[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「大規模作戦」-2

 それからも艦隊員たちは朝昼晩を問わず、ちょくちょく巡察だと言っては僕の営倉を訪れ、その度に何か暇潰しになるような本を置いていってくれたり、飴なんかを持ってきてくれたりした。特にありがたかったのは僕の部屋から携帯音楽プレイヤーと充電器、そして那珂ちゃんのCDを数枚取ってきてくれたことだ。融和派の連中から渡されたノートPCなんかが隠してある僕の部屋に、自分の監視なしで誰かを入れるというのは考えの足りない行いだったかもしれないが、まさか僕がいない間に隼鷹や北上、不知火先輩や教官が家捜しをするとも思えない。

 

 彼女たちのお陰で、僕は衛兵たちがいない間も誰かの声に耳を傾けることができたし、衛兵がいる時には彼らと一緒に那珂ちゃんの歌に聞き入って、ファン同士の語らいを楽しむことだってできた。彼らは僕があの那珂ちゃんの同期だと知ると露骨に羨ましがり、秘密のエピソードなどがないか聞きたがったものだ。さて、僕が彼女とそこまで親しい付き合いではなかった為、期待に十分応えられたとは思わないが、それでも彼らはファンのほとんどが知らない那珂ちゃんについて知ることができ、それについて僕に深い感謝をしてくれた。これなら、よしんば提督が巡察を以降は衛兵たちにやらせるようにと指示したとしても、彼らは僕に便宜を図ってくれるだろう。

 

 那珂ちゃんの歌はよいものだ。僕には音楽的素養というものがいかんせん欠けているが、それだからこそ、美しいものを素直に受け止めることができる。それがそれ自体確かに素晴らしいものであるというのに、ああだこうだと音楽理論を弄繰り回したり、歌の一つ一つに中身があるとかないとかで大騒ぎするようなこともない。世の中の人がみんな僕みたいだったらつまらなくなるだろうが、音楽的な人々の間で、そうではない人間として生きることは楽しいことだった。だって僕は、彼らがかかずらわされる諸問題から解放されているのだ。思春期らしい自己特別視に身を任せて、才能の欠落によって僕は彼らに勝利するのだと恥ずかしげもなく言ってもいい気さえする。だがそんなことをすれば、どんなに遅くとも来年には思い出す度に過去に戻って自分を殺したくなること請け合いだ。

 

 退屈ではあるがそれ以上の苦痛や命の危険のない重営倉処分を受けてから数日目の朝、僕は鉄扉を蹴り飛ばす耳障りな音で目を覚ました。営倉にはごわごわした毛布と、大きな雑巾みたいな、敷布団と呼ぶより敷布と言った方が適切であろう布切れしかなかったから、僕の眠りは浅く、すぐさま飛び起きた。こんなことをする奴は一人しかいない。目やにを指でこすって落とし、節々が痛む体で立ち上がる。覗き窓が開き、片目の女が顔を見せる。響を失ったあの漂流から戻って以来、提督が持て余していた悪感情は、何処かに流されでもしたかのようだった。きっと、彼女の中で整理がついたのだろう。提督は僕のことをまじまじと見ると言った。

 

「よくもまあぬけぬけと、営倉になど入っていられたものだ。※90 さあ、とっとと出ろ。まずは風呂にでも入れ。臭いで深海棲艦と戦うつもりか?」

 

 そして錠を外し、扉を開けた。戸に隠れて見えていなかった吹雪秘書艦がこちらを見て、それから視線を外した。そんなに臭いのか? そればかりは、自分では気づけないものだ。しかし風呂というのはありがたい。

 

 提督は大げさに鼻をつまんだまま、「書類の手続きはこちらで済ませておく。終わったら執務室に来い。早く行け」と言った。敬礼して、着替えを取りに自室へ、次いで提督用のシャワールームへと向かう。幸運にも、その途中には誰とも会わなかった。臭いで嫌な思いをさせたくなかったからよかった。シャワー室に入ると、バスタブには既に適温の湯が張られていた。提督は自分のプライベート空間に誰でも好き勝手に入れるタイプの人間ではない。となると、湯を張ったのは吹雪秘書艦だろう。このシャワー室に入るのを見たことがあるのは、提督を除けば長門と秘書艦だけだ。長門の可能性もないではないが、彼女が風呂掃除をしているところを想像できなかった。僕は吹雪秘書艦への感謝の言葉を胸に掛け湯をして、体を洗って、湯船に浸かった。ひたすらに気持ちよく、暖かく、髪を洗う為に浴槽から上がらねばならないのが惜しいほどだった。

 

 例の髪がきしむシャンプーで頭を洗うことにする。適量を手に取って、シャワーで濡らした頭に塗布し、泡立てようと試みる。が、健康な少年の新陳代謝は凄まじいものがあったらしく、皮脂や汚れや汗に邪魔されて泡立たない。とりあえず流して、二度目の塗布。泡立たない。流す。気を取り直して三度目。ようやく泡立った。僕は安心し、細心の注意を払いながら洗髪を済ませた。ついでにもう一度体も洗って、湯船に戻る。体を伸ばすと、ぽきぽきとあちこちで小気味いい破裂音がした。いつまでもここにいたくなるが、そうは行くまい。提督がやることには意味がある。彼女は無意味なことはしない。しないと思う。『意味がある』をどう定義するか次第で先の評価の真偽が変わることは認めなければならないだろう。とにかく、彼女は僕をあそこから出した。それは世界唯一の男性艦娘から出汁を取る為ではあるまい。

 

 浴室から出て脱衣所備え付けのバスタオルで水を拭い取り、着替える。さっぱりした体、さっぱりした服。気分も爽快だ。シャワー室を後にして、提督の指示通りに執務室へ急ぐ。どういう用事があって、僕を出したのだろう。利根が戻るには、確かまだ一日はある筈だ。提督が自分で言ったことを反故にしたとしても僕は驚かないが、理由が分からないというのは気持ちが悪い。執務室に着けば分かるだろうけれど、できることなら覚悟しておきたいのだ。利根なしで第五艦隊を動かすのか? どんな任務で? 救援に行かなければならない艦隊がいるとかだろうか。そうかもしれない。そしてその艦隊というのが、きっと恩を売っておきたい何処か別の基地や鎮守府に所属している提督の配下なのだ。いかにもありそうな話だった。提督の権勢欲には脱帽するしかない。東に有力者あれば行って貸しを作り、西に深海棲艦あれば艦隊を送って手柄とする。知る限り汚い手段で政敵を失脚させるようなことはしていないようだが、僕はその辺のアンテナが鈍いから、実際のところどうだかなんて分かったものじゃない。

 

 執務室の扉の前に着いて、僕は一度だけ深呼吸をした。落ち着きが肝要だ。ノックして、到着を告げる。入れと言われたので、「失礼します」と断りながら入室した。その時僕は目を伏せながら入った。これは癖だ。執務机の配置上、そうしないと入室者は提督とばっちり目を合わせてしまうことになるのである。彼女は目を合わせただけで罰を与えるような愚劣な真似はしないが、だからと言って見つめ合いたい女性かと問われれば掛け値なし、混じり気なしにノーと答えたい相手だった。

 

 視線を何処に向けるかに気を付けながら顔を上げる。と、まだ病院にいる筈の友人がそこにいた。

 

「利根! 退院が早まったのか?」

「ベッドの上より、お主らの横におりとうての。この年で医者に駄々こねてやったわ」

 

