[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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Home is the sailor, home from sea:
船乗りは海から家へ帰ってきた

Her far-borne canvas furled
遥かに旅した帆布をたたんで

The ship pours shining on the quay
船はこの世の宝物を

The plunder of the world.
波止場に燦然と輝かす


Home is the hunter from the hill:
狩人は山から家へ帰ってきた

Fast in the boundless snare
無数の罠にしっかりと

All flesh lies taken at his will
望みのままに あらゆる獣

And every fowl of air.
あらゆる鳥を捕まえて


'Tis evening on the moorland free,
果てなき荒野に日は暮れて

The starlit wave is still:
星の照る波は穏やかだ

Home is the sailor from the sea,
船乗りは海から家へ帰ってきた

The hunter from the hill.
狩人は山から家へ帰ってきた


──アルフレッド・エドワード・ハウスマン※122



「Home is the sailor」-1

 赤城は彼女自身が言った通り、それから数日後に僕らへ声を掛けてきた。最初の一日二日で響の本を粗方読破してしまい、この小さな目ざとい親友が何処かから手に入れてきたチェス一式でどうにか退屈を凌いでいた僕は、未知を恐れるよりもむしろ死に至りかねないと思わせるほどの退屈から逃れられる喜びを強く感じた。赤城が僕と武蔵の部屋を訪れたのは、夜のことだった。響は毎日、彼女の仕事が終わると僕を訪ねて来てくれていたので、その時部屋には僕と武蔵、響の三人がいた。女性二人は卓上のチェス盤を差し挟んで座って向かい合い、僕はその脇にいて盤上を眺めていた。驚いたことに、響と武蔵は初日の出来事を通じてそれなりに打ち解けていたのである。そして僕は、あんまりこのボードゲームが弱いものだから、二人の試合を見てお勉強中、という訳だった。

 

 ここで重要な問いだ。どちらを応援するか? けれどその答えは決まっている。付き合いの長さで比べても、個人的な好意の大小で比べたとしても、響しかいない。なので僕は少々露骨すぎるほど響に味方した。そうは言っても知恵を貸す方向での加勢はできなかったので、ただ応援しただけだったが、それだけでも武蔵と響の試合を白熱させることはできたようだった。形だけのノックの後で、応答を待たずに入ってきた赤城が何か言う前に武蔵は平手を突き出して彼女の言葉を封じた。それから素早く自軍の駒の一つをつまんで動かした。響はそれを見て声を出さずに口を動かしていたが、やがて軽く両手を挙げて降参の意を示した。「今回はこちらの負けのようだね」と響が言葉を付け加えると、武蔵は歯を見せて笑い「私はいつも勝つのさ」と傲岸不遜に言い放った。僕は自分が負けた時よりもずっと悔しく感じていることに気付いたが、そのことに特別驚きはしなかった。

 

「もうよろしいですか?」

 

 痺れを切らしたような声で赤城が訊ねてくる。僕は頷き、響は挙げていた両手を下ろした。武蔵は椅子に深く座り直して、頬杖を突いて「好きにしろ」という態度を取っている。赤城は一つ頷くと喋り始めた。

 

「明日の昼には用意が整います。そのつもりで準備しておくように」

「準備って、どんな準備さ」

 

 具体的に何をするのかも分からないのに、何に備えることができるというのだ、という意味合いを込めて、赤城に尋ねる。彼女は僕の言葉にやや気分を害したらしく、鬱陶しそうな顔をして「そうですね、遺書でも書くというのはいかがですか」と答えた。随分と投げやりな上に敵対的な態度だが、彼女の目元がこすったように赤らんでいるのを見て僕は納得した。ここ暫く寝ていないようだ。よいことではない。トップが寝不足になるのは、グループの構造に何らかの問題がある証拠だ。断じて、勤勉さの証などではない。

 

 赤城も自分が今どんな状態にあるのかは分かっているようで、僕が何か言う前に「失礼」と短く謝ってから「とりあえず、今晩はアルコールを控えて下さい。それから、それがもしあなたの助けになりそうなら、遺書を作っておいた方がよいでしょう」と言った。今度は敵意からではなく、本当に純粋な意見として言われたことだったので、僕は不快には思わなかった。武蔵が、普段から悪い目つきを更に悪くして赤城に問うた。

 

「何をするつもりか知らんが、そんなに危険なのか?」

「ええ、それについては保証書付ですよ。さて、明日のことについて、そろそろお伝えしておいた方がよさそうですね。もう彼自身からお聞きになったと思いますが、彼はほぼあらゆる深海棲艦と正常に意思疎通することが可能な、唯一の艦娘です」

 

 一斉に三人から視線を向けられて、僕は面食らった。注目を浴びるのは好きじゃない。広報部隊にいた時には仕事だからって割り切って頑張ってたが、今はプライベートだ。でも居心地の悪さを我慢するだけの理由がここにはあった。赤城は話を続けた。どうも彼女は僕にもう一度、大規模作戦の折にやったことを繰り返して欲しいらしい。つまり深海棲艦と、連中のやり方で意思疎通をして説得して欲しい、という訳だ。けれど困ったことに、僕にはそれができる自信がなかった。何しろ、自分で意識してその能力を行使した訳ではない。こっちからしてみれば、何だか知らない間に発動したようなものだ。再現性があるかどうかと聞かれたら、消極的な態度を取らざるを得ない。

 

 もちろん赤城は僕のそういった態度をも予想していた。というか、だからこそのこの数日だったらしい。融和派深海棲艦(ややこしいな。赤城は『深海棲艦融和派』で、彼女のグループに属する深海棲艦たちは『融和派深海棲艦』だ)を秘密裏に呼び寄せて、彼女らの力でどうにかするそうだ。僕は電話を連想した。掛け手()から交換手(融和派)を介して受け手(主戦派)に繋ぐ訳か。何となく納得はできた。が、そんなことよりも問い(ただ)したいところがあった。僕が説得? 僕が交渉をするのか? 笑えない冗談はほどほどにして欲しい。愛想笑いも疲れるんだ。僕は艦娘であって、外交官じゃない。戦えと言われれば戦おう、そして勝つか、さもなくば戦いの中で死んでいこう。だが、交渉? そんなのは習ったこともないし、話術に特別な自信がある身でもない。まさか、深海棲艦は下手くそなユーモアが大好物、ということもないだろう。

 

「ちょっと待ってくれ、赤城。舌先三寸でどうにかしろって言われたって、僕には無理だ。相手を怒らせるだけでいいならともかく、説得なんて」

「交渉だなんて難しく考えるからそうなるんですよ。女の子たちを口説くんだと思ってごらんなさい」

「アドバイスどうも、気が楽になってきた気がするよ。世界の敵で、重武装した、口の利けない女の子たち──口説くのに失敗する要素なんて一つもないな。正気か?」

「ご心配なく、あなたに補佐を付けようと思う程度には正気です……幾ら私でも、何も知らない子供を戦場に放り込むような真似はしません。何か他に言いたいことは?」

「君はひどい奴だ」

「何を今更」

 

