[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「洋上」-5

 装甲空母鬼が僕を見ていた。彼女と目が合っていた。

 

 深海棲艦の視力が、艦娘を筆頭とした人間のそれと比べて非常に優れているというデータはない。アフリカの辺境にしばしば見つけることのできる、未発展な部族社会で生きている人々は、必要によってその視力を著しく高めていると聞くが、深海棲艦に出身の差に基づく身体能力の違いがあるとは思えない。だけれども、彼女がこちらを見ているのは疑いようもない真実だと僕は考えていた。彼女は僕たちの方へと向き直り、浮かべた笑みを不気味なほど大きなものにした。その恐怖で以って僕はやっと、命令を出すことを思い出した。双眼鏡を顔から外すこともせずに僕は叫んだ。いや、外さなかったんじゃない。外せなかったんだ。磁石がもっと強い磁石に吸いつけられるみたいに、僕は装甲空母鬼から目を離せないでいた。

 

「奴はこっちに気付いたぞ、対空戦闘用意! 利根と北上は救命艇を牽引して直ちにこの場を──」

 

 予想外の接敵、予想外の露見と来れば、後は予想外の戦闘に突っ込んでいくしかないと思っていた。けれど僕は命令を最後まで言い終えることもできなかった。まさに予想外と呼ぶ他ない行動を、装甲空母鬼が取ったからだ。彼女はくるりとこちらに背を向けると、全速と分かるスピードで水平線の向こうに姿を消してしまった。僕と那智教官は、彼女の選んだ意外で、これまでのあらゆる時期において類を見ない逃走という行動に、呆けるしかできなかった。

 

 先に立ち直ったのは教官だ。彼女は僕の肩を軽く叩いて目を覚まさせた。僕は双眼鏡を下ろし、指示が半端だったせいで従っていいのか分からずに立ちすくんでいる利根と北上に、対空戦闘の用意を解除していいと声をかけた。「あれは何だったんだ?」僕は那智教官に囁いた。「分からん。だが、援軍を呼びに行ったとは考えづらい。あれはいつでも私たちを一方的に攻撃できた」「艦娘を見逃す深海棲艦の存在が報告されたことは?」「私の知る限り、ないな」つまり、皆目見当もつかないという訳だ。気に入らなかった。深海棲艦の気まぐれで命を助けられたと信じるほど、僕は幼稚な子供ではない。装甲空母鬼は艦娘を攻撃しなかった。何故か? それは大きな選択だ。僕たちを殺さなかった。やがて彼女の前に、あるいは彼女の同朋の前に現れるかもしれない敵を殺さなかった。それには理由が、僕らの方でも納得してしまうようなきちんとした理由が、絶対にある筈なのだ。

 

「みな貴様の命令を待っているぞ」

 

 教官の言葉で、思索から引き戻される。その言葉への答えは決まっていた。移動再開だ。あの装甲空母鬼が僕らを見逃した理由は分からない。もしかしたら、弾切れの上に航空機も尽きていたのかもしれない。他にも艤装が故障していて戦闘は不可能だったとか、もっともらしい想像をすることはできる。そしてきっとそれらは、多くの誤りを含んでいるだろう。だが一つ、これだけは正しいと分かっていることがある。僕らの位置は、深海棲艦に知られてしまったのだ。このままここにいれば、今度こそ真実の瞬間を迎えることになりかねなかった。死んでしまった響に会いたい気持ちはあるが、その為に僕まで死んでしまう気はない。どうせ会うなら、二日後に会えればいいと思う。道を歩いている時に、ふとすれ違って振り向くぐらいのさり気なさで再会したい。※85

 

 僕は北上と利根に移動開始を指令した。隼鷹と教官がオールを海から上げ、軽く海水を払ってから救命艇の中の定位置に戻すのを見計らってから、二人は機関を始動させた。いつでも発砲可能な状態にした砲を空に向け、油断なく水平線上を見張っていると、海を走っていた利根が僕に尋ねた。「針路はどうするのじゃ? このままでよいのか?」彼女が言いたいのはこういうことだった。敵が去っていった概ねの方向は分かっている。ならば、そちらから敵の捜索隊が近づいてくる可能性が高いのではないか。だから針路を一時的に変更し、追跡や捜索の目を避けて進むべきではないだろうか。僕は彼女の言葉に一定の正しさを認めたが、ここでも燃料の問題が決定を左右した。非凡な努力の結果、非情で恥知らずな旗艦は、彼の艦隊員に「同じ針路で素早く移動すれば、むしろ敵をはぐらかすことが可能だ」という大嘘を信じさせることに成功した。

 

