[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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通りで兵士の行進する音がする
僕らはそれを見に出て行く
一人の兵士が振り返る
振り返って僕を見る

友よ、この大空は広すぎるから
僕らは以前に会ったことなどなかったろう
世界の端と端とはあんまりに離れているから
これからまた会うということもないだろう

僕と君の胸の内を
止まって語らうことはできないが
死んでいようと生きていようと、酔っていてもしらふでも
兵士よ、君の幸福を祈っている!

──アルフレッド・エドワード・ハウスマン


「歴史的補遺」

「この海域は確保しました、中佐。輸送艦隊は安全に通行できます」

 

 無線機の向こうにいる司令官にそう告げる。だが帰ってきた彼の声は無慈悲なものだった。

 

「輸送艦隊は来ない」

 

 失った右手で頭をかきむしろうとして、それができないことに思い至り、溜息を吐くと同時に口の中の血を吐き捨てる。「艦隊は海域を確保しました。輸送艦隊は通行できます」頭の傷から流れ出てきた血が、目に入りそうになる。頭を振って散らすが、その拍子にバランスを崩して倒れてしまいそうで怖い。「もう一度言うぞ、輸送艦隊は来ない。彼らは想定外の事故で引き返した」返事をせずに無線機を切り、肩を落とし、俯いて呟く。「現役最後の任務だぞ。それで、これか?」首をもたげて、水平線を眺める。その向こうに誰かが現れてくれたらといつも願っている。不思議なことだ。嫌っていた相手でも、いなくなると寂しい。思えば彼女は、ある面でまっすぐな女だった。

 

 隣に来た僚艦が、こちらを見て心配そうに優しい気遣いの言葉を掛けてくれる。僕は相槌を返し、訊ね返す。

 

「ああ。君こそ、大丈夫なのか?」

「不死鳥だからね」

 

 僕は「そうだな、響」と認めて、また水平線を眺める。太陽と線との距離を見るに、研究所に帰る頃には夜だろう。夕食を食べ、隼鷹辺りと一杯引っ掛けて、朝を迎える。海軍で過ごす残り僅かな日々の、貴重な朝を。響が静かに言う。「また探しているんだね」「ああ」と僕は答える。「探さなくても、必要になればあっちから現れるんだろうけどな」「まだ生きていると?」「あれが死んだと思うのか?」響は答えないが、言いたいことぐらい分かる。僕たちは友達なのだ。

 

 武蔵は──人類と深海棲艦が一定の友好関係を結ぶ切っ掛けとなった一年前のあの日、姿を消した。誰も彼女を見なかった。沈んだところを見た者もいなかったし、一人で何処かへ去っていく姿を見た者もいなかった。霧のように忽然と消えてしまったのだ。赤城は、死んだのだろうと言った。「彼女とて生きた艦娘、人間ですから。撃たれれば死にます。軽巡棲姫と相打ちにでもなったのでしょう」と彼女は、それを自分でも信じているような口ぶりで言った。けれど僕は信じなかった。だってあの武蔵なのだ。彼女は殺すことを嫌わなかったが、殺されることまで嫌わなかったとは思えない。そして誰であろうと、彼女が本気で嫌がっていることを強要することのできる存在などあり得ないのだ。だからか、僕はあの戦い以来海に出ると、彼女の姿を何処かに探している自分を見つけてしまうのだった。未練のようなものなのだろうか。人の人生を散々振り回しておいて、勝手に何処かへ行ってしまった彼女に対する。

 

 考えてみると、そうなのかもしれない。たった一年で世の中はあっという間に変わってしまった。赤城の目論見通りの世論を国民が作り、政府を動かし、軍を動かした。お陰様で、戦争は終わりへと進んでいる。提督は昇進して吹雪秘書艦と共に研究所を去り、今は僕が嫌悪感を催すようなあらゆる薄汚い政治ゲームに夢中とのことだ。僕にはどう頑張ってみても彼女がそのゲームに負ける姿が見えてこないので、退役したらさぞかし高額の年金を貰うことだろう。後任は提督子飼いの中佐殿が務めているが、彼を提督と呼ぶ気にならないので、僕はもっぱら中佐と呼ぶか、司令官と呼んでいる。これも奇妙なことだ。あれだけ手の平の上で弄ばれ、ひどい目に遭わされて、なのにそんな風に義理立てしているみたいな態度を取るというのは。でも時間が経つと、本当に色々なことが変わっていくものだ。