 それにだけは同感だった。軍を抜けてからというものの、僕の周りにはろくでもない連中ばかりだ。武蔵にせよ赤城にせよ、自分の目的の為に僕を利用しているだけで、そこには相手に対する敬意というものが欠けている。これでもし響がいなかったら、僕は心を病んでしまっていただろう。赤城は誰からもそれ以上の言葉が出ないことを確かめると、さっさと部屋を出て行ってしまった。僕はベッドに寝転がって、大きな溜息を吐いた。やたらと落ち込んだり、気を揉んだりするのはやめよう。それは僕の状況や気持ちを好転させない。ぐだぐだと思考を低回させ、答えの出ない問いに悩み続け、時間を無駄にするのも嫌いではないが、今日やることではない。

 

 補佐を付ける、と赤城は言った。まず出てくる疑問は二つだ。誰を? どうやって? 赤城やその他の融和派艦娘が、ということはないだろうから、明日来るというその深海棲艦、あるいはその深海棲艦()()の内の一人が手伝ってくれるのだろう。そうすると、僕の自尊心に気を使いでもしたのか赤城は「補佐」という言葉を使ったが、恐らく僕のやることはほとんどないのではないだろうか。ぐっと気分がよくなった。まだ確定情報ではないが、望みは大きそうだ。赤城も僕の懸念をはっきり否定してくれればいいものを、きっと状況次第で僕の役割をどうとでも変更できるように言わなかったに違いない。それに文句はつけられないので、僕としては自分が望み通りのお飾りになれるよう祈るだけだった。

 

「いよいよだね」

 

 響がチェスを片付けながら僕に言った。そろそろ自室に戻るつもりのようだ。寂しくなるが、また明日も会えると思えばそれは耐えられる。「早く何もかも終わらせたいよ」と僕は彼女に答えた。何もかも終わらせて、軍に戻り、除隊して、明日の夜もまたベッドに戻れるかどうか考えなくていい生活を思い出したい。僕はそれをすっかり忘れてしまっていた。たった三年前だ。僕の人生の六分の一の時間だ。それだけで僕の頭から、かつて僕が考えていたことの大半を占めていた様々な下らない思考が一掃されてしまった。将来の仕事のこと、クラスメイトたちとのこと、明日の授業の時間割、苦手な科目と先生、女の子たちのこと(いや、これだけは訂正しておくか。女の子たちについて考えるのは率直に言って人生を懸けるに値する素晴らしい試みである)……ほとんど全部だ。

 

「終わるかな」

 

 響は不安げに呟いた。彼女をそんな気持ちのままにしておく訳にはいかない。「何が?」と訊ね返すと、彼女は正確に自分の感情を言い表すことのできる表現を探すように口ごもり、やがて諦めた風な口ぶりで「戦争がさ」と言った。難しい質問だ。戦争が現代的なものになる前から、それがいつ終わるのか、より誤解を招かない言い方を使うとすれば「いつ終わったことになるのか」は多数の戦争経験者が抱く疑問だった。戦争はいつ終わるのか──争い合う勢力同士が、交戦状態の解除に同意した時? その戦争を経験した人々が最後の一人まで死んだ時? 一度その沼に足を踏み入れた者は、死によってでしかまとわりつくその汚泥を清められないのか? そうなのかもしれない。

 

 戦争は人間を変えてしまうという。自分も変わってしまったか、と自問する必要はない。僕は変わった。入隊前の僕と今の僕は、まるで別人だ。十五の坊やは制服と艤装を手に入れて、大喜びで世界の旅へと出かけた。徹底的なスキンケアで日焼けはしなかったものの、訓練や艦娘になったことで体つきもある程度がっしりとしたものになり、目つきだって物騒になった。昔の、広報部隊にいた頃の写真と比べてみてもいい。一目で分かる。あの頃の僕はまだまだ民間人みたいなものだったからな。それは広報部隊だからって訳じゃなくて、経験が浅くて今よりも子供だったってだけのことだが。

 

 僕は想像する。望んだ形で戦争が終わり、平和が戻り、自分が除隊する日のことを。私物は箱詰めして宅配業者に運ばせておき、最低限の手荷物だけ持って懐かしの我が家に帰る。とぼとぼと道を歩き、かつて学校に通っていた頃、何度も繰り返し使った近道を辿って家に戻っていく。僕は我が家に着く。扉の鍵は開いている。ドアノブを掴み、ゆっくりと引き開ける。その音を聞きつけた、今日が僕の退役日だと知って集まっていた親戚たちの一人が出てきて、僕を見る。そして言う「あら、どちらさまですか?」周りの誰にも僕のことが分からない。そこに母がやって来て、僕を一目見るや叫ぶ。「ああ、お前、私の息子! よく帰ってきたね!」※123うーん、涙が出そうだ。僕は昔からこういうのに弱い。

 

 ふと見ると、武蔵が読み終わった響の本を再読していた。

 

「なあ、武蔵。君は戦争が終わったらどうするんだ?」

「え、私か?」

 

 そんな話が自分に向けられるとは露ほども思っていなかったのか、驚きの色が隠し切れずに薄く残っている表情のまま、武蔵がこちらを向いた。彼女らしくないミスだ。あえてやったのかもしれない。僕は気付かなかったように装い、微笑んで頷いた。「君みたいな人間が平和な世間で何をするのか、聞いてみたいんだ」武蔵は前に向き直って、つまらなさそうな顔で答えた。

 

「ここに来る前とそう大して変わるまいさ。軍か警察で相も変わらず融和派を追っかけてるのが目に浮かぶ」

「だが融和派は……ああ、危ない方のな」

 

 納得した。融和派というのは赤城たちみたいなタイプの連中だけではない。世間が「融和派」という言葉に抱くイメージを醸成した、テロリストとしか言いようのない奴らもいる。そういうグループが終戦後に解散することはないだろう。「融和派であった」ということで裁かれることはないにしても、人を誘拐して身代金を要求したり、爆弾を仕掛けたりしたことまでは無罪にならないからだ。

 

 長い戦後になることだろう。それでも、戦中よりはマシだ。戦争が終われば、艦娘の家族は戦死の通知に怯えながら暮らさずともよくなる。艦娘たちは絶え間ない死との闘争を終えることができる。家に帰れる。「響はどうする?」片付けも終わり、自室に戻ろうとして立ち上がった響に、今晩最後の話題を振った。彼女は答えるのに、考える時間を必要としなかった。「大学に行くつもりだよ。まあ、一年か二年は勉強しなくちゃいけないだろうけどね」「僕はその前に高校だ。男でよかったよ。卒業する頃には二十歳を過ぎてる、セーラー服はキツいだろ?」無理のある姿をした自分たちを想像して、僕らは笑った。

 

