[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「融和」-4

 赤城に案内されながら、僕は廊下を歩き始めた。先導する彼女の髪の毛を見る。髪の毛を馬鹿にしてはいけない。大事なものだ。自尊心とかそういう面でだけでなく、人間の体調や状態を推し量る上でも役立つのだ。たとえばもしその人の髪が油まみれだったら、そいつは調理中に植物油を引っかぶりでもしたか、さもなければ風呂に入っていないということだ。状況次第で解釈は何通りかあるが、風呂に入る余裕もないほど忙しいか、単に身嗜みに気を払わない不潔な奴、という可能性などが考えられる。赤城の髪は艶々としていて、廊下の蛍光灯から発せられる輝きを受け、天使の輪と俗称されるものを生み出していた。これは髪の毛の一番外側にある薄い細胞膜、いわゆるキューティクルの表面で光が反射されることによって発生するものであって、手入れなしに保てるものではない。

 

 僕は彼女が気だるげに髪の手入れを行いながら部下たちに指示を出すところを想像した。「ああ、あの男性艦娘ですね。収容所でしたか。送迎は武蔵にやらせればいいでしょう。ついでに陸軍に密告して排撃班同士で戦わせて──あら、自分で言うのもなんですけれど、いいアイデアですね!」赤城と話した時間は短いので、とても精度の悪いエミュレーションしかできなかった。しかし、それが気にならないほど僕は赤城に対して不満を感じていた。彼女のプランは綱渡りだった。僕が死んでいてもおかしくなかった。多少の危険はいい。リスクゼロのプランなんて存在しないか、よくできたフェイク、または何らかの誤った要素を持つ机上の空論だ。そんな計画と膝を折って神に祈るのと、どちらがより現実的かと聞かれれば、僕は後者だと答えるだろう。少なくとも、神の不在は証明されていないからだ。

 

 適当なところで、僕は赤城を呼び止めた。そこまで他人に会わなかったので、盗み聞きされたら、なんて心配も要らないだろう。それに秘密にしておかなければならない話をするつもりもない。ただ僕は、説明して欲しいだけだ。不必要に手の込んだ計画は、立案者の傲慢な有能感を満足させるものでしかない。案は必要なだけ十分に複雑であるべきであって、限度を超えると成功そのものを危うくする。余計な部分は切り落とすべきなのだ。赤城がそのことを分かっていないとは思いたくなかった。武蔵に僕を救出させたことには理由があったのだろう。それを知りたかった。だから問うた。赤城は周囲に目をやってから、壁に寄りかかって億劫そうに答えた。

 

「あなたが“戦闘中行方不明”になってからの一年、あの武蔵がどんな荒れようだったかご存知ないのでしょうね。陸軍排撃班に比べて、彼女の班がどれだけ私たちの活動の障害となったことか。腹芸は得意ではないので、正直にお話しましょう。あなたが死んだとしても、私たちの戦いは続けられます。終戦は遠のき、敗色は濃厚になりますが、それでも続けられる。しかし、後であなたの命を危険に晒すことになってでも、あの武蔵を大人しくさせ、彼女の排撃班をあなたの確保やその為の情報収集という任務に注力させていられなければ、私たちは確実に全滅していたでしょう。優先度の問題ですよ。付け加えるなら、意趣返しと言ってもいいですね。その側面を持っていることについては否定しません。けれど、復讐心で判断を誤るほど幼くもありません」

 

 一心不乱に仕事へと打ち込む武蔵を想像して、僕は顔をしかめた。あの武蔵よりも恐ろしいものは何か? それは“荒れ狂った武蔵”だ。更にその上位には“荒れ狂った艤装装着済み武蔵”が来る。

 

「僕とあんたが最初に会った時の再現という訳か。配役は逆にして」

「その通り。まあ、武蔵と違って私は捕まりませんでしたけれど」

「あいつは死ぬところだった」

「あら残念。死ねばよかったのに」

 

 命を無下に扱う彼女の態度といい、気持ちよく聞ける話ではなかったが、納得はできた。自分が最高の優先度であるという前提が間違っていたのなら、それに基づいた赤城の計画への批判は筋違いだ。それにしても、武蔵との関わりが短いながらも濃密なものであったせいでそちらにばかり目が行っていて気付いていなかったが、赤城も決して皮肉抜きでよい性格をしていると言うことのできる人格ではないようだ。融和派グループの首魁ともなれば、そんな性格になってしまうのも仕方のないことなのかもしれない。僕なんか、第五艦隊の旗艦になって五人の命を預かるだけで頭と心がどうにかなってしまいそうだった。赤城のグループが何人か知らないが、五人ということはないだろう。五十人、五百人、五千人、五万人? 見当もつかない。分かるのは、捻じ曲がってもおかしくはない数だということだけだ。

 

「じゃあ、次の質問だ。どうして響のことを教えてくれなかった」

「あなたが自発的に私に手を貸さない時には、人質として使うつもりでした。その為には黙っていた方が効果的でしょう? 駆逐艦一人ならグループに引き込めなくても惜しくありませんでしたから。ただ、今の彼女は……」

 

 赤城は口ごもった。僕が身振りで続きを促すと、彼女は肩を落として溜息を返してきたので、少し目を見張った。僕が断片的に知っている赤城は、こういう人間的な弱みを見せる人物ではなかったからだ。ところがこの彼女は、響の処遇に困っている、という風な態度を取っている。だがやがて彼女は助けを受けることなく自分の力で気を取り直すと、無表情を取り繕って続きを口にした。

 

「あの響は今や、グループの中で確固たる立場を築いています。厳しいストレス環境下に置かれている構成員たちのカウンセラーとして、あなたと関係なく」

 