 早く会えたのは嬉しいし、彼女の口ぶりでは自分の意志でここにいるようだが、何か早めなければならない事情があったのだとしたら素直に喜べることでもない。本調子でもないのに戦わせられるなんて、ひどい話だ。それを確かめる為に僕は提督を見た。嫌々ながら視線も合わせた。彼女は気に入らないことがあった時にいつもそうするように鼻を鳴らして(まあこの人は気に入ったことがあったらあったで鼻を鳴らすのだが)、書類を一枚僕に見せた。医者の診断書だ。医者らしい汚い字で、「予後は快調。軽易な軍務ならば支障なし」と書いてある。判子も押してあり、正式な書類だ。僕は書類を提督に返して、所感を述べた。

 

「提督、自分には深海棲艦との戦闘が軽易な軍務とは思えません」

「ところが私はそう思ってるんだ。ここにいる利根もな。実際、こいつの体は回復してるよ。この但し書きは万が一にでも利根に何か起こった時、医者たちが責任から逃れられるように書いただけのものさ」

「本気か、利根? 君を助ける余裕がいつもあるとは限らないんだぞ、そのことは分かってるんだろうな?」

「当然じゃ、必要以上に気に掛ける必要はないぞ。吾輩も自分の面倒ぐらい自分で見られる年じゃからの」

 

 彼女は自信を見せつけるように胸を張ったが、それで最も見せつけられたのは彼女の精神的な一面ではなく物質的な一面だった。僕は内心で拍手をしながら純真さを偽装して、戦友たちと一緒にいる為に病院から帰ってきた仲間に向かって、にっこりと微笑んだ。それから提督に向き直り、尋ねる。

 

「利根の復帰を伝える為に僕の処分を終わらせたのですか?」

「お前はこの数年私の何を見てきたんだ?」

 

 確かに今の質問はそう言われても仕方ないものだったな。何と言うべきか考えあぐねていると、さっき自分が通ってきたドアがノックされた。

 

「入れ」

 

 この提督の無感情な許可によって、大勢の艦娘が入室した。吹雪秘書艦を含む第一艦隊、長門以下第二艦隊、第三艦隊の残り、利根と僕以外の第五艦隊……いないのは第四艦隊だけだ。執務室は狭い部屋ではないが、二十人近くが至極快適に過ごせるほど広くもない。僕は人数から来る圧迫感に顔をしかめた。吹雪秘書艦がその場に後から来た艦娘たちを代表して前に出て、報告をした。

 

「秘書艦吹雪より報告します。司令官の命令により、第一艦隊、第二艦隊、第三艦隊、第五艦隊、出頭いたしました」

 

 それぞれの艦隊は一列縦隊を作って提督の前に並んだ。言うまでもなく、その頃には僕と利根もその列の中に入っていた。直立不動を保っていたが、提督が「休め」と言ってくれたので体を少し楽にすることができた。彼女はこれまでにない真面目な顔で執務机を立つと、その周りを回って僕らの前に来て、尻を机の上に乗せた。みんなが呼びつけられたのが利根の帰還を知らせてやる為ではないとすると、これから何が告知されるのか? 緊張しながら待つ。提督は普段のように懐からピルケースを取り出すと、その中に入った錠剤を口に投げ込んだ。それから言った。

 

「大規模作戦が始まる」

 

 その言葉が臓腑に染み渡るまでには数秒掛かった。大規模作戦。軍隊らしい率直で飾らない言葉だが、この場にいる誰もが、それを重大に受け止めないではいられない身だった。実戦部隊の艦娘なら一人残らずそうだろう。普段、我々は自軍の勢力圏内で制海権の確保と維持に全力を注ぎ込む。力を蓄え、乾坤一擲の日を待つ。そして時が来ると僕らは敵の勢力圏に打って出て、泊地や艦隊を攻撃し、制海権を奪取する。それが大規模作戦だ。これが成功する度に、僕らは戦争の勝利に、終戦の日に一歩近づくのだ。艦娘である以上、参加は義務であり──それ以上に名誉だった。生憎と名誉などというものに心を震わせるほど若くはなくなってしまっていたが、これが広報部隊からここに転属した直後の僕だったなら、感動に涙の一粒や二粒は落としただろう。

 

 しかし、大規模作戦が始まるとしてもここまで大仰に伝達する必要があったのか? 長門を見れば、彼女も解せないという顔をしている。吹雪秘書艦の表情を読もうとするのは無駄なのでしなかった。提督は何か言おうとして口を閉じ、命令を下した。「作戦海域に近い基地に移動する。準備を整えて、一時間後に駐車場に集合せよ。解散」敬礼と「了解」の唱和で答える。そこからの動きは目まぐるしかった。何せ一時間だ。第五艦隊は全員艤装のチェックと慣らしにたっぷり三十分使い、残りの三十分で他の艦隊の艦娘たちがやったようなこと全てに取り組まなければならなかった。着水の際などに失ってしまった艤装を新たに受領した者が多かったからだ。

 

 チェック等が終わった直後に、余分の荷物がある程度認められるという通達があった。一人当たり二キロまでという厳密な制限があったが、僕らはこれ幸いと時間を潰せる小道具を私用品の鞄などに詰め込んだ。不知火先輩は本を数冊と、自分だけでなく他人のことを考えて、みんなで遊べるようなカードの類や小さく折り畳めるボードゲームをぎゅうぎゅうになるまで入れた。隼鷹はボトル二本であっさり彼女の枠を使い果たした。那智教官は彼女が必要になるかもしれないと思った私物の装備を箱詰めしていたが、それはどう見ても二キロどころでは収まらなかった。そこで、不知火先輩の遊戯類があれば楽しみに困ることはないだろうと考えた僕は、自分の割り当てである二キロを丸々那智教官に譲った。彼女の装具が僕らを救うかもしれないのだ。旗艦として、個人の楽しみよりも全体の生存を気に掛けなければならないのは当然だった。

 

 教官の横では、利根と北上が少しずつちょろまかして溜め込んでいた希釈修復材を、予備の水筒やペットボトルに入れて運ぼうとしていた。素直に感心する。移動した先で希釈修復材を調達できるとは限らないことを、僕は失念していた。

 

 そうこうしていると、提督の指定した時間まで残り十分になった。荷物を持って駐車場に急ぐ。途中で秘書艦を除く第一艦隊や第二艦隊などの面々とも合流して大所帯になったが、研究所の職員たちは事情を知っているのだろう、邪魔にならないように廊下の端に身を寄せてくれたので、通り抜けるに当たってアクシデントは起こらなかった。駐車場に到着してみると、そこには兵員輸送用の大型トラックと四十フィート型コンテナを積んだトレーラーが一台停まっており、その陰には既に提督と彼女の右腕の姿があった。

 

 また加えて言うなら、明石さんもいた。彼女は工廠の整備員らを指揮して、コンテナへ僕たちの艤装を積み込ませていた。最後の一つ──それは一番大きな艤装だったから、きっと長門のものだと僕は推察した──を積み込むと、明石さんは小走りに提督のところへやって来て、報告を済ませた。提督は一度だけの頷きで返事をすると僕らを見て、トラックへの乗車を命じた。

 

