[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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秋の日の ヴィオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し

──ポール・ヴェルレーヌ※86 (訳:上田敏)


「大規模作戦」-1

 望んだことではないけれど、物思いに耽ることのできる時間は湯水のように与えられた。艦隊の重要な構成員である利根が、墜落時に受けた小さな傷から菌が侵入した結果、十日ほどは病院から出られなくなった為に、第五艦隊は戦闘任務を停止されていたからである。しかし、やるべきことが全くなかった訳ではない。提督は新規人員を増やすに当たっては慎重になることにしているらしく、第一艦隊における隼鷹の代替になった新入りの空母がこの研究所で一人前にやっていけるようになるまでは、どの艦隊にも艦娘の補充をする気はないようだった。ただ幸いなことに、彼女は戦闘に従事する艦隊を、定員割れさせたままにはしなかった。潜水艦娘のみで構成された第三艦隊が特務から戻ってきていたので、第一艦隊所属の不知火先輩を第五艦隊に響の代わりとして転属させ、不知火先輩を引き抜かれた第一艦隊には第三艦隊の伊八をあてがったのである。不知火先輩との作戦行動に慣れる為の演習を繰り返してやらなければならなかったが、それでも艦隊旗艦としてはありがたいの一語に尽きた。定員割れした状態での出撃を平気に思えるほど、僕は強くないのだ。

 

 けれど第一・第三艦隊の方から見てみれば、これはとんでもない処置だったのではないかと思う。特に、吹雪秘書艦は絶対に気に入らなかっただろう。彼女が彼女の艦隊で作り上げた鋼の規律とチームワークを、僕のせいで崩されてしまったのだから。不知火先輩の代替人員として伊八を与えられた秘書艦は、今までの戦術を見直して潜水艦娘を交えての戦い方を模索しなければならなくなったのだ。また、第三艦隊の方でも決して嬉しくはなかったに違いない。艦隊から友人が去るというのは、たとえ同じ研究所の別の艦隊にいるだけだとしても、寂しいものである。その原因となった僕に向けて冷たい視線が投げかけられたとしても、甘んじて受け入れる他に望ましい態度はなかった。

 

 これは僕の考えすぎかもしれないが、提督は一種の懲罰、あるいは報復としてこれをやったのではないだろうか? 軍がプロパガンダに用いる為に、あの漂流の後で僕には勲章が授与された。青葉ではない広報部隊の記者たちから、回答して欲しいという質問状の束が送られてきたりもした。それから「私たちの為に海で戦う艦娘さんにお手紙を送りましょう」という類の子供たちからの手紙も届いた。一方で提督は増やせる筈だった階級章の線をふいにした。それを僕のせいだと彼女は言ったが、提督は口だけで満足するような人だとは思えなかった。彼女を指揮官として信用したいという気持ちと、提督の目に余るほどの結構な()()()を知っているという事実が、僕を板挟みにして苦しめていた。もし、提督の本当に狙ったものがこれだったとしたら、僕は彼女が人間の心理に深く通じていると認めざるを得ないだろう。

 

 僕は不知火先輩と話をし、利根を除いた艦隊員たちで訓練を行って、艦隊がある程度は艦隊らしく動けるようにした。先輩の努力もあって、そうなるまでにはほんの数日ほどしか時間が掛からなかったことに僕は安堵した。利根は隼鷹の護衛と砲撃支援を担当するので、彼女が復帰しても新たな環境に慣れ直す必要はあるまい。一つの体には多数の器官があってあらゆる器官が同じ働きはしない※87のと同じように、僕らもまた艦隊にあって一つの体であり、一人一人が互いに器官なのだ。働きを遮り合うようではやっていけない。

 

 響に比べると不知火先輩は雷撃の精度が低かったが、その分を敵に肉薄することで補っており、それだけにこと敵に近づくという機動にかけては響よりも優れていた。この研究所には響と不知火、そして吹雪秘書艦の三人しか駆逐艦娘がいなかったから、艦種全体としての駆逐艦娘たちに比較対象を設定して不知火先輩の能力を評価することはできない。だが、あの響よりも上手くやってのけることができる何かがある、というのは、それだけでとても凄いことだと僕は考える。活かせるだけ活かすべきだろう。隼鷹の護衛役を務めさせるのはその長所を潰すことにしかならない。誰と組ませるかが問題だったが、結局は教官と組ませることにした。そうすれば、先輩が窮地に陥ったとしても、申し分のないフォローができる。響の死が僕を極度に怖気づかせ、艦隊員たちの身の安全についてこれまで以上に考えさせるようにしていたことは認めなくてはならないだろうが、それで仲間を死なせなくて済むなら、臆病だと笑われようと何を恥じることがあるものか。

 

 北上と僕、利根と隼鷹、教官と不知火先輩。補充を受けた第五艦隊の組み分けはこういう形になった。大筋では変わらない。利根と隼鷹はそのままだ。違いはと言えば、教官と僕が相棒の艦種を入れ替えただけ。北上は不知火先輩ほど接近しての雷撃を行わないので、よもや僕の心臓を飛び出させたりすることもないだろう。それより僕が気をつけておくべきなのは、北上の尋常ならぬ本数の魚雷に巻き込まれないようにすることだ。味方の弾で死ぬほど馬鹿らしい死に方はない。艦娘の武器弾薬はこれ全て敵を散々やっつける為にあるのであって、仲間に向ける分の弾など一切存在しないのである。少なくとも、建前上ではそういうことになっている。実際もそうであって欲しい。

 

 戦争で人が死ぬのは珍しくないことだ。よくある悲劇と言う艦娘もいる。けれど、響はそんな陳腐な言葉で片付けることのできない人物だった。厳密な着任時期は知らないが、かなりの古株で、研究所にいる多くの人々が共通の友人とする艦娘であり、長門や妙高さん、吹雪秘書艦と物怖じすることなく会話できる稀有な存在でもあった。その彼女を僕が──いや、響が僕のせいで死んだと考える人が現れたとて、不思議には思わなかったし、また僕の方も、そういう人々に否定して回ったりはしなかった。第一、確かにその通りなのだから、何を言うこともできない。僕は艦娘に理由もなく嫌われることが多く、そのことには経験から耐性を獲得していたが、もっともな理由によって憎まれる時、ここまでつらいとは知りさえしなかった。

