[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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“茫漠たる灰の海が広がり 彼方に波が暴れる※11
 思えば友よ、遠くまで来たものだ
 われらの故国から”  ──19世紀ロシア民謡


「第二特殊戦技研究所」-1

 僕と隼鷹の転属が正式に決定し、様々な書類の作成や引継ぎの準備を一通り済ませたら、僕と彼女は簡単に別れを告げてさっさと行ってしまうつもりだった。残される人々には、後ろ足で砂を掛けたようなものだと思っていたからだ。彼ら彼女らの気持ちを傷つけない為にも、僕は目立たず早めに姿を消した方がいい、と考えていたのである。しかし隠し事というのはできないもので、どのようにしてか榛名さんと曙は僕ら二人がそういうつもりでいることを暴きだし、ちゃんとしたお別れをする為に、その身勝手な考えにストップを掛けた。榛名さんは滅多にその立場で使うことを許されている権利をかざしたりしないが、この時ばかりは例外らしかった。そういう嬉しい理由で、僕らは出発の予定を一日ずらすことになったのである。

 

 転属祝いと言っても、広報部隊を挙げてのものにはならなかった。僕が考えていたように感じている職員たちも多かったし、相変わらず僕とイムヤ、それに由良は親しい間柄ではなかったからだ。だからあの日、一緒に戦った四人だけでのちょっとした集まり、というのが実際のところだった。しかし、僕にはかえってその方がありがたかった。好きでもない相手におべっかや社交辞令を言うというのは中々の苦痛だし、そうと分かっていて言われる側だっていい気分にはならない。いっそ、いなくなって清々する、と言われた方がこっちもすっきりするだろう。

 

 榛名さんはこの集まりの為にわざわざ手間を掛けて料理まで用意してくれた。出来合いのものではない、手作りの料理だ。僕は料理をしないが、それでも料理について幾つかのことぐらいは知っている。よい料理というのは、大抵が面倒で、時間と絶え間ない献身の両方を要求するものなのだ。そして彼女はこと献身という美徳については、有り余るほど持っていたのである。曙の方は自分にできることを考えた結果、自分の為に使えただろう給金の一部を割いて、種々の飾りつけや、彼女が思いつく限りの親切でかさばらない贈り物を用意してくれた。対して、僕と隼鷹が持っていたのはアルコール類だけだった。僕らは大いに食べ、飲み、歌い、また飲んだ。再び会えるとは限らなかったからだ。僕らはそういうところに行くのだと、その場にいたみんなが理解していた。

 

 翌日の朝七時、僕と隼鷹は二日酔いの頭で僅かな荷物を持って宴会場にした僕の部屋を出た。片づけをしていくつもりだったが、榛名さんと曙はそれを自分たちのやることだと主張し、頑として譲らなかった。僕らの後に来るのが誰かは知らなかったが、もし僕の部屋を引き続き誰かが使うとしても、安心して使えるだろう。二人の細やかさは筋金入りのものだからだ。顔を青くしながら出張所の門を出たところで、僕たちは後ろから呼び止められた。

 

「どもー、すいません、ちょっとお尋ねするんですが、海軍本部付広報部隊の出張所というのはここでいいんでしょうか?」

 

 その声に振り返った僕は重い頭を動かすのがつらかったので、目だけ動かしてそいつが首から提げた仮の身分証を見た。きっと僕らと入れ替わりに配属される新米か何かだろう。僕は地獄の底から響いてくるような不機嫌な声で答えようとして気づいた。「青葉?」「あれぇ?」それは同じ訓練所で苦しみを分かち合った後、手紙のやり取りによって友情を培ったあの青葉だったのだ。もし二日酔いじゃなければ、僕は彼女と抱きしめあって久闊を叙したいところだったが、生憎とそんな元気はなかった。向こうも酒臭い男に抱きつかれたくはなかっただろう。更に考えてみれば、友達は友達でもそこまでの間柄じゃなかった。

 