 僕は吹き出した。赤城は黙らせようとするようににらんで来たが、効き目は一向になかった。そうか、響はそんなことをやっていたのか。僕は彼女が人々の苦しみに共感し、安寧に導こうとする様子を想像できた。彼女なりの処世術だったのかもしれないが、そういうことを抜きにして考えても似合っていた。

 

「自分以外に影響力のある人物など私のグループにはいて欲しくなかったのですが、気付いた時には手遅れでした。取り込むつもりが、こんなことになるとは」

「流石は響だ。彼女は有能なカウンセラーだろうね?」

「グループ全体について言えば、その精神衛生環境は著しい改善があった、とだけ申し上げておきます」

 

 赤城の表情からすると、彼女個人にはなかったらしい。あるいは、あったけれども隠しているか、だ。僕は気が済むまで笑い、目じりの涙の粒を拭ってから、次の話に入ることにした。「僕と君とで戦争を終わらせられるそうじゃないか」赤城は頷いた。それまで彼女の顔にあった感情的な色は潮のように引いてゆき、残ったのはグループのリーダーとしての冷徹な態度だけだった。「お聞かせ願いたいんだがね、僕が何の役に立つんだ? たった一人の男に、何ができる?」まさか、戦力として期待されている訳でもあるまい。確かに僕は今日まで生き延びてきたが、それは僕が強かったからじゃない。そもそも今の僕には艤装がない。赤城はそのことを理解しているだろう。興味深い気持ちで、彼女の言葉を待つ。彼女は落ち着き払った声で始めた。

 

「あなたが現れるよりもずっと前から、私はグループを率いて活動してきました。けれど、一度だって戦争を止められると思ったことはなかった。知っての通り、深海棲艦の大半は、既存の人類のほぼ全員と相互にコミュニケーションを取ることが物理的に不可能です。それは彼女たちが我々のように話せないからだけでなく、戦争という状況にも理由がありますが……あなたならどうです? 何を考えているかも分からない相手と、講和を結ぼうと思いますか?」

「多分、思わないだろうな」

「いいえ、()()()()()思わないでしょう。だから、私たちは常に少数派だった。話すことができる鬼級・姫級深海棲艦の幾人かとは協力態勢を整えることができましたし、彼女たちに説得され、私たちに加わった発話不可能な深海棲艦たちも僅かながらいます。しかし、それでも少なすぎた。そこであなたの出番という訳です。ご心配なく、下準備は整えておきました」

 

 僕は段々と自分が何に使われるのか分かってきた気がして、面白く思った。結局、とどのつまり、最終的に、僕は自分が軍で手に入れた最初の立ち位置に戻ってきたのだ。二年ちょっと掛けて、随分と遠回りをして、広報へと。僕は深海棲艦とコミュニケーション可能な人間の実例だ。僕を使って、主戦派深海棲艦への切り崩し工作を図るつもりなのだろう。僕が自分の予想を赤城に短く伝えると、彼女は頷いた。当たっていたようだ。ふうん、まあいい。それが上手く行ったとする。主戦派を弱体化させ、逆にこちらの勢力は強化された。それで、そこからどうする? そこが重要だ。赤城はその部分をまだ話していない。融和派の勢力が大きくなったからって、日本政府と国軍はあちらから和平交渉などして来ないだろう。窓口があるとも思えない。

 

 そう、深海棲艦融和派という存在の不毛さの半分以上はそこにあると言えるだろう。彼ら彼女らがどれだけ本気で深海棲艦との未来を望んでいても、国民の代表たる政府と政府の決定に基づいて武力を行使する軍は、融和派と交渉などしないのだ。彼らにとって融和派はテロリストであり、理解不可能な人類の裏切り者たちであり、その主張に落ち着いて耳を傾ける相手ではないのである。となれば、道は二つだ。首根っこを掴んで強引にでもこちらの言うことを聞かせるか、誤解を解こうと試みるか。赤城はどちらを取るのだろう? 僕は期待しながら彼女の答えを待った。だが彼女は答えず、代わりに壁から身を離して歩き始めた。答えを督促しようとする僕に、彼女は振り返らないままに言った。

 

「二度手間を掛けさせるつもりですか?」

 

 そのつもりはないが、そうさせる程度の権利ぐらいは望んでいいんじゃないか、と思う。だが、赤城と口論するつもりはなかった。僕は融和派のリーダーじゃない。彼女がそうなのだ。なら、彼女が時期を見計らうまでは黙っていよう。心配することはない筈だ。赤城だって、何もかも黙っているつもりはあるまい。彼女を友人として信用する気にはならないが、グループの指導者としてなら信じてもいいのではないかと僕は考えていた。彼女は私欲で動いていない──とは断言できないか。グループの利益は彼女自身の利益にもなる訳だからな。でも何にせよ、僕と赤城の目指すところが同じである以上は、一向に目的の掴めない武蔵よりは信頼できる。

 

 僕は黙って赤城の後に続き、入渠を済ませた。その後で融和派の拠点に運ばれて以来着せられていた病人服から着替えることもできた。持ってきてくれたのは電で、僕は彼女が生きていたことに少しほっとした。僕がエレベーターで意識を失った後、仲間の手を借りながらどうにか離脱を果たしたらしい。電が心から望んで僕と話したがるということは決してなかったが、それでも彼女がその場を去ってしまう前に二つ聞くことができた。僕の持っていた鞄は何処なのかということと、青葉が元気にしているかということだ。前者は部屋に運ばせると約束して貰えたが、後者については「青葉さんは元気なのです」という短い情報しか得られなかった。まあ、それで不足ということはない。元気ならいいじゃないか。それより、電はまだ青葉と働いているのだろうか。聞きたかったが、電はもう行ってしまった後だった。いずれ、知ることもできるだろう。

 