 

 たとえば、赤城は非合法な融和派グループのリーダーから、深海棲艦の意志の代弁者となった。要するにスポークスウーマンだ。僕を使って自分の影響下に収めた深海棲艦たちと人類を結ぶ窓口を一手に引き受けているというのだから、日夜忙殺されているに違いない。だが、それこそ彼女が望んだことだったのだから、それもまた本望なのではないだろうか。赤城が目下対処しようとしている最も大きな問題は、土地についてだ。深海棲艦を何処に住まわせるか、深海棲艦の国を作るのか、既存の社会の構成員として受け入れるのか、その両方を並行して行うのか、全く新しい道を探すか……解決には十年単位で掛かりそうなものである。電はまだ彼女の右腕としてあちこち飛び回っているらしいけれど、過労死にだけは気をつけて欲しいものだ。

 

 那珂ちゃんはとうとう世界的アイドルになった。人類と深海棲艦が極東で手を組んだというニュースは全人類を驚かせたものだが、その時にあの歌の一件も漏れなく報じられたからだ。彼女は栄えあるこの世の救い主として祭り上げられたが、広報部隊に彼女ありと謳われるようになった青葉によれば、実力で勝ち取ったものではない為、非常に不満を感じているのだという。ただ機会は機会であって、世界の疲れた人々に歌で活力を与えるチャンスと見て、精力的に活動をしているそうだ。サイン済みのブロマイドが入った直筆の手紙も届いた。僕を……興奮して躍り上がりそうになることだが、僕をアイドルとして成功することができた理由の一つだと言ってくれていた。僕がいたからこそ、何くそ負けるかという気持ちでひたむきに頑張れたのだ、と彼女は書いていた。僕は逆立ちしたって彼女に太刀打ちできる存在などではないのだが、那珂ちゃんが以前に送ってくれた手紙にあった通り、僕をライバルだと考えていてくれたなら、ファンとしてこれよりも喜ばしいことはない。

 

 手紙やブロマイドの入っていた封筒には、ライブへの無条件入場許可証なるものも同封されていたが、これは那珂ちゃんの古参ファンの一人として、僕の私物入れに封印させて貰った。世界に彼女のファンは沢山いる。僕はそういう人々と正々堂々、チケットを巡って争い、勝利して、ライブを見たいのだ。たまたま僕が那珂ちゃんと関わりがあったからって、それを使って苦労もなしに彼女のライブを見るというのは、いささか行うにたえない悪事であるように思われた。とはいえ言うまでもなく、那珂ちゃんの厚意自体には感動したものだ。いつか考えが変わったら、使うかもしれない。

 

 融和派深海棲艦と融和派艦娘が同盟者として加わったことで、日本海軍は最初こそ少々の混乱を避けられなかったが、それが終わると圧倒的な勢力を獲得した。誰にも疑問符をつけさせない、世界一の海軍力だ。法律も変わり、融和派であるというだけでは処罰されなくなった。また、軍縮も始まった。折角大勢力になったのに、と僕は思ったが、人々は戦後を見据え始めたのだ。それは素直に嬉しかった。戦後が来るのだ。きっと誰も、自分が生きている間に見られるとは思っていなかったものが、それが来る。国民の消費は増加し、経済は活発化した。雇用状況は良好だ。復員省の発表によれば、退役艦娘や退役一般軍人たちの働き口は足りないどころか、より取り見取りの引く手数多だという。他にも、企業は政府と軍に生産体制を戦時から平時へ変えるように働きかけているとか、内陸国から沿岸国家へ支援金が出されるなんてことをニュースでやっていた。後は、ベビーブームが近々訪れる見通しだそうだ。結構なことだ。僕もそのブームに乗りたかった。

 

 ニュースでやっていたのは国内のことだけではない。世界各国で深海棲艦と人類の融和が始まっていた。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ロシア、中国、韓国、インド、オーストラリア……今挙げられなかった国々でもゆっくりと、だが着実に、人類と深海棲艦は共に生きるということを学び、互いの関係をよりよいものへと変えていった。これは多くのことに当てはまることだが、ゆっくりやるのが、とどのつまりは最速の方法なのだ。

