同時刻、葛木とその秘書艦はいつもの司令執務室にいた。だが、二人は部屋の真ん中に置いた大きな机を挟み、渋い顔をしながら卓上の海図と幾つかの資料を睨んでいた。窓の外に映る空は、一面鈍色の雲に覆われていた。
「提督、上の人たちをなんとかできませんか?」
「無理だな。俺たちではどうしようもない」
「だけど、もしもの時に責任を取るのは私たちなんですよ」
「俺たちに出来るのはただ従うか、もしくはそうだな、事故に見せかけ密かに葬り去るかってところか」
不穏な単語に少女の表情がさらに暗くなる。
二人の頭痛の種は“上の人たち”だった。これは比喩的な意味ではなく、物理的な意味で“上”にいる者を指していた。というのも、鎮守府本部の屋上では現在、新型電探の試験運用が行われているのだ。
「戦力増強にはなるかもしれませんけど、どうせ初期不良満載の実験機ですよ」
「そんなことは百も承知さ。だから俺たちに出来るのはその後始末だけってことになる」
ため息をついた葛木が海図の上に指を置いた。
「ここが我々の現在地だ」
指の下には小さな島があった。そしてその島を中心に二つの円が書かれている。葛木はその円のうち、内側に書かれているものを指でなぞりながら言った。
「これが既存の電探による索敵範囲」
次に外側の円をなぞる。
「こっちが新型電探の索敵範囲」
外側の円は半径が内側のものの倍近くあった。
「現在の電探の索敵距離は約19㎞だ。これが35㎞になるというのなら願ったりかなったりだ」
北方鎮守府は、“皇国”本土から北東に2200㎞の位置ある名もなき無人島に急造させた臨時の前線基地である。そして北方鎮守府と本土との間にある幌莚島には、北部海域における本土防衛の切り札である、重巡洋艦『那智』率いる第五艦隊が控えている。
また、北方鎮守府から東南東に600㎞程行くと問題のキス島があり、これらアリューシャン列島を東進すると新大陸に着くため、現状で最も合衆国に近い“皇国”軍基地でもある。しかし、旧式の電信一つと補給物資の輸送船以外に外部との連絡手段が存在しないため、葛木はこの島を『第二のキス島』と自嘲していた。
北方艦隊最大の懸案事項は、深海棲艦が南を迂回して本土及び幌莚島との補給線を絶ち、本当に第二のキス島とされることだった。
それを防ぐためには鎮守府南方の警戒を厳にしなくてはならないのだが、“皇国”の燃料事情は予断を許さないものであり、さらに陸軍出身の葛木に後ろ盾がないことも災いし、一度の出撃に際して一艦辺りに支給される燃料は300から400㎞分程度。戦闘を含めた作戦行動可能範囲は単純計算でおよそ100㎞強という非常に短いものになっている。また、数が少ない北方艦隊は南方に戦力を割けば割くほど鎮守府正面への防御が甘くなり、根拠地そのものを損失しかねないというジレンマを抱えていた。
よって、南に広がる長大な哨戒線を、通常艦船を持たない北方艦隊だけで維持するのは不可能であると、葛木とその秘書艦は結論付けた。そこで代わりに考案されたのが航空機と電探による索敵だ。
哨戒隊の旗艦に航空機の運用可能な艦を据え、艦隊の索敵範囲を底上げする一方で、鎮守府防衛として少数の予備艦隊を待機させつつ、索敵自体は陸上電探で行うというものだ。
『北方棲姫』がダッチハーバーに戻ったことにより、北方の深海棲艦の活動が沈静化したこともあってこの方式でなんとかやってきた北方艦隊にとり、実験機とはいえ強力な新型電探の配備が鎮守部の安全保障に大きく資するものであることに疑いはなかった。
「はっちゃんだってそれくらいわかりますけど……」
少女がおずおずと口を開く。珍しく歯切れの悪い、奥歯に物が挟まったような言い方だった。
「使用電力の問題で今まで使っていた電探が使用不能、って点が落ち着きません」
少女の言葉を聞き、葛木も思わず左手で頭を抱えてしまった。