 

 やがて、自分は研究所にいると気が休まらなくなったことに気づいた。不知火先輩との適合訓練・演習をしている時には嫌なことを忘れられたが、さりとて一日中彼女とそうしていることもできなかった。先輩や他の艦隊員はやり通すだろうが、こちらの身が持たない。僕は自室で二杯ほど引っ掛けると、執務室に外出許可の申請をしに行った。提督は以前に見せたような激情を既に心の底へと押し込んでしまっていたが、それでも僕と直接話すのは気に入らないらしく、身振り一つで吹雪秘書艦が応対させられた。彼女は僕が作った申請書の不備を一箇所指摘し、その部分の訂正が終わると提督の執務机の上にある判子を取って書類に押した。そこには公文書らしい角ばった素っ気ない字体で『却下』と印されていた。まだ水気が残っていて、てらてらと光る赤インクが、何やら反対する気力を僕から奪い取った。

 

 執務室から自室へ戻る道すがら、僕はあの却下が吹雪秘書艦の独断だったのか、見落としただけで提督の指示があったのか、考えた。きっと後者だろう、と思う。吹雪秘書艦と僕とは親しい間柄ではない。会話をしたことも数えるほどしかない。それでも彼女が守ろうとしているのは艦隊と研究所内の秩序であって、彼女が本当に抱えているのかどうかも分からない、つまらない復讐心ではないと僕に思わせる、立派なところがあった。僕は候補生時代に那智教官を好きになったみたいに、彼女のことを好いていた。僕はきちんとした人でこちらにひどい悪意を向けてこないなら、誰でも好きになってしまうのだ。好意の大きさは教官へ今なお向けているものが勝るが、感情とは大小の問題ではない。

 

 提督め、と小さく呟いて、彼女に怒りを向けようと試してみた。でも、ダメだった。彼女以外の誰も僕を罰する権限がなかったからだ。他の誰か、吹雪秘書艦や長門、那智教官なんかがその権利を持っていたら、心ゆくまで提督のことを罵ったり、彼女のやり口は汚い、などと身の程知らずなことを言えただろう。けれども、彼女だけが僕のやってしまったことを裁く立場にある唯一の人物なのだ。畏れ多くもその彼女から賜った苦痛によって、提督を非難することはできない。それは見苦しい行いだ。僕は結局、その後日付が変わるまで、研究所を出ることも、出ようと思うこともなかった。都合よく、やることが見つかったのだ。訓練所を出てからというもの僕の左耳に輝き続けているピアスの片割れが、何処かへと消え去ってしまったのである。ブラジルへのフライトに出る前に、指差し点検までして普段の場所に置いたことを確かにしたというのに、だ。誰かが盗んだ? いや、そんなことは起こらないだろう。鍵は掛けたし、それに盗むならもっといいものがあった。部屋の戸棚に入れておいた現金は手付かずのままだったのだ。ピアス片方だけを盗む泥棒なんて、聞いたこともない。

 

 必死になって寝ずに探したが、朝になっても見つからなかった。僕は落ち込み、あんなに大切なものを失くしてしまった自分にすっかり嫌気が差した。どうとでもなってしまえという気分だった。隊内処分を食らおうが、軍刑務所での懲役を言い渡されようが、鞭打ちを食らおうが、ここで腐っていようが、どれも変わらないと思ったのである。それなら、一つ気晴らしでもしようじゃないか、と僕は心に呼びかけた。響と天龍が揃って「反対!」と叫んだが、精神など肉体の奴隷でしかない。そして響たち二人がどれだけ僕の心を支配していようと、僕は僕の肉体の揺らがぬ支配者だった。早速、隼鷹の部屋の戸を叩きに行く。時間は昼前だった。彼女が起きていなかったとしても驚かない。むしろ、寝ていてくれればいい。そうしたらこっそり忍び入って、びっくりさせてやろう。旗艦らしい振る舞いであるかどうかなど気にしない。

 

 それよりどうやって驚かそう? 必要に駆られて叩き起こすんじゃあないんだから、水差しの中身をぶちまけるのはやめた方がいい。濡れそぼった寝床の始末をしなければならないことで、隼鷹を不機嫌にさせたくはない。そっと寝床に入り込んでやろうか? いやいや、そんな変態じみたことは淑女に対する適当な扱いではないだろう。幾ら僕と彼女が気の合う友達だと言っても、一線というものが消え失せた訳ではないのだ。しどけない寝巻き姿の隼鷹に彼女のベッドで僕を発見させるというのは、行きすぎた行為と言える。部屋のドアを叩きながら、紙鉄砲でも作って耳元で炸裂させてやろうか、それとも、などと考えを巡らせていると、扉の向こうに気配がした。おや、残念。起きていたらしい。

 

 戸が開き終わる前に「おはよう隼鷹、話が」まで言った。そうして、部屋を間違えたかと思った。姿を見せたのは不知火先輩だったからだ。服そのものは常通りのものだったが、ところどころしわが寄っていたし、先輩の顔は眠たげで、目の下はこすったせいか赤くなっていた。とりあえず「おはようございます、先輩」「おはようございます」と挨拶を交わす。僕より背の低い彼女の頭越しに、明かりの落ちた部屋の中、ベッドで寝ている隼鷹の腰から下だけが見えた。「昨日は隼鷹と一緒にいたんですね」「ええ。中々……楽しい夜でしたよ。ところで、あの、先日から言おうと思っていたのですが」不知火先輩はそう前置きをして、旗艦なのだから自分への敬語はもう必要ないのではないか、という意味のことを言った。その意見も一理ある。素の口調が敬語なのでもなければ、旗艦が目上でその他の艦隊員は目下になるのだから、砕けた物言いを用いるのが自然だろう。だが、僕は彼女に敬語を使うのを楽しんでいた。彼女がいつまでも先輩扱いされることに慣れないでいる様子を見ると、心がうきうきして、心地よい落ち着きのなさを感じられるのだ。軍務に服している際、旗艦として彼女に接する時には敬語を使うことはない。あの教官にさえそうしているのだから、当然先輩についてもそうだ。でも今は任務中ではなく、従って僕と君の関係で話をしていい時だった。先輩に敬語で話すのをやめるなんて、とてもできない。こればかりは無理だ。先輩が「嫌だから」という理由で頼んでこない限り、僕は彼女に限りない親愛の情を持ったまま、敬語を使い続けるだろう。