 

 そしてもちろん、変わったのは僕もだった。入隊当初は世界唯一の男性艦娘。後には人類の裏切り者にして脱走者。でも結局は僕が犯罪者だという記録は抹消され、晴れて無罪放免になり、称号も「人類と深海棲艦の融和に尽力した世界唯一の男性艦娘」になった。僕が実際にやったことと比べると、ややスケールダウンされた表現だ。

 

 これは提督と赤城が共謀して(というのは言いすぎだが、僕は彼女たちに対して公平でいるつもりはない。何があろうとだ)僕のやったことの幾らかを自分たちの手柄にしてしまったからだった。赤城は立場を強化できてハッピー、提督は昇進の陳情時に具申する功績が増えてハッピーという訳だ。その上、たとえ僕が何か言おうとも、今の彼女たちには僕を黙らせるだけの政治的な力があった。手に負えないろくでなしどもだ。僕は時々、武蔵の排撃班に加わって赤城と提督を始末していたら世の中の為になったんじゃないかな、と考えることさえある。でも、業績を横取りされたお陰でそんなに世間の注目が集まらなかったのだとすれば、感謝するべきなのだろうか。いや、それは胸がむかついてくる考えだ。本気にするに値しないだろう。

 

 政府と軍は深海棲艦たちの協力を得て、彼女らとのもっとはっきりした意思疎通方法を開発した。妖精たちの謎技術がここでも役に立ったらしいが、これで僕は完全に何の特別さもない、単に男だというだけの艦娘になってしまった。やはり世間が僕に関心を失ったのは、提督たちが業績を奪ったからのみではないのだろう。ま、いい。軍の研究員たちに体を刻まれたりする恐れもなくなったし。それに理性的に考えれば、注目を浴びたくないと考えるタイプの人間は、注目を浴びるべきではないのだ。提督や赤城のようにそうやって世間に認められたりして、何か成し遂げたい人物が脚光を浴びるべきなのである。だからって彼女たちがやったあれこれを許した訳ではない。今無防備な状態で二人が目の前に現れたら、僕はパンチをすると思う。腰の入った、強烈な奴をだ。それからマウントだ。現れた吹雪秘書艦と電に殺されるまでだ。

 

 融和の幕開けとなったあの日から約一年の間、僕は軍に残らなければならなかった。軍は、退役させて下さいと言って書類を出したら明日から来なくていい、という組織ではない。でも、きちんと書式を守った書類を、必要なだけ必要な場所に提出したら、必ず返事をしてくれる組織だ。可不可は別として。彼らは僕に一年待てと言った。僕はその言葉を信じ、彼らは前言を撤回しなかった。僕は明後日には退役だ。というか、第五艦隊全体がそうだ。軍縮が始まった時、僕らは一緒に退役の嘆願書を出したのである。そして今日は、輸送艦隊の通る海域を警戒、敵がいれば掃討して安全を確保するという、現役最後の任務に相応しい簡単なものだった。が、予想外の強力な敵部隊に鉢合わせた。それでも僕らは壊滅的なダメージを受けながら、一人の轟沈も出さずに乗り切った。ところがこれだ。輸送艦隊は来ない。何ともしまらない、第五艦隊最後の任務だった。即応部隊として活躍していた頃が懐かしい。最近では、全くその手の任務はなくなった。人類がそれだけ優勢だということだ。今日のは例外に過ぎない。

 

 水平線を見つめ続ける僕と、その横に立ち続ける響の許へ、隼鷹が近づいてきた。彼女は擦り傷と小さな切り傷だらけで、しかも海水でずぶ濡れだったが、明るい笑顔を見せて言った。

 

「何してんだよ、行こうぜ」

 

 その手は、僕と響を待っている利根、北上、そして那智教官を示している。不知火先輩は吹雪秘書艦の抜けた第一艦隊に異動となり、筑摩は僕が旗艦に返り咲くのと時を同じくして、宿毛湾の原隊に復帰した。利根と涙の別れをした時には、僕まで貰い泣きしてしまったのを覚えている。僕は艦隊員たちに微笑み掛けてから「待たせたな」と謝った。帰途に就きながら、自分の耳を触る。そこには第五艦隊に戻ってきた時に那智教官が返してくれた、僕のピアスがある。昔はそれを触る度に、離れ離れになってしまった利根と北上を思い出したものだ。今ではそこにもう一人の女が加わったが、彼女のことを思う時には、北上たちのことを思い出す時ほど心安らかにはならなかった。だがあの短い時間に彼女と交わした濃厚なやり取りを思うにつけ、僕の唇はあの亀裂のような笑みを模倣してしまうのだった。