 第一艦隊の二番艦から順番に、トラック後部の荷台へと上がっていく。両脇には腰掛けが設置されていたが、第一艦隊の五人(伊勢、日向、第四艦隊から臨時に出向している夕張、第三艦隊からの伊八、新顔の空母)と第二艦隊の六人(長門、妙高さん、川内、加賀、足柄、羽黒)、それから第三艦隊の潜水艦二人(伊五八と伊一九)が座ると、どう詰めても残り五人しか座れそうになかった。それならばと助手席を見てみるも、そこにはこのトラックを僕らに貸し出している輸送隊の人員が陣取っていた。困ったな、などと悠長に悩んでいる時間はない。提督は第五艦隊がのろのろしていることを喜びはしないだろう。そこで僕は言った。

 

「不知火先輩、ここはどうか一つ」

 

 きっと彼女の面目を傷つけてしまったと思う。何故なら彼女は立派な大人であり、決して子供扱いされるべき人間ではなかったからだ。先輩はひどく揺れるこのトラックに乗っている間中、辱めに顔を赤くしていた──と言いたいが、実際は逆だった。彼女は唇を引き結んだ真っ白な顔で、ちょこんと那智教官の膝の上に腰掛けていた。僕にはその無感情さが怖かった。なるたけ早く詫びの一つや二つは入れて、菓子だの何だの渡して許しを乞うべきだろう。それで許して貰えるかどうかは不知火先輩のみぞ知ることだが、大事なのは自分の気持ちを伝えることだ。

 

 トラックが動き出す。僕は揺られながら、今からのことを考える。これまで、大規模作戦が呆気なく終わったことなどなかった。たとえば制海権奪取に大きなリソースを割くということは、深海棲艦にとっても攻撃のチャンスとなり得る。事実、以前の大規模作戦においては深海棲艦の囮部隊に引っかかって、敵の本隊が手薄な本土近辺まで接近してきたことがあった。その時のことは、呉鎮に留守番していて迎撃に駆り出された北上が何度も語ってくれている。そこまでの危機に陥らずとも、激戦は間違いない。誰かが戦死する可能性だって、今までの戦闘などよりも大きなものになるだろう。それを思うと、僕は胸に重いものを感じてしまうのだった。

 

 隼鷹を見る。隣に座った妙高さんと話しながら、けらけらと笑っている。次に死ぬのは彼女かもしれない。北上を、利根を見る。彼女たちだったら? あるいは那智教官だったら? 早いところ戦争が終わってしまえばいいのにな、と心の奥で叶いそうもない願いを口にする。そうすれば、友人の死を恐れる必要なんてなくなる。隼鷹や教官たちが死ぬところを目の前で見てしまったら、きっと僕は耐えられないだろう。横目に隼鷹の笑顔を楽しむ。その輝きの前では、どんな宝石もさながらくすんだ炭のようである。彼女の美しさがもたらす華やぎは、人を安らかにしてくれる。彼女以外の誰が、こんな純粋な特別さを持っているだろう。

 

 不意に隼鷹は僕の視線に気づいて、こちらを見た。「どうしたよ?」僕は言葉に困った。彼女の何もかもがどれだけ美しいかを説明してもいいのだが、よりによって大規模作戦前に女性を、しかも同じ艦隊に所属している艦娘を口説く気はない。口説き落とせる気もしないし、まかり間違って落としてしまってもやっぱり困る。さりとて嘘も出てこない。だから僕は、隼鷹に嘘を言わず、かつ口説いていると思われないで済むような言葉を考えなければならなかった。だが僕は生来口下手だ。なので思いつく筈もなく、仕方なしに肩をすくめ、意味のない恥じらいの笑みを浮かべた。

 

 僕の親友は追及したかったようだが、そうはさせない。目を閉じて、心地よい振動に身を委ねる。暫くは僕の脇腹を肘でつついてきたり、肩に体重を掛けてきたりとちょっかいを出してきたが、やがて何も感じなくなる。代わりに久々の悪夢が待っていた。

 

 息をする必要のない水の中、海面と深海の間に僕はいる。また天龍が上にいた。僕に上がれと呼び掛けている。下を見る。日光の届かない暗闇がそこにある。あの中に落ちていったらどうなるのだろう? 興味を惹かれて、重力に身を任せてみる。天龍の声に焦りが混じったが、気にしない。体温が水の冷たさに同化していく。「帰れ!」天龍でない誰かが僕に言う。頭が揺れる。「私たちは理解したい」と赤城の声がする。何処かで電が「助けたいのです」と呟く。底へ、水底へ。永遠とも思える落下の終わりに、とうとう泥の上に僕の体は落ち着いた。土砂が舞い上がるのを触覚で感じた。何も見えない。でも、そこには僕と、僕以外の誰かがいた。それは分かっていた。そいつが呻くように囁いた。

 

「そうか……そういうこと、だったのか……」

 

 どういうことだ? 問い返したかったが、その時大きな揺れがあって、僕の頭が乗っていた隼鷹の肩からずり落ちた。「おはようさん、丁度ぴったり着いたとこだぜ」と頭の上から親友が言う。じゃあ今の揺れは、トラックがブレーキを踏んだ弾みか。頭を振って己の目を覚まさせ、トラックの後ろから吹雪秘書艦と共に普通のセダンでついてきていた提督の命令に従い、降車する。位置的に僕が最初に下りることになったので、第五艦隊の面々には手を差し出して降車を手伝った。けれど第一、第二、第三艦隊の艦娘たちには、この手を大人しくさせておいた方がいいだろう。入渠などで治せるとはいえ、骨折は痛いものだ。最後に不知火先輩の柔らかくて小さな手の感触を楽しむと、僕は身を引いた。

 

 それから、ぐるりと付近を見渡してみる。動悸が激しくなるが、精神力で押さえつけた。ここは駐機場だ。また飛行機に乗らなければならないのか。この前乗った機が落ちたばかりなのに。僕らが乗ると思しき輸送機に、艤装などを詰め込んだあのコンテナが運ばれてゆく。それを見ながら、僕はどうしたらこの場を切り抜けられるか考えようとした。軍の無神経さには慣れているつもりだったが、今回のそれには渋面を作るだけで済ませられないところがある。提督が僕らよりも先に機内に乗り込まなければ、抗命していたかもしれなかった。だが彼女は「搭乗しろ」との簡潔な命令を出すや、片足にしては見事な身のこなしで秘書艦と貨物室の奥へ消えてしまったので、僕には「軍も提督もクソ食らえ」という気持ちでその後を追うしかなかったのである。ああ、もちろん駐機場に大の字に寝転んで地団駄を踏むというのも手の一つだったが、躊躇うことなく飛行機へ向かう友達を見てしまっては……自分の惨めさで彼女たちの勇敢さを汚せなかった。

 

 コンテナのせいで貨物室(キャビン)は手狭になっていたが、ぎゅうぎゅうというほどではなかった。これについては指示を受けた訳ではなかったが、自発的な判断で艦隊ごとに貨物室側面のシートに座った。大丈夫だ、と信じたい。この短期間で二度も搭乗した航空機が墜落するなんて、深海から上がってきた大亀の首がたまたま流木の()()にすっぽりとはまってしまう※91のと同じぐらい稀にしかないことだ。でもそんなことを言ったって、僕にはその「稀にしかないこと」を無視できなかった。何しろこの僕は「絶対にあり得ないこと、もしくはもの」という意味の慣用句として使うことのできる第三の存在、男性艦娘の実物なのだ。発生の確率がゼロだと思われていたことでさえも現実に起こるというのなら、発生確率がゼロより大きいことが疑いなど到底できない事実の積み重ねによって証明されていることもまた、当然に現実化することがあると見なしてよいだろう。少なくとも数学的にはその筈だ。そこが厄介なのだ。