 昼になるまで、みんな半端にしか眠らなかった。両目を閉じていても頭の半分は起きていて、救命艇が波に当たって少し大きな揺れを感じると敵襲だと勘違いして跳ね起きるのだった。このままでは体が味方の領域内に入るよりも先に、魂が神の国に入ってしまいそうだと思ったが、分かっていても防ぐ手立てはなかった。心を和ませてくれたのは青葉だけだった。彼女は教官にも届きそうな精神力に加えて、彼女を鍛えた女性の持っていない特質を有していたのだ。それは底抜けの明るさという資質であり、長期間戦争に従事した兵士には、草木にとっての日光のようにありがたいものだった。

 

 一方、普段の太陽役を任されている隼鷹はとなると、こちらは体調が悪そうだった。顔は青白く、脂汗を流している。どんな時でも彼女が好きなだけ心の中の泉から汲んでくることのできた寛容さや大らかさという人間性は、今や枯れ果てたかのようだった。しきりに吐き気を訴え、実際にえずくので、本人が喉の渇きを覚えても、水を飲ませることも食事をさせることもできない。それはこれまでに一度だって見たことのなかった、惨めな姿だった。北上の次は隼鷹か、と僕は冷たく考えている自分を発見し、衝撃を覚えた。一体何様のつもりだ? 自身の傲慢さへの怒りを膨れ上がらせてぶつけ、全力で己の醜さを攻撃する。彼女は、彼女たちは友人だ。戦友で、部下で、掛け替えのない女性たちだ。すぐ壊れる機械の部品なんかじゃない。そんなことをわざわざ考えなければいけないとは、僕も余裕がなくなっているらしい。

 

 げっそりとした表情で目を閉じて横になり、休んでいる僕の膝を枕代わりにして眉の一つも動かさない隼鷹の土気色の唇に、せめて口の渇きだけは感じずに済むよう、ぽつりぽつりと数滴の水を垂らしては舐めさせる。その舌の色さえくすんで見えた。休憩だったのに、時間が終わっても一切休めた気がしなかった。隼鷹に水を飲ませ続けていたからではなく、消耗した彼女の姿が、何故かあの小島で死んでいった天龍の最後の姿と被ったからだった。隼鷹の今の様子と、天龍の姿は全く違ったものだったというのに。僕にとって明確に死をイメージさせる、身近な存在の死を想起させるのが天龍の末路だからなのだろうか。死んだ艦娘はこれまでにも何人も見てきた。僕の目の前で沈んでいった艦娘もいた。あるいは“三番”のように、陸の上で死んでいった艦娘もいた。だけれども、個人的な関係のある誰かの死は、天龍のそれが初めてだったのだ。彼女の死が僕に与えた影響は、生前の彼女が僕に与えた影響を優に上回るほど大きなものだったのだろう。

 

 そうやって考えてみると、しゃんとしているのは利根と那智教官、それに青葉だけだった。それもじきに一人、また一人と限界を迎え始めるだろう。艤装を失っての漂流に近い環境下におけるサバイバルなど、きちんと学んだことはない。備えがなければ、防御は脆弱となる。肉体だけでなく、精神もそれは同じだ。それでも、踏ん張ろう。みんなを励まし、導くのだ。僕は旗艦なんだ。僕が倒れたら、僕の心が折れたら、艦隊員たちはどうなる? それに那智教官や他の艦隊員たちに、みっともないところを見せたいのか? 恥を知れ! これは歴史的にも僕個人にとっても使い古された激励だが、効き目は覿面(てきめん)だった。いつだって男の子は自尊心ばかり大きく育つものだ。

 

 その後、夕方までに利根が限界の前段階に入った。僕は彼女を休ませ、今度こそ一人で牽引作業をした。デメリットは承知の上だ。この時には那智教官も止めなかった。彼女も、自分自身と戦っているところだったからだ。僕は肩や腰にロープが食い込むのを感じる度に、響のことを思い、天龍のことを思った。どれだけ経っても過去とすることができず、毎日寝床で目を覚ます度に彼女たちを失い続けている人々のことを思った。彼女たちの痛みを考えることが、彼女たちの死を考えることが、僕に力を与えた。死にたくない。死なせたくない。誰も、誰もだ。死ぬのは敵だけでいい。深海棲艦や、奴らに手を貸すような連中だけでいい。

 

 夜、激しくはないが雨が降った。収まるまでに水の貯蓄を少々増やすことができた。なので僕は那智教官と話をして、水の臨時追加配給をすることにした。一人につきコップ半分程度の水だったが、降ったばかりの雨水はそれなりに冷たくておいしかった。雨と一緒に海が少し荒れたので海水混じりだったが、塩気がかえってありがたかった。ひんやりとした水分が活力を与えたのか、隼鷹などは更にコップ半分の水を飲み、しかも吐き出さなかった。この分なら食事も、と高カロリー食を差し出したが、隼鷹はこちらには手を出さなかった。