 

 まあ、僕の思いの全てを彼女に伝える必要はない。端的に「今はオフですから」と言って、先輩が気に病むことはないと告げる。「それとも、僕はもう不知火先輩の後輩としては相応しくありませんか? だから敬語で話す資格がないとか?」「いえ、そんなことはありません。とにかく、あなたがそれでよいと言うのなら、不知火からはもう何も言わないでおきます」「はい、先輩」「隼鷹に用があったのでしょう? 不知火は席を外します、彼女によろしくと言っておいて下さい」そう言ってこちらの脇を抜けて行こうとする彼女を、僕は呼び止めずにはいられなかった。「いえ、先輩もいていただけませんか」「不知火もですか? はあ、構いませんが」二人で隼鷹の部屋に入り、主を起こす。僕と先輩の話し声でだろうか、半ば目覚めかけていたので特段苦労はしなかった。よかった、先輩の前で隼鷹に水をぶっ掛けるような野卑な真似はしたくない。彼女はむくりと起き上がると、寝起きの曖昧な笑みを浮かべて僕と先輩を交互に見比べた。頭がまだ覚醒しきってない彼女の微笑みは、カーテン越しの陽光だけで照らされたこの部屋をやにわに明るくした。彼女はその絵画的な美しさに心打たれて、羞恥すら覚えていた僕に向かって言った。

 

「朝一で友達の顔を二つも見られるなんて、やけに素敵な寝覚めじゃないか」

「おいおい、まだ酔ってんだな? 夢の中でも飲んでたんだろ」

 

 幼稚な僕には、過度に粗野な言葉で含羞を包み隠すことしかできなかった。もっと自分が成熟した大人なら、気の利いた言葉の一つ二つは囁けただろうにと悔やむ。その横で「もうお昼前です」と、時計を見た不知火先輩が補足を入れた。隼鷹は両頬を打ってぱしりという軽快な音を響かせると、その音と同じように軽やかな身のこなしでベッドから下り「とりあえず着替えるからさ、出ててくれよ」と僕に言った。いつもの僕だったら「どうしても?」と答えただろう。そしていつもの隼鷹がこう返すのだ。「どうしてもさ」けど、今日はそんな気分じゃなかった。まだ、ふざけるには憂鬱すぎた。僕はただ頷いて、部屋を出た。不知火先輩もついてきたので、少し嬉しかった。仕事の間は厳しい先輩であり、守るべき部下であり、指揮しなければならない艦娘だが、それ以外では彼女はよき友達の一人だ。僕らは部屋の扉の左右に立って壁に背を預けた。先輩が質問を口にした。

 

「不知火にも話があるようでしたが、先に伺ってもよろしいですか?」

「もちろんですよ。と言っても大したことじゃあないんですがね。単に、お昼を食べに行きませんかっていうお誘いです。ほら、以前は」

 

 天龍の闖入で台無しになってしまったからな。あれについては、僕にも天龍に言ってやりたかったことが一つ二つあった。彼女はいいさ、テーブルについていた研究員数人を脅して追っ払ったって、そこでずっと過ごすって身分じゃないんだからな。けど僕らはそうなんだ。だから、研究所の職員たちとはなるべく上手に付き合っていきたいし、そうしてきた。最近だってそうしようとしている。それなのにあの無思慮な振る舞いだ。しかも、後でどれだけ僕が気を揉んだかあいつは知りやしないし、知ったって気に掛けもしないんだ。何しろ天国だか地獄だかに行っちまって、とっくの昔に現世的なしがらみからおさらばしてると来てやがる。そういうのってズルくないか、ええ? どうなんだよ? 天龍?

 

 心の中で響と一緒に暮らしている彼女に尋ねてみるが、好戦的で確固たる自分の信念を持っている彼女は、無言で中指を立てただけだった。僕は自分でも理由が分からないが負けた気になったので、死人の過去の過ちについて考えることをやめた。不知火先輩は、顔の筋肉を意識的に操作するのが苦手なのだが、それでも精一杯悲しそうな、同情的な表情を作ってくれた。そういった彼女の深い優しさに触れる度に、僕はこの女性を崇めたくなるのだった。

 

「前にも言いましたが、彼女のことは残念でした」

「僕にはあいつの考えは分かりませんが、きっと本望だったでしょう。覚えていませんか? 『死ぬまで戦争が続いて欲しい』って言ってたこと」

 

 胸の中の天龍は己の失言をなかったことにしようとした。「クソっ、『オレが死んでも続いて欲しい』って言うべきだったな!」もう遅い。不知火先輩は僕の言葉に頷いたが、天龍についてのそれ以上の言及はなかった。親しい友人だったのでもないし、それが普通だろう。僕だって日向や伊勢の二人と天龍を並べられて、どちらにより友情を感じるかと言われれば航空戦艦の二人を選ぶ。でも、僕はその時、一人の軽巡艦娘のことを考えていた。天龍型一番艦天龍のことを。それから、彼女が残していったものたちのことも。

 

 彼女が死んだ後、僕にできたことは少なかった。逝った先で困らないように刀を天龍に返し、葬儀などのことは軍に任せ、三通の手紙を書いた。あの日天龍に何があったのかを、偽りなく書いたものだ。一通は龍田へ、一通は浦風たちへ、最後の一通は天龍の家族へだ。家族の住所は軍に問い合わせ、個人情報保護とかで教えて貰えなかったが、代わりに遺族への手紙を送る業務を行っている部局があることを教えてくれた。やがて返事が来た。龍田からは引き裂いた僕の手紙の残骸が封筒で。浦風たちからは涙の染みがついた数行の、当たり障りのない言葉だけ。彼女たちを傷つけたかもしれない。余計なことをしたと責められても、言い訳などできない。それでも僕は満足していた。何にせよ、彼女たちは天龍がどう生きて、どう死んだか、最初から最後まで一通り知ることができたのだ。

