[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「大規模作戦」-5

「援護しろ」

 

 踵を返し、敵艦隊へ進み始める。単横陣に展開していた敵が、輪形陣に変えた。中央でヌ級とル級を守っている。隼鷹の航空隊を抑える為の要だから、決死の突撃で沈められたら困るという訳だ。馬鹿どもめ、脅威度の格付けを誤りやがった。僕よりもっと恐れるべき相手がいるというのに。ほくそ笑み、当たる望みのない魚雷を適当にばらまく。彼女たちの目は雷跡に注がれる。不注意だ。その報いを受けて貰うとしよう。

 

 敵の砲弾の一発が、まともに左の脇腹に当たった。肉が抉れて、紙にパンチ穴を開けるのに失敗したみたいになる。ル級の弾じゃないだろう。もしも奴のだったら僕の体は真っ二つになっていた筈だ。輪形陣の先頭に立っているネ級の砲撃だと思う。(せき)は出るが、血は吐かない。つまり、肺には影響が出ていない。行ける。希釈修復材の水筒のふたを開き、傷口に中身を注ぐ。視界が激痛で明滅する。だがこの痛みにも慣れた。叫びだしたくなるほど痛いが。不自然な速度で盛り上がっていく肉にも慣れた。気持ち悪さは変わらないが。血を急に失ったせいで感じる脱力感にさえも慣れた。嘘だ、こっちにはまだ慣れない。でも戦える。

 

 連中の表情が見える距離まで近づいた。胸が恐怖に高鳴る。止血していなかったら出血がひどくなっていたところだ。ふと天龍が現れて言う。「にっこりしろよ、オレたちがあいつらを殺す番だぜ」僕は精一杯笑う。天龍もからからと笑う。「そうそう、それでいい。ほら着弾、左だ」確かめもせずに右へ舵を切る。ル級の砲弾がすぐ左に特大の水柱を作って、僕の足元をすくおうとする。当たらなくても、破片が飛んでこなくても、戦艦の砲撃は恐ろしいものだ。天龍だってそのことは認めずにはいられない、そうだろう?

 

「おいおい、あんなもの怖がってんのかよ? それより、お前を撃ったネ級にお返ししてやろうじゃねえか。三つ数えるぜ。一で腕を上げて、二で狙って、三で撃つんだ。一、二、三!」

 

 言われた通りにやってみる。先頭のネ級は僕が狙いをつけた段階で回避を試みたが、逃げようとした先に僕の魚雷の雷跡を見つけてほんの少し躊躇った。彼女とその一本の魚雷の距離からして、その必要はなかっただろう。僕の砲撃を避ける為に動いた程度では、信管は作動しなかった筈だ。でも、多分そのネ級は思ってしまったのだ。「もしかしたら」と。それが彼女を鈍らせた。それが僕に好機を与えた。偶然ではなく、必然として。射撃訓練の的みたいに、彼女の胸に風穴が開いた。驚きはない。冷静だ。ネ級の体が海面に叩きつけられ、飛沫を上げる。

 

 その向こうのル級からの砲撃を避けながらネ級の最後を見て、空元気の作り笑いが本物に変わった。敵に撃たれてもまだ生きていることほど痛快なことはないらしいが、僕に言わせるとそんなのはたわごとだ。最高に痛快なのは、反撃でその敵を撃ち殺してやることなのだ。天龍も戦っている時、こういう気持ちだったのだろうか? まだ僕は戦争好きという彼女の性分を理解できないでいるが、何となく分かり始めていた。そのことには僕の中の天龍も感づいているらしく、彼女はずっと仲間外れだった子供がようやく遊び相手を見つけたような、満面の笑みを浮かべていた。その純真さは、彼女が命を奪うことを楽しんでいるという事実からすると、倫理的にあり得るべきではないほどのものだった。

 

 敵艦隊はやっと本格的に士気を揺るがせ始めた。ル級が僕への砲撃に掛かりっきりになって、指示を出せていないのだろう。リ級の二人とイ級エリートはそれぞれ思い思いに砲撃しており、その対象は主に僕の援護の為に接近しようとしている利根や教官で、たまに僕を撃ってみたりとだらしなく、火力を集中させられていなかった。「もう一隻狙えるかな?」天龍に訊ねる。「やれるさ」と彼女は応じる。その言葉には互いへの信頼がこもっている。僕は茶化す。「頼りになるね」天龍はとっておきのしたり顔で言った。

 

「ふふ、当然だろ。オレを誰だと思ってるんだ? 世界水準超えの天龍様だぜ!」

 

 違いない。彼女にもう一言と思っていると、耳をつんざく那智教官の怒鳴り声がした。これにはさしもの天龍も震え上がった。彼女とて教官には絞られた口だ。僕や他の連中と同じく。

 

「一人で何をやっている、貴様は旗艦だろう!」

 

 こうしなきゃヤバかったんだよ、分かんないのか? と口から出そうになった。

 

「そちらに行く」

 

 ネ級の轟沈やル級フラッグシップによる指揮が半端なものになったせいで敵の戦闘能力が全体的に落ちている今なら、合流も難しいができるだろう。利根と教官は魚雷で敵の動きを牽制しつつ、砲撃でリ級たちの目と砲を引きつけて僕を支援し続けてくれている。ル級の砲撃には戦闘開始直後のような精彩もない。これなら勝てる、と僕は考え始めていた。そこに通信が入った。「こちら不知火、先ほど紫電改二の防空網を突破した少数の敵航空隊から攻撃を受け、撃破には成功したものの」心臓をわしづかみにされた気分になる。「ソナーが故障。また、護衛対象(隼鷹)も中破させてしまいました。すみません」声は静かな響きを持っているが、そこにこもった口惜しさは感じられた。通信を一瞬切って罵倒語を叫んでから、「北上は?」と訊ねる。まだ合流できていないのか? それともまさか、突破してきた敵にやられたのか。すると彼女はこう答えた。

 

「生きてはいます」

「どういうことだ」

「合流直前、今言った敵航空隊の攻撃で片足を失ったのです。轟沈寸前で救助、止血処置を済ませた今は隼鷹が支えていますが、意識レベルは低く、自力航行は不可能です。不知火への指示に変更はありますか?」

