[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「広報部隊」-4

 利根は北上が来た翌日に僕の病室に来て、彼女とニアミスになったことをしきりに残念がっていた。利根の耳にもピアスが輝いていて、僕がそれを見ていると、視線に気づいて四つ目のピアスを渡す相手は見つかったかなどと言われた。僕は曖昧に答えを濁したが、ちゃんと友達はできたという話はした。それから、工廠の整備員から回収していた隼鷹と僕の写真を見せた。手紙を送った時、同封するつもりだったのを忘れてしまっていたのだ。北上には直接見せることも忘れてしまったし、後で送っておかねばなるまい。利根は僕が広報艦隊でも仲良くしているのをそれで確認して、ほっとしたような様子を見せた。どうも、訓練所時代に世話を焼いた経験から、僕は彼女にとって弟的存在にでもなっているように思える。そこに来て更に宿毛湾で沢山の妹たちの面倒を見たことで、姉力が鍛え上げられてしまったのだろう。友達に心配や迷惑を掛けるのは忍びないが、それでも何かと面倒を見てくれたり、気に掛けてくれる相手がいるというのは気持ちがいいものだ。

 

 それからまた話をしたが、宿毛湾泊地は戦闘任務が多いらしく、利根はもう結構な経験を積んでいるようだった。僕が今回受けたよりも深い傷を負ったことだって、何度もあったというのだ。「吾輩の腕、これ何本目か忘れたぞ」「修復材すげー」「全くじゃ。すげーというか怖いの!」僕らは妖精という謎の存在に心底恐怖し、彼らもしくは彼女らが一体何者なのかということについてあれこれと意味も何もない憶測を話し合った。そして僕らは恐るべき暫定的真実に到達した。心が寸刻みにされるような想像上の事実に触れた僕らをこの孤独、苦痛、悲哀、畏怖、諦念から救ってくれるものは宇宙に存在しないだろう。だが馬鹿話は楽しかったのでよし! 利根は「また来るぞー」と言いながら帰っていった。

 

 とうとう退院とお偉方への報告が明日になったある日、二度目の見舞い客として隼鷹が来た。このところ彼女も僕に先立っての戦闘詳細報告などで忙しくしていて、最初の一度っきり会ってもいなかったのだ。疲れた顔をして、髪の毛にはいつもの艶がなかったから、その忙しさたるや尋常なものではなかったのだろうと推測もできた。「帰って寝ろよ」と僕は言った。疲れで倒れたりしたらと思うと心配で仕方がなかった。彼女は笑ってその言葉を無視し「明日の報告の練習、やってないだろ?」と言った。僕は言葉に詰まった。事前練習をしておきたいとはずっと思っていたからだ。既に経験した彼女が手伝ってくれるなら、こんなに心強いことはなかった。

 

 結局、僕は疲れているにも関わらずここまで来てくれた彼女に甘えることにした。僕は一つずつ話をした。隼鷹と洋上に出て、岩礁を目指すところからだ。言うまでもないことだが、隼鷹の飲酒は黙っておいた。僕も二口ばかり飲んだ共犯者だし、そんなことを報告したら僕はともかく彼女がどんな罰を食らいこむことになるか、分かったものではない。よくて営倉行き、悪ければ……愉快な話じゃない。余計な想像はやめておこう。僕が黙っていれば済むのだ。それに軍に入る時、僕は戦友と上官への忠誠を形式的に誓ったが、密告屋になる誓いなんか決して立てなかった。これからも立てることはないであろう。

 

 隼鷹は時々僕の話を止め、質問をした。その中には「お前は分かってるだろう?」みたいなこともあったが、僕が話すのは隼鷹にじゃなくて上層部連中だ。一から説明してやらないと分からないこともあるのだろう。そういう具合で練習を進めていたのだが、話が終わり際、ル級を魚雷の罠に引っ掛けてやった時のことになると、急に隼鷹は怖い顔になってこちらを制止した。僕はぎょっとなって口を閉じ、どうしたのかと思って説明を待った。

 

「あのル級が喋ったって?」

「ああ。まあひどい発音だったけど僕に『オマエ』って言いかけてた。驚くことか? 座学でちらっと話に出てたけど、深海棲艦も喋るんだろ?」

「……そうだよ、鬼級以上はね。とにかく、そのことは黙っとくんだ。ありゃ確かにル級だった。それが喋ったとなると、面倒なことになる」

 