 

 けれど遺族からは、何もなかった。今でもどうしてか、時々考え込んでしまう。彼我のどちらかの手紙が、検閲に引っかかりでもしたのだろうか? 僕は返信が来ないことに苛立って何通か書き送った。やっぱり結果は同じだった。部局の窓口業務担当の子に食事と高い飲み物をおごって、届いたかどうかを調べて貰ったりもした。届いていた。それなのにあいつらは何も書いてこなかった。一言でいい、僕の手紙が気に入らなかったなら、ただ一言「やめろ」と書いて送ってくれればそれでよかったのだ。

 

 とどのつまり、あいつら民間人は兵隊や艦娘のことなんて、それが自分の娘であってさえ、遠い世界の事象でしかないんだろうと僕は頭ごなしに結論した。天龍が死ぬ。軍の担当官が来る。黄色い手紙。『海軍長官はお悔やみの言葉を……』。遺族年金の通知。担当官は去る。母親は居間で泣く。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()。父親は妻の肩を抱き、水を飲ませ、ベッドに連れて行って寝かせる。それからこう言って励ます。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 無論、これは僕の妄想でしかない。苛立ちを正当化する為の、卑怯な想像、決めつけだ。天龍はちょっとならず変わった奴だったが、彼女の両親がこんな人でなしだと思いたくはない。きっといい人たちなのだと、日曜には夫婦二人で腕を組んで散歩をしたり、道端に落ちているゴミを見つけたら他人の目がなくとも拾ってゴミ箱に捨てるような、そんな類の人々なんだろうと思っていたい。でも、それじゃあ、どうして何の返事もしてこないって言うんだ? 納得できる説明をして欲しかった。

 

 部屋のドアが開き、隼鷹が顔を見せる。普段の服と髪型。頭に血が巡ってきたのか、頬には健康的な赤らみが差している。「突っ立ってないでさ、入りなよ。お茶とか飲むでしょ?」「喜んでいただくよ」「不知火も同じくです」招かれるままに中に入り、テーブルにつく。お茶はすぐに出てきた。僕らは三人して湯のみから暖かい緑茶をすすり、ほう、と溜息を吐き出して肩の力を抜いた。そこで僕は口を開いた。隼鷹に話させると、彼女の話術が巧みすぎて、こっちの誘いを掛ける機会を逸してしまう恐れがあるからだ。

 

「お腹は?」

「ぺこぺこ」

「食いに行こうぜ」

 

 彼女は考える素振りを見せた。断る理由があるのかと心配になったが、じきに僕は彼女が断ろうかどうかで悩んでいるのではなく、何を食べようか悩んでいるのだと感づいた。答えが出たらしく、彼女は唇を指でなぞりながら言った。

 

「ステーキサンド、いいよねえ」

「あそこか。起きたばかりなのに元気だな。先輩はどうです?」

「問題ありません。不知火は寝起きからしっかり食べられるタイプです。ステーキという言葉にも惹かれます」

「だってさ。どうせ外出許可取って歯ァ磨いてシャワー浴びて、って感じで色々やってたら昼過ぎぐらいになってるだろうし、大丈夫じゃね? あたしが心配なのは、あの店のお昼の営業時間だね」

「そっちは気にしないでいいよ。あそこランチタイム終わるの遅めだから。よし、それじゃあみんな、準備を済ませたら僕の部屋に来てくれ」

 

 了解の声を合図に、僕ら三人はそれぞれのやるべきことに取り掛かった。探し物をしたせいで汗をかいていたから、まずシャワーを浴びることとする。着替えを持って浴室に向かう中途の廊下で、伊勢が向こうから来るのを見つけた。互いに会釈してそのまますれ違って行けばいいものを、どうしてか僕たちは立ち止まってしまった。気まずさを隠しながら、挨拶をする。「やあ、伊勢」「こんにちは。服なんか持ってどうしたの?」「シャワーだよ。昨夜も今朝も、ちょっと入りそびれてね。それでこんな時間だ」「そうだったんだ」会話が途切れる。僕と彼女は、響なしで帰ってきて以来、ずっとこんな感じだった。「それじゃ、私はこっちだから」「あ、うん。僕はあっちだ。それじゃあ」不自然な会話の終わらせ方だったが、解放には違いない。彼女も、内心でほっとしていることだろう。そんな気分にさせてしまったことを、僕は申し訳なく思った。

 

 提督用のシャワールームで温水を浴びながら、頭や体を洗う。置いてあるシャンプーやボディソープは軍が民間から安く買っているもので、後者はともかく前者は粗悪なものだった。髪がぎしぎしになるので、広報部隊時代には絶対に使えなかったほどだ。だが今は人前に出ることも減ったので、キューティクルなどどうなろうと平気なものである。提督はあれでも女性らしさを持ち合わせているのか自前の品を持ち込むので、これを使うのは僕一人だった。他の艦娘たちはどうなのだろう。彼女たちも自前で用意しているのだろうか。僕にはそのように思われた。何しろあの提督でさえ、キューティクルが開かないように気を付けているのだ。まして彼女より遥かに年若い者もいる艦娘たちなら、無造作に扱うことはあるまい。

 

 ふと昔嗅ぎ慣れた匂いが辺りにうっすらと漂っていることを僕は発見した。提督のシャンプーのものだ。気付いた次の瞬間にはそれは僕が使っている粗悪な洗髪剤の科学的な香りに消されてしまっていたが、確かに香った。僕はその匂いを思い出して楽しんだ。提督は嫌な上司だが、センスは悪くない。彼女が使っているシャンプーは僕が広報部隊時代に使っていたのと同じメーカーの女性向け商品だったのだ。このことを知ったのは研究所に来て数か月した頃で、響いわく吹雪秘書艦と提督の並々ならぬ間柄や長門と秘書艦の複雑な関係も関わっているらしいのだが、面倒なので聞かないでおくことにした僕は、その辺のことを詳しく知らない。たまに秘書艦と提督が同じ香りを漂わせているとか秘書艦じゃなくて長門のこともあるとか別に全然知りたくない。