 

 僕は悶々とし続け、自分を納得させられるような説得力ある慰めを捻り出そうとすることに没頭する余り、飛行機が飛び上がる時には心底驚いて、シートに設けられた簡易な肘掛と間違えて隣席の那智教官の右腕、つまり義手の方を掴んでしまったほどだった。彼女は左手だけで器用にペーパーバックを読んでいたが、僕の様子を一目見て察するとそれ以上の反応は特にせず、紙面に目を戻した。なので、僕は彼女に甘えて飛行機が一定の高度に達するまで掴ませて貰っていた。どうにも教官には候補生時代から長きに渡って迷惑をかけ続けている気がする。その上塗りは望むところではない。上昇が止まったところで手を離し、風景でも見て心を安らげようとして、背後の窓から外を眺めようとする。が、しっかりとしたシャッターが下げられており、ロックまで掛かっていた。大規模作戦だから、機密保持の為に露出を減らしたいのだろう。この戦争は深海棲艦だけが敵じゃない。融和派という奇妙な連中もいるのだ。あいつらは油断も信用もできない。まずもって理屈の通らない相手だ。深海棲艦の味方をするなんて、正気とは思えない。深海棲艦が捕虜を取るとは聞いたことがないが、もしかしたら洗脳でもされたのかもしれない。だとしたら哀れな連中だが、絶対確実に解放してやる手段がない以上は、敵と見なして処理する他にはないだろう。

 

 言うのは簡単だ。実際にそれができるだろうか? ある特定の状況下では、決断を下さないことこそが最悪の決定となり得る。だができるのか? 深海棲艦は同じ人間でもなければ、艦娘でもない。似てはいるが、別種のものだ。僕は奴らを殺す為の訓練を受けたし、それを日々実践している。突然ヲ級が現れて、実に礼儀に適った挨拶をしてきたとしよう。帽子を脱いで頭を下げて、何とまあ、優雅かつ美々しい様子だ。僕は拍手する。それから二〇.三センチ砲を撃ち込む。それでおしまいだ。後には何の感慨も残らない。精々が誰か友達に「今日こんなことがあってさ」という程度だろう。

 

 しかし融和派は、人間だ。または艦娘だ。赤城によれば人型深海棲艦の構成員もいるとのことだし、それについては彼女の言葉も嘘ではなかったようだが、日本にいる融和派の多くは人か艦娘のどちらかである。撃てるのか? 自問してみても、答えは出ない。決めなくてはならない時には決められると思いたい。そいつを撃つか、撃たないのか。友達を助ける為なら、迷わずに撃てる。長門を助ける為なら? 考えるまでもない。撃てる。撃ってからその決定を下したことを誇りに思うだろう。提督を救う為だったら? いやいや、これを考える必要はない、吹雪秘書艦が彼女の横にいない訳がない。

 

 秘書艦と妙高さん、そのどちらかがいるだけでどんな問題も解決されそうな気がするのは、不思議なおかしみがあった。くすりと笑うと同時に、腹が鳴る。おやおや、心は不安に怯えているというのに、体は何処までも彼の職務に忠実な奴だ。苦笑いの一つもしたくなるが、それは後にして教官に訊ねてみる。「教官、機内食はいつ出るのでしょうか?」そうすると彼女は本から目を上げて(遅まきながら、その時とうとう僕は彼女が読書用に眼鏡を掛けていることに気づいた)、にやりと笑った。

 

「私は手荷物の余剰割り当て分に乾パンと缶詰を入れてきた。分けてやろうか? 貴様には幾らか受け取る権利がある、遠慮しなくていいぞ」

 

 寛大な申し出だ。ただ、多少の用意なら僕もしていた。漂流時に食べていたスティックタイプの救難糧食を返納せずに、適当に荒波とかで失ったことにして、そっくり自分のものにしていたのだ。あれは口の中がぱさぱさになるという欠点こそあるが、糖分たっぷりで甘いし、ビニールの小袋に分けてあるから持ち運びやすい。特に甘いという点に僕は惹かれていた。甘味、それは兵隊にとって重要な要素なのである。食事しか楽しみがない時に、ほんのちょっとの砂糖があればどれだけ心のゆとりが生まれることか。

 

「はあ、それはありがたくいただきます。しかし自分たちはともかく、提督にはちゃんとした食事が必要でしょう」

 

 空腹や栄養不足でちゃんと仕事ができない、などという事態は困る。僕が第五艦隊の艦娘五人の命を預かるように、彼女は彼女の指揮下にある艦隊全ての艦娘の命に責任があるのだ。

 

「心配はいらんさ。提督が自分自身のことをないがしろにするタイプに見えるか?」

「その全く逆に見えますね」

「だろう?」

 

 至極もっともな意見だった。第五艦隊旗艦としての経験から述べると、物資調達は簡単な仕事ではない。が、提督が僕らを飢えさせたことはなかった。湯水のごとくとは行かないまでも、燃料も弾薬も食料も娯楽にさえも、不足を感じたことは一度たりとてない。だが提督がそれらを僕らの為にやったのか、となると、これには超特大の疑問符が差し挟まる。提督はそのような模範的人格ではないからだ。彼女はあくまで自分の為にしか働かない。配下の艦娘に多くの物資を与えるのは、それが結局は彼女自身の為になるからなのだ。まあ、僕も三つの子供じゃない。大事なのは動機ではないのだということを知っている。本当に重要なのは、行為そのものなのだ。

 

 そういった、論争を招きかねない意見を差し置いたとしても、提督は彼女の艦娘に手柄を立てさせ、それを基盤にして階級章に星だの線だの付け加えたくて、僕ら艦娘は日々を生き残る為の物資が欲しいだけである。どちらも損をしない取引だ。なら、何の問題がある?

 

 果たして、教官との会話が終わってから暫くすると、まず貨物室の奥の方に座った第一艦隊や第二艦隊の艦娘たちが食事の匂いを嗅ぎつけた。やがて白い箱が回されてくる。その箱の側面には空軍のマークと共に「航空糧食」という味気ないスタンプが押してあった。

 

 受け取って早速開けてみると、ハンバーガーのようなバンズを使ったサンドイッチが三つとクリーム付きのチョコレートビスケット一箱、ポテトチップス一袋にフルーツカクテルが入ったプラ容器、おまけにサイダー一缶とペットボトルのミネラルウォーターまで入っていた。空軍め、いつもこんなあれこれ揃ったいいもの食べてるのか? 仕事中に? 羨ましすぎる。

 

 箱の外側にテープで留めてあるアクセサリーキットを外し、使い捨て濡れティッシュで手を拭いてから食事を始める。サンドイッチはツナサラダ、ローストビーフ、ピーナッツバターの三種類だった。ますます空軍へのやり場のない嫉妬が沸き起こる。何だあいつら、同じ軍とは思えないぞ。海軍の艦娘は任務中、食事をこんなに詰め込めない。いつ撃たれるか分からないからだ。満腹の時に腹を撃たれて胃が破けでもしたら、希釈修復材を使って止血して、後はただただ感染症や炎症を起こしませんようにとお祈りするしかなくなる。ところが空軍はこれだ。国内や軍内部の治安維持しかやることのない陸軍も大概だけれども、任務中に豪勢な食事を取らないだけ、連中は大目に見てやろう。