 

 天候のお陰か、敵の追手が現れることもなく、みんな口に出さずにほっとしていた。教官の六分儀にも出番はなかったが、いつか必ず空は晴れるさ、と僕は楽観的な態度を崩さなかった。意識してそう振舞うようにしていたのだ。何てことないよ、こんなのはレクリエーションみたいなもんだ、という顔をしておけば、配下の連中も不必要に悲観的にならなくて済む、と旗艦学校の訓練では教わった。僕なんかの態度がどれだけそういった精神的作用を艦隊員たちに対して起こしてくれるかは一向に不明だったけれど、少なくとも僕の気分は平気を演じている内に本当に平気になってしまった。僕は暗示や催眠の類にも掛かりやすそうだ。掛けられるようなシチュエーションに縁はないと思うが、注意しておかなければならないだろう。

 

 深夜には利根と北上の精神状態を更に回復させることを目的として、僕はまた二人を休ませて一人での牽引を引き受けた。那智教官は精神的均衡を取り戻して制御下に置いていたが、僕が彼女の意見を忘れたとは考えていなかったからだろう、再度忠告をしてくることはなかった。青葉が付き添ってくれて、彼女は集中を乱さない程度に話しかけて、夜を過ごすのを助けてもくれた。青葉はすっかりよくなったようだ。まあ、基地や泊地に戻ったら病院に入らなければならないだろうが……忙しい彼女には休暇になるだろう。僕以外の第五艦隊にも検査入院という名前の休暇を取らせるとしよう。そうして、僕は提督を説得して本物の休暇を取って、それから響の家族に会いに行こう。住所も提督から聞き出して行くのだ。彼女が苦しまずに死んだと、あれは一瞬のことだったと言おう。

 

 本当のところは知らないが、家族たちは僕の言うことを信じるしかない。少なくとも苦しまずに死んだと分かった方が、苦しみ抜いて死んでいったと聞かされるよりはマシな筈だ。僕のせいで死んだのだとも、僕がちゃんと正しい行動を取らなかったからだとも白状するべきだろうか。分からなかった。僕は自分が責められることで赦されようとしているのではないかと、己を疑っていた。自分の浅ましさについては誰よりも知っている。ありそうな考えだった。だが僕のせいだと言わないことで、責められずに終わらせようとしているのではないかと批判的に考えてみると、そちらもそちらでそれらしかった。

 

 それで、直接話すのはやめようと思った。手紙を書こう。手紙だったなら、僕はそれを何度も何度も書き直して推敲することができる。友達に──つまりは第五艦隊の仲間たちに──読ませて、文章が必要以上に叙情的な調子になっていないか(僕はこの致命的な過ちをしばしば犯す)確かめることもできる。愛すべき友人の最期を伝えるのに文学的趣向を凝らすような、無神経な真似をしないだけの常識が僕にもあった。僕はもう頭の中で手紙を書き始めていた。その中で僕はありとあらゆるものを責めていた。僕自身は言うに及ばず、飛行機のことも、パイロットたちのことも、新しい階級章を欲しがった提督のことも、お偉方がブラジルをサミットだか発表会だかの開催地に決めたことも、南米大陸が遠かったことも、地球が丸いことも、地球の表面積の七割が海であることも、深海棲艦のことも、乱気流のことも。僕は何もかもに地獄に落ちろの二言を叩きつけていた。彼女の死に関わった事柄・人物の両方全てが有罪だ。ただ響だけが無罪だった。彼女だけが無垢なままだった。必ず神の御許に至ったことだろう。あるいは単に海の底へ沈んだだけだったろう。どちらだったとしても、遺された人々にとっては変わらない。

 

 友人の話を聞きながら救命艇を引きずり、胸中で手紙を書き、夜の向こうを見る。時々、黒いベールの向こうに響の髪が輝くのを見た気になって、声を上げたくなるのだった。それは目の疲れと弱い心の生み出した幻に違いないのだが、ほんの一瞬、まばたき一度分にも満たない時間でも、響を見ることができたように感じられて、余り嫌な気持ちにはならなかった。彼女が正しく導いてくれるのだ、と僕は考えた。そうすると、もろもろの恐怖その他が一挙に片付いてしまった。

 

