食事が終わり、瑞鶴は翔鶴と共に司令執務室の前まで来た。来たのはいいが、肝心の瑞鶴は気が乗らないようだ。なかなか扉に手を伸ばそうとしない。
「もう瑞鶴ったら、一航戦の先輩に笑われちゃうわよ」
見かねた翔鶴が扉を四回ノックすると「入れ」と中から男の声で返事が来た。
「五航戦翔鶴、瑞鶴入ります!」
瑞鶴の手を引いて、翔鶴は部屋へ入っていった。瑞鶴にとって二回目となる司令執務室は、相変わらずこざっぱりしていた。青いテーブルクロスのかかった机、小さな白い本棚、家具らしい家具はそれくらいしか置いていない。前と変わったところがあるとすれば、机の上に山積みされている書類の量が増えたくらいだ。
執務室には瑞鶴と翔鶴の他に二つの人影があった。一つは執務卓の向こう側で書類と格闘していた。もう一つは窓際で夜の暗い海を眺めていた。まず口を開いたのは後者だった。
「……翔鶴君、君を呼んだ覚えはないが?」
窓の横に立つ男は振り返りながら言った。カーキ色の軍服を身に纏った彼は中肉中背、容姿もこれといった特徴のない、強いて言うならば若干鼻の低い平たい顔をした、印象に残らないタイプの人間だった。唯一目立ちそうなところといえば、大きな軍刀を腰から下げているくらいか。そして、この男こそが瑞鶴の嫌う男、この鎮守府の最高指揮官である葛木だった。
「私は瑞鶴の付き添いです。まだここに配属されてから間もないですから」
「そうか、ご苦労だった。下がってよろしい」
「はっ!」
要件だけ済ませると翔鶴はあっという間に帰ってしまった。去り際に小声で「頑張って」とだけ残して。瑞鶴は引き留めたい衝動に駆られて一瞬手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。
翔鶴は扉の前で腰を折り礼をし、部屋を出ていった。扉が閉められた音だけが部屋に響く。数分に感じられるほど長い数秒のち、葛木が口を開いた。
「さて、瑞鶴君。まずはお疲れ様」
置いて行かれた瑞鶴は横を向いたまま反応しない。
「……どうやら嫌われてしまったみたいだな」
葛木はやれやれといったように首を横に振った。
「それでは続きは優秀な秘書に頼もうか」
「Jawohl!」
返事は、執務卓の椅子に座る少女から返ってきた。
白い軍服に赤い縁の眼鏡をかけた少女は伊号第八潜水艦、通称『はち』。この北方鎮守府の主力艦隊旗艦を務めている。葛木の秘書としても働いており、自他共に認める彼の相棒だ。
少女は持っていたペンを机に置くと、引出しから『正規空母訓練計画』と書かれた書類を取り出し、さっと目を通した。視線を瑞鶴に向けると、微笑みながら尋ねる。
「それでは瑞鶴さん、五十時間連続実戦訓練は如何でしたか?」
「如何、とはどういうことかしら」
「そのままの意味です。思ったことを言ってもらって構いません」
そうですか、と小さく呟くと大きく深呼吸をし、鋭い眼光で提督を睨みながら口を開いた。
「最悪」
想像していたよりも悪い反応だったのか、少女の顔が曇る。葛木は話を聞いているのか聞いていないのか、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「文字通り、時間と資源の無駄よ。実戦演習ならここに来る前に何度もやったし、今更やる必要があったとは思えない」
瑞鶴はぎゅっと拳を握りしめた。徐々に語尾に力が入っていく。
「そんなことよりも、目の前で餓えている友軍がいるのに何故助けに行かないのよ!」
瑞鶴が苛ついていたのは訓練による疲労からなどではなかった。苦しむ戦友を見殺しにするかのような所業に対する義憤。それが瑞鶴の怒りの源だった。
「あんなに大規模な長時間演習をやる余裕があるのに……。あなたたちはそれでも栄えある“皇国”軍人なの!?」
少女はちらりと葛木を一瞥すると、持っていた計画書を机に置き、別の書類を取り出して見ながら答えた。
「キス島奪還及び包囲下にある陸軍部隊、海軍陸戦隊の収容については大本営が決定を下します」
「今もあの島では兵が飢えて死んでいるのよ! あなた達は、それでも何も思わないの!?」