 青葉の話はこうだった。彼女はずっと広報部隊に行きたいと思っていて(これは、実戦部隊で力を発揮したいと思う艦娘もいれば、広報部隊でこそ自分の才を発揮できると信じる艦娘もいるということであって、青葉が戦場から逃げ出したがっていたという意味ではない)、毎週二通の嘆願書を送りつけていたのだが、海軍本部当局はこれにほとほと手を焼いていた。官僚主義という伝統的に受け継がれてきた精神性によって、毎回きちんと手続きをした上で却下の書類を郵送しなければならなかったからである。当局は何度か青葉がもう二度とそんな手紙を送れないような処分を下してやろうとしたのだが、その度にそれに基づいて海軍本部がその権威を保証されている法律によって、彼女の嘆願を妨害することはまかりならんと跳ねつけられてきたのである。これには海軍本部も困り果て、とうとう都合よく空いた広報部隊のポストに青葉を放り込んで、それでおしまいという形にしたのだった。

 

 僕は急いで荷物から紙とペンを引っ張り出そうとしたが、それよりも早く青葉が彼女のメモ帳とボールペンを貸してくれた。そこに榛名さんたちへの紹介状をしたためて、持たせておく。そうすれば青葉は、少なくとも榛名さんと曙の二人からは受け入れられるだろう。彼女が艦隊に溶け込む最初の一歩、その一助となれたなら、僕としては幸いである。

 

 友人にいいことをしてやったという気持ちになって、僕は気分が少しマシになった。青葉と別れ、無言でぼーっとしていた隼鷹を促して、転属先からの迎えが来ているという場所に急ぐ。規定の時間まではまだあるが、何で時間を取られるか分からない。常に最悪を予想するべきだ。そうすればそれに備えることができるし、楽観という人間の生得的な病を発症した人々が苦しんでいる時に、彼らに「だから言ったのに」と哀れんでやることもできるというものである。

 

 待ち合わせ場所の駐車場に着いてみると、予定時間よりも十五分早かった。いいタイムだったが、迎えはそれよりも先に到着していたようだった。軍らしい圧力のある黒塗りのセダン車のドアが開き、女が現れる。それは僕を無様だと嘲ったあの長門だった。僕の転属先というのはあの“サーカス”艦隊を擁する部隊だったのである。彼女たちはイベントにも顔を出すことがあるだけで、普段は通常の任務に従事しているという話だった。

 

 僕は長門との再会に顔を歪めたかもしれないが、二日酔いで元からひどい顔だったに違いないから、あっちは気づきもしなかっただろう。彼女は『クソ面白くもなさそうな』と形容するに相応しい仏頂面で「転属希望者だな?」と言った。僕らはどうにかそれを肯定することができたが、そのことで長門に対して一欠けらの感銘でも与えられたようには思えなかった。彼女は変わらない鉄仮面を被ったまま、僕らに荷物をトランクへ積み込むように命じた。ここまで歩いてきたせいで隼鷹の顔色がかなりヤバかったので、彼女の荷物まで僕が処理しなければならなかった。僕は心の中で長門に文句を言い、彼女を手酷く罵った。助けて貰ったことを忘れた訳ではないが、いついかなる時でも理性的で、相手のことを思いやることのできる慎み深い人間でいられるほど、僕は大人じゃない。

 

 後部座席に自分の体を押し込んで、それでどうにか人心地ついた。長門は運転席に戻り、エンジンを掛け、車を動かし始める。長門──日本の戦艦型艦娘の中でも有数の戦闘能力を誇る長門型のネームシップであり、モデルとなった艦は姉妹艦の陸奥と共に、当時世界のビッグセブンの一柱として称えられたという、大和に並んで日本の象徴となりうる艦であり、艦娘だ。その力強さは深海棲艦との戦いにおいても変わらないものであり、全国の鎮守府や泊地所属の提督ごとに、ほとんど必ず一人、多いところでは二人以上所属していると聞いている。また、艦隊の主力になれる実力を持つ艦娘ということもあって需要は大きく、長門への適合者を身内に持つ家族は手厚い保護などを受けるそうだ。

 