 

 何もかも海面に叩きつけてここからおさらばしたくなった。こっちの状況がよくなったと思ったらこれだ。どうする? 不知火先輩は自分の負傷程度について何も言わなかったが、大方彼女も中破以上の傷を負っているだろう。中破が二人、轟沈寸前の大破が一人。かてて加えて、その中にソナー持ちの二人が入っているのだ。どうしたらいいか分からなくて歯噛みしていると、教官と利根の援護砲撃が、リ級とイ級エリートに直撃した。沈みゆくその二隻を見やる。残りはル級とリ級、ヌ級の三隻。ようやく数で対等になった訳だ。でも、もう遅い。奴らは目的を果たした。ソナー持ちを片付けてしまったんだからな。任務は失敗か? そうかもしれない。代替案は今のところ考え付かない。じゃあここで諦めてみんなで沈むべきか? 断じて否だ。

 

 通信回線を吹雪秘書艦に繋ぎ、提督を呼び出す。すぐ傍にいたとしか思えない速さで、提督と繋がった。僕は彼女が何か言い出す前に用件を言ってしまうことにした。

 

「回収を要請します。対象は隼鷹、北上、不知火……それから利根の四名」

「すぐヘリを送る。状況は?」

「交戦中。最悪です。何よりソナー持ちがもういない。何か次の手を考えて下さい、あなたは提督なんだ」

「分かった」

 

 八つ当たり気味の要求にも、彼女は短く答えてくれた。僕は毒気を抜かれた気持ちになったが、気を取り直して指示を出した。

 

「利根、隼鷹たちのところまで下がり、彼女たちを指揮、護衛して提督の指示する回収地点に向かえ。ソナー持ちの二人が深手を負った以上、任務は失敗と見なして最優先目標を生還に切り替える」

「吾輩が指揮を? ……むう、仕方ない、かの。しかし、お主らはどうするのじゃ?」

「さっき、提督と話した。次の手を考えると言っている。それを信じてここに残る。行け」

 

 ル級たちは合流しようとする僕と教官を邪魔せず、自分の艦隊の統制を取り戻そうとしていた。お陰で僕と教官は容易くル級の主砲の射程外に脱し、肩を並べることができた。空の紫電改二が隼鷹の方へ戻っていく。ヌ級の半壊した航空隊もその後を追わず、母艦へ針路を取った。数分間、僕たちと深海棲艦たちは立ったままにらみ合った。どちらにとっても交戦距離の外にいたし、無意味に攻めかける気にもなれなかったからだ。提督がソナーの代替手段を思いつかなかったら、このまま撤退するつもりだった。情けない話だが、僕としてはそうなってくれた方がありがたかった。今日はもう十分すぎるほど戦ったと思う。任務が達成できなかったのは残念だが、誰も死なせずに帰れたなら旗艦の最低限の務めは果たしたと言っていいだろう。

 

 が、提督は嫌な奴で、その上有能な人だった。無線機が一度雑音を発して、それから彼女の声を伝えてきた。僕は回線を那智教官にも繋いで、彼女が会話を聞けるようにした。説明しなおすのは面倒だ。

 

「今、基地の連中を説得した。骨が折れたよ、海域の深海棲艦を粗方始末したと信じさせるのにはな。まあいい、対潜哨戒機を送らせる。空中投下型ソナー(ソノブイ)で探させろ。到着まで三十分。障害は?」

「敵が三隻」

「排除しろ。それと、そこからそう遠くない地点に第二艦隊がいるから、連中も向かわせる。以上」

 

 第二艦隊? そりゃどうも、心が温かくなる気配りだ。僕はしゃがみこみ、頭を抱えた。少し離れたところにいた那智教官が、僕の隣まで来た。僕は彼女を見上げた。ほっとする。教官だ。

 

「貴様、大丈夫か?」

「大丈夫って言葉の意味が『死ぬほど疲れて家に帰りたがっている』っていう意味ならイエス、『戦意に満ち満ちて国家と社会の為に命を捧げる覚悟でいる』という意味ならノーですね、教官」

 

 旗艦としてではなく、彼女の教え子として答える。旗艦として教官と話すと、やけに疲れるのだ。そもそも、僕の立場が彼女よりも高いというのがおかしいのである。那智教官はくすりともせずに右手を差し出した。何故か温かみを感じるその義手を掴み、立ち上がる。彼女は微笑んだ。「そうか、なら結構。まだまだ一緒に暴れられるな」その表情が、戦争の最中にはそぐわない筈の微笑が、僕を惹きつける。あっという間に僕は、この人の隣で戦えるならもうどうなってもいいや、という気持ちになっていた。疲れからくる自暴自棄が含まれていなかったとは言えないが、とにかくそれのお陰で敵に挑む気力が沸いてきたのだ。不満はない。

 

 僕らが再び動き始めたことで、ル級とリ級、それからヌ級の方も行動を再開した。軽空母を殿(しんがり)に、単縦陣を作ってこちらに向かってくる。提督と話したのが三分前。二十七分で三隻を始末し、潜水艦基地を見つけ、ビーコンを……あれ? 僕は自分の体のあちこちを探ってみた。けれど見つかったのは、ベルトに引っかかったフックだけだった。戦闘中に流れ弾でも受けたのだろう。肩と肩が触れ合いそうなほど近くにいる那智教官に訊いてみる。「ビーコンあります?」「ああ。何だ貴様、壊したのか?」「壊されたんです」自尊心の為に、そう訂正しておいた。よかった、ソナーの代わりはあってもビーコンの代わりはない。哨戒機からの情報で座標を特定、入力して攻撃、というのも可能だろうが、決めた手順は変えたくないものだ。急な変更は、ミスの原因となる。そして、犯してもいいミスなんてものはないのだ。

 

「残弾は?」

「砲弾の方は一戦分なら余裕です。魚雷は切れました」

「魚雷ならまだ四本余っているな。半分やる、使え」

 