 そこで隼鷹は、表情を変えようとした。普段の明るい顔を演じようとしたのだ。彼女が疲れていなければ、それに成功していただろう。失敗の後、気まずそうに彼女は言った。「まぁ、大したことじゃないけどさ。一応……ね」僕らはお互いにそれ以上何も喋らなかった。隼鷹が帰ってから、僕は自分の記憶が正しいのかどうかを考えた。あの時、本当にル級は喋ったと思う。何とも言えないひどい声だったが、僕はそれを聞いた。隼鷹はそれはおかしいと言う。喋るのは鬼級や姫級などの、深海棲艦の指揮官格だけだと。

 

 だがあのル級がもし鬼級深海棲艦だったら、僕はあそこで死んでいた筈だ。深海棲艦の指揮官は、その採用条件に指揮能力だけでなく単体での強さも恐らく加えられているのだろう、やたらと強い。話では、空母なのに砲戦でこちらと比肩するような者もあるらしい。訓練所を出て以来、ろくに実戦経験を積んでいない新兵にどうにかなる相手ではない。そもそも、あの日深海棲艦の一隊相手に隼鷹と二人で挑んで勝てたのも、本来あり得ないほどの奇跡的なことなのだ。それが自分のやったことであるが為に、実際それがどれほどのことなのか正確に把握できないでいるだけで、これがもし別の誰かがやったことを伝え聞いたのだったら、僕はその話を眉唾物だと断じていただろう。きっと上層部も信じられないのだ。だから、詳しい話を僕から聞いて、どうにかそれが事実なのだと受け止めようとしている。基本的には、軍は現実主義者の集まりだ。そうでなければ遅かれ早かれ立ち行かなくなることは、歴史が何度も証明している。

 

 しかしそうなると僕の扱いは、ル級の言葉を聞いたことを言わなくても面倒になりそうだな。海軍は一人でも多くの艦娘を必要としている。敵は多く、兵士は何人いても困ることがないというのが現状だ。有能だと見なされれば、広報艦隊から引き抜かれることになるだろう。僕とてそれを望みはしている。ここは僕の居場所じゃない。俳優になりたくて軍に入ったんじゃないんだ。生きて、よりよいことを成し遂げる為にそこへ行こうと思ったんだ。僕を助けてくれた艦娘が今も生きているかどうかは分からない。彼女はもう死んでいるかもしれない。平均寿命は彼女の生存をやんわりと否定している。だが、もしも生きていて、僕を見て、あの時の子供だと彼女に分かって貰えた時、彼女が僕を救ったことを誇らしく胸に感じて欲しいのだ。彼女が救った僕という命が、今やもっと沢山の人々の命を守っているということを、心から誇りに思って欲しい。その為には、広報部隊ではいられなかった。

 

 でも、折角できた友達とまた別れることになるかもしれないのは残念だった。隼鷹はただただ、いい奴だとしか言いようがない。榛名さんも落ち着きがあって優しかった。彼女の気遣いに何度助けられたか分からない。曙は……まあ、根っから悪い奴って訳じゃなかった。それに、僕たちはもう貸し借りなしの間柄で、「お前」「あんた」と呼び合う戦友だ。幸せに生きたいなら、いつまでも過去に囚われてるべきじゃない。

 

 翌日、僕は海軍本部に召喚された。椅子に座らされ、向かいのテーブルには顔も名も知らない軍の高官やら、辛うじて名前は知っていた公式戦史家がいる。へえ、あんな顔してるんだな。僕は緊張で視線をあちこちに動かした。壁際に立っていた、僕を案内してきた士官たちの顔は例外なくこう言っていた。「今すぐあの小僧が座っている椅子に座れるなら、俺は何だってしてやるぞ!」一介の兵士である僕にはよく分からないのだが、どうもこの椅子には特別の名誉があるらしい。戦史に名前や自分の功績が記載されるということに、そこまでの喜びがあるものだろうか? どう考えてみても、僕には分からなかった。公刊戦史はちょっと目を通しただけだが、あんなものはただの本に過ぎない。そんなものに取り上げて貰いたがっている海軍のエリート士官たちが、僕には滑稽に思えた。お陰で、あの日のことの報告が始まっても余裕があったし、質疑応答にはマシな受け答えを考えるだけの冷静さも生まれた。

