[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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狭き門より入れ、(ほろび)にいたる門は大きく、その路は(ひろ)く、之より入る者おほし。
──マタイによる福音書 第七章十三節



我またヱホバの(こえ)をきく 曰く われ誰をつかはさん 誰かわれらのために往べきかと そのとき我いひけるは われ此にあり 我をつかはしたまヘ
──イザヤ書 第六章八節



かつて、森の中で道が二つに分かれていた。
そして、私は行く者の少ない道を選んだ。
それが、全てを変えてしまった。
──ロバート・フロスト※103



「融和」-1

 人生は選択の連続だ。「選択が人生を作る」と言い表してもいい。歩き始める時にどの足から前に出すかさえ、一つの決断だ。そう言ったところで、聞かされた方はこじつけのように感じるかもしれない。が、それはまさに決定なのである。選択せずにいるということはできない──どれだけ頑張ったとしても、「何もしないでいる」という選択を行うことができるだけだ。それを、要するに無為をくさす訳じゃない。下手に手出しするより、黙って眺めていた方がよっぽど上手くいくことなんて、世の中にごまんと転がっている。何にでも口出しするような奴は、何処に行ったって煙たがられることになるだろう。何もしないでいることだって立派な判断だ。

 

 そして往々にして、道は二つか三つに絞られる。それ以上の選択肢があることも珍しくはない、時には数学的な意味で文字通りに無限な選択肢を持つこともあり得る。だが選ぶ立場の人間が問題にするのは、概ねその中の二つ三つばかりなのだ。

 

 それは大体こういうものだ。つまり、闘争か逃走か、外に出るか家に引きこもるか、嘘か真か、航空戦隊か水雷戦隊か、砲か魚雷か、海軍か陸軍か、海軍か空軍か、都会か田舎か、タバコか大麻か、殺すか殺されるか、胸か尻か、巨乳かそれ以外か、長身か短躯か、肥満か痩身か、同じベッドに入るなら男か女か、大人か子供か、塩かたれか、長髪か短髪か、友達か恋人か、お茶かジュースか、詩か歌か、指輪かイヤリングか、殴るか蹴るか、カラー映画か白黒映画か、今か昔か、資本主義か共産主義か、隼鷹か那智教官か、不知火先輩か響か、蜂蜜かメープルシロップか、命か名誉か、賞賛か誹謗か、正義か道徳か、感情か理性か、酒を飲むか飲まないか、飲むなら何を飲むのか(ビールか発泡酒か、ウィスキーかウォッカか、ワインか日本酒か、ショートカクテルかロングカクテルか)、生きるか死ぬか。

 

 迷う必要は余りない。大概、問うた時にはもう自分にとっての答えが出ている。僕を例にとって答えればこうだ。闘争、外に出る、真、水雷戦隊、砲、海軍、海軍、都会、両方ダメ、殺す、胸、巨乳、長身、中間、絶対に女、個人的道徳と社会的道徳のどちらの観点に立っても大人、塩、どっちもよい、恋人、最近はお茶、歌、イヤリング、殴る、カラー映画、今、資本主義、那智教官(とはいえ隼鷹なしではやっていけないだろう)、大いに苦悶するがどうしてもどちらか片一方選ぶとしたら響、蜂蜜、命、賞賛、正義、理性、バッカスのごとく飲む、何でも飲む、生きる。※104

 

 重要なのは、何であれ選ぶことが自分の未来を狭めているということを認識して、理解しなければならないという点だ。決定は、いい加減に行っていいものではない。そこを理解し、受容できていなければ、時に正しい選択ではなく、自分の欲求にのみ基づいた誤った決断を下してしまう恐れがある。僕は融和派深海棲艦たちを受け入れることを選んだ。もし受け入れていなければ、どうなっていただろう? 赤城が助けてくれず、そのまま溺れ死んでいた、というのもありそうだ。あるいは、それでも説得しようとして僕を助けた赤城が、那智教官に頭を吹き飛ばされていたかもしれない。艦娘になっていなければ? 子供時代、海に近づかなければ? どうなっていた? 今とは全く違う現在があったに違いない。しかも、それはもしかしたら、僕が現実で享受している今より優れたものかもしれなかったのだ。

 

 それを認めた上で、自らに問いかける。僕のやったことは、正しかったか? 僕は答える。「あれが最善だった」と。

 

*   *   *

 

「──何故だ?」

 

 僕が教官に砲を向けたのを見て、彼女は驚くよりも純粋な疑問としてそう一言漏らした。僕は答えずに撃った。

 

 でも、彼女を殺すつもりはなかった。当たり前だ。那智教官を殺すぐらいなら、僕は自分の頭を撃ち抜く。その方が百倍マシだ。那智教官は砲撃に対して完全な反応が取れないほど動揺していてさえ、反射的に体を捻って避けようとした。それで僕の撃った弾を避けきっていたらマズいどころではなかったが、幸いにも彼女が避けようとしたことによって、ベストな結果がもたらされた。彼女のたった一門残った砲の、砲身を破壊することができたのだ。砲塔を破壊するのと得られる効果は変わらないが、弾薬の誘爆もなければ、砲塔に配置されていたであろう妖精を木っ端微塵にせずにも済んだ。これで彼女は非武装だ。赤城を射殺することはできない。

 