 ありがたい申し出だ。教官は慎重に魚雷を発射管から外すと、僕に渡した。受け取って同程度の慎重さでそっと発射管へ差し込み、後は妖精たちに任せる。余程な真似をしなければ受け渡しや装填程度で爆発したりするようなものではないと分かってはいるのだが、それでもやはり爆発物を手の中に収めている時ぐらいは、臆病になっても責められるいわれはあるまい。酸素魚雷を使うのは初めてだったが、通常の魚雷と違うのは雷跡が目立たないことと、射程が非常に長いことだ。特別気をつけなければいけないことはなかったと思う。信管の敏感性がどれほどのものに調整されているか分からないのはやや不安だが、那智教官か明石さんが調節したのなら、過敏ということはないだろう。

 

 受け渡しを終えて、距離を取る。ル級たちの砲撃を受けて二人揃って海の底、なんてのは嫌なことだ。無線で教官が言う。「さて、どう戦う?」簡単な質問だ。「僕が前、教官が後ろで。いいですよね?」「任せろ」やや速度を落とし、教官は僕の後ろについた。反対に僕は機関を酷使して、最大速力を出す。有効射程内に入るや、単縦陣の先頭に立つル級の砲が火を噴いた。こちらの砲が届かないから回避運動を織り交ぜずに直進していられることもあって、少し精度が戻っているが、それでも回避に困ることはない。ヌ級が艦載機を発艦させるのが見えた。リ級はまだ砲撃を控えている。戦艦の長射程が羨ましいよな、と僕は彼女に語りかけたくなった。

 

 だが、後ろで砲声がした。那智教官らしくない、まだ射程範囲外の筈だ、先走るなんて、と軽い狼狽を覚えるが、そんな僕を笑い飛ばすかのようにその砲弾はヌ級を撃ち抜いた。僕は呆気に取られた。敵だって平気ではいられなかったろう。我ながら感心した、という風な溜息を吐いて、教官は言った。

 

「やればできるものだな」

 

 ……ともかく、艦載機の心配はなくなった。数も対等になった。リ級が慌てて回避運動を始めるのを見て、思う。ル級より先にまずはあいつだ。ル級フラッグシップは、一対一で勝てる相手じゃない。教官と二対一で掛からないと。その為にリ級を先にやる。筋の通った美しい論理。心の中に呼びかける。「天龍、手伝えよ」「ヤバくなったらな」気分屋の天龍らしい受け答えだ。僕の天龍エミュレーターも世界水準軽く超えてるな。

 

 那智教官はル級を狙い始めた。ル級は盾で防ぎつつ、エリートまでとは違うところを見せた。機動を怠ることなく、盾の隙間という限定された視界だけで教官の位置を捕捉し、対抗砲撃を行ったのだ。人間が勝手に名づけた区分ではあるが、それにしてもフラッグシップと呼ばれて恐れられるに値する能力だった。それを一人で抑えている教官も流石である。彼女が頑張っているのに、僕が足を引っ張ってはいけない。リ級を見据え、狙いをつける。両肩と右腕の、全砲門から一挙に発砲する。

 

 意気込みがプラスの方向に働いたのか、単にばら撒いた中からまぐれ当たりを引いたのか、最初から一発だけ命中したが、当たり所がよくなかった。狙いは腹辺りで合わせてあったのだけれども、リ級はそこを左腕の艤装でかばったのだ。それでも左腕を破壊できていれば受け入れられたけれど、角度が悪かったのだろう。弾かれてしまった。再装填を急ぐ。リ級の砲口が光る、風が頭の右を駆け抜けていく。金属片が右側頭部に何個も突き刺さり、髪の毛先がちぎれ飛ぶ。右肩の砲をやられた。その中にいた妖精たちは、妖精にも人間と同じ形の命というものがあったとして、何も気付かない間に死んだだろう。ばらばらになってまだ生きているよりはマシだ。

 

 敵の足を狙って撃つ。今度は左肩の砲だけを使う。重巡の砲ではル級の射撃ほど航行に影響を与えられないが、与える精神的な影響では引けを取らない。リ級は蛇行で回避を続けようとするが、その頭を押さえつけるように、執拗に取り舵と面舵の切り返しに合わせて撃ち続ける。リ級の反撃だってあるし、彼女は無能じゃない。一度に二発ずつだが温存していたらしい魚雷を撃ってくるし、先の側頭部のものを含め、幾つもの弾の破片が僕に刺さったままになっている。左の脇腹などには捻じ曲がった金属片が、刺さるのではなく()()()()()さえいる。でも、それでは僕を止められない。僕を止められるのは直撃弾だけだ。

 

 リ級の動きは鈍り始めた。出血に加え、連続する至近弾によって煽られた、被弾への恐怖が彼女を縛っているのだ。その恐怖が最高潮に達した瞬間が、彼女の最期になる。何故ならその一瞬こそ、僕の弾が命中する時だからだ。これまで僕は何隻もの人型深海棲艦をこの汚い手で仕留めてきた。長門なら、武蔵なら、天龍なら、那智教官なら、こんな手は使わないだろう。彼女たちは僕より強いからだ。普通に当てて倒せばいいじゃないか、と彼女らは言うに違いない。ああ、僕にも同じことができたなら……しかし、ないものねだりをしても敵は沈まない。僕は初めて戦闘を経験したあの岩礁でそれを学んだ。自分に配られたカードしか切ることはできないのだ。そして僕の手札で作れる手と言ったら、こういう姑息なやり方程度のものだったという訳だ。

 

 ところが、初めてのことが起こった。リ級が恐怖を振り切ったのだ。彼女は勇気を振り絞り、まっすぐに僕へ駆けてきた。最低限の動きでこちらの砲撃をかわし、近距離戦で刺し違えようという魂胆が透けて見えていた。僕はこのリ級が軽蔑するべきではない兵士であることを悟った。ル級フラッグシップと那智教官は拮抗しているが、艦種の差から言ってもル級が有利だ。僕がここで死ねば、リ級も共に死のうとも、ル級有利でことを運べる。この重巡リ級はそれに思い至って、死ぬことに決めたのだ。

 