 響が出て行くと、武蔵は僕が仰向けに寝転がっているベッドに腰掛けた。丁度、僕の腹の横に尻が来ている。僕は彼女を払いのけようとはしなかった。前にもう試して、無駄だと分かっていたからだ。力でも技でも敵わないなら、諦める他にない。もちろん、受け入れた訳ではなかった。人間には誰しも「特別親しい誰かを除いて、他人にこれ以上近寄られたくはない」と思う距離がある。僕にだってそうだ。武蔵はそれを無視している。いや、あるいは、彼女はそんなものがあるということさえ知らないのかもしれない。どんなに早くても艦娘になれるのは十五歳からなのだから、それまでの人生で学んでいて当たり前のことだとは思うのだが、何にでも例外はあるだろう。

 

「あっさりやめてしまうつもりらしい。軍や艦娘に未練はないようだな?」

 

 彼女は僕の方へ傾けた体を、ベッドに突いた片手で支えながら質問した。僕が答えないでいると、顔を近づけて目の奥を覗き込もうとしてきたので、それは彼女の額を指で押しやって防いだ。僕は小さな気恥ずかしさを感じながら、軍での時間が決して悪いだけのものではなかったことを告白した。

 

「みんなと働くのは楽しかったよ。出撃の度に僕か誰かが死ぬかもって思って神経をすり減らしてたけど、それはそれとしてね。けど、必要とされてもいないのに軍や艦娘にしがみついているつもりはないさ」

「じゃあ、私にしがみつく気はないか? 忘れているなら思い出して欲しいんだが、私はお前を必要としているんだ。しかも赤城と違って『まだ』じゃないぞ。『いつでも』だ」

「ああ、そして君にはその理由が分からないんだろう。君に分からなきゃ、僕にも分かる訳がない。分からなけりゃ、そいつは()()のと同じだ。理由もなしに自分の人生を左右しようとは思わない」

「私の“理由”の有無にお前の人生を左右させるつもりなら、私がお前を好いていて、愛していて、病める時も健やかなる時も傍にいて欲しいから、と言ったら満足するのかい」

「そうしたいのか?」

 

 武蔵は笑って答えなかったが、彼女が僕を男性として好いている筈がないということは分かっていた。それこそ理由がない。そもそも、今日にいたるまで多くの人格的欠陥を露わにしてきた武蔵が、そういう真っ当な感情を持っているのかも怪しいものだ。どうひいき目に見たとしても彼女にとっての最大の愛情なるものは、幼児期の子供がお気に入りの人形やおもちゃに向けるような、激しい嵐にも似た一過性のものであって、幾分か成長して思春期に入った子供たちの燃え盛る炎のような愛や、成熟した大人の優しさに溢れた、温かな愛とは違うだろう。武蔵の愛着は僕をばらばらに引き裂いて、殺してしまうだけのものでしかない。事実、僕が収容所に入れられていた一年の間に武蔵が荒れたせいで、赤城は僕を彼女の手に渡さなければならなくなり、お陰で僕は陸軍排撃班に殺されかけたのだ。

 

 僕がどうやっても彼女になびかないのを見て、武蔵は面白くなさそうに鼻を鳴らした。が、たちまちにやにや笑いを取り戻して、僕に囁いた。「それじゃ、私も高校に通うか」「おい、冗談だろ」「冗談なもんか、大真面目さ」僕は、武蔵の今の姿と艦娘になる前の彼女の姿とには大きな隔たりがあるだろうという事実を無視して、目の前にいるままの彼女が高校生らしい服を着ている様子を想像してしまった。かなり……無理があった。僕は言葉と言葉の間に笑いの発作を挟みながら尋ねた。

 

「じゃあ、君、セーラー服みたいなのを着るのかい、そいで、プリーツスカートとか履いちゃって」

「ああ、そうだ。何だ、そんなにおかしいか?」

「武蔵、これは僕の善意からの言葉だと思ってくれよ──君は今のその恰好をしてる時が、一番(さま)になってるぜ。その……(ここで僕は彼女が身にまとっているものを服と呼んでいいものか躊躇した)……服で通えばいいさ」

「そりゃいい。登校初日から学生指導室行き間違いなしだ。最高の高校デビューになるな」

 

 違いない。でも、相手は武蔵だ。指導員の先生方も可哀想に。一体誰に武蔵を指導できるって言うんだ? 元艦娘でさえない連中が何を言おうとも、彼女の耳には届くまい。だって、現役艦娘に言われてさえ馬耳東風の(てい)なのだから。彼女は揺るぎない自己を持っている。そこについては僕も認め、受け入れ、称賛せずにはいられない。武蔵ほど我の強い生き方をするのは、容易いことではないのだ。僕などには、模倣してみようかという気持ちすら湧いてこないほどである。それだけに、ただただ彼女の人間性だけが、ひどく残念に思われた。

 

 ぼんやりと「武蔵は到底、戦後を生きていけないかもしれない」と考える。彼女が何歳か知らないが、戦前生まれではないことだけは確信を持って断言できる。これは彼女が同じ人間であるという前提に基づく為、その前提が最早有効ではない場合には意味のない確信ではあるけれども、今のところ武蔵が人類とは異なる種族であると判断するどのような材料もないので、十分に確からしいと宣言してもよいだろう。彼女は戦中に生まれ、戦中に育ち、軍に入って、戦争という血反吐で作られた底なし沼に、つむじまですっかり潜ってしまった。武蔵に比べれば、僕などはその沼の(へり)で足を投げ出し、ちゃぷちゃぷと飛沫やさざなみを立てて遊んでいた程度の存在でしかない。

 

 だが一方で彼女は、その中で生きてきたのだ。それがどんな意味なのかを考えても、辞書がその収録している語に与えるような、ぴたりと合致した定義は思いつかなかった。僕に分かっていたのは、彼女は僕の知らないこと、知らないでもいいことを知り、見なくてもいいものを見て、僕が幸運にも経験せずに済んだ運命を耐え忍んできたのだということだけだった。そしてそんなことは、今になって気付いたことではなかった。

 

 僕は彼女の目を見た。そこには僕がずっと嫌ってきた輝きが、まだへばりついていた。それが何故僕にここまでの嫌悪をもたらしてきたのか、理解できなかった。武蔵は悪人だ、それは認める。性格も悪い、間違いなくそうだ。僕を殺しかけた、それも二回も。もし天国と地獄が実在すれば、彼女は地獄に落ちるだろう。これらに疑いを差し挟む余地はない。でも僕は「だから彼女を嫌ったのか」と自分に尋ねられると、首を捻ってしまうのだった。死にかけたことについては怒っているし、彼女の人を嘲る悪癖は気に入らないが、深く嫌うほどではないように思うのだ。ところが僕は現実に彼女のことを好きになれなかった。僕は彼女の目の中に、常に、絶え間なく、何かを求める光を見出してしまう。それがこれまで僕の気に食わなかったのである。

 