 他にも訓練所で聞いた、面白い話がある。ある深海棲艦融和派の一団が、パーティーに長門の一人を招いた。彼らはその長門を始末して、海軍に嫌がらせをしてやるつもりだった。しかし、戦艦型艦娘は人間が力で殺せるような相手ではない。そこで彼らはワインに即効性の毒を盛り、それを彼女に飲ませることにした。下にも置かない歓待ぶりにすっかり気分をよくしていた彼女は、差し出された大きなグラスになみなみと注がれた毒薬入りワイン、それはもう比率的にはワイン入り毒薬と表現するべきものだったそうだが、それを一息にぐいっと飲み干した。融和派は陰謀の成功にわあっと歓声を上げ、長門はさっと顔色を変えて一声叫んだ。「うまいワインだ!」※12

 

 訓練所では、その融和派の一団や長門がそれからどうなったかは語られなかった。だがそんな蛇足を付け加えるまでもなく、この話だけで長門という艦娘の強さを推測することはできるだろう。そして、その推測はどんなものであれ、常に間違っているのだ。実際の彼女は、そんな噂話の他に何も知らないような連中が考えるよりも遥かに有能で強力なのである……ただ個人の職務に関する有能さとその性分に相関性がないことは、諦めて受け入れざるを得ない事実だった。

 

 無論、長門が常に同じ性格を有する訳ではない。あらゆる艦娘は、大筋では同一の精神性を持つ。だがその細部に宿るのは彼女自身の魂だ。彼女が何を見て、何を知り、何を行ったか、何を行われたかで、全くのところ変わってしまうのである。探せば酒嫌いの隼鷹もいるだろうし、北上を憎む大井もあるだろう。この長門は、僕を蔑むことを不思議に思わなくなるような何かを経験して来たのだ。それが何かは僕に分かるようなことじゃないし、知ろうとも思わない。詮索すれば余計に彼女の悪意を招くことになる。今彼女から与えられている量だけで、およそこの身に受ける軽蔑なる感情は足りていた。それに、誰かを嫌うというのは疲れることだ。僕だって長門のことが好きじゃないが、彼女をやたらと疲れさせてやりたいと思うほど嫌ってもない。生来、僕は人好きな方なのだ。他人を傷つけるようなことを言うのも苦手だ。その方が健康にもいい。

 

 だが軍において上官や先任は、部下や後任の者に対して不遜に振舞う権限があるし、そうすることを推奨されてもいる。ある種の行き過ぎない不遜さは、威厳を強化しもするのだ。形だけの権勢だけでなく、彼ら彼女らは、実際に説明もなく己の欲するところを行うことができる。そうだ、配下の者の命すら左右することができ、時にはその命を奪って賞賛されることさえある。臆病者を銃殺したり、反乱を鎮圧することによって勲を得た者の例は、枚挙に暇がない。僕には、自分が一人の艦娘であり、言ってみれば兵卒でしかないことが幸せに思えた。上の言うことにはとりあえず従っておけばいいし、仲間とは敬意を持った付き合いができる。そう考えてみれば、一体誰が好き好んで出世しようなんて思うだろうか? 正装につける一本二本の線や、星の一つ二つの為に、あるいはつまらない肩書きなんかの為に、どうして余計な苦労を背負い込むんだ?

 

 車内では一切の会話が交わされなかった。隼鷹はいびきを掻いて寝ていて、残っていた二人は不仲だった。前を見ているとバックミラーに写った長門と目が合い、僕はすぐに逸らした。睨めっこを楽しむ余裕はない。代わりに僕は、隼鷹のだらしない姿を観察した。服がはだけるようなことにはなっていなかったが、何しろ酒が抜け切っていなくって、いびきがはっきりと聞こえるほどだ。婦人の眠る姿には美しさが宿るものだが、この寝姿には何らその手のものがなかった。口を閉じ、鼻をむずむずさせるのを止めれば、絵画的に鑑賞することさえできるだろうというのに。しかし、僕は見ていて飽きないのを感じていた。それは、彼女の姿に美しさがなくとも、彼女は何人たりとも認めることを避けられない事実として、現実に美しいからだった。隼鷹を知る誰もがそれに賛同するだろう。知らない者は、初めこそ否定する筈だ。それでも、やがてふと彼は僕が感じるのと同じものを彼女の中に見るだろう。ただ最初の一瞥では、彼がそれに気づけなかったというだけの話なのだ。本当の女性の美しさとは、目に入れてすぐさま悟ることのできるような表面的なところには存在しないのである。