 

 僕はできるだけ無味乾燥な報告をするように心がけた。単に生き残ったことを含めて、自慢できることは山ほどあったと思う。リ級二隻を沈めた時のことや、ル級に大損害を与えてやった時のことはもちろん、それより前にもだ。しかし、周りの連中が僕をやっかんだりしている時に、敢えて彼らの敵意を煽ってやらなくてもいいではないか? 特に、僕に彼らを黙らせるだけの後ろ盾や力がない時には、そうだろう。戦史家は僕の言い方が気に入らなかったのか、何度も質問をして、僕から彼の気に入るような何かを引き出そうとした。その度に僕は彼の機嫌を損ねることを覚悟して、あったことを控えめに伝えた。考えるにつけて、このことは正しかったと思える。大体が、僕があそこでやったことというのは、計画の上でのことなどではなかった。マズい状況に巻き込まれ、生き残る為に、必死でその場その場を切り抜けただけなのだ。あれが当初からシナリオ通りだったのなら人に自慢したって罰は下らないだろうが、びくびくしながらがむしゃらにやって、分の悪い賭けなんかして、それにたまたま勝ったからといってまるで実力で生き延びたかのように自慢するのは……何と言うべきか、長門の言葉を借りる訳ではないが、無様だ。

 

 戦史家は結局、彼の粘り強い質問に対しても貫かれた僕の頑なな態度を、どうにかしようとするのを諦めた。その次に、僕に対する転属の打診が始まった。具体的にここに行かないか、あそこはどうか、などと聞かれた訳ではない。彼らは僕が少々ユニークなやり方で注目に値する戦果を上げたことに言及し、その能力を別の場所で活かさないか、と尋ねたのである。僕は即座に首を縦に振ろうとして、そこで思い留まった。それから、質問の許可を求めた。彼らはこれを慎重さの表れと取って許してくれたようだったが、僕の心はもう決まっていた。質問は一つだ。その「別の場所」に、もう一人分の空席はないかというのが僕の問い掛けだった。

 

 実のところ、これは本当に質問でしかなかった。「悪いがないな」と言われれば僕は「そうですか」で終わっていたのだ。でも彼らはそう思わなかった。その、何だ、上層部の連中の悪い癖だ。人の言葉を額面通りに受け止められないという、悲しい性である。だがそのお陰なのか、僕とそのもう一人が希望するなら、一緒に同じ艦隊へと転属してもいいというお許しを貰った。それで話は決まりだった。

 

 部屋を退出する時、お偉方の一人が──その人は周りと比べるとかなり若い女性だったが──僕を見て「では、また」と言った。やれやれ、彼らはまだ僕から話を聞きたいことがあるようだ。

 

 その後、僕は真っ先に出張所の隼鷹のところに行った。もちろん、彼女が本当に広報部隊の一員でいることを嫌がっているのであれば、僕と一緒に転属しないかと持ちかける為だった。彼女は彼女の仕事、国民に軍への寄付を求めるCM撮影をしている最中だった為、僕は暫く待たなければいけなかった。その間に、何人もの人々から話しかけられた。どうやら僕は休んでいる間に、すっかり英雄か何かに祭り上げられてしまったらしい。病室にテレビはあったが、もっぱら暇潰しとして映画を見るのに使っていて、ニュースなんか一つも見ていなかった。映画を見ていない間には、手紙を読むか書くかしていた。ただ、親の手紙は遂に届かなかった。検閲で通らなかったらしいのだ。何通も不許可になったものだから、とうとう検閲官が僕に手紙を送って寄越した。彼は言っていた。「あなたのご両親は、今もあなたのことを大変に愛していらっしゃいます。彼らはただ、あなたが傷ついたことで動揺しているだけなのです」僕はそのことを書き添えて、両親にもうすっかりよくなったから心配しないで欲しいと手紙を送った。返事はないが、届いたものと信じている。きっと二人は僕の選択を認められなくても、やがては受け入れられるようになるだろう。

 