 僕はどうしても、彼女を逃がさなければならなかった。彼女は融和派グループの指導者だ。捕まれば処刑される。慈悲や恩赦は期待できない。それは困るのだ。僕は彼女以外に融和派の深海棲艦とコンタクトを取れる人物を知らない。まかり間違って主戦派深海棲艦と出会ったら、命が幾つあっても足りない。

 

 艤装を全解除する。赤城は僕を海に放り出して、逃げに入った。那智教官は赤城を追おうとしたが、海面下から姿を見せた彼女の連れにして僕の救い主、潜水ヨ級を見てそれをやめた。幾ら教官が強くても、無手で潜水艦と戦うことはできないからだ。教官は去っていく赤城たちを悔しげに見送った後で、僕を向いて言った。

 

「貴様、自分が何をしたか分かっているのか?」

 

 体から力を抜き、水に浮かぶ。空中の哨戒機に乗っている連中は腰抜けだから、深海棲艦が支配する海域の奥深くまで追うことはないだろう。だが僕が那智教官を撃ち、赤城を逃がしたことを彼らは上に伝える。僕は捕まる。でも殺すには惜しい筈だ。そうであってくれ。即時処刑さえ免れれば、赤城たちが助けに来てくれるだろう。それか、自分で何とかする。たとえば神に祈るとか悪魔を呼び出すとか、そういうやり方で。

 

 教官は僕を水の中から引きずり出すと、肩に担ぎ上げた。それから回収地点にたどり着くまで、僕らは一言も口を利かなかった。二人ともが完全に無言だったのではない。教官は第二艦隊に「もう助けは必要ない」と伝えなければならなかったからだ。ただ、それはもちろん、僕へ向けた言葉じゃあなかった。

 

 回収用のヘリには艦隊員たちが揃っていたが事情を知らないようで、僕の怪我を心配こそすれど、この後に何が起こるかについては触れもしなかった。僕は曖昧に友人たちの言葉に答え、しっかりと彼女たちの姿を目に焼きつけた。二度と会えなくなるかもしれないという事実を、認めずにはいられなかったのだ。お咎めなしで済むなんてことはあり得ない。提督がどれだけ政治力に長けていても、こればかりは無理な相談だ。彼女にできることと言ったら、僕を処刑する時に楽に死ねるようにさせること程度だろう。それはそれでありがたい話だが。

 

 基地に戻ると、報告の前に兵舎に寄って服を着替えて来るようにと提督から言われた。提督を待たせるのはよくない、という共通の認識から、第五艦隊の旗艦は五人の艦隊員たちに先んじて着替えてよいことになった。そこで僕は左耳にいつもつけていたピアスを外し、綺麗に拭い、それをどうするか数秒迷ってから、那智教官の荷物の中に放り込んだ。余計なことをしただろうか? けれど、彼女に渡すのが一番よいように思えたのだ。僕は手早く着替えると、提督が僕を呼びつけた基地司令室に向かった。

 

 そして僕は戦闘中行方不明(MIA)になった。

 

 不思議な話だ。第五艦隊の面々は全員、僕がヘリに乗り込んだところを見ている。操縦士も。ヘリの着陸誘導をしてくれた誘導員も。僕が気付かなかった人々を加えたら、僕を見た人の数はもっともっと多くなる。ところが僕は「戦闘中行方不明」なのだ。表向きの書類上では、こういうことになっているのだろうと思う。「世界唯一の男性艦娘にして第二特殊戦技研究所所属第五艦隊旗艦;大規模作戦における任務の最中、多数の有力な敵と交戦、状況から戦死はほぼ確実と見られるが、遺体は見つかっていない」何とも素っ気ない態度だ。

 

 もちろん、僕は空軍基地で戦闘中行方不明になれるほど器用な男ではない。待ち構えていた憲兵にあっさりと捕まえられてしまっただけだ。MIA扱いになったと知ったのは、その翌日から早速始まった取り調べにおいてだった。両親はどんなに嘆き悲しんでいるだろう! 一人息子が海に消えて戻らないと知らされて、腹を抱えて大笑いした筈がないのだ。少なくともその点については、僕はとんでもない親不孝者だった──取り調べ担当の憲兵が言った通りに。

 

 しかし、僕の親不孝は笑えないにしても、この取り調べというのはお笑い(ぐさ)だった。実際、僕は何も調べられなかったのだ。それは調査と呼ぶより、むしろ「確認」と呼ぶべきものだった。僕に対する彼ら(憲兵隊)の取り調べはこんな感じだったのである。「恥知らずの裏切り者!」「いや、僕は……」「黙れ!」「痛いな、殴るなよ!」「お前がかばったのは融和派グループのリーダーだ。お前はグループの一員だな? いつからだ?」「昨日から」「ふざけるな!」これが取り調べと言えるだろうか?

 

 僕は数日に渡ったこの謎めいたやり取りとしつこい殴打を通じて、一つのことを学んだ。憲兵大尉殿は真実など求めておられないのだ。彼が求めているのは僕の協力だけ。だから僕は、もし彼に「お前は首都で爆弾テロを目論んでいたのではないか?」と聞かれたら、頷けばいい。そうしたら殴られないで済む。憲兵隊付艦娘に痛めつけられたり、指を折られたりすることもない。椅子から突き落とされてサッカーボールみたいに蹴られる心配もしなくていい。「今の政府や軍のやり方に不満があるだろう?」その通り。「誘拐・拷問に関わったことは?」誘拐と拷問? それは僕にとって週末のちょっとした息抜きみたいなものだ。「多額の報酬を受けることを見返りとして、融和派たちに軍の情報を流したろう?」これは驚いた、よく知ってるな。僕自身すら知らなかったのに!