 

 烏の行水を終えて脱衣所に戻り、体を拭いて髪の水気を切り、服を着替える。やっとさっぱりした。ついでに持ってきていた歯ブラシで口の掃除も済ませてしまい、気分よく部屋に戻ると、もう不知火先輩が待っていた。恰好はいつもと変わらないが、何処となく楽しそうな輝きを目に宿している。僕たちは雑談しながら隼鷹を待つことにした。「そういえば」と先輩が口火を切った。「あなたの同期の青葉を見ませんが、彼女はどうしているのですか」

 

「あいつならもう病院から直接広報部隊に戻りましたよ。怪我は大きかったですけど、感染症がありませんでしたからね。今はあの漂流を記事にしようとしてるみたいです」

「記事に、ですか。嫌なのでは?」

「まあ、あんまり嬉しくはないですけど、青葉がやりたくてやってることでもないみたいですから。広報部隊の仕事なんですよ。あいつの個人新聞じゃなくて」

「そうでしたか、それなら仕方ありませんね」

 

 そう、仕方ないことだ。数日間の敵地における海上放浪と生還は、実にヒロイックな出来事だった。軍がそれを利用するのを止める方法はない。せめてもの慰めは、そこにいた一人である青葉が音頭を取って記事を作っているという点だった。彼女なら脚色しすぎるということはないだろう。仕事量については心配だったが、広報部隊は青葉ほど有能な記者を過労で倒れさせるような間抜け揃いでもあるまい。電──あの小さな融和派の相棒もいることだし。僕はまだ彼女や赤城のことを提督に密告できていなかった。それは僕が彼女たちに同情的な心情を抱くようになったからではない。僕はあくまで自分の保身の為に言わなかったのだ。今の提督は僕について公平に判断できるとは思えない。そんな時に融和派との繋がりを教えて、彼女が僕のことを軍政上での障害になると判断したらどうなる? 彼女の頭が冷えるまでは時間が掛かるだろうが、急いて自ら地獄に落ちるよりは、口を閉じて耐えている方がマシだ。ああ、だが、それにしても、早く言って楽になりたかった。

 

 踊るような足音を立てて、僕の部屋の前に隼鷹が来た。足音だけで彼女が来たと僕が察したのを見て、不知火先輩は興味深そうに眉を動かした。「何か?」「あなたは友人の足音を聞き分けられるのですか?」「艦隊員と提督ぐらいですよ」と答えながら扉を開けて、相棒を迎え入れる。許可のスタンプが押された外出許可証を持っていて、準備は万端のようだった。不知火先輩も隼鷹に倣って認可された許可証を示した。僕は頷いて言った。「行こう」

 

 が、僕も健忘症ではない。自分に外出許可が下りていないことなど分かっている。このまま外に出ようとすれば、研究所正門の検問所で厄介なことになるだろう。いつもなら哨兵を買収するのだが、間の悪いことに今日のこの時間帯の当番はごうつくばりの欲深で、融通が効かないことでも知られる男だった。彼を買収しようとしたら、賄賂に出す分だけで僕の財布はすっからかんになってしまう。友達に食事を恵まれる為に外に行くつもりはなかった。そこで僕は二人を先に行かせて、自分は忘れ物を取ってくるなどと口実をつけて工廠裏の資材搬送トラック用出入口の方に向かい、そこの顔見知りの衛兵に金を握らせた。帰りには行きと同じだけ別の兵に渡さなければならないが、正門を通って出るよりは安く済む。

 

 提督と吹雪秘書艦を出し抜いたとまでは言わないが、あの二人に逆らったことは僕を愉快にさせた。自分が物事をコントロールしている気がした。僕は上機嫌で隼鷹と不知火先輩に追いついた。並んで歩きながら、これから僕らが食べることになるだろうステーキサンドがどれだけおいしいものか、隼鷹と二人で先輩に説明する。最初こそ理性的だった目は、みるみる内に先輩の心の奥深くに眠っていた獣性によって暗い輝きを持つようになり、彼女の白くて細い喉は生唾を嚥下する為に何度も大きく動いた。その様子は美しかった。僕は自分が彫刻家でないことを残念に思った。もしその才能があったなら、この瞬間を切り抜いたような傑作を必ずやものにできただろう。男たちを狂わせ、理解のない女たちを単に気味悪がらせることになっただろう。

 

 店に着くとすぐに「しまったな」という言葉が漏れた。予約しておくべきだったかもしれない。見た限りほぼ全ての席が埋まっていて、座れるかどうか分からなかった。不知火先輩は普段人の多いところには行かないのか、目をぱちくりさせていて愛らしかった。彼女の顔が曇ってしまってもその可愛らしさは変わらないだろうが、できることなら彼女をがっかりさせたくない。僕と隼鷹は入口に立ったまま、目を皿にして席を探した。そうしていても店員が案内に来ないほど忙しいらしい。これからは必ず予約をしようと心のメモ帳に書き込んでいると、「あった!」と隼鷹の元気な声が空気を切り裂いて、僕の耳を打った。ぴしっと指差された先を見れば、今しも四人席が一つ空くところだった。片づけはセルフサービスなので、テーブルを拭いさえすれば食事の準備が整う状態だ。

 

 自分たちが不知火先輩を失望させなかったことにほっとしながらその席に向かっていると、横を民間人の若い女が二人通ろうとした。なので女性への心遣いから、人で混雑しているテラスを彼女らが通りやすいよう、歩きながら身を小さくした。そんなことをしなければ、いっそ足でも引っ掛けて転ばせてやればよかった。僕はその二人が何かの用事を済ませて席に戻るところだと勘違いしていたのだ。彼女らはそうではなかった。僕らより後に来た客だった。そいつらは僕たちの使う筈だったテーブルを横から現れて奪い取ると、声を上げて連れの男を呼び寄せた。「あぁ」と不知火先輩が悲しそうな声を上げた時、最早連中に対して何も言わずに引っ込むという選択肢は僕になかった。