 

 食べてみると、サンドイッチはそこそこよかった。例の店のステーキサンドと比べると二段三段と劣りはするものの、悪くない味だ。量にも文句はない。フルーツカクテルも甘酸っぱくておいしかった。ぺろりと自分の分を食べ終えてしまい、手持無沙汰になる。クッキーやポテトチップスに手を出してもいいが、お菓子の類は燗酒と同じで、ちびりちびりとやるのがいいのだ。あればあるだけその時に食べきってしまうのでは、犬と変わらない。

 

 僕は無聊(ぶりょう)を払ってくれる何かを探して、きょろきょろと左右を見やった。隣の教官が白い箱をかばうように身じろぎする。どうも僕の食べっぷりがひどかったもので、うかうかしていると大事に残しているビーフサンドにまで手を伸ばしてくるのではないか、と思われているらしい。極めて心外だ。那智教官から食事を奪ったり盗んだりするぐらいなら、僕はいっそ自分の腕を切り落としてから靴と一緒に煮て食べてしまう※92つもりなのに。

 

 目を閉じて寝られないか試してみるが、ダメだ。食べたばかりで寝るのは難しい。諦めて目を開け、どうしたものかと首を捻ると、視界の端で何か動いた。カーゴドア側、コンテナの扉の方だ。第一・第二艦隊や第三艦隊は気付いていない。僕以外の第五艦隊員も。交代の操縦士だろうか? でもそれならどうしてコンテナに用事があるんだ? こういう疑問は、確認しておくに限る。僕は席を立ち、動いた何かの正体を確かめに行った。コンテナの扉は閉められていたが、丁度、よく大きな門に小さな勝手口がつけられているような具合でドアがあり、そちらには鍵が掛かっていなかった。僕はそれを開け、目を見開いた。

 

 中には何もなかった。そんな筈はない、明石さんが積み込むのを僕は見たのだ。でも現にこうして何もないのでは、過去の記憶を言い立てたところで無駄でしかなかった。コンテナの奥には電球が釣り下がっており、光っていた。恐らくは扉を開けると光が灯るのだろう。詰め込んだ貨物がよく見えるようにという訳だ。空の荷箱を積んで飛んでいる理由を知りたくて、更なる調査の為にコンテナの奥へと歩を進める。埃一つ落ちていない。何の手がかりもない。ダメだ、僕では何も見つけられそうにないな。戻って提督に指示を仰ごう。

 

 くるりと振り返る。二歩前に進み、それきり動けなくなる。ドアが閉まっていた。普通なら音がする筈だ。でもしなかった。聞こえないほど集中していたのでもないのに。動揺し、恐怖に陥りそうになるのを、己を叱咤して阻止する。まずはコンテナの壁でも叩いて、中に僕がいることを知って貰おう。この中がどうなっているかを見せたら、話も早いだろう。

 

 しかし、こちらの意志を挫こうとするかのように、コンテナ内の電球がじじじ、と音を立てて消えた。完全な暗闇だ。僕は鼻で笑った。暗所への恐怖は子供時代に克服していたのだ。また音を立てて、電球の光が戻る。今度は度肝を抜かれた。光が灯ったからじゃない。そこに、僕のすぐ横に現れたからだ、いる筈のない相手が──港湾棲姫が。頭の中を様々なことがよぎる。何処から入ってきた? 何故ここにいる? こっちの武器はナイフだけ、あっちも艤装はないが爪がある。またか。コンテナの外に聞こえるよう、大声で叫ぼうとするが、何故か声が出ない。ナイフを抜き、バックステップで距離を取る。港湾棲姫は僕を見る。諦めの混じった目で。「何も」と彼女は言う。その言葉には、以前みたく奇妙な歪みがない。

 

「何も分かっていない。未だに、何も。何度も呼び掛けているのに!」

 

 言葉の意味は頭に入ってこない。一息に踏み込まれて、あの爪で胸を貫かれるところが見えるようだった。

 

 後ろでがこん、と音がして、ドアが開く。素早く目を走らせる。加賀がいた。頭から血を流し、片足を失いながらもドアを開けて、こちらに腕を伸ばしていた。「こっちへ来なさい! 早く!」外がどうなってるのか知らないが、願ってもない。一目散に逃げだそうと踵を返す。が、港湾棲姫の動きは僕よりも速かった。足を切り裂かれ、膝を突く。ナイフを振り回して彼女の腕を切りつけるが、その程度では姫級深海棲艦は止まらない。何の技巧もなく腕を振るうだけで、僕を床に打ち倒す。そうしておいて、彼女は言う。

 

「行ってはいけない!」

 

 加賀が叫ぶ。

 

「何をしているの、急いで!」

 

 その顔色が段々と死人のような青へ、深海棲艦のあの肌色に変わっていく。何もせず、息を呑んでそれを見守る。数秒もすれば、そこにいたのは加賀ではなく空母棲鬼だった。悔しそうに顔を歪めて「沈め!」と彼女が喚くや、僕は那智教官の隣のシートに座っていた。何が起こったのか分からなかった。周りを見て、一体何処からが夢だったのか知ろうとした。教官は本を読み終わったらしく、ぽん、と音を立ててそれを閉じると言った。

 

「貴様の寝つきのよさには驚かされる」

 

 無意味に頷いて、額の汗を拭う。いつから寝ていたのだろう。時計を見る。昼の終わり頃、夕方を迎える時間だ。ミネラルウォーターの残りを飲んで、眠気で濁った思考をクリアにする。教官はその様子を眺めていたが、僕が見つめ返すとちょっと口ごもってから、事実を述べた。

 

「うなされていたぞ」

「飛行機のせいです」

「しかし……」

「大丈夫です」

 

 教官の目を見ながら嘘を言う。親にどんな言い訳をしたものだろうか、戦争から帰ってきた息子が大嘘つきになってしまったと二人が知ってしまった時には? 教官は僕の目が逸らされないのを認めると、口だけ動かして「強情な奴め」と言い捨てて、不機嫌そうな顔で前を向いてしまった。当分はそのままだろう。打てる手はない。僕は今の席を離れ、不知火先輩たちの近くに行くことにした。先輩はチョコクッキーを見苦しくない程度に頬張っていたが、僕が来るのを見て慌てて飲み込もうとしたせいで喉に詰まらせそうになり、傍にいた利根が急いで水を渡していなかったら窒息するところだった。これは僕のせいか? いや、流石に違うよな? 自己弁護しつつ、貢物をそっと差し出す。品目はポテトチップスである。甘いものの後には塩気が恋しくなるものだ。

 

「いえ、不知火にも自分のがありますから」

 

 予想外にも断られてしまった。仕方なくその場に座り込み、自分で開けてぱりぱり音を立てつつ食べる。結構濃い目の味付けだ。背もたれ代わりのコンテナが、悪夢で汗をかいた体にひんやり冷たくって気持ちよかった。ぴとりと体をくっつけてその冷たさを楽しんでいると、僕の姿を面白がった北上がからかいに真似を始める。けれど彼女も思いのほかの好ましい冷ややかさに「お? おおぅ、これは……いいねえ」と言ったきり、動かなくなってしまう。ただその状態でもポテトチップスを口元に近づけるとぱくりと食らいついてくるし、顔の近くでゆらゆらさせると鼻先をひくひく動かすのが愛らしくて、僕は暫く北上にポテトを食べさせることを楽しんだ。

 