 僕に話しかけてきた内の何人かは、有名人に引き寄せられただけの害もなければ益もないような人だった。僕は適当に彼ら彼女らと話を合わせ、握手をし、望まれれば一緒に写真も撮った。サインだってしてやった。広報艦隊を出ることを決めているとはいえ、所属上はまだ、僕は広報部隊の艦娘だ。仕事は責任を持って、きちんと果たすべきだろう。そういった考えの下で、広報艦隊の艦娘として、僕は恥じるところのない仕事をした。その後に来た人々はちょっと違った。海軍通常部隊勤務の兵士たちだ。気取った言い方をすれば、いわゆる海の男である。彼らは海軍の兵士らしく、短い賞賛と完璧な敬礼で僕の業績を称えてくれた。彼らは、深海棲艦との戦争が始まってすぐから艦娘が実戦投入されるまで、人類の為に海を守り続けようとし、深海棲艦の侵攻を可能な限り遅めようとした名もなき英雄たちである。艦娘に海上での活躍の場を譲り、今は警備・哨戒を担当させられている彼らにとって、今回の出来事は胸のすくような思いだったに違いない。同じ男が、深海棲艦に対しては役立たずだと思われている男が、あれだけのことをやったのだと。だが彼らは自分勝手に、僕を男性の代表のように思って自己満足に浸っていた訳ではない。彼らの態度には間違いなく、自分たちより遥かに年の若い子供たちに国防を担わせる残酷さを厭い、悔やみ、情けなく、申し訳なく思う心が表れていた。

 

 隼鷹の仕事が終わり、僕は彼女に手を上げて挨拶をした。最後に見た時と違って、疲れた顔はしていなかった。化粧の為だけではなく、あの後ちゃんと休めたのだろう。彼女は笑顔で挨拶を返し、僕らは一緒に移動を始めた。こんなところで切り出す話ではないので、まず何処かに誘うことにする。「隼鷹、この後は?」「オフだよ。今……午後七時かぁ。メシ行って飲みに行くにはぴったりじゃん、付き合えよー」手間が省けた。僕は快諾して「汗掻いたから着替えてくるわ、門で待ち合わせな」という彼女と別れた。そのまま門に向かおうとして、自分も少し汗を掻いていることに気づく。これはいただけない。急いで僕は部屋に戻り、備え付けのバスルームでシャワーを浴びた。服を着替え、財布を持って早足で移動する。門のところにはまだ隼鷹は来ていなかった。よかった、待つのはいいが待たせるのは好きじゃない。

 

 門のところの衛兵が僕を見て会釈した。僕も返礼しておく。このところ、周りの人々の態度が変わることが多くてついていけない。だが悪い方向に変わったんじゃないんだし、じきに慣れるだろう。僕が門についてから数分したところで、隼鷹もやって来た。連れ立って門を出て、街へと向かう。歩いて行こうかと思っていたが、隼鷹が飲む前から酔っ払ってふらふらし始めたので、僕は急いでタクシーを見つけて一緒に乗り込んだ。いつも行く店の名前と場所を告げ、そこに向かって貰う。隼鷹の様子があんまりにあんまりなので、運転手が自分の為に買っていた未開封のミネラルウォーターのペットボトルをくれた。お礼を言って受け取り、それを隼鷹に飲ませる。自分で持とうともしないので、僕がボトルを支えて傾けてやらなければならなかった。どうでもいいが、水を飲む時に白い喉がこくこくと動くのは結構目に毒だ。

 

 運転手が気を利かせて揺れないようにゆっくりと走ってくれたこともあって、店に着く頃には彼女の調子もまともな受け答えができるほどに戻っていた。僕は彼に料金と水代を払い(彼は断ろうとしたが貰ってくれるように頼み込んだ)、隼鷹を座席から引っ張り出した。けらけら笑って意味のない抵抗を見せる彼女を引き続きぐいぐいと引っ張って、店内に入る。そこは酔っ払った状態でも他の客の迷惑にならないような、個室のある店だ。店員は僕と隼鷹を一目見て了解し、速やかに部屋を用意してくれた。部屋前の縁に座らせ、靴を脱がせてやる。まるで介護だな、と僕が言うとあごに一発貰った。酔いで加減ができていないようで、かなり痛かった。まあ、僕も彼女の女性としてのプライドをいたく傷つけるようなことを言った自覚はある。お相子としよう。

 

 掘りごたつに腰を下ろし、水を二杯飲ませると、ようやく彼女は落ち着きを取り戻した。僕は蹴られたところを撫でさすりながら言った。

 