 

 男が二人の女と合流するのを待ってから僕は隼鷹たちを置いてずんずんと突き進んで行き、「おい、あんたら」と声を掛けた。女たちは罪悪感の欠片でもあるのか敏感にこちらを向いて、敵意をむき出しにした目で僕を睨んだ。男の方は──マズいことに、女受けのいい白い制服を着込んだ三十代ほどの空軍士官だった──対照的に、のんびりとした態度で首を回しもせずに視線だけ僕にやった。「何か御用ですか?」笑えることに、どうやらこいつは僕を民間人だと思っているらしい。世界唯一の男性艦娘と言っても、出現から二年ほども経ってメディア露出もなくなればこんなものか。それに海軍の人間じゃなくてお高く留まった空軍の奴らだから、自分以外の男のことなんて目に入らないんだろう。

 

「後からやって来て割り込みかよ? それも女を使ってとは、手が込んでるじゃないか」

 

 士官は僕に何か言おうとして、後ろの隼鷹と不知火に気付いた。流石に艦娘の顔ぐらいは知っていたのだろう。僕を軍の人間なのだと把握してか、彼は軍人がその階級を上げるに従って獲得するあの傲慢さを、遠慮なく顔に浮かべながら答えた。

 

「水兵さん、海軍では士官を相手にそういう話し方をするのかね?」

 

 本当ならもう一言二言手厳しい言葉を口にする筈だったのだが、突然僕の体は宙に浮いて移動し、椅子へと尻から叩きつけられた。きょとんとしながら見ると同じ海軍の男が三人いて、一人は空軍士官にあれこれ言って場を収めようとしており、それに成功しつつあった。一方で残りの二人は椅子に座った僕をしっかりと押さえていたが、敵意を込めたやり方ではなかった。彼らは言った。「士官と喧嘩する奴があるか!」「つまらんことで処分を食らい込みたいのか? 席なら俺たちが譲ってやるから大人しくしてろ、艦娘」僕は彼らに従った。身内の言うことだったし、僕を艦娘だとちゃんと知っていてくれて何だかちょっぴり嬉しかったからだ。彼らは隼鷹と先輩を呼び寄せ、テーブルを綺麗に片づけてから去って行った。大人らしく、去り際に僕へ釘を刺すことを忘れなかった。悲しいかな、大きな効果はなかったが。

 

 空軍士官が視界に入らないように座り、まず友人たちに謝る。どんなに間抜けな楽天家でも、僕が彼女たちを放置して空軍のいけ好かない男と事を構えようとしていた時、二人がわくわくしていたとは考えられないだろう。事実、隼鷹の顔にはこちらの心境を慮るような色が見て取れるし、不知火先輩はより直接的に「もっと落ち着きを持って下さい」と言って彼女の不出来な後輩をたしなめた。愛想を尽かしてその場を立ち去ってしまわないでいてくれただけでも、ありがたいことだ。二人には頭を下げる他ない。

 

 このままではぎこちない雰囲気になりそうだったが、注文を取りにウェイターが来ると、自然な流れでそれを払拭することができた。僕らは揃ってステーキサンドを注文し、隼鷹は赤ワインを、僕は白ワインを、先輩はアイスティーを頼んだ。サンドイッチと違って飲み物は注ぐだけでいいから持って来られるのも早かった。それぞれの前に置かれたグラスを手に取る。響がここにいたら「何に乾杯する?」と聞いたものだろう。そして誰かが答える。たとえば隼鷹。「次の一杯に!」たとえば不知火先輩。「あなたたちの健康に!」たとえば長門。「我々の艦隊に!」たとえば那智教官。「絶対にやらんぞ、私はこういうのが苦手なんだ」

 

 だが今日、響はいない。それで、僕はグラスをゆっくりと額の高さまで持ち上げると、心からの思いを込めて言った。「響に」二人も同じ言葉を唱和して、一口ばかり飲み下す。しんみりした空気が僕らの間にあったが、亡き友人について語り合う内に、それはむしろ陽気なものへと転じていった。彼女が言ったこと、やったこと、一つ一つを僕らは分け合い、教えあった。先輩は僕や隼鷹よりも付き合いが長い分、彼女のエピソードを沢山持っていた。思いがけなく野営することになった時にソナーと爆雷で魚を取ろうとしたら敵の潜水艦が引っかかった話。かつて、スピリチュアルなものに傾倒していた頃の加賀に、教官と二人掛かりで丸っきりでたらめな占いをして遊んだ話。閲兵式に数合わせで参加することになって、緊張からその前日に痛飲し、二日酔いのままよれよれの格好で出席したら「歴戦の風采」ということでカメラマンたちの格好の被写体になってしまった話。どれも彼女を知る者を笑わせる力のある物語だった。

 

 思い出話が一段落したところで、タイミングよく食べ物がやってきた。ウェイターに礼を言いながら受け取って周囲を見れば、まだまだ忙しそうではあるがピークは過ぎたようだ。さあ、待たされた分味わって食べよう。けどその前に、不知火先輩の表情をちらりと見る。先輩は既に咀嚼を始めていた。口は規則正しく動き、頬は肉や野菜や彼女の唾液が一緒になったもので見苦しくない程度に膨れている。彼女はごくんと喉を鳴らして飲み込み、その音に顔を赤らめながら、唇についたソースを舐め取る。それから僕の目に気づく。「どうかしましたか?」「いえ、ただ、おいしいかなと思って」「ご心配なさらず。どうしてもっと早くここに誘ってくれなかったのか、あなたを責めたいぐらいです」よかった。僕もサンドイッチに噛みつく。武蔵と来た時や、その後に隼鷹と二人で来た時と変わらない味だ。このソースがいいんだよな、と隼鷹が言った。僕はソースや野菜は脇役でしかない、主役たる肉の焼き加減が絶妙なんだと反論した。不知火先輩はウェイトレスを呼び止めて追加注文をした。彼女の注文に加えて、隼鷹がボトルを一本頼んだ。「おい、考えろよ」と僕は呆れて言った。すると僕の相棒は、しょうがないなあ、みたいな顔をして言った。

