僅かに白波立つ海、季節外れの霧が水面を覆い尽くす。
この日、瑞鶴は第二哨戒隊の旗艦として、重巡洋艦『麻耶』と駆逐艦三隻を率いてキス島西方距離約600㎞、北方鎮守府から南東70㎞の海域を南に向けて航行していた。
艦隊は瑞鶴を中心に輪形陣。先頭に駆逐艦『朝潮』、左右をそれぞれ駆逐艦『霞』『満潮』で囲い、後方には重巡洋艦『麻耶』という布陣だ。
天気晴朗、風、南西に向き微弱。であったが、つい十分ほど前から発生している靄のせいで視界は徐々に悪化していた。
艦隊の上空には直掩の『零式艦上戦闘機52型』六機が警戒を行っている。艦上偵察機である『彩雲』はすでに持ち味の長い脚を活かして哨戒任務に就いていた。さらに『零式艦上戦闘爆撃機62型』をいつでも発艦出来るよう臨戦態勢で待機していた。なお、索敵にはやはり足が長く複座である艦攻を用いることが多いが、瑞鶴は爆撃機の運用を得意とし好んでいるため攻撃機を持っていなかった。その代わりとして、最新鋭の偵察機である『彩雲』が配備されているのだ。
ちなみに、瑞鶴は翔鶴型航空母艦の二番艦であるため基本的な戦力は翔鶴と同じであるが、姉の方は第一次改装を終えているため艦載機の運用可能数等で勝っている。具体的な数字を挙げれば、運用可能な艦載機数は翔鶴が八十四機、瑞鶴が七十五機といった具合だ。
このように、まだ着任してから日が浅い瑞鶴は、特に練度の面では同僚かつ良き姉である翔鶴に大きく水をあけられている。それでも瑞鶴は自分一人が戦況に与える影響の大きさをよく知っていた。
七十五機の艦載機ということは、ちょっとした陸上航空基地よりも強大な航空戦力であると言って良い。幌莚で北方海域を担当している第十二航空艦隊の常用定数が百七十二機であることからも、たった一人で七十五機が運用できることの重要性が分かるだろう。瑞鶴はひけらかすことはしないが、自分自身の実力を高く評価していた。それは勿論、過大評価ではなかった。
ルーティンワークの哨戒任務をこなす艦隊に緊張が走ったのは午後一時過ぎ、定時連絡を終えた直後、戦闘配食の握飯を麻耶が食べ終わった時だった。
上空哨戒中の彩雲が、雲の合間から霧に紛れて南下する敵艦隊を発見したのだ。接触予想時刻は五分後、艦隊は直ちに迎撃態勢をとる。
「……敵水雷戦隊計六隻、方位40度。先頭駆逐艦、間もなく砲戦距離20000です。麻耶さん、準備出来てる?」
彩雲の警報を受けてすぐさま第一次攻撃隊の発艦を終えた瑞鶴は、後ろに続く重巡洋艦に声をかけた。
《おう、捕捉したぜ! いつでも行ける!》
無線越しの声でわかる男勝りな性格の重巡洋艦は、水偵を打ち出し自慢の20㎝連装砲に徹甲弾を装填していた。駆逐艦は魚雷発射管の最終点検を終え、麻耶の後方に下がって単縦陣を組み突入の時を待っていた。
「了解」瑞鶴はゆっくりと深呼吸をし、後続艦に告げた。
「それじゃあ、始めましょう」
《ちょ、ちょっと待てよ》麻耶が慌てて問い質す。
《提督に一報入れた方が良いんじゃねえか。この近辺での戦闘なんて久しぶりだぜ?》
「その必要はないわよ。この程度なら私たちだけで対処できるって」
葛木とその秘書は、哨戒中の戦闘をほとんど許可しない。敵がこちらを未発見で、突入すれば一方的に殲滅できるような時だとしても、燃料や練度の不足を理由に攻撃を厳に禁じるよう指示する。
冗談ではないと瑞鶴は日々思っていた。倒せる敵を目の前にして、なぜ背中を向けなければならないのか。こんなのは慎重な艦隊運用などではない。臆病風に吹かれただけだ。
「あの艦隊をここで逃せば、後のキス島救出作戦の障害となるかもしれないし」
