでそれを目のすぐ下に塗ると、痛みはやや楽になった。指を海水で洗ってから北上にも差し出して、塗るように言う。彼女は僕の顔を見て「何その顔」みたいな表情を作ったが、やはり海面の反射には悩まされていたのか、喜んで近づいてきて受け取ろうとした。しかし、彼女は指を滑らせてしまった。

 

 アクロバティックな姿勢で、ではあったものの、自分がコンパクトを受け止められたことは僕をほっとさせた。僕が必要とする色のファンデーションは普通に売っている店がないので、少しお金を多めに出して取り寄せて貰わなければいけないのだ。お金だけではなく、荷が届くまでの時間もそれなりに掛かる。付け加えるなら、環境にもよくない。落とさなくてよかった。

 

 受け止めたコンパクトをもう一度北上に渡そうと彼女の顔を見て、僕はぎょっとした。北上は僕の方を見て、このつまらないミスに対しては大げさすぎるほどの青ざめた顔をしていた。互いに隔てなく朝焼けの赤光(しゃっこう)を浴びていてさえ、僕は彼女の顔を一様に染める暗澹(あんたん)たる色合いを見て取れたのだ。内心の恐慌じみた感情は押し隠し、なるべく優しく気遣うような声で「どうしたんだ?」と言ってやる。だが答えは概ね分かっていた。北上は僕を深海棲艦か何かと間違えて絞め殺そうとした。その失敗を引きずっていたのだろう。そしてもっと深く考えるならば、そんな失敗をするほど精神的に追い詰められていたのだと思う。

 

 心が疲れると、まずは感情の触れ幅が大きくなるものだ。正負の両方にである。その後、逆の事態が発生する。無気力、無感動になり、身を守る為に外界と自己の内面を切り離してしまう。その段階に至ってしまえば、引き戻すのには長い時間が掛かる。それは、兵士としての『限界』なのだ。無論、それを持っているということは恥ではない。僕や教官、長門、誰にでも限界はある。そうして、ある人は一年でそれを迎え、ある人はただちに頂点に達してしまう。

 

 北上はまだ最後の段階には到達していなかった。なら、まだ間に合うということだ。僕は即座に決断した。コンパクトを手に掴んだまま停止命令を出し、北上に近寄る。彼女は右の平手で己の顔を覆い、俯いて、こちらに何らかの言い訳をしようとしていた。そんなものを聞いても、彼女の心を休ませることはできない。抑圧された感情を吐き出すことで、疲れた心身をケアするという方法は存在するが、そうすることでかえって宿主を傷つけてしまう場合だってあるのだ。僕は言った。

 

「北上、救命艇に戻って利根たちと一緒に休め。僕がいいと言うまでだ」

 

 彼女がこの命令に従いたがらないだろうということは読めていた。北上は、仕事中だったとしてもサボれるようなものならサボるし、ふざける時はふざけるし、手抜きができるなら手を抜くタイプの人間だ。僕と話すようになった切っ掛けが何だったか、僕はまだ忘れていない。しかし、それはあくまでその手抜きによって誰かが傷ついたり、死んでしまったりするようなリスク、周りの誰かに笑い事では済まないような危険性を押し付けない時だけの話であって、そうではない時には彼女は決して中途半端な態度を取ったりしなかった。そういう性格だから、予定していなかった休憩時間を自分の為に作らせるというのは、易々とは受け入れられなかったのだ。そう信じている。

 

 知ったことではなかった。僕は自分がそう考えているかのような態度を装った。そうすれば、北上はずる休みをする気分でではなく、渋々ながら命令に従って、という気持ちで休むことができるからだ。でも実のところ彼女の気持ちは痛いほど分かっていたし、飄々とした性格の裏にそういった責任感の強さなんかを隠してるものだから、僕はこの北上という少女のことがたまらなく好きなのだ。だがしかし、待てよ……響が懸念していた艦隊員との仲がよすぎるという問題が姿を現したのだろうか? この北上が僕の苦手な、武蔵や長門だったなら別の決定を下しただろうか? そんな疑問が急に浮かんだが、ごく短時間考えて、そんなことはしないと判断した。僕は生き残る為にやらなければならないことをやり、やらせる。そいつが嫌な奴だから、などといった幼稚な理由で休息を与えないような、馬鹿な真似はしない。

 