 

「分かった分かった、店員さーん、ボトルもう一本!」

 

 お陰で食事が終わる頃には顔を赤くした馬鹿が二人できあがっていた。どうも夜飲む時と昼飲む時で酒の強さが変わる気がする、と僕は半分夢の中にいるような頭で考えた。それに比べると紫髪の軽空母は昼夜変わりなく強いので羨ましい。「そろそろ出ましょうか」と不知火先輩が紙ナプキンで口を拭きながら言った。賛成だ。ここにこれ以上いたら隼鷹に酔い潰されてしまう。彼女はグラスに残った最後の一杯を、まるでそれが世界最後のワインであるかのように大事に大事に一口ずつ飲んでいた。会計をする為に、店員を探す。と、あの空軍士官たちが目に入った。途端に僕は嫌なものを感じた。

 

 空軍の人間の全員がパイロットなのではないことは知っている。整備士もいるだろう。基地勤務の警備兵もいるだろう。僕が知らない、重要な任務を任されているものも大勢いようと思う。通信、広報、募兵、もうこれ以上は出てこないが仕事は沢山あるのだから。しかし、あの士官はパイロットだ。制服の左胸につけられた金色の航空徽章(きしょう)がそれを証明している。よくないな、と頭に残った最後の冷静な部分がコメントする。理性が緩んでいる。殴りに行きそうだ。まずパイロットというのが悪い。どう頑張っても僕は、彼らにも響の死の責任があるという考えを捨てられていなかったからだ。もちろん、目の前の彼はあの日輸送機を飛ばした操縦士の一人ではないし、そのことについて責めを負う立場にはない。分かっている。でもそれがどうした? あいつは嫌な奴で、加えて空を飛ぶ連中だ。それだけでパンチ一発分の罪がある。

 

 近くにいたウェイターを捕まえて、僕らは食事の代金を支払った。正直な意見としては全額出したかったのだが、それをすると先任である不知火先輩の顔を潰すことになる。かと言って先輩に全額払わせることもしたくない。割り勘ではボトルを入れた分先輩が余計に出すことになってしまう。なので、自分の飲み食いした分だけ出すということで話はまとまった。支払いを済ませて、席を立つ。次はメニューに載っていたあの料理も頼んでみよう、あの飲み物にも挑戦してみようと話しながら店を出る。足元はそこそこしっかりしている。後できっと僕はこう考えるだろう。「やれやれ、あの時もっともっと飲んでればあんな馬鹿なことをしないで済んだろうに」と。そうだ。馬鹿なことだ。八つ当たりでしかない。一時的にすっきりするかもしれないが、落ち着けば罪悪感は増える一方だろう。分かっていた。理屈ではそれが正しいのだ。だがどうしても止められなかった。

 

 また忘れ物をしたと言って、二人を先に行かせる。隼鷹は酔っていて気に留めもしていないが、先輩はさすがに鋭い。戦艦並みと言われるあの迫力の宿った双眸で僕を見ながら「またですか?」と訊ねてくる。僕はばつの悪そうな笑みを見せるだけで、その問いに答えずに席へと向かっていく。一歩歩く度に、頭の中で響が言う。「何をやってるのかな、君は」分からない。「やめた方がいいんじゃないか」僕もそう思う。「じゃあどうしてそうしないんだ?」そうしたくないからだ。「そう、好きにしなよ」そうしよう。士官が僕を見つけた。僕の歩く速度と恐らくは表情から、ただならぬと察知したらしい。座っていた席から立ち上がって女たちを庇うように一歩前へ出た。僕は彼が連れを盾にするようなクズではなかったことに落胆した。そうだったら、より深く嫌えたのに。まあいい。今でも殴りつけるには十分なほど嫌いだ。拳を握る。腕を振り被り、腰を捻る。溜め込んだ力を込めて、栄養失調の蚊でも叩き殺せるような全力の一撃を放ち──脇から出てきた手に受け止められる。僕は驚きもしない。事態を掌握できていない。一体誰だ? 手がぬっと突き出ている方に顔をやる。何かが猛烈な勢いで迫ってくる。硬いものが顔に当たる。世界が揺れる。力が抜ける。倒れる。

 

 いいカウンターだった。痛みより失神前の気持ちよさが先立つほどだ。僕は目を閉じた。誰かが言った。「どうしてここに来た?」答えようと思ってはいなかったが、奇妙なことに言葉が口からついて出た。

 

「ステーキサンドと、ワインがうまいからさ」

 

 誰かは笑った。体を掴まれて、何かの上か中に乗せられた。振動で車だと分かった。そのまま気を失ってしまってもよかったが、言葉を口にしたせいで意識はむしろ覚醒の方向へと進んでいた。仕方なく目を開く。見たことのある内装の車だ。具体的に言うと護送された時に見た。というか護送車だ、これは。憲兵がそんなにすぐやってくる筈がないので、きっと誰かに殴り倒された後、ごく短時間眠ってしまっていたのだろう。頭に手をやって、がんがんと痛む辺りを撫でる。酒のせいじゃない。誰かが強打を食らわせてくれたからだ。土がついていたので払い落としていると、車が止まった。後部のドアが開き、憲兵と憲兵隊付の艦娘が姿を見せる。憲兵が言った。

 

「出ろ」

 

 逆らう理由はない。頭はもう完璧に冷えている。僕はのろのろと出て、そこが何処だか知り、口の中でもごもごと毒づいた。そうしないと聞きつけられてしまうかもしれなかったからだ。憲兵にじゃない、憲兵隊の艦娘にでもない。この見慣れた研究所の駐車場で、右手に持った杖に体重を掛けながら片目で僕を見やる提督と、その一歩後ろにいる吹雪秘書艦にだ。提督は前に第一艦隊が飲み屋の喧嘩で勝つかどうかの賭けをやった時みたいに、薄い封筒を憲兵と艦娘に渡した。彼らが車に戻らない内に、彼女は怒気のこもった言葉を僕に向けてきた。