 

 という訳で、取り調べ開始から数日後、僕の罪状はとんでもないことになっていた。それによると、僕は訓練所時代から活動していた筋金入りの融和派で、有力なグループの副リーダーを務めていて、ここ数年の国家首脳や軍の重要人物の暗殺並びにその計画全部に直接・間接とを問わず関係しており、それだけでなく口に出すのも恐れ多い方々への襲撃をも企んでいて、更に他国のスパイであり、民間人たちの恐怖をあおる為に残虐なテロを起こすことを楽しむ異常者で、反省しておらず、同性愛者で(仮にそうだったとして、それが罪だとでも?)、差別主義者で、小中学校ではいじめられており、親からは愛されていなくて、今までに恋人ができたことがなく(これは事実)、友達もなく、そういった経験によってかくも性酷薄にして憎まれるべき人物に成り下がったそうだ。

 

 取り調べ最終日、この立派な経歴を聞かされた僕は「これは流石に死刑かな」と思ったが、軍は僕が思っていたより僕に価値を感じていたらしい。僕は教化収容所に送られた。ここは殺すには惜しい融和派の為の刑務所で、そういった人々は軍にとって利用価値がある内はここで生きていることを許されるのだった。言うまでもなく、軍が無価値な融和派を生かしておくことはない。なので、収容所には死刑を執行する為の施設も併設されていた。収容所に入る時、所長は僕と数人の新入りを手ずからそこに案内してくれたのだ。彼は言った。

 

「絞首刑の落下距離は絶妙な高さに調整してある」

 

 僕は聞き流していたが、後で古参の囚人からあれは「長く苦しむように、落下の衝撃で囚人の頸椎が折れない高さに設定してある」という意味だと教えて貰った。首が折れないから、意識を失うまでに最善で一分半ほど、悪ければ二分三分、最悪の場合それ以上掛かるのだそうだ。その間の苦痛は計り知れないものであろう。見たことがある訳ではないが、不適切なやり方で首吊りをして死ぬと、失禁する以外にも肌が鬱血して紫色になり、目や舌は飛び出して凄惨な形相になるという。全く人間というのは、何か誰かを傷つけることとなると喜々として取り掛かるのだから手に負えない。

 

 最初の二ヶ月は戦々恐々として過ごした。それでも僕には希望があったから耐えられた。そうではなかった同期の一人は、ある夜シャワー室からタオルを盗んできて、それを引き裂いて作った紐と監房のドアノブを利用して首を吊った。僕と数人はその後始末をさせられた。彼と親しかった別の同期によると、彼は外では医者をやっていたそうだ。だからこそコツを心得ていたようで、彼の死に顔は安らかだった。上手に首を絞めたので、即座に失神することができたのだろう。

 

 二ヶ月が経つと慣れた。仕事で忙しかったから、自分のことを考える余裕がなかったせいもある。収容所では刑務所と同じく労働が義務付けられており、その日によって様々な仕事を割り当てられたが、これを怠ったりすると昼食抜きや夕食抜きにされるのだった。収容所の食堂の柱という柱には、誰かによってTANSTAAFL(無料の食事などというものはない)※105という至言が刻まれていたものだ。

 

 僕にとって、収容所での楽しみは主に三つあった。一つは食事。収容所の外ではこんなものは絶対に食べないだろうというようなひどいものだったが、働いて空腹でへとへとになった時になら何を食べてもおいしいものだ。僕は理由があって食べなかったが、毎夕食にはデザートとして市販の袋入り一口サイズのチョコパイが一個ついてくるという嬉しさもあった。

 

 もう一つは読書。収容所には囚人の不満を発散させる為に図書館が併設されており、各囚人は一冊だけ借りて自分の監房に持ち帰ることが許されていた。本でならどうやっても自殺されることはないし、読んでいる間は静かにしてくれるんだから、収容所の方から考えれば言うことなしだったのだ。図書館は無益なつまらない本で埋め尽くされていたが、僕も何度も利用した。

 

 最後の一つは少しだけ危険だった。音楽だ。本と違って、こっちは認められていなかった。だが二ヶ月もあれば、僕だって収容所での振る舞い方や探し物の仕方、命が惜しければ関わるべきではない囚人は誰かなど、常識程度のことなら身についていたのだ。これは僕がチョコパイを食べなかったことにも関わりがある。この安っぽいパイは、この収容所の囚人の間では通貨の役目を果たしていたのだ。なので僕は食事についてくるチョコパイを貯めてから、囚人たちに調達屋として知られている収監者の一人に、ポータブルCDプレイヤーとイヤホン、それに那珂ちゃんのCDを頼んだ。残念なことに二ヶ月分のパイを全部差し出しても代金が足りなかったが、この囚人はたまに那珂ちゃんの歌を自分にも聞かせてくれることを条件にして、二ヶ月分のパイで引き受けてくれた。

 