 こうなると厄介だった。艦娘でも深海棲艦でも、死ぬ気になった者を実際に殺すのは困難だ。文字通り死力を尽くして食らいついてくる。僕はさっきまでのリ級のような蛇行と後進を組み合わせながら砲撃を行ったが、一発だって当たりはしない。奇妙なことに、撃った僕だって命中に期待なんかしていなかった。こうなった生き物は、弾なんかじゃどうにもならない。僕は左手を腰にやった。そこには古い友達の一人がぶら下がっている。明石さんが倉庫から出してきてくれたあのナイフが。

 

 無駄と分かっていながらも、撃ち続ける。リ級もだ。両腕の艤装を盾にし、かすかな左右への移動で避けながら、隙を見て撃ってくる。その中の一発が僕に当たった。致命傷ではないが左肩の肉がえぐられて、血が噴出する。肩部砲塔に影響はないが、太い血管が破れたようだ。右手で脇に吊るした水筒を掴み、残り僅かな修復材を全部そこに流し込む。空っぽになった水筒を放り捨てながら、利根と北上に感謝した。彼女たちのお陰で、まだ手付かずの修復材の水筒が一本残っている。

 

 リ級の目が見える距離になった。白目と黒目の判別はまだつかないが、ものの一分も経たずにそうなるだろう。右手にナイフを握る。肩の負傷で動かしづらい左腕は最早武器としては使えないが、盾役や棍棒代わりになら不足はない。機関を前進に切り替え、海を駆ける。風が体を冷やそうとするが、焚き火が息を吹きかけられたように、僕の体はむしろ熱くなる気がした。みるみる内に距離が縮まっていく。なのに弾は一発も当たらない。機動と射撃精度、両立はできないのだ。リ級も、僕も。砲を撃つ度に視界が揺れる。足がぐらつく。波の影響もある。血も流しすぎた。集中しようにも痛みが止まらない。そんな状態で狙って当てられる訳がない。だから狙わなくてもいい接近戦に戦いの時代を戻すのだ。接射、殴打、刺突、斬撃。この類なら外しはしない。

 

 リ級の目を見続ける。白目と黒目、まだ見分けはつかない。右舷後方に水柱、気にしない。僕の視線は向かい合ったリ級の目だけに向けられている。白目と黒目。青い燐光を放つ強膜、星のない夜空のような虹彩と瞳孔。可愛い女の子に見とれているみたいに、じっと見つめる。白目と黒目。白目と、黒目。白目。黒目。

 

 見分けた。

 

 腰を落とし、機関に全速前進を指示する。リ級は速度の変化に気を取られる。僕らの間の距離は数秒分しかない。リ級は右腕を引き、バランスを取るように左腕を伸ばして前に突き出す。僕は左腕を持ち上げて顔の前で肘を立て、ナイフを持った右手はだらんと下に垂らす。腰を更に落とし、機関を停止。慣性移動開始。一呼吸の間を置いて、互いの射程内に入る。足先の動きで僅かに左に逸れる。頭上をリ級のパンチが通り過ぎていく。脇を斬りつけながらすれ違う。海面を蹴って強引にそこで止まり、ガードを下ろしながら振り返る勢いを乗せて、首を狙った刃を振るう。がん、と右腕に痛み。リ級も無理やり足を止めて踵を返し、右手の艤装で僕の腕を止めていた。となると左腕の砲が僕を狙うだろう。体をよじり、下ろした左手でリ級の左腕を押しのける。発砲。まばたき一度の遅れで僕は死んでいた。

 

 左足を踏み出してリ級の懐に入り、左肘で彼女の顔を打つ。左手が万全ならここから首を絞めるところだが、今日はそれが使えない。ひるんだリ級の胸を袈裟懸けに斬る。浅い。深海棲艦を殺すには足りない。早まった。だが撃たれても回避はできる。この距離、射線の予測は考えるまでもない。しかしリ級は右腕を下に向け、僕ではなく僕と彼女の間にある海面を撃った。水柱が立ち、視界が泡を含んだ水の白に埋め尽くされる。

 

 考えてやったことじゃない。左腕が勝手に動いて、自分を守っていた。その次に、痛い、と思った。そうしている間にも僕の体は自動的に動く。飛び込んできたリ級の右腕の艤装を受け止めたせいで、左腕は肘の上からへし折れて黄色い脂肪にまみれた骨が皮膚の下から覗いている。それを無視して、右手を突き出す。刃がリ級の柔らかな腹に沈み込む。ここまでしっかりと迎撃されるとは思っていなかったのか、リ級の顔が歪むのが分かった。ああ、迎撃できるとも。大昔僕も使ったことがある手だ。水柱で視界を塞ぎ、飛び掛かって仕留める。そうだ、使ったことがあるから、対処できた。

 

 少しだけ体を離し、刃を引き抜く。せめて道連れにとリ級は左腕をこちらに向けようとした。あちらにはまだ弾が装填されているままだ。撃たれたら死ぬ。機関を再始動、稼げる速力はたかが知れているが、それで足りる。踏み込んで、二度目の刺突。今度は胸に。僕と彼女は密着している。リ級の艤装では、密着した相手に砲撃はできない。魚雷はもう尽きている。

 

 僕はリ級の鼓動を感じた。心臓には刺さらなかったらしい。彼女の体温と僕の体温が混じりあうのを感じた。生きている、と思った。胸から刃を引き抜いて、改めてあごの下から脳蓋へ突き刺す。抜く。リ級は倒れる。沈んでいく。僕は腰の鞘にナイフを戻す。それから捻じ曲がった左腕を力技で元通りに曲げ直し、予備水筒から修復材を掛けた。

 

 数秒、僕はぼうっとしていた。爆発音で我に返り、取り返しのつかない数秒を失ったかもしれない恐れに震える。まだ教官とル級が戦っているのだ。助けなければ! 爆発の方に首を巡らせるのも遅く感じられ、もどかしかった。しかし、結局また僕はぼうっとすることになった。

 

 ル級は影も形もなくなっていた。恐らくは教官が持っていた二発の酸素魚雷が、ル級を捉えたのだろう。教官は一人っきりであのル級を、ル級フラッグシップを片付けてしまったのだ。僕がただのリ級に手間取って大怪我なんかしている間に。なんて無様な。恥と疲れと情けなさに佇んでいると、無線が教官の言葉を伝えてくれた。

 