 

「分別のないことをしたな。重営倉だ。期限は利根が戻るまでとする。秘書艦、連行しろ」

 

 慣例的に、重営倉処分は三日ほどとされている。厳密に罰を執行するならばの話だが、期間中は食事が極めて制限される為に、長期間だと栄養失調を起こしかねないからだ。利根が戻るまでとなると、慣例を超えることになるだろう。が、僕は反抗しなかった。どうでもよかった。護送車が行ってしまった後、吹雪秘書艦の前に立って何歩か歩くと、彼女が足を止めた。秘書艦は振り返って、執務室にでも戻ろうとしていたのだろう提督を呼び止めた。

 

「司令官」

「何だ」

「営倉処分中の……」

「うん? ……ああ、任せる。暇人に仕事を与えてやれ」

「了解しました」

 

 秘書艦はそれっきり何も言わず、無言で僕を衛兵詰所奥の営倉に連れて行き、入れ、重い鉄扉に鍵を掛けた。ひんやりしたそれにもたれ、腰を下ろす。時代がかった格子窓から空が見えた。そのままぼーっとしていると、声が掛かった。頭上を見る。鉄扉の覗き窓が開き、そこから知り合いの衛兵が何とも言えない顔でこちらを見下ろしていた。「巡察が来てるぞ」と彼は言った。巡察? うろ覚えの軍法によれば、一日に二度から三度、誰かが営倉処分を受けている者の様子を確認することを義務付けられている。でもそんなのはここの衛兵にやらせればいいことだろう。事実、今まではそうしてきた筈だ。しかし衛兵の口ぶりでは、まるで別の誰かがわざわざここを訪れているみたいじゃないか。そんな奴がいるのかと思っていたら、衛兵が覗き窓の前から退いた。代わりに、見たくなかった人の顔が見えた。彼女は色々と言おうとしたのだろう、口を開いては閉じ、開いては閉じ、結局言いたいことをシンプルにまとめた。

 

「貴様は馬鹿か?」

「はあ、どうもそのようで、教官。どうしてここに?」

「馬鹿と言われて認めるな、馬鹿。……吹雪秘書艦の指示でな。今の第五艦隊を任務には出せないが、遊ばせておくほど余裕もない。そこで()()()()この雑用を任されたという訳だ」

 

 他に聞きたいことはあるか? とばかりに教官は言葉を切る。僕はどうしてここにぶち込まれるようなことをやったのか尋ねないのか聞いた。すると彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「初めて部下を失ったんだ。何かしらやらかすと思っていた。たとえば、無許可外出とかな。だが、まさか酔って士官に殴りかかるとは思わなかった……さて、私はもう行く。次の巡察まで、これでも読んで大人しくしていろ」

 

 食事提供用の小窓が開いて、本が二冊差し入れられた。衛兵は見て見ぬふりをしてくれているようで、止めようとする動きはない。ありがたいことだった。営倉でできる暇潰しなど、たかが知れている。筋トレしたりしてもいいんだが、それは重営倉生活ではただでさえ不足しがちな栄養素を浪費してまですることでもないだろう。僕は受け取って、短く教官にお礼を言った。彼女は答えずに立ち去った。それを見送った衛兵が戻ってきて「いい人じゃないか」と言った。教官から少し元気を貰えた僕は「手を出したら許さないからな」と冗談で返した。僕と彼は笑い、彼は詰所の方へ戻っていった。

 

 本の表紙を見る。僕の本じゃない。教官の私物だろう。紙の香りに混じって、彼女の匂いがする気もした。融和派に捕まってこんな小部屋に入れられた時のことを思い出す。あの時も教官が力を与えてくれた。ビゼー※88風に『お前が投げたこの花を』※89というようなことを考えた覚えもある。あの日じゃなくて、今日その言葉を引用するべきだったな、と僕はかつての自分の迂闊さに不満を持った。しかし過去の自分が未来を予測できなかったことを責めるというのは、いささかならずナンセンスだ。無意味な追求をやめて、僕は何か教官の為にも気の利いた言葉を頭の中から捜してこようとした。けれど彼女に比べてこの僕は愚かで、できることと言えば溜息を吐くことだけだった。腿の上に本を置き、表紙を指で撫でる。眠かった。昨夜、ピアス探しでろくろく眠っていなかったからだろう。目を閉じ、夢の世界に逃げる。

 

 人の気配を感じて目を覚ますと、格子窓の外は暗くなっていた。頭上の覗き窓は開いており、そこから北上の目が見えた。彼女は笑って「給食兼巡察だよー」と言いながら、重営倉処分中の艦娘に供するには明らかに不自然な、立派な食事の載ったプレートを小窓から差し出した。この辺で僕はそろそろ理解し始めていた。提督が長期の重営倉処分にすると吹雪秘書艦に言ったのは、そう記録に残す為なのだ。秘書艦はきちんとそれを了解していて、だから第五艦隊に巡察を任せた。彼女たちが大なり小なり私心を優先すると期待、または理解して。そして秘書艦の当ては外れなかったのだ。何しろ、あの教官でさえ本の差し入れをしたのだから。それはグレーゾーンに入る行為だった。彼女の軍人としての良心と、人としての情がぶつかって出した妥協案なのだろう。

 

 プレートを礼と共に受け取り、覗き窓の前に立っている北上が見えるように部屋の中央に座り直しながら、彼女に言う。「不知火先輩と隼鷹はどうしてる?」「えー? 直接聞きなよ」彼女がそう言うや否や、食事用小窓の両脇からにゅっと二つの顔が現れる。

 

「不知火の忠告は無駄だったようで、とても残念です」

「艦隊初営倉が旗艦って海軍初なんじゃね?」

 

 とまあ、そういう具合だったので、重営倉処分最初の夜は思っていたよりずっと楽しいものになったのだった。


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