 ドックからの帰り道に案内はいなかったが、迷子になるほど入り組んだ場所でもなかったので僕は気にしなかった。廊下を歩きながら、壁を見る。窓が一つもない。融和派お得意の地下基地かな、と僕は推測した。思い出してみれば、僕が赤城と初めて会ったのも融和派の地下拠点でだった。あの時から長い時間が経ったものだ。ふと港湾棲姫のことを思い出す。あの監獄の中で、僕に鉤爪を向けようとした彼女のことを。そして排撃班の一人と格闘している最中に、僕に後ろから刺された彼女のことを。彼女は僕を殺そうとしたのではなかったのだ。

 

 あの時の僕は無我夢中だった。そう言えば聞こえはいいが、実際は冷静さを失っていただけだ。今になって考えてみれば、そんな相手を、たとえ不意を打たれたのだとしても姫級深海棲艦が殺せない筈がなかった。入渠を済ませたばかりだったというのに、気分が悪くなる。

 

 正当化することはできる。当時の僕に、目の前で生きている深海棲艦を殺さずにいる理由はなかった。衝動的な行為だ。記憶も不明瞭。何とでも言える。でも僕は彼女を殺したのだ。仮に死してなお彼女の想いや魂が残っていようとも、僕を真実に導こうとしたその手を僕は払いのけ、お返しに胸を刺し貫いたのだ。そして彼女はそれを受け入れた。反撃して殺してしまうこともできたのに、そうしなかった。僕は不安になった。赤城の目論見が、一度の不可避だった過ちで水泡に帰するということはないだろうか? 僕のやったことの全てが無駄になってしまいはしないだろうか。それこそ考えても無駄なことだとは分かっているのだが、自分ではどうしてもやめられなかった。

 

 なので、部屋に戻った時に響が話しかけてきてくれて、僕としてはとても嬉しかった。その内容が「じゃあ武蔵さんをドックに案内してくるよ」でなければもっと嬉しかったのだが、僕の個人的な問題の為に武蔵を入渠させないでいることもできない。僕は頷き、彼女たちを見送った。ベッドに戻って、大人しくしておく。入渠を終わらせて体は元通りになったが、ドックは損傷を治せるだけだ。疲労、特に精神的疲労までを完全に治療できる万能施設ではない。短時間で様々なことがあったので、ゆっくり横になって物事を整理する時間も必要だろう。目を閉じ、物思いに耽る。首尾よく戦争を終わらせられたら、僕はどんな扱いになるのだろう。英雄として祭り上げられたりしないだろうな? そんなのは勘弁願いたい。名誉欲はもううんざりするほど満たして貰った。誰か別の人にライトを当ててやって欲しい。個人的な要望としては、軍への復帰は当然として、後は適当なタイミングで除隊させてくれればなあ、と考えている。そこから先はどうとでもなるだろう。学校に行くもよし、本でも書いて一攫千金を狙うもよし、何でもありだ。そういう世界が来るのだ。赤城の計画が上首尾に運びさえすれば。

 

 ドアが開いた。目を開けて、入り口を見る。いつもの弓道着に身を包んだ赤城が、僕の鞄を持っていた。電は自分のグループの指導者に雑用をやらせたのかと思って驚いたが、きっと赤城の方から言い出したのだろう。もののついでという奴だ。ここに自分以外の誰かを近づけたくないのかもしれない。今は大人しくしているが宿敵である武蔵もいることだし、神経を尖らせているのだろう……うん? なら響一人に武蔵を任せて大丈夫だったのか? 響は精強な駆逐艦娘だが、武蔵を抑えられるほどではない。それは無茶な要求というものだ。吹雪秘書艦ならあるいはと思うが、響には荷が勝ちすぎるだろう。これは彼女の旗艦として軍務に服した僕の、私情を差し挟まない判断である。

 

 心配になってきた。僕に鞄を渡してきた赤城は、こちらの様子を見て誤解したようだった。「緊張しているのですか? それとも今になって怖くなりましたか」そのどちらでもないが、僕は答えなかった。代わりに「やるべきことはやるさ」と言った。彼女を満足させておくには、それで足りるだろう。それに、この言葉は嘘ではない。戦争を終わらせ、失われるべきでない命が失われずに済むようにする為に、行うべきは行おう。赤城は自分の猜疑心の強さを僕に教えたかったのか、疑うような視線を投げかけてきたが、それだけで動揺するほど僕は子供じゃなかった。年齢的にはまだまだ子供で通用すると思うのだが、子供が子供のままでいられない世の中とは悲しいものだ。

 

 鞄を開き、中を見る。僕と違って運のいいことに、被弾ゼロだった。持ち出してきた三つのもの、アルバム、青葉新聞、響の帽子も無傷のままだ。よかった、特に響の帽子が傷んでいないのが幸いだった。これは僕に属するものではない。響の持ち物だ。それに、さっき会った時には彼女は帽子を被っていなかった。返されるべきだろう。無帽にも無帽なりの可愛らしさがあるし、あれでシャイなところもある響は帽子で表情を隠そうとすることもしばしばなので、彼女の素の感情を楽しみたいなら返さないでいるという選択肢もあるのだけれども、やはり僕には帽子を被った彼女が一番しっくりくるのだ。

 

 僕の親友、僕の戦友、小さなアプロディテ、かの美しきアナベル・リー※117……うーん、最後のは撤回しよう。アナベル・リーはマズい。お空の天使に妬まれたくはないし、天使どころかたとえ神がライバルであろうとも、彼女の友人の座を譲るつもりはないからだ。これは恋心ではない。これは友情だ。家族愛であり、同胞愛だ。でもこれらの純粋な感情に混じって、思い上がった独占欲も存在することを、認めないではいられない。彼女の微笑みのきらめきは、星の輝きにも勝っている。彼女の美しい顔の華やぎは、僕を奮い立たせてくれる。彼女と共に迎える未来に待ち受ける喜びは、最早人間の得る喜びを越えたところにある!※118