 が、たまに彼女の目からふい、とそんな(ともしび)が消えることもあって、そういう時の武蔵なら僕はそこまで嫌に思わなかった。それどころか、その(あか)りのない武蔵を見た回数が増えるにつれて、とうとう僕は彼女のことをじわじわと尊敬し始めたのである。ここでの尊敬とは、一般に使われる意味での尊敬とはまた少し違う。好意とも一緒にして欲しくはないし、まして信頼などでもない。だが信用には近いところがある。あいつはどうも相当しっかりした奴だぞ、と思うようになったのだ。僕の道理で動いてくれはするまいが、彼女の道理に沿って考える限り、彼女はそれを裏切らない。それこそ、僕が先に褒め称えた彼女の揺るぎない自己の発露ではないだろうか。僕は彼女のそんな精神性を羨んで、それに惹かれているのかもしれない。

 

 僕は寝転がったまま、彼女の二の腕を軽く叩いて言った。

 

「武蔵、君がもし本当に望むなら」

 

 彼女の口が動こうとするのを、指一本立てて押し留める。

 

「高校の受験勉強、手伝ってやってもいいぞ」

「お前、頭かち割ってやろうか?」

 

*   *   *

 

 艦娘だって人間だ。病気をすることもあるし、時にはそれが体ではなく心の病だということだってある。広報部隊にいた頃に、睡眠導入剤が手放せないという艦娘と会ったこともあるし、その逆に薬を飲んでいないと眠ってしまう、という厄介な症状を持っている艦娘と会ったこともある。だが僕は、基本的には健康そのものだ。身体的にも、精神的にも。そりゃ、寝つきの悪い時がない訳じゃない。ひどい夢を見て飛び起きた経験だって持ってる。けどそんなのは、誰にでもあることだ。それこそ兵士や艦娘でない、会社勤めの大人たちにだって起こり得る程度のことなのだ。原因だって大抵は思い当たる。極度の疲労か、過度の心的重圧。大別すれば大体そのどちらかだ。中には「寒いからって毛布を重ねすぎた」とか、そういう笑えるものもある。

 

 そういうきちんとした意見を持っていたお陰で、僕は武蔵に頭をかち割られかけたその晩、豆電球一つ分の光の下で、自分が眠れないでいることに気付いても慌てはしなかった。「いよいよだね」と響は言った。そうなのだ。いよいよだ。明日、すぐに戦争が終わるとは言わない。けれど明日は、その為の更なる一歩を踏み出す日である。僕は今自分のいるここが何処だか知らない。太平洋の孤島か、日本列島の中の何処かか、はたまた大陸か。気にもならない。何処でもいいのだ。僕が知っているのは、そして気になっているのは、まさに明日、極東の島国で生まれ育った一人の少年が、世界中の沿岸国家と深海棲艦との戦いを終わらせる上で、計り知れないほど大きな役割を担うということだ。人類史上、かくも多数の人々が、かくも少数の人間によって恩恵をもたらされたことがあっただろうか。※124

 

 そう考えると──考えるべきではなかったのだが──心臓がきゅっと音を立てて引きつった気がした。ベッドの中で布団を頭から被り、目を閉じていると、自分の胸の中で激しく脈打つものがあるのが感じられた。ここに響や隼鷹、那智教官がいたら、慰めて貰ったり、励まして貰ったりすることができたろう。生憎と、今日彼女たちはここにいない。いるのは褐色の悪魔だけだ。耳を澄ませると僕の鼓動音に紛れて聞こえてくる規則正しい寝息は、彼女がリラックスした状態にあることを示している。羨ましいものだ、僕だってできることなら彼女みたいに「明日何が起ころうと知ったことか」という態度を取りたかった。つついて起こしてやろうか、と悪巧みをして僕は微笑んだが、命惜しさに実行はしなかった。

 

 アルコールのことを考える。部屋には響の持参品が置きっぱなしだ。グラスはないが、グラスがないと飲めないなどと言うほど僕はお上品ではない。が、赤城はアルコールは避けるように言っていた……くそっ、僕には一杯の酒と平和な世界を引き換えにすることができないらしい。酒を飲んで寝るのはなしだ。睡眠薬代わりの寝酒は健康に悪いとも聞いている。うん、飲まなくて正解なのだ。一人酒なんてのも寂しいしな。それにきっと響の残していったボトルの中身はとても酸っぱくなっているだろう。※125

 

 思考のせいで余計に眠気が遠ざかってしまったことを自覚して、長く息を吐く。このままここにいても、眠れそうにはない。被った布団を剥がし、上半身を起こして、何か手はないか探してみる。響は温かいお茶を飲めるようにポットや電気ケトルなんかを置いていってくれた。マグカップもある。お茶を淹れて飲むか? いや、カフェインが安眠に役立つという話は聞いたことがない。ただのお湯を冷ましながら飲んだ方がまだ足しになるだろう。いっそ夜通し起きていようかと血迷いそうになったが、明日の昼、僕が徹夜のせいでふらふらしながら赤城の前に姿を現したら、彼女はきっと大喜びはしてくれまいと思うと、多分やめておいた方が賢明だ。

 

 となると、後は寝られない原因であるところの精神的重圧に打ち勝てるほどの、しかし不眠や悪夢の原因にならない段階の肉体的疲労を、作為的に己へと与えるという方法だけが頼みの綱だった。でも部屋の中での運動は避けたいところだ。腕立て腹筋も無音では行えない。そして僕には武蔵を起こすかもしれないという危険を冒す度胸がなかった。以上を勘案して、僕は散歩をすることにした。外出を控えるようにと言った手前赤城は気に入らないだろうが、彼女だって僕が明日、目の下にひどい()()を作っているのを見つけるよりかは、深夜徘徊している僕を見つける方がいいと思う筈だ。それに部屋の時計が教えてくれる時間は、これならもう赤城が寝ていてもおかしくない、と僕に思わせてくれた。まあ、彼女が寝ていたって歩哨や警邏程度はいるだろうが、たとえ見つかったっていきなり撃ち殺されることはないだろう。

 

 慎重に布団を抜け出し、ベッドから降りる。部屋のドアへと近づく前に再び武蔵の様子を伺うと、彼女は寝返りを打ったせいで素肌の肩が毛布の庇護下から出てしまっていた。外気に触れて冷えるのか、手を当てている。僕は自分の毛布を掴むと、武蔵の体にそっと掛けてやった。彼女の毛布を掛け直してやってもよかったのだが、それをすると起こしてしまいそうだったのだ。武蔵はもぞりと一度動いたが、目を覚ます様子はなかった。排撃班の班長も気を抜いたらこんなものか、と小さな勝利さえ感じながら、僕は寝巻きのまま部屋を出た。

 

 廊下はドックに行く為に通った時と比べると暗かった。時間帯によって、明るさを落としているようだ。そうすることで、ずっと拠点にこもっていても時間感覚なんかが失われないようにしているのかもしれない。艦娘ではない本物の潜水艦でも、似たような配慮をすると聞いたことがある。足元が見えなくなるような暗さではなかったので、僕はのんびりした気分で散歩を始めた。変わり映えしない廊下を、こつりこつりと微小な音を立てて歩く。階段を上がったり、下りたりする。時々、巡回中の警邏の足音が聞こえてきたら、やり過ごす為に隠れ場所を見つける。繰り返す内にそういうことが楽しくなってきて、また見つからなかったことで気が大きくなって、僕は段々大胆になり始め、とうとう馬鹿なことをしでかした。わざと物音を立ててみたのである。