瑞鶴は竹を割ったような闊達とした性格が鎮守府のメンバーに好かれていた。誰にでも優しく、誰にでも好まれる最古参の翔鶴が姉であることもあり、新参者でありながら艦隊に打ち解けていた。
そんな瑞鶴の持つ一面が、愛国者としての彼女であった。瑞鶴にとって、死地にある友軍を前にして足踏みばかりしている現状は、キス島の兵士たち、そして何より御国への裏切りであるようにしか思えなかったのだ。
「つい最近まで内地にいたならば、我が軍は南方戦線の維持で手一杯だということはご存知ですよね、瑞鶴さん」と、眼鏡をかけ直しながら少女が静かに言った。
「一個戦隊の実戦演習を行う程度の物資しか、余力がないのもわかってください」
祖国を取り巻く厳しい情勢を、瑞鶴は百も承知だった。しかし、それでも瑞鶴は誇り高き軍人として、一人の愛国者として、同胞の身を案ずる気持ちを抑えきれなかった。
「私なんかに使うよりも貯めて、一日でも早く救出に向かうべきだと言っているの!」
埒のあかない平行線になりかけた議論を止めに入ったのは、二人の上官だった。
「大本営はアルフォンシーノ方面からの撤退も視野に入れて作戦を練っている」
二人の視線が葛木の背中に集まった。彼は窓の向こうの黒い何かを眺めながら、淡々と続けた。
「キス島への救助も遠からず行われるだろう。今はそのための準備として君に訓練を施した」そして瑞鶴の方に振り返って言った。
「これでいいかね、瑞鶴君」
「……それで納得すると思っているの?」
軽蔑の眼差しで葛木を睨みつける。しかし、肝心の彼は全く意に介さないかのように返した。
「それでは言葉を変えよう。上官命令に従え、“正規空母”瑞鶴」
「……ッ」
「それでも軍人か」と言った手前、上官命令を使われては何も言い返せない。唇を噛み締めながら踵を打ち付け敬礼をし、できる限りの嫌味を以って返した。
「了解しました、“特務の”陸軍少将閣下」
途端、少女が机を思い切り叩き身を乗り出して怒鳴る。
「瑞鶴さん! 言っていいことと悪いことが」
怒号をかき消すように、バタンと扉が勢い良く閉められた。
「やれやれ、とことん嫌われたものだ」
苦笑いを浮かべながら、葛木は机に腰掛けた。
「暫くは要注意ですね。翔鶴さんと麻耶さんに声をかけておきます」
少女は机に突っ伏す。幾つかの書類がくしゃりと音を立てて折れた。
「そこまでしなくても大丈夫だろ」
「甘いです。部下に殺された上官は星の数ほどいると、教えてくれたのはどなたでしたっけ?」
葛木は笑いながら「好きにしろ」と言うと窓を開けた。肌を刺すような氷点下の夜風が吹き込む。ここは一年中氷に覆われる最北の海であり、吹き荒れる暴風雪雨に荒波と、この極寒の地での越冬に二人は苦労させられた。その一方で、その悪天候は敵の行動にも制限をかけており、この海での大規模な戦闘は未経験だった。これからは天候が回復し、自然の脅威ではなく、実際の敵と戦わなければならない。葛木はその重圧をひしひしと感じ取っていた。
「うーん」と少女が大きく伸びをした。
「はっちゃん、少し眠くなっちゃった」
葛木は窓を閉めると、机に腰を掛けながらズボンのポケットから懐中時計を取り出した。時間を確認すると少女に尋ねた。
「もうすぐ八時半だが、そろそろ上がるか?」
「んーん、ちょっとだけ寝たら続きやらないと」
机に顔を沈めたままもう一度伸び。少女はなかなかに疲れているようだ。というのも当然のことで、将官の仕事は、階級が上がれば上がるほど戦闘以外の面が本番である。この男は腐っても少将。本来の仕事の量は半端ではない。となれば、サポート役である彼女の負担も比例して重くなる。当然だが、彼もそれを重々承知している。
迷惑かけるな、と聞こえないように呟いた。一方の秘書は机に伏したまま、葛木の軍服の裾をクイクイと引っ張った。
「てーとくー、もっとこっちきてー」
葛木は手を伸ばして柔らかな金髪の上に手を置くと、娘を愛でるようにゆっくりと撫でた。
戦の波浪吹き荒れる海を、穏やかな夜が過ぎていった。