 心が落ち着くと、青葉の場違いな世間話に相槌を打つだけでなく、話に参加することもできるようになった。彼女は自分の誕生日が近いということを盛んに話題にした。広報部隊は通常、戦闘に参加することがなく、休みも規則的に取ることができる。だから彼女はパーティーを開く予定を何か月も前から立てていて、その為の貯金までしていた。いいな、と素直に僕は微笑ましい妬ましさを認めた。パーティーは最高だ。最後の開催から適度に間を置いてさえいれば、いつ開いてもいいもんだ。この教訓は僕の経験に基づくもので、それを思い出すことによって一瞬僕の意識は過去へ跳んだ。

 

 書類上で僕の艦隊(そう言えるのは恐ろしいと同時に嬉しいものだ)が所属している研究所の艦娘たちの中で、一番お祭り騒ぎが好きなのは隼鷹である。これは異論を差し挟む余地のないところであろう。何しろ、一人で宴会を開くことのできる唯一の艦娘なのだ。僕にはどうやって単独で「会」を開くことができるのか、聞き出そうとはしてみたものの、結局さっぱり分からなかった。どうやらそれは形而上学的な問題だったのだが、当の本人はそれを無意識下で理解しているらしく、その理解に従って振舞うことはできても解説はできないらしかった。響は記号論理学で隼鷹の無意識に挑んだが、遂に解き明かしたと自信満々で目の前に持って来られた数式みたいなものが僕にもたらしたのは、多大な混乱だけだった。

 

 こういうエピソードを持つ隼鷹と、ついでに響でさえ口を揃えて言うことがある。宴会につきものの騒ぎは別として、そういった集まりが誰よりも好きなのは日向だということだ。これはその言葉を聞いた当時の僕には、やや納得しかねる発言だった。日向? 冷静を絵に描いてペン入れして色塗ったみたいな彼女が? そんな風に反応したことを覚えている。それに対して「たまたま知らなかったのかい? それとも日向に興味がなかったから?」と隼鷹は僕の不注意さを意地悪な言い方でからかい、響は黙っていたが隼鷹の尻馬に乗って、僕を気兼ねなく非難するような目で見つめていた。そこで僕は俄然、彼女を誘わない訳には行かなくなったのだ。都合のいいことにその時僕らは夕方の食堂にいて、折しも日向のいる第一艦隊が戻ってきたところだった。そこで入り口に背を向ける席に座っていた僕は、身をよじって日向を見つけて、声を掛けた。

 

「なあ、さっき君のことを話してたんだけどさ」

「どうかしたのか」

「うん。今度、一緒に飲まないか」

「断る理由はないな」

「よし、決まりだな。日取りは……そうだな、明々後日は?」

「問題ない。酒の用意は頼む。後は私がやろう」

 

 後というのが何のことか分からなかったが、きっと食事やつまみ、場所の用意のことだろうと僕は合点した。隼鷹と響はにやにやしていた。というのは、二人は根っからの酒飲みで、敬虔な宗教家の響にせよことこの悪徳についてだけは「それはそれ、これはこれ」の立場を頑として守り抜いていたからである。それから僕は提督のところに行って、休日の申請を出そうと思った。だが提督は、いつも着ているジャケットを床にぽいと放り出し、だらしなく着崩したシャツの汚れた袖で充血した目を擦りながら「休みの申請ならもう受け取ってる」と言うのだった。僕は彼女が薬のやりすぎで未来を見たのだと考えたが、吹雪秘書艦が僕に見せた書類は提督の言葉が正しいことを証明していた。僕はその書類をじっくり調べた。筆跡が僕のものでないことや、提出者名に日向の名が書いてあることに気が向いたが、とりわけ気になったのはどういう訳でか明々後日だけでなくその翌日も休みにしてあるというところだった。

 

 通常、この研究所の艦娘が二連休を甘受できることはない。抜けた穴を埋めるのは第四艦隊の役目なのだが、僕らはいつでも人手不足だったからだ。提督は艦娘たちに対して、毎日忙しく働かせるぐらいが丁度いいと思っているらしかった。それなのに日向は休みを勝ち取った。響と隼鷹の休みまでは無理だったにせよ、僕の分まで、提督から。僕は日向に感心するよりも、提督がどうしてそれを許したのか聞きたくなった。そこで真っ向から訊いてみた。彼女は答えた。

 

「期待できないことには期待しないことにしているからだ」

 

 意味は分からなかったが、彼女はもう何も言うことはないという態度を取ったので、僕はそれ以上深く訊ねなかった。部屋に戻り、翌日を迎え、仕事をし、翌々日を迎え、仕事をし、くたくたになって眠った。その次の日、僕は午前六時に叩き起こされた。「敵襲か?」僕は寝ぼけ眼で僕を起こした誰かにそう言った。深海棲艦が日本本土を攻撃した例は少ないが、ない訳ではない。部屋の明かりはついていなくて、カーテンも閉め切っていたから、部屋は真っ暗だった。影の形しか分からないその誰かは、落ち着いた優しい声で言った。