 

 そういう風に響のことを考えると、気分がよくなった。赤城は僕の顔色が悪くなったと思ったらすぐまた回復したのを見て、困惑を隠せていなかったが、気にしないことに決めたらしい。ふう、と息を吐いて肩をすくめ、武蔵と響が戻ってくるまでここで待たせて貰う、と宣言した。ここは彼女の拠点だし、一々そんな断りを入れる必要などないと思うが、赤城がこれまで僕に示してきた彼女の武蔵とは対照的な慇懃無礼さから考えると、そうするのがごく自然な態度であるように思われた。僕は青葉新聞コレクションやアルバムを眺めて時間を潰し、響と武蔵が戻ってくるのを待った。その間、赤城はずっと部屋の壁にもたれかかって、腕組みをしながら何事か思案しているようだった。今ほど武蔵の帰りを希望して待ったことはなかったと言ってもいいだろう。本人には絶対に言ってやらないが。

 

 響たちが戻るには半時間ほど掛かった。部屋の外から二人の足音が近づいてきたので、僕は青葉の新聞記事の分析を中断し、唇を歪めて薄笑いの形を作った。それはそうしようとしてできた表情ではなく、陰鬱な沈黙の時間を耐え抜く為に被った無表情の仮面が、その役目を終えてもまだ顔から剥がれ落ちようとしてくれなかったせいで生まれたものだった。詩的な表現を避けて表すなら、単一の状態で固まっていた表情筋の緊張が、咄嗟に影響したせいだ。先頭に立って入ってきた武蔵がそれを見て、わざとらしくぎょっとした顔をした。彼女もまた服を着替えており、身体的特徴を見せびらかすように誇らしげに両腕を前で組んでいた。相手がこの武蔵でさえなければ、僕が女性のそういった振る舞いを拒否感で以って迎えることは決してなかっただろう。

 

「分かった、少し黙っててくれ」

 

 早速僕の表情について嫌味の一つでも言おうとした武蔵の機先を制してやった。彼女は眉をひそめ、舌打ちをして僕の不調法を罵ると、ベッドの上で伸ばした僕の足にどすんと腰を下ろした。気にせずに響を呼び、武蔵の陰からすいと現れた彼女の頭に、帽子を被せてやる。彼女は初め、頭に何を乗せられたのか分からない様子の思案顔で自分の頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でていたが、すぐにそれが自分の帽子だということに気付いて、美術品めいた透明な美しさを損なわないまま、相好を崩した。彼女は悪戯っぽく責めるように言った。「こんなものを、君、何処から持ってきたんだい?」「提督は君の部屋を片付けるなって言ったんだけど、形見分けのつもりでね。気を悪くしたなら……」「いいや、気にすることはないさ。ありがとう、嬉しいよ」響は帽子を被り直し、純粋な喜びの色で瞳を輝かせた。赤城が小さな咳払いをしなければ、僕は永遠にその瞳の輝きに囚われていたのではないかと思う。

 

 ほんの軽い咳払いではあったが、一気に僕の体は緊張した。融和派のリーダーたる赤城が、武蔵の戻りを待っていたのだ。この場に僕と彼女が揃うのを、じっと待っていたのだ。何かがある。そしてその何かとは、これからどのようにして赤城が僕という変わった特技を持っているだけのただの艦娘を用いて、彼女の有する最高の目的を達成しようとするのか、という話題以外にはあり得なかった。武蔵と響もそれを予感しているのか、赤城の方を向いて口を閉じ、耳を傾ける姿勢に入っている。そして赤城は言った。

 

「そろそろ夕食の時間ですが、何か要望はありますか?」

 

 僕は武蔵を見た。武蔵は僕を見た。それから僕らは赤城に視線を戻して彼女が「冗談です」と言うのを数秒ほど待ち、本気らしいと感づくまでに更に数秒を無駄にした。そうしてやっと僕らは頭を働かせ、ほぼ同時に答えた。

 

「武蔵にフライドチキンとワッフル、飲み物はコーラで、デザート代わりにキャンディバーを出してやってくれ」※119

「こいつにはフライドステーキとコーンブレッドを。飲み物はスイートティーだ」※120

「おい、僕がカウボーイか何かに見えるのか?」

「どうやらお前の目には私が黒人みたいに映るようじゃないか」

 

 赤城はやれやれ、というように大きく嘆息して言った。

 

「仲がよろしいのですね」

「羨ましいだろう、私とこいつはもうすっかり親友さ。なあ?」

「そうとも。君の葬式の香典なら幾ら包んでも惜しくないぜ、武蔵」

「ほらな、聞いたろ? 感動するね」

 

 足がしびれてきたので軽く動かすと、武蔵は少しだけ腰を上げた。彼女の尻の下から足先を引き抜き、赤城の質問に真面目に答える。「食事なんか何でも構いやしないよ。それより、早いところこれから何をするのか知りたいね」武蔵もこれに賛成し、付け加えて赤城がどうして自分を殺さないでいるのか、僕が助命嘆願をする前に殺してしまうチャンスがあったのに、何故わざとそれを見逃したのかを知りたがった。武蔵は「殺すよりもひどいことをしたかったのか? 得意だものなあ?」と軽薄な口調で言った。僕は彼女を抑えようと思った。さっき話した時の赤城の言葉と様子が頭をよぎったからだ。でも、どうやったら武蔵を黙らせられるのか僕には分からなかった。「黙ってろ」じゃ多分効かないだろう。口を手で押さえる? いい考えだ。そうすりゃ、右手首から先を食いちぎられる前に、武蔵の唇の感触を知ることができるだろうよ。

 