 

 彼女を見ている内に、僕もうつらうつらとし始めてしまった。運転席に長門がいる手前、寝入るのも気が引けるし、それに彼女の前で自分の無防備な姿を晒したいとは思えなかった。加えて、僕もいびきを掻いてしまうかもしれないと考えると、僕は寝る訳には行かないぞと自分を引き締めざるを得なかった。だから車がいきなり止まったことにびっくりして、辺りを見るとさっきまで見ていた風景と全く違う様子であることにまた驚かされた。僕の意志では、眠気に勝てなかったらしい。気まずい思いをしながら、降りるように命じられて僕と隼鷹(僕より先に目を覚ましていた)は車から出た。背を伸ばし、硬直した体をほぐす。ぽきぽきという音と、軽やかな心地よい痛みが体内に走る。荷物を下ろして、案内を務める長門の後ろに続く。まずは荷物を置いてから提督に着任の報告をする、という段取りだった。僕らは車を止めた駐車場から少し歩いて、庁舎に向かった。鎮守府と聞いて大勢が想像するような赤レンガではなく、地方合同庁舎のような現代的建築理念に基づいた建物だった。

 

 庁舎の中を通り抜け、隣の建物に向かう。そこには艦娘の為の寮が建設してあった。建物はそれなりの大きさなのだが、その割には艦娘の姿は見えない。移動の途中、一度だけ艦娘の一人と擦れ違った。駆逐艦の響だ。彼女は僕らと長門を見て、案内役殿にお決まりの敬礼をすると、まるで敬虔な僧侶が裸婦画の前を通り過ぎる時のように、目を伏して行ってしまった。「彼女は第一艦隊の所属だ」と長門が職務上の責務を怠慢したとして弾劾できないギリギリのところまで中身を削った説明をした。隼鷹が曖昧な声で相槌を打った。まだ頭の中がぼんやりしているのだろうか。ある部屋の前で長門は立ち止まり、そこが隼鷹の部屋だと言った。そしてその隣が僕の部屋と決まっていた。風紀的に問題ではないのかと思ったが、一々それを僕が言うのもわざとらしいし、嫌疑を掛けられかねない。僕は黙って荷物を自分の部屋に置いた。最低限の家具しかない部屋に押し込むだけだったので、時間にして十秒も掛からなかった。踵を返して、庁舎の方に戻る。

 

 僕の個人的なイメージでは提督の執務室は庁舎の上の方にあるものだったが、ここでは一階にあるようだった。長門が重々しい木の扉をノックして彼女の名を告げると「勝手に入れ」という女の声が返ってきた。僕はその声に聞き覚えがあった。あの気の進まない戦闘報告の後で、僕に直接声を掛けて、また会うだろうと予期させたあのお偉方の一人だ。提督だったのか? 僕に再会を匂わせたのは、ここに来ることが分かっていたからか。納得しながら、僕は長門に続いて執務室に入った。そこには提督の執務机を挟むようにして二派に分かれた、多くの艦娘たちがいた。僕から見て左には加賀、足柄、羽黒、川内が立っている。右には吹雪、伊勢、日向、妙高、それからさっき見た響だ。顔合わせの為に呼ばれたのだと思いたかったが、それにしては部屋の空気は険悪だった。特に左の方からはひしひしと拒否を感じられた。僕が何処に行ってもこれは付きまとうらしい。

 