《その時に倒せばいいだろ》
一方、麻耶の脳裏には秘書艦から告げられた言葉がよみがえっていた。「瑞鶴さんが提督の指示に従わないようなことがあったら、実力行使でも構いません。止めてください」と少女は言っていた。瑞鶴のことをまだひよっこで、命令違反をする度胸などないと考えていた麻耶が自分の認識の誤りに気付いた時にはもう遅かった。
「戦いの道必ず勝たば、主、戦うこと無かれと曰うも、必ず戦いて可なり」と言うと、瑞鶴はさらに「これは独断専行で許された範囲の行為よ」と続けた。
《勝てる時には命令を無視してでも戦って勝てってか》
「ええ、その通り」
《ならまずは命令を仰いだらどうなんだ?》
瑞鶴の表情が僅かに曇る。瑞鶴と同様に気の強い麻耶ならば、戦闘となるのは歓迎するだろうと高をくくっていたのだ。
「この艦隊では旗艦である私が最先任です」と高圧的に言い切った。これ以上の言い争いは無駄だと判断したのだ。そして瑞鶴には確信があった。いざ戦闘が始まってしまえば、麻耶はのめり込むだろうと。
でもよ、と言い澱む麻耶を突き放すかのように告げた。
「敵駆逐艦、砲戦距離に入りました。第一次攻撃隊は砲撃開始と共に、後続艦に対して突入します」
有無を言わせない頑なな態度にイラつきながら、麻耶は舌打ちを一つすると吐き捨てるように言った。
《私情を戦場に持ち込むんじゃねえよ、クソが!》
横目で瑞鶴を追い越しながら前に出ると、持っていた20㎝連装砲を前方に構える。
《征くぞ、攻撃開始!》
水面が削られ飛沫と砲煙が舞う。轟音と共に放たれた砲弾は高速で飛翔し、やがて水平線の彼方で巨大な水柱を立てる。初弾は、駆逐艦を夾叉した。
「敵艦隊、進路を南に変更。弾着修正、やや右!」瑞鶴の叫び声が響く。
《わかってる!》
続いて放たれた第二撃。二つの赤い火の玉は、尾を帯びることもなく弧を描きながら空を舞い、敵駆逐艦に吸い込まれていった。
咄嗟に撃ち返そうと回頭する深海棲艦であったが、どこからの攻撃かわからず混乱していた。そして、先頭のイ級駆逐艦が土手っ腹に直撃弾を食らった直後、北から回り込んできた瑞鶴航空隊が攻撃目標を視野に捉えた。250kg爆弾を抱えた零戦62型の編隊が、敵艦隊目がけて高度1000から緩降下を開始する。
麻耶の奇襲的な砲撃により混乱した深海棲艦は、時速550㎞を超える高速で突入してくる零戦に気づくのが遅すぎた。旗艦のホ級軽巡が警報を発した時には、艦隊が回避運動を始めた時には、緑色の機体は各個爆弾を投下していた。『投下』、厳密にはこの表現は正しくないかもしれない。ただ一つ言えることは、時速680㎞にも達する爆弾の突進に、ホ級軽巡は悲鳴を上げる間もなかっただろう。
攻撃開始からわずか数分で旗艦を失った深海棲艦は混乱状態に陥り、各自バラバラの行動をとり始めた。この機を逃す手はない。瑞鶴は迷わず駆逐戦隊に命令を下す。
「敵艦隊の陣形が崩れた。今よ! 駆逐戦隊、全艦突撃!」
《了解! 朝潮以下駆逐戦隊三隻、突撃します!》
待っていましたと言わんばかりに高速の駆逐艦が飛び出した。瑞鶴の後方から抜け出した駆逐戦隊はどんどん加速し、30ノットで敵艦隊に向けて突進する。その上空を、瑞鶴の第二次攻撃隊『九九式艦上爆撃機』二十一機が追い越して行った。
海面を滑るように駆け抜ける三隻。麻耶の20㎝砲弾が生み出す水柱を目指し、脇目も逸らさずひたすらに進む、進む、進む! 距離18000。まだ撃たない。慌てふためく敵艦からまだ発見されていないからだ。朝潮はさらに距離を詰める。目指すは決戦距離5000!