 赤城は武蔵の安い挑発に付き合うことにしたようだった。しかし頭に血が上ったようには見えない。まだ余裕があるようだ。彼女は上辺だけの笑いを作ると、「ええ、それはもう。あなたの部下で練習する機会に何度も恵まれましたので」と言ってのけた。骨肉の争いを続けていた二者の間に、どのような暴力の嵐が吹き荒れていたのかは想像したくないほどだ。赤城は彼女自身が言ったように、グループとしての活動が危ぶまれるほどの被害を受けてきたのだろうし、武蔵の排撃班だっていつも無傷で勝っていたのではないだろう。イデオロギー闘争においては暴力の歯止めが利かなくなることが多い。赤城にせよ武蔵にせよ苦痛だけを目的とした拷問を行った経験がありそうだが、あったとしても驚くようなことではないだろう。僕個人の信念とは相容れないが、今目の前で行われている訳でもない。

 

 問題は、赤城と武蔵の二人がほどほどでやめるということを知っているかどうか、僕には分からないというところだ。この部屋で二人が殺し合いを始めるなんてことにはならないと思いたいが、彼女たちは気心の知れた友達同士ではない。今は両者共に我慢できる範囲の当てこすりのやり取りで済んでいるが、適度に誰かがクッションとならなければ、いつか一線を越えるかもしれない。その時、僕はそこにいたくない。僕はベッドから降りて、武蔵と赤城の視線を遮るように割って入った。近くに響がいなければ、怖くて震えていただろう。でも彼女がいたので、僕は見栄と意地とで割り込むことができた。どんな男にだって、この手の虚栄心は多かれ少なかれあるものだ。赤城と武蔵の二人の視線を一度に受けて内心で泣きそうになりながら、やや高圧的な態度を装ってまず正規空母の方に言った。

 

「売られた喧嘩は全部買う誓いでも立ててるのか? もう少し落ち着きを持ってくれよ」

 

 効いてなさそうだ。ま、いい。落ち着けとは言ったが彼女にせよ武蔵にせよ本気で口論していたのではないことは明らかだし、とにかく僕は自分に注意を向けてでも、この二人という劇物がよくない化学反応を起こしてとんでもない事態を招くのを、防ぎたいだけなのだ。赤城への効力の薄い注意の後で、武蔵が「ほらみろこいつは私の味方だ」などと調子に乗る前に、すぐさま返す刃でぴしゃりと言ってやる。

 

「君は僕を守ってくれるらしいじゃないか。嬉しいね、ぜひとも守ってくれ、君自身からな。このままじゃ僕は胃潰瘍でも発症しそうだ」

 

 こっちは僅かながら効いたようだった。自分の口にしたことだけは嘘偽りなく律儀に守る武蔵らしく、己の行いが僕の身に与える影響が、必ずしもよいものではないことをきちんと認めたのだろう。鼻を鳴らして不機嫌そうな態度を取りはしたものの、予期していた類の反論や言い訳は出てこなかった。赤城は「お上手ですね」と言ったが、その後に本来なら続いていたのであろう武蔵への嘲りの言葉はなかった。代わりに彼女は夕食について話した。

 

「食事は適当に用意させましょう。私が持ってきます。なお、お二人とも体の方はよろしいようですので、食事後にバスルーム付きの部屋に移っていただきます。移動したら、以降は私か響、電が迎えに来た時を除いて、可能な限り外出を控えて下さい。理由は言わずともお分かりかと思いますが」

 

 僕は頷いた。当然の処置だと思う。武蔵はグループの連中に暖かく迎えて貰えないだろう。僕だってどうだか分からない。最初から抜群の信用を得ることは期待しない方がいいだろう。

 

「それと、私もここで食事を取ります。構いませんね?」

 

 二度目の首肯。赤城は頷き返すと部屋を出て行った。響が僕の手際をからかうように、短く口笛を吹き鳴らした。僕は近づいていって彼女の帽子をぐいっと引き下ろし、視界を塞いでやった。「突然どうしたんだい」「何か手伝ってくれてもよかったんじゃないかと思って、八つ当たりさ」「そうだね、今考えてみると私でも何か手伝えたかもしれない。君の手を握って応援してあげるとかね」「そりゃ心強い」冗談でなく本当に。今からでも遅くないぐらいだ。僕は手を差し出した。響はそこに彼女の平手を打ちつけた。ぱん、と気味のいい音が響いた。期待したものじゃなかったが、これはこれで悪くない。

 

 武蔵が僕のベッドにどっかと腰を下ろして動こうとしないので、僕は彼女のベッドに座った。ついでに響が所在なさげに立っていたのを見て、横に座らせる。友達に椅子を勧めないのは無作法なことだと思ってのことだったが、そのせいで褐色の大戦艦の機嫌はどんどん悪くなっていくようだった。彼女にとっては響も一人の融和派でしかないのだから、当然のことか。何と切り出せばいいか分からなかったから、僕は単に武蔵へと呼びかけた。「何か楽しいことでもあったのか、武蔵?」「実は今、頭の中で赤城を始末する手順を考えてるところでね。丁度、七十四手目を思いついたところさ。聞きたいかい?」気弱で影響を受けやすい僕としては全力で耳を塞ぎたい話題だ。一つ聞くだけで三日はうなされる自信がある。全部聞こうものなら正気を失ってしまうだろう。

 

「それは生産的な時間の使い方だな。僕と話す時間はなさそうだ」

「そんなことはない。二人きりで話す時間なら、いつでも作れるさ」

 