 北上は救命艇に戻った。僕はロープを二人分体に巻きつけて、牽引を続けようとした。二人で引くよりも当然に速度は下がるし、負荷も掛かるが、動き続けておきたかった。ところが、さあ引っ張ろうとすると、後ろから「おい」と声が掛かった。那智教官の声だった。僕は振り向いた。「貴様も休んだ方がいい」と風除けを上げた天蓋の下に腰を下ろした彼女が言った。微笑がこぼれる。教官は怪訝な顔をしたが、僕は那智教官に「貴様」と呼ばれる度にむず痒く、面映い気持ちになるのだった。それは彼女の信頼と、僕と彼女の間に存在する絆の証であるかのように僕の耳に響いていたからだ。それが気のせいだとか勘違いだとは、小指の先ほども思っていなかった。

 

「そうしたいのは山々だが、移動を続けなければ」

「貴様一人で二人分も働くつもりか? ふむ、確かにできるだろう。暫くはな。でもその後は?」

「だが僕はまだ……分かった、そうだな。そうしよう。助言に感謝する、二番艦」

「どういたしましてだ、旗艦殿」

 

 反論しようとしたものの、僕は意見を変えて教官の忠告を受け入れた。海錨を投じて、救命艇に戻る。恥ずかしながら、僕にも疲れが溜まっていた。しかし北上ほどではないので、教官と共に警戒任務に携わることぐらいはできた。天蓋の支柱を調節し、天井を限界まで低めさせ、その下にうつ伏せに寝転がったまま海を見る。この前の嵐が嘘のように、穏やかな波だ。空の方は相も変わらず雲、雲、雲で、太陽は見えない。もしかして、深海棲艦には天候を操る能力でもあるのだろうか。だとしたら、妬ましくなる能力だ。僕にもそんな力があれば、風でも波でも起こして救命艇をすいすいと移動させてやるものを。

 

 結構な時間が経った。海はまだ赤かったが、救命艇の上で起きているのは僕と教官だけだった。まあ、救命艇だけでなくその周囲半径数百キロなどを含めるなら、水観妖精もその中に加えていいだろう。時折、互いに逆の方を伏せて海上を警戒している僕らを、強い風が撫でつけていった。僕の方から吹くこともあれば、教官の方から吹くこともあった。三度目に僕へ風が吹き付けた際、急に、今なら誰にも聞かれずに心の重石となっている種々の出来事を打ち明けることができるのではないかと気づいた。深海棲艦の声が聞こえるということ、何度も何度も深海棲艦の夢を見ること、融和派に拉致されたこと、その間のこと、今も電が青葉に張り付いていること、長門たちを筆頭とした多くの艦娘に嫌われること……僕は口を開きかけた。

 

 でも閉じた。言えなかったのだ。教官を信じていなかったのではない。僕がこの艦隊で誰よりも信用している女性は誰かと聞かれれば、僕は胸を張って自分を疑ったり考え込むことなく答えることができる。それは那智教官だ、僕の教官で、命の恩人で、二番艦で、誰より頼りになる人だ、と。だからこそ言い出す勇気が起こらず、むしろ僕の舌を石化せしめたのである。今でも僕は那智教官が僕を裏切るところなど、僕の秘密を誰かに漏らすところなんて想像できない。けれど僕はもう知ってしまっている。想像できないことでも起こりうるのだということをだ。響があんな形でいなくなってしまうなんて、僕だけじゃない、彼女自身だって思わなかったろう。

 

 那智教官は軍人だ。軍人としてどう振舞うべきか知っている人だ。融和派との繋がりを知った時、彼女がどちらに傾くか、分からなかった。知りたくもなかった。もし教官として、二番艦として僕を守ることを選んだとしたら、その選択は僕に彼女からの大きな友愛の情を感じさせ、感動させると同時に、本質的な立場として誤った決定を下したことで、僕を失望させもするだろう。かといって『本質的な立場』に従って提督に報告し、あの恐ろしい女性の手に僕を委ねたとしたなら、那智教官の正しさを尊敬しながらも、その人間性を非難するだろう。

 

 どちらにも進めない以上、荷物を抱えたまま立ち止まるしかなかったのだ。僕は何も言わず、四度目の風が吹くのを感じていた。

 

 進行方向の海上に黒い影が見えた気がした。救命艇備え付けのサバイバルキットの中から、可変倍率の双眼鏡を取る。レンズが太陽光を反射してこちらの位置を知らせてしまわないよう、天蓋の中からその影の揺らめいていた地点を観察した。雲の影が海に投影されて深海棲艦の影に見えたのだったならいいが、本物だったとしたら急いで移動を再開しなければならない。ゆっくりと迂回路を進んで、敵の視界と索敵範囲内から抜ける必要がある。

 