「終わったな。……今夜ばかりは飲ませて貰うぞ、一番艦」

「僕のおごりだ、二番艦」

 

 やれやれ。終わった。僕は時計を見た。到着までまだ八分もある。

 

*   *   *

 

 教官を単独で提督の寄越した回収ヘリとの合流に向かわせるには、僕がこれまでの人生で培ったあらゆる手練手管を必要とした。彼女はぼろぼろの旗艦を敵対海域に残していける訳がないだろうと、まあ百人が聞けば百人が肩を持つだろう意見を述べた。でも僕は一人になりたかった。僕らは海域到着直後に敵の艦隊を一つ潰し、次に敵の連合艦隊を撃破した。敵がまだいるなら、その戦闘音でこちらに駆けつけていた筈だ。敵は人類の大規模作戦への対抗で、これ以上の兵力を割けなかったのだろう。いや、深海棲艦側が不足だったかのような言い方は正しくないか。艦隊を三つも送り込んだのだ。それがまさか、一艦隊に全滅させられるとは思わなかっただろう。もちろん三隻は吹雪秘書艦の戦果だが、残りは第五艦隊のものだ。

 

 苦労はしたが、最後には那智教官も僕を一人にしてくれた。僕はヘリに連絡し、丁度今しがた隼鷹たちを回収したところで、全員無事だという嬉しい知らせをも受け取ることができた。ついでにもうちょっとだけご足労願ったって天罰なんか下らないだろう。那智教官の回収も頼む。無線の向こうにいる艦隊員たちを心配させたくないので、彼女は大丈夫だと言い添えておいた。姿を見てもそれは分かる。擦り傷や小さな怪我はしているし、右腕の義手が手首からぽっきり折れてなくなっており、砲塔と来たら一つを除いて全部破壊されてしまっているが、それでも元気に生きている。

 

 僕にビーコンを渡した後、那智教官が去っていくのを見送って数分としない内に、哨戒機が来た。僕はその機体のパイロットと話して仰天した──たった一声聞いただけで分かったが、そいつは僕が殴ろうとしたあの空軍士官殿だったのだ。世界は狭いものだ。僕は彼に謝る気はなかったし(子供っぽいとは自分でも思う)、彼もことさらあの店で起こったことについて話題にしようとしなかった。仕事中は、仕事に徹するべきなのだ。彼は鼻持ちならない悪趣味な女ったらしのろくでなしだが、その意見については僕と同じものを持っていたのである。

 

 いたるところにばら撒いたソノブイと情報端末をリンクさせると、哨戒機はさっさと行ってしまった。近くにいてくれてもいいだろうと思うが、空軍の連中は整備士以外全員きざったらしい優男か、そうでなければオカマ野郎の集まりだというのが海軍の公式な見解である。敵対海域で長居する度胸がないのだろう。僕の理性的な部分は「男色については海軍の方が長い伝統ありそうな気がするけど」と言っているが、僕は長いものに巻かれるたちなので言葉には出さない。

 

 右腕の端末を見る。液晶にはひびが入り、リ級や僕の血で汚れているが、あれだけの激戦で壊れていないことを見るとやっぱり陸軍の備品なんじゃないだろうか。あいつらは新装備調達時のテストで装備を何百回何千回と高いところから落とす悪癖がある。もし軍にいて、「これを破壊するには一体どんな離れ業をやってのければいいのだろう?」と思うようなものがあれば、疑う必要はない、それは百パーセント陸軍由来の品だ。例外はない。

 

 ひび入り液晶でモノクロ映像を見るのには苦労したが、その甲斐あって基地らしきものを見つけることができた。ソナーが言うには動体反応は存在せずとのことなので、潜水艦の心配もいらないだろう。僕はゆっくりと基地の真上に移動し、教官から受け取ったビーコンを手に取って眺めた。さあ、いよいよだ。これまで、人類は苦しめられ続けてきた。終わりのない戦争で疲弊してきた。今日からは違う。終わりがある。それは僕の手の中にあると言っても過言ではないのだ。今日まで、戦争の終わりを見たのは死者だけだった。明日もそうだろう。だがいつか、夢や願望ではない、現実にいずれ到来する意味でのいつか、生きて戦争の終わりを見る人々が現れるのだ。さあ、ボタンを──!

 

 振動。何だ、と思う間もなく下から跳ね飛ばされて、バランスも取れず背中から海面に落ちる。体が動かない。沈んでいく。足を見る。もげてはいないが、脚部艤装が完全に破壊されていた。僕は直感した。潜水艦だ。動かず、じっと息を潜めていたのだ。アクティブソナーは感知できないのか? それとも視覚表示でしか見ることのできなかったせいか? 僕がアクティブソナーに習熟していなかったからか? 気付くべきだった、連合艦隊が十一隻だと思うべきじゃなかった。違ったんだ、()()()()()()()十一隻だったんだ。最後の一隻がここにいた。那智教官を行かせて、絶好の奇襲のチャンスを僕は与えてしまったのだ。

 

 着水の衝撃で失われていた体の制御が戻った。腰を捻り、潜水艦の姿を探す。見つかる訳がないと思ったが、奴は、潜水カ級は自分から来た。止めを刺しにか、死ぬところを見たかったのか、それは知らない。奴は僕を掴んだ。だから思い知らせてやった。ナイフを引き抜き、頭に突き立ててやったのだ。まさか、彼女は自分がそんな死に方をするとは思わなかっただろう。僕がここで死ぬとは思わなかったように。

 

 息が続かない。僕は首を回して、不十分な明かりの下でビーコンを探す。あれを起動しなければ。今日やったことの全てが無駄になる。見つけなければ……あった! でも、マズい、僕よりも下にある。僕はそれに手を伸ばす。届かない。必死で体を動かし、それを掴む。無我夢中でボタンを押す。意識が薄らぐ。水の中でも無線機は動いている。提督か誰かの声がするが、何を言っているかは分からない。何でもいい。もうダメだろう。だが──覚悟しろよ。

 

 十分後にはクソったれパーティーだ。

 

 僕は目を閉じた。

 