 

 研究所に戻ると、思った通りに夜だった。僕は夕食をたらふく食べ、北上と利根には大酒飲みには付き合ってられないと逃げられたので、隼鷹と那智教官と響を誘って四人で飲んで、ほどほどのところで切り上げて寝た。北上たちに大酒飲みだと言われたのが胸に響いたからではなく、翌日は昼前から僕の叙勲式だったからだ。最近になって唐突にねじ込まれたので、僕はこれを提督と赤城による「色々と黙っているように」というメッセージであると解釈した。彼女たちを刺激するようなことをするつもりはなかったが、くれるというのだから貰っておこう。武蔵のセーフハウスに置きっぱなしだった、響が飛行機から転落した時に貰ったあの勲章も手元に戻ってきていたが、勲章は一個より二個あった方がいいものである。提督みたいなことを言っているなとは思うが、退役後の恩給も増えるし、壁に掛ける飾りにも最適だ。

 

 朝早くに迎えの車が来た。なんと陸軍からだった。僕と僕が無理を言って上に随行を認可させた隼鷹は、海軍が陸軍の手を借りることがあるものなのか、陸軍が海軍の足なんかを務めるなんてことがあるものなのかと思いながら、何も考えずに車に乗った。車が動き始めると同時に、僕の目はバックミラーに釘付けになった。僕も大概、肌の色が白い方だが、それに勝る色白の艦娘二人が運転席と助手席に座っていたからだ。それはあきつ丸だった。白い服を着たあきつ丸と、黒い服を着たあきつ丸だ。見覚えがある気がした。僕は言葉を失い、隼鷹の手をぎゅっと握って海軍本部までがたがた震えていた。

 

 海軍本部に到着して僕と隼鷹が車から降りると、あきつ丸たちも車から降りた。びくりとする僕を見ても、彼女たちはくすりともしなかった。代わりにびしりと決まった陸軍式の敬礼をしてからにやりと笑って、懐から布に包まれた何かを取り出して僕に渡し、車に戻って行ってしまった。「何さ、それ?」と隼鷹が言う。僕はその包みを開く。中には折れた刀を材料に使って作ったのだろう無骨な短刀が、鞘に入って収められていた。武蔵といい、彼女たちといい、排撃班は気に入った人物に刃物を贈る伝統でもあるのか? でも僕はちょっとだけほっとして笑い、隼鷹に「いや、何でもないよ」と答えた。彼女はそれ以上、何も聞かないでいてくれた。真に得がたい、本当の友人だ。

 

 叙勲式は大したことなく終わり、帰りの車は海軍が出してくれた。荷物の整理も済ませていたし、帰っても何もやることはなかったが、友人たちと話す時間があるというのは最高だ。話せなくったっていい。近くにいて、息遣いを感じるだけで安心する。そうだ、僕は戦争がほとんど終わったというのに、小さな恐怖を感じていた。十五歳で軍に入った。僕は今十九歳だ。希望する退役艦娘は特設の高校に通うことができるが、そんなことは今はいい。僕は軍の中で四年過ごした。四年、僕の知らない時間が軍の外で過ぎていった。今、僕は世間知らずだ。特設の高校に通っている間に、社会に慣れなくてはいけない。それが怖い。できるかどうか、自信がないのだ。

 

 響は大学に行くという。利根は特設高校に行くか、一般の高校に行くか迷っている。北上は大井と一緒に呉の特設高校へ行くらしい。教官は秘密だと言って、教えてくれなかった。隼鷹は知り合いから声が掛かっているそうで、軍をやめたら早速社会人として働くとか。僕は彼女が何歳なのか聞きたかったが、どうにか我慢できた。

 