 長門は加賀の隣に行ってしまった。残された僕は、猛烈な居心地の悪さに逃げ出したくなりながら着任の報告を済ませた。隼鷹がその後を追って、同じ内容の報告を済ませる。提督はその時初めて僕たちの方を向いた。それまでは執務机から見える窓の様子を眺めていたのだ。顔が動いたことで窓から差し込む日光が彼女の顔を照らし、それが直接当たった左目が反射して輝いた。義眼だ……それだけではない、彼女の左手は肘から先が義手だったし、立ち上がってこちらに歩いて来るには杖を突き、しかも右足も義足で、わざとらしく引きずっていた。僕は努めて提督の持っていないものが全部でどれだけあるのか確かめないようにしようとした。しかし、恐らく彼女が持っているもので二つ揃っているのは、耳と鼻の穴ぐらいだっただろう。

 

 彼女は自分の異形を僕に見せつけて楽しむかのようにたっぷりと勿体をつけて執務机の前まで来ると、傲慢で歪んだ人間性の気配をあらゆる所作から漂わせながら、言った。

 

「第二特殊戦技研究所にようこそ」

 

 色々な人に話はしっかりと聞いていたから、来るところを間違えたとは思わなかった。下調べをほったらかさないくらいには、僕だって疑り深くなっていたんだ。ここは第二特殊戦技研究所、艦娘の為の戦術、並びに戦闘技術を研究開発し、実践し、データを集める為の部署であり、艦隊だ。従ってその任務は戦闘的な性格を否応なしに帯びることとなる。最初、転属の打診が来た時に僕が行くのだろうと思っていたような場所じゃなかったが、実戦部隊には変わりない。隼鷹もそれは納得済みだった。

 

「早速だが、配置を言い渡す。お前」

 

 提督は隼鷹を指差した。彼女が姿勢を正すと同時に「第一艦隊だ。秘書艦」という指示が出る。吹雪が……いや、吹雪秘書艦が「こちらに」と言って、日向たちの方へと隼鷹を招く。僕は嫌な予感がし始めていた。そしてそういう予感はよく当たるものだ。提督が今度は僕をじろりと見る。そこに僕への悪意はない。多分彼女は、誰に対してもこんな目を向けるのだろう。「お前は第二艦隊に行け」やっぱりな、と僕が心で愚痴りながら命令を拝受しようとすると、長門が一歩前に出た。何か言いたいことがあるのだろうが、それがどんなことかは考えずとも分かった。

 

「提督、個人的に言わせて貰いたいのだが」

「却下だ」

 

 にべもない提督の言葉に長門は一瞬鼻白んだが、すぐに気を取り直した。「では第二艦隊の旗艦を務める身として、第二艦隊の代表として言わせて貰おう。この男を我が隊に加えることに賛同しかねる」提督は面白そうな顔をした。僕はと言えば、青くなって縮こまってしまっていた。目で隼鷹に助けを求めるが、彼女に何かができる訳もない。考えのない行動で彼女を傷つける前に、僕の方から視線を外した。それにしても、段々と僕に対する拒否が大きく、根深いものになっていってないか? 訓練所の時は避けられたり、手紙を取り上げられたりするだけだった。広報部隊では、忌避と暴言、それに軽い暴力だった。ここでは一体どうなるものだろうか。少なくとも、曙が僕を後ろから蹴飛ばした時のように、我慢すればそれで大きな被害もなく片付く、ということはないと思う。考えてもみるがいい、長門に後ろから全力で蹴り上げられたら、僕なんかきっと吹っ飛んでしまう筈だ。尻に到っては六倍にも膨れ上がるだろう。ただでは済まない。

 

 提督は杖でこつこつと床と叩いて「命令拒否か?」と訊ねた。僕はその時、ようやく彼女が提督の象徴的衣装とも言えるあの白い制服を身にまとっていないことに気づいた。それまでは気が動転していて、彼女が何を着ているのかにまで考えが回らなかったのだ。彼女は黒のスラックスを履き、真っ白なシャツを着て、その上から薄くて安っぽい紺色のジャケットを着込んでいた。ネクタイは締めておらず、第一ボタンは開けられていた。彼女の身体的欠損がなく、ここが執務室でなければ、僕は彼女を提督だとは絶対に思わなかっただろう。提督の言葉を受けた長門は、心外だという風に胸を手で押さえて言い返した。

 

「そうではない。第二艦隊は現在のところ、補充の必要がないと伝えたいだけだ。これは私たちの総意であるだけでなく、第一艦隊の賛同も既に取りつけてある。そうだな、吹雪秘書艦?」