 

「まあ、そんなものだな」

 

 そして僕はその後およそ四十八時間、あちこち場所を変え人を変え、騒がなければならなかった。日向の体力は実に恐るべきもので、二時間ほど食堂で研究所の職員たちを交えてわいわいやったかと思えば、第二艦隊の待機部屋に乱入してその場にいた加賀を言葉巧みに口説き落として一献、工廠に行って整備員と一献、甘味処の座敷席で店員を捕まえてまた一献、提督の執務室は素通りして駐車場で研究所員と一献、といった具合だった。挙句の果てに研究所内で行く場所がなくなると「では外に出るか」だ。正直な話、僕が何箇所巡って何人の見知らぬ人と酒を酌み交わしたのか記憶にない。しかもその間中日向は、ほんの数杯しか飲まずに素面のままでいたのだ。素で酔漢に調子を合わせられるのは、相当な宴会好きでなければできないことだ。

 

 意識が海上に戻ってくる。青葉は楽しげに計画を話している。僕は振り向かねば彼女の顔を見られず、敵の奇襲を受ける可能性のことを考えれば顔の向きを変えるのは難しいことだった。が、青葉の顔に浮かんでいるのがどんな表情なのか想像する方が、現実で見るよりも素敵なことなのだと僕は思った。ミロのヴィーナスが美しいのは、それが不完全で欠損しているからだ。その欠けた部分に、目のある人々ならば誰でも、自分自身の想像力で達しうる最大かつ変幻自在で無限大の美しさを見ることができる。青葉の顔がどのように輝いているのかというのも、それと同じだ。見てしまえば、それはそれで素晴らしいものであったとしても、何かしら足りない部分も目に入れてしまう。仮に無欠であったとしても、勝手に作り出してしまう。やれえくぼの形が気に入らないとか、唇の色がダメだとか、ポーズがなってないとか。これはけだし、人間の度し難い悪癖みたいなものだ。僕らはたとえアキレスを見たとしても、彼の踵のことばかり気にしてあげつらう。

 

 休憩を挟みながら三日目の朝を迎える頃には、青葉は眠ってしまっていた。あれだけずっと寝ていたのに、よく寝られるもんだと僕は妙な敬意を覚えた。僕に付き合って話をするのは、見た目よりもずっと体力を使う行為だったのだろう。せめて夢の中でぐらい、安楽にしていてくれればいい。僕がうんざりしている悪夢みたいなものが、彼女と縁遠い存在であってくれれば。

 

 航行を続けながら、口の中のガムを取り出して、水を飲む。噛みすぎで、そろそろ顎が痛くなってきた。それだけ長い時間が経ったということでもある。三日目か! 三か月も海の上にいたように思いさえすることだ。予定なら四日目の半ばにはソロモン諸島に到着することとなっている。それまでに味方艦隊に見つけて貰えたら最高だったのだが、運というのは当てにならない。到着したらどうするか? 僕はそれを考えた。まずは無線連絡だ。島に上陸して、なるべく海から離れた高い位置から連絡をする。どの島がいいか? 地図を見る限り、ガダルカナルが最適に思えた。ガダルカナル島の北にあるアイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)は以前の大規模作戦で激戦地となって以来、こちらの勢力圏となっている。有力な敵との遭遇もあるまい。しかも、ショートランド泊地から大体五百キロか五百五十キロだ。その距離なら、ギリギリではあるがヘリで往復できる。重量の問題から艤装は放棄していくことになるだろうが、命には代えられない。僕ら同様に生き残った、幸運な妖精たちだけ連れて帰るとしよう。

 

 利根と北上が太陽の光に照らされて目を覚ました。僕は青葉をきちんと寝かせてやるように二人に命じ、それを終えたら僕と交代するようにも言った。二人ははっきりとした「了解」の返事をした。僕はその力強い声を聞いて安心した。彼女たちは大丈夫だろう。ロープを彼女たちに渡し、救命艇に戻る。教官は親の仇でも見るかのように僕らが後にしてきた水平線を見つめ、その横で隼鷹はうつらうつらとしていた。「一時間休む」腰を下ろし、横になって目を閉じる。

 