 第五艦隊はばらばらになる。僕は一人になる。そうなってしまえば教官とも隼鷹とも響とも利根や北上とも、もう年に何回会うことがあるだろうか、想像もできない。親と別れて暮らすようになった時さえ、こんなに寂しくは思わなかった。彼女たちは僕の、経験で結ばれた姉妹なのだ。同胞愛と凄惨な経験によって絆を培った、親兄弟よりも深く結ばれた家族なのだ。両親が聞いたら怒るかもしれないが、僕はそう思う。引き止めたいと思う。一緒に高校に行こう、大学に行こう、就職先も一緒にしよう、と言いたくなる。けれど、僕はそうしない。僕は彼女たちの兄弟であり、友人だ。成功と健康を祈って送り出すのが僕の務めであって、自分の寂しさを理由に縛りつけるのは彼女たちが僕に惜しみなく向けてくれた友愛の情に対する裏切りだ。絶対にしたくないと僕が願う大逆だ。

 

 頭ではそう分かっているが、憂鬱な気分だった。僕は隼鷹を部屋に誘った。昼間っから飲もうぜ、という身もふたもない誘い文句で、断られても仕方ないものだったが、隼鷹はそうしなかった。多分、次に何が起こるか知っていたのだ。僕は施錠した自分の部屋に入ろうとして、うっかり開錠前にドアノブを捻った。そうすると、ドアノブは鍵が掛かっていない状態だということを僕に伝えてくれた。きちんと鍵をしたつもりだったのだが、朝が早かったから寝ぼけでもしていたのかな、と思いながらドアを開け、中に入る──途端に何本もの手が伸びてきて、僕を部屋の真ん中に押し倒した。僕は反射的に暴れ、僕を押さえつけようとする誰かの顔を殴りつけようとした。でもできなかった。それが誰だか分かってしまったからだ。那智教官、響、不知火先輩、利根、北上。第五艦隊のみんなだ。僕は笑った。陽気な悪戯だが、那智教官まで加わるとは思わなかった。

 

 が、笑いは固まった。那智教官と響が取り出したものがその理由だった。彼女たちはそれぞれ手にガストーチと、反転した“2.S.T.R.F.”と読める字の掘り込んである板をくっつけた二つの棒を持っていたからだ。それは、二特技研の艦娘であると認められた証だ。長門と二人で死地を乗り切ったあの時に、僕と隼鷹以外はみんな持っていると言われたものだ。隼鷹もまた僕の横に押さえつけられて寝転がる。「何処に押そうか?」響が教官に言う。教官が答える。「鎖骨の下にしよう。服を剥げ」遠慮のない手が、僕と隼鷹の服をはだけさせる。僕はこれから来る痛みと喜びに耐える為に、隼鷹へ手を伸ばす。彼女はその手をしっかりと握った。僕は彼女に微笑み掛けた。その瞬間、二つの痛みが僕を襲った。一つは鎖骨の下で肌が焼かれる痛み。もう一つは、隼鷹が握り締める僕の手に与えられる痛みだ。けど、僕だって隼鷹の手を痛めつけていたのだろうから、彼女に文句を言うことはできない。

 

 肉の焼ける臭いが立ち込める。押しつけられた板が外される。友人たちが僕と隼鷹に殺到する。那智教官は熱烈な抱擁を僕に与えてくれた。彼女は「これでずっと一緒だ」と囁き、親愛の情を込めて額に唇を押しつけてくれた。これに耐えられる男はいない。僕は自尊心など忘れて泣き出してしまったが、幸せな気持ちだった。利根と北上は彼女たちが押した場所を教えてくれた。利根は手首、北上は何ともはや、舌の上だった。べろりと舌を突き出した北上の姿は扇情的だったが、味覚に影響はないのかと思って訊ねると、特に問題はないらしい。そういうものなのか、と僕は変に納得した。響はいつものように、落ち着いた態度で僕と隼鷹を祝福してから、僕らがまだ手を繋いだままでいることをからかうように指摘した。僕らは笑って、手を離した。寂しさは嘘のように消えていた。

 