 

 すると何処に潜んでいたものやら、あちこちから警備が駆けつける音が聞こえてきて、予想外の大反響に僕は慌てて逃げ出さなければならなかった。何処をどう走って見つからずに自室近くの廊下まで戻って来られたのか、思い出そうにも思い出せない。僕は荒い息を整える為に、廊下の壁に体を預けてしゃがみこみ、膝を抱えて俯いた。肝を冷やしたが、お陰で疲れは溜まったようだ。これなら、寝ることも不可能ではないだろう。やれやれ、明日の夜はこんなことしなくても普通に眠れるといいのだが! 息を整え終わり、立ち上がろうとする。だがその前にぞくりと怖気が体に走った。頭を持ち上げると、そこには疲れた顔の赤城が立っていた。右手には通信機を持っている。そして彼女は左手で顔を覆った。

 

「はあ、やはりあなたでしたか……部屋から出ないようにお願いしたつもりでしたが。私の頼みは聞く気にもなれませんか?」

 

 僕が答えられないでいると、彼女はどうでもよさそうに「まあ、いいでしょう」と呟いて、通信機の向こうにいるのだろう哨兵たちに「解決しました。配置に戻りなさい」とだけ言った。僕は彼女がそうしている間に立ち上がっていたが、そのまま駆け出して部屋に立てこもりたかった。そうしなかったのは、赤城の目が油断なくこちらに注がれていたからだ。これでは最初の一歩か二歩を行ったところで襟首を掴まれ、引き倒されて終わりだ。あっちが僕を殺そうとしているのでもない限り、無駄な抵抗はしないこと。これは僕が今までの人生経験から作り出した、物事を丸く収める為のシンプルなルールの一つだった。

 

「こちらに」

 

 言われるがままに、赤城に付いていく。武蔵のいる部屋から遠ざかっていくことを不思議に思ったが、僕はその疑問に「知るか、どうとでもなれ」と答えてやった。僕らはそれなりに長い間廊下を無言で歩いていたが、やがてある部屋の前で赤城は足を止め、懐から鍵を取り出し、開錠してドアを開けると、一歩脇へと退いて「中へどうぞ」と言った。その言葉に従うのは虎の巣穴に身を投げ込むようなものだと思ったけれども、巣穴の主が脇にいてはその場を辞することもできなかった。部屋に入ると、二つ並んだ執務机が目についた。ここは赤城の仕事部屋らしい。どちらの机にもファイルや何かの資料と思しき本が積んであり、更にその二つの机の片方では、今も誰かがその山と積まれたものを相手に奮闘しているようだった。それは紙をめくるぺらぺらという音や、ペンを走らせる音が僕に教えてくれたことだったが、ドアの音に一呼吸遅れてそれも止まった。続いて電の声がした。

 

「それで、何だったのですか?」

「彼でした」

 

 僕の後に入ってきた赤城が簡単に答えた。電は溜息を一つ吐いて言った。「だから外から鍵の掛けられる部屋にするべきだと言ったのです」「あら、これから協力して貰おうという相手を監禁しろと?」「おかしいですか?」今しかないぞ、と思って僕は割り込んだ。「いいや? 面白い意見だ」これには電も動転したらしい。どうして、と言おうとして舌を噛んだ。僕は他人の気持ちを察するのが下手な男だが、舌を噛んだ時の痛みに共感することぐらいはできる。痛いし情けないしで最悪だよな。分かるよ。でもそこで大げさに同情をあらわにすると挑発的になるので、お大事に、とコメントするだけに留めておこう。相手の気持ちが分からない分、敬意を払うことを忘れてはならない。

 

 幾ら僕のことを嫌っていると言っても、その鼻先で「監禁してしまえばよかったのに」と言っておいて平気ではいられなかったらしく、電は気まずそうな沈黙の中に閉じこもってしまった。彼女は武蔵や長門を見習ったらいいのでは……いや、やっぱりやめてくれ。その素直さは、失われるのを見過ごすには余りにも惜しい。僕が電の本質的な直情性というか精神的な歪みのなさを称えていると、赤城は咳払いをして電に仕事をやめて休むように言いつけた。彼女は遠慮も逆らいもしなかった。恐らく、この場から別の場所へ行ける赤城からの命令ならどんなものでも喜んで受け取っただろう。

 

 電が行ってしまうと、赤城は手で執務室の片隅にあるソファーとテーブルを示した。奥に一人掛け、間に四角くて背の低いテーブルを挟み、手前に三人掛けだ。ここで何らかの応接でも行うことがあるのだろうか。作戦会議をするとか? 僕は想像を膨らませながら、手前のソファーに腰を下ろした。一方で、融和派のリーダーはその立場らしからぬ行いに出た。お茶を淹れ始めたのである。香りでハーブティー、つまりカフェインレスだと分かったので、僕は安心した。何のハーブを使っているのだろう。息を吸い込んで、確かめてみる。この僅かな枯れ草の匂いは……「アマチャヅルか。いいね」「驚きました。よくご存知で」「広報部隊にいた時に飲んでたんだ。当時の旗艦から教わってね」岩礁での戦闘以前でも、僕のような厄介者にさえ優しくしてくれた榛名さんを思い出して、顔がほころぶ。

 

 アマチャヅルのハーブティーは鎮静作用があり、不眠を筆頭としたストレス性症状に効く他、不安なども抑えてくれるという。赤城がこれを選んだのは偶然ではないだろう。また、僕に振舞ってやろうという予定があったのでもないのにそれが用意できるということは、彼女が普段からこれを飲んでいるということなのだろう。どうしてどうして、人間的じゃないか。僕は長門や武蔵、赤城のような連中のことをしばしば、僕の知っている人間とは全く違う何か別の生き物ででもあるかのように思ってしまう悪癖があるから、こういう「彼女たちは僕と同じ人間なのだ」ということを思い出させてくれる出来事はありがたかった。これで今後、赤城が僕に凄んできたとしても、僕は恐怖の余りに失禁しながら「でもこいつアマチャヅルのハーブティー飲んでるんだよな」と考えて、彼女をこっそり矮小化してやることができる。

 

 淹れられたお茶のカップを受け取って、一口すする。アマチャヅルにしては少し甘みが強い。苦さを消す為に、砂糖を一つまみ入れてあるのかもしれない。同じものを持った赤城が横を通って、一人用ソファーに座った。何となく座り直して、赤城の言葉を待っていると、彼女は僕をちらりと見て「怖いですか」と訊ねてきた。頷く。怖くない訳がない。かつて、第四艦隊や第二艦隊にいた頃、僕は僕の命にだけ責任があった。第五艦隊の旗艦になると、責任を持つ命の数が六倍に膨れ上がった。それでも僕は優秀な二番艦や気心の知れた友人たちに支えられて、どうにかやってきた。で、今はどうだ? 明日、僕が左右する命は何個になる? 誰にそれが計算できる? 第五艦隊の十倍や百倍では済まないかもしれない。千倍万倍でも追いつかないかもしれない。