 その瞬間、空が暗くなったのが分かった。反射的に目を開くが、何も見えない。陽は消え、ただ沈み続ける感触だけが僕に残った。いや、それも消えた。僕は暗闇の中にいた。足は地面についていた。水の中にいる時の、あの体が浮かび上がる感じもなかった。しかし恐れることはなかった。僕はくたばる。それ以上に恐ろしいことが起こるとでも? 深海棲艦がここに現れたとしたって、僕に対してできることなど一つもない。あっさり殺してしまう? いいとも、やってくれ。苦しめてから殺す? どうせ窒息死の予定だったんだ。ちょっとそれが変わるだけのことだ。僕は笑った。何も怖くなかった。諦めがついていた。

 

 何度も死について考えたことがある。兵士や艦娘で、死ぬことを考えないでいられる者はいない。過度な一般化だとそしられる物言いだろうが、それでも僕はそう言わせて貰う。いないのだ。僕がもっぱら考えたのは、死んだ後どうなるかということについてだった。響とよく話したのは、そういう理由もある。死後どうなるかを彼女なりに知っている響と話すと、何となく僕もそれをぼんやり信じることができたのだ。一日どころか二時間もすれば薄らぐような信仰心だったが、それは確かに信心だった。

 

 僕は歩き出した。立っていても何も始まらないだろう。ふと、「これが死ぬ前に見る走馬灯だというなら、僕の人生は随分と見所に欠けているようだ」と思った。死に瀕しても衰えないユーモア。尽きぬもの、それは海の水か僕の諧謔か。僕は一人でくすくすと笑った。爽やかな気分だった。任務は果たした。ミサイルは発射されるであろう。僕の名前が人類史に刻まれるということについては、何の価値も感じなかった。ただ僕のやったことが、一人か、二人か、それとももっと多くの人の命を救ったのだという確信があった。一人を救うのと世界を救うのとは、大体同程度の価値がある。※99 その一人が結婚し、子を()し、増えていくからだ。僕は無限大の命を救ったのだ。力なき人々の盾となって、矛となって戦った。僕は艦娘だ。ただ給料を貰って敵を殺すだけが艦娘じゃないんだ。僕のやったことで、何処かの誰かが生き延びる。こんなに愉快なことがあるか?

 

 立ち止まり、腰のポーチを探る。そこに発炎筒があることを思い出したのだ。水中でも使える一品である。僕は手探りでそれを取り出し、厳かに呟いた。

 

「光あれ」※100

 

 すると光があった。僕は驚いて後ずさった。もう一歩二歩進んだところに、人型深海棲艦が立っていたからだ。白い肌、額の角、大きな鉤爪。港湾棲姫。彼女は目を閉じていた。艤装もなく。僕は馬鹿みたいにそこに立っていた。何故彼女がここにいるのか分からなかった。そもそもここが何処なのか、何なのかさえ僕は知らないのだ。愉快な気持ちは消え、むしろ苛立ちが僕を支配した。死ぬ前に見るなら第五艦隊の親友たちの姿を見たい。夢でもいい、彼女たちが無事に基地に帰るところを見たいのだ。こんな、深海棲艦なんかじゃなく。

 

 僕は彼女を置いて前に進もうとした。その途端、彼女は目を開いた。赤く輝く目に、僕の視線は引き寄せられた。動けなかった。彼女は鉤爪を僕に伸ばしてきた。過去の光景がフラッシュバックする。武蔵に陥れられ、融和派のアジトに連れて行かれた。赤城に助けられたと思ったのも束の間、別の融和派グループに捕まえられた。そこで出会った。港湾棲姫に。別の個体だろうが、彼女も同じことを僕にしてきた。あの大きな鉤爪の手を僕に向けようとしたのだ。殺すつもりだと僕は思った。あの時はそれを恐れた。今日は、受け入れることにした。

 

 二つの鉤爪が僕の頭を挟む。潰すなり、引きちぎるなり、好きにすればいい。僕は港湾棲姫の目を見つめ返す。死神の目を睨み返せる人間はそう多くないが、最期を目前にした僕はどうやらその数少ない人間の一人になれるらしかった。港湾棲姫の赤い目が、僕の持っている小さな照明の光を受けて、きらりと輝いた。

 

 そして僕は抱きしめられていた。僕の目と彼女の目は触れ合わんばかりの近さになっていた。僕はまばたきをした。

 

 誰かに引き上げられるように、僕は上へ上へと上がっていく。世界が再び変わる。海の底から、海の上へ。光が、太陽が復活した。僕は息をしていないことに気付いた。どうでもよかった。僕はまだ港湾棲姫と抱き合い、見つめ合っていた。僕は彼女の目の中に全てを見た。全てを、彼女の全てを見た。彼女が、『彼女たち』が何を望んでいるのかを知った。口から出た言葉で説明されたのではない。僕は、そうだ、彼女の心に触れたのだ。人類が決して知り得なかった、知ろうとしてもその為の方法さえ分からなかったことを、謎の答えを、そこで得たのだ。けれどもそれは、余りにも僕がそうだと、そうあれと願っていたものとかけ離れていた。

 

 深海棲艦たちの心の繋がりを僕は知った。それを手に取って、一つ一つの心が糸で繋がっているのを確かめることさえできた。ある糸は今にも途切れそうなほど弱く、ある糸は僕の手首ほどの太さもあって、綱とも呼べる強度を誇っていた。彼女たちはその糸を通じて、離れていても互いの想いを交わし合っていた。突然、僕は誰かに背中を撫でられたように感じた。くすぐられたのではなく、労わりとして。母親が子に「よく頑張ったね」と言いながら愛を込めて撫ぜるような優しさで。僕は自分の心にも糸が繋がっているのを感じた。港湾棲姫の心と僕の心は繋がっているのだ。彼女は僕の手を引いて彼女の心を見せてくれた。僕は彼女になった。彼女の目で見たあらゆるものを彼女として見た。

 