 その夜、僕らは現役艦娘人生最後の大宴会を開いた。まだ退役しない、または職業軍人の道を選ぶ第一・第二艦隊の艦娘たちや、夕張や明石さん、それに第四艦隊のひよっこたちも交えて行われたそれは、これまでで最も賑やかで楽しいものになった。伊勢は最後まで先輩らしい態度を貫き、僕や隼鷹の未来における成功を祈っていると言ってくれた。日向は大宴会の料理の大半を作ってくれた。伊勢と二人で退役したら、そういう道に進むそうだ。日向が料理、伊勢が接客だと言っていた。きっと人気の店になるだろう。長門は那智教官から離れなかった。ひどく酔っ払って教官を捕まえると、膝の上に座らせていつまでも抱きしめたままでいた。妙高さんは近々退役するつもりだそうで、手紙を送ってくれと言って実家の住所を教えてくれた。彼女には細々としたことから戦闘までお世話になったから、僕は死ぬまで折を見ては彼女に葉書や手紙を送り続けるだろう。不知火先輩は今晩に限って泣き上戸になった。先輩はこの評価を気に入らないだろうが、可愛らしかった。彼女の涙を拭った僕の袖を、切り取って保存するべきかと思ったほどだ。

 

 全てが素晴らしい夜だった。第五艦隊だけではない、僕らは、この研究所の艦娘たちは、みなが一つの家族だった。不和はあれども、絆もまたあったのだ。

 

 最後の一献が飲みつくされ、最後の一皿が片付けられた後、僕はふらふらになっていた。付き添ってくれたのは響だった。彼女も顔が赤かったが、僕よりは余裕が残っているようだった。響は部屋まで僕を導いてくれた。僕は礼を言って、部屋の水差しからコップに水を注ぎ、差し出した。響は言った。「何に乾杯する?」「武蔵に。あの性格破綻者の大戦艦に」僕の答えを聞いた響は、笑ってその後を続けた。

 

「いないと寂しい、私たちの友人に!」

 

 喉を水が通っていく。ぬるいが、飲酒の後には水分を取らなくてはならない。ベッドに腰を下ろす。終わった。明日、僕は海軍を去る。海軍での日々は終わる。退役する艦娘が多い為、艦娘の体から元の人間の肉体に戻るのは一ヶ月待ちだが、僕たちはみんな、短くない時間を過ごしたこの場所を離れるのだ。自覚はなくとも、その為にこそ、僕を含む艦娘たちは戦ってきたのではないか? だとすればこの胸の痛みは、理屈に合わないものだった。ただ僕は、自分の人生における、何か大切な時期が終わった気がしていた。こんな体験は、もう残りの一生、起こり得ないだろう。それがこの胸の痛みの正体なのだ。この推測が正しいかどうかは分からなかったが、僕は自分をそう納得させた。

 

 そのことに罪悪感や、もやもやとしたものを覚えることはなかった。分からないことなんて、沢山ある。たとえば、どうして教官は僕と同じように妖精なしで艤装を動かせたのか? 彼女は融和派との関わりなんかなかった。深海棲艦とも通常の艦娘として以上の付き合いはなかった筈だ。でもできた。僕はある時、勇気を出して教官に聞いてみたが、彼女も分からないようだった。ある時期を境にできるようになったらしいが、その明確な起こりがいつなのかは思い当たらない、と彼女は言った。嘘ではないだろう。まあ、答えを知りたいとは思わない。僕は艦娘であって、真実の探求者ではない。ちゃんとした理由はあるのだろうが、それが僕に関係してこないなら気にはしない。どだい、世界の全てを知ることなど叶わないのだ。想像してみるしかない事柄だって、ある。

 

 響と僕は二、三のどうでもいい言葉を交わし、響は「寝るよ」と言って戸口へ向かった。僕は彼女の背中を見送ろうとしたが、不意に響は退室しようと開けたドアを閉めて、悪戯っぽく言った。

 

「私の焼印、まだ見たいかい?」

 

 翌日、僕たち第五艦隊は軍の寄越してくれたバスで研究所を去った。乗客は僕らだけで、運転手は人間だった。あきつ丸じゃなくてよかった。中佐によると、まとめた荷物は後日、家の方に送ってくれるそうだ。家族のいない響はどうするのか、そもそも家があるのかと心配していたが、軍が、というより提督が用意してくれたと響本人から聞いた。彼女が融和派と一緒にいたということで軍からちょっかいを出されないように庇ってくれた、という話も耳にしたことがあるし、あの人も身内には甘いのかもしれない。僕が身内だと認めて貰えなかっただけで。どちらにせよ、家なき子になることがないなら僕はそれでいい。

 