 調達屋は仕事をきっちりやり遂げた。充電の為に、小型発電機を自作して電気を売っていた別の大物囚人に支払わなければならなかったので、CDプレイヤーなどを手に入れても引き続きパイは食べられなかったが、那珂ちゃんの素晴らしい歌声と腹の足しにもならないチープなパイ、どっちがいいか聞かれて迷う奴はいるまい。ああ、確かにパイは甘いものだ。甘味は心を和ませもする。でもその場限りのものだ。那珂ちゃんの歌は違う。監房臨検で僕の偽装を見破れたなら、CDやプレイヤーを取り上げることはできる。けれど僕の心に染みついた彼女の歌声を取り上げることは誰にもできない。彼女の歌は永遠なのだ。

 

 環境を整え、慣れてしまうと、時間はすぐに経った。二ヶ月、半年、九ヶ月、十一ヶ月。約一年だ。その間に、僕は十八歳の誕生日を獄中で迎えるという類稀なる経験をした。誕生日を教え合うほどに親しくなっていた何人かの受刑者は、仲間内で一番年下の僕にパイでバースデーケーキを作り、蝋燭を差してプレゼントしてくれた。人生で最もちんけなケーキだったが、あれほど温かみのある贈り物を受け取ることが、一生の内にどれだけあることだろう。

 

 一年。長い時間だ。僕は外の様子が知りたかったが、新聞や雑誌などは読むことを禁じられており、図書館にも置いてなかった。新入りから話を聞いたり、情報通の囚人に何かくれてやって、彼が聞いた嘘か本当かも分からないような情報を受け取るしかなかったのだ。色々な話を聞いたが、絶対の事実と自信を持って言えることはただ一つ。まだ戦争は続いている。有効な通常兵器が投入され始めたことによって人類は制海権を取り戻しつつあるが、深海棲艦は粘り強く抵抗しているそうだ。僕は彼女たちと矛を交えた身として、このニュースを驚きもなく受け止めた。連中は強い。連中は諦めない。最後の最後まで戦うだろう。融和派の深海棲艦たちだって、いよいよもう手がないとなれば、黙って殺されはするまい。

 

 早くここを出たかった。第五艦隊はあの後どうなったんだ? みんな生きているのか? 赤城たちはいつ助けを送ってくれるのだろう? 僕が一人でここを出ていくことはできない。看守には人間だけでなく、艤装を着用した艦娘もいるのだ。強行突破など不可能である。艦娘たちは例によって僕を嫌っているから、撃つ時はとことん撃つに違いない。肉片も残るかどうか。出るには出られるだろうが、死体袋や棺に入ってでは意味がない。僕は焦りながらも、毎日自分に言い聞かせた。多分明日さ、そうじゃなきゃ明後日だ。それも違えば、明々後日……もう一年も経ったことは、なるべく考えないようにしながら。それで希望を保つことができた。今朝までは。

 

 今朝、僕は朝の点呼の後で呼び出され、収容所長からじきじきに告知を受けた。お役所的な長々としたお話だったが、要約すれば一文になるような中身のないものだった。

 

「明朝、死刑を執行する」

 

 へなへなと腰が抜けてその場に崩れ落ちる。守衛が僕を蹴り飛ばしたが、何の効果もなかった。そこからどうやって戻ったか覚えていない。今日の労役は免除され、昼夕食は抜きになった。死刑執行後の後片付けを楽にする為の処置だ。囚人たちと話をしたかったが、彼らは僕を遠巻きにした。気持ちは分かったので、責められなかった。これから僕は死ぬというのに、親交を深めても後がつらくなるだけだ。僕は監房に引きこもり、那珂ちゃんの歌を聴いて時を待つことにした。できるだけ、自分に信じ込ませようとした。赤城たちは最後の瞬間に来るのだと。

 

 どうしてこのタイミングで死刑を行うことになったのか、僕には分からなかった。今までに僕の手に入れることができた僅かな情報は、かねてから海軍が僕を生かして研究対象にしようとしていたこと──そして陸軍が僕の処刑を主張していたことを示していた。今度のことについては、陸軍が勝ったのだろう。男性艦娘などなくとも、戦争はじきに人類の勝利で終わる。僕が死んでしまっても、痛みは小さい。きっとそういう理屈だ。世界で唯一男性艦娘を実用化できたなら、それは軍事的に大きな意味を持つと思うが、上層部の意見は僕のと違うらしい。

 

 つらかったが、自殺を選ぶつもりはなかった。最後の最後まで信じてあがくのだ。赤城は僕を裏切れない。ここで僕を死なせはするまい。目を閉じると、絞首刑の直前に僕を救い出してくれたかつての赤城の姿が目に浮かんだ。思えば、最初に僕を吊るそうとした融和派、あれは主戦派深海棲艦が関わっているグループだったのではないだろうか。あの時ほどに派手な登場はしなくていいから、早く助けてくれればいいと思う。

 

 と、監房の扉が叩かれた。正確な時間は知らないが、恐らく今は自由時間中なのだろう。ベッドに腰かけていた僕はのろのろと立ち上がり、扉を開けた。そこには友人の一人が一冊の本を手に待っていた。彼は真摯な目で僕を見て言った。「救いはこの中にある、読みなさい」※106 そうして本を僕に押しつけるや、さっさと行ってしまった。後には僕と、彼の本が残された。僕はそれを見た。かつて響が読んでいたような、聖書だった。僕はそれを床に投げつけて踏みつけにしてやりたいと思った。八つ当たりにだ。でも響のことを思うと、どうしてもそんなことはできなかった。そんな様子を彼女が見たら、深く傷つくと僕は知っていたからだ。響を悲しませたくはなかった。彼女がその姿を見ることが起こり得ないにしても。