 僕を揺り起こしたのは北上だった。「もう一時間経ったのか」と嘆息しながら目じりをこすっていると、北上は「いや、三時間ほどかなあ」とばつが悪そうな顔で言った。「何だって?」困惑して、僕は教官を見た。僕が寝ている間の指揮は二番艦である彼女の役目だ。きっと、ぶっ通しで働いていた旗艦を休ませる為に交代を引き延ばしたのだろう。親切なことだが、そういうことをするなら、話を通してこちらの納得ずくでやって欲しかった。こんな、騙し討ちみたいな真似じゃなくてだ。僕は固い声で彼女に言った。「僕がどれだけ休むかは、僕が決めることだ。こんなことは二度としないでくれ」教官は頷いた。ずきずきと心が痛んだ。考え直してみると、彼女の行為は僕の為ではないだろう。僕の正気を保つことが、巡り巡って結局は教官自身を含む生存者たち全員の利益になるからこそやったことだ。であるならば、僕を本人の了承なしに予定よりも長く休ませたのは、真っ当な判断だと言えた。指揮権を持っていないのに指示を出したのでもない。正当な、分別のある命令を下しただけだ。ただ、やり方がちょっとばかり汚かった。

 

 教官の指示が僕に与えた精神的動揺は否定しがたかったものの、休息の効果は僕にも明確に出ていた。僕と利根、北上は秩序立った交代制を取り戻し、移動を続けた。この日、敵とは二度出会ったがどちらも日中のことで、僕の水観が先に連中を見つけていた為に戦闘は一切起こらなかった。それがよく働いたのか悪く働いたのか、段々と僕たちは楽観的な考えを持つようになっていった。「もう三日目で、今日が終わって半日もすればソロモン諸島だ、無事に帰れるに違いない」という漠然とした根拠に基づく誤った確信とでも言うべきものが、蔓延していたのである。

 

 これは砂上の楼閣であったから、当然したたかに打撃され、塵と消えることになった。日の入り直前、最後の偵察に出した水観が無線連絡をしてきたのだ。それは要約すると「針路上に島を発見した」というものであった。それを聞いて利根と北上、それに青葉は大喜びだった。隼鷹は寝ており、僕と那智教官は自分たちがしくじったことを悟っていた。墜落から二日、四十八時間。三日目、日の出から日の入りまで、約十二時間。六十時間でソロモン諸島にたどり着いた筈がなかったのだ。これから僕らがその島に着くまでに必要とする時間を加えてみても、計算は合わなかった。だとすれば、僕らは誤った針路を取ってしまい──コンパスが壊れていたのか、脚部艤装の不具合か、今となっては理由は何でもいい──誤った島に到着してしまったのである。

 

 だが空から叩き落とされ、海を放浪し、敵から逃げ回ってどうにか生き延びてきた僕は、強靭な理性と諧謔を備えた嗜虐心で以って、自分にこう言ってやることができた。「でもよ、陸地は陸地だぜ」それで、とにかく近づいて上陸してみようということになった。もしかしたら、補給基地か何かがあって、友軍のいる島かもしれない。そうでなくても、陸の上なら深海棲艦との遭遇を恐れながら眠る必要はなくなる。かつて人間の居住地だった場所が見つけられれば、そこで休むだけ休んで、場所を確認して、次の計画を立てることもできる。距離によってはいっそ、この島から無線で救援を要請してもいいだろう。敵を引き寄せてしまったとしても、逃げ隠れする場所はたっぷりある。三十人も四十人も人型深海棲艦を連れてきて山狩りされたとしたら話は変わって来るが、たかが一艦隊の為に奴らがそんな行動に出たという逸話は聞いたことがない。天龍たちとの時だって、僕らを追い回したのはその場にいた深海棲艦たちだけだった。でも、もしあそこで何週間も過ごしていたら、敵は山狩りを敢行したのだろうか。素朴な疑問だったが、答えは知りたくなかった。

 

 僕らは葬列のように静かに進んだ。更に十二時間。落ちた日がまた昇るまで。冷静で深刻な気分になるにはぴったりの、長時間航行だった。水観が時速何百キロという高速で空を飛ぶことができた一方で、僕ら艦娘は精々が時速七十キロとか、六十キロといったところだったからだ。それでも生身で自動車並の速度を出しているのだし、上を見たらきりがない。どうしようもないことについては、あるがままを受け入れなければならないものだ。それに時間が掛かったのもかえってよかったと言えないこともない。何故なら、もし、ものの二時間や三時間で島の前まで来ていたものならば、僕らは暗中を手探りして上陸地点を探さなければならなかっただろうからだ。そうしたらきっと下らない事故が起きて負傷者を出すか、悪ければ行方不明者、死者を出していたと思う。

 