二人の頭を悩ませる問題は全てそこに集約された。実は、手続上の不備から新型電探用の発電機とその燃料が届けられておらず、既存のものか新型か、片方の電探を起動するためには片方の電探の使用を中止するしかないのだ。
そして話をややこしくしているのが、新型電探の配備を推進しているのが聯合艦隊司令長官の立花大将であることだった。背後にいるのがあまりの大物であり、そして仲が悪いはずの陸軍軍人である葛木に対する善意であったため、葛木に電探配備への拒否権は事実上なく、本土から来た海軍技術研究所の人間が鎮守府の目である既存の電探『タキ1号』の電源を落とし、使えるかどうかもわからない新型の『二号二型電波探信儀』、通称22号電探の起動実験を行うのを、指をくわえて見ているしかなかった。
「なるべく短時間で終わらせるように言ってある。いざという時のため、利根率いる第一哨戒隊も今日は鎮守府正面に配置した」
葛木は海図の上に三つの駒を置いた。一つは北方鎮守府の上に、一つは鎮守府の東30㎞の位置に、そしてもう一つは鎮守府南東70㎞、キス島西方500㎞の所に。
出来ることはやった、上司の言葉を疑う秘書艦ではなかったが、それでも少女の不安は消えなかった。それを表情から感じ取った葛木もまた、最悪の事態のことについて考えを巡らせていた。
「今日の予備隊は翔鶴達だったな」
「翔鶴さん、阿武隈さん、望月さんの三艦です」
北方艦隊最強の航空母艦『翔鶴』。葛木の頭を過った最悪のシナリオ、敵戦艦部隊による鎮守府強襲に対する切り札としては十分すぎる戦力だ。
最悪の状況における理想的な展開としては、まず第一哨戒隊の利根が接近する敵艦隊をいち早く発見し、すぐさま翔鶴の攻撃隊が先制攻撃を加える。鎮守府随一の実力を誇る翔鶴ならば、制空権の確保とその後の敵艦隊への攻撃は両立させられるだろう。続いて第一哨戒隊を主攻とし後方から突入させ、混乱に乗じて助攻の予備隊を投入し挟撃する。
このように、現在持てる航空、水上の全戦力を投入すれば例え戦艦を中心とした水上打撃艦隊だろうと撃退は十分に可能であるのだ。
それに、いざとなったら入渠中の戦艦『榛名』と軽巡洋艦『川内』を、高速修復剤を使って強引に戦線復帰させることも可能である。非番ではあるが優秀な駆逐艦『不知火』もいる。備えは万全とは言えずとも最善であることは間違いない。
少女も同じ事を考えていた。これといった落ち度は見当たらない。しかし、不吉な予感はとどまることを知らず、嫌な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
僅かな沈黙。その張り詰めた空気に耐えきれなかったかのように、ジリリリと電話が鳴った。二人は一瞬目を合わせると、少女が頷いて受話器を取った。
「はい、私です。はい、はい……はい。わかりました」
本日一番の暗い声で返事をして受話器を持ったまま、少女が悲痛な面持ちで葛木に告げた。
「第一哨戒隊から入電です。一三三〇現在、濃霧の発生により視界僅少。目視による索敵は非常に困難なり、だそうです」
葛木も本日一番の大きなため息をつきながら立ち上がると秘書艦に命じた。
「はち、第二種戦闘態勢だ。翔鶴達を作戦室に集めろ」
「了解しました!」
受話器を一度置き、電話室にかけ直した。少女が幾つかの指示を下している横で、葛木は自責の念に駆られていた。
幌莚島で待機中の気象観測設備と観測士は、海軍を脅してでも輸送させるべきだったな。葛木は後悔を敢えて言葉にせず飲み込んだ。愚痴っても状況は何一つ好転しないからだ。葛木は負わなくてはならなくなるかもしれない責任の重さを想像し身震いした。
そして致命的なまでの物的、人的資源不足に僅かな頭痛を覚えながら部屋のカーテンを閉めた。ほんの僅かながら差し込んでいた日光の代わりに警報が鳴り響き、誰かが慌ただしく廊下を駆けていった。サイレンと軍靴の音、この鎮守府にも戦争の前奏曲が流れ始めていた。