 先輩はそれを苦笑しながら見ていたが、ふと何かに気付いて彼女のポテトチップスの袋を取り出した。それを見て僕も彼女が何を感づいたのか理解した。

 

「あれ、先輩と僕の、銘柄違いますね」

「不知火のは薄塩味ですか。基本にして王道、いいですね」

「味比べしてみます?」

「ありがたくいただきます」

 

 袋から不知火先輩の小さな口に最適なサイズのものを一枚つまみ取り、彼女へ差し出す。元より、これは彼女に捧げるつもりだったものだ。惜しいと思うことはない。先輩は既にトラックでの不面目を過去のこととして処理しているようだが、その大人らしい割り切りに甘えていてはいけないと思うのだ。そういう気持ちを込めて「はい、どうぞ」と僕が言うと、先輩は手で取らずに口で取った。僕は呆気に取られていた。ぱりぽりとくぐもった音が先輩の口の中から響き、彼女の「ん、ちょっと濃い味付けですがおいしいです」との評価がそれに続いた。それから僕の視線に込められたものを悟って、言い訳するように「指が汚れるのが嫌だったので」と言った。利根の方を向き、女性の意見を求める。

 

「これはわざとかな? 十七歳の純朴な男の子をからかう魔性の先輩、みたいな?」

「やっておるのが不知火でなければ、吾輩もそう判断するところなのじゃが」

「つまり天然でこれと。凄いな」

「うむ。全く凄いことじゃ」

 

 感心して頷き合っていると、飛行機が降下するのを感じた。ようやく目的地かと思ったが、座席が提督に近い第一艦隊からの情報で燃料補給の為の着陸らしいと分かってがっかりする。航空機なんて、どれも鉄の棺桶みたいなものだ。好き好んでこんなものに乗る奴らの気が知れない。休憩がてら外に出てもいいかと提督に質問を回してみたが、帰ってきたのは一つの意味以外に解釈しようのない、否定を意味する単語だけだった。まあいい、先輩や北上たちとカードでもして時間を待とう。

 

 結局、目的地である航空基地に到着したのは最初の着陸から更に四時間半ほど経ってからだった。外に出るともう暗くなっており、一日の三分の一近くを飛行機の中で過ごしたのかと思うと、貴重な人生を無駄にしたように感じられることだ。座っていただけとはいえみんな疲れ切っていたので、案内役として付けられた空軍の下士官の後を無言でとぼとぼ付いて行った。宿舎は夜中でも一目で仮のものと分かるいい加減なかまぼこ型兵舎で、それらが立ち並んだ前で解散となった。

 

 それぞれに割り当てられたみすぼらしい屋根の下へと入る。第五艦隊の宿舎の中には六人分のベッドと、私物入れが置いてあった。「訓練所を思い出すねえ」と北上が笑いながら、僕や利根の思ったことを代弁してくれた。三人で教官を見る。彼女は居心地悪そうに身をよじってから、彼女のベッドに腰を下ろした。荷物を置いて、那智教官にしごき倒された三人で彼女を囲み、前々からしてみたかった意地の悪い質問を投げかけてみる。

 

「僕らの中で一番できが悪かったのは誰でしたかね、教官?」

 

 答えは想像できる。利根はそつなくこなしていたから、この三人の中で最も被害が少なかった。つまりできがよかった訳だ。北上は耐久行軍訓練の時に毛布で目方をごまかしたのがバレて、顔が倍にも腫れ上がるほど殴られたが、それ以降はそこまでの罰を受けるような失敗はしなかった。何か不正をやるにしても、もっと上手にやったのだ。那智教官が気付いていなかったとは思えないが、証拠もなしに殴ることはできなかったのだろう。じゃあ、僕は? 大本命だ。殴られることこそ少なかったものの何度かほとんど殺されかけたし、訓練終了前休暇の取り消しを食らいまでしたのだから。案の定、教官はまっすぐ僕を見た。そして体の力を抜き、肩をすくめて皮肉げに言った。

 

「それが今や、艦隊旗艦とはな」

「これからもよろしくお願いしますよ、教官」

「ああ。教え子と共に海を駆けるのも悪くないものだ」

 

 それは訓練教官と教え子の間では、半ば愛の告白のようなものだった。

 

*   *   *

 

 翌朝、僕と利根はぴったり朝七時半に目を覚ました。那智教官はそれに半時間先んじて起きており、一方で不知火先輩は五分遅れ、北上は十五分遅く、隼鷹など三十分も遅れた。先輩は枕が変わったら寝るのに苦労するタイプらしく、北上は生来の寝汚さ、隼鷹は昨夜の深酒のせいだろう。みんなが目覚めた後、艦隊員たちの着替えの為に、僕は寝間着の上から上着を羽織って外に出た。八時ともなれば朝の冷たさが暖かさに取って代わられる時間帯だが、まだその涼しさとも言うべきものは残っており、風が吹くと思わずぶるりと身震いがした。僕の艦隊にのろまはいないから、五分で最低限の身づくろいを済ませられるだろうし、十五分もあればそこそこの身だしなみを整えられるだろう。その程度の室外待機で風邪を引くほど、僕も軟弱じゃない。

 

 朝八時の空を眺めて楽しんでいると「あれ?」と困惑した声がした。誰かが何かに困っているのだろうか? だとしたら、手助けせずにはいられない。視線を地上に戻して、声の聞こえてきた方向にやる。そこには前に見たことのある顔がいて、僕を見ていた。少女らしい赤のスカート、白い道着の上の胸当てにはスの一字、活発さを感じさせるツインテール、瑞鶴だ。でも僕が助けたあの瑞鶴かどうかは分からない。あれ? という言葉の次が「ここは艦娘用の宿舎よ?」だったらこちらを知らないということだから、あの瑞鶴ではない。「何であんたがここにいるのよ?」とかだったら、僕をある程度個人的に知っているということだから、あの瑞鶴だ。

 

「どうかしたかい」

 

 知り合いであろうとなかろうと、会話では適切な距離感を保つことが肝要だ。僕はなるべく気のいい男を装って、そう問いかけた。中身は割かし腐っているが、中がそうだからって対外的な態度まで腐り落ちてなきゃいけないって法もないだろう。

 

「こんなところで会うとは思っていなかったから驚いただけよ。久しぶりね」

 

 あの瑞鶴か。なら嫌われてはいまい。特別好かれているとも思えないが、安心して話をすることができる。長門や吹雪秘書艦と話をする時に僕が感じるような、不穏な気配もない。爆撃にだけは注意しなければならないだろうが、今の瑞鶴は弓を持ってもいない。パンチとキックには十分注意を必要とするが、訓練所で那智教官から格闘訓練を受け、今でも時折彼女から手ほどきを受けている僕なら、不意打ちさえ避ければ余裕を持った対応も不可能ではない。

 

「一か月ほどぶりだったかな?」

「もっとでしょ」

「そうだったね。最近忙しくてどれだけ時間が経ったのか忘れてしまっていたよ。最上と熊野は元気かい?」

「ええ。最近、最上は艤装の改造を受けて航空巡洋艦になったわ。熊野ももうすぐじゃないかしら」

「へえ、おめでとう! 僕がそう言ってたって彼女にも伝えてくれないか、頼んだよ……それで、他の艦隊員たちはどうだい? そうだ、旗艦は誰がやってるんだ?」

 