 僕たちは別れを惜しみ、話をし合った。隼鷹と僕は広報部隊時代の話をして、大いに盛り上がった。那智教官は今だからできる第二艦隊の暴露話をしたが、自分の関わる話はどれだけせっついてもしてくれなかった。何をしたんだろう、怖いと思う。利根と北上は僕がいない間のことで、まだ話していなかったとっておきのネタを披露してくれた。楽しかったが、僕もそこにいたかったなあ、と感じずにはいられなかった。響は融和派の話を少しした。僕も彼女も赤城たちから口止めされている部分が多かったし、この一年で話せるだけのことはほぼ話しきっていたが、それでも響の語りにはみんなの興味を惹く力があった。

 

 最初にバスを降りたのは利根と北上だった。「あ、吾輩はここまでじゃの。北上、お主もじゃろ?」「ほんとだー、いやあ、早いねえ……んじゃま、元気でね、みんなさ」思えばこの二人は第五艦隊に入ってからというもの、僕を差し置いていつも二人セットで動いていたように思う。だからって、僕と彼女たちが友達じゃなくなった訳じゃなかった。僕は北上に手を差し出した。彼女はにへらと笑い、訓練所で別れた時のような握手をした。次いで、利根にも。彼女は力強く僕の手を握った。彼女は言った。「ただの同級生同士だった吾輩らが、こんな風に関わるとはの?」「奇縁って奴さ、利根。元気で」「うむ、元気で」バスを降りていくのを見送り、外に出た二人に窓から手を振って、段々と遠ざかっていく姿を目に焼き付ける。

 

 次に、隼鷹と響が降りた。二人とも同じところで降りるとは思っていなかったらしく、嬉しい驚きに頬を緩めていた。僕は順番に二人を抱きしめ、近い内に連絡を取り合って、会える者たちだけででも集まろうと持ちかけた。二人は言うまでもなく、それに賛成した。バスを降りた彼女たちの姿が路地の向こう側に消えた後、僕は自分が思ったより悲しみを覚えていないということを発見した。正確には、それが生まれそうになる度に、鎖骨の下でうずくものが、彼女たちがそこにいるということを教えてくれるのだ。だから、寂しくならなかった。離れていても、僕たちの関係がなくなってしまうことはない。

 

 最後に、僕と那智教官だった。これは前に彼女と話した時にお互い知っていたので、隼鷹と響のようにサプライズとはならなかった。それに、降りるところは同じだったが目指す方向は逆だったのだ。バスを降り、那智教官に深々と礼をしてから、また泣き出してしまう前にその場を去ろうとすると、教官は僕を呼び止めた。

 

「貴様は、これからどうするつもりだ?」

 

 何も考えずに答える。

 

「両親が旅行に行こうって、この前の手紙で誘ってくれました。父の故郷に行こうかって話ですよ、随分切符代も安くなりましたからね」

「ほう、いいじゃないか。何処なんだ?」

「ああ、西海岸です。具体的な場所は知りませんが。ちょっと凄いでしょう?」

「西海岸?」※128

 

 僕が自分の愚かさではなく、ただの言葉で教官を驚かせた数少ない実例の一つが、これだった。彼女は僕を下から上まで眺めてから、「そう言われれば、それらしいな」と言った。そうして僕が相槌を打つ前に、教官は少し笑って「では、またいずれ」と言い残し、さっさと行ってしまった。その後姿に、僕はもう一度頭を下げる。彼女が、艦娘としての僕の全てを作り上げた。南方棲戦鬼を仕留めた最後の一撃も、そこに至るまでの全ての戦いを生きて終えられたのも、彼女がいたからこそなのだ。涙が目に溜まる。頭を上げる。教官はもういなかった。くるりと向きを変えて、歩き始める。僕は詩を思い出していた。船人は帰りぬ、海より帰りぬ(Home is the sailor, home from the sea.)。戦争は終わった。さあ、家に帰ろう。特設でもそうじゃなくてもいい、学校に行こう。日々を送ろう。武器を下ろして、代わりの何かを持って。

 

 ああ、これからどんな人生になっていくのだろう? 僕は期待を胸に、あらゆる未来とあらゆる幸福を思い描いた。それは確かに、僕がこれから歩いていく先にあるものなのだ──何たって、僕はまだ二十歳にもなっていなかったんだからな。※129

 


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