 僕は自分をどうにか制御しようとして、ある面ではそれに成功したが、別の面では失敗していた。生き残る希望は失っていなかったが、この失敗の責任を感じることから逃げられなかったのだ。時間感覚が狂い始めているのも感じていた。妙に一秒一秒が素早く過ぎ去っていく。一日目、僕はやけにそれがゆっくりだったように思っていた。今はどうだ? さっき陽が沈み、また上がって、もう一度沈み……目が回るほどのスピードだ。今日で何日目か、気を抜くと忘れそうになる。記憶を遡って指折り数えて、何とか思い出す。悪いことに、そんな自分に気づいても「それがどうしたんだ?」と笑っている僕さえ心の中にいる。よくない兆候だった。こういうサバイバル環境下で消耗した精神は、簡単には元に戻らない。ストレスに晒され続けている限り、少し回復しては前よりも悪化するということを繰り返す。さしずめ今は、悪化期にあるに相違なかった。

 

 明るくなる頃に島の形が見えてきた。四日目の朝だ。僕らは島を回り込むようにしながら近づいて行った。何処から島に上がるのかを決める為だ。水上航行可能な僕や利根らはよいとしても、救命艇の連中が安全に上陸できる地形は限られる。できれば砂浜か、小型舟艇用の船着き場を見つけたいところだった。そのどちらかなら、何の心配もなくゴムボートを持っていける。砂浜なら引っ張り上げて波にさらわれないようにしておき、落ち着くことのできる建物を見つけるまでのテント代わりにもできるだろう。船着き場ならそれは無理だが、ロープを使ってその場に固定しておくことは可能だ。

 

 巡っていく内に、うってつけの場所があるのを見つけた。島の北側に自然の悪戯によってできたとしか思えないU字型の湾があり、双眼鏡で見てみると岸壁には救命艇から上がるのに使えそうな階段も備えてあった。ロープを巻きつける為の係留柱もある。荒廃の具合から大昔に作られ、放棄されて久しい港であることは見て取れた。これはこの島に友軍がいないことの確からしさを証明していたが、建設的悲観主義の観点から僕はそれについて「知ってた」と言い放ってやることができた。湾へと導いてくれる海流に乗って、進んでいく。と、双眼鏡で強化された視覚に、何よりも見たくなかったものが捉えられた。深海棲艦だ。正確には、その死体だ。加えてより詳細に言うならば、その一部だ。港のあちこちに散らばっている。水の上に浮かんでいるものもある。手足や首、それだけではなく一体元々が何だったのか推測することさえ許さない肉塊……彼女らの体を構成していた筈の大きな部品は見当たらないが、艤装の重みで海に沈んでしまったのだろう。

 

 僕らはただちに警戒態勢に移行し、三百六十度に目を光らせながら進んだ。僕は油断なく視界内の動きに気を払いつつ、考えた。深海棲艦がそこで死んでいるということは、味方が近くにいるのか? そう信じたかったが、この考えには違和感があった。一つは、深海棲艦たちがおよそ抵抗らしい抵抗をした形跡がないことだ。だだっ広くて何もない海上以外で彼女たちが戦う時、周囲の環境が破壊されずに済むことは少ない。それは深海棲艦の激しい戦いぶりがもたらす副次災害のようなものである。それが存在しないということは、彼女たちは絶望的な抵抗をする為の時間さえ与えられなかったのだということを意味する。信じがたいが、そんなことがあり得るのだ。だがどうやってやり遂げた?

 

 救命艇を階段の横につけ、青葉、隼鷹、教官の順番で陸へと上がらせる。食料や容器に入れた飲み水、それから操縦士を連れてだ。それから北上と利根を先行させて、僕は近くの係留柱にロープを引っ掛けてから階段を上がった。数日ぶりの陸は何とも呆気なく思われたが、海上にいたのが長すぎたせいか、まっすぐ立っていても足元が揺れ動いている気はした。比較的元気な青葉に操縦士を担がせ、二列縦隊で移動を開始する。この港と同じく放棄された集落があるだろう。とりあえずはそこに行く。屋根を確保し、体力の回復に努める。全てはそれからだ。

 

 好んでそこを通った訳ではないが、僕らは深海棲艦たちのばらばらになった死体の真っ只中を歩いた。虫がたかっており、それはこれまでで最もリアルな戦争の一面だった。「見るなよ」と僕は艦隊員たちに命じたが、那智教官ただ一人を例外として、僕自身を含めてその命令を守った者は恐らくいなかったと思う。教官だけが平然としていた。彼女の目は、海で魚を見た時と同じ程度の感情に満ちていた……つまり何の感動もなかったってことだ。「わあ」と隼鷹は感激したみたいに言った。「死んじゃってるぜ、こいつら」みんなそのことに気づいてないのかよ、というニュアンスが彼女の言葉にはあった。「こんなに死んじゃってる深海棲艦見たの、あたし初めてかも。なあ、そうだろ?」彼女は僕に同意を求めたが、さにあらず、僕はあの岩礁で先んじて深海棲艦の死体を見ていた。でもここまで破損して、腐りかけているものを、となると、隼鷹と同じく初めてだった。