 

 聖書を持ったまま、ベッドに腰を下ろす。適当に開くと、僕でも知っている有名な箇所が選ばれた。貸してくれた友人が好んでそこを読んでいたのか、たまたまか、どちらにせよ僕はそこを読んだ。「主は私の羊飼い。私には何も欠けるものがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。主は御名に相応しく、私を正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」※107

 

 僕はやっぱり、主を信じようという気にはなれない。誰かに飼ってなど欲しくないし、鞭打たれるのもごめんだ。死の陰の谷を行く時に僕が災いを恐れないとしたら、それは主のお陰ではなくて、僕自身がその死の陰の谷で一番ヤバい災いそのものだからであって欲しいのだ。※108 けれど、僕は確かにこの言葉の中に響を感じた。彼女が今、「死の陰の谷」を歩む全ての人々の為に祈ってくれていると感じ取れた。天国とこの汚濁にまみれた現世は遠く離れているが、彼女は今、僕の傍にいようとしてくれているのだ。後は僕が歩み寄れば、僕は彼女と肩を寄せあうことさえできるのだ。

 

 だって、彼女は言ったじゃないか。「君が自分の務めだと思うことを果たすんだ。その時私は私の務めを果たしているだろう。君の横か、何処か違う場所で、君のことを忘れるぐらい一心に。そしてその時こそ、私たちが互いを忘れて使命に打ち込んでいるその時こそ、実はめいめいがぴったりと身を寄せあっているんだよ」と。彼女が祈りをおろそかにする筈がない。なら、僕が僕のやるべきことをすれば、僕と彼女は近づける。聖書を貸してくれた友人は正しかった。「救いはこの中に」まさしく。

 

 けれども、やるべきこととは何なのだ? 死ぬ覚悟を決めることか? それとも何とかして生き延びる手段を探すことか? あるいは、赤城を信じて何もせずに待つことか? 分からない。聖書のページをめくる。すると、ぽろりと何かが落ちて床に当たり、金属音を立てた。それを拾って見てみる。十センチぐらいの細長く、平べったい棒だ。先は鋭く尖っており、有用そうな鋸刃がつけられている。

 

 体から力が抜けた。でも今度は恐怖やショックからではなく、見捨てられていなかったという安堵からだった。赤城は彼女の務めを果たしてくれたのだ。後は、僕がこれをどうやって隠し、どうやって用いるかということだった。伝聞ではあるが、死刑執行に至るまでの流れは分かっている。まず、今着ている囚人服──長袖、映画的な蛍光オレンジ──はそのままに、手を体の前にして手錠をかけ、刑場まで連行する。首に縄を掛ける。執行する。囚人が死ぬ様子は、刑務官たちの精神衛生の為に見えないよう取り計らわれており、二、三十分ほど後に医師が刑務官を伴って死亡を確認しに下へ降りる。死亡を確認された囚人はその場で死体袋に入れられ、外への直通路を通って、収容所から少し離れたところにある火葬場へ運ばれる。

 

 この収容所の外がどうなっているのか分からないのが不安要素だった。仮に放棄された石油リグや海上基地を改造して作られていたりしたら、逃げようったって逃げられない。海に飛び込んで潮の流れに身を任せるというのも自然主義的で、自殺のやり方としては悪くないアイデアだ。が、それなら看守たちに撃ち殺して貰った方が早いし、もし撃たれる回数が一度で済めばの話だが、見栄えも水死に比べてぐっとよくなる。

 

 まあいい。この収容所で確実に死ぬか、生きる希望を求めて外に出るかなら、答えは決まっている。それよりも大事なことを考えよう。どうやってこの刃物を隠して持ち込む? 意識を失うまでの九十秒で縄を切り、逃げる。不可能ではない。これを隠していられれば。何処に隠す? 口に入れるには大きすぎる。尻の穴? 冗談じゃない、鋸刃がついてるんだぞ。服に縫い込む? おい、そりゃいいアイデアだな! よし、ちょっとコンビニにでも行ってソーイングセットを買ってきてくれよ。ついでにビールと雑誌も頼むぜ。

 

 ダメだ。僕は新しい考えが降ってくることを期待して、聖書をまたぱらぱらとめくった。すると、本の一部が切り抜かれ、そのくぼみに小瓶が仕込んであるのを見つけた。うーん、新しい考えではないが、似たようなものだ。ラベルが貼られていなかったので、僕はその瓶のふたを開けて、匂いを嗅ぎ、指先にしずくを垂らしてそれを舐めてみた。舌に覚えのある味だ。修復材? 確認の為に、さっきの刃物を使って指に小さな傷をつけ、そこに一滴振りかける。治癒される。

 

 で、これをどうしろと? 僕は先ほどまでの赤城への親しみや感謝の気持ちは何処へやら、彼女を問い詰めたい気分になった。修復材をここに入れたのは、親切さからじゃないだろう。粗製ナイフとこれを使えということだ。つまりどういうことか? 赤城は隠し場所として、僕自身の肉体を用いるようにと言っているのだ。あのナイフを腕に挿入し、修復材で傷を隠して、必要になったら圧迫して皮膚を破らせ取り出して……考えるだけで頭がくらくらする。

 