 響をじろじろと見ながら、武蔵はそう言った。「なら私は」席を外していよう、と言いたかったのだろう響の言葉を遮って、「いや」とはっきり告げる。ベッドに腰掛けた彼女の小さな肩をそっと優しく押さえて、「ここにいてくれ」と頼んだ。この態度が武蔵の自分勝手な心をささくれ立たせることは分かっていたが、これにはちゃんと理由があった。一つは個人的な心情に基づくものだ。武蔵が何を思っていようとも、彼女が僕の友達をここから追い出すのを黙認するつもりはない。もう一つは、武蔵と僕の二人だけでいる時間は余り作るべきではないと考えたからだった。常に誰か、赤城なり響なり電なり、融和派のメンバーを交えておくべきだ。それが無理なら僕と武蔵は別れていた方がいい。お互いの安全の為にも、僕らが監視下で大人しくしているということをアピールし続けなくてはならない。

 

 さもないと、用が終わったら不穏分子として始末される恐れだってある。そうならないと誰に保証できる? あの正規空母は「自分以外に影響力のある人物はグループにいて欲しくない」とまで言ったというのに。赤城が信用できるのは、僕が有用な間だけ。武蔵が信頼できるのは、僕らが危機に瀕している間だけ。いつでも信じられるのは、響たった一人だけ。誰にだって分かることだ。身の振り方については慎重になりすぎるということはないだろう。僕はもう老後の予定を立ててしまっているのだ。それをつまらない失敗で覆されたくはない。 

 

 武蔵は長い足を組むと、ふうむ、と吐息のような、また溜息のようにも聞こえる声を出した。「何か言いたいことがあるんだな?」その顔から不機嫌さなどを見つけることはできなくなっている。気持ちの切り替えは終わったらしい。この状態の武蔵なら、油断はできないにせよ安心して話すことができる。僕は彼女の言葉を肯定して、話を始めることにした。赤城が僕をどう使うつもりかということについてだ。そしてそれを話す以上、僕は大規模作戦において見た、知ったものの全てを武蔵に伝えなければならなかった。彼女は否定も肯定もせず、僕の言葉を聞いていた。響もだ。彼女は赤城から多少聞いていたのかもしれない。

 

 だがそれより驚いたのは、武蔵が余りにもあっさり僕の話を信じたことだった。彼女は平然と「その話の通りなら、赤城たちがお前にあれだけこだわった理由も納得できる」と言ったのだ。もっと疑われたり、笑い飛ばされたり、僕の精神に対する意地の悪い言葉を投げかけられたりすることを想像していた僕は拍子抜けして、どうしてそんなにすんなり信じることができるのか尋ねた。彼女はにやっと笑って「お前の言葉だからさ」と答えたが、僕は武蔵が何か隠しているように感じた。皮肉によって彼女の本心を暴いてみようとしたけれど、武蔵はまともに反応を返さなかったので、諦めた。

 

 それにしても、部屋の外に出られないとなると時間を潰す手段を考えなくてはなるまい。響と話しているという手も魅力的だが、今の彼女には彼女にしかできない仕事がある。その邪魔をする訳にはいかない。体が鈍らないようにトレーニングは欠かさず行うとしても、それを日がな一日ずっと続けるのはつらい。肉体的にだけでなく、精神的にもだ。一日だけならまだやってもいいかもしれないが、二日三日、毎日やるのは絶対に嫌だ。

 

 願わくば、話し相手が欲しいところである。でも武蔵と相部屋にしてくれと頼むつもりにもなれなかった。今は何か考えたいことでもあるのか大人しくしているが、それに一段落つけば延々と僕の繊細な心をなぶり始めるだろう。そんな状況に陥った僕がどうするのか、具体的に言うならトイレのタオルとドアノブを使って首を吊るのが先か、自分で自分の首をねじ切って自殺するのが先かなんてこと、僕は知りたく……あ、うん、僕はもう答えを知っていた。この二者択一なら後者を選ぶ。首吊りは体験済みだ。どんな気分になるか、よく理解している。遠慮する。

 

 実行の予定はないが、ただの学術的興味から最も苦痛の少ない自殺の方法を考えていると、響が僕の顔を見て「そのしかめ面で何を考えてるのかな?」と聞いてきた。まさかそのまま答える訳にも行かず、居室を移した後での時間潰しについて悩んでいたと打ち明ける。すると彼女は軽く自分の胸を叩いて「君たちでも退屈せずに読めるようなものを選んで、私の本を貸してあげよう。お茶が飲めるように電気ケトルや茶葉、ティーセットなんかもね」と請け合ってくれた。それから響は悪戯っぽく片目をつぶり、「命の水も必要だ。前に言ったКазначейская(カズナチェイスカヤ)というウォッカを覚えているかい?」と囁いた。僕はその質問で、つくづく嬉しくなってしまった。

 

「初めて会った日のことだ、忘れるもんか。君はいずれご馳走しようって言ってくれたね」

「うん、それなんだけど、今夜にしようか。もちろんそれ以外のボトルも何本かあるから持っていくよ。異論は?」

 

 強いて言えば、今夜じゃなくて今がいいなってぐらいだ。でも、せっかちなのはよくない。何事にも時期がある。夕食を終えて、部屋に移ったら響を待つ。彼女は本とボトルを持ってくる。僕らは再会の祝杯を上げ、酔っ払う。そうしてもっと飲む。一周してしらふに戻るまで飲む。完璧な夜の過ごし方だ。僕は大きく頷いた。楽しみだ。自ずから笑みがこぼれる。僕はそれを抑えないし、抑えたいとも思わない。ごく当然の成り行きだ。と、武蔵の視線がこちらに注がれた。「どうした?」僕自身の機嫌のよさが、口を滑らさせた。しまったな、と頭に言葉が浮かんだが、実際のところそこまでの失敗とは感じなかった。武蔵は答えた。

 

「妙なんだ」

「何がさ」

「私や私の部下たち、そして恐らくは海軍の誰にも悟らせずに、どうやって赤城は陸軍と接触できた? いや、違うな。そもそも接触したのが赤城たちなのかどうかから疑うべきか。この一年で軍内部の掃除は済ませたと思っていたが……」