 

「見るなと言ったぞ」

「ああ、聞いてたよ。ちぇっ、でも分かるだろ? どうしたってこいつら目に入るんだ。目を閉じたって臭いもするしさぁ。すげえ死んでる──マジで死んでるんだぜ。参っちゃうね」

 

 僕は彼女の顔を見た。隼鷹はこちらを見てはいなかった。お菓子を前にした子供みたいに、辺りに散らばった腐肉の塊に夢中になっていた。その頬には興奮から来る赤みが差していた。一時期彼女を支配していた倦怠や悪心は追い払われてしまったようだ。その二つに囚われているぐらいなら、今の彼女の方がいいのかもしれない。しかしそれにしても、騒ぐのはやめさせなければならなかった。僕は教官を見やった。彼女は了解した。隼鷹に後ろから近づき、何か囁いた。隼鷹は小さな声で何事か言い返した。教官はそれにも反駁した。隼鷹は黙った。何を言い合っていたのかは知らないが、結果だけで僕は満足した。

 

 深海棲艦の屠殺現場を抜けてから数分歩いたところで、ふと隣にいた利根が僕に言った。「のう旗艦殿よ」僕への呼び掛けには親しみのこもった皮肉を感じた。僕は頷いて聞いていることを示した。「吾輩は一つ悟ったぞ」それから彼女は、自分が感じている愉快さを無理やりこらえているかのように、震える声で言った。「戦争はな、クソじゃ」僕は一言、「うん」と言った。彼女が汚い言葉をここまであからさまに放ったのは、初めてだったと思う。彼女の言葉の裏に、僕はかつて自分が抱いた感情の残骸を見た。『カッコいい制服、カッコいい鉄砲』。その幻は訓練所で粗方吹き飛ばされたが、それでも名残があったのだ。それは残りかすだったが、多寡が問題なのではない。有無が問題なのだ。残った最後のそのかすを、深海棲艦たちが払ってくれたように僕は感じていた。僕らは天龍のように戦争を楽しんでいなかったか? この戦争を、深海棲艦を倒す遊びみたいに思っていなかったか。ピンチに際して興奮したことは? 自分をゲームの主人公のようだと感じたことは? どれについても僕は心当たりがあった。

 

 そして現実は利根が言ったことが全てだった。この戦争は必要だと、今でも胸を張って言える。何故ならこれは、人類始まって以来初めての政治的理由を抜きにした闘争だからだ。人類という種の生存と存続だけを目的とした戦争だ。必要なのだ。これを拒否すれば、我々は滅んでしまうのだから。しかしそれはそれとして、戦争というものが本質的にクソ溜めであり、僕らがその中にどっぷりと浸かっていて、遅かれ早かれじきに神の国がケツや口へとぶち込まれるであろうということは、否定することのできない事実だった。

 

 気付くのが遅すぎた。もっと早かったら、何かまともな反応も取れただろう。提督や艦娘になること以外で艦娘に関わる人生を選ぶことも(できたとしてもしなかっただろうが)できた。整備員とか、支援団体職員とか、そういう人生だ。でも遅すぎた。僕にできる最大の反応はさっきみたいに、肩をすくめて「知ってた」とうそぶくことだけだった。耳に隼鷹の声がこびりついて離れなかった。彼女が言わなかったことさえ、僕の耳に聞こえ始めていた。「なあなあ、さっきの奴らさ、“死んでる”クラブがあったら名誉会長レベルの死にっぷりだったんじゃね? だってさ、あんなにばらっばらになってるんだぜ」その声には破壊の芸術への純真な称賛が込められていた。「すげえよ、ほんとさ。あたしどうやったらこんなのになれるのか分かんないよ」ああ、僕もだよ。お願いだから黙ってくれないか、隼鷹。「分かった分かった。悪かったって」ありがとう。

 

 名誉を防衛する為に言っておくと、深海棲艦の無残な死体は僕に艦娘となったことを後悔させまではしなかった。僕はまだ艦娘だ。敵を打ち倒し、身を守ることのできない誰かの守りとなる。平和に生きたいと望む人々が、そのように生きられるよう努める。そのことを誇りに思っている。戦い、傷つき、死ぬべき時には死ぬとしよう。生者の義務として全力でそれに抗う、抗うが、どうしてもという時にはこのたった一つの命を捧げよう。それは難しいことではない。何故なら、そういう時には僕がどう思っていようと強制的にそうさせられるものだからだ。勇気を振り絞って自ら死ななければならない、なんて状況は、まず起こらないだろう。

 


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