「食べる前から飲みすぎだろ」

「スキットルにまだ残ってるの気づいちゃってさあ、悪かったよう、痛くない?」

「痛い、めっちゃ痛い。砕けたかも。あー痛いわー」

「ざまあ、次ババア扱いしたら喉蹴ってやんよ。んで、何頼む」

「おい喉は流石にやめろ、とりあえずビールで」

「えぇー? ビール苦手な癖にぃ。そのせいで割と毎回あたし開幕二杯じゃん」

 

 結局、僕らは好き勝手に頼むことにした。あれやこれやと並んだ料理を、どちらが頼んだかなど気にせずに食べる。その合間に、最近の話をする。酒を筆頭とした楽しいことにしか興味がないと取られがちな隼鷹だが、これで結構世の中の動きに通じている。誰とでも仲良くなれるから、色々なところから普通は聞けないような話が転がり込んで来るのだろう。しかも、彼女は生来の感覚でその手の話の中から胡散臭いものを弾き出してしまうことができた。僕は自分の生きている間にもし戦争が終わったら、彼女をアドバイザーに据えて会社でも起こしてやろうかと考えた。酒代だけで会社を傾けてしまわないか心配だが、それさえクリアできれば大企業にものし上がれる気がする。

 

 僕はよく冷えたビールを喉に流し込んだ。法では未成年の飲酒は許されないことになっているが、艦娘は別だ。身体能力の向上により、どんなにへたばった艦娘でも全く健康な二十歳の人間よりも強い肝臓を持っているのである。飲酒の年齢制限は未発達の肝臓がアルコールに対処し切れなかったせいで、身体の健康な発達を阻害してしまわないように、という理念の下に作られたものだ。従って、艦娘に飲酒の制限がなされないことも道理であった。それに、もし禁じていたとしても飲む奴は飲むものだ。戦争というのは途轍もないストレスである。僕なんか、戦闘に出る前から悪夢を見ていたほどだ。出てからは余計に頻繁に見るようになってうんざりしている。酒がないとやっていられない、と考える艦娘が大勢いるのは、不思議ではない。だができれば飲む時には楽しく飲みたいものだ。この苦い自由の味!

 

 訓練所では自由などなかった。なるほど、確かに僕は夜間にこっそり起き出して水上スケートをやることもできたし、みんなが外出している間に対空射撃の訓練をする自由もあった。那智教官に殴られたり脅されたりすることを甘んじて受け入れるなら、どんなことだってできた。つまり、ほとんど何もできなかったってことだ。訓練の合間、仕事や課題などに追われていないなら余分に休むことができたが、その程度のものだった。訓練所の中を出歩く自由さえしばしば制限され、ベッドの上以外に出ることを禁じられた者もあった。それは那智教官がその制限された候補生に対して、殴りつけるほどではないが腹に据えかねていることがあって、彼女がそれを是正するまでは他の候補生と交わらせる訳にはいかないと考えているということを、端的かつ実際的に表現していたのだった。

 

 僕は訓練所にこっそり禁制品を持ち込んでわいわいやった、あの日のことを思い出した。あの時は、まさか自分が広報部隊に行かされるとは思ってもいなかったっけ、と心の中で一人ごちる。と、隼鷹がジョッキを傾けながらこっちを見ているのに気づいた。「何だよ」彼女のまっすぐな目で見られるとどうも居心地が悪くて、僕は身じろぎをした。彼女はふっと笑って、首を振った。それからジョッキを見事に乾かして「次は何飲もっかなー」とメニューを見始めた。僕はさっき見つめられていたお返しとばかりに、彼女の様子を眺めていた。あの戦闘の前に、ここに食べに来た時と同じ姿だ。この姿がまた見られてよかった。またここに来られてよかった。そんなに思い入れがある店じゃないが、またここで食べられてよかった。僕は胸の奥から戦闘の恐怖が今更に蘇ろうとするのを、ビールを流し込んでどうにか止めた。

 

「おおっ、いい飲みっぷりだねぇ。そっちも次行っちゃう? あたし芋焼酎頼むけど」

「じゃ麦……いや米で。米あったよね」

「了解! 注文、行っちゃってー!」

 

 そんなことを言いながらタッチパネルで注文を飛ばす彼女を見て、こいつ注文一つ黙ってできないのか、と冗談でほんの少しだけ思ったが、率直に言ってこの騒がしさも気に入っている。ただ声を出すだけで相手を元気付けることができるという特別な才能があるとしたら、それはまさに隼鷹が持っているものだった。たまには彼女の口から声じゃなくて吐瀉物が出てくることもあるが、それはご愛嬌だ。むしろ、珍しくテンションの低い隼鷹を見ることができる貴重な機会だと思うべきだろう。