 だが他にいい手もなかった。今やるべきだろうか、それとも明朝、連行の直前? できるだけ後回しにしたいが、正確な連行のタイミングは分からない。仕込みの最中に奴らが来たらおしまいだ。今しかない。僕はベッドのシーツをはがし、それを思いっきり噛んだ。それから左の袖をまくり、右手に粗製ナイフを掴み、震える手で切っ先を自分の左腕の半ばぐらいに突き刺した。悲鳴が漏れそうになるが、シーツを噛んでいるお陰ですすり泣き程度の声量に抑えられた。切っ先が肉を割り、鋸刃が軽く引き裂きながら腕に潜っていく。早くしないと血を失いすぎるが、急いで手元が狂ったら動脈を破ってしまう。痛みと恐怖に震えながら僕は挿入を終え、ただちに修復材を振りかけた。傷口は塞がったが、腕の異物感は取れない。それどころか、動かすと痛む。

 

 腕を見る。皮下出血でくっきりと浮き上がっているが、どうせ袖で隠れる。今日はもう寝よう。痛みから逃れるには眠るのが一番だ。どうにか片手でシーツを戻し、聖書のページを破って床の血を拭い取って、ベッドの下に投げ込んだ。もっときちんと処理できたらいいのだが、最低限僕がことを起こすまでバレないでいてくれればそれでいい。ベッドに横になって、目を閉じる。じんじんと痛む腕から意識を切り離し、眠りの海へ沈んでいく。

 

 けれど痛みがどうしても僕を完全な眠りの中に休ませてくれなかった。半分眠っていて、半分起きているような状態だった。それでもなお眠ろうと努力していたが、不意に誰かの気配を感じて僕はうっすら目を開いた。僕の寝ているベッドに、響が腰かけていた。「やあ」と言おうとしたが、言葉は出なかった。でも僕の思いは彼女に伝わったと分かった。彼女が僕を見て、天使の微笑みを浮かべてくれたからだ。

 

 腕から痛みが引いていくのが感じられた。なくなりまではしなかったが、随分と楽になった。感謝を伝えたくて、響に向かって右手を伸ばす。彼女はそれを片手で取って僕に近づくと、もう片方の手で僕のまぶたを下ろさせた。そのせいで、もっと彼女の姿を見ていたかったのに、僕は今度こそ眠ってしまったのだった。

 

 監房の扉が無遠慮に叩かれる。いっぺんに眠りから叩き起こされて、僕はベッドから飛び出た。それと同時にドアが開けられ、外に控えていた四人の刑務官の内、二人が中に入ってきた。僕は素直に両腕を前に出し、手錠を掛けさせた。一年間を共に過ごした融和派たちの監房の前を歩いていく。どの監房の扉の覗き窓からも、見知った顔がこちらを見ていた。その眼には同情と安堵が表れている。あいつ可哀想にな、でも自分じゃなくてよかった。

 

 この収容所には大勢がいて、中には誤ってここに入れられたとしか思えない奴らもいたが、大半は間違いなく融和派だった。赤城のグループと近い団体出身の者もいれば、赤城たちとははっきりした敵対関係にあるグループの構成員もいた。後者の連中は、多分主戦派深海棲艦たちが作らせたグループなのだろう。しかし、この収容所にいる間は僕らは対等だった。互いに敬意を払い、繊細な問題には触れないという簡単なルールを守っている間は、僕らはただの隣人同士でいられたのである。彼らに対しても、多少の親しみは感じていた。僕は笑いかけてやりたかったが、刑務官に見られていては叶わなかった。

 

 刑場へ向かうにつれて、鼓動が早まる。命の懸かったぶっつけ本番だ。けれど、艦娘として戦っていた時は毎回がそれだった。そして僕はその中を生き延びてきた。今日でそれが終わるとは思えない。生きるのだ。生き延びて、僕がやらなければいけないことをやるのだ。正直、やりたいことではない。深海棲艦たちと意志を疎通できる能力も、艦娘として戦える力も、何もかも僕が欲したものではなかった。でも、決して望まなかったにしたって、それはやっぱり僕のものなのだ。しかも返上も移譲もできない。全く、強引で人の気持ちを無視したやり方だ。それでも僕にはその権力に、行使可能な権利に対して義務がある。義務は果たされなければならない。望むと望まずとに関わりなく。

 

 刑場、刑室の所定の位置に立たされて、首に縄を掛けられる。深呼吸を始める。耳鳴りが始まった。横で刑務官が何か言っているが聞き取れない。部屋の上にかけてある時計の分針が、一周を終えた。

 

 瞬間、僕は落下していた。あっと言う間どころか、そんな間もなく衝撃が首の辺りに走る。頭の上でがちゃりと音がして、落とし戸が縄を挟みながら閉じられた。息苦しさにパニックを起こしそうだ。左腕の袖をまくり、ナイフを仕込んだ辺りを右手でぐい、と押し出すように圧迫する。痛みで悲鳴を上げなかったのは、首が絞まっていたからだ。皮膚を引き裂いて粗製ナイフの先が出る。それを掴んで引きずり出す。血に濡れたそれをしっかり握り、頭の上の縄に鋸刃を叩きつけ、前後に動かす。

 

 心臓が爆発しそうだ。頭が痛い。縄の半分まで切れた。視界が暗くなってくる。手に力が入らない。僕は左腕の傷口を手錠の鎖に押しつけて、自分自身を痛めつける。頭の中で痛みのスパークが起こり、再び手に力が戻った。渾身の力を込めて、引き切る。

 