 

 秘書艦は頷いた。それぞれの艦隊で旗艦を務める二人の協調に、提督は冷ややかな声で答えた。

 

「ふーん、私には今の主張と命令拒否の違いが分からんが、そこまで言うなら多数決を取ろう。彼が第二艦隊勤務に相応しくないと考える者は挙手しろ」

 

 僕と隼鷹、それに提督を除くその場にいた全員が手を上げた。提督はその数をわざわざ声に出して数える。「……八、九、十。賛成十に反対一か。反対が優勢、提案は却下する。クーデターは失敗だな」僕も長門も渋面をあからさまにしたが、彼女はもう逆らわなかったし、僕は加賀に睨まれて思わずすくみ上がったので表情なんか全部消えてしまった。「ただしその意見を鑑みて、この男は差し当たり第四艦隊常勤とし、必要に応じて第一艦隊及び第二艦隊に出向の形で参加するものとする」僕は提督が付け足したこの命令が意味するところを理解するのに、少し考えなければならなかった。この『必要に応じて』という言葉が曲者だ。こいつは世間で解釈される時と軍で解釈される時では、重みが違う。民間では、僕はお定まりの仕事をして、特に僕が要求される状況になるまで楽をしていられる。だが軍では、上官の思いつく限りの何もかもが僕を働かせる為の『必要』に変わるのだ。このまま行くと、第一艦隊でも第二艦隊でもこき使われる可能性を許すことになる。僕はぞっとした。広報部隊でも休みはきちんとあったというのに。

 

 だがここまでこじれた話を、僕がこの状況からどうにかできる訳がなかった。

 

「もう文句はないな? では解散とするが、その前に秘書艦、その軽空母にまっすぐ立つ方法でも教えてやれ! ふらついてるぞ……ああ、そっちの新入りは残れ、話がある」

 

 提督にじきじきに指名されて、逃げ出す道を封じられる。僕は他の艦娘たちがぞろぞろと部屋を出て行くのを、心細い気持ちで見送った。提督は億劫そうに杖を使って椅子まで戻り、腕の捻りに反応して物を掴むことのできる精巧な義手で器用に机の引き出しを開け、小さな袋を取り出して机の上に置いた。僕は彼女がそれを僕に渡す為に残したのかと思っていたが、違った、彼女はその袋を片手でがさがさと開き、中から錠剤を二粒と布切れ、それに剃刀の刃を取り出した。それはどう考慮してみても、法で規制されているもののことを僕に思い出させて仕方なかった。余りにも彼女が堂々とその錠剤を刻み始めた時には、てっきり僕が嗅ぎタバコを違法薬物と勘違いするような類の間違いを犯しているのかと考えたほどだ。

 

 しかし注意深く僕は黙っていた。何処にでも、そこでの独特なやり方というものがある。彼女が何を楽しんでいようと、彼女自身の仕事をこなしていられるなら、それに口出しする理由はない。彼女の人生だ。転属初日に提督がそんなことをしているのを見せられた衝撃は計り知れなかったが、そう考えて折り合いをつけることはできた。隼鷹には黙っておくべきだろうか? それとも彼女にも知る権利があるだろうか。迷ったが、言わないでおくことにする。こうまで隠そうとしない提督なら、遅かれ早かれ知る時が来るだろう。その時、隼鷹がどんな選択を下すのか、見てみたい気もした。提督が刻む手を止めて、僕に尋ねた。

 

「お前、ビッグセブン相手に何やった? あれがああまで他人を嫌うとはな」

「何もしたつもりはありません、提督」

「だろうよ。実のところ、確かにお前は何もやってない。なのに何故第二艦隊から嫌われていると思う?」

 

 考えるふりをする。思いつくことなんてない。僕は彼女たちを面と向かって侮辱したこともないし、個人的に諍いを抱えた覚えもない。あちらから突っかかってきたんだ。だから僕もつんけんした態度を取らざるを得なかった。人は鏡のようなものだ。思いやりを持って接すれば、あちらもそれに同じもので応じてくれる。残念ながら、必ずではないが。善人の苦痛や悲しみを自らの喜びにするような腐った連中は、何処にでもいるものだ。