だが、距離7000で敵艦隊が駆逐戦隊に気が付いた。敵艦隊は艦砲射撃を開始する。彼方で一瞬煌めいた発砲炎を、朝潮は見逃さなかった。
「避弾運動開始! 各個砲撃を許可します!」
朝潮が無線も使わずに叫んだ。その声は前方100に着弾した砲弾で掻き消されたが、後続の満潮、霞は朝潮の転舵にすぐさま反応し、それぞれ左右に散開していった。
対空回避運動を取りながらの艦砲射撃など、仮に統率の取れた艦隊のものであってもそう当たるものではない。朝潮の読みは正しく、深海棲艦は闇雲に撃っているに等しい状態だった。
ジグザグ航行をしながら、威嚇程度に12.7㎝連装砲を撃ち返しながら、朝潮はまだ距離を詰める。頭上では相変わらず麻耶の20㎝砲弾が飛び交っていた。自慢の快足を飛ばし、じわりじわりと接近し、ようやく距離5000に敵艦隊を収めた。
「魚雷戦用意!」
掛け声とともに三艦が結集し、一列に隊を組む。左手の四連装魚雷発射管を構え、速度を落とし狙いを定める。右前方距離5000。訓練で繰り返した必中距離だ。
「攻撃、始めッ!」
480㎏の炸薬を搭載した小魚は一斉に放たれた。航跡のない酸素魚雷が扇状に敵駆逐艦に忍び寄っていく。
「回頭! 全速離脱急げ!」
駆逐艦としての任務は果たした。あとは速やかに敵砲撃射程圏から抜け出し、安全を確保するだけだ。三隻は回れ右をすると、来た道を戻るべく再び全速力で水面を駆け出した。
三隻とは逆方向に雷速40ノットで航走する十二本の魚雷は、見えない足跡を残しながら敵艦隊を襲った。
朝潮がちらりと振り返った時、20㎝砲弾とは別の水柱が数本立ったことを確認した。魚雷命中である。
《魚雷、計五本が駆逐艦三に命中。一艦は大破……いえ轟沈確実、二艦も被害甚大! 良い感じじゃない!》
「ありがとうございます!」
朝潮は小さくガッツポーズをとり、満潮と霞の方を向いた。二人は態度こそいつも通りの冷たいままであったが、その表情には喜びの色が見て取れた。
その頃、麻耶のアウトレンジ攻撃はまだ続いていた。敵駆逐艦の主砲は最大射程16000の5インチ砲。距離20000から一方的に撃ち続ける麻耶には一片の不安もなかった。その証拠に、戦闘開始直前は訝っていた彼女が、今は戦闘の高揚に酔いしれている。瑞鶴の読みも的中していたのだ。
「敵残存勢力は煙幕を展開し逃走を開始。追撃戦に移るわ!」
戦闘開始から二十分ほどが経過し、勝敗が明らかになった頃、瑞鶴が無線で全員に通達した。この言葉に反発する者は誰もいなかった。当然である。勝ち戦は、それも圧倒的な勝利というものは堪えがたい快感そのものなのだ。敵に壊滅的な打撃を与え、味方への被害はない。これで敵艦隊を殲滅さえすればまさしく完全勝利である。
この状況において、追撃を決めた瑞鶴の判断は必ずしも間違ったものではなかった。ただし、この評価を下すには一つの条件が付く。その条件を知る余地は、彼女たちにはなかった。否、知る機会を彼女が捨ててしまったのだ。このことに気が付くのは、そう遠くない先のことである。
この時、13時27分。瑞鶴率いる第二哨戒隊は、後退する敵艦隊追撃のため、基準哨戒線『C』を超えて東方敵勢力下の海へと侵攻を開始した。