 影を見つけ、黒い染みのように見えるそれにピントを合わせる。そして僕は一言漏らした。「敵だ」何てことだ。水観は何をやってたんだ? 僕が後ろを見もせずに手を軽く振ると、那智教官はこちらに来た。双眼鏡を渡して見させると、彼女は舌打ちをして補足を付け加えた。「あれは装甲空母鬼だ。だが……単独か?」双眼鏡が戻ってくる。僕は敵の姿を見直す。歪んだシルエットから教官が装甲空母鬼だと見抜けたのは、ただただ経験の差であろう。僕にはどうしても、それが敵であるという点しか分からなかった。

 

 しかし、那智教官の口にした疑問には僕も辿り着いた。深海棲艦は単独行動を好まない。戦争初期はその傾向が行き過ぎなほどに発揮されたのか、大軍勢を成して活動し、その末端はまるで統御されることなく本能のままに破壊と殺戮に及んでいた。やがて軍勢は小さくなって行き、今では基本的に人類と同じ、六隻で一艦隊の原則を守っている。これは電が寄越した資料から僕が読み取ることのできた僅かな事実の一つで、僕の立場で知っていてよいことではないが、『単独行動を避ける』という習性は訓練所でも教えている。

 

 単独なら好都合だが、航空機で索敵をされてしまえば発見はほぼ避けられない。勝利条件は見つからないこと、敗北条件は救命艇の損失。状況をそのように整理して、僕は那智教官に寝ているものを起こすように言った。今度は北上も襲い掛かったりしなかった。利根と隼鷹もだ。双眼鏡から顔を外して北上の顔を見ると、その表情はかなりすっきりしたものになっていた。短いが余分に取ることのできた休息が、彼女の心に溜まったヘドロのようなストレスを、僅かなりとも洗い流してくれたようだ。

 

 次に考えなければいけなかったのは、海錨を回収せねばならないというのは当然として、移動手段は果たしてどうするべきか? という課題だった。

 

 立ち上がって牽引するのは愚の骨頂だ。そんなことをすれば、装甲空母鬼は先ほどの僕が彼女の影を見つけたように、僕らを見つけるだろう。そうしてそれが何なのか知る為に、航空機を飛ばす。彼女の航空機は、武装していないも同然の上、身動きが取れない数人の艦娘たちを見つける。彼女は思いがけなく親戚のおじさんからお小遣いを貰ったような気持ちになるだろう。装甲空母鬼にも親戚のおじさんがいるのかどうか知らないが、いたとしたらそうなる。で、その次は? 爆弾の投下だ。それ以外に何があろうか。那智教官も隼鷹も青葉も死ぬ。僕や北上や利根はちょっとだけ長生きするかもしれないが、そう間を置かずして教官たちの後を追うことになる。

 

 それよりもマシな案としては、最初に利根がやっていたように、救命艇の縁に腰掛ける、あるいはもういっそのこと見栄えは悪いがぐてっと体を後ろに倒して救命艇に仰向けに寝転んでしまい、足だけ、脚部艤装だけ外に出して稼動させるというものがあった。視覚的問題もこれなら小さくて済む。音の問題はあったが、環境音や装甲空母鬼自身の機関の作動音で、こちらの機関音は相殺できるだろう。六人全員分の音ならともかく、一人分だけなら大丈夫だと考えられた。

 

 この案の持つ唯一の不安要素は、燃料の消費であった。装甲空母鬼を避ける為には、結構な大回りをしなければいけない。そうすると、ソロモン諸島方面に向かう為の燃料が足りなくなるかもしれなかった。那智教官の計算では、かなりかつかつのところだったと記憶している。今を生き延びることができても、その後で詰むようなことになっては元も子もないではないか。となると、僕らが頼れるのは一つだけだった──己の肉体だ。

 

「教官と隼鷹は海錨を引き上げてから、オールで漕げ。利根、操舵を任せる。北上は後方警戒。僕は装甲空母鬼の監視を続ける。全員、動く時は音を立てず、ゆっくりと動くように。光を反射するようなものがないか、気をつけろ」

「了解」

 

 教官は他の艦隊員を代表してそう答え、海錨の引き上げ作業を済ませると、隼鷹と共に救命艇備え付けのオールを取って配置につき、利根に従って漕ぎ始めた。北上はぴくりとも動くことなく、敵の姿が海や空にないか、目を配り気をつけている。僕は敵との遭遇がこの時間帯であったことを巡り合わせに感謝した。朝焼けの赤が、救命艇の色を上から塗り潰して見えづらくしてくれているからだ。とは言えど、時間が過ぎて朝焼けも当初の目に突き刺さるような強さを失いつつあった。この赤が失われない内に、迂回を、せめてここからの離脱を済ませなければならなかった。