 

 ああ、だが、そうすると一つだけ残る考えがある。僕ではなく彼女らにしがらみがあるとすれば、話は分かりやすい。

 

「前任ですか?」

「ご明察」

 

 となると、間が悪かったことを除けば、やっぱり僕に罪はないのだ。前任と仲がよければそれだけ、彼女を失った後にやってくる後任を受け入れることは難しくなるものだ。しかも、長門はその前から僕を無様だと断じて、蔑みの目で見ていた。そんな相手を失われた戦友の代わりにしろと言われたら、反発もするだろう。

 

 不愉快な音と共に、提督は刻み終わった錠剤を鼻から吸い込んだ。目をぱちぱちさせて、刺激に酔っている。僕はしげしげとその様子を観察した。薬物乱用者を見るのは初めてだ。この先、見る機会があるかどうかも分からない。眺めたって金を取られはするまい。提督は生身の手で自分の鼻を揉み、鼻腔に付着した薬剤の粉末を粘膜によく擦り合わせた。「暫くは大人しくしていろ。これ以上、私の艦隊でいざこざを起こして欲しくないからな。その内に落ち着くだろう……おい戸口のお前! 入って来い」そこで彼女は突然大声を出した。てっきり薬でハイになって幻覚でも見ているのかと思ってびくりとしたが、そうではなかった。執務室のドアががちゃりと開いて、冷めた顔の駆逐艦、響が姿を現す。

 

「何だい、司令官」

「盗み聞きをするな。それと、この新入りを秘書艦の代わりに案内してやれ」

Так точно.(了解) そうしよう」

 

 響が僕には理解できない言語と耳慣れた日本語の両方で返事をすると、もうそれで話は終わりだ、という風に提督は僕に向かって手を振った。敬礼をして、執務室を出る。執務室にいたのはごく僅かな時間だったにも関わらず、僕は体がずしりと重く感じられるほど疲れていた。響が澄んだ、しかしその奥を見通せない深い瞳で僕を見つめて言った。

 

「こっち」

 

 てくてくと歩いていく彼女に置いていかれないよう、体に鞭打って歩かせる。まあ、駆逐艦と僕とでは歩幅が違うから、そこまで苦労することもなかった。艦娘寮があったのとは逆の方向に行くと、食堂に出る。時間は昼時から少し過ぎた程度だった。微かな食事の香りに、空腹を感じる。「食べていくかい?」という響の気遣いを、断ることはできなかった。お勧めされたセットの食券を買い、よそって貰って、席に腰を下ろす。響は、と見ると、彼女もまた軽食とジュースを買っていた。第二艦隊の面々と違って、第一艦隊は僕に含むところはないようだ。それとも、響が特別なのだろうか。彼女には不思議な雰囲気があった。静謐な、神聖とも言うべき落ち着きを持っていた。彼女は僕の向かいにサンドイッチの皿とオレンジジュースの入ったグラスを持って座った。「いただきます」と僕らの小さな声が重なり、僕は箸を取って食事を始めた。ところが響は、小さな水筒からジュースのグラスに透明な液体をとぽとぽと入れ始めた。

 

 僕らが艦娘であるという前提がなければそのフラスクを取り上げるところだが、酒について隼鷹で慣れていた僕は一向に気にしなかった。ただ、これでパーティーを開く時の面子が一人増えたな、と思いはした。これは隼鷹にも教えてやろう。彼女は新しい風が入ることを喜ぶだろう。初めて響は意外そうな顔を見せた。僕が何も言わないとは思わなかったらしい。コメントを期待されていたならそれに応じるとしよう。「スクリュードライバーいいよね」「ウォッカに混ぜ物なんて邪道だよ」何だろう、背中を刺された気分だ。僕はおいしい食事という喜びを噛み締めながら、彼女をより深く知る為に質問を一つした。「銘柄は?」Старая Москва.(スターラヤ・マスクヴァ)※13 古きモスクワ、という意味さ」「僕はストリチナヤ派だな」「Столичная(スタリーチナヤ)※14か、私も嫌いじゃないよ。安いし、長い歴史もある。SPI※15のウォッカが好きなら、Казначейская(カズナチェイスカヤ)※16というウォッカは飲んだことがないかな?」聞いたこともなかった。僕が正直にそう言うと、響は唇を少しだけ動かして「では、いずれご馳走しよう」と言った。その言葉の前の動作が微笑だったのだと気づいたのは、空腹を満たして食堂から出た後だった。