 

 明日僕が一つでもしくじって台無しにしてしまったら、それが意味するのは、何千何万の第五艦隊が壊滅するということなのだ。誰かにとっての那智教官が死に、誰かにとっての響が死に、誰かにとっての隼鷹が死ぬということなのだ。もっと恐ろしい考えもある。死ぬということは自動詞的な事象だ。それは目的語を取らず、主体それそのもののみで十分に発生し、作用する。が、「『誰か』のせいで死ぬ」場合、それは「『誰か』に殺される」と言い換えることも可能である。従って、もし僕が明日失敗したら、僕が何百万の教官と響と隼鷹を殺したことになるのだ。自分で考えていてもいささか妄想症じみているとは思うが、そこには単に笑い飛ばしてしまうことのできない重みがあった。

 

「怖い」

 

 僕がその言葉を口に出すことを、僕の子供らしいプライドは止められなかった。今こそその本領を発揮して止めて欲しかったのだが、この恐怖心に打ち勝てる自尊心の持ち主になるというのもそれはそれで嫌なことである。

 

「逃げ出せるものなら逃げ出したいさ」

 

 彼女も性格がいいと言える人物ではないにせよ、武蔵と違って嫌味や当てこすりを好んで言ってくることのない赤城に対しては、素直に弱音を吐くことができた。お茶をもう一口すする。大分、飲みやすい温度になっていたので、口をつけてカップの三分の二を流し込んだ。その様子を見ながら、赤城は「しかし、あなたは逃げ出さない」と答えを知っているように言った。僕は頷いた。逃げない。僕は艦娘だ。逃げ出したりしない。艦娘は逃げないのだ。僕らは迫り来る脅威から無力な人々を守る最後の砦、最後の盾、最後の一線。もし敵がこの身の守りを抜けたなら、その向かう先は罪のない人々である。退くことはできない。僕らは前進する。戦って勝利し、どんなものでも掴み取る。

 

 僕は、艦娘の自分が好きだ。恥ずかしがりもせず、臆面もなくそう言う自分が好きだ。己がどうあるべきかを何の迷いもなく信じている自分たちが好きだ。艦娘でないものにはなりたくない。この戦争を生き延び、退役の日が来て、妖精たちの処置を受けて民間人に戻ったとしても、心さえ変わらなければ艦娘のままでいられる。けれど体が今のままでも、一度心が変わってしまえば、その男はもう艦娘じゃない。

 

 それに、と僕はちょっと冷静になって考えた。少なくとも挑戦すれば、可能性はある。逃げたら成功率はゼロだ。分の悪い賭けだし、何か仕組まれているのかもしれないが、それでも舞台に上がらずに演じることはできない。怯えと恐怖で吐き気を催したとしても、やり遂げればこっちの勝ちだ。公共の利益を考慮する時、僕個人の感情など、一考にも値しない。もちろん、僕は「どうして僕が?」「誰か他の奴ではダメなのか?」「僕が責任を取らなければならないのか?」とみっともなく震えるだろうが……それはそれとして、正しい選択が下されなければならないのだ。

 

 お茶の効果なのか、明日への恐怖は薄れ始め、僕は東洋的な心境に至っていた。「しょうがない」という諦念だ。世界には人間ごときには抗えない何らかの不可避かつ不可視の力が存在しており、人にはそれを受け入れるしかない時があるものだ、という、運命論的な境地だ。僕の普段の理性に対する傾倒からすると、これは驚くべき自暴自棄だった。だがまあ、何でもいい。やるべきことをさせてくれるなら、どんな思想にだって染まってやる。決意して、カップの残りを飲み干した。

 

「お代わりは?」

「いや、いい。ありがとう。そろそろ部屋に戻って寝るよ。時間さえあればもっと話してもよかったんだが、分かるだろ、明日の昼には……あれ?」

 

 断りと礼とを言いながら、カップをテーブルに戻し、立ち上がって辞去しようとして、体の異変に気付く。手足が重い。頭がふらふらする。何だこれは、と言おうとしても舌が回らない。やっとの思いで赤城に目をやるが、彼女はそ知らぬ顔でお茶を飲んでいる。それで分かった。飲み物に何か混ぜられたんだ。甘みが強かったのはそのせいか? 足から力が抜けて、ソファーに座り込む。だが平衡を保てず、すぐに寝転がる形になった。「赤城」彼女の名を呼ぶ。囁き声が精一杯だった。赤城はこちらに目をやった。

 

「この、野郎……!」

 

 彼女はくすくすと楽しげに笑った。

 

*   *   *

 

 研究所の食堂は今度も誰ともつかない人々で盛況だった。

 

 天龍は本日のランチセットが載ったプレートを二つ持ってくると、僕の前の席に腰を下ろした。彼女は言った。「久しぶりだな。ほらよ、お前の分だ」受け取って、卓上に置き、天龍とそれとをまじまじと眺める。せっかちなところのある天龍らしく、僕がプレートを薄いテーブルの上に置いた時には既に、メインの和風おろしハンバーグを箸で一切れ切り取って食べていた。彼女は口の中のものをしっかりと咀嚼し、喉を鳴らして飲み込んでから、「んー、あっさり目ってのも割といいもんだな」とこれまで彼女が持っていたハンバーグに対する意見を少し訂正した。その時にも僕はまだ眺めていた。ようやく天龍はこちらの様子に気付いた。「おい、冷めちまうだろ。折角持ってきてやったんだから温かい内に食べるのが礼儀だぜ」彼女は経験の浅い駆逐艦たちをたしなめる際に彼女が使うような、落ち着いた響きの声でそう言った。僕は質問しようとした。

 

「天龍、君は……」

「死んだ。お前の中にいる。これは夢みたいなもんだが、夢じゃない。お前のやろうとしてることに生き返りそうなぐらい反対だ。何だよ、これでもまだ言いたいことがあんのか?」

 

 聞きたいことを先回りして全部答えられてしまった。が、これで引っ込むのもちんけなプライドが許さない。さっき、恐怖を口にすることを止められなかった自尊心ではあるが、存在しない訳ではないのだ。何か言ってやらないことには気が済まない。身振りで彼女の箸使いと食事作法の細やかな流麗さを示して「随分とお行儀がいいんだな」と言ってやる。すると彼女自身も総体としての天龍……天龍という艦娘のイメージにそぐわないのでは、と思っていたところでもあったのか、しかめっ面になった。僕の意地が彼女を不機嫌にさせたのだ。先に謝るべきなのがどちらか、僕は知っていた。

 

「ごめん、ここ暫く性格の悪い奴と一緒にいるもんだから。こっちにまで感染しちゃったみたいだ」

「どうでもいいけどよ、冷めるぜ」

 