 深海棲艦たちが何なのか、一体最初の一人、あるいは最初の一匹が何から生まれたのか、彼女たち自身も知らなかった。港湾棲姫たち、言葉を操ることのできる特別な深海棲艦たちや、喋ることはできずとも心に想いを伝えることはできる人型深海棲艦たちは、かつて自分たちが海の上に、陸の上にいたことを知っていたが、どうしてそのことを知っているのかは知らなかった。彼女たちは帰ろうとした。でも帰れなかった。人との争いが彼女たちを海へ、海の底へ押し留めた。僕はそこでどうしても我慢できなくなった。訊ねたいことがあったのだ。彼女はその想いを汲み取った。僕も彼女が問いたいことがあると感じた。僕らは互いに尋ねあった。

 

「どうしてこんな戦争を始めたのか?」※101

 

 そうして、僕らは互いに答えた。

 

「我々が?」

 

 深海棲艦たちによる人間の最初の被害者と認められた人々や、人間による深海棲艦の最初の被害者と考えられている者たち、どちらがより先なのか、僕も港湾棲姫も分からなかった。僕は先に手を出してきたのは深海棲艦だと思っていたし、あっちの方ではこっちが先に始めたと思っていた。彼ら彼女らの屍は海に消え、呼び出して話を聞く望みはない。真実は永遠に消え去ってしまったのだ。

 

 僕の心に、何処か心が求める場所へと帰りたかった深海棲艦たちの、限りない絶望が流れ込んできた。望みを果たそうとする度に邪魔をされる怒りが流れ込んできた。理解し合えない悲痛が伝わってきた。分かり合いたい、理解したい、平和を築きたい、人類を、そして自分たち自身を無意味な争いから救いたい。彼女たちの幾らかは決意した。そうしてみせると。人と融和する道を探し出すと。彼女たちの幾らかは決断した。最早救いはないと。人は滅ぼされるべきだと。

 

 融和派たちは動き始めた。だが人はその手を振り払い、愛を伝える為の抱擁に怯え、その胸に刃を突き立て、人を滅ぼすと決めた者たちとの終わりなき戦いに身を投じた。何年も経った。何年も、何年も。融和派たちは諦めなかった。決して諦めなかった。いつか必ず。今日ではなくとも、いつか、いつか。分かり合える日が来る。自分たちと人類が、共に生きていく道はある。そう信じて、彼女たちはその道を照らし出す明かりを探し続けた。探して、探して、探し続けて、ようやく一人の人間を見つけた。

 

 それが僕だ。深海棲艦と心が繋がっている人間。主戦派の深海棲艦たちが作り出すあの司祭殿のような狂信者たちではなく、よき隣人として心と心を結ばれた存在。でも、でも……どうして僕が? 僕は単なる男だ。少年と言ってもいい。特別な生まれでもない。理由がある筈だ。僕と彼女たちの心が繋がった理由とは何なのだ? つまらない偶然? それとも必然? 『それが僕だ』。そうか、分かった。だが理由は存在しなければならない。納得させて欲しかった。僕は港湾棲姫の困惑に触れた。彼女にも理由が分からないのだ。僕は落胆した。

 

 ところが、いきなり僕と港湾棲姫は周りを大勢の艦娘たちに取り囲まれていることに気付いた。僕は驚いたし、港湾棲姫の方もそうだった。彼女の強い当惑が伝わり、彼女の腕の締め付けが一層きつくなった。艦娘たちはしかし、何もしなかった。取り巻く彼女たちの中から、一人の艦娘が進み出て海面を指差した。そこで誰かが、違う、僕が溺れていた。

 

 子供の頃の僕。水の中に沈もうとしている。そこに何かが現れる。艦娘でもない。人間でもない。深海棲艦が。彼女は主戦派の一人だ。彼女は想いを伝える力を利用して、人間を自分たちの崇拝者に変えてしまう。たとえそうしようとしなくとも、そうなってしまう。人間の精神にとって、深海棲艦たちの意志伝達手段は激しすぎるものなのだ。過負荷を起こし、大なり小なり、狂ってしまう。司祭殿にせよ赤城にせよ、何処か宗教臭かったのはそのせいなのかもしれない。

 

 その主戦派の深海棲艦は、僕を狂わせようとした。だがそこで誤算が生じた。誰にも想像できなかった、港湾棲姫たちにも、もちろん僕にも予想できなかったことが起こった。艦娘は深海棲艦から作られた。深海棲艦ほどの「想いを伝える力」はなかったが、彼女たちも単なる人間とは「想い」の強さが違ったのだ。そして、強い想念は死によってすら消すことができなかった。その強い想念が、想念の集まりが、同じ死という運命を前にした幼年期の僕に流れ込んだ。それで、あの主戦派深海棲艦は僕を洗脳しきれなかった。何故なら、僕はあの時、死にたくないと願ったからだ。強く願ったのだ。生きたいと願った。だから彼女たちは、海の上で「死にたくない」と叫んで死んでいった沢山の、無数の艦娘たちの想いは、僕に宿った。僕が艦娘になれたのも何となく理解できる。艦娘の想い、彼女たちそのものが僕の中にいるのだ。艦娘として艤装を動かせない筈もない。だが、それだけではないな。理由はもう一つあるのだと思う。

 

 僕は港湾棲姫に抱きしめられたまま、辺りを見回して、見渡せるだけ見渡した。そこには戦友を守る為に我が身を盾にして死んでいった榛名がいた。非力な身でも臆せず敵に挑み、散っていった五十鈴がいた。体をイ級にむさぼられもがき苦しんだ末に死んだ菊月がいた。撤退する友軍を逃がす為に単身で囮となり、無数の敵機に打ち砕かれた夕立がいた。姉を沈めたレ級に復讐を果たし、共に沈んでいった陸奥がいた。そこには沢山の艦娘たちがいた。僕の知っている艦娘も、見たこともない艦娘もいた。そしてその誰もが僕だったのだ。

 

 戦友の代わりに砲や魚雷を一身に受けて肉片だけになったのは僕だった。絶対に敵わないと分かっていても退かず、最後の一瞬まで戦ったのは僕だった。イ級に臓腑を食い荒らされたのは僕だった。空を埋め尽くす敵機を迎え撃ったのは僕だった。レ級の最後の息遣いを感じながら冷ややかな水に身を委ねたのは僕だった。

 