 

 双眼鏡のレンズ越しに見る装甲空母鬼は、光線の加減のお陰でようやく僕にもそれと分かる姿を見せていた。写真や映像で見たことのある、グラビアのように扇情的なポーズを取った姿勢も、あの何処かエロティックなところさえ感じさせるにやけ顔も、今は恐怖そのものでしかなかった。彼女の姿を見つめ続けている内に、僕はこの鬼級深海棲艦がまさに佇んでいるのであって──彼女の体勢は「立っている」という意味を含むこの言葉をそのまま当てはめることができるものではないが──航行していないという事実に気づいた。ますます以って、彼女がそこにいる理由が分からなくなる。何をしにここに来た? 何処から? どうしてそこで止まっている? 沸き起こる疑問を念じるも、誰かが答えてくれる理由もなかった。

 

 それに、やり過ごしてしまえば彼女など考える必要もなくなることだ。オールでの移動は亀の歩みと言ったところだが、動いていることは間違いない。僕らがいるのとは全く違う方を向いている装甲空母鬼の横顔を見ながら、僕は無事にここを抜けられるだろうと確信していた。

 

 と、オールの漕ぎ手の邪魔にならないようにと僕の近くに移動させられて横になっていた青葉が、人が眠りから覚めようとしている時にしばしば立てる、あの「ううん」というような艶やかな(うめ)き声を上げた。僕は双眼鏡を下げ、彼女の様子を見た。女の子らしい長いまつげが小刻みに震え、やがてゆっくりとまぶたが開かれる。「あれ……?」と出た声はか細いが、僕は念の為に指を口の前で立てて静かにするようにと注意をしておいた。青葉は状況を飲み込めず、きょろきょろと辺りを見渡し、何か言おうとしてこほこほと小さく咳き込んだ。水をやり、喉を潤させる。彼女は僕が差し出した水の容器を取ろうとしたが、その為に腕を上げるのも億劫そうだったので、僕が握らせてやらなければならなかった。それだけでなく、口元に運ぶところまで手助けをせざるを得なかったのだ。そしてその中身、今日の彼女に割り当てられた配給量の内、三分の一に当たるだけの水を一息に飲み干すまで、彼女はただの一言も発さなかった。

 

 飲み終わると、けふっ、と満足そうな息を吐き出して青葉は訊いてきた。その声には活力が戻っていたが、十全のようには聞こえなかった。

 

「どうなったんですか?」

「撃ち落されたんだよ。覚えてないか?」

「全然覚えてないです……えと、それじゃあ今は、漂流中ですか?」

「君がそう言いたいなら構わないが、正確にはソロモン諸島に向けて移動中だ。なあ青葉、君が目を覚ましてくれて本当に嬉しいよ。でも悪いな、近くに敵がいて、今は話していられないんだ。もうちょっと横になっていてくれ。君の疲れた体にはまだまだ休息が必要だ」

 

 青葉は「でも」と言ってから、その言葉を取り消した。彼女には現状を把握する為に、色々な質問をしたいという気持ちがあったのだ。だが、今はダメだという僕の言葉を受け入れて、諦めてくれた。申し訳ない気持ちと、ありがとうという感謝の気持ちが胸に起こった。それは青葉への感謝のみならず、彼女までを僕から奪わなかった運命だとか天だとか、あるいは僕が心からは信じていない天にまします我らの主への感謝だった。ただし言うまでもなく、後者の「感謝」には、少なくない憤りと恨みもまた込められていた。青葉は助かったのに響が助からなかった理由が何なのか、僕には到底分からなかったからである。委細構わず、二人ともが助かるべきだったのだ。主にはどうやらそれが理解できていないらしい。そうでなければ主は響が好きすぎて、恥も外聞も身も蓋もなく、(おの)が御許にお召しにならずにはいられなかったのだろう。

 

 友人はひとまず助かった。飛び上がって喜ぶには十分すぎる理由だったが、敵が近くにいるという状況はそれを許してくれない。内側から肌と肉とをかきむしるような恨みに胸を痛めつけられ、呪詛を吐きながら双眼鏡を覗く。すると、誰かが近くで「ひっ」と悲鳴を上げた。声を出すな、と注意しようとして、喉が引きつっていることに気付いた。どうしたことかと左手を喉にやる。そこはアレルギー反応を起こした患者のように痙攣しており、不規則かつ激しい呼吸が喉を通る音が、僕の短い悲鳴として表れていたのだった。

 

 装甲空母鬼が僕を見ていた。


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