 何の気なしの質問だったが、それなの、聞いてよ! と瑞鶴は食いついてきた。話では彼女の姉妹艦であり、実戦経験も数多く積んできた正規空母翔鶴が、旗艦として転属してきたらしい。僕には姉妹艦がいないのでその嬉しさを共有できないことが残念だったが、翔鶴姉が翔鶴姉がと姉のことを事細かに語って聞かせて来ようとする瑞鶴の姿は、見ていてとても好ましかった。ひとしきり語り終わる頃には、瑞鶴は運動をした後のように息を切らせていた。それでも彼女は満足そうである。大きく息を吸うと幾らか落ち着いて、自分の度を越した興奮を手短に謝ってから、その他の二人の補充について話をしてくれた。訓練所上がりの駆逐艦と戦艦が一人ずつ配属されたとのことで、その二人の練度さえ上がれば、瑞鶴の所属艦隊は強大なものとなるだろう。正規空母二隻に戦艦、熟練の航空巡洋艦と重巡、駆逐艦。艦種も偏りがないし、演習で相手にしたくはない編成だ。

 

「それで……あんたの艦隊も大規模作戦に参加するのよね」

「うん、そうらしい。今の口ぶりだと君たちもか」

「ええ。詳しい話は今日の昼って聞いてるわ。あんたのところもそうなの?」

「いいや、僕らの方はその辺さっぱりだ。ま、知らなきゃならない時には教えてくれるだろ」

「のんきねえ。ホントに旗艦なの? 普通、旗艦って翔鶴姉みたいにしっかりしてなきゃ務まらないと思うんだけど」

「色んな艦隊があるんだ、瑞鶴。そいで、色んな旗艦がいるのさ。正直、僕も二番艦に旗艦を譲って六番艦辺りに収まっていたいんだけどな」

 

 そう言って笑ったところで、宿舎の中から僕に声が掛かった。もう入ってもいいらしい。「ああ、行くよ」と返事をして瑞鶴に別れの挨拶をしようとするが、そこで彼女にもお呼びが掛かった。少し遠くにあるかまぼこ型兵舎の一つから出てきた翔鶴だ。彼女の横には駆逐艦叢雲と、高速戦艦金剛がいた。叢雲はともかく、高速戦艦か。ますます演習で相手にしたくなくなった。翔鶴は二人をそこに残して女性らしい落ち着いた足取りで僕たちのところまで来ると、瑞鶴に「こちらは?」と尋ねた。瑞鶴が「ほら、前に話した……」と言うとそれで通じたようだった。付き合い自体は長くないものの、それで分かり合える仲なのか。姉妹艦間の絆というのは凄いものだ。思えば天龍と龍田もそうだった。

 

「そうでしたか。私の二番艦がお世話になりました、お礼申し上げます」

 

 ただの任務だよ、気にしないでいい、と言いそうになって、止める。瑞鶴はもう知り合いだ。熊野や最上も。金剛と叢雲は後任だから、気の赴くままに先輩風を吹かしたっていい。けれど翔鶴とは初対面で、彼女は僕より先任かもしれないのだ。どちらの立場が上か分かるまでは、互いに礼儀正しくするのが筋だろう。背筋を伸ばして返答する。

 

「いえ、それが自分の艦隊の任務ですので」

「何、いきなりかしこまっちゃって。まあ翔鶴姉美人だしね、緊張するのも仕方ないか」

「瑞鶴」

 

 優しい声に迫力を込めるというのは難しい技術だ。僕はまだ習得していないし、これから先自分がそれを身につけるところを想像したこともない。だがこの翔鶴は自分のものにしているようだった。間違いなく僕より先任だろう。よかった、正しい選択をしたようだ。迫力に当てられて緊張した面持ちになった瑞鶴に、彼女の姉妹艦は宣告した。

 

「行くわよ」

 

 去り際に軽く頭を下げられたので、僕も応じておく。立派な所作ではあったが、感情は匂いのように現れるものだ。身のこなしで隠すのは無理がある。お陰様で、嫌われているな、と分かった。見る限り、金剛たちにもだ。誰かに新しく嫌われるのが久々のことだったので、僕は何となくもやもやしたものを感じた。瑞鶴を引っ掛けようとしている軽薄な男にでも見えたのか、それとも理由のない生理的嫌悪か。どっちでもいい。瑞鶴が僕と付き合いのあることで責められたり、不快な思いをしないことだけを僕は願った。

 

 宿舎に戻り、艦隊員たちに瑞鶴と会った話をする。隼鷹は空母ということもあって瑞鶴と仲良くなっていたので、「後でちょっくら挨拶でもしてくるかねえ」と言っていた。人の感情の機微に敏い隼鷹なら、問題もないだろう。翔鶴に睨まれることもあるまい。僕は手早く服を着替えると、時間を確かめた。八時半。昨日、解散前に聞いたところでは朝食は九時からだ。基地の食堂を使えるとのことだった。三十分で何ができるだろう? カード、ボードゲーム、簡単な訓練。友達とお喋りするのも悪くない。利根は不知火先輩とチェスに興じており、教官は本を読んでいるから、話をするなら北上か隼鷹、またはその両方だ。でも隼鷹はうつらうつらと二度寝に入ろうとしていたので、北上と話すことにする。彼女は宿舎の壁に油性のマジックペンで丸い的を描き、それに向かってナイフを投げていた。空軍の連中が気付くのはここを出た後だろうから、僕は止めなかった。

 

 僕が北上の様子を眺め始めてから三投目に、彼女はナイフを当て損なった。僕は北上が床に落ちたナイフを取りに行くよりも先に、自分のナイフを的に投げつけた。敵に追われて長門と過ごしたあの日以降、投げナイフの訓練をした僕の投擲成功率は九割を超えている。今度も僕が願った通りに刺さってくれた。刺さり方には癖があるが、これは芸術点を競うようなゲームの類じゃない。狙ったところに十分刺されば、それでいいのだ。

 

 海戦では頼りになるベテラン艦娘、全世界の大井の愛をほぼ独り占めする雷巡は僕の危険な行為を責めるような目で見たが、この程度の危険で本当にびくつく艦娘はいない。みんな大なり小なり、危険というものに対する感覚が狂っているのだ。狂っていると言うと語弊があるな。鈍っていると言い換えた方がよいかもしれない。だってそうだろう、頭の数センチ向こうを拳ほどもある金属の塊が飛び交い、足元では一発で運命を決してしまうような爆発物が行き交う世界だ。感覚を麻痺させなくては、それこそ頭がおかしくなってしまう。

 

 北上は歴戦の兵士らしく、にやっと笑った。それは「あんまりびっくりさせるからさ、もうちょっとで漏らすとこだったじゃないの」というニュアンスの笑みだ。「いや、マジで漏らしたりはしてないよ、当たり前じゃん。ただ『もうちょっと』だったってだけだってば」。だから笑いになるし、だから自分のタフさを、タフな艦娘らしく言葉に出さずに強調できる。「やれやれ、超冷静なあたしじゃなかったら、今頃辺り半キロ汚染地帯だよ?」と。

 

「上手いじゃん」

「練習だよ、北上。練習が全てだ」

「まあねえ、そうだろうねぇ。前に隼鷹が『あたしの部屋側の壁でナイフ投げる練習すんじゃねえよ!』って言ってたけどねー」

 

 この会話の最中に、北上はナイフを拾って元の位置に戻り、再度投擲をしていた。それは僕のナイフが刺さったすぐ横に、綺麗に刺さった。僕のが斜めに刺さっているのに比べて、北上のはまっすぐだ。彼女の投擲フォームが、自己流に歪んでしまった僕のものよりも正確で、洗練されているということの証拠だった。