 僕は、彼女たちは死の間際に思った──もっと強ければ。自分が自分でなくなってもいい、強ければ。死なずに済んだろう。守れただろう。倒せただろう。強ければ。かくもか弱き、女の身で、なかったならば。榛名が、私が、夕立が、僕だったなら──彼女らの想いと、僕の想い。二つが重なり、彼女たちのもっと強ければ、そういっそ男であればという願いが切っ掛けになって、彼女たちの想いは僕に宿った。

 

 これで僕は納得した。ついでに、多くの艦娘たちに嫌われたことにも合点がいった。僕はかつて死んでいった全ての艦娘たち、すなわち艦娘にとっての死そのものなのだ。とりわけ、かつての大戦で沈んだ船をルーツに持つ艦娘にとっては、おぞましいものに見えただろう。死を知っているが為に。長門が僕を嫌ったのも、今なら許せる。あんな沈み方をしたのだ。憎まれても仕方ない。

 

 今、僕は港湾棲姫の抱擁から放たれ、扉の前にいた。人間と、平和を求める深海棲艦が分かり合う未来への扉。僕は隣に立った港湾棲姫の右手をしっかりと握る。鉤爪は冷たくとも、その心は暖かだと分かっているからだ。僕と彼女は、扉に手を当てる。死んでいった艦娘たちは、口々に応援の言葉を投げかける。もう誰も戦争で死ななくてもいい世界を望む彼女たちの声を背に受けて、僕と新しい友人は奮い立つ。重い扉を、二人で開くのだ。遠い海にいる融和派深海棲艦たち、新しい仲間たちが喜ぶ気持ちが、港湾棲姫を通して伝わってくる。永遠にも思われた時間が報われる瞬間がとうとう訪れたのだ。彼女たちは歓喜する。その喜びの嬌声が、扉の向こう、開いた隙間から聞こえてくる。

 

 けれどその時、たった一人、叫びながら僕に突進してくる艦娘があった。あの天龍だった。彼女は僕にたどり着く前に他の艦娘たちに取り押さえられ、怒りに雄叫びを上げて僕を呪った。「腑抜けちまったのか」と彼女は喚いた。「お前の為にオレは死んだんだぞ」と。その声は裏切りへの非難と絶望にまみれていた。僕は歯を食いしばり、その声を無視して、体当たりするように全身の力を込めて扉を押し開けた。

 

 目を開ける。途端、咳き込む。僕は水を吐き出しながら思った。「空気がある」。ここは水上なのだ。それから誰かに抱きかかえられていることに気付いた。

 

「目が覚めましたか」

「赤城か」

「はい」

 

 彼女は僕のせいで服をじっとりと濡らしていたが、気にした様子もなかった。「どうやって助けた?」「どうしてここにいる、とは聞かないのですね?」「順番さ」彼女は微笑んで答えた。

 

「深海棲艦の潜水艦を一人連れてきました。彼女の航行速度に合わせて来た為遅くなりましたが……まあ、手遅れにはなりませんでしたね」

 

 頷く。それから僕は自分が右手にずっと強く握り締めていたものを見た。それは那智教官から貰ったビーコンで、既に停止していた。無線機はまだ作動しており、「信号が途絶えた。誘導できない。作戦中止、作戦中止、帰投せよ」という、誰か知らない男の怒りに満ちた声を吐き出していた。僕は赤城に抱えられたまま、呟いた。

 

「全部、知ったよ」

「把握しています。あなたが我々を受け入れた、と」

「だが……どうするんだ? 人類は切り札を手に入れた。対深海棲艦用通常兵器。勝てる戦いになったんだ、この戦争は。軍のお偉いさんはやめようなんて思わないだろう」

「何とかします。あなたにはその手伝いをして欲しいのですが、断らないでしょうね?」

 

 肩をすくめる。ここで嫌だと言ったら脚部艤装なし、それ以外の艤装着用という状態で海に投げ出されるかもしれないのに、どうしてノーと言える? 僕は何も言わないが、赤城は正しく解釈したようだった。

 

「さて、僕はこれからどうなるんだ? 抱えられたまま海を行くのも悪くないな。楽だ」

「あなたはそれでいいでしょうが、私の腕が持ちません。大丈夫です、じきに迎えが来ます……ほら、来た」

 

 僕は赤城があごで示した方を見た。那智教官だ。ビーコンの反応がロストしたことで、大急ぎで戻って来たのだろう。教官は、この融和派グループの首魁と知り合いであるようには見えなかった。一門残った砲を赤城に向け、警戒も明らかに近づいて来ているのだ。気の置けない友達同士ということはないだろう。那智教官は数メートル離れたところで止まると、赤城への照準を外さないまま、彼女に所属を尋ねた。赤城は答えなかった。彼女は僕だけに聞こえる大きさで囁いた。

 

「……あなたは全てを見た。全てを理解した。私とあなたでなら、戦争を終わらせられる」

 

 無視という敵対的な行為に対して、教官は苛立ちをあらわにした。気にする素振りも見せず、赤城は囁き続ける。

 

「今すぐ私の旗艦から離れろ」

「嘘偽りなく、平和な海が戻る。死んでいったあらゆる人々の命が報われる日が来る」

 

 威嚇発砲。水柱が立ち、飛沫が赤城の顔に散るが、彼女はまばたき一つしない。

 

「聞こえないのか、離れろ!」

「私と、あなたがいれば、夢ではないのです。私と、あなたがいれば!」

 

 二発目の威嚇。空に哨戒機のエンジン音。提督にどやされでもしたのだろう、安否確認に戻ってきたと見える。赤城が引きつった笑いを浮かべ、ようやく那智教官に答えた。

 

「今私がこの人を離せば、艤装の重みで沈みますが、それでもよいのですか?」

「そうだな、艤装を解除しろ」

 

 これは僕に向けての言葉だった。でも僕は従わなかった。

 

「どうした? 艤装を解除して、そいつから離れるんだ」

 

 従わなかった。赤城が言った。

 

「どうするべきか、分かっていますね?」

「ああ、ちくしょう……」

「おい何を言って──何故だ?」

 

 僕は撃った。




その輝くラッパは轟くだろう
「平和あれ、この地上に平和あれ!」と

──コンラート・フェルディナント・マイヤー※102

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