 

 一時間半ほど飲み食いをして、僕たちは店を出た。隼鷹は僕よりもハイピッチで飲み続けていたのに、店に来た時よりもずっとしゃんとしていた。一体、飲み残しだけで彼女をべろんべろんにさせてしまうという、あのスキットルに入っている酒は何なのだろう? 僕が飲んだ時にはウィスキーっぽい味がしたが、度数はそこまで高くなかったように思える。まさか、アルコールの作用を強めるようなものを服用しているとか? 世の中にはそういうものがある、という話は聞いている。気をつけて見ておかなくてはなるまい。

 

 二軒目はパブにした。パブと言ってもイギリスの伝統的なスタイルの店じゃなく、元々はオーセンティックバーだったところなので、ちょっと小ぢんまりとしていて僕と隼鷹の好みに合ったのだ。カウンター席に六、七人、それから二人掛けのテーブル席が二つと、壁際に四人から五人が座れるL字型ソファー席。いい店だ。マスターは気さくだし、料理もおいしい。パブってこともあって酒はビールがメインだけれども、何種類かそれ以外の酒だって置いてあるし、カクテルだって材料があれば作ってくれる。一つ欠点を言うなら値段ぐらいか。しかし、安くはないが、どうせ他に大口の金の使い道なんてないんだ。艦娘になる前、僕は何に金を使っていただろう? 覚えているのは、本、音楽CD、それからちょっとだけゲーム……そんなところだ。何を買うにもずっと悩んでからだったし、時には悩みに悩んで買わないということもあった。今では欲しくなれば買える身だ。稀覯本? 限定アルバム? ゲームの特典付先行予約? いいだろう、こちらにはそれなりの用意がある。でも、それらを楽しむ時間や余裕は足りない。上手くできてるもんだ。

 

 ソファー席に、四人の若い男たちが陣取っていた。僕らは彼らの賑やかさを避けるように、カウンターの端に席を取った。隼鷹はまたビールを頼み、僕はジンを頼んだ。ライムを入れようかと思ったが、最初の一杯はジュニパーベリーの香味をそのまま楽しむことにした。暫く、ソファー席の連中の喧騒をBGM代わりに、僕たちは気まずさのない無言を分かち合った。それはここに来た時に僕たちがまず執り行う、神聖な儀式のようなものだった。心を落ち着かせ、ゆったりとした気分になる為の、気持ちのよい沈黙だ。それは友達同士でだけ生み出して、共にすることができるものである。もちろん、居酒屋か何かと同じように四六時中ぺちゃくちゃと喋くっているのもいいだろう──それは個々人のスタイルの問題だ。でもそういう余り騒がしいのは、とにかくここでの僕らのやり方じゃないんだ。口を閉じることを知らない奴らが彼ら彼女らの唾を空中で混ぜ合わせている間、僕は隼鷹のような同じ志の持ち主と、肩を並べてカウンターに腰を下ろし、静かに吐息を混ぜ合わせる。それだけで軽薄な空気は去り、僕は和やかになり、肩の力が抜け、友達同士の打ち解けた話をするのに適した具合になるのだ。

 

 僕らは同時に一杯目を飲み干した。隼鷹はロックでスコッチを頼み、僕はさっきと同じジンを使ってジンライムを作って貰った。順番に出てきたそれをお互い一口飲んで、カウンター上のコースターに乗せ、ふう、と息を吐く。準備はできた。僕は話を切り出そうとした。

 

「転属するんだって?」

 

 だが、隼鷹の方が早かった。まあいい、どうせ関係する話だから、適当なところで話を繋げられるだろう。僕は頷いて、彼女の問いに答えた。「いいねえー、広報から前線って中々ないんじゃね?」「何でも前例ぐらいあるもんさ」グラスを取り、更に一口中身を口に含む。舌の上で転がし、ぴりぴりとした感触を楽しんでから、喉を通す。深い呼吸で鼻に抜ける香りを楽しむ。そんな僕を見て、隼鷹が笑った。「十五歳だっけ」「十五歳だよ」「見えない」「かもね。そっちは何歳?」「秘密ー」だと思った。もう一口飲む。早く言わなければ、という焦りはなかった。急がなくても、最高の一瞬を選べる……いや、選ぶという言い方もおかしいか。僕が彼女に話を振った時が、時期として最高の一瞬になると分かっていたからだ。