「今日ぐらい仕事のことを忘れたって誰も文句は言わないだろうに、まだそんなことで悩んでるのか?」

「お前がその響とばかり遊んでいて構ってくれないからな。拗ねてるんだ。察しろ」

 

 もし武蔵の内心を完全に察することができたら、僕は読心術をものにしたと公言しても許されるだろう。何か言ってやろうとすると、ドアが開いた。赤城だ。彼女はカートを押しながら入ってきた。その上には鍋と炊飯器、水の入ったピッチャーと、グラスや深皿、スプーンが人数分乗っていた。匂いを嗅ぐまでもなく食事の内容は分かった。カレーだ。子供っぽいかもしれないが、僕は喜びを覚えた。伝統的に、海軍にいる人間や艦娘なら誰もがカレーに対して、一定の立場を表明するようになるものである。以前にも増して好きになるか、打って変わって嫌いになるか。僕と響は幸いにも前者だった。ただ鍋の中を見るとシーフードカレーだったので喜びのランクは一つ下がった。この少年は十八歳、まだまだお肉が恋しいのだ。

 

 赤城を手伝おうとする響に座っていてくれと頼んで、彼女の代わりにカレーを深皿によそっていく。必要ないとは分かっているが、赤城の手元などに注意を払うことを忘れない。僕の為ではない。武蔵の為だ。彼女は職業病として偏執的なところがあるから、警戒せずにはいられまい。しかし、赤城の手伝いをするなど彼女にはとても考えられないことだろう。僕がやるしかない。配膳前に皿に盛られたカレーへスプーンを突っ込んで、一口分すくう。それを赤城に突き出した。彼女は怪訝そうな顔をしたが、すぐに理由を解してそれを受け取り、食べた。飲み込むのを待ってからスプーンを返して貰い、カレー皿に差し戻して、それを僕のベッドに陣取ったままの武蔵に渡す。僕に思いつく毒物混入予防策はこれぐらいだ。武蔵はそれでも躊躇っていたが、結局は食べた。

 

 響が赤城に場所を譲って、武蔵の隣に移動する。何だか奇妙な並びになったな、と僕は思った。人質交換みたいだ。しかも四人ともベッドに腰掛けて、無言でカレーをつついている。何処か超現実的にも感じられる。現実感のなさがひどいという意味で。僕にこれがリアルだと教えてくれるのは、武蔵と赤城が一定の距離内にいる時に限って僕を襲ってくる、胸の痛みだけだ。お陰で食事だというのにリラックスも何もない。こんなに気の休まらない食事をしていると、天龍、長門、僕、不知火先輩の四人で食事をした時のことを思い出してしまう。でも今日の方が神経には来る。少なくとも天龍たちと食べた時には、次にまばたきをした瞬間誰かが誰かに襲い掛かるのではないかと心配する必要はなかった。

 

「貝はアサリか」

 

 スプーンで貝をすくった武蔵が、馬鹿にするようにぼそりと言った。やめて欲しい。それに赤城が反応する。本当にやめて欲しい。

 

「何か?」

「私ならムール貝にする。野菜を増やし、ライスも白米よりサフランライスにして、ルーにはナッツペーストを入れ、地中海風に仕立てた方がうまい。オリーブオイルを使うことを忘れるな」

 

 こいつ戦時下にいいもの食べてるなあ、と僕は現実逃避することにした。赤城が「炊事班に伝えておきましょう」と流してくれたのがありがたかった。こんなことで対立されたら皮肉も出ない。僕は味のしないカレーを食べ終えた後、赤城の先導の下に部屋を移った。武蔵と二人部屋だった。ベッド二つ、テーブル、椅子四脚。収容所暮らしの長かった僕には贅沢にさえ思える部屋だ。同居人さえいなければ。僕は胃が痛くなるのを感じて、二つ並んだベッドの一つに座って頭を抱えた。赤城が立ったまま話し始めた。「数日中にこちらの準備が整います。今はのんびりなさっていて結構。ただし、お二人とも、いつでも動けるようにしておいて下さい」僕も武蔵も返事をしなかったが、彼女は気にする様子もなく「では響、後を任せます」と言って部屋を出て行った。くそっ、結局こっちの勢力を強めた後で何をするかについての話はなかったな。荷物を取りに行こうとしていた響を呼び止めて聞いてみる。

 

「響、僕を使った後で赤城が一体何をするつもりなのか、知らないか?」

「すまないね、私はその辺りのことには関わってないんだ」

「ああ、でもグループのカウンセラーをやってるんだろ? 何か聞いてないのか?」

「いや、聞いていないよ。仮に聞いていたとしても、教えなかっただろう」

 

 響は腕を組み、守られるべきプライバシーを冒そうとした僕をたしなめるような目で見てくる。ばつが悪くなって僕は下を向き、「悪かった」と謝った。小さな友人は彼女が生来持っている鷹揚さと寛容さによって「いいさ、今の君の立場では仕方がないよ」と、得がたい許しを与えてくれた。彼女が去るのを待って、武蔵に話しかける。僕の口舌は彼女のことを褒めるどんな言葉も吐き出すことを拒むが、それでも武蔵は融和派の専門家だ。融和派駆除の専門家と言った方が彼女としては好ましいだろうけれど、何にしたって赤城たちのことを僕より知っているのは確かなのだ。僕よりも答えの近くにいて、しかもこちらの問い掛けに応じてくれる赤城のグループのメンバーではない相手が半径数百メートル内にいるとすれば、それは武蔵以外にあり得なかった。

 

「君はどう思う」

 

 勧める前に、彼女は僕の隣に座った。僕は咎めなかった。最低限の距離は開けてくれていたし、無闇にべたべたしてくることもなかったからだ。彼女は形のいいあごを人差し指の腹で撫でながら俯いて考え込む格好をして、ゆっくりと答えた。