 言われて、僕もランチセットに取り掛かる。天龍を見習って一口大に切ったハンバーグにおろしを乗せ、口の中に運んだ。「うまいな」「だろ」この短いやり取りの後、暫く僕たちは無言で食事を続けた。プレートの上に載っているのが水の入ったコップと空の食器だけになると、天龍は満足そうに背伸びをした。そろそろ、話をするタイミングだろう。水を口に含んで舌と唇を湿らせると、僕は切り出した。

 

「今度はどういうつもりで現れたんだ?」

「さっき言ったろ、もう忘れたのかよ。お前のやろうとしてることをやめさせたいんだよ、オレはな。他の奴らはそうじゃないみたいだが、あいつらは腑抜け、座って黙って見てるだけで、オレの邪魔なんてできやしねえ連中さ」

 

 彼女は背もたれに寄りかかって、腕を振って辺りを示した。僕は目だけ動かして見た。いる。あちこちにいる。大規模作戦の時に見た、あの艦娘たちだ。魂だけになってなお、かつて存在した苦しみのない海を取り戻す為の戦いに己を捧げようとしている、死んだ英雄たち。中には天龍をきつい視線でにらみつけている者も多いが、射殺さんばかりの目で見られている当人は歯牙にもかけない様子である。

 

「前にも言ったと思うけどな、オレは戦争が大好きだ。単に危ないのが好きなんじゃないぜ。それならもっと危ない仕事だって世の中にはあっただろうからな。

 

 オレはあの一か八かの瞬間が好きなんだ。撃ち合ってる時、奇襲された時、鎮守府や泊地の食堂でニュース見てる時、ベッドで寝転がってる時、どんな時でもいい。頭の横を砲弾が掠めて飛んでいくような、足元を鼻息荒く魚雷が過ぎ去っていくような、すぐ近くで爆発した爆弾の破片が奇跡的にどれも外れるような、一日後や一秒後に自分や自分の友達が生きているか確信が持てなくなるような、今の自分が死に際のオレが見ている夢なんじゃないかと疑ってしまうような、そういう一刹那が好きなんだ。

 

 そういう一瞬一瞬に、オレの命や、幸福や、不幸や、情熱や……自分の一切合財をすっかり搾り取られていたかったんだ。何故って、それは分かってる筈さ。その時だけ、オレたちはそんな時だけ──オレもお前も、周りでこっち見てるあいつらだってそうだし、もっと言えば艦娘じゃない連中、民間人でさえそうなんだよ──ちゃんと目を覚ましていられるんだ。神経が研ぎ澄まされ、生の一秒一秒をはっきりと捉えられる。命の意味が分かる。言葉や思考じゃない。それこそ魂に刻まれる。

 

 それはただ漫然と生きているだけじゃ絶対に手に入らない体験なんだ。戦争の中にいないと分からない。だからオレは戦争が大好きだし、終わって欲しくないと思う」

 

 僕は彼女の言葉を理解しようと努めた。不可能だとは分かっていたが、それが義務だと思ったからだ。たとえそのこと自体を楽しんでいたとしても、彼女は長門と僕の為に死んだのだ。彼女の愛する戦争という舞台で踊ることを、途中でやめさせてしまった。もしあの時、彼女を助けるのが間に合っていたらどうなっていただろう? 長門が負傷していなかったら、奇襲がなかったら、別のルートを通っていたら……仮定の話は無限に広がる、意味のない不毛な思考だ。だが「それでも」と思わずにはいられなかった。

 

「じゃあ、君はこう言いたいのかい? 平和はいらない、戦争を長引かせろ、それが自分の参加できない戦争であっても、そのことで守るべき人々や僕らのよき友人たちの中に、数え切れない余分な死人が出ようとも、と?」

 

 天龍が拳でテーブルを叩いたので僕はびくりとしたが、彼女の顔を見てその恐れは驚きに、そして疑問に変わった。彼女は自分の中にある何かを僕に伝えようとして、もどかしそうに喉をかきむしり、やっとのことでそのつらそうな声を張り上げた。

 

「違う! オレだって艦娘だ! 戦いの為だけに、好き嫌いの為だけに戦争を続けろと言ってる訳じゃない! 考えてみろ、これは完成された、やろうと思えば永遠にだって続けられる平和なんだ! ……この中にいるから、オレもお前も命がどんなものか理解していられるんだ。

 

 戦死者(犠牲)は出続けるだろうが、この戦争が終わらない限り、その理解も続くんだよ。歴史を勉強していないのか? この戦争が起こるまでは、いつでも戦争の原因になったのは命が、生きているってことがどんなものかってことを知らない連中とか、それに関する誤った解釈の持ち主だった。後者は防げない。だが前者だけでも世の中から消し去っていられたら、どれだけの命が救えるか。

 

 分かるか? 今、オレたちは完璧な調和の中にいるんだよ。お前がやろうとしていることは、それを壊すことでしかない」

 

 僕たちは互いの視線を絡ませあった。天龍の目は何処までも真っ直ぐで、見つめ返すのがつらくなるほどだった。でも、僕は力を振り絞って、彼女から目を逸らさなかった。天龍が言っていることには頷ける部分もある。この戦争は、人類が長年抱えていた同族間での組織的殺し合いという病気を、地球上からほとんど駆逐してしまった。そんなことをやっている場合ではなかったからだ。人々は昨日まで憎しみ合っていた隣人と、手と手を取り合って生きていくことを学ばなければならなかった。お陰で今、世界の大半は平和を謳歌している。日本のような島国や海と面した国でなければ、わざわざ義勇軍に身を投じでもしない限り戦争を肌身に感じるのは精々物資の貧弱さに触れた時ぐらいで、それだって種類が少ないということはあっても量が足りないということはないのだから、至って平和なものなのだ。

 

 だがこの戦争が終わったらどうなる? 十年後はいい。二十年後、よかろう。三十年後、四十年後、五十年後──僕が生きている間ぐらいは人類がとうとう到達した極致、相互信頼を前提とした理想社会を保てるだろう。一世紀も経てば、人類は忘れてしまうに違いない。何故なら、全世界極限状況下において人々が育んできた絶対の信頼は、あの雰囲気、あの環境なしに言葉だけで教えられるようなものではないからだ。そうなればまた人類は身内同士で殺し合うようになるだろう。僕が守ろうとした人々の子孫は、敵味方に分かれて撃ち合うようになるだろう。もしかしたら、僕の子孫たちと僕の友人の子孫たちが、戦場で互いの血を混ぜ合わせるようになるかもしれない。

 

 誤った二分法に陥っている、と言われればそれまでだが、道は限られているように思われた。融和派たちが望んでいるようにこの戦争を終わらせるか、天龍の言う通り続く限り続けさせるかだ。でも、どちらが正しいんだ? 僕が俯いたことで迷いを感じ取ったのか、天龍は静かに言った。

 

「お前にとってはどっちも同じぐらい正しく思えるんだろ? なら、比べるだけ無駄だよ。お前がどうしたいかで選んだらいいんだ。望まない選択だけはするなよ」

 