 縄が切れた。僕はどさりと床に落ちてごろりと転げたが、激痛が脇腹に走った。見ると、縄を切った時に落としてしまったナイフが脇に刺さっていた。引き抜いて捨ててしまいたい、だがそれをすれば出血がひどくなる。今でも左腕からは血が流れているのに、これ以上血を失いたくない。呼吸を整え、苦痛に抗う。床に手と膝を突いて立ち上がろうとするが、力が抜けて倒れそうになった。そこを脇から誰かに支えられた。僕は恐怖に駆られてその誰かを見たが、その次に僕を襲ったのは驚きだった。

 

「響?」

「不知火に見えるかい? さあ、行こう。脱出だ」

 

 艦娘らしい力、彼女の体躯からすると考えられないほど強い力に引き上げられて、僕は立ち上がった。壁にもたれかかり、意識は朦朧、足元は生まれたての鹿みたいにふらついているが、歩ける。「こっちだ」と響は扉の一つを指し示し、その先へ行ってしまった。誰かいないか確かめに行ってくれたのだろう。追いかけなくてはいけない。響だ。助けに来てくれたのだ。脇に刺さったナイフを今より押し込んでしまわないように、刺さっていない側の肩で壁を押しながら進む。倒れそうになってもその度に響が「ほら、もう少しだ」などと声を掛けてくれるので、苦痛はあってもつらくはなかった。

 

「君が……生きていたなんてな」

「復活さ、灰の中からね」

 

 僕は笑ったが、そうすると横腹がひどく痛んだ。昨日にせよ今にせよ、これほどの激痛は一年ぶりだからか、その痛みはかつて僕が耐えていたものよりも小さい筈だというのに、耐えられそうになかった。半ば泣きそうになりながら足を進める。涙で目がかすみ、一歩二歩進むだけで息が切れる有様だ。この一年間、暇と隙とを見つけては鍛錬を行い、身体能力の維持に努めてきたというのに、たった一本の細いナイフが腹に刺さっただけでこれか。

 

 血の痕を残しながら響を追って進むと、狭い車庫に出た。車一台で満車になる、家庭用と見まごう大きさだ。誇張ではなく、実際に一台の小型トラックでぎゅうぎゅうになっている。だがそんなことはどうでもいい。外が近いのだ。その喜びに身を任せて飛び出ていこうとする僕を、響はそっと、しかし力強く押しとどめた。「静かに。耳を澄ませるんだ」現況を鑑みると、彼女に抗うのは愚かなことだ。僕は傷の痛みから逃避するように、音へと耳を傾けた。そうすると、男の声が二つ聞こえてきた。もっと言えばエンジン音も聞こえてきた。恐怖や興奮で、トラックのエンジン音さえ聞こえなくなっていたらしい。

 

 僕らはトラックの真後ろに出たので、サイドミラーで姿を見られる心配はなかった。息を潜めている限り、声を聞きつけられることもあるまい。さて、ここからどうするんだ? 響に視線を送る。だが彼女は辺りを調べていて、僕の視線に気づいていないようだった。無論、そのことで気を悪くしたりなどしない。彼女は彼女のベストを尽くそうとしてくれているのだ。僕は僕の役目を果たす。気をしっかり持って、僕が必要だと響が言ってくれた時に手を貸そう。

 

 やがて響は残念そうにかぶりを振って、決心した顔で言った。

 

「とても痛いことを頼むことになる。いいかい?」

「何でも、響。今日は僕が君の指揮下だ」

「脇腹のナイフを抜いて、トラックの後部タイヤをパンクさせるんだ。チェックしに一人下りてきたら私が気絶させる。残りの一人の面倒も見る。できるかい?」

 

 それは……予想してなかったな。でも、響が言うんだ。必要なのだろう。黙って頷くと、彼女は僕にダクトテープを渡してくれた。車庫に置いてあったもののようだ。「これは?」「穴は塞がないとね。そうだろう?」納得だ。トラックの下に潜り込む響を見ながら、大きく息を吸って、歯を食いしばり、刺さったナイフの柄をつまみ、一挙に引き抜く。はっ、はっ、と浅く息をしつつ、上着をまくり上げてダクトテープをぐるぐると地肌に貼りつけ、傷を塞ぐ。

 

 血に汚れた指で涙を拭い、赤く染まったナイフを掴む。「響」「準備はできてるよ」では始めよう。ナイフをタイヤに突き刺し、引き抜く。聴覚に意識を集中させると、運転席と助手席の二人が困惑する声が聞こえる。その内に罵り声が一つして、助手席のドアが開いた。彼は盛んに悪態を吐きながら、大股で後部タイヤへと近づいていく。響は彼を行かせておいて車体の下から転がり出ると、整備用のレンチで彼の膝の裏を殴りつけ、体勢を崩したところで首を締め上げた。上手く極まったようで、彼はあっさりと気絶した。

 

 もう一人の男が声を掛けてきた。当然、誰も答えない。不審に思った彼も近づいてくる。そして同じ手で気絶させられる。響は戻ってくると、うずくまっている僕に手を貸して立ち上がらせ、彼女のお荷物な相棒を手を引いて車庫のシャッターまで連れて行き、ボタンを押して外界への最後の障壁を取り払った。

 

 朝が終わる寸前のひんやりとした風が吹いて、喉の奥から「ああ」と呻きとも溜息とも取れない声が漏れた。先に進む響を追う。舗装された道を外れ、その道を挟む林や森の中に足を進める。海上基地ということはなさそうだ。