 

「赤城の目的は講和だ。深海棲艦を戦争に勝たせることじゃない。そこは疑わなくていいだろう。この期に及んで生き残った時点で深海棲艦の勝ちみたいなものだが、私個人の意見は捨て置くとしようか。だとすると、必要なのは次の三つだ。勢力、窓口、切っ掛け。この内、勢力はお前が与えてくれる。窓口は切っ掛けさえあれば作れる。だがその切っ掛けが難しい。今から何らかの草の根活動をしていくのは無理だ。排撃班がいるし、時間もない。だから恐らく、赤城の計画はただ一度きりの……機会を見計らい、持てる全てを投げ打っての大博打になるだろうな。私に分かるのはそこまでさ。この程度、全く何も分かっていないようなものだが、助けになったかい?」

「たった二文字の単語を発音するだけのことにどうしてこんなにも抵抗があるのか分からないけど、うん」

 

 武蔵がふざけもせず、嫌味も言わなかったので、僕は彼女の言葉をきちんと信じることができた。よし、赤城が大博打的な計画を持っていると仮定しよう。彼女の計画にはいつもそんな要素が混じっている気がするが、どんな方法でだろうと不運を排除することだけはできない以上、いかなる計画も運頼みの部分があると言えるから、多少の不確定要素の存在には目をつぶらざるを得まい。赤城には何がある? 世界唯一の男性艦娘、手足となって戦ってくれる融和派艦娘たち、自分自身、融和派深海棲艦。ダメだ、この方向からのアプローチでは推測できそうにない。

 

 思考転換しよう。()()()()()ではなく()()()()()()を考えるのだ。誘拐、テロ、ビラ撒き──融和派がよくやると考えられているのはこの辺だが、これが何かの足しになるとは思えない。ああ、それとテレビやラジオの海賊放送もあるな。今は懐かしい研究所の食堂で、深海棲艦との共存や相互理解は可能だと説く赤城の姿がテレビに映っているのを見た覚えがある。あの時はろくに気にも留めなかったが、それは仕方ないだろう。深海棲艦と僕らの仲睦まじい映像を流して世間にアピールする? 愚かな考えだ。作り物だと断じられるのが関の山だろう。僕についてだってそっくりさんとか特殊メイクとか、何とでも言い訳はできる。僕だってそうだが、人間の心は弱い。僕らはしばしば、誤った常識を正して苦しむよりも、非常識な真実を弾劾して安穏と生きる道を選んでしまう。正しいことをさせるには、何も全員とは言わない、大衆の大多数が一目で「認めるしかない」と思うような何かが必要なのだ。もし納得させることさえできたなら、彼らはどのようなこともやるだろう。僕が論を立てるまでもなく、歴史がそれを証明しているではないか?

 

 ドアの外から足音。響が戻ってきた。思考を中断し、今ばかりは再会の祝杯に意識を傾けようと決める。ドアを開け、数本のボトルやつまみが入った手提げ袋とグラス類を受け取った。テーブルの上に三人分の用意を並べ、武蔵を呼ぶ。彼女は誘われるだなんて思っても見なかった、というような顔をしたが、真っ先にグラスが二つ並んでいる方の席を取った。これで僕が響と隣同士になる目は潰された訳だ。僕は渋面を作ったが、もちろんそんなことで何かが変わる筈もなかった。武蔵と向かい合うようにして座り、まさに直前まで冷凍庫に入れられていたと分かる強い冷気を放つКазначейская(カズナチェイスカヤ)の瓶のふたを開けて、まず響の、次いで自分のショットグラスに注いだ。武蔵のは最後にしてやったが、これが自分のできる最大の仕返しと思うと情けなくて涙が出そうになる。

 

 よき伝統の通り、響は難しい質問を発した。「何に乾杯する?」素早く武蔵が答えた。「再会に」文句はない。響や赤城との再会、そして武蔵との再会。僕にはここ暫くで沢山の再会があった。「再会に」僕と響は唱和し、グラスをあおった。喉を氷のような液体が通り過ぎていく。食道を焼かれる感触に、思わずむせてしまった。涙を拭って、後味を楽しむ。すっきりとした、古きよきクリスタルな味わいだ。甘みは僕の好みよりも控えめだが、量を飲むならこっちの方がいい。響が右手の指でこめかみを押さえながら、左手の人差し指でテーブルをとんとんと叩き、それからその指を立ててくるくると回した。武蔵が咳き込みながら言った。

 

「今のロシア語を通訳してくれないか?」※121

「みんなにもう一杯注いでくれってさ。僕がやるよ」

 

 さっきと同じように、ウォッカを注いでいく。響は最初の一杯の強いショックから回復して、小さなナイフでつまみとして持ち込んだ黒パンの塊を切り落としていたので、今度は彼女のグラスへと最後に注いだ。「僕にもくれ」と言って三枚ほど貰う。武蔵が笑って訊ねる。「さて、次は何に乾杯するんだ?」彼女の目はこちらを向いていたが、視線を合わせないようにしていると、響が苦笑しながら「では」と言った。時間稼ぎをしてくれるようだ。ありがたい、と思ったのも束の間、彼女は僕をじっと見ながら宣言した。「艦娘の中の黒一点、深海棲艦の救い主にして私の旗艦、そして海軍排撃班の友に乾杯しよう。どうだい、武蔵?」響が武蔵をさん付けで呼んでいないことに気付く。「ふふ、それはいいアイデアだな……ようし、さあ乾杯だ。お前に!」「君に!」「乾杯!」

 

 翌朝、僕は寒さによるくしゃみで目を覚ました。僕への乾杯以降記憶がなく、バスルームの浴槽内にいて、上半身が裸だったので心底震え上がったが──上着は浴室のタオル掛けに汚れのないままで掛かっていたので、安心して二度寝した。


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