 

 執務室を出た時と違って、幸せな重みを感じながら僕たちは歩いた。彼女は口数が少なく、たまに話してもぽつり、ぽつりと受け答えをするぐらいだった。さっきのウォッカの話は、彼女には珍しいほど多弁だったようだ。そのことを恥じているのかもしれない。あるいは、交わす言葉に対して慎重なのは、新入りに対してまだ打ち解けられていないからなのだろうか。それとも、彼女の性格か? どちらにしても、僕には好ましく感じられた。

 

 食堂の次に連れて行かれたのは工廠だった。僕の艤装は転属に先立って送られていたので、ついでにチェックでもしようかと思い立つ。だがその前に、この工廠のボスとも言える人物に僕を紹介しなければならない、と響が言ったので、僕は彼女に従った。何と言ってもここでは彼女が先任で、そうである以上その言葉は僕が従うべき道理そのものだったからだ。彼女は「工廠のボス」こと明石さんと夕張を呼んで来た。着込んだつなぎを油汚れや染みで一杯にした彼女らは忙しそうにしており、長く時間を取るのも迷惑そうだったので、手短な挨拶だけで済ませることにした。明石さんと夕張はどちらもにこやかだったが、僕は夕張の表情が不自然に動くのを見ていた。多くの女性がその深い知性と直感によって、どのように振舞えば真実を隠せるか知っているものだが、彼女は自分を偽るのが苦手らしい。こんな形で明らかになるのでなければ、それは好感が持てる長所なのだが……明石さんが気を利かせたのか、夕張を彼女の元の仕事に戻れるように助け舟を出してくれたので、いつぼろを出すかとはらはらしていた僕の方が安心したほどだった。

 

 明石さんは僕の艤装を見せてくれた。それは彼女によって、非の打ち所がないように思えるほど見事に整備されていた。また、装備された砲や魚雷についても改修が施されているようだ。素晴らしい技術だった。僕は許しを受けて、艤装を装備してみた。以前とは全くと言っていいほど違うのが、それだけで分かった。艤装の動きの滑らかさは言うまでもなく、どのようにしてか僕の体に掛かる重みが上手に分散させられており、長時間の戦闘に際しても疲労を蓄積しづらくなっているようだ。

 

「違和感はないですか?」

「いえ、全くありませんよ。とても素晴らしいです」

「それはよかった! 装備の方はどうです? 何かご注文は?」

 

 僕はそれも否定しようとして、ふと思いついたことがあった。「ナイフを一振り用意して貰えませんか?」すると、彼女は目を丸くした。砲だの魚雷だのと思っていたら刃物を求められては、そうもなるだろう。「ナイフ、ですか?」頷きを返す。以前の戦闘で弾切れになったことを、僕は忘れていなかったのだ。あの時、ナイフがあれば最後に一刺しぐらいしてやろうという気持ちにもなったことに疑いはない。そうでなくとも、弾切れになることのない武器を一つ持っているというのは、特別な安寧を僕に与えてくれるものだ。ナイフなら邪魔にもならないだろう。扱いもそれなりに教わっている。僕は明石さんに、どんなものがいいかを話した。彼女はそれを聞き終わると、溜息を漏らして言った。

 

「うーん、確か前にそんな感じのものを作った余りがあったような……ちょっと待ってて下さいね」

 

 響を退屈させたりしないかと思ったが、彼女もナイフに興味があるようだった。自分で使うつもりはなくとも、見てみたいという気持ちはあったのだろう。

 

「お待たせしました、こちらでどうでしょう?」

 


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