 

「何日か前に、また単冠湾の隼鷹から手紙が来てさ」

 

 僕は黙っていた。彼女との会話には相槌が必要ない時もある。

 

「飛鷹が負傷したって言ってた。死んではないけど、もう退役するんだって……手紙も書けないぐらいだから、あっちのあたしが代筆してくれたんだよ」

 

 喜ぶことじゃないが、物事の明るい面を見るなら、戦死する危険はなくなったということだ。艦娘が名誉を失わずに前線を退くには、二つの方法がある。戦死するか、戦闘不適合と判断されるかだ。欠損した右腕が修復材で直せなくなった那智教官は後者に当たるが、何も肉体的損傷でだけ不適合扱いになる訳ではない。戦うという行為は、精神を磨耗させる。これは、多くの人間がこれまで沢山の戦争を戦ってきたが、その中で確認された事実だ。どんなに鍛え上げられた兵士でも、長く戦えばやがては心が折れるものだ。

 

 ポール・ファッセル※9という兵士は、自らの従軍経験から前線における兵士の精神状態を次の三段階に分類した。※10「俺が戦死するなんてあり得ない」から「俺が戦死する可能性は大きい。だからもっと気をつけていなくては」に変わり、最終的には「このまま行けば俺は絶対に戦死する。それを避けるただ一つの道は、前線にいないことだけだ」となる。そして最終段階に到達してしまった兵士は、最早いかなる力を以ってしても彼の任務を果たさせることができなくなる。それを防ぐ目的で兵士を定期的に後方に戻らせ、精神の傷を癒す時間を与えるようになったのは、割と最近の話だ。しかしそういう仕組みが作られても、癒しきれない心の傷に人類は苦しんできた。ましてや艦娘は大半が実年齢二十歳にもならない少女の集まりである。精神的に虚弱であることは明らかだった。

 

「あいつが同期で最後の友達だったんだ。軍に残ってるのはあたしだけになっちまったよ。でもそれはよかったんだ。もう、あたしの知らないところで友達が死ななくなった訳だから、むしろほっとしてたんだぁ。けど」

 

 彼女はグラスに口をつけて、琥珀色の液体を口の中に入れた。それはここにいる時の隼鷹がいつもどのように飲んでいるかを知っている者にとっては信じられないほど、乱雑な飲み方だった。彼女は、懇願の光を宿らせたその目で僕を見て、言った。

 

「勝手なこと言ってるってのは分かってる。広報部隊が嫌だってのも、十分に分かってる。ああ、友達にこんな頼みごとするなんて最低さ。分かってるんだ。だけど、だけどさあ、もう……嫌なんだよう」

 

 自分の頭の重さに耐えかねたように、ゆっくりと彼女は俯く。僕は言葉が出て来ない。彼女が抱えていたものの重さは、僕がひょいと肩代わりしたり、捨て去ってしまえるようなものではない。それは彼女の人生そのものだったのだ。喪失の苦しみを負わされた人間は、それを食べ物のように受け入れて消化してしまうようなことはできない。心に開いた穴は、虫歯のように詰め物をして済ませることはできない。ただ慣れることしかできないのだ。喪失が日常になり、苦痛が日常になって、自分が最期を迎えるその時までその痛みを受け止め続けるしかないのだ。

 

 ほとんど全力で、僕は彼女の肩に置きそうになった自分の手を押さえつけた。そんな恥知らずな同情はできなかった。彼女は、隼鷹は僕の友達なのだ。理解しているような素振りをして、彼女を侮辱するようなことはできない。喉から声を絞り出す。

 

「ごめんよ、でも……行きたいんだ」

 

 隼鷹は反応しなかった。やがて、彼女は顔を上げた。そして悲しそうな微笑を浮かべて「まぁ、仕方ないよねぇ」と呟いた。彼女は話をそこで終わりにしようとしていた。だが、僕は友達にそんな表情のままで酒を飲ませるつもりはなかった。

 

「だからさ、僕と一緒に転属しないか?」

 

 その時の彼女の顔と来たら!


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