 なら、答えは決まっていた。僕は利己的な男だ。何処までも利己的な奴だ。自分と、自分の周りのことを考えるだけで限界なのだ。それ以上のことを考えようとすると、途端に怖くなってしまう。僕は友人たちを、まだ生きている人々を守りたい。その後のことはその後のことだ。今、僕らの目の前にあるものから守りたいのだ。この戦争から。なら、止めないでいる訳には行かなかった。隻眼の軽巡は言った。

 

「オレのとは違う答えを選んだみたいだな」

 

 彼女が身じろぎすると、腰の刀がかちゃりと音を立てた。天龍は目を落とし、また目を上げて好戦的な笑みを浮かべた。僕は思わず、かつて自分のナイフをぶら下げていた場所に右手をやった。指がある筈のない柄に触れた。僕はナイフを持っていた。天龍は笑った。

 

「フフフ、怖いか?」

 

 そして僕らは同時に動き出した。天龍は座ったまま刀に手を伸ばし、テーブルごと抜き打ちに斬りつけようとした。僕はテーブルの(へり)を蹴飛ばした。蹴るのがもう少し遅かったら、僕はすぱりと一刀両断にされていただろう。この夢とも現実とも知れぬ場所で死んだらどうなるのか分からないが、大抵の場合、何処にいても死ぬのはヤバいものだ。死ぬ夢を見た結果として心臓発作を起こすことだってあり得る。

 

 テーブルに押さえつけられて、天龍の抜刀は遅れた。僕はその間にテーブルを飛び越えて掴み掛かっていた。天龍の座っている椅子ごと倒れ、彼女の胸倉を掴んだまま、勢いのままに床を転がる。がん、と頭をぶつけて視界がぶれる。しかもマズいことに、僕が下になった。天龍の手が首に掛かる。周りにいる艦娘たちは止めようとする気配もない。何故だ? 天龍の手を首から引き剥がそうとするが、彼女が締めつける力ときたら、まるで万力のようだ。天龍は軽巡であって、僕より力は弱い筈なのに。頭を打ったのが影響しているのかもしれない。

 

 絞首の苦しさに思わず、押し殺された悲鳴が出る。天龍は全力で僕を絞め殺そうとしている。彼女の脇腹を殴っても、首を絞める力は緩まない。収容所で吊るされた時のように、視界が暗くなり始めた。僕は……僕は意識して行動しなかった。体が動いたのだ。

 

「ぐっ!」

 

 僕の上で天龍が呻いた。あれほど強く締めつけられていた喉が解放され、むせそうになりつつも僕は左手で天龍を突き飛ばした。右手に握ったナイフの柄から、刃が彼女の脇からずるりと引き抜かれる感触が伝わった。彼女は僕から二歩離れたところに倒れたが、生きており、一突きされた程度でやめるつもりはないらしかった。鞘に納めたままの刀を杖として立ち上がろうとしている。僕も立たねばならないが、今は酸素が必要だった。やっと動けるぐらいに回復した時には、天龍はもうほとんど立ち上がった後だった。刀を抜こうとするところに掴みかかる。立つので精一杯だったのか、さしたる抵抗もなく、刀をもぎ取ることができた。それを脇に放り捨てて、彼女の胸にナイフの刃を向ける。「終わりだ。大人しくしててくれ」と肩で息をしながら僕は言った。天龍は笑って首を横に振り、言った。

 

「いや」

 

 そして彼女は僕を強く、固く抱きしめた。その行為は、当然の帰結として、彼女の胸に僕のナイフの刃を沈み込ませた。恐怖に僕は叫んだ。「天龍、君は何を!」「()()()終わりだ。まあ、周りを見ろって」彼女の言葉に、この避けることができた筈の悲劇を止めようともしなかった、あの薄情な艦娘たちの姿を探す。けれど彼女たちはそこにいなかった。そこにいたのは、僕の知る限りの深海棲艦たちだった。僕と天龍は、深海棲艦たちに囲まれていた。彼女たちは僕らの一挙手一投足を見守っていた。赤城め! 僕は叫びだしたくなった。こんなに激しい怒りを覚えたことはなかった。あの女は、僕を薬か何かで眠らせておいて、その間に勝手にことを進めたのだ。天龍は僕の耳元で囁いた。その声は、胸を刺し貫かれたにしては奇妙なほど、普段と変わりなかった。

 

「オレはお前を止めたかった。腑抜けどもは深海棲艦たちを仲間にしたかった。だから、オレたちは取引をしたんだ。オレのお前を止めようとする試みの全てを邪魔しないことと引き換えに、もしお前が意志を変えなかったら、こうするっていう取引をな」

「どうして彼女たちはそんなことを」

「想像力を使えって。お前らの目論見通りになったら深海棲艦たちはどうなる? 昨日までの友軍同士で殺し合うことになるんだぜ。その覚悟を決めさせるには、こっちだって本気だってことを、同族殺しの覚悟ぐらいあるってとこを見せなくちゃならなかったんだよ。それ以外の話し合いは、そっち(融和派)の仕事さ」

 

 天龍の足から力が抜けていく。僕は彼女を床に落とさないように、体を支え、座らせた。僕を抱きしめる彼女の腕の力も、徐々に衰え始めている。天龍の声は、彼女が二度目の死を間近に迎えていることを示していた。彼女はぜえぜえと息をして、短く区切らなければ話せなくなっていた。

 

「これから、先、何があってもさ……そう自分を、責めんなよ。お前一人の、責任じゃないんだ、からな……」

 

 とうとう、天龍の腕は僕の背中を撫でながら落ちた。荒い息遣いだった彼女は、一際深く息を吸い、喉を鳴らして笑った。

 

「こんな風に終わる、なんて、思ったこと……なかったぜ、そうだろ?」

 

 僕は答えられなかった。

 

*   *   *

 

 目を開けると、ベッド脇の椅子から身を乗り出してこちらを覗き込んでいる赤城と目が合った。僕は彼女を殴りつけようとしたが、手が寝台側面のフェンスに縛り付けられていて、動けなかった。

 

「まあまあ、そう怒らないで下さい。黙って薬を入れたのは謝ります。でも、びくびくしながらその時を待つより気楽だったでしょう? 説得は『成功した』そうですよ、離島棲鬼が──彼女があなたの“補佐役”だったんですが──そう言っていましたから。よかったですね」

「拘束を解いて、響を呼んでくれ」

 

 赤城は僕の反応を特に疑問に思った様子もなかった。寝起きで、自分がどれだけのことをやったかについて、まだ理解が及んでいないのだとでも考えているのだろう。

 

「申し訳ありませんが、彼女は多忙なんです。私で我慢していただけませんか?」

「じゃあ武蔵を。それと、戻って来ないでくれ。当分君の顔は見たくない」

 

 彼女は憮然とした表情で部屋を出て行き、僕が頼んだ通りのことをしてくれた。武蔵はすぐに来て、類稀なる彼女の洞察力で、僕が何をして欲しいかを察してくれた。横にいてくれたのだ。黙って、とは行かなかったが、それはまあいい。彼女のお陰で僕は孤独と喪失の内、前者だけは免れることができた。でも後者は──喪失は、いつまでも僕の中にあるだろう。


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