 

 風のせいか、体が冷えてきた。彼女の声が遠くに聞こえる。手が震える。自分では分からないが、多分足もだろう。結局、木々の間に分け入って暫くしたところで、僕は地面に倒れ込む。土の湿り気、土の匂い。響が戻ってくる。彼女は僕を引っ張り、太い木に僕をもたれかけさせてくれる。意識が遠のく。彼女は僕の手を握る。けれど響に握られた筈の僕の手は、何も感じない。彼女の体温も、力も。彼女は顔を寄せて、耳元で囁く。「大丈夫、今に助けを呼んでくるから……大丈夫……」僕は安心して意識を手放す。響が大丈夫だと言うなら、大丈夫だろう。

 

*   *   *

 

 その後最初に感じたのは揺れだった。失神してからそう経っていない頃ではないだろうか。誰か分からない女性が僕に「よく頑張ったな。もう安心だ。私が守ってやる」と呼びかけ、少々乱暴に頭を撫でるのを感じた覚えがある。ただ、その時にはすぐまた僕は気を失ってしまったので、何がどうなっているのか把握する余裕がなかった。実のところ目を開けることも、声の主が誰なのか判断することさえもできなかったのだ。僕ができたのは、その声を受け入れることだけだった。

 

 次に感じたのは猛烈な空腹と渇きだった。耐えられなくて目を開くと、僕は自分がベッドの上にいることを発見した。点滴を打たれていたが、空になった輸血パックが部屋の隅に置かれたゴミ箱へ無造作に放り込まれているのを見て、僕はここが病院ではないようだということを察した。起き上がり、周りを見る。ドアが一つ。窓なし。壁紙は花柄。趣味が悪い。家具もほとんどないし、壁紙を除けば人間味のない部屋だ。少し埃っぽいから、使われていなかった部屋なのかもしれない。

 

 数少ない家具の一つであるベッドサイドの棚の上に、水差しとコップが置いてあった。空腹はともかく、渇きはこれで抑えられる。コップに水を注ぎ、二杯、三杯と飲む。持って来られてから時間が経っているのかぬるくなっていたが、水分に違いはない。僕はやっと人心地つけて、体から力を抜いた。リラックスして、考えを巡らせる。誰か呼ぶべきだろうか。そうだ、響は何処だ? 響の居場所どころか、ここが何処だかも分からない。が、僕をここに連れてきたのが誰であるにせよ、そいつは脱走犯を単に殺してしまうつもりではないだろう。だって、放っておいても死んだ身だ。わざわざ正式に死刑にする為に命を助けるなんて、お役所仕事にしても狂気的すぎる。

 

 四杯目を飲みながら考えていると、足音が聞こえてきた。その間隔から、足音の主は身長が高く、足が長いことが推測できた。響ではないようだ。この部屋を通り過ぎるか、それとも中に入って来て僕に何がどうなっているのか教えてくれるのだろうか。不安と疑念で鼓動が早まる。僕の心臓は臆病なのだ。響が恋しかった。彼女が生きていたとは思わなかった。このベッドから降りられるようになったら、すぐにでも彼女を探そう。それから話をしたい。僕が彼女のいない第五艦隊で、どれだけ頑張ったかということをだ。

 

 そう、第五艦隊。思い出してみれば、あの艦隊は運用開始から一年程度で解散ということになっていた。なら、利根や北上は原隊に戻り、隼鷹や那智教官、不知火先輩は第一艦隊や第二艦隊、第四艦隊に編入されたのだろう。最後の作戦でも北上を轟沈させずに乗り切ったので、少なくとも、大井に僕の家族を付け狙われることはなさそうだ。心配なのは隼鷹と教官だった。利根や北上はいい。あいつらは何かとわきまえている。自分の力でどうにもならないこともあると理解している。北上には大井が、利根には筑摩がいる。彼女たちは愛する人の傷ついた心を癒してくれる筈だ。

 

 だが隼鷹は──僕は隼鷹と二人で広報部隊から転属したが、その時に彼女から聞かされた話を心によみがえらせた。彼女の同期たち、友人たちが知らないところで死んでいくことに耐えられなくなったという話を。僕は彼女をその悲しみから守りたかった。それもあって転属の時、彼女を勧誘したのだ。なのに、僕はまた隼鷹の知らないところで死ぬ友人の役回りになってしまった。彼女に二度とそんな思いをさせない為に、あの日勇気を出して誘ったというのに。

 

 そして那智教官。僕が誰より崇拝し、敬愛し、慕っている人。彼女は僕に心を許してくれていた。僕と彼女は旗艦と二番艦として、色々なことをやった。敵を倒し、窮地を切り抜け、飲んで騒ぎ、戦争の日々を生き抜いた。そんな彼女を僕は撃ったのだ。殺すつもりではなくても、僕が彼女を撃ったのだ。彼女の目に、僕は裏切り者として映っただろう。那智教官に「裏切り者」と罵られる自分を想像してみる。耐えられなかった。涙が溢れてくる。僕は手で顔を覆い、静かに涙を流した。

 

 と、ドアがきしむ音を立てて開いた。僕は涙を拳で拭い、目の下をひりひりさせながら入室者が誰なのかを見た。そうして、呻き声を上げた。

 

「君か」

「ああ、私さ」

 

 武蔵はにやりと笑って手を振った。以前のように、薬指を軽く折った平手を。

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