 

「マジで?」

「聞きゃいいでしょ、そこにいるんだし」

「気まずい。それに眠たそうだから邪魔したくない。あと北上が友達に嘘をつくとは思わない」

「いやまあ、そっちがそれでいいならあたしはいいんだけどさぁ、やめたげなよ?」

 

 そうしてナイフを投げつつ話をしていると、昼食の時間になった。まだ夢うつつだった隼鷹を起こし、食堂へ向かう。場所が分からなかったので、空軍の兵士をそこらで捕まえて聞き出さなければならなかったが、その価値はあった。研究所の食堂も悪くなかったが、こっちも中々だ。もしかしたら、大規模作戦に参加する艦娘がここに滞在するということもあって、質のいい材料や腕のいい調理人を呼び寄せているのかもしれない。

 

 出撃の時間が分からない以上、量は控えめにしなければならなかったが、それでも常より多く食べた。宿舎に戻り、何もしないでいるという至福を味わう。どうせ、やがては提督から作戦説明があって、危険な任務に向かわねばならないのだ。なら、今は自分のやりたいことをやるべきだろう。僕の場合は、それはまさにだらけることだったのである。

 

 那智教官も同じように考えているのか、僕が腑抜けたようにぐだぐだしているのを咎めはしなかった。でも彼女はそのようなみっともないことはせず、彼女が必要だと信じていることを行っていた。どちらが正しいか? 普通の人にそう尋ねれば、百人に九十八人は教官の方を正しいと判断するだろう。ところがどっこい、そうじゃなかった。昼が過ぎても、僕らは一向に提督からのお知らせなんか受け取らなかったのである。隼鷹は昼過ぎに眠気もすっかり覚めたか瑞鶴たちのところに行って、彼女らに与えられた任務について多少のところを聞いていた。大規模作戦ではいつもそうなのか、細部は機密だとして艦隊外の誰にも明かしてはならないことになっており、何をするのか詳しくは分からなかったが、大体のところ本命の作戦を支援する役割だそうだ。僕は艦隊員たちに意見を求めてみた。

 

「僕らもそういう支援任務を与えられるのかね、どう思う?」

「分からん。だが私は提督を知っている。あの人は他人の作戦のお膳立てなど、死んでもやらんぞ」

 

 教官の言葉は正鵠(せいこく)を得ていた。提督は他人を踏み台にする女だ。その逆じゃない。もし、彼女を踏み台にしようとするような不届きにして分不相応、もの知らずの愚か者が現れたら、提督は大喜びでそいつを引きずり倒し、その体の上でスパイクシューズを履いてタップダンスでも踊るだろう。おっと、片足の女性に今のは不適切なたとえだったかな? 北上と利根も、教官の意見に賛成した。隼鷹は「どうでもいい」の態度だ。彼女は提案した。

 

「それが分かったとしてさ、何の意味もないんじゃね? 待ってりゃ分かることだし、考えるならもっと楽しいこと考えて、ごろごろしてようぜ」

 

 誰もこれに筋の通った反論ができなかったので、僕らは隼鷹をこの議論の勝者に据えて、ごろごろすることにした。

 

 夕方になってから、ようやく提督は吹雪秘書艦を送って、僕らを航空基地の片隅に作られた臨時工廠に呼び出した。僕ら、つまり第五艦隊だけだ。秘書艦を除けば第一艦隊も、第二艦隊も第三艦隊もいなかった。なのに明石さんが何故か提督の後ろにいた。僕はマズいぞと思った。理由はないが、こんな風に特別なことが起きた時には、ろくでもない結末が待っているものだ。僕はそれを短い軍隊生活で嫌というほど思い知らされていた。到着の報告を秘書艦から受けると、提督は短く指示を出した。

 

「北上、不知火、装備の換装を命じる。明石に従え。旗艦と二番艦はこちらへ来い。後の二人は待機。秘書艦、待機班を見張っておけ。退屈の余り何をするか分からんからな」

「はい、司令官」

 

 提督の嫌味を隼鷹と利根はいつものこと、という様子で流した。実際その通りだし、この程度なら挨拶代わりでしかない。僕はすぐかっかする性格だが、その僕でも今のは耐えられただろう。杖を突き、足を引きずりながら進む提督に付いていくと、一時的に第一艦隊に編入されている夕張が待っていた。明石さんと同じで、工廠での役目がある為に第一艦隊としてではなく夕張個人として呼び出されたのだろう。提督は彼女から何か受け取ると、それを僕に渡した。

 

「それを右腕に巻け」

 

 見てみると、それは小型の情報端末だった。陸軍で指揮官が使っているような奴だ。タッチパネルに表示される情報で部下の位置を特定したり、爆撃を要求したりする際にその詳細な位置を指定する為に用いられている。戦争映画で見たことがある。今度は陸軍にでも転属させられるのかと思っていると、提督が煩わしそうに言った。

 

「何も聞くな。後で説明する。電源の入れ方は分かるな? 入れるんだ……よし。夕張、テストしてみろ」

「カウントダウン開始。三、二、一」

 

 ゼロとは彼女は言わなかった。電源を入れた後も何も表示されていなかった液晶が真っ白になった。壊しでもしたかと不安になるが、それなら提督が何か言ってくるだろう。彼女は沈黙を守っていた。夕張もだ。液晶の白が消えると、提督は夕張に拳より一回り大きいぐらいの機械を二つ持って来させ、それを一つずつ僕と教官に渡した。機械にはフックが付いており、下衣のベルトに引っ掛けて保持することができるようになっていた。

 

「失くすな。落とすな。分かったか? 戻るぞ」

 

 釈然としないままに、隼鷹たちのところへ戻る。不知火先輩らも、数分して戻ってきた。二人とも、装備が一部変わっている。あれは……機械類には自信がないが、水中探信儀ではないだろうか? 潜水艦の出没する海域に行くのかと思うと、気が沈んだ。海の上にいる敵なら、強大であろうともやりようがある。空の上でもだ。けれど海の下の奴らには、僕らは手も足も出ないのだ。

 

 提督はどうせ分かりもしない癖に先輩と北上の装備を自分でも確認すると、一つ頷いて移動命令を発した。艤装を装備してから、ヘリの発着場へ行けというものだった。今更彼女の命令が突飛であることに驚くものはいない。僕らは粛々と艤装の着用を済ませ、脚部艤装を手に持って発着場へと進み、大型ヘリに乗った。僕は精一杯嫌な顔をして提督に見せた。無視された。空も提督も大嫌いだ。

 

 キャビンは艤装をつけた艦娘が六人乗っても満足できる広さだった。ヘリが空に飛び上がると、提督はみんなを床に座るなり椅子に座るなりさせてから、彼女の指示一つで死にもする艦娘たちの前に立った。その傍らには、いつものように吹雪秘書艦がいたのは言うまでもないことだ。

 

「今からお前たちの任務を説明するが……その前に伝えておかなければならないことがある」

 

 場の空気がさっと変わる。ここからはおふざけなしだ。僕らは固唾を呑んで、提督の次の言葉を待つ。彼女は重々しい静けさが十分に部下らの間に行き渡るのを待ってから、口を開いた。

 

「軍は数ヶ月前に、対深海棲艦用通常兵器の開発に成功した」

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