薄い灰色に染まった洋上で、第一哨戒隊旗艦、重巡洋艦『利根』は戸惑っていた。
この艦隊に配属された時、五月頃から濃い霧が出始めるという話は聞いていたが、今はまだ四月だ。時期としては少々早い。嫌な汗が背中を流れる感覚を覚えた。
いや、正確には霧の時期が早いことが問題なのではない。これほどの濃霧の中での艦隊行動が、利根にとって初体験であることが問題なのだ。近づきすぎれば衝突の危険があり、離れすぎれば艦隊からはぐれてしまう危険もある。そしてなにより、与えられた哨戒任務の達成はほとんど不可能であるに等しい。
「この一大事に……」
利根は己の準備不足と未熟さを呪い、下唇を噛みしめながら鎮守府からの返信を待った。ため息をついたが、白い吐息は霧に混ざってすぐに消えた。
この海域は極東洋の最北にあるため、言うまでもないが一年を通して気温が低い。九月から五月までの間の最低気温が氷点下まで下がるおかげで、日によっては五月であろうと雪が降る。しかもこれらは陸上で観測されたものであり、海上の状態はさらに悪いものになる。特にこの海は冬になると大シケになるのだ。艦艇、航空機ともにろくな行動がとれない日などザラである。そして、海が落ち着く夏には先述の通り霧が出るため、一年を通して艦隊行動に不向きな海域であった。
物思いにふけっていると、前方を低速で航行している戦艦『霧島』が不安そうに尋ねた。
「利根さん、提督はなんと?」
その声は大きくなかったが、距離が近く波が静かなのもあり、無線を介さずに聞き取れた。
「うむ、返事はまだじゃ。向こうも大慌てじゃろうな」
他人事のように振る舞ったが、状況は限りなく最悪である。
最新の電探配備のためにそれまで使っていた電探が使えず、霧のため利根の射出した水上偵察機は殆ど役に立たない。まるで坂道を転がり落ちるかのような具合である。冗談にしても笑えない。
「さて、これからどうなるかのう……」
利根は考える。旗艦として、下された命令をすぐさま実行するためには予め自らも下される命令を予想する必要があるからだ。
軍隊の命令と言うものは、いくら格式ばっていようとも所詮人間が下すものに過ぎない。他の命令と異なる重みを与えているのは、部下や同僚、国民そして敵の命を扱うという重い『責任』だ。軍人と市民の違いはこれに尽きる。そして、さまざまな要素が複雑に絡み合った中での決断の『迅速性』である。こちらは凡人と天才の差異となる。
要は、重責を背負いながら素早い判断を求められる困難をこなせるから、将校というものは数少ないエリートとされているのだ。
逆に言えば、先述の通り凡人であろうと、ある程度の教養と知識さえあれば、時間をかけて幾重にも絡まった糸をほどいていけば、歴史の教科書に載るような軍人と同じ決断を下すことが出来る。
利根は自分の頭脳が特段優れているとは思っていない。しかし、第一哨戒隊旗艦という責任を軽いと感じたことはない。故に彼女は常に考える。次の一手は何か、それが最善手なのか、他に選択肢はないのか、その結果はどうなるのか。上の命令と自らの予想とが合致すれば部下への伝達もスムーズになり、作戦行動が極めて円滑になる。
利根は少々幼い容姿や言動に反し、責任感の適切な使い方が出来るという点において、前線指揮官としての素質は他の重巡洋艦と比較しても抜きん出ていた。
利根は乳白色の空を仰いだ。二時間前に撃ち出した『零式水上偵察機』は霧が晴れるまで上空待機することにしたが、この霧が今日中に晴れることはまずないだろう。となると、考えられる選択肢は三つだ。
一つ目は、遭遇戦に留意しつつ現状の海域で哨戒を続ける。二つ目は、霧の出ていない海域まで移動して哨戒を再開する。三つ目は、鎮守府に帰投し翔鶴ら予備隊と合流する。以上三つはそれぞれ利点を持っているが、他に比べて決定的なアドバンテージを持っている選択肢はない。どれが選択されてもおかしくはないだろう。
考え事に意識を取られて小さな横波にバランスを崩しかけた時、利根の頭に一つの疑問が生じた。そして、鎮守府から連絡が来たのはそれと同時だった。
《こちら司令部、第一哨戒隊、聞こえているか?》
「こちら第一哨戒隊旗艦『利根』。感度良好、指示を送れなのじゃ」
《現在の天候を鑑み、第一哨戒隊は『G』哨戒線を放棄、『M』哨戒線まで後退せよ》
「『M』哨戒線じゃな? 了解じゃ!」
正面に顔を上げ、首だけこちらを向けていた霧島に目配せをした。霧島は眼鏡を深くかけ直すと無線を通じて後続の随伴艦に命じた。
《全艦回頭右60度! 僚艦との接触に注意し、艦幅を広く取れ!》
輪形陣のままゆっくりと艦隊が向きを変え始める。『M』哨戒線は現在の『G』哨戒線から西に70㎞、鎮守府から見ると東に15㎞の位置にある、所謂最終防衛線だ。
利根はこの意味を瞬時に理解した。
「提督よ、技研の連中をどう言いくるめたのじゃ?」
《なに、物わかりのいい連中だったよ。権威と銃口で二段構えの戦法さ。実に物わかりが良い》
「ふふふ、軍法会議ものじゃな。それどころか、陸と海の喧嘩に巻き込まれるかもしれんぞ」
《そりゃあ良い。生きてこの島を出られるというわけか。願ったり叶ったりだ》
上司の軽口に思わず口角を上げてしまう。しかし、すぐに真面目な顔つきに戻すと、数秒前に頭を過った疑問をぶつけてみた。
「ところで、瑞鶴のやつらの海域はどうなっておるのじゃ? まあ哨戒線、いや、防衛線の縮小ということはあやつらも下げるのじゃろうけど」
《それについてだがな……》
答える葛木の声はすこぶる暗かった。利根には何があったのか皆目見当がつかなかった。わかったのは、何かがあったということだけだった。葛木は、一呼吸置いてから続けた。
《第二哨戒隊との連絡は、一三〇〇の